信州ー横浜 絹の道

ここでは、「信州ー横浜 絹の道」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


上田
しなの鉄道・西上田駅を出ると、街道沿いの山が紅葉と見まごうばかりに黄色に染まっていました。
上田
萌黄色という言葉はこの色からつけられたのか、と納得。
上田
山に沿った脇道に入ると、土蔵のある古い農家。博光の生家が思い浮かびました。
上田
農家の屋根の上の「越屋根」がついています。風と光をとり入れて蚕を育てるための構造です。
上田
大規模だった上田の養蚕と製糸業についても調べたいと思いました。
昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』、後半は前橋が舞台となり、群馬県令となった準主人公(大沢たかお演ずる)が蚕糸産業の育成のために尽力するストーリー展開でした。ドラマのおかげで前橋の製糸業のことがひろく知られたのではないでしょうか。

母親が前橋で生まれ育ったため、私は小学生の頃、親に連れられて前橋の祖父母の家をたびたび訪れました。そして前橋は東京よりもずっと大きい大都会だと思っていました。大きなビルが並び、ネオンサインが瞬く駅の周りは、三鷹の駅前と比べればケタ違いの大きさだったのです。ところが、この前橋が製糸業で繁栄した街であることはつい最近まで知りませんでした。それを知ったのは前橋出身の嶋田誠三さん著作の小説を読んだからです。
嶋田誠三さんの自伝的長編小説「自由への道 第1部 戦後激動期の人びと」は「糸の街前橋」で始まります。この章で前橋の製糸女工さんの様子が描かれています。

冒頭、「前橋市は北に向かって発展している」と担任の先生から教えられた主人公は、「工場の煙突ばかりが目立ち、薄汚れた感じのする製糸工場が立ち並んでいる前橋の北の方面が、なんで市の発展なのか理解できなかった」のです。



 私は賑やかで華やかな街に育ったから、高い煙突から黒い煙を吐きつづける薄汚れた陰気な製糸工場。そこで働くさなぎの臭いのする女工さん達のそれらがみんな好きになれなかった。そういう人達が前橋を汚し、市の品格を下げていると思っていたこともあった。そうして製糸女工さんというのは、自分たちより一段下の人間だと思っていた。いわゆる電気休み、工場休みの日は製糸女工さん達、最盛期は大きな製糸工場だけでも七、八千人いた。それがどっと押しかけて街にあふれた。女工さん達の目当ては、映画館や食堂がある新開地だったが、私の家のある中心商店街にもやって来た。そんなとき二、三人で連れ立ってくる。そして場違いの所に来てしまったように肩をすぼめてこそこそ話しながら行くのだった。私の店のお得意は着物の好みが上品で粋だった。それに比べると女工さん達の着物はどうしても安っぽくそれでいて派手に見えた。でも商店街では、女工さん達を軽蔑するような言葉はきつく戒められていた。彼女らをお得意にしていたのは、新開地の映画館や食堂だけではなかった。女工さん達は中心商店街にとっても、大得意だったからである。普段女工さんは、着物や化粧品、身の回りのものなどを、中心地から離れた呉服屋、洋品屋、小間物屋・雑貨屋などで買った。でも正月近い暮れの大売り出しになると、女工さん達は中心商店街にどっと押しかけてきた。彼女らは暮には大挙して故郷に帰るのである。ボーナスも出て自分のものと共に、故郷の家族へのみやげ物を買うのである。それを目当てに商店街では彼女等に的を絞った大売り出しをやった。街は朝から晩まで、当時はやりの流行歌のレコードをすり切れるまでかけ続けていた。またチンドン屋を雇って、二階の部屋から通りに向かって囃し続ける店が何軒もあるのだ。夜になるとこの街一番の例のネオンサインが瞬いた。そしてそれは夜中近くまで続くのだった。国鉄は年末になると、新潟からの出稼ぎの製糸女工さんのために、前橋駅から新潟への直通の臨時列車「糸姫号」を出した。日頃製糸女工などと見下されている彼女等を、年末には街のどこでも主役のように扱った。だから暮の街は、帰郷の土産物を買う女工さん達であふれた。日頃は街の主人公である奥様方や花柳界の粋な人達もこの製糸女工さんがあふれる暮には、こそこそと小股に控えめに歩かねばならなかった。また期末試験の泥縄勉強に取り組む商店の息子達は、チンドン屋などの騒音に音を上げた。街は一時は、前橋の真の主人公である製糸女工さんの存在を思い知らされるのだった。<嶋田誠三著「自由への道 第1部 戦後激動期の人びと」糸の街前橋─(四)>

自由への道


3月21日、テレビ信州で放送されたドキュメンタリー「シルク岡谷 製糸業をささえた工女さん」は昭和初期の
工女さんの様子がわかって興味深かった。

昭和5年、岡谷にいた工女の数は三万四千五百人で、岡谷の人口7万の半数を占めた。
最新式のフランス式紡糸機を導入して操業していた。
今も残っている工場で実際に糸取りする様子を放映、両手を使って繭5本からひき糸を束ねて1本の生糸を作る作業がわかりました。全くの手作業なので、手際の良し悪しが品質や生産高に直結したのでしょう。

横浜港の氷川丸が登場、アメリカへの生糸輸出に使われていた。船には生糸を大切に保管する場所が。
横浜開港資料館のインタビューでは、横浜港の開港時から生糸輸出がされたといいます。長野、群馬、福島、山梨からの生糸が多かった。

「野麦峠祭り」はいまもおこなわれている。正月休みのために12月から2月の真冬に野麦峠を越えた。昭和54年の映画「ああ野麦峠」や「女工哀史」では悲惨な面が強調されているが、実際は違った、喜んで仕事に行ったといいます。
16歳から18歳が一番多かった。労働時間は当初は12時間から14時間、盆踊り、運動会、文化祭、歯磨き体操、裁縫教室などが行われた。給料は月給7.2円で、当時の教師の初任給10-13円だったので、かなり良かった。十円工女、二十円工女、百円工女などと言われた。百円で平屋の農家1−2建たつくらいのお金だった。
楢谷は米が取れない地域で、ひえごはんを食べていたが、岡谷にでたら白い米が食べられた。

梨本八重さん(91歳 野麦)のインタビュー:
昭和15年から3年間、岡谷ではたらいた。片倉は服装が決まっていた。黒い服に白いえり、女学生のみたいだ。外出して汽車で、お客から「どこの女学校か」ときかれたので「煙筒女学校」といった。楽しかった。検番からはバツをだして叱られた。泣いていると慰めてくれた、いっしょに糸を作ってくれた。そのことが思い出。

宮崎やえさん(98歳 下伊那郡松川)インタビュー:
14歳から岡谷に働きに出て糸取りをした。エンゴ、目たながあった。片倉の分工場は300人。映画をよんで、体育館で上映してくれた。

シルク岡谷


シルク岡谷
シルク岡谷

3月21日(月)AM9:30からテレビ信州で放送されます。
かつて生糸輸出国日本の中心地であった岡谷。そこで働いた工女さんや家族の証言をもとにしたドキュメンタリーです。
松代、須坂、上田、前橋、富岡など、製糸業が盛んであった町での工女さんの姿が語り継がれていますが、なんといっても岡谷はその発祥の地・中心地だったのです。ぜひ見たいです。

ニシンと養蚕の関係

焼き魚のなかでニシンが最高に美味しい思う。サンマやサバのような匂いやクセがなく、さっぱりした香りがある。白子も口にいれるととろーっとして絶妙だ。ところが家内はニシンを焼いてくれない。育った家の食文化の違いからか、彼女は食べる習慣がなかったのかもしれないが、ニシンの美味しさを知らないのは人生の損失ではないか。

新幹線で車内誌を呼んでいたら、江差のニシン御殿の記事があった。
「・・・ニシンは身欠きニシンとして食用にする以外に、大釜で煮て油をとり、絞り粕を魚肥にした。むしろこちらのほうが圧倒的な需要があった。江戸時代には幕府の指導のもと綿花栽培が盛んになってゆく。その綿花の生育に、魚肥が多量に必要とされた。さらに江戸中期から明治にかけて日本各地で生糸の生産が勢いを増すが、桑の栽培にも魚肥が利用されはじめた。日本の近代化を加速させた繊維産業の礎としてのニシン交易。その背景には近江商人が辣腕を振るっていたのだ。」(「北海道新幹線 三方よし」『トランヴェール』2016年3月号)

信州の追分の馬子唄が伝わって江差追分が出来上がったといわれるが、逆に江差のニシンが信州の養蚕業に貢献したのかと想像するとなかなか面白い。

道南の岬


養蚕写真帖大島

博光の生家で父親確光が養蚕労働している写真

養蚕写真帖

この写真が載っている「紀元二千六百年記念 蚕業報国写真帖」(昭和16年4月発行、発行兼編輯人 丸山八十三)
博光の生家に保存してありました。

養蚕写真帖

冒頭の「述」に発行する目的が述べられています。

  述

現今我が帝国は皇軍の威力八紘に輝き聖戦五ケ年、國の内外を問はず未曾有の国難に直面し、内に新体制を樹立大政翼賛会を組織せられ、外は日独伊三國同盟に依り世界新秩序の建設と大東亜共栄圏確保のためには何時戰禍の終息を告ぐるや誠に予期し得ざる状態であります。故に我々國民は一億一心其職域奉公聖戦の目的達成に努すべき秋に到達したのであります。
私は先年来養蚕飼育上に革命的改良飼育法を実地研究考案し沿く養蚕家各位に普及徹底せしむ可く其飼育状況を実写し実際指導に供すべく計画せし事は御諒知の事と存じます。現今我養糸業は封米闘係悪化の結果従来の米國依存方針を破棄シ国内消費に重点を置き今後に於ける方針に改革を要せらる時に遭遇しました。故に比際一層生産費の節減旦低廉なる良繭を産出するの外有ませんと存じます。
斯の如き状況に即應すべく紀元二千六百年を記念とし本村各種団体等を撮影し併而写眞帳とし永久に保存すべく辱知諸兄の御賛同を得、編纂したる次第であります。

        丸山八十三

養蚕写真帖

紀元二千六百年記念 願気神社大鳥居大修繕竣工

養蚕写真帖

左上:西寺尾小学校奉安殿 右上:皇紀二千六百年記念敬老会 
左下:更級郡養蚕神社   右下:少年団送別

二宮先生

左上:願気神社御柱祭 出荷組合豊作祈願御練の実況  右上:二ノ宮先生 
左下:西寺尾出荷組合初荷   右下:村議袂別

養蚕


集合写真が5ページ約16枚、農家の写真が22ページ約88枚載っています。
戦争協力が大義名分でつくられたのですが、養蚕神社があったり、二ノ宮金次郎が大切にされたり、当時の農家の様子が収められていて、今では貴重な写真集ですね。
松代の養蚕の話(6)むすび

大島:松代の養蚕と製糸場について、地元にお住まいの原さん、雨宮さんのお話しを聞いて、とても勉強になりました。今まで松代は城下町と大本営地下壕しか頭に入っていなかったが、ちょうどその間の時代(明治・大正から昭和初期)に養蚕と製糸業で大盛況を呈したこと、松代の動脈だった長野電鉄が生糸を運ぶために作られたこと、須坂も同じように盛んだったことなどを知りました。

「繭を買いたたかれて、買いたたかれて、恨み重なる富岡製糸場!」と埼玉・本庄の大野英子さんが語った富岡製糸場、当時経営していたのが原富太郎(三溪)。横浜市民の憩いの場である広大な日本庭園・三渓園は児玉の養蚕農家の、信州や上州の養蚕農家の汗と涙が元になっているんですね。

横浜出身の佐相憲一さんの詩集で、佐相さんのルーツたる新保重太郎さんも生糸輸出街道にできた鉄道で信州から横浜へ出てきたことを歌っていました(「波音 Ⅶ」──佐相憲一詩集『時代の波止場』)。生糸を通した信州と横浜との人のつながり・人の流れがイメージできて、当時のことをもっと知りたいと思いました。

山下公園
横浜港を望む山下公園
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(5)横浜に出た新保重太郎

明治の中ころ、生糸輸出街道にできた鉄道で信州から横浜へ運ばれたのは生糸だけではなかった。新天地を求めた若者たちも横浜に向かった。新保(しんぽ)重太郎もその一人だった。
新潟の漁村・潟町(かたまち)に生まれた新保重太郎は、親族とともに信州千曲川の海野宿(うんのじゅく)隣の田中のまちに住みつき、養蚕関係か宿場の仕事をしたらしい。その後親族と別れて、青年重太郎は一人で横浜の港にたどりついた。

佐相憲一さんは「波音 Ⅶ」で、曽祖父である新保重太郎、そして港町横浜への愛着を歌っています。

・・・
横浜のドヤ街は寿町だけじゃない
横浜橋商店街の隣は旧遊郭・真金町
どぶ川を渡って谷底の一帯が
中村町、八幡町、山谷
開港の頃から労働者のまちだ
流れ者が全国から寄ってきた
・・・
若い新保重太郎よ
君は横浜中村町周辺で明治四十年・一九〇七年
親のわからない女性セイさんと結ばれて
ぼくの祖父が生まれた
会った記憶は二回しかない離婚父方の祖父・一郎
ぼくは彼はあんまり好きじやないが
重太郎よ
君には大いに関心がある
ぼくの中の何かがそう言っている
だからもう十五年間も
除籍謄本にちらと出てくる君を追いかけているのだ

重太郎よ
初めて見たハマの港はどうだい
・・・
信州、上州からの生糸のすべてが横浜を窓口に世界へ輸出された
混沌とした猥雑な港まち
人生を好転させるはずが底辺にくすぶり続ける人々の渦
労働者、商売人、芸人、遊女、浮浪者
ごちゃごちゃとしたハマの裏通りが形成された
・・・
セイさんは君と結ばれて幸せになっただろうか
女工さんか、売り子さんか、色町仕事か
その影は
君たちの息子の一郎がいっしょになったぼくの祖母
よ志さんとも重なる
・・・
深淵を見ながら働いたセイさん、よ志さんも
君が勇気を出してハマに出てこなかったら
ぼくに連なる何も生まれなかった
たとえその物語が苦いばかりのものであっても
重太郎よ
ぼくは君と共に
横浜の海と潟町の海の
波音を聴いていたい
・・・
戦争と平和運動、時代経済と労働者の闘い
雑踏と音楽酒場、享楽と彷捏
世界各国からの文化の風と
日本各地からの人の風
雑多にひしめく横浜だ

その深い闇の入り口で
新保重太郎よ
ぼくは君に出会ったんだ
好奇心と夢と生きる意欲にあふれていた重太郎よ
さすらいの血を受け継いだのは
九十三歳違いのぼくだ
・・・
(「波音 Ⅶ」──佐相憲一詩集『時代の波止場』より)

時代の波止場

(コールサック社 2012年刊)

4)富岡製糸場を経営した原三渓と片倉工業

原:富岡製糸場は民間に払い下げられたが、最後は片倉工業が経営した。
雨宮:片倉工業は諏訪から興った製糸業の会社で、大きな製糸紡績会社になったのね。
原:富岡製糸場の操業が終わってからも片倉工業は莫大な費用をかけて長く保存した。おかげで世界遺産につながったんです。

*片倉工業の前に富岡製糸場を経営したのが、三溪園の創設者・原富太郎(三溪)で、明治35(1902)年に三井家から譲渡を受け、昭和13(1938)年までの36年間経営した。片倉工業に次ぐ長い経営期間だった。

原三渓
三渓園
三渓園(横浜)

(3)松代・須坂と横浜

雨宮:富岡製糸場は外国産の機械だけれど、松代の製糸場は国産の機械だったんです。須坂にも大きな製糸場があり、松代と並んで大生産地だったんです。今も大きな蔵が残っています。

*須坂の製糸業が全盛の大正時代には、工女たちは須坂全体で6千人を超えて町は活況を呈しました。須坂劇場では松井須磨子が公演で「カチューシャの歌」を歌い(大正3年)、中山晋平作曲の「須坂小唄」が大流行し、工女たちのために臥竜公園が建設されました。

大島:そうすると、須坂ー松代ー屋代を結ぶ長野電鉄(河東線)は生糸を運ぶ為に出来たんだね。屋代から信越線で運ばれて、最後は横浜から輸出された。そういえば横浜に三渓園という大きな日本庭園があるけれど、元の持ち主が原三渓と言って、生糸の販売で富をなした人なんです。松代・須坂も三渓園と繋がっているんですね。
(つづく)

松代駅
かっての松代駅
(2)製糸工場の設立と工女への特別教育

松代の製糸工場のあらましについては花井信氏(静岡大学教育学部教授=当時)の論文「信州松代における製糸工場特別教育について(2)」で知ることができます。(http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/5053)
それによると、1980年代、松代は県下の製糸業の中心的存在であり多くの工場が設立された。六工社 (西条に1874年創業)、六文銭(創業1883年)、窪田館 (東条に1895年創立)、松城館 (東条に1888年創立)、白鳥館 (1898年開設)などが松代町とその近隣に創業を開始し、1890年代後期から1900年代初頭に最盛期を現出させた。しかし1912年に六工社、自鳥館、松代館が事業不振となり、六工社は本六工社 (1901年創業)に引き継がれることになった。職工数の規模からいえば、六文銭、六工社、松城館、窪田館、本六工社が抜きんでていた(六文銭 600名・六工社 482名・松城館 497名・窪田館 779名・本六工社 613名)。

六工社では夜学が開設されていた。「工女一同夕食後夜学を致すことになりました。読書・習字・玉算と有りました……工女方も皆喜んで大かた毎夜出られまして中々盛んでありました 」(和田英『富岡日記』) 製糸工場に行けば教育を受けられるという意識は、年少労働者たちが製糸工場へ行く際に、期待に胸をふくらませる誘因剤として続いたという。

花井氏のこの論文では、製糸工場の年少労働者に対する初等教育が製糸工場内の特別学級や尋常小学校の特別学級で組織的に実施されたことが資料をもとに非常に詳細に述べられています。その成果は「工女教育の効果は日々の事業の上に現れて来た。其れは工女の品性が一般に善良になって来た為に、仕事が真面目に行はると同時に、教育の力は智識を向上して監督を多く要せず、良質の生糸を製出し得るに至った。のみならず其生産高を増したのである」(六文銭工場主)。

*花井氏は私が都立西校時代、一緒にうたごえサークルや青年運動をした同期の仲間ではないかと思います。松代の養蚕を調べていて50年ぶりに巡り会ったのは奇遇ですね。

横田家住宅
和田英の実家・横田家住宅
和田英
松代の養蚕の話(1)

雨宮:かって松代に原製糸場があったけれど、場所はどこにあったのかしら。原さんの家は関係なかったのかしら?

原:うちは原製糸場とは関係ないよ。場所はどこどこにあったみたいだ。富岡製糸場で技術を身につけた和田英が松代に帰ってきて教えたんだけれど、彼女の優れていたのは文書に書いたこと(富岡日記)だね。大勢の工女がいたんだけれど、書き残さなければ何もわからないものね。

大島:松代にも製糸場があったんですか?養蚕が盛んだったことは父の実家が養蚕農家で、本に載っていることから知っていたが。

雨宮:どこでも養蚕をやっていたわね。お蚕が葉を食べるとものすごい音がしてね。

大島:「雨の降るような音をたてて/みんないっせいに青い桑の葉をたべた」と詩「山の村と村のひとたち」に書いていますね。富岡製糸場といえば、本庄(埼玉県)の大野英子さんが話していましたね。「児玉は養蚕の本場だったけれど、繭を買いたたかれて、買いたたかれて、恨み重なる富岡製糸場!」と。この詩でも繭買いが安いねだんで買いたたいて行ったと書いています。どこも百姓がしぼりとられるのはおなじですね。
(つづく)

養蚕
博光の実家の様子(養蚕農家を記録した本より)