大野貞純

ここでは、「大野貞純」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


昭和10年(1935年)9月号16日、特高の追及を受け、大野貞純さんが霧積山で亡くなってからちょうど80年になります。彼が最期の日に歩んだ軽井沢から霧積山への路を見に行きました。

軽井沢
軽井沢駅から4.7Km 1時間余りで旧碓氷峠(県境)に達します。峠の左側に熊野神社、右側に見晴台。
見晴台は素晴らしい眺望で、正面に妙義山、左手に安中市・高崎市の街々。

軽井沢
峠を越すと、旧中仙道と霧積温泉へ通じる道。
西條八十が詩「帽子」に歌った道です。
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
……


軽井沢
思婦石の石碑。古い街道の名残りが残されています。

軽井沢
峠から1.2kmで2分岐。ここから左が霧積温泉まで6Km、右が坂本宿まで7.6Kmとあります。

軽井沢
すぐ先で通行止め。
霧積温泉まで歩いていけるようですが、現在は車で松井田から霧積川を上って行きます。

軽井沢
沢のところまで行ってお終まいとしました。
この先から霧積山へ登ったのでしょう。山からは故郷・児玉が望めたのでしょうか?
今は霧積山は登山道もなく、秘境と言われているそうです。

軽井沢
沢の橋のすぐ下にカモシカが出現。熊もいるそうです。

軽井沢
樹々の間から望む霧積山(左?)。大野さんと林はる子さんの霊に手を合わせました。
「治安維持法により捕らえられ、拷問のすえ殺されるよりは」と集団自殺した詩同人『新世紀』の12人。
2度とあの時代を繰り返してはなりません。

 多摩の川波
                 大野紫楊(大野貞純)

 西郊多摩の清流は、鮎漁に、蛍狩に、殊に夏期に於ては花火その他の催し物によつて絶好の納涼地として名を挙げてゐる。まことに都人の一日の清遊に最適の勝地である事を失はない。
  世は遷り、人は変り、河床も又移ろふて幾星霜、今も猶言ひ知れない懐しさを輿へて呉れる多摩のながれ、そのせゝらぎに古への物語りなど尋ねて、其所に此所に、爽快な川風を胸一杯に享け乍らさまよふ事にしやう。
 西多摩郡雲取山の奥深くその源を発して、柳澤川、黒川の渓流を合せ、流れて日原川、丹波川を併せて幹流となり、奥多摩の山間に峡谷を形成して流れること約十五里に及び、秋川、浅川と合流して青梅町附近で平地に出て、紆余曲折時に細流に岐れ 又は深々の碧潭を成し、蜿々三十有餘里武蔵野の南邊を潤ほし、その砂土質の沿岸は水田、果樹栽培に適し、多摩川梨又は桃は東京人の味覚に親しいものであらう。その上流奥多摩の山地に於ては数多くの登山者の眼を楽しませ、或は疲れた咽喉を喜ばせ下つては導かれて市民に命の量を捧げる水道に用いられる多摩の浄水に私達は心から感謝を送らうではないか。又川原の砂利採取も昔時から行はれて玉川砂利として餘りに有名である。

 本流は東京市蒲田区と神奈川県川崎市との境堺あたりより六郷川と称されて.羽田から東京湾に注いでゐる。
 さて多摩の美しい名称の起りであるが、その上流の丹波川から転化してタバ川と呼ばれそれが後にタマ川と言はれる様になつたのであると言ふ。本誌前月号に於て紀埜生氏が、武蔵国の起源に就いて朝鮮語の苧(ムサ)より来てゐるらしいと述べられた記事を興味深く讀んだが、同じ説を称へられる鳥居博士が此のタマの語源に就いても、蒲田(カマタ)や、塵埃〔ゴミ)が蒙古語のゴビより転化したのである等、ハ行がマ行に欒化する実例を引證されて面白く書いて居られる。昔は太婆と書いた時代もあるらしく、又東鑑には多磨の字を用ひてゐるとの事である。
 上古我が国に帰化して関東に居住した高麗人によつて製布の業が伝へられ、古代武蔵の重要な産業として盛に行はれたのであるが、清冽な多摩の水がその晒布を行ふに適した為多摩川の沿岸には殊に発達したらしい。
 高麗族の移住に就いては、埼玉の高麗郡(今の入間郡の一部)の遺跡は有名であるし、同じく紀埜生氏が先月号に於て詳しく紹介なさつてゐる所である。猶府下北多摩郡に狛江と言ふ地名が残つてゐる。勿論之らも高麗人と関係を持つべきものであらう。又古文に狛江の池と言ふ文句が見えてゐるさうである。今の井之頭池を昔狛江の池と言つたのではないかとも説かれてゐるが、どんなものであらうか。上古此の附近に布を多く産した事は、今に調布、布田等の地名が残つてゐる事によつてもうなづけるであらう。調布と言へば、砧村の名も因縁探さうに響くではないか。調布村には昔布を製するに用ひた臼、杵などが今に伝へられてゐるさうである。悠々と生活の圧迫を知らず、安静なくらしを営んで居つた当時の人達が、調布の唄を口ずさみ乍ら、清い流れに布を晒す姿など、思つても懐古の情にうたれる嬉しい風景ではないか。
 「此の川の流れの末は何處までも布を流さば海まで」物静かな流れを渡る布晒唄の優美な音調さへ思はれるではないか。
 「あの子はやれ紅屋の子やれいつも變らぬ紅絞りさらし手拭ひいくつ染めた云々」の唄等は比較的新しい(徳川時代か)ものであらう。
 顧て現今の姿を眺めれば、大東京の市域は拡張され、最早大都會の面影をその小波に映し、數條の橋は架けられ、鐡道は容赦なく跨ぎかけ、往時の景色を兎もすれば忘れさせやうとしてゐるが、数多く残された神社佛閣、そしてその床しい伝説縁起物語など、或は嬉しい土地の名称等によつて十分過ぎし昔を偲ぶ事が出来る。最近風致区域に指定されて、その風光が保存されるべく計画されてゐるが其處に、伸びて行く都市の進展に伴つて自ら生ずる悩みがあるのではあるまいか。
 世田谷区の等々力町とは、早瀬の鳴り渡る印象から付けられた名前であらうか。二子玉川の二子とは、二つの塚があつた事から名づけられたとも言はれてゐる。さうすると、丸子もやつぱり塚の形容から来たものであらうか。
 又此の沿岸の下流一帯に石器時代の遺物に富んでゐる。大森、馬込、綱島等は貝塚、古墳などが豊富に残ってゐて、往時の住民の消息をわずかに物語つてゐる。
 西に富士の秀峰を仰ぎ、北に武蔵野の丘々のゆるやかに起伏するのを一望に収め、江戸の市街を離れること四里の徳川時代の此のあたりは、古梅垣に薫り、川水穏やかに陽光を泛べ、点在する年経た構への家々、そして歌詠む翁の足どりもゆるく遊ぶ眺め等が好もしく目に浮んで来るではないか。
 喪はれることの無い自然の持つ清純さを讃へつゝ、古人の言葉を以つて去りし頃の風景を懐かしまう。

  むかしより むかしの人の戀しきや
  なそかへりこぬ 玉川の浪
                 (『土地の知識』 昭和10年9月号所載)

多摩川
 配水塔       六踏園蛙夫(大野貞純)

配水塔 ムッツリ毎日
大きなお肩に雀がチュンチュン
チュンチュン鳴いても知らずに立ってる

配水塔 ニョッキリ青空
遠くの山からお風がソヨソヨ
ソヨソヨ吹いても澄まして立ってる

配水塔 ポツンコ原っぱ
丸(まあ)るい夕陽がキラキラ
キラキラ照っても平気で立ってる

(『詩と歌謡と』─童謡─ 昭和10年10月号)

*大野貞純 埼玉県児玉出身。働きながら詩同人「新世紀」に参加して活動していたが、昭和10年9月16日、治安維持法による弾圧の下、霧積山(群馬県)で仲間とともに集団自殺した。

詩と歌謡と
(9)国家機密法が出てから忙しくなった

同人誌にのっていた兄ちゃんの詩。

 無題
桜よ桜
なげくでない
桜は地に咲く花にして
天皇の為散る花でなし

 無題
幾億の人類の
敗残する姿
ああ 我もまた
亡びゆく民族の中の一人

「桜花 何の罪咎あらねども」兄の遺言読む曇り日の午後

真理言うと 人嘲笑(わら)うと兄の言葉 事の探さを戦後に思う

横浜事件裁判の記事ひしと読む 名も無き兄ら消されたるまま

マイク握り昭和の悪をアジりたり 天皇葬儀前日の午後
                
兄逝きし霧積山にぬかずけば蓮花升麻(れんげしょうま)の花俯きて咲く


 底辺に生きる者の視線の先に見えたもの、それは敗戦国日本の姿だったのでしょう。
 ボロを引きずり焼け跡をさまよう人たち。
 路上にあふれた戦災孤児の飢えた姿。
 国は天皇陛下の御為(おんため)では無いと見捨てました。
 あの無謀(むぼう)な戦争の果てにあるもの。
 見えたが為に命を失ったのでした。
 私の兄ちゃんは、
 革命家でも思想家でも、指導者でもありません。ただの貧しい労働者でした。

(『続・九十歳のつぶやき』──私の見た治安維持法)

 昭和8年が多喜二虐殺のときで、10年がこれですからね。それからもっとひどくなったというが、そのあとの治安維持法のことは全然わからないけどね。
 国家機密法が出なければね、まさか治安維持法のこと喋ってくれなんていう話は出なかったでしょうね。


<国家機密法が出てからですか?>

 国家機密法が出てから急に忙しくなった。埼玉にも治安維持法被害者同盟があるんです。そこの会員なんですけど、そこでお歴々が「治安維持法で多喜二やなんか幾人か目立つ人をやっちまえばよかった、だから庶民には関係なかった」という発言があったんです。そしたら、いきなり、大野さん前に出て発言して、と事務局の人に言われた。「無名であっても殺された人がたくさんいる、私の兄もその一人だ」と兄のことを話しました。それからものすごく忙しくなったんです。

桜
(8)兄ちゃんの遺書

 竹内てるよさんは申されました。

「家中探しなさい。お兄さんの遺されたものが必ずある筈です」
 そして見つけ出したのが一冊のうすい同人誌でした。
 そこに挿(はさ)まれていたのは鉛筆書きの遺書でした。

「生まれてくる
 こんな重大なことなのに
 一言の相談も有りませんでした。
 死ぬ時も
 黙って一人で逝きます。
 やりたい事が沢山有るけれど
 全部止めにします」

 全部止めて抹殺された結社『新世紀』の同人たちでした。

(『続・九十歳のつぶやき』──兄ちゃんの遺書)

<大野貞純さんの遺書は『新世紀』にはさんであったのですか?>

そうです。覚悟して逝ったのです。

<この年(昭和10年)貞純さんは旺盛に詩や短歌を創作し、20篇を超える作品が『詩と歌謡と』『詩人時代』などの雑誌に掲載されています。「……誌友諸君、秋だ、秋だ。しっかり勉強しませう。身體が肥えるだけぢや馬と同じですから……」(『詩と歌謡と』昭和10年10月号「談話室(誌友通信)」)が最後の投稿のようです。創作意欲に燃えていた21歳の貞純さん。なんと無残な、無念なことでしょう>

治安維持法のために何もわからないまま亡くなった人が3万とも4万とも言われています。
人数について赤旗の記者が調べてくれたが、手がかりがなくて何にも分からなかったんです。


<博光も学生時代の経験を書いています。活動家が捕らえられ、そのまま消されたと>

治安維持法が 大手を振ってのさばっていた
眼つきの悪い ハンチングをかむった犬どもが
いたるところ 路地や木かげにつっ立っていた

きのうまで いっしょに歌っていた学友たちが
忽然と姿を消して 二度とは現われなかった
それは 神かくしではなく 狼かくしだった(「治安維持法の時代」)


ひるひなか 街なかで人間がひっ捕えられ
留置場に投げ込まれて なぐりつけられ
からだじゅう紫腫れになぶり殺された
小林多喜二のように 裁判抜きで

きのうまでいっしょに働いていた仲間が
きょうはもうどこにも姿をみせない
生きてるのか死んでるのかわからない
まるで神隠しに遭ったように
人間が忽然と消える そんな時代だった(「神の国」考

治安維持法
治安維持法反対集会への弾圧(『文化評論』1974年4月)
(7)竹内てるよさんとの出会い──明かされた真相

 そして敗戦。
 戦後三十五年め、お会いしたのが詩人の竹内てるよさんでした。本庄に竹内てるよさんがいらして下さる、何となく講演を聞きに行っただけの私に、
「あなたは大野貞純さんの御遺族(ごいぞく)ですね」
と、話しかけられたのです。
 会場には大ぜいの人がいましたので、後日、竹内先生のお宅で、長い長いお話を伺いました。
「あなたのお兄さんは心中などでは有りません。時代の化け物『治安維持法』に押しつぶされたのです」……と。
 世界三大悪法の一つといわれる治安維持法、昭和八年二月四日。
(できるかぎり授業中の教室に踏み込み、子どもの面前で担任教師に手錠をかけろ)
という秘密司令のもと、信濃教育を潰滅(かいめつ)させた二・四事件。
 同じ二月半ば、小林多喜二・虐殺(ぎやくさつ)。同じ年の三月三日、東北津波救援者(きゅうえんしゃ)への弾圧。
 昭和八年に吹き荒れた治安維持法です。
 次に襲(おそ)われるのはプロレタリア文学、これはあきらかなことでした。
 貧しい学生や、若い下級労働者が仕事の合間に集まり、詩を書き、発表し合っていた小さい結社『新世紀』。主宰(しゅさい)をしていたのは若き日の竹内てるよさんでした。

 時代の化けもの 「治安維持法」、
 生殺与奪(せいさつよだつ)の権を持つ 「治安維持法」、
 目をつけられたら命は無いのです。
 裁判権無し、
 言い開きの機会無し、
 その場で極刑さしつかえ無し。
 推定、何万人かが消されたという「治安維持法」。
捕えられ拷問(ごうもん)のすえ殺されるよりはと集団自殺をしたのでした。
日本という国は自国の民にも加害者でした。

(『続・九十歳のつぶやき』──竹内てるよさんとの出会い)

 竹内てるよさんが本庄に講演に来た時、私はたまたま聞きに行ったんです。竹内さんは私の顔をみるなり、大野貞純さんのご遺族でしょうと当てました。まさに千里眼でした。(霊能者と言われているそうです)
竹内さんは犠牲者の遺族を訪ね歩いて半生を費やしました。私が最後の遺族だったんです。

<『新世紀』同人で犠牲になった方の名前はわかりませんか?>
 わかりません。竹内さんは話されませんでしたし、何も書いていません。『新世紀』も2号で終わりました。
竹内さんは警察に踏み込まれた時、結核で寝込んでいて検挙されなかったんです。もう先が長くないと思って、憐れんで小銭を置いていったそうです。


<「吉田隆子を知っていますか」(NHK Eテレ、2012年9月放映)の中で、治安維持法により投獄された人形劇団プークの女性が「取り調べ室には拷問され虐殺された小林多喜二の写真がたくさん貼ってあって、みせしめのように無言の圧力をうけた」と証言していました。あの写真は民衆を脅かし恐怖を与える為に使われていたんですね。>

多喜二
拷問のあとが生々しい多喜二の遺体(『文化評論』1976年4月)

(6)お弓婆さんのこと

吾を背負い 働く姿を母親と信じていたる頃の幸せ

<お弓婆さんのことを母親だと思っていたと歌っていますが、実のお母様は??>
母親のことは思い出したくもない。子どもをいじめる人だったんです。
お弓さんはすぐ近所に住んでいました。7歳で色街に売られ、年季が明けても親元から呼ばれず、この土地に住みついた。どこの出だか一切言わなかった。本『続・九十歳のつぶやき』に書いてあるのは全部本当の話です。


お婆は娘を売った。
重なった米、味噌の借金、もうだれも貸して呉れない。
十三歳の娘を売るよりなかった。
一日一日を食っていく親のために、松世は売られた。
二度と産まれた土地には帰れない。
その夜、ぐうたら亭主は娘を売った金を全部持って姿を消した。
 
お婆は娘と亭主を一度に失い借金だけが残った。
お婆は町をうろつき、忙しそうな農家など見つけ、一日、半日とやとってもらい、駄賃に残飯をもらって帰るという日々だった。
どうにもならない時は歩いて本庄まで行き、松世にせびるよりなかった。
十三歳の松世に「すまねえ、すまねえ」と詫びながらようやく日々をしのいでいた。
松世の借金はかさむばかり。
松世は「めし盛り」のつとめの辛さに耐えかねて命を断った。十七歳だった。
お婆は知らせを聞いても葬式を出す力はなかった。
松世は花街のはずれにある「投げ込み寺」に埋められた。
桧世、すまねえ。
お婆はいつもいつも松世に詫びていた。
お婆は私をどんな思いで背負っていたのだろうか。
私はお婆に何一つ御礼を言わなかった。
この無償の愛に何一つ応えなかった。
(『続・九十歳のつぶやき』──花いちもんめ)

お弓婆さんは働きもので皆に重宝がられていました。母親から私を引き離すためにいつも私をおぶって働いてくれました。背負いながらいつも話をしてくれました。それなのに私は何も恩返しをしてあげられなかった……。

<7歳で色街に売られ、夫からも見捨てられ、貧困から花街に売った娘も自殺、その日の糧を求めて町をうろついたお弓さん。明治から大正の時代、貧しい人びとのなかでも最も悲惨な生活を送った女性ですね。しかし苦しい生活の中でも英子さんへの愛を惜しまなかったのですね。>

ニガナ
ニガナ

(6)児玉よいとこ

日本の名山に囲まれ
大利根に抱かれながら
貧しい吾が郷

唄い継ぐ「浅間山から鬼が尻(けつ)突ん出して」火山灰吹く吾が郷愛し

浅間山 峰は吹雪か噴煙かと まごう黒雲こちらになびく


(『九十歳のつぶやき』──吾が郷いとし)

<故郷の児玉からは浅間山が見えたのですか?>
よく見えました。昔のほうが噴煙が多く上がっていましたね。

<お寺は山の中にあったのですか?>
いや、森の中です。
お寺は経費がかかるんです、盆暮れにはもっと貧しい檀家が貰いに来るでしょ。だから私の給料だけでは親を養って、お寺を維持していけないのですね。


<あのあたりでは桑を作っていたのですか?>
食っていけないので、桑を作り蚕を育てていました。
あのあたりは水が悪くて、児玉河原という川があったが粘度にも限りがあるからね。繭を買いたたかれて、群馬の製糸工場がでかくなって、恨み重なる、買いたたかれて買いたたかれてね。富岡の製糸工場に恨み重なるです。

<お兄様も児玉を歌った歌謡を2つ発表していますね。(「児玉よいとこ」と「児玉甚句」)>

児玉よいとこ
                  六踏園蛙夫

児玉よいとこ蚕の本場
娘十八紅襷 ヨ 紅襷
繭は白いぞ乙女のこころ
末はどなたの晴衣やら

児玉よいとこ八幡山に
偲ぶ古武士の夢の跡 ヨ 夢の跡
松の木の間にあの出る月に
泣いてこぼれた草の露

児玉よいとこ住みよい所
秩父颪が吠えたとて ヨ 吠えたとて
厚い人情は露変りやせぬ
共に栄える末ながく

           (『詩と歌謡と』 昭和十年九月号所載)
(5)霧積山で見つかった二人の骨

 兄ちゃん、どこかに生きていて呉れ、無事であれと祈りを込めた陰膳もいつか年を二度も越してしまいました。
 兄ちゃんを待ちこがれている家に届いたのは死体発見の知らせでした。

 兄の遺品 里まで運び教え呉れし谷川の水に ただ手を合わす

 増水した谷川の水が遺留品を麓まで流して呉れての発見でした。
 険しい霧積山の山中で父が探してきたのは、窪地に転がり込んだ二つの頭蓋骨とまっすぐな三本の骨でした。カサカサに乾いた骨は地面についていた所だけわずかな青苔がついていました。
 新聞は<目も当てられず腐乱した抱き合い心中死体発見、この非常時に何たる非国民>と書きたてました。
 もう一つの頭蓋骨の主は一八歳の電話の交換手をしていた同じ結社の娘さんと知れました。父は浅からぬ縁と山寺の墓地に埋めました。
「叢林治水大姉」
 父のつけた戒名です。原野を山林を水を治める、とても若い娘の戒名とは思えません。
 物言えぬ時代、父の精いっぱいの遺言ではなかったかと思えます。
「非国民の一家」といじめられて、学校でも、職場でも何も言えませんでした。
 これらはすべて戦争を作る為の準備だったのです。あのみじめな敗戦を迎える為の道だったのです。

(大野英子『続・九十歳のつぶやき』──兄ちゃんのこと)

<一緒に遺骨で見つかった18歳の娘さんは?>
林はる子さんという電話交換手をしていた人で、池袋に住んでいました。兄の部屋に来ているのを見たことがあります。『新世紀』同人の名簿には載っていません。
はる子さんは先妻の子だったので、遺体はこちらで埋葬するように親からまかされ、父が戒名をつけて葬ったのです。18歳の女の子の戒名「叢林治水大姉」には、父が言い残したかったことが込められていると思います。


<霧積山には行かれましたか?>
姪に一回連れていってもらいました、きれいな花が一面に咲いていました。その奥に温泉の宿があり(霧積温泉)、そこで休みました。

 兄逝きし霧積山にぬかずけば 蓮華升麻(れんげしょうま)の花俯きて咲く

<お兄様は緑川さんへ最後の手紙(昭和10年9月16日の消印)を軽井沢から出しています。軽井沢から霧積山に向ったようですね?>
(つづく)

*霧積温泉は明治後期、軽井沢が繁栄するようになるまで、有名な避暑地でした。西條八十の詩「帽子」に歌われ、のちに森村誠一の「人間の証明」の舞台に使われて有名になりました。

 帽子
       西條八十

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
……
(1922年(大正11年)2月「コドモノクニ」)

月見草
(4)兄の失踪

 昭和十年九月十六日、兄ちゃんは突然姿を消しました。帰ってこない兄ちゃんを待っている家にのし込んできたのは六人の兵隊さんでした。
 一列に並び土足で踏み込んだこわい兵(特高? 小学生の私には分かりませんでした)は終始無言で家中荒らすだけ荒らし、兄ちゃんの小さい本箱を蹴り倒すと、黙りこくって一列で出て行きました。
・・・
 兄ちゃんのいない家を引き払って、私らは父の住むもっと貧しい山寺に帰りました。
 昔のこと、何日もかかって兄ちゃんの送った荷物が届きました。父ちゃんは「これは容易ならぬもの」と、竹やぶの陰に穴を掘り、すべてを焼き払い、深く埋めて草でおおいました。
 それが何であったか、すべてをさっしていながら父は死ぬまで一言も話して呉れませんでした。物言えぬ時代でした。

 容易ならぬものよと父が二日かけ焼きにし灰は黙し語らず

 特高が探しに来たのはこれだったのでしょうか。
(『続・九十歳のつぶやき』──兄ちゃんのこと)

 特高は黒い軍服姿で兵隊のようでした。家中探しまわったあげく、兄の部屋の小さな本箱を蹴飛ばして、何も言わずに帰って行きました。
 失踪して数日後、兄が頼りにしていた緑川昇さんに姉が会いに行きました。小学生の身で住所を頼りに訪ねたのです。「アンちゃんいなくなったけど、知らないか」と聞いたら、「決行したか!」と頭を抱えてうずくまり絶句。それ以上聞けませんでした。『新世紀』を届けてくれたのは緑川さんです。計画はみんな知っていたのでしょう。


*戦後、竹内てるよさんから真相が告げられます。治安維持法により捕らえられ、拷問のすえ殺されるよりは、と『新世紀』の仲間12人が集団自殺したのでした。
(つづく)

なでしこ
<兄の貞純さんはどうして池袋へ出たのですか?>
兄は高等小学校を卒業したあと、夜学へ行きたいと思ったが、児玉には夜学はなかった。世話をしてくれる人が檀家にいて、池袋に出て、昼間は雑役夫で働きながら夜学に通うことになったんです。

<貞純さんの詩や短歌、エッセイがたくさん(30編以上)雑誌に掲載されていますね?>
詩の勉強もしてないのに何処で書いたのかしらね?先輩の緑川昇さんの勧めで『新世紀』同人に参加したんです。
たくさんの名前(ペンネーム)で書いているので、他にもあるかも知れません。同人費や投稿するお金を出せるわけがなかったので、人の名前を借りたのかも。雑誌もこんなに買えるわけがなかった。仲間が買ってくれたか、読み古しをもらったらしいです。


<大野貞純作品リスト>(書き写しノートより)

1)多摩の川波     大野紫楊
  ・・・
  むかしより むかしの人の恋しさや
   なそかへりこぬ 玉川の浪
                 (『土地の知識』 昭和10年9月号所載)

2)新興短歌    谺紫楊
  生温い風に発酵する脳髄にズドンと一発風穴をあけたい
  靴下を脱ぎ棄てた少女の脚に悩ましく季節が絡んでゐる
  女の飾るタッタ一本の花がこんなにも此処の空気を爽快にするのか
                   (『詩人時代』 昭和十年六月号所載)

3)小曲 四月のこころ   春の日比谷公園
  サイネラリヤが淑やかに呼んだから 何んとなく此処へ来た
                   (『詩人時代』 昭和十年六月号所載)

4)短歌         龍郷児 
  やどりなきけふのこころは山に来て
    ささ鳴く鳥のこゑの

5)詩 錯誤     雉岡蛇夫
  ふとした事に魂をひしがれて
                   (『極光』 昭和十年五月号所載)

6)小曲  スタンプ    六踏園蛙夫
  なつかしき
    故郷の父 胸に抱きて
  スタンプの
    丸き黒跡ぢつと見つむる        (『詩と歌謡』 昭和十年七月号所載)

7)小曲 夢の小匣   六踏園蛙夫
                    (『詩と歌謡』 昭和十年六月号所載)

8)民謡 流線型時代    南斗星丘夢
  背戸の禿山の流線型
                     (『詩と歌謡』 昭和十年四月号所載)

9)小曲 恋の花文字    南斗星泣夢
  恋の花文字抱きしめて
  そっと囁き待ったのに 
                     (『詩と歌謡』 昭和十年四月号所載)

10)詩 諦観     南斗星柩夢
   (夢捨てて田舎に在る旧師に代りて)
  児童を相手に気炎をあげて
                     (『詩と歌謡』 昭和十年四月号所載)

11) 新興短歌    霧丘蛙夫
  チンナの艶笑は洋菓子に灯を點して七月のギャラリーにちらばる
                     (『詩人時代』 昭和十年九月号所載)

12) 童謡 配水塔   六踏園蛙夫
  配水塔 ムッツリ毎日
  大きなお肩に 雀がチュンチュン
                      (『詩と歌謡』 昭和十年十月号所載)

13) 民謡 あの娘恋しや    南斗星柩夢
  あの娘 慕へばなー
  スルリと 逃げるよ
                      (『詩と歌謡と』 昭和十年五月号所載)

14) 小曲 罪に泣く      東京  六踏園蛙夫
  一時の恋の気紛れに
                       (『詩と歌謡と』 第二巻第九号所載)

15) 新興短歌        六踏園蛙夫
                       (『詩人時代』 第八巻所載)

16) 私しやあてない旅寝の鴉
                       (『蝋人形』所載)

17) あこがれ(推薦詩)   東京  谺紫楊
                       (『詩人時代』 昭和十年九月号所載)               

18)微笑        東京  六踏園蛙夫
   K子の最後の手紙に寄す
  清きこころの君とわれ
                       (『詩と歌謡と』 第二巻第八号所載)

19) 短詩  事務室      大野貞純
                       (『新世紀』 第二輯 昭和十年四月所載)

20) 短歌        六踏園蛙夫
                      (『詩と歌謡と』 昭和十年七月号所載)

21) 懐ひ出    龍郷児
                      (『新世紀』 創刊号 昭和十年二月所載)

22) 機関車ハイキング   大野紫楊
                     (『土地の知識』 昭和十年六月号所載)

23) 短歌       谺紫楊
                       (『詩人時代』 昭和十年四月号所載)

24) 小曲 雨の夜のネオン     南斗星泣夢
                      (『詩と歌謡と』 昭和十年五月号所載)

25) 詩  児玉よいとこ      六踏園蛙夫
                      (『詩と歌謡と』 昭和十年九月号所載)

26) 駒下駄ハイキング……歩む心……  大野紫楊    
                (『土地の知識』 第一巻第三号昭和十年八月号所載)

27) 小歌  別れし人に    北落師門柩夢
                      (『詩と歌謡と』 第二巻第三号所載)

28) 八高沿線見聞記    大野紫楊
                     (『土地の知識』)

29) 詩  偶成      大野貞純

30) 詩 (無題) 久遠に屹立せる山があり
                   (10.4.6附書簡より)  

31) 詩 (無題)  涙で張りつめた窓を 
                   (10.4.8)

32) 詩  大事件
                   (10.3.2 手紙より)

33) 小唄  児玉甚句      東京 龍郷児
                    (『蝋人形』昭和九年十月号所載)

新世紀

(2)児玉時代の兄・大野貞純さん

 小学校高等科の兄ちゃんたちは勉強が好きだった。いつも集まって勉強していた。
 五、六人の子が、それぞれ詩の朗読をするのを聞くのが大好きだった。
 兄ちゃんの声はだれよりもきれいだった。
(『続・九十歳のつぶやき』──背戸の水車)


<お兄様はどんな方だったんですか?>
頭が良くて母親がとても期待していました。出世するから、邪魔になるといって母は妹たちを遠ざけようとしたのです。

<お兄様の写真はありませんか?>
貧乏だったので写真なんて撮っていません。誕生日のお祝いもしたことがありません。

<「南斗六星」で星を見る兄が悲しかったと書いてありますね。家族のことが心配だったのでしょうね?>
妹達も母親にいじめられて大変だったが、いちばんいじめられたのは兄ちゃんだったと思います。

 こんもり暗い木々の梢の上、小さい星が西へすべるように流れていった。
 兄ちゃんは背中の私に話しかけた。
「お星様、見えるだろ
 あの
 蓮の花びらみたいのね
 南斗六星っていうんだよ」
 ・・・
 兄ちゃんの背から悲しさが津々としみてきた。
 (兄ちゃんは何が悲しくて秋風が吹きはじめた暗い庭に妹を背負って立っていたのだろう。)
 「夜はねるもんじゃ
  中え入れ」
 出て来た父ちゃんが私を抱え取ると、兄ちゃんをうながした。
 ・・・
 兄ちゃんが悲しかった。
 父ちゃんも、
 私も、
 南斗六星も悲しかった。
 間もなく兄ちゃんは家を出て雑役夫になった。
(『続・九十歳のつぶやき』──南斗六星)

大野英子
大野英子

大野英子さんは自著『続・九十歳のつぶやき』で、兄・大野貞純さんが治安維持法の犠牲になった事実を書きました。
今また戦争に向っています。あのおぞましい治安維持法が首をもたげて来る時代。あんちゃんよ、私は叫び続けます。
おぞましき治安維持法かくあると 言いつくすまで吾れは死なじと


<お父様は児玉の寺の住職をなさっていたのですが、元の家は?>
父の父親もお寺の住職でした。4男だった父は廃寺の住職になったのです。昔、いくさで亡くなった人を弔って建てられた寺で、檀家はいなくて経済的にとても大変だったんです。
兄は中学校をおわると、池袋に出て雑役夫をしていました。貧しい給料なのに妹二人を引き取って養ってくれたのです。


<池袋での生活は?>
兄の仕事はゴミの清掃やコマ使いのような仕事でした。夜は夜学に通って勉強していました(慶応義塾商業学校)。夜学では寒い廊下で待っていた夜学生が授業が交代となって教室に入ると、小使いが石油ストーブの火を消して水まで打っていく、皆がしがみついた煙突は冷たい手でたちまち冷えていく、と言っていました。玄関脇の2帖の板の間が兄の部屋で、本を置いたり物を書いたりしていましたが、なるべく見ないようにしていました。家事一切は小学校高等科の姉がやり、私は何もしませんでした。小学4年〜6年の時期でした。

<池袋の小学校で「私らは教室の隅に集まってはロシヤに住む夢を語り合っていました。この地球のどこかには働けば皆が同じに飯の食える国があるそうな。それは夢のような理想郷でした」と書いてあるところは、当時の庶民がロシア革命を自分たちの希望の星として仰いでいたことがわかって感動したのですが?>
池袋は貧民街でしたが、大金持ちの住む地区もあって、貧富の格差が激しかったです。小学校でロシアの話をしてくれたのは西河しず江さんで、父親が小さな新聞社に勤めていました。
(つづく)
大野英子

紹介してくださった平さんと

雑誌

兄・大野貞純さんが遺された詩の雑誌など70冊余りを下さいました。当時活発だった詩運動の状況がわかる宝物です。