フランスにゴーシュロンを訪ねて
尾池和子
三鷹在住は長いのですが、それまで博光氏のことは知りませんでした。介護保険制度が始まる年、訪問介護員養成講座を受講しました。修了して登録する時、フランス語ができるのなら、とケアマネージャーさんが大島さんのところへ組み合わせてくださったのです。
伺い始めたころ、博光氏はゴーシュロンの『不寝番』を訳していました。気に入った詩を好きな時に訳し、楽しんでいる様子でした。ある日「これをまとめて、本にしようかな」と言われましたので、いまどきは著作権がやかましく言われますので、先方の許可を得ておいたらどうでしょう、と申し上げました。「いいよ、そんなことどうだって」と言われましたが、そのうち「じゃあ、書いてみるか」とゴーシュロンに手紙を書きました。自分は日本の詩人で、アラゴンの『ウラル万歳』を読んで以来、アラゴン、エリュアール、ネルーダ、マチャード、アルベルティらの詩を訳してきたという自己紹介を添えて。先方からは大変びっくりした、もちろん訳してかまわないという返事が来ました。手紙の詩人たちは、マチャード以外自分の親しい友人であり、よって詩の世界では私たちはすでに知り合いであるという、大変親しみのこもった内容でした。
『不寝番』の何篇かが載った『民主文学』、『稜線』を送り、詩の内容についてのやりとりがあった後、ヒロシマの詩を併載した『不寝番』を送ったのは二〇〇三年初夏のことでした。表はブルーと内側は白のダブルカバーの装丁に、「美しい本!」と喜ばれ、同時に博光氏の詩を仏訳したいので送ってくれないかという依頼がありました。
詩の訳について博光氏とゴーシュロンは同じ考えでした。「詩の訳は、その詩人と一緒になって一から創りなおすようなものだよ」(博光氏)、「直訳はもとの詩を歪めることがしばしばあるので、詩人として自由に訳してよい。それはその詩と等価値をもつ」(ゴーシュロン)。例えば「起きている+状態」が「不寝番」になり、「しるし」が「星」へ、「学ぶ+誠実」が「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」(アラゴン)と訳されています。原文には無い動詞を加えることによって詩がわかりやすくなり、的確に伝わります。私は詩人とはこういうものか、とただ感心するばかりでした。
二〇〇八年、パリの北西セーヌ川沿いのラ・フレットにある氏の家を訪問しました。モネの絵で有名なサン・ラザール駅から列車で約一時間、コルメイユ・パリジー駅下車、アルジャントゥイユからも近い場所です。
ゴーシュロンは博光氏より十歳下の一九二〇年生まれですので、お会いしたときは八十八歳ころでしょうか。痩せ形で、よく召し上がり、口調もしっかりしていました。夫人と二人暮らしで、耳がかなり遠いゴーシュロンに、快活な夫人が耳元で通訳のように会話を補う様子は、とても仲睦まじくみえました。優しいおじいちゃまという印象でしたが、記念に写真を撮りましょうという時は、目が鋭くなり、やはり抵抗の詩に人生を捧げた詩人というイメージでした。
赤いバラの咲く庭での食事、たくさんの本は言うに及ばず、フェルナン・レジェが描いたエリュアールの詩『自由』を始め、絵があちこちに飾られ、ゴーシュロンの肖像画や彫刻のある室内、二階の書斎の窓いっぱいに広がるセーヌ川の緑溢れる景色は素晴らしかった。
ゴーシュロンは「幸福は、人生の詩だ」と言いました。彼の詩は博光氏が言う「状況の詩」で、星よ花よではなく戦闘的な詩です。幸福と詩が結びついたのは意外に思えました。博光氏の「たとえ状況の詩であっても、そこには希望がなければ」という言葉も思い出されました。
私がお二方の交流の中で一番良かったと思うのは、中学生のころ『レ・ミゼラブル』の映画を見て以来、傾倒していたフランス文学、生涯裏切られることのなかったフランスという国、博光氏の詩が、他ならぬゴーシュロンの手によってフランス語に訳され、フランスの人々に読まれ、そのフランスの地に長くとどまることになったことです。
(六月十二日の講演の内容を要約)
(『狼煙』81号 2016年11月)
尾池和子
三鷹在住は長いのですが、それまで博光氏のことは知りませんでした。介護保険制度が始まる年、訪問介護員養成講座を受講しました。修了して登録する時、フランス語ができるのなら、とケアマネージャーさんが大島さんのところへ組み合わせてくださったのです。
伺い始めたころ、博光氏はゴーシュロンの『不寝番』を訳していました。気に入った詩を好きな時に訳し、楽しんでいる様子でした。ある日「これをまとめて、本にしようかな」と言われましたので、いまどきは著作権がやかましく言われますので、先方の許可を得ておいたらどうでしょう、と申し上げました。「いいよ、そんなことどうだって」と言われましたが、そのうち「じゃあ、書いてみるか」とゴーシュロンに手紙を書きました。自分は日本の詩人で、アラゴンの『ウラル万歳』を読んで以来、アラゴン、エリュアール、ネルーダ、マチャード、アルベルティらの詩を訳してきたという自己紹介を添えて。先方からは大変びっくりした、もちろん訳してかまわないという返事が来ました。手紙の詩人たちは、マチャード以外自分の親しい友人であり、よって詩の世界では私たちはすでに知り合いであるという、大変親しみのこもった内容でした。
『不寝番』の何篇かが載った『民主文学』、『稜線』を送り、詩の内容についてのやりとりがあった後、ヒロシマの詩を併載した『不寝番』を送ったのは二〇〇三年初夏のことでした。表はブルーと内側は白のダブルカバーの装丁に、「美しい本!」と喜ばれ、同時に博光氏の詩を仏訳したいので送ってくれないかという依頼がありました。
詩の訳について博光氏とゴーシュロンは同じ考えでした。「詩の訳は、その詩人と一緒になって一から創りなおすようなものだよ」(博光氏)、「直訳はもとの詩を歪めることがしばしばあるので、詩人として自由に訳してよい。それはその詩と等価値をもつ」(ゴーシュロン)。例えば「起きている+状態」が「不寝番」になり、「しるし」が「星」へ、「学ぶ+誠実」が「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」(アラゴン)と訳されています。原文には無い動詞を加えることによって詩がわかりやすくなり、的確に伝わります。私は詩人とはこういうものか、とただ感心するばかりでした。
二〇〇八年、パリの北西セーヌ川沿いのラ・フレットにある氏の家を訪問しました。モネの絵で有名なサン・ラザール駅から列車で約一時間、コルメイユ・パリジー駅下車、アルジャントゥイユからも近い場所です。
ゴーシュロンは博光氏より十歳下の一九二〇年生まれですので、お会いしたときは八十八歳ころでしょうか。痩せ形で、よく召し上がり、口調もしっかりしていました。夫人と二人暮らしで、耳がかなり遠いゴーシュロンに、快活な夫人が耳元で通訳のように会話を補う様子は、とても仲睦まじくみえました。優しいおじいちゃまという印象でしたが、記念に写真を撮りましょうという時は、目が鋭くなり、やはり抵抗の詩に人生を捧げた詩人というイメージでした。
赤いバラの咲く庭での食事、たくさんの本は言うに及ばず、フェルナン・レジェが描いたエリュアールの詩『自由』を始め、絵があちこちに飾られ、ゴーシュロンの肖像画や彫刻のある室内、二階の書斎の窓いっぱいに広がるセーヌ川の緑溢れる景色は素晴らしかった。
ゴーシュロンは「幸福は、人生の詩だ」と言いました。彼の詩は博光氏が言う「状況の詩」で、星よ花よではなく戦闘的な詩です。幸福と詩が結びついたのは意外に思えました。博光氏の「たとえ状況の詩であっても、そこには希望がなければ」という言葉も思い出されました。
私がお二方の交流の中で一番良かったと思うのは、中学生のころ『レ・ミゼラブル』の映画を見て以来、傾倒していたフランス文学、生涯裏切られることのなかったフランスという国、博光氏の詩が、他ならぬゴーシュロンの手によってフランス語に訳され、フランスの人々に読まれ、そのフランスの地に長くとどまることになったことです。
(六月十二日の講演の内容を要約)
(『狼煙』81号 2016年11月)

尾池和子さんは2007年6月10日、土井大助さんといっしょに松代に長野詩人会議を訪ねてから9年ぶり、記念館がオープンしてから初めての来訪です。

前座として館長からゴーシュロンと尾池さんについて説明、ついで石関みち子さんがゴーシュロンの詩「湾岸戦争を見渡す岬」と「詩人大島博光への讃歌」を朗読。

翻訳の許諾を得る手紙は尾池さんの勧めで書くことになりました。

列車を乗り間違えて1時間遅れて駅についた。本人は家に帰り、奥様が駅で待っていてくれた。到着するとお風呂に入りますか?と言われた。初めての訪問なので遠慮したが、いま思い返すと、入ればよかった。

バラの咲く庭で食事を頂く。


高台にある家から見下ろすセーヌ川と緑の田園風景が素晴らしい。

情況詩、人生の悲惨な面をうたっても、それが希望につながらないといけないというのが二人に共通する点。

博光さんに言われて詩を書いたら、「あなたが詩人じゃないからいうけど、この詩は人間の深みや高みを表していない、表面的なことしか書いてない」とコテンパンに言われました。

尾池さんの話から、詩人ゴーシュロンについて学びました。
ぼくが大島さんに最後に会ったのは、二○○四年三月三十一日午後、三鷹の杏林大学病院の病室。病床に半身を起こし、小卓を引いて本を読んでいた。病院が苦手でない人は少ないだろうが、ぼくにとってはとりわけ苦手な落ち着けない場所だ。柄になく言葉少なになってしまう。数床のベッドが並ぶなかで、永年の病床慣れではなかろうが、悠然たるもので、血色もよかった。病床の人はしきりにゴーシュロンのことを語った。半年ほど前、大島訳のジャック・ゴーシュロン詩集『不寝番』を送ってもらったのに、ぼくは未だ丁寧には読んでいなかった。著者は、若くしてアラゴンの指導を受け、ともに行動した経歴をもつ。訳者より十年年少の現役のフランス詩人だ。近年なお、「ヒロシマの星のもとに」「湾岸戦争を展望する岬」など、アクチュアルな(これは大島さんの好んで力説する形容動詞だ)詩作を書き続け、アラゴンらを先達とするフランス・レジスタンスの詩的伝統を積極的に受け継ぐこの詩人について、大島さんは我がことのごとく熱っぽく語った。
別れ際に、大島さんはA5判二十枚ほどのコピー綴りを手渡してくれた。フランスの文化誌『コミュンヌ(Commune )』の抜き刷だ、という。フランス語に無学のぼくには読めないが、仏訳「大島博光詩抄」だった。「鳩の歌」「ひろしまのおとめたちの歌」「硫黄島」「ランボオ」、そこまでは大方原題名の見当がついたが、つぎの長編「わたしの愛する詩人たち」(この作だけが『全詩集』にも後の単行詩集にも見当たらない。どなたかご教示を請う)、最後が「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」、以上六編だった。最初のページには、詩人大島博光の略歴紹介があり、その下の広い余白には翻訳協力者ゴーシュロンから大島博光への肉筆書簡とサインがあった。人に頼んだ書簡の粗訳を記す。
親愛なる詩友に宛てて。
略歴と仏訳詩篇をお送りいたします。お喜びいただけるだろうと存じます。
何篇かは、次号の「ルヴェ・コミュンヌ」誌に掲載されるでしょう。追って見本刷りをお送りいたします。
ご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
友情の証として J・ゴーシュロン
二〇〇四・三・一六
<土井大助「大島博光研究・序章」(『詩人会議』二〇〇六年八月号)より>
別れ際に、大島さんはA5判二十枚ほどのコピー綴りを手渡してくれた。フランスの文化誌『コミュンヌ(Commune )』の抜き刷だ、という。フランス語に無学のぼくには読めないが、仏訳「大島博光詩抄」だった。「鳩の歌」「ひろしまのおとめたちの歌」「硫黄島」「ランボオ」、そこまでは大方原題名の見当がついたが、つぎの長編「わたしの愛する詩人たち」(この作だけが『全詩集』にも後の単行詩集にも見当たらない。どなたかご教示を請う)、最後が「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」、以上六編だった。最初のページには、詩人大島博光の略歴紹介があり、その下の広い余白には翻訳協力者ゴーシュロンから大島博光への肉筆書簡とサインがあった。人に頼んだ書簡の粗訳を記す。
親愛なる詩友に宛てて。
略歴と仏訳詩篇をお送りいたします。お喜びいただけるだろうと存じます。
何篇かは、次号の「ルヴェ・コミュンヌ」誌に掲載されるでしょう。追って見本刷りをお送りいたします。
ご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
友情の証として J・ゴーシュロン
二〇〇四・三・一六
<土井大助「大島博光研究・序章」(『詩人会議』二〇〇六年八月号)より>
まえがき
不寝番は、われわれのまわりに起こる事件にたいして、ぼんやりとまどろんでいたり、少しでも眠気に気をゆるめたりするわけにはゆかない。もしも夢があるとすれば、それは現実世界のうえに大きく眼をひらいて、未来をつくりだすものをはっきりと見すえての夢であろう。
しばしばわれわれを襲い、ゴヤの版画にもよく描かれた、あの有名な「理性の眠り」に負けないようにしよう。
不純な詩、非純粋詩 poemes Impursは、もろもろの事件、つまり体験された歴史が、われわれの内面生活に与える反響から生まれ、また状況の記憶から生まれる。この記憶は、一度経験されると、われわれが秘守しようとするプライべートな生の領域にまで忍びこむ。
長い射程をもつ状況はわれわれを包囲し、われわれの感性、精神、心の世界の大部分を構築する。それはしばしば、われわれの個人的生活の内密の動きよりも強力であって、われわれの個人的生活に生彩を与える。
いったい、われわれの歴史的な、政治的な、社会的な環境に起こる事件から切り離 され、他者を受けつけないような「自我」というものを誰が想像できよう?
こんにち、歴史が、われわれ現代の歴史が、人間への信頼を大いに狂わせ、冷酷破廉恥な世界を出現させて、おぞましく残酷に生を破壊しているとき、誰がこの苦境から巧みに脱け出せると想像できよう?詩においても然り。この詩集に収められた これら日付けのついた詩は、年表の概要をめざしたものでもなければ、いささかも自叙伝的野望をもったものでもない。
恐らく、われわれめいめいの中には、内なるバリケードともいうべきものが存在するにちがいない。──それは変質することのない詩の生まれる場所でもあろう──この内なバリケードとは、受け入れがたいものを拒否することであり、耐えがたいものにたいする反抗である。そこから、もう黙ってはいないという欲求が生まれ、言葉においても行動においても、人間的尊厳の名において、互いに理解し合おうという欲求が生まれてくる。それは、それだけで幸福にふさわしいだろう。生にふさわしく、 無限に詩を歌い継ぐ、それは人類のいかなる次元をも排除するものではない。とりわけ、われわれと他者たちとの、われわれとわが都市との、多様で豊かな関係に心ひらくものを排除するものではない。そしてそれは世界におけるわれわれの存在・役割を豊かにするのである。
ここでは、絶望はなんら恥じることがないという論拠をもたない。個人は自己喪失 の道を遠く行くことも可能である。だが確かなことは、われわれをつらぬく人間性の 概念は絶えざる闘争によって豊かになり、生への自発的な肯定のおかげで、「真の生」を求める大胆な想像力のおかげで豊かになる。
われわれは遠くからやってくる、また遠くから戻ってくる。われわれは遠くへやってゆく。幻想と幻滅から、挫折と敗北から、屈辱的な破局から、われわれは立ち上がって絶えずわれわれの地歩を闘いとらねばならない。よりよく生きるために、可能にみちた長い道のりを一歩一歩進まねばならない。勇みたつ一歩はつねに未来とその希望を暗示する。
詩は、警戒する義務をもつように、ほめ賛える義務をもつ。いかなる時にも、もっとも歓迎されるべき人類の顔を明らかにすることが重要である。
(ゴーシュロン詩集『不寝番』)
不寝番は、われわれのまわりに起こる事件にたいして、ぼんやりとまどろんでいたり、少しでも眠気に気をゆるめたりするわけにはゆかない。もしも夢があるとすれば、それは現実世界のうえに大きく眼をひらいて、未来をつくりだすものをはっきりと見すえての夢であろう。
しばしばわれわれを襲い、ゴヤの版画にもよく描かれた、あの有名な「理性の眠り」に負けないようにしよう。
不純な詩、非純粋詩 poemes Impursは、もろもろの事件、つまり体験された歴史が、われわれの内面生活に与える反響から生まれ、また状況の記憶から生まれる。この記憶は、一度経験されると、われわれが秘守しようとするプライべートな生の領域にまで忍びこむ。
長い射程をもつ状況はわれわれを包囲し、われわれの感性、精神、心の世界の大部分を構築する。それはしばしば、われわれの個人的生活の内密の動きよりも強力であって、われわれの個人的生活に生彩を与える。
いったい、われわれの歴史的な、政治的な、社会的な環境に起こる事件から切り離 され、他者を受けつけないような「自我」というものを誰が想像できよう?
こんにち、歴史が、われわれ現代の歴史が、人間への信頼を大いに狂わせ、冷酷破廉恥な世界を出現させて、おぞましく残酷に生を破壊しているとき、誰がこの苦境から巧みに脱け出せると想像できよう?詩においても然り。この詩集に収められた これら日付けのついた詩は、年表の概要をめざしたものでもなければ、いささかも自叙伝的野望をもったものでもない。
恐らく、われわれめいめいの中には、内なるバリケードともいうべきものが存在するにちがいない。──それは変質することのない詩の生まれる場所でもあろう──この内なバリケードとは、受け入れがたいものを拒否することであり、耐えがたいものにたいする反抗である。そこから、もう黙ってはいないという欲求が生まれ、言葉においても行動においても、人間的尊厳の名において、互いに理解し合おうという欲求が生まれてくる。それは、それだけで幸福にふさわしいだろう。生にふさわしく、 無限に詩を歌い継ぐ、それは人類のいかなる次元をも排除するものではない。とりわけ、われわれと他者たちとの、われわれとわが都市との、多様で豊かな関係に心ひらくものを排除するものではない。そしてそれは世界におけるわれわれの存在・役割を豊かにするのである。
ここでは、絶望はなんら恥じることがないという論拠をもたない。個人は自己喪失 の道を遠く行くことも可能である。だが確かなことは、われわれをつらぬく人間性の 概念は絶えざる闘争によって豊かになり、生への自発的な肯定のおかげで、「真の生」を求める大胆な想像力のおかげで豊かになる。
われわれは遠くからやってくる、また遠くから戻ってくる。われわれは遠くへやってゆく。幻想と幻滅から、挫折と敗北から、屈辱的な破局から、われわれは立ち上がって絶えずわれわれの地歩を闘いとらねばならない。よりよく生きるために、可能にみちた長い道のりを一歩一歩進まねばならない。勇みたつ一歩はつねに未来とその希望を暗示する。
詩は、警戒する義務をもつように、ほめ賛える義務をもつ。いかなる時にも、もっとも歓迎されるべき人類の顔を明らかにすることが重要である。
(ゴーシュロン詩集『不寝番』)
訳者あとがき
わたしがはじめてゴーシュロンを知ったのは、詩評論『詩・レジスタンス』(一九七九年)によってである。スペインの人民戦線、およびフランスの人民戦線の歴史と詩の歴史を語り、レジスタンスの歴史と詩の歴史を語って、その好著はわたしに多くの示唆を与えてくれたものであった。
その後彼は、『ウーロップ』誌に、秀抜なアラゴン論を書いた。若くしてアラゴンの近くに親しんで指導をうけた「身近さ」によって、具体的で実践的なアラゴン像が描かれ、彫まれることになった。そして数十年をへて、詩集『不寝番』(一九九八年)が刊行され、わたしははじめてゴーシュロン詩集を知ったことになる。
膨大な量に達するアラゴンの詩業に比べれば、ゴーシュロンの詩集は数冊に過ぎないのかも知れない。しかし、数少ないその「非純粋詩」は、その「状況の詩」は、歴史の真実を語り、詩の真実を語り、実践的な詩の真実を語っている。しかも、「辛辣なアクチュアリテ」を獲得しているのである。
小さい詩集であっても、光芒を失うことなく、歴史とともに光りかがやくものであるとわたしは信じている。
二〇〇三年五月
(ゴーシュロン詩集『不寝番』 2003年6月)
わたしがはじめてゴーシュロンを知ったのは、詩評論『詩・レジスタンス』(一九七九年)によってである。スペインの人民戦線、およびフランスの人民戦線の歴史と詩の歴史を語り、レジスタンスの歴史と詩の歴史を語って、その好著はわたしに多くの示唆を与えてくれたものであった。
その後彼は、『ウーロップ』誌に、秀抜なアラゴン論を書いた。若くしてアラゴンの近くに親しんで指導をうけた「身近さ」によって、具体的で実践的なアラゴン像が描かれ、彫まれることになった。そして数十年をへて、詩集『不寝番』(一九九八年)が刊行され、わたしははじめてゴーシュロン詩集を知ったことになる。
膨大な量に達するアラゴンの詩業に比べれば、ゴーシュロンの詩集は数冊に過ぎないのかも知れない。しかし、数少ないその「非純粋詩」は、その「状況の詩」は、歴史の真実を語り、詩の真実を語り、実践的な詩の真実を語っている。しかも、「辛辣なアクチュアリテ」を獲得しているのである。
小さい詩集であっても、光芒を失うことなく、歴史とともに光りかがやくものであるとわたしは信じている。
二〇〇三年五月
(ゴーシュロン詩集『不寝番』 2003年6月)
平和は眠りを許さない(宮本百合子)
詩集『不寝番』の「まえがき」はつぎのように始まる。
「不寝番は、われわれのまわりに起こる事件にたいして、ぼんやりとまどろんでいたり、少しでも眠気に気をゆるめたりするわけにはゆかない。……しばしばわれわれを襲い、ゴヤの版画にもよく描かれた、あの有名な『理性の眠り』に負けないようにしよう。」
この不寝番の任務は「われわれのまわりに起こる事件にたいして」ぼんやりとまどろんでいてはならない、眼を醒ましてじっと見守っていなければならない。端的にいえば、この不寝番がじっと見守っているのは平和であり、戦争の影をいち早く見つけて警鐘を鳴らすのがその任務である。この詩集に収められているいくつかの詩がそのことを物語っている。
たとえば、「わが心痛事・平和」という詩は、題名そのものがその意図を示している。
わが地球は 痙攣を起こしている
その火は くすぶっている
そうでないなら これらの蝋燭消し
蓋 経帷子は なんのためなのか
これらの猿ぐつわ 鎖 虐殺は なんのためなのか
がちゃつく武器の音は おやみなくつづき
むかしながらの謀略 陰惨な十字軍への呼びかけ
戦争 とことんまでの死
ここには、戦争の絶えない、こんにちの世界の状況が、ほとんど詩的修飾なしに提示されている。「陰惨な十字軍への呼びかけ」といえば、あの「テロにつくか、おれにつくか、二つに一つ」と言って世界を脅して報復戦争を始めた大統領が思い出される。「猿ぐつわ 鎖 虐殺」といえば、パレスチナにおけるイスラエル軍の日々の残虐行為が思いあたる……。
犠牲となった人たちへの崇拝と儀式
犠牲となった人たちの名誉を人びとはほめ賛える
戦争の犠牲となった戦死者たちへの崇拝と儀式をうたったこの二行は、憲法に反する靖国神社への参拝を、アジア諸国の注視する眼を恐れながら強行する、日本の総理大臣の姿を浮かび上らせずにはおかない。それは、洋の東西を問わず、国民を侵略戦争に駆りたてる、軍国主義の一つの仕掛けなのである。そうして一度靖国神社に軍神として祀られた者は、その思想信条の如何を問わずに、侵略戦争の加担者として、死んでからもなお奉仕させられるのである。
またここには、「いまここで」という詩がある。
この地球の片隅で
いま ここで
長靴の音はもう長いこと遠のいた
もうきな臭い火薬の匂いもしない
空に 爆撃機の轟音もきこえない
平和に暮らしていると ひとはいう
……
街角で ひとはぶつかる
丸くなってねている肉体(ひと)たちに
そうして問いかけてくる眼ざしに
平和に暮らしてると ひとはいう
いまここで 平和と呼ばれるものは
恐怖による支配でしかない
この「恐怖による支配」の正体を見破らなければならない。それは、核による先制攻撃で世界を脅しつけ、自国の利益を戦争によって追求しつづける国による支配にほかならない。
(ゴーシュロン詩集「不寝番」について)
詩集『不寝番』の「まえがき」はつぎのように始まる。
「不寝番は、われわれのまわりに起こる事件にたいして、ぼんやりとまどろんでいたり、少しでも眠気に気をゆるめたりするわけにはゆかない。……しばしばわれわれを襲い、ゴヤの版画にもよく描かれた、あの有名な『理性の眠り』に負けないようにしよう。」
この不寝番の任務は「われわれのまわりに起こる事件にたいして」ぼんやりとまどろんでいてはならない、眼を醒ましてじっと見守っていなければならない。端的にいえば、この不寝番がじっと見守っているのは平和であり、戦争の影をいち早く見つけて警鐘を鳴らすのがその任務である。この詩集に収められているいくつかの詩がそのことを物語っている。
たとえば、「わが心痛事・平和」という詩は、題名そのものがその意図を示している。
わが地球は 痙攣を起こしている
その火は くすぶっている
そうでないなら これらの蝋燭消し
蓋 経帷子は なんのためなのか
これらの猿ぐつわ 鎖 虐殺は なんのためなのか
がちゃつく武器の音は おやみなくつづき
むかしながらの謀略 陰惨な十字軍への呼びかけ
戦争 とことんまでの死
ここには、戦争の絶えない、こんにちの世界の状況が、ほとんど詩的修飾なしに提示されている。「陰惨な十字軍への呼びかけ」といえば、あの「テロにつくか、おれにつくか、二つに一つ」と言って世界を脅して報復戦争を始めた大統領が思い出される。「猿ぐつわ 鎖 虐殺」といえば、パレスチナにおけるイスラエル軍の日々の残虐行為が思いあたる……。
犠牲となった人たちへの崇拝と儀式
犠牲となった人たちの名誉を人びとはほめ賛える
戦争の犠牲となった戦死者たちへの崇拝と儀式をうたったこの二行は、憲法に反する靖国神社への参拝を、アジア諸国の注視する眼を恐れながら強行する、日本の総理大臣の姿を浮かび上らせずにはおかない。それは、洋の東西を問わず、国民を侵略戦争に駆りたてる、軍国主義の一つの仕掛けなのである。そうして一度靖国神社に軍神として祀られた者は、その思想信条の如何を問わずに、侵略戦争の加担者として、死んでからもなお奉仕させられるのである。
またここには、「いまここで」という詩がある。
この地球の片隅で
いま ここで
長靴の音はもう長いこと遠のいた
もうきな臭い火薬の匂いもしない
空に 爆撃機の轟音もきこえない
平和に暮らしていると ひとはいう
……
街角で ひとはぶつかる
丸くなってねている肉体(ひと)たちに
そうして問いかけてくる眼ざしに
平和に暮らしてると ひとはいう
いまここで 平和と呼ばれるものは
恐怖による支配でしかない
この「恐怖による支配」の正体を見破らなければならない。それは、核による先制攻撃で世界を脅しつけ、自国の利益を戦争によって追求しつづける国による支配にほかならない。
(ゴーシュロン詩集「不寝番」について)
ゴーシュロン詩集「不寝番」/目次
ゴーシュロン詩集「不寝番」について
平和は眠りを許さない
ゴーシュロンの人となり
「湾岸戦争を展望する岬」にふれて──戦争をどう書くか
ゴーシュロンからの手紙
詩集「不寢番」
まえがき
自由を賛える歌 (一九五六年〜一九九七年)
歌
分別ある正義の女
四つの壁
疑い
ヨット
自由人
海辺の断崖の上で
パリの街歩き (一九八九年〜一九九七年)
パリの街歩き(抄)
死刑執行人の惑星 (一九三九年〜一九四五年)
つけ狙う死神
こうして
死刑執行人の惑星
焼け野原で
オラドゥールの学校
うす暗い光について
うす暗い光について
灰の日々の燠火
「国際旅団」の伝説考 (一九九六年)
「国際旅団」の伝説考
希望の襤褸(一九四六ー一九九七)
ハイフォンの子どものお母さんのことば
プッチュという言葉
すてきな小さな広場
傭兵
声高の嘆き
忘れはしない
壁の歴史(一九九○年)
国境
壁の暴力
回転する壁
悪萝
壁を築く
壁と恥辱と
予告された戦争の記録 (一九九一年)
湾岸戦争を展望する岬
荒廃
ちんびら
コンサート
強者たち
人格
よき次元 (一九五○年〜一九九七年)
いまここで
鷲へのほめことば
狼がうろつきまわる
みごとな建築
わが心痛事・平和
指揮官の指
平和・戦争
火
勝利
子守歌
さかい
ヒロシマの星のもとに
1〜7
訳者あとがき
ゴーシュロン詩集「不寝番」について
平和は眠りを許さない
ゴーシュロンの人となり
「湾岸戦争を展望する岬」にふれて──戦争をどう書くか
ゴーシュロンからの手紙
詩集「不寢番」
まえがき
自由を賛える歌 (一九五六年〜一九九七年)
歌
分別ある正義の女
四つの壁
疑い
ヨット
自由人
海辺の断崖の上で
パリの街歩き (一九八九年〜一九九七年)
パリの街歩き(抄)
死刑執行人の惑星 (一九三九年〜一九四五年)
つけ狙う死神
こうして
死刑執行人の惑星
焼け野原で
オラドゥールの学校
うす暗い光について
うす暗い光について
灰の日々の燠火
「国際旅団」の伝説考 (一九九六年)
「国際旅団」の伝説考
希望の襤褸(一九四六ー一九九七)
ハイフォンの子どものお母さんのことば
プッチュという言葉
すてきな小さな広場
傭兵
声高の嘆き
忘れはしない
壁の歴史(一九九○年)
国境
壁の暴力
回転する壁
悪萝
壁を築く
壁と恥辱と
予告された戦争の記録 (一九九一年)
湾岸戦争を展望する岬
荒廃
ちんびら
コンサート
強者たち
人格
よき次元 (一九五○年〜一九九七年)
いまここで
鷲へのほめことば
狼がうろつきまわる
みごとな建築
わが心痛事・平和
指揮官の指
平和・戦争
火
勝利
子守歌
さかい
ヒロシマの星のもとに
1〜7
訳者あとがき