マヤコフスキー

ここでは、「マヤコフスキー」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 マヤコフスキーとネルーダ

 ネルーダは、「大十月革命」の生んだ偉大な詩人マヤコフスキーについて書いている。
 「若いころ、わたしは、マヤコフスキーの声にうたれた。老いさらばえた詩の流派のただなかで、その声は建設者のふりおろす鉄槌のようにひびきわたった。かれは集団の心臓にもろ手をさしのべた。そして、そこにあらたな調べのためのちからをみつけだしたのであった。マヤコフスキーの強靭と精緻と激烈とは、いまなお、こえがたい現代詩の典型としてのこっている」(北民彦訳)
 『二〇の愛の詩と一つの絶望の歌』の詩人が、『心の中のスペイン』の詩人へと変身していく過程には、むろんスペイン戦争という銃火の試練場があったのだが、またマヤコフスキーの影響も見のがすことはできないであろう。ネルーダは『遺言』のなかにも書きのこしている。

  ねがわくば 新しい詩人たちが
  わたしが愛したように 愛してくれるように
  わがマンリーケを ゴンゴーラを
  わがガルシーラソを クヴェードを
  これらの人たちは 雪のような清らかさと
  白金で身をよろった
    巨人のような守護者であり
  わたしに 厳格さを教えてくれたのだった
  そして 新しい詩人たちが
  わがロートレアモンのあげた苦悶のなかから
  むかしの嘆きの声をききとってくれるように
  そうして マヤコフスキーのなかに
  のぼってゆく星をみいだし
  その光から
    どのようにして多くの穂が生れたかを
  見いだしてくれるように
            (『大いなる歌』)

   (自筆原稿)

ネルーダ
1949年パリにて(ネルーダ、アラゴン、ギリエンら)
詩人の栄光  ウラジミール・マヤコフスキーについて

                 ポール・エリュアール/大島博光訳

かれは羊毛のように優しく
絹のように気高かった
かれはおとめの手よりも
もっと弱々しい手をしていた

子供たちに語るすべを知っていたし
そぼくなひとたちに語るすべを知っていた
こどもみたいな母親よりももっと
かれには無邪気さがあふれていた

誰にも見えないようなものを
かれは見ぬく眼をもっていた
疲れがつくりだすさまざまな地獄や
死をもたらす埃(ほこり)まで

かれは照りかえして歌った 科学を
大きな野心にみちた労働を
綿密に闘争を
希望がかれをみちびくままに

かれは大砲のように
人民の勝利を叫んだ
かれはまず生命を髪のようにかき乱し
それから上の方からその髪をゆった

闇のなかでも山のうえでも
かれの正義はすっくと立っていた
すべでの彫像のまえで光景のまえで
かれは泣くことも笑うことも知っていた

愛撫では愛情ぶかい手をしていたが
かれの怒りは敵を恐れおののかせた
そんなときかれはじぶんの肉体を
敵の火に面とぶつけた

かれの敵は滅び去ったが
かれは生き残った
もっとも素朴なひとたちの心にも
かれの血はかき立て回した

人類の旋盤を

(『エリュアール詩選』昭和31年9月)

マヤコフスキーポスター
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(1921年)

 マヤコフスキーは死ぬ時までリーリャ夫妻と三人で家族のように暮らしていた。リーリャは遺族としてマヤコフスキーの遺産の二分の一を受けとり、遺族年金までもらっていた。マヤコフスキーをリーリャに引きあわせたのが妹のエルザ・トリオレだった。
 エルザ・トリオレは、1896年、モスクワの教養に富んだ中産階級の家の次女として生まれた。家には未来主義者たちが出入りしていた。マヤコフスキーもそのひとりだった。少女時代のエルザは詩が大好きで、マヤコフスキーの詩を愛し、彼とつき合っていた。エルザがリーリャを彼に引き合わせると、マヤコフスキーはリーリャに熱を上げ、1918年には愛を告白する指環を贈った。リーリャはこのときもう文学者オシップ・ブリークと結婚していた。リーリャはブリークの妻でありながら、マヤコフスキーの愛人となった。

   ◇   ◇   ◇   ◇
 1918年、エルザは、あるフランス人と結婚するために、ロシヤを離れる。この結婚の相手は詩をかかなかった。かの女は1917年に、生れ故郷のモスクワで、彼と出会ったのである。出がけに、かの女はすぐまた帰って来れるものと思いこんで、ちょっとした旅行に出かけるくらいに思っていたのである。「運命とは、政治だ」ということを、かの女はまだ知らなかった。つまり、十月革命が偉大な出来事だということは、よくわかっていたとはいえ、四方の国ぐにが、その扉を閉ざしてしまうなどとは、かの女には思いもよらなかったのである。こうしてエルザは生涯、郷愁の海のなかに投げこまれることになる。
 この頃の思い出を、エルザはその『マヤコフスキー』のなかに、こう描いている。
 「わたしの建築学校は、以前の貴族学校の中の、赤い門の傍にありましたが、この学校のすぐ横を通るノーヴァヤ・バスマンナヤ通りで、外国行きのパス・ポートをくれた人がありました。パス・ポートを手渡しながら、そのお友達はこう言いました──《外国人と結婚しなきやならないほど、この国じゃあなたにとってはもう男の人もいないってわけですか?》わたしの周りの人たちもこんな考えをもっていました。わたしはどんなことも、誰の言うことも聞き入れませんでした。仕方なしにお母さまがわたしに同行する決心をなさいました……。
 1918年の7月でした。うだるような暑さでした。レニングラードの町は飢えとコレラのために死にそうになっていました。毎日市民は群をなして死んでゆきます。彼らは往来でも、電車の中でもばたばた倒れてゆくのです。果物の山は腐っていました。こんなものを食べたが最後、コレラに罹るのでした。
 リーリヤとマヤコフスキーはレニングラードの郊外の田舎に住んでいました。わたしは二人にお別れに行きました。
 リーリヤはひとりで、わたしたちをストックホルムに運ぶ船まで見送りに来てくれました。埠頭の上に見えたリーリヤのあの姿はいつまでも忘れることができません。わたしたちが甲板にいた時、リーリヤは一包の肉入りサンドウィチをくれましたが、それは当時としてはひじょうに豪勢なものでした。褐色の髪の毛をうしろにかき払ったリーリヤは、くつきりべニで描いた大きな口から、見るからに堅そうな歯並みをあらわし、みだらなほど表情たっぷりの顔には、まんまるな栗色の眼をきらきら輝かしていました……」 (エルザ・トリオレ『マヤコフスキー』神西清訳)
 これで見ると、エルザはまわりの人たちの言うことには耳もかさず、この「外国人」との結婚に、がむしゃらに飛び込んでいったものらしい。わがままで、情熱的な若き日のエルザの姿が見えるようだ。ここにはまた、姉のリーリヤの肖像があざやかに描きだされている。後年、アラゴンは『エルザへのほめ歌』のなかの『美女たち』において、このリーリヤの美しさをうたうことになる。

 かの女たち 二人姉妹を並べても わたしはエルザを見わけよう
 二人のちがったところ 似たところを 言いあてよう
 ひとりは黄金(こがね)いろの眼をもち ひとりはこの世と
   あの世とに開いた二つの窓のような眼をもつ
 それは 夢で見たクリミヤの 気の遠くなるような青空だ
 
 そうだ ここで二人の姉妹を結びつけるのが わたしの戦略だ
 おまえのように 歌われるために生れてきたリーリヤは
 かの女の詩人にいつまでも耳傾けている──わたしも愛する
   その詩人は とある夕べ 自分の詩の上で死んだが
 決死の若者たちは 今もその詩を彼らの流儀で歌っているのだ

                         (『美女たち』)

<『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』──エルザはロシヤを離れる>

抵抗と愛の讃歌
マヤコフスキー事件

小笠原豊樹さんが12月2日に死去されたとの訃報にびっくりしました。
『マヤコフスキー事件』を読んだばかりだったのです。

自殺とされたマヤコフスキー死亡事件のカギを握る女優ポロンスカヤ。恋人として彼の最後に関わったポロンスカヤは8年後の1938年に回想録を出し、マヤコフスキーとの日々を詳しく書きました。マヤコフスキー最後の1週間は怯えたような精神状態だったが、明日には新しい家で一緒に暮らそうと約束し、住む家まできまっていた。
1964年9月、ポロンスカヤは新たに告白文を書いた。当日、マヤコフスキーの部屋を出ていったん芸術座に稽古に向ったが、胸騒ぎがしてルビャンカの共同住宅の部屋に戻った。階段を駆け下りてくる乗馬ズボンの男とすれ違った。部屋には硝煙が……あるいは煙草の煙がたちこめていた。これは自殺ではなく殺人事件だ。……

マヤコフスキーとヒクメットの関係を知りたいと思っていたら、 ヒクメットが書いた「マヤコフスキーは生きている」という文章が出てきました。『マヤコフスキー詩集』(彰考書院 1952年)の付録小冊子のようです。翻訳した人の名はわかりません。
 マヤコフスキーは生きている1
マヤコフスキーは生きている2
マヤコフスキーは生きている3
 最初のコミューヌ戦士たち
                マヤコフスキー 大島博光訳

いまもそこで あの日日を
    あの戦闘を あの名前を
想いやるひとは
    ごくまれだ
しかし 労働者の
    心は 忘れない
あの偉大な日の 聖なる思い出を
資本は
    そのとき
        若かった
煙突は
    あまり高くなかった
コミューヌ戦士たちは
    戦いの旗を掲げて
フランス人たちの
    パリの街に
貧乏人たちの心に
    希望をかき立てながら
金持ちどもを
    不安におののかせながら
生きた社会主義の
    言葉が
大地のうえに
    ほとばしり出た
ブルジョワ世界
    ぜんたいが
脂ぎった手で
    拍手喝采した
自分の憲兵たち──
    ヴェルサイユ軍が
路上を前進するのを
    見たとき
法律の条項も
    調べず
討論もせず
    審議もせず
フランスの コルチャック
    ガリフェは
コミューヌを
    銃殺刑にした
コミューヌ戦士の声は
    まったく息絶えたのか
永遠に 押し殺されたのか
それを確かめるために
    貴婦人どもは
        戦士の眼に
パラソルの先を
    突き刺した
ブルジョワどもは
    がつがつと
        コミューヌをくらって
やつらの旗で
    くちびるを拭いた
おれたちにはただ スローガンが残った
「勝利! 勝利か──
    然らずんば死を!」
ヴェルサイユ軍は パリに
    弾丸の唾を吐きかけながら
拍車を鳴らして
    出て行った
そうして ブルジョワどもの顔は
    輝き始めた
だが おれたちの「十月」がやってきた!
労働者階級は
    ずっと賢くなり
    うんとたくさんにふえている
おれたちには
    言葉や 警棒を
        かわす用意ができている
コミューヌ戦士たちは
    ごくわずかの日日を
        もちこたえることができた
おれたちは
    数世紀をもちこたえるだろう
・・・

 *この詩は、エルザ・トリオレによる仏訳より訳した。

(自筆原稿)