マヤコフスキー

ここでは、「マヤコフスキー」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 アラゴンは、一九二八年二月五日にマヤコフスキーとめぐり会い、その翌日、おなじクーポールの酒場で、エルザ・トリオレとめぐり会う。その時から、アラゴンはエルザから離れることなく、生涯、エルザへの愛をうたいつづけることになる。
 エルザは、少女時代からすでにマヤコフスキーの友人であり、エルザの姉リーリャ・ブリックはマヤコフスキーの恋びとであった。したがって、アラゴンにとって、マヤコフスキーは義兄ともいえる。
 マヤコフスキーは、一九三○年四月十四日、ピストルでじぶんの心臓をうって自殺した。それから五ヵ月後、ソヴェトを訪問したアラゴンとエルザは、モスクワのゲンドリコフ小路のマヤコフスキーの住家を訪ねている。その家はこんにち、マヤコフスキー博物館となっている。その訪問の模様を、アラゴンはつぎのように書いている。

 ゲンドリコフ通りの 客間のテーブルをかこんで
 わたしたちは いっしょに腰をおろしていた
 まるで いまにも扉口があいて あの大男が
 窓に射す陽のように ばっと現われそうだった

 五ヵ月たてば もうやすやすと彼の死にも慣れてしまう
 彼の声が聞(き)けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
 きみにまつわりつく彼は もう観念であり記億の仕業(しわざ)なのだ
 だが 隣り部屋の 洋服だんすの扉があいていて
 彼のネクタイが 二つ折れに ぶらさがっているのを見ると
 誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

 彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
 彼の詩が どこか 上着のポケットで歌っている
 彼はちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
 彼のような肩なら 地平も軽(かる)がると 持ちあがる
 彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
 耳にひびく脚韻のために 彼には車輪とレールが必要だ
 だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

 彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
 パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
 彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
 緑いろの絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

 ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
 そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにとって むごかろう
 あんなに何度も 彼は地獄から抜け出てみせると約束した
 それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
 いまそれを読みかえすと 心はひっくりかえるようだ
 いつか 彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
 ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと その氷のなかに彼を閉じこめている
 彼はもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
 したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
 青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなのだ
                           (『末完の物語』)

 ここには、マヤコフスキーの死にたいするアラゴンの哀惜の情があふれていると同時に、マヤコフスキーの人間像が端的にうたわれている。マヤコフスキーはじっさいに玉突きが好きだった。

  この世では死ぬことは新しくない
  だが 生きることもむろん新しくない

 というエセーニンの詩にたいして、マヤコフスキーはつぎの詩句を対置した。

  この世では 死ぬことはやさしい
  生活を築く方がずっとむずかしい

 マヤコフスキーは死んだが、かれの偉大な生への肯定のことばは、この人生に残ったのである。
(おわり)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

(注)本稿は未発表の紀行「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」の一つの章となっている。

枯枝

 マヤコフスキーとめぐり合ってから五年後にこう書いたアラゴンは、それからほぼ二十年後の一九五四年、第二回ソヴェト作家大会でも、マヤコフスキーをほめたたえている。
 「詩となるすべてのものは、現在の歴史から、現実の人口の生活から、これらの人々の直面する疑問への回答から、その力を汲みとっている。詩──それはかれらのたたかいの武器であり、そして詩人はこのたたかいにおいて、ただ彼の言葉と歌のもつ力と威力によって、他の人々とことなっているにすぎない。今世紀の絶頂に立ち、全世界の詩人たちの注意を一身に集めている詩人の例──それはヴラジミル・マヤコフスキーである。
 ヴラジミル・マヤコフスキーは、生活の行手を照らすみちびきの星である。マヤコフスキーの光に照して、われわれは自身の冨を再評価し、われわれの源とわれわれの運動をよりよく理解する。マヤコフスキーの光に照して、われわれは世界のすべての詩人たちの共通の道が前途にひらけているのを眼にし、新しいソヴェトの人間と、そのソヴェトの人間によく似た、全世界で勝利を収めるであろう明日の人間を知り、彼らとともに行こうとするのである。
 そして事実、同志諸君、明日の日の人間の勝利をいわずして、いったい何を語ることがあろう。社会主義リアリズムはけっして自己目的ではなく、これは、われわれの芸術がその全力をあげてすべての人々とともにわれわれがめざしている最終目的の達成を促進できるようにするための創作方法である。
 真の詩──それは人間の精神の光であり、われわれはそれを消し去ることを許さない。詩について語りながら、私は最後に、我が国の詩人ギョーム・アポリネールの言葉を引用したいと思う。これは、四十年前に書かれた彼のピカソ論の末尾にあるものである。
 『この地上において人々は何よりも光を愛する、彼らが火を発明したのだ』
 おそらく、わが国の詩はまだ光とはなっていないだろう。しかし、ここ、プーシキン、レールモントフ、マヤコフスキーの国で、われわれはすでにこう言うことができる、──詩人たちは何よりも光を愛する、なぜなら、彼らはその火によって末来を照らすような作品をつくっているから、人類の幸福のためのたたかいにおいてその武器となり、その行手を照らすみちびきの星となっている作品をつくっているから、と。
 たしかに、あなた方の国の詩人たちの詩を読んで、われわれは言うことができる──彼らが火を発明したのだ! と。」 (『第二回ソヴェト作家大会』四一五べージ)
(つづく)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

アラゴン
演説するアラゴン


 アラゴンがフランス共産党に入党したのは、マヤコフスキーと出合った前年の、一九二七年であった。その年、ブルトン、エリュアール、ユニック、ブニュエル、サドゥールなどのシュルレアリストたちも入党したが、ある者は数週間で離党した。しかしアラゴンは、無器用にではあったが、党生活を追求した。シュルレアリスムの詩的手法から新しいレアリスムの詩に移る実作上の苦渋、新しい思想と私的な生活感情との矛盾など、アラゴンは苦悩にみちた自己変革の過程にふみこんだところであった。党生活を忠実につづけることは、かれをシュルレアリストたちから遠のかせ、かれは孤立させることにもなる。混乱と絶望のあまり、一九二八年、すでに一五○○頁に達していた長編小説『無限の防衛』を、かれはマドリッドで焼きはらったのであった。──これが、マヤコフスキーと出合った時のアラゴンの精神状況の、おおまかな素描である。

 マヤコフスキーとの出合いから、アラゴンが受けとった決定的なものは、ブルジョワ社会の虚偽と醜悪を意識するということではなかった。アラゴンにとって、シュルレアリスムはすでに、このブルジョワ社会の虚偽と醜悪にたいする抗議でもあった。マヤコフスキーとの出合いがアラゴンに与えたものは、新しい世界との接触であった。マヤコフスキーの模範はアラゴンをはげまし、「詩における新しい世界の創設に全力をあげて反対する」ひとびとに、アラゴンを立ち向わせることになる。
 一九三三年、マヤコフスキーの詩『声をかぎりに』を、アラゴンはエルザと共訳で、フランス語に訳したが、その序文でこう書いている。
 「マヤコフスキーの場合のように、翻訳というものの役割が、かくもドラマティックだったことはかつてなかった。それはまさに、偉大な社会革命の時代におけるもっとも高い詩的形容に到達し、その天才を革命に奉仕させた人間にかかわっているからである。ソヴェト同盟以外の国ぐにで、共産主義革命にたいして、さぐるような、いぶかしげな眼ざしを食いいるように向けているすべての詩人たちにとって、マヤコフスキーの模範は無類の価値と効力とをもっている。かれらはマヤコフスキーに期待している──資本主義の濃霧をつらぬいて、かれらの理性のうえに、かれら詩人たちのもとに、射しこんでくるあの稲妻を、期待している。そしてかれらは、自分たちの行動の基準ともし、つねにとは言わないまでも、作品の基準ともしようとしている革命的発展をうらぎらない詩人たろうとしているのである。」 
(つづく)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

マヤコフスキー
若き日のマヤコフスキー(1912年)

 
マヤコフスキーとアラゴン
                           大島博光

 誰かが言っているように、アラゴンとエリュアールは、シュルレアリスムのなかで追求した反抗を、党のなかで、さらに哲学的に、思想的に追求し、発展させた、ということができる。しかしながら、アラゴンの場合、シュルレアレスムから社会主義的レアリスムへの移行は、きわめて苦悩にみちた、長い闘いだった。
 シュルレアリスムから社会主義レアリスムへの移行と書いたのは、一九三五年の『社会主義レアリスムのために』以来、アラゴンは資本主義の国においても、社会主義レアリスムを採用することができると、主張しつづけているからである。一九五四年十二月にひらかれた第二回ソヴェト作家大会においても、アラゴンはつぎのように発言しているのである。
 「ここ二十年前、そしてほんのつい最近まで、私たちの国では、社会主義レアリスムを正しい方法と考えていた人たちさえ、何か気がねのようなものから、レアリスムはまぎれもなく進歩的文学の法則だが、しかし、社会主義のないフランスでは、ほんとうの社会主義レアリスムを問題にすることはできないというように考えがちであった。しかし、私自身は、芸術家・作家が、発展しつつある労働者階級のイデオロギーを受けいれ、社会主義の見とおしのうえに立って、自国民、自民族の歴史的、科学的な認識にもとづいたリアリスチックな芸術を創造していくことができさえすれば、社会主義レアリスムは資本主義の国でも可能である、といつも主張してきた。何か国民的気がねといったような訳のわからぬものにとらわれて、これとちがった風に考えることは──つまりは、損失を招くことであり、ヒュマニスムの文学の発展をさまたげることである。」 (『第二回ソヴェト作家大会』四一○頁)

 アラゴンの、このような社会主義レアリスムへの移行と追求にあたって、マヤコフスキーとの出合いは、きわめて象徴的な影響を与えたのであった。
 アラゴンがマヤコフスキーに出合ったのは、一九二八年一月であった。この出合いについて、アラゴンはこう語っている。

 「それはモンパルナスの或るカフェのことだった。ある秋のタ方、わたしはみんなと同じように時間をつぶしていた。カフェは明るく、女たちがさざめき、腰掛のうえには白と黒の小犬が一匹、まるでおもちゃのように座っていた。とつぜん、誰かがわたしの名を呼んで言った。『詩人ウラジミール・マヤコフスキーがあなたを呼んでいます。」そこにはマヤコフスキーがいて、手で合図をしていた。かれはフランス語を話すことができなかったからである。
 この瞬間こそ、わたしの人生をまったく変えてしまうことになった。詩をひとつの武器に変えることのできた詩人、革命の下手にいてはならぬことを知っていた詩人、マヤコフスキーは、世界とわたしとを結びつけるきずなとなった。それは、わたしが自分の手くびにうけとり、こんにちすべての人びとにさし示している鎖の最初の一環であった。このきずなは、わたしをあらたに外部世界へ結びつけている。御用哲学者たちは、この外部世界を否定するようにと、いままでわたしに教えこんできたのである。それ以来、唯物論者としてわれわれが変革しうるこの外部世界のなかに、わたしは醜悪な敵の顔を見いだすだけでなく、数百万の男女の深い眼を見いだすのである。詩人マヤコフスキーは、これらのひとびとにこそ語りかけるべきであり、語りかけうるということを、わたしに率直に教えてくれたのである。これらのひとびとこそが、この世界を変革し、こわれた鎖のぶらさがっている傷ついた拳をこの世界のうえ高くさしあげているからである。」(『社会主義レアリスムのために』)
(つづく)

マヤコフスキー


(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

 マヤコフスキーとネルーダ

 ネルーダは、「大十月革命」の生んだ偉大な詩人マヤコフスキーについて書いている。
 「若いころ、わたしは、マヤコフスキーの声にうたれた。老いさらばえた詩の流派のただなかで、その声は建設者のふりおろす鉄槌のようにひびきわたった。かれは集団の心臓にもろ手をさしのべた。そして、そこにあらたな調べのためのちからをみつけだしたのであった。マヤコフスキーの強靭と精緻と激烈とは、いまなお、こえがたい現代詩の典型としてのこっている」(北民彦訳)
 『二〇の愛の詩と一つの絶望の歌』の詩人が、『心の中のスペイン』の詩人へと変身していく過程には、むろんスペイン戦争という銃火の試練場があったのだが、またマヤコフスキーの影響も見のがすことはできないであろう。ネルーダは『遺言』のなかにも書きのこしている。

  ねがわくば 新しい詩人たちが
  わたしが愛したように 愛してくれるように
  わがマンリーケを ゴンゴーラを
  わがガルシーラソを クヴェードを
  これらの人たちは 雪のような清らかさと
  白金で身をよろった
    巨人のような守護者であり
  わたしに 厳格さを教えてくれたのだった
  そして 新しい詩人たちが
  わがロートレアモンのあげた苦悶のなかから
  むかしの嘆きの声をききとってくれるように
  そうして マヤコフスキーのなかに
  のぼってゆく星をみいだし
  その光から
    どのようにして多くの穂が生れたかを
  見いだしてくれるように
            (『大いなる歌』)

   (自筆原稿)

ネルーダ
1949年パリにて(ネルーダ、アラゴン、ギリエンら)
詩人の栄光  ウラジミール・マヤコフスキーについて

                 ポール・エリュアール/大島博光訳

かれは羊毛のように優しく
絹のように気高かった
かれはおとめの手よりも
もっと弱々しい手をしていた

子供たちに語るすべを知っていたし
そぼくなひとたちに語るすべを知っていた
こどもみたいな母親よりももっと
かれには無邪気さがあふれていた

誰にも見えないようなものを
かれは見ぬく眼をもっていた
疲れがつくりだすさまざまな地獄や
死をもたらす埃(ほこり)まで

かれは照りかえして歌った 科学を
大きな野心にみちた労働を
綿密に闘争を
希望がかれをみちびくままに

かれは大砲のように
人民の勝利を叫んだ
かれはまず生命を髪のようにかき乱し
それから上の方からその髪をゆった

闇のなかでも山のうえでも
かれの正義はすっくと立っていた
すべでの彫像のまえで光景のまえで
かれは泣くことも笑うことも知っていた

愛撫では愛情ぶかい手をしていたが
かれの怒りは敵を恐れおののかせた
そんなときかれはじぶんの肉体を
敵の火に面とぶつけた

かれの敵は滅び去ったが
かれは生き残った
もっとも素朴なひとたちの心にも
かれの血はかき立て回した

人類の旋盤を

(『エリュアール詩選』昭和31年9月)

マヤコフスキーポスター
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(1921年)

 マヤコフスキーは死ぬ時までリーリャ夫妻と三人で家族のように暮らしていた。リーリャは遺族としてマヤコフスキーの遺産の二分の一を受けとり、遺族年金までもらっていた。マヤコフスキーをリーリャに引きあわせたのが妹のエルザ・トリオレだった。
 エルザ・トリオレは、1896年、モスクワの教養に富んだ中産階級の家の次女として生まれた。家には未来主義者たちが出入りしていた。マヤコフスキーもそのひとりだった。少女時代のエルザは詩が大好きで、マヤコフスキーの詩を愛し、彼とつき合っていた。エルザがリーリャを彼に引き合わせると、マヤコフスキーはリーリャに熱を上げ、1918年には愛を告白する指環を贈った。リーリャはこのときもう文学者オシップ・ブリークと結婚していた。リーリャはブリークの妻でありながら、マヤコフスキーの愛人となった。

   ◇   ◇   ◇   ◇
 1918年、エルザは、あるフランス人と結婚するために、ロシヤを離れる。この結婚の相手は詩をかかなかった。かの女は1917年に、生れ故郷のモスクワで、彼と出会ったのである。出がけに、かの女はすぐまた帰って来れるものと思いこんで、ちょっとした旅行に出かけるくらいに思っていたのである。「運命とは、政治だ」ということを、かの女はまだ知らなかった。つまり、十月革命が偉大な出来事だということは、よくわかっていたとはいえ、四方の国ぐにが、その扉を閉ざしてしまうなどとは、かの女には思いもよらなかったのである。こうしてエルザは生涯、郷愁の海のなかに投げこまれることになる。
 この頃の思い出を、エルザはその『マヤコフスキー』のなかに、こう描いている。
 「わたしの建築学校は、以前の貴族学校の中の、赤い門の傍にありましたが、この学校のすぐ横を通るノーヴァヤ・バスマンナヤ通りで、外国行きのパス・ポートをくれた人がありました。パス・ポートを手渡しながら、そのお友達はこう言いました──《外国人と結婚しなきやならないほど、この国じゃあなたにとってはもう男の人もいないってわけですか?》わたしの周りの人たちもこんな考えをもっていました。わたしはどんなことも、誰の言うことも聞き入れませんでした。仕方なしにお母さまがわたしに同行する決心をなさいました……。
 1918年の7月でした。うだるような暑さでした。レニングラードの町は飢えとコレラのために死にそうになっていました。毎日市民は群をなして死んでゆきます。彼らは往来でも、電車の中でもばたばた倒れてゆくのです。果物の山は腐っていました。こんなものを食べたが最後、コレラに罹るのでした。
 リーリヤとマヤコフスキーはレニングラードの郊外の田舎に住んでいました。わたしは二人にお別れに行きました。
 リーリヤはひとりで、わたしたちをストックホルムに運ぶ船まで見送りに来てくれました。埠頭の上に見えたリーリヤのあの姿はいつまでも忘れることができません。わたしたちが甲板にいた時、リーリヤは一包の肉入りサンドウィチをくれましたが、それは当時としてはひじょうに豪勢なものでした。褐色の髪の毛をうしろにかき払ったリーリヤは、くつきりべニで描いた大きな口から、見るからに堅そうな歯並みをあらわし、みだらなほど表情たっぷりの顔には、まんまるな栗色の眼をきらきら輝かしていました……」 (エルザ・トリオレ『マヤコフスキー』神西清訳)
 これで見ると、エルザはまわりの人たちの言うことには耳もかさず、この「外国人」との結婚に、がむしゃらに飛び込んでいったものらしい。わがままで、情熱的な若き日のエルザの姿が見えるようだ。ここにはまた、姉のリーリヤの肖像があざやかに描きだされている。後年、アラゴンは『エルザへのほめ歌』のなかの『美女たち』において、このリーリヤの美しさをうたうことになる。

 かの女たち 二人姉妹を並べても わたしはエルザを見わけよう
 二人のちがったところ 似たところを 言いあてよう
 ひとりは黄金(こがね)いろの眼をもち ひとりはこの世と
   あの世とに開いた二つの窓のような眼をもつ
 それは 夢で見たクリミヤの 気の遠くなるような青空だ
 
 そうだ ここで二人の姉妹を結びつけるのが わたしの戦略だ
 おまえのように 歌われるために生れてきたリーリヤは
 かの女の詩人にいつまでも耳傾けている──わたしも愛する
   その詩人は とある夕べ 自分の詩の上で死んだが
 決死の若者たちは 今もその詩を彼らの流儀で歌っているのだ

                         (『美女たち』)

<『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』──エルザはロシヤを離れる>

抵抗と愛の讃歌
マヤコフスキー事件

小笠原豊樹さんが12月2日に死去されたとの訃報にびっくりしました。
『マヤコフスキー事件』を読んだばかりだったのです。

自殺とされたマヤコフスキー死亡事件のカギを握る女優ポロンスカヤ。恋人として彼の最後に関わったポロンスカヤは8年後の1938年に回想録を出し、マヤコフスキーとの日々を詳しく書きました。マヤコフスキー最後の1週間は怯えたような精神状態だったが、明日には新しい家で一緒に暮らそうと約束し、住む家まできまっていた。
1964年9月、ポロンスカヤは新たに告白文を書いた。当日、マヤコフスキーの部屋を出ていったん芸術座に稽古に向ったが、胸騒ぎがしてルビャンカの共同住宅の部屋に戻った。階段を駆け下りてくる乗馬ズボンの男とすれ違った。部屋には硝煙が……あるいは煙草の煙がたちこめていた。これは自殺ではなく殺人事件だ。……

マヤコフスキーとヒクメットの関係を知りたいと思っていたら、 ヒクメットが書いた「マヤコフスキーは生きている」という文章が出てきました。『マヤコフスキー詩集』(彰考書院 1952年)の付録小冊子のようです。翻訳した人の名はわかりません。
 マヤコフスキーは生きている1
マヤコフスキーは生きている2
マヤコフスキーは生きている3
 最初のコミューヌ戦士たち
                マヤコフスキー 大島博光訳

いまもそこで あの日日を
    あの戦闘を あの名前を
想いやるひとは
    ごくまれだ
しかし 労働者の
    心は 忘れない
あの偉大な日の 聖なる思い出を
資本は
    そのとき
        若かった
煙突は
    あまり高くなかった
コミューヌ戦士たちは
    戦いの旗を掲げて
フランス人たちの
    パリの街に
貧乏人たちの心に
    希望をかき立てながら
金持ちどもを
    不安におののかせながら
生きた社会主義の
    言葉が
大地のうえに
    ほとばしり出た
ブルジョワ世界
    ぜんたいが
脂ぎった手で
    拍手喝采した
自分の憲兵たち──
    ヴェルサイユ軍が
路上を前進するのを
    見たとき
法律の条項も
    調べず
討論もせず
    審議もせず
フランスの コルチャック
    ガリフェは
コミューヌを
    銃殺刑にした
コミューヌ戦士の声は
    まったく息絶えたのか
永遠に 押し殺されたのか
それを確かめるために
    貴婦人どもは
        戦士の眼に
パラソルの先を
    突き刺した
ブルジョワどもは
    がつがつと
        コミューヌをくらって
やつらの旗で
    くちびるを拭いた
おれたちにはただ スローガンが残った
「勝利! 勝利か──
    然らずんば死を!」
ヴェルサイユ軍は パリに
    弾丸の唾を吐きかけながら
拍車を鳴らして
    出て行った
そうして ブルジョワどもの顔は
    輝き始めた
だが おれたちの「十月」がやってきた!
労働者階級は
    ずっと賢くなり
    うんとたくさんにふえている
おれたちには
    言葉や 警棒を
        かわす用意ができている
コミューヌ戦士たちは
    ごくわずかの日日を
        もちこたえることができた
おれたちは
    数世紀をもちこたえるだろう
・・・

 *この詩は、エルザ・トリオレによる仏訳より訳した。

(自筆原稿)