ランボオ Arthur Rimbaud

ここでは、「ランボオ Arthur Rimbaud」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ここで、大島博光訳と他者の訳を取り上げてみましょう。わたしのお気に入りの「谷間に眠る者」の中のフレーズ。三連目のラストの一行。大島訳「谷間に眠る者」
a「自然よ、彼を温かく揺すれ、彼は寒いのだ!」
他者の訳「谷間に眠るもの」
b「やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。」
     *
まずタイトルの訳が異なります。
「者」と「もの」
者、なら、一目で人だとわかります。
もの、生き物だか物体だかわかりません。
a リズム、迫力あり。感情もこもっている。
b やさしいという形容詞が最初に来ているので、迫力に欠ける。
口語体が砕けすぎているので、懇願調で、品位が削がれる。
さてbの訳者は誰でしょうか。金子光晴です。
訳者によって、このように雰囲気が異なります。もし、わたしが金子光晴訳を最初に読んでいたら、いまほど、ランボーを敬愛したか否かはわかりません。出海渓也氏は大島博光氏と面識があったのだろうか。出海渓也氏は、一九五二年、詩誌「列島」を関根弘等と創刊しているので、大島博光氏と面識があったかもしれませんね。出海氏はランボーに心酔していたので、ランボーを訳した大島博光氏をも心酔していたのかもしれません。嶋岡晨氏が大島博光氏の翻訳家としての力量を高く評価していることは、大変に喜ばしいと思います。大島博光記念館のますますの発展を期待しています。

<『狼煙』80号>

*堀内みちこさんは現在個人詩誌「空想カフェ」を発行されており、詩、エッセイ、童話など精力的に活動されています。2015年11月発行の第20号には「ランボー その詩の中の色」という瑞々しいエッセイも見られます。詩人としての経歴もすでに長く、主な詩集に『花びらを噛む』(1966年思潮社)、『黄金の矢を射る』(1999年詩画工房)、『小鳥さえ止まりに来ない』(2006年思潮社)、『夜の魔術師』(2012年思潮社)などがあります。また詩誌「東国」の同人でもあられます。今回のような貴重なご寄稿をいただけましたのは、ひとえに堀内さんの気さくなお人柄によるものであることを言い添えておきたいと思います。(重田暁輝)

山


 大島博光氏は、ランボオに関しての考察を『ランボオ』(新日本出版社)という一冊にまとめている。これが素敵に面白い。翻訳はただ詩を訳せば良いというのではなく、当時の社会情勢、ランボーが詩作した当時のフランスは普仏戦争やらパリコミューンやらで揺れ動いている。そこをも丁寧に記述している。この姿勢がきちっとしている。ランボーを書くときに、若いままに亡くなっただけではなく、詩作したのが二十歳前後ということで、可愛い若者に対するかのようなランボー論もあるが、わたしは、ランボーの天才と言われる所以の詩作をきちんと、正確に捉えている大島博光氏のセンスが好きだ。
 ランボーの呼吸と大島博光氏の呼吸のリズムが共鳴するのだろう。大島氏もランボーを好きなのだろう。なにはともあれ、わたしがしっかりとランボーを読んだのは大島博光訳の『ランボオ詩集』であり、この訳書が、その時から始まるランボー詩への足がかりになったのは確かなことです。骨格のしっかりした訳は、詩の特色をつかみ、我らにランボー詩への石段を登る助けとなっている。
(つづく)
 
<『狼煙』80号>

新日本新書『ランボオ』目次

ランボオ
 大島博光氏とランボー詩
                         堀内みちこ

 今から十数年前、わたしが、詩誌「新現代詩」の同人だったとき、ランボー詩に関してエッセイを書くことになった。その雑誌の主催者、出海渓也氏は、もう亡くなられたが、わたしが同人だった頃はすこぶる元気で、色々と教えていただいた。出海氏の発行スタイルは、斬新さを会得し、それを表現することだった。常にテーマを掲げ、問題提起をする人だった。いわゆる詩人のタイプではないかもしれない。前衛を好んだ。だが、同人たちの作品を、親切丁寧に扱い、彼らが成長するのを楽しみにしていた、と思う。そういう雑誌だったので、何を言っても何を書いても良いという自由さがあった。
 さて、ランボー詩に関して書いたらどうかと、提案された。わたしは食わず嫌いで、そのときまで、ランボーの詩を全部読んでもいないのに、読んだ気分でいた。有名な名は、常に、目に触れる。ゆえに、読んだかのような錯覚ですごしていたのだ。それを出海氏に看破されていたのだろうか。「何読んだらいい?ランボー詩集の訳で」「大島博光がいい」ということで、わたしはネットで、大島博光訳ランボー詩集を探して、購入した。それが手元にある、『世界詩人叢書 5 ランボオ詩集 蒼樹社』である。
 ご縁なのだろう。ランボー詩の翻訳書は沢山ある。その中から、大島博光訳を購入したのは。まず出海氏の推薦がある。このときに縁が生まれたのだろう。昭和二三年十月十五日発行 160円 蒼樹社の1冊だ。この本は装丁が和本のようだ。紙箱に入っている。ページを繰ると、手触りが和紙のようだ。フランス詩を和装本におさめるという大胆さ。装丁は大島氏が指定したのだろうか。ああ、していないと思う。なぜなら、これは叢書でランボオ詩集は5番目のようだ。大島氏は何も言わなかったと思う。縦16cm 横14.5cmの、手に収まりやすい大きさだ。
 あろうことか、わたしはこの詩集の全ページ、199ページを手書きで模写した。後にも先にも、一冊の詩集を模写したのはこのときだけだ。なぜ模写したのだろうか。手にした古本の詩集はあまりにも古びている。もし、わたしが詩を書いていなくて、古書を買うことをしなければ、一冊まるまる模写しただろうか。今になれば、模写したことは、とても良いことをしたと思える。もちろんランボーの詩を模写したのだが、日本語とフランス語の詩には大きな違いがある。フランス語を模写したら、ランボー詩の真髄に近づけたかもしれない。しかし、大島氏の非常にうまい訳で、わたしは一冊を模写できたのだ。ここで、わたしは気づく。ランボーの息継ぎと同時に大島氏の息継ぎを模写していたのだと。ということは、大島氏の資質にはランボーなどのフランス詩に共通するセンスがあるのだろうと思う。全く異質で、共感できない詩人の詩を訳せるだろうか。それから模写したのには、もう一つ大きな理由がある。このランボオ詩集は印刷も薄めで儚げだ。消えるかもしれないと慌てたのだ。書店に行けば、ランボオ詩集の翻訳書は簡単に手に入るのに、なぜ、本屋に行かなかったのだろう。
 わたしは紙の本を愛する者だ。こうして大島博光訳の詩集を読める幸せをありがとう。
(つづく)

<『狼煙』80号>

ランボオ
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ランボオの「看護婦(みとりおんな)」(「慈善看護尼」)について西條八十が『アルチュール・ランボオ研究』で解説しています。西條八十はランボオの初期詩篇の恋愛詩には「異様なことに、清純な恋愛詩はまったくない。あまりにも、肉感的な作品ばかりである。」と述べて、「七歳の詩人たち」「音楽につれて」「最初の宵」「みどり亭にて」「いたずら好きな女」「ニナの返答」「小説」「冬を夢みて」「水から出るヴィーナス」「慈善看護尼」を取り上げます。

 一八七一年六月、すなわち「見者の書翰」の書かれた直後の作である「慈善看護尼」は、やはり女性を憎悪した作品であるが、描き方が一層鋭く、女性特有の醜悪さを持って現世の醜悪さの象徴としているのではないかと思われる。

若者、その眼は輝やき、肌は栗色、
やがて裸わになろうとするはたちの美しい肉体
額に銅の輪をはめ、月光のもとで、
ペルシャでは、未知の天才が うっとり見とれたでもあろう、
童貞の、ほの暗い優しさとともに
はげしく、最初の恍惚をほこらかに、
ダイヤモンドの床のうえをまろびころがる
夏の夜の露は若い海にも似て

若者は棲みにくいこの世を前に、
こころのなかで おののき、大きく苛立ち
永遠の深い傷にみちて、
看護婦(みとりおんな)を欲しはじめる。

しかし、おお、女よ、臓腑のかたまりよ、
 甘美な憐れみよ、
おまえは決して「看とり女」ではない、決して!
その黒い眼差しも、焦色の影の眠るその腹も、
その軽やかな手も、みごとに盛り上がった胸も、

 このランボオ自身であろうと思われる美しく純粋な青年は、ちょうど「盗まれた心臓」の中で触れたような幻滅感を現世に対し味わっている。彼は深く傷ついたこころに慰籍を与えてくれる《慈善看護尼》のような母性的な女性を求めるが、同時に彼女たちにそれだけの能力の無いことを批難する。

大きな瞳をもちながら 開くことなき盲者(めくら)よ、
おれたちの抱擁はすべてひとつの疑問にすぎぬ、
乳房をもちながら、
 おれたちによりかかるのは おまえだ、
愛すべき重い情熱よ、
 おれたちがおまえを慰め、なだめるのだ、

おまえの憎悪、おまえの凝りかたまった茫然自失、
 おまえの悶絶、
そして、かつて、苦しみ悩んだ むごたらしさ
おまえはおれたちにすべてをかえす、
 おお、しかし、悪意なき「夜」よ、
毎月おまえが迸ばし流す、あふれる血のように
一瞬、みごもった女を恐怖せしめる時、
「美神」と燃える「正義」とが来て
かれらの厳かな妄念から「恋」を引き裂く、
   若者を苦しめる、

 しかし、《女にも思想にも慈善看護尼がいないとはみじめなことだ》(一八七一年、四月十七日附ランボオよりドムニィへの書翰)。結局これは世の女たちが、今、男の弄み物に過ぎないことを自認してしまっているためである。
 だが、この青年はこの世の《慈善看護尼》を否定しながらも、現実を越えたところに孤独を癒してくれる彼女を求める。

かれは、胸えぐるような孤独が
 自分のうえをよぎるのを感ずる
そのとき、いつも美しく、死をも恐れず、
真理の夜をとおして、はてしない さまよいと夢を、
茫漠たる果てに信じたいのだ
若者はそうして、その魂のなかで、その病める手足で
 おまえを呼ぶ、
おお、神秘な死者、おお、慈愛の姉妹よ!
             看とり女

 この詩篇の結びで、ランボオはおのれの孤独を癒してくれるものは彼女──すなわち死以外に無いことを告白している。
 わたしはこの詩の死への請願を読む者は、自然に、先人ボオドレールを想起し、殊にその「貧しき者の死」などの作品を想起するに違いないと思う。……


(西條八十『アルチュール・ランボオ研究』中央公論社 1967年)
※詩は大島博光訳「看護婦(みとりおんな)」を援用

ランボオ研究




  看 護 婦みとりおんな 
      アルチュール・ランボオ 大島博光訳

若者、その眼は輝やき、肌は栗色、
やがて裸わになろうとするはたちの美しい肉体
額に銅の輪をはめ、月光のもとで、
ペルシャでは、未知の天才が
  うっとり見とれたでもあろう、
童貞の、ほの暗い優しさとともに
はげしく、最初の恍惚をほこらかに、
ダイヤモンドの床のうえをまろびころがる
夏の夜の露は若い海にも似て

若者は棲みにくいこの世を前に、
こころのなかで おののき、大きく苛立ち
永遠の深い傷にみちて、
看 護 婦みとりおんなを欲しはじめる。

しかし、おお、女よ、臓腑のかたまりよ、
 甘美な憐れみよ、
おまえは決して「看とり女」ではない、決して!
その黒い眼差しも、焦色の影の眠るその腹も、
その軽やかな手も、みごとに盛り上がった胸も、
大きな瞳をもちながら 開くことなき盲者めくらよ、
おれたちの抱擁はすべてひとつの疑問にすぎぬ、
乳房をもちながら、
 おれたちによりかかるのは おまえだ、
愛すべき重い情熱よ、
 おれたちがおまえを慰め、なだめるのだ、

おまえの憎悪、おまえの凝りかたまった茫然自失、
 おまえの悶絶、
そして、かつて、苦しみ悩んだ むごたらしさ
おまえはおれたちにすべてをかえす、
 おお、しかし、悪意なき「夜」よ、
毎月おまえが迸ばし流す、あふれる血のように
一瞬、みごもった女を恐怖せしめる時、
「美神」と燃える「正義」とが来て
かれらの厳かな妄念から「恋」を引き裂く、
   若者を苦しめる、

生の呼び声と行動の歌─「恋」が
ああ、絶えず、光彩と静寂
執念深い二人の『姉妹』から見捨てられ、
 やさしく泣きながら、
「恋」は その血のながれるその額を
 花咲く自然のなかえ運ぶ。

かれは、胸えぐるような孤独が
 自分のうえをよぎるのを感ずる
そのとき、いつも美しく、死をも恐れず、
真理の夜をとおして、はてしない さまよいと夢を、
茫漠たる果てに信じたいのだ
若者はそうして、その魂のなかで、その病める手足で
 おまえを呼ぶ、
おお、神秘な死者、おお、慈愛の姉妹よ!
             看とり女


      (ノート1948年)

裸婦像



母音

(『ランボオ詩集』)

噴水




一七九二年と


 七月十日に普仏(ふふつ)戦争が勃発し、十五日に宣戦が布告された。十六日に、政府の御用新聞「祖国」に、ポール・ド・カサニヤックは檄をとばし、「思い出したまえ!一七九二年に諸君は偉大であった」と書く。この新聞はその二日前に、ナポレオン帝制の未来のためには戦争が必要だと書いたばかりで、いまや独裁者の王座を守るために、厚顔にもフランス革命の先人たち、ヴァルミやフルーリュの死者たちまでも引合いに出したのである。憤慨したランボオは、さっそく「一七九二年と九三年の死者たち」を書き、自由のために倒れた英雄たちをほめたたえ、カサニヤックに辛辣な詩句を浴びせる。
(『ランボオ』──普仏戦争・最初の家出)

◇   ◇   ◇

 …フランス大革命史の影響は、

  自由のはげしいくちづけに蒼ざめ、眠る
  一七九二年と九三年の死者たちよ、
  君たちはその木靴で、ふみくだいたのだ、
  全人類の魂と額の上に、重くのしかかったくびきを

 という詩句ではじまる「十四行詩(ソンネ)」や、「鍛冶屋」のなかにあらわれており、これらの詩は、大革命の思い出と讃美とにささげられていると同時に、ランボオの革命的精神を音たかく鳴りひびかせているのである。
(『ランボオ詩集』解説「ランボオの詩についてのノート」)

[ランボオ「一七九二年と九三年の死者たち(十四行詩)」]の続きを読む



ぬすまれた心


 ランボオがじっさいに、コンミュン戦士としてコンミュンにくわわったか、どうかについては、いろいろの説がある。ドウラェのつたえるところによれば、ランボオはコンミュンにくわわるため、パリえ出かけてゆき、地方からの応募兵として革命軍え投じたという。まだ、まったくの少年ではあったが、その情熱的な態度で、コンミュン戦士たちの信用をえて、「革命そげき兵部隊」えいれられ、バビロンの革命軍兵舎えはいった。
 「盗まれた心」は、この革命軍兵舎での体験からうたわれたものだとも考えられる。(ランボオの詩についてのノート)
<『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年10月>



いたずら好きな女



「キッスなどにはびくともしない」給仕女*はまた「いたずら好きな女」のなかにも現われる。この詩でもランボオは「幸せにじっとして」いる。(新日本新書『ランボオ』)

*「居酒屋緑亭にて」で登場した眼のパッチリした娘。


薄ピンク




居酒屋緑亭にて



……この二度めの家出の終り頃、ランボオはドゥエにいた時、ベルギーで作った詩を書き写して、新しい友人デムニに送っている。「居酒屋緑亭で」「いたずら好きの女」「食堂(ビュッフェ)」そして有名な「わが放浪」など、いわゆる「街道の詩」で、テーマも共通でシャルルロワでつくられた。
 「居酒屋緑亭」のほんとうの名は「緑の家」であった。家も家具もすべてが緑色に塗られていた。ランボオはベルギーを横切っていたとき、そこに寄ったのだった。

 緑亭──この希望の色をした家は幸福と自由の象徴である。詩人はそこで「幸せな想い」に浸る……
(新日本新書『ランボオ』)


虱をとる女たち


 この詩には、ランボオのきわめて早熟な感覚・官能──少年のものとは思われぬような繊細微妙な官能表現が見られる。「黒い睫毛のしばたき」「美しい爪の下で虱を潰す音」など心にくいばかりである。第三節では、「蜜の匂い」の喚覚と、くちびるのうえの唾の音の聴覚の印象を暗示すると同時に、「おどおどした息」や「接吻したい思い」などの漠然とした微妙な感情をあらわすことに成功している。(新日本新書「ランボオ」)

バラ



谷間で眠る男



 この詩は、あざやかな生と死の対照のなかに、戦争の怖ろしさを描きだしたひとつの画面である。E・ヌレが言うように「生気にみちた植物と溢れる光のなかに、ひとりの人間の肉体がじっと横たわって身じろぎもしない。緑、青、黄の点描のあいだに、二つの赤い穴があざやかである」
 緑と青は自然の静けさ、草の溢れる生命を現わしている。そして血の赤さは、ここではたんに緑の生命をひきたてるばかりでなく、この詩の主題を浮きたたせている。
 「彼は寒いのだ」──兵士はもうまわりの溢れる生命にくみすることもできず、温かい太陽をたのしむこともできず、すでに死の冷たさが彼をとらえているのである。(新日本新書「ランボオ」)

山の花



戸だな



   (『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年10月)


いちょう



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牧神の頭


   
      (『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年10月発行)


くまんばち



夕べの祈り


  (『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

ワイン

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