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ランボオ Arthur Rimbaud

ここでは、「ランボオ Arthur Rimbaud」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




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(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

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鍛冶屋4


(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

こども







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(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

浜




鍛冶屋2


(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

ヨット



かじや


(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

うm

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(3)「愛の砂漠」について

 「ドゥラエの証言によれば、一八七一年の春、ランボオはボードレールの詩を読んで、散文詩を書く気になった。「彼は『愛の砂漠』と題するシリーズの始めの部分を書いた……」
 ランボオはその「はしがき」に書く。

 「この手記は、ひとりの若者、ごく若い男のものだ。彼はところかまわず生活をくりひろげてきた。母親もなく故国(くに)もなく、ひとの重んずることは気にもかけず、道徳の力から逃れて生きてきた……」

 この散文詩が自叙伝的な性格をもっていることは明らかである。「母親もなく」というような胸を刺すような表現は、またつぎのような章句にもみられる。

「女たちを愛さずに──血の気は多かったのだが!──彼は自分の魂や心を、自分の力を、奇妙な悲しいあやまちのなかで育てた……」

 この「はしがき」の示すように、ここでは愛の夢と愛の苦悩とが描かれる。
 エリュアールはその『愛の力について』というエッセイの中で、ランボオを引用しながらその愛や女性観について書いている。

 「まったく子供のランボオ、気むずかしくて、期待を裏切られたランボオは、子供っぽい愛を断念する、あきらめる。
《そのとき、女は姿を消した。おれは、かつて神も求めることのできなかったほどの涙を流した......
《おれは理解した、彼女には彼女の毎日の生活があったのだと。そしてあの優しさがまためぐってくるには、ひとつの星があらわれるよりも長くかかるだろうと。彼女は二度とはやって来なかった。そして永遠にもう来ないだろう。おれはまったく考えてもみなかったのに、──おれのところを訪ねてくれた「可愛いい女」よ! ほんとにこんどは、この世のどんな子供よりも激しく、おれはさめざめと泣いた》

 彼は「愛の砂漠」へ入ってゆく。彼は地獄へ落ちる。しかし……

《女の置かれている、際限のない奴隷状態がうち破られる時、女が自分のために自分によって生きるだろう時、男は──その時まで憎むべきものだった男は、彼女に返すべきものを返し、彼女もまた詩人になるだろう! 女も未知を見いだすだろう! 彼女の思想(イデー)の世界はわれわれのと違うだろうか。──彼女は、風変りなもの、はかり知れないもの、ぞっとするようなもの、甘美なものを見つけだすだろう。われわれはそれをうけとり、理解するだろう》

 彼はその後もっとも逞しい女を歌うことになる。彼から離れ、「男」から離れ、しかし、反抗において、戦闘において、人びとと団結した、逞しい女を。

  ジャンヌ・マリーは 逞しい手をもつ
  夏がなめした かぐろい手を
  死者の手のような 蒼ざめた手を……
            (ジャンヌ・マリーの手)」

(完)

(『流域』30号 1991年7月)

ランボオ


(2)愛の砂漠

 それは、たしか、おんなじ田舎だった。おれの両親のおんなじ田舎家。扉の上に、武器や獅子を描いた、焦茶色になった田園風景画がかかっている、おんなじ部屋だ。夕食には、客間(サロン)があって、蝋燭の灯と葡萄酒があり、田舎風な板張りがある。食卓はとても大きい。女中たち!女中はおれのおぼえているだけでも数人いた。──その田舎には、おれのむかしの若い友達がひとり、いまは牧師になって、牧師の服を着ていた。それはいっそう自由になるためだった。おれは思い出す、窓硝子に黄色い紙を貼った、緋色の彼の部屋を。そうして海の水に漬けて隠した彼の本を!
 おれは、このはてしもない田舎の家のなかに見捨てられていた。台所で本を読んだり、客間でおしゃべりをする客たちの前で服の泥を乾かしたり、前世紀風な朝晩のミルクの煮えたつ音に死ぬほど苛立ったりして。
 おれはひどく暗い部屋に住んでいた。おれは何をしていたのだろう? ひとりの女中がおれのそばへやってきた。彼女はまるで小犬のようだった、と言ってもいい。彼女は美しかったのに、母親のような言いようのない気高さをもち、清純で、評判がよく、可愛らしかった! 彼女はおれの腕をつねった。
 おれはもう彼女の顔かたちすらよく思い出せないが、彼女の腕は思い出せなくはない。その腕の肌を、おれは二本の指で撫でまわしたものだ。また彼女の口を、おれの口は絶望した小さな波のように捉えて、何かを限りもなく蝕んだ。おれは、部屋の暗い隅で、座布団(クッション)や帆布の籠のなかに、彼女を仰向けに倒した。だがもう、彼女の白いレースのついた下ズボンしか思い出せぬ。
 ──それから、おお悲しいことに、壁がぼんやりと木木の影になった。おれは夜の愛の悲しみの下に崩折れた。

 こんど、おれが都市(まち)で出会ったのは「女」だ。おれは彼女に話しかけた。すると彼女がおれに話しかける。
 おれは明りのない部屋にいた。彼女がおれのところにいると、ひとが来て知らせた。見ると、彼女はおれのベッドの中にいた。おれのもののように、明りもなく! おれはひどく、すっかり動転した。そこはふつうの家族の住んでいる家だったからだ。それにまた、おれはやり切れぬ悲しみにとらわれた!おれの服はぼろぼろだったし、彼女はだれにでも身をまかせる社交界の女で、いずれここから出て行かねばならなかったのだ! 言いようもない悲しみのあまり、おれは彼女をつかまえると、ほとんど裸かのままベッドのそとに放り出した。そしておれの言うに言われぬ弱さから、おれは彼女のうえにのしかかり、明りのない暗いじゅうたんの上を、彼女といっしょにころげまわった。家族の見廻るランプが、隣りの部屋を次から次へと赤く照らした。そのとき、女は姿を消した。おれは、かって神も求めることのできなかったほどの涙を流した。
 おれは果てしない町のなかに出た。おお、ひどい抜れ! 音もない夜のなかに、幸福の逃げうせたうつろさのなかに溺れて。冬の夜らしく、雪があたりをすっぽり包んでいた。おれは友だちに会うと、彼女はどこにいるんだ、と叫んだが、友だちはいい加減な返事をした。おれは彼女が毎晩そこから出てゆく硝子戸の前へも行った。隠れた公園のなかを駈けまわった。だれかがおれをこづいた。それらすべてにおれはひどく泣いた。ついにおれは埃りだらけの場所へ降りて行って、木組のうえに坐り、この夜といっしょに、おれのからだからすべての涙が流れつきるにまかせた。──するとやはり、例のおれの困惑がまたやってきた。
 おれは理解した、彼女には彼女の毎日の生活があったのだと。そしてあの優しさがまたやってくるには、ひとつの星があらわれるよりも長くかかるだろうと。彼女は二度とはやって来なかった。そして永遠にもう来ないだろう。おれはまったく考えてもみなかったのに、おれのところを訪ねてくれた「可愛いい女」よ! ほんとにこんどは、この世のどんな子供よりも激しく、おれはさめざめと泣いた。

*ここで語られている夢も失恋のそれである。「社交界の女」を前にして、「ぼろぼろの服」を着た若者の劣等意識がここに描かれている。ランボオはパリで自分の不器用さ、不作法で苦労した。この場面はパリのヴェルレーヌ夫人のモーテ邸に着いた時の、彼のむっつりとした無愛想で粗野な態度を思い出させる。
(解説<「愛の砂漠」について>につづく)

(『流域』30号 1991年7月)

裸婦

 愛の砂漠
                A・ランボオ 大島博光訳

(1) はしがき
 この手記は、ひとりの若者、ごく若い男のものだ。彼はところかまわず生活をくりひろげてきた。母親もなく故国(くに)もなく、ひとの重んずることには気にもかけず、道徳の力から逃れて生きてきた。すでにいくたりかの哀れな若者がそうだったように。だが彼は、ひどく苛立って心乱れていたので、怖るべき宿命的な羞恥心へ向かうように、死へ辿ってゆくほかなかった。女たちを愛さずに──血の気は多かったのだが!──彼は自分の魂や心を、自分の力を、奇妙な悲しいあやまちのなかで育てた。つぎのいくつかの夢──彼の恋物語!──はベッドの中や街なかで起きたのだが、この恋物語は、その成りゆきや終りからは、甘い宗教的な考慮からは自由なのである。恐らくひとは思い出すだろう、伝説的なマホメット教徒たち、──勇敢で割礼を受けた!──マホメット教徒たちの長く続く眠りを。しかし、この風変りな苦悩が気がかりな力をもつからには、おれたちみんなのなかで迷って錯乱し、死をねがうように見えるこの「魂」が、いまこの瞬間(とき)、真の慰めに出会うことを、それに価することを、ほんとうに希わねばならぬ!
(つづく)

(『流域』30号 1991年7月)

バラ




眠れぬ夜


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

キリスト




眠れぬ夜3



(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

夜



眠れぬ夜2


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

星の



眠れぬ夜


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

夜



 酔いどれの朝
                         アルチュール・ランボオ

 おお、おれの『善』よ、おれの『美』よ!ひどい楽隊のどんちゃん騒ぎだ、おお、おれはよろめくまい!夢幻劇につかうような拷問臺!前代未聞の作品のために、すばらしい肉體のために、初演のために、萬歳だ!それは子供たちの笑い聲につれてはじまったが、またその笑い聲で幕をとじるだろう。だが、この毒はおれたちのからだのなかに残っていよう。たとえ、樂隊がやんで、おれたちがもとのしらじらしい不協和音にもどるときにも。おお、今こそ、おれには、こんな拷問がぴったり似合うのだ!神につくられたというおれたちの肉體と魂に、與えられたこの超人的な約束を一生けんめい果してやろう、この約束、このご亂行!お上品、科學、強迫、くそくらえ!
 おれたちには、善と悪の本はもう闇に葬りさられたと、約束されたはずではないか。あの暴君の禮儀作法なんか追放だと、約束されたはずではないか。おれたちが世にも清らかな愛情をもつために。それは或るひとびとの嫌悪のため、いやいやながらはじめられ、そうして終ったのだ──おれたちがあの永遠をすぐにはとらえられずにいるうち──ただ匂いを嗅がされただけで、終ってしまったのだ。
 子供たちの笑い、奴隷の遠慮深さ、處女のきびしさ、こん夜の事物と模様のおそろしさ、おまえたちは今夜のこの徹夜の思い出によってきよめられよう。それはまったく田舎風にはじまり、いや、焰や氷の天使たちによって、幕をとじるのだ。
 可憐な徹夜の醉いどれだ、聖女よ!だがこれは、ただおまえさんが授けてくれた假面をかなぐり捨てるためなのさ。おれたちはおまえさんに断言する、これが手なのだと。おまえさんは、きのう、おれたち同じ年頃の者どもに祝福を垂れてくれたが、おれたちはそれを忘れるまい。おれたちはこの毒を信じているのだ。おれたちは毎日でも、おれたちの命ぐるみを、この毒にささげてやる。
 今こそ、『暗殺者*』たちの時刻だ。

 譯註
* フランス語の『暗殺者』assassinはhaschi schinsより轉じてできた言葉。haschi schinsとは中世のアジアでひじように恐れられたイスラムの異教の信者たちでかれらはhaschisch、すなわちインド麻からとった酒で酔わされ、その酔いの苦しさと興奮から、かれらは拷問や死を覚悟に、敵の首領たちを殺しにゆく役をひきうけたのであった。

(『ランボオ詩集』)

彫像


わだち



(『ランボオ詩集』)

公園