ランボオ Arthur Rimbaud

ここでは、「ランボオ Arthur Rimbaud」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




眠れぬ夜


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

キリスト




眠れぬ夜3



(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

夜



眠れぬ夜2


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

星の



眠れぬ夜


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

夜



 酔いどれの朝
                         アルチュール・ランボオ

 おお、おれの『善』よ、おれの『美』よ!ひどい楽隊のどんちゃん騒ぎだ、おお、おれはよろめくまい!夢幻劇につかうような拷問臺!前代未聞の作品のために、すばらしい肉體のために、初演のために、萬歳だ!それは子供たちの笑い聲につれてはじまったが、またその笑い聲で幕をとじるだろう。だが、この毒はおれたちのからだのなかに残っていよう。たとえ、樂隊がやんで、おれたちがもとのしらじらしい不協和音にもどるときにも。おお、今こそ、おれには、こんな拷問がぴったり似合うのだ!神につくられたというおれたちの肉體と魂に、與えられたこの超人的な約束を一生けんめい果してやろう、この約束、このご亂行!お上品、科學、強迫、くそくらえ!
 おれたちには、善と悪の本はもう闇に葬りさられたと、約束されたはずではないか。あの暴君の禮儀作法なんか追放だと、約束されたはずではないか。おれたちが世にも清らかな愛情をもつために。それは或るひとびとの嫌悪のため、いやいやながらはじめられ、そうして終ったのだ──おれたちがあの永遠をすぐにはとらえられずにいるうち──ただ匂いを嗅がされただけで、終ってしまったのだ。
 子供たちの笑い、奴隷の遠慮深さ、處女のきびしさ、こん夜の事物と模様のおそろしさ、おまえたちは今夜のこの徹夜の思い出によってきよめられよう。それはまったく田舎風にはじまり、いや、焰や氷の天使たちによって、幕をとじるのだ。
 可憐な徹夜の醉いどれだ、聖女よ!だがこれは、ただおまえさんが授けてくれた假面をかなぐり捨てるためなのさ。おれたちはおまえさんに断言する、これが手なのだと。おまえさんは、きのう、おれたち同じ年頃の者どもに祝福を垂れてくれたが、おれたちはそれを忘れるまい。おれたちはこの毒を信じているのだ。おれたちは毎日でも、おれたちの命ぐるみを、この毒にささげてやる。
 今こそ、『暗殺者*』たちの時刻だ。

 譯註
* フランス語の『暗殺者』assassinはhaschi schinsより轉じてできた言葉。haschi schinsとは中世のアジアでひじように恐れられたイスラムの異教の信者たちでかれらはhaschisch、すなわちインド麻からとった酒で酔わされ、その酔いの苦しさと興奮から、かれらは拷問や死を覚悟に、敵の首領たちを殺しにゆく役をひきうけたのであった。

(『ランボオ詩集』)

彫像


わだち



(『ランボオ詩集』)

公園






四行詩


(『ランボオ詩集』蒼樹社昭和23年)

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からす



(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)


からす

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 ここで、大島博光訳と他者の訳を取り上げてみましょう。わたしのお気に入りの「谷間に眠る者」の中のフレーズ。三連目のラストの一行。大島訳「谷間に眠る者」
a「自然よ、彼を温かく揺すれ、彼は寒いのだ!」
他者の訳「谷間に眠るもの」
b「やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。」
     *
まずタイトルの訳が異なります。
「者」と「もの」
者、なら、一目で人だとわかります。
もの、生き物だか物体だかわかりません。
a リズム、迫力あり。感情もこもっている。
b やさしいという形容詞が最初に来ているので、迫力に欠ける。
口語体が砕けすぎているので、懇願調で、品位が削がれる。
さてbの訳者は誰でしょうか。金子光晴です。
訳者によって、このように雰囲気が異なります。もし、わたしが金子光晴訳を最初に読んでいたら、いまほど、ランボーを敬愛したか否かはわかりません。出海渓也氏は大島博光氏と面識があったのだろうか。出海渓也氏は、一九五二年、詩誌「列島」を関根弘等と創刊しているので、大島博光氏と面識があったかもしれませんね。出海氏はランボーに心酔していたので、ランボーを訳した大島博光氏をも心酔していたのかもしれません。嶋岡晨氏が大島博光氏の翻訳家としての力量を高く評価していることは、大変に喜ばしいと思います。大島博光記念館のますますの発展を期待しています。

<『狼煙』80号>

*堀内みちこさんは現在個人詩誌「空想カフェ」を発行されており、詩、エッセイ、童話など精力的に活動されています。2015年11月発行の第20号には「ランボー その詩の中の色」という瑞々しいエッセイも見られます。詩人としての経歴もすでに長く、主な詩集に『花びらを噛む』(1966年思潮社)、『黄金の矢を射る』(1999年詩画工房)、『小鳥さえ止まりに来ない』(2006年思潮社)、『夜の魔術師』(2012年思潮社)などがあります。また詩誌「東国」の同人でもあられます。今回のような貴重なご寄稿をいただけましたのは、ひとえに堀内さんの気さくなお人柄によるものであることを言い添えておきたいと思います。(重田暁輝)

山


 大島博光氏は、ランボオに関しての考察を『ランボオ』(新日本出版社)という一冊にまとめている。これが素敵に面白い。翻訳はただ詩を訳せば良いというのではなく、当時の社会情勢、ランボーが詩作した当時のフランスは普仏戦争やらパリコミューンやらで揺れ動いている。そこをも丁寧に記述している。この姿勢がきちっとしている。ランボーを書くときに、若いままに亡くなっただけではなく、詩作したのが二十歳前後ということで、可愛い若者に対するかのようなランボー論もあるが、わたしは、ランボーの天才と言われる所以の詩作をきちんと、正確に捉えている大島博光氏のセンスが好きだ。
 ランボーの呼吸と大島博光氏の呼吸のリズムが共鳴するのだろう。大島氏もランボーを好きなのだろう。なにはともあれ、わたしがしっかりとランボーを読んだのは大島博光訳の『ランボオ詩集』であり、この訳書が、その時から始まるランボー詩への足がかりになったのは確かなことです。骨格のしっかりした訳は、詩の特色をつかみ、我らにランボー詩への石段を登る助けとなっている。
(つづく)
 
<『狼煙』80号>

新日本新書『ランボオ』目次

ランボオ
 大島博光氏とランボー詩
                         堀内みちこ

 今から十数年前、わたしが、詩誌「新現代詩」の同人だったとき、ランボー詩に関してエッセイを書くことになった。その雑誌の主催者、出海渓也氏は、もう亡くなられたが、わたしが同人だった頃はすこぶる元気で、色々と教えていただいた。出海氏の発行スタイルは、斬新さを会得し、それを表現することだった。常にテーマを掲げ、問題提起をする人だった。いわゆる詩人のタイプではないかもしれない。前衛を好んだ。だが、同人たちの作品を、親切丁寧に扱い、彼らが成長するのを楽しみにしていた、と思う。そういう雑誌だったので、何を言っても何を書いても良いという自由さがあった。
 さて、ランボー詩に関して書いたらどうかと、提案された。わたしは食わず嫌いで、そのときまで、ランボーの詩を全部読んでもいないのに、読んだ気分でいた。有名な名は、常に、目に触れる。ゆえに、読んだかのような錯覚ですごしていたのだ。それを出海氏に看破されていたのだろうか。「何読んだらいい?ランボー詩集の訳で」「大島博光がいい」ということで、わたしはネットで、大島博光訳ランボー詩集を探して、購入した。それが手元にある、『世界詩人叢書 5 ランボオ詩集 蒼樹社』である。
 ご縁なのだろう。ランボー詩の翻訳書は沢山ある。その中から、大島博光訳を購入したのは。まず出海氏の推薦がある。このときに縁が生まれたのだろう。昭和二三年十月十五日発行 160円 蒼樹社の1冊だ。この本は装丁が和本のようだ。紙箱に入っている。ページを繰ると、手触りが和紙のようだ。フランス詩を和装本におさめるという大胆さ。装丁は大島氏が指定したのだろうか。ああ、していないと思う。なぜなら、これは叢書でランボオ詩集は5番目のようだ。大島氏は何も言わなかったと思う。縦16cm 横14.5cmの、手に収まりやすい大きさだ。
 あろうことか、わたしはこの詩集の全ページ、199ページを手書きで模写した。後にも先にも、一冊の詩集を模写したのはこのときだけだ。なぜ模写したのだろうか。手にした古本の詩集はあまりにも古びている。もし、わたしが詩を書いていなくて、古書を買うことをしなければ、一冊まるまる模写しただろうか。今になれば、模写したことは、とても良いことをしたと思える。もちろんランボーの詩を模写したのだが、日本語とフランス語の詩には大きな違いがある。フランス語を模写したら、ランボー詩の真髄に近づけたかもしれない。しかし、大島氏の非常にうまい訳で、わたしは一冊を模写できたのだ。ここで、わたしは気づく。ランボーの息継ぎと同時に大島氏の息継ぎを模写していたのだと。ということは、大島氏の資質にはランボーなどのフランス詩に共通するセンスがあるのだろうと思う。全く異質で、共感できない詩人の詩を訳せるだろうか。それから模写したのには、もう一つ大きな理由がある。このランボオ詩集は印刷も薄めで儚げだ。消えるかもしれないと慌てたのだ。書店に行けば、ランボオ詩集の翻訳書は簡単に手に入るのに、なぜ、本屋に行かなかったのだろう。
 わたしは紙の本を愛する者だ。こうして大島博光訳の詩集を読める幸せをありがとう。
(つづく)

<『狼煙』80号>

ランボオ
[大島博光氏とランボー詩(上)]の続きを読む
ランボオの「看護婦(みとりおんな)」(「慈善看護尼」)について西條八十が『アルチュール・ランボオ研究』で解説しています。西條八十はランボオの初期詩篇の恋愛詩には「異様なことに、清純な恋愛詩はまったくない。あまりにも、肉感的な作品ばかりである。」と述べて、「七歳の詩人たち」「音楽につれて」「最初の宵」「みどり亭にて」「いたずら好きな女」「ニナの返答」「小説」「冬を夢みて」「水から出るヴィーナス」「慈善看護尼」を取り上げます。

 一八七一年六月、すなわち「見者の書翰」の書かれた直後の作である「慈善看護尼」は、やはり女性を憎悪した作品であるが、描き方が一層鋭く、女性特有の醜悪さを持って現世の醜悪さの象徴としているのではないかと思われる。

若者、その眼は輝やき、肌は栗色、
やがて裸わになろうとするはたちの美しい肉体
額に銅の輪をはめ、月光のもとで、
ペルシャでは、未知の天才が うっとり見とれたでもあろう、
童貞の、ほの暗い優しさとともに
はげしく、最初の恍惚をほこらかに、
ダイヤモンドの床のうえをまろびころがる
夏の夜の露は若い海にも似て

若者は棲みにくいこの世を前に、
こころのなかで おののき、大きく苛立ち
永遠の深い傷にみちて、
看護婦(みとりおんな)を欲しはじめる。

しかし、おお、女よ、臓腑のかたまりよ、
 甘美な憐れみよ、
おまえは決して「看とり女」ではない、決して!
その黒い眼差しも、焦色の影の眠るその腹も、
その軽やかな手も、みごとに盛り上がった胸も、

 このランボオ自身であろうと思われる美しく純粋な青年は、ちょうど「盗まれた心臓」の中で触れたような幻滅感を現世に対し味わっている。彼は深く傷ついたこころに慰籍を与えてくれる《慈善看護尼》のような母性的な女性を求めるが、同時に彼女たちにそれだけの能力の無いことを批難する。

大きな瞳をもちながら 開くことなき盲者(めくら)よ、
おれたちの抱擁はすべてひとつの疑問にすぎぬ、
乳房をもちながら、
 おれたちによりかかるのは おまえだ、
愛すべき重い情熱よ、
 おれたちがおまえを慰め、なだめるのだ、

おまえの憎悪、おまえの凝りかたまった茫然自失、
 おまえの悶絶、
そして、かつて、苦しみ悩んだ むごたらしさ
おまえはおれたちにすべてをかえす、
 おお、しかし、悪意なき「夜」よ、
毎月おまえが迸ばし流す、あふれる血のように
一瞬、みごもった女を恐怖せしめる時、
「美神」と燃える「正義」とが来て
かれらの厳かな妄念から「恋」を引き裂く、
   若者を苦しめる、

 しかし、《女にも思想にも慈善看護尼がいないとはみじめなことだ》(一八七一年、四月十七日附ランボオよりドムニィへの書翰)。結局これは世の女たちが、今、男の弄み物に過ぎないことを自認してしまっているためである。
 だが、この青年はこの世の《慈善看護尼》を否定しながらも、現実を越えたところに孤独を癒してくれる彼女を求める。

かれは、胸えぐるような孤独が
 自分のうえをよぎるのを感ずる
そのとき、いつも美しく、死をも恐れず、
真理の夜をとおして、はてしない さまよいと夢を、
茫漠たる果てに信じたいのだ
若者はそうして、その魂のなかで、その病める手足で
 おまえを呼ぶ、
おお、神秘な死者、おお、慈愛の姉妹よ!
             看とり女

 この詩篇の結びで、ランボオはおのれの孤独を癒してくれるものは彼女──すなわち死以外に無いことを告白している。
 わたしはこの詩の死への請願を読む者は、自然に、先人ボオドレールを想起し、殊にその「貧しき者の死」などの作品を想起するに違いないと思う。……


(西條八十『アルチュール・ランボオ研究』中央公論社 1967年)
※詩は大島博光訳「看護婦(みとりおんな)」を援用

ランボオ研究




  看 護 婦みとりおんな 
      アルチュール・ランボオ 大島博光訳

若者、その眼は輝やき、肌は栗色、
やがて裸わになろうとするはたちの美しい肉体
額に銅の輪をはめ、月光のもとで、
ペルシャでは、未知の天才が
  うっとり見とれたでもあろう、
童貞の、ほの暗い優しさとともに
はげしく、最初の恍惚をほこらかに、
ダイヤモンドの床のうえをまろびころがる
夏の夜の露は若い海にも似て

若者は棲みにくいこの世を前に、
こころのなかで おののき、大きく苛立ち
永遠の深い傷にみちて、
看 護 婦みとりおんなを欲しはじめる。

しかし、おお、女よ、臓腑のかたまりよ、
 甘美な憐れみよ、
おまえは決して「看とり女」ではない、決して!
その黒い眼差しも、焦色の影の眠るその腹も、
その軽やかな手も、みごとに盛り上がった胸も、
大きな瞳をもちながら 開くことなき盲者めくらよ、
おれたちの抱擁はすべてひとつの疑問にすぎぬ、
乳房をもちながら、
 おれたちによりかかるのは おまえだ、
愛すべき重い情熱よ、
 おれたちがおまえを慰め、なだめるのだ、

おまえの憎悪、おまえの凝りかたまった茫然自失、
 おまえの悶絶、
そして、かつて、苦しみ悩んだ むごたらしさ
おまえはおれたちにすべてをかえす、
 おお、しかし、悪意なき「夜」よ、
毎月おまえが迸ばし流す、あふれる血のように
一瞬、みごもった女を恐怖せしめる時、
「美神」と燃える「正義」とが来て
かれらの厳かな妄念から「恋」を引き裂く、
   若者を苦しめる、

生の呼び声と行動の歌─「恋」が
ああ、絶えず、光彩と静寂
執念深い二人の『姉妹』から見捨てられ、
 やさしく泣きながら、
「恋」は その血のながれるその額を
 花咲く自然のなかえ運ぶ。

かれは、胸えぐるような孤独が
 自分のうえをよぎるのを感ずる
そのとき、いつも美しく、死をも恐れず、
真理の夜をとおして、はてしない さまよいと夢を、
茫漠たる果てに信じたいのだ
若者はそうして、その魂のなかで、その病める手足で
 おまえを呼ぶ、
おお、神秘な死者、おお、慈愛の姉妹よ!
             看とり女


      (ノート1948年)

裸婦像



母音

(『ランボオ詩集』)

噴水




一七九二年と


 七月十日に普仏(ふふつ)戦争が勃発し、十五日に宣戦が布告された。十六日に、政府の御用新聞「祖国」に、ポール・ド・カサニヤックは檄をとばし、「思い出したまえ!一七九二年に諸君は偉大であった」と書く。この新聞はその二日前に、ナポレオン帝制の未来のためには戦争が必要だと書いたばかりで、いまや独裁者の王座を守るために、厚顔にもフランス革命の先人たち、ヴァルミやフルーリュの死者たちまでも引合いに出したのである。憤慨したランボオは、さっそく「一七九二年と九三年の死者たち」を書き、自由のために倒れた英雄たちをほめたたえ、カサニヤックに辛辣な詩句を浴びせる。
(『ランボオ』──普仏戦争・最初の家出)

◇   ◇   ◇

 …フランス大革命史の影響は、

  自由のはげしいくちづけに蒼ざめ、眠る
  一七九二年と九三年の死者たちよ、
  君たちはその木靴で、ふみくだいたのだ、
  全人類の魂と額の上に、重くのしかかったくびきを

 という詩句ではじまる「十四行詩(ソンネ)」や、「鍛冶屋」のなかにあらわれており、これらの詩は、大革命の思い出と讃美とにささげられていると同時に、ランボオの革命的精神を音たかく鳴りひびかせているのである。
(『ランボオ詩集』解説「ランボオの詩についてのノート」)

[ランボオ「一七九二年と九三年の死者たち(十四行詩)」]の続きを読む