ランボオ「イルミナシオン」

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ブラッセル 七月、ブールバール・ドゥ・レジャン。
                     アルチュール・ランボオ
            
ジュピターの心地よい宮殿まで
見渡すかぎり 鶏頭の花壇。
おれは知っている──『おまえ』はこの
 常春藤(きずた)のなかに、

そうして、薔薇と 樅(もみ)と、葛が、かれらの遊びをとりまいている、
 若い未亡人の壁
        何という鳥の群、オ、 イアイオ、 イアイオ!

静かな家、古代の情熱!
恋に狂った『狂女』のキオスク、四阿家(あずまや)、
薔薇の木の円い植込みのうしろは
ジュリエットのひどく低く、暗いバルコン、

ジュリエットはまた アンリエットと呼ぶ、
愛すべき停車場。
山の中腹にある、
 千の青い悪魔が空中で踊つている
果樹園の奥のように

緑のベンチでは、 白いアイルランドの女が
夕立の楽園で、 ギターにあわせて歌っている。

それから 南米ジアナ風な食堂では
籠の鳥と子どもたちのおしゃべり。


馬車の窓は、 おれに考えさせる
かたつむりと 黄楊(つげ)の毒を、
日なたで眠っている、

それはあまりに美しすぎる、 あまりに
     おれたちの沈默を守ろう。

       ★
──人騒ぎも商いもない並木路(ブールバール)

声もなく、 劇と喜劇、
限りもない場面の組み合わせ
おれはおまえを知り
    声なく、 黙って、おまえに見惚れる。

(ノート下書き S18)

ランボオ

あれはエジプトの舞姫か
                    アルチュール・ランボオ

あれはエジプトの舞姫か?……ほの青い明け方、
花の散るように、 消えてなくなる……

輝やかしいひろがりをまえに、
賑やかに、ぼう大に、 花やぐ都市の息吹き

美しい、 美しすぎる、 しかも必然だ、
──『女漁師』と 海賊の歌には、

そしてまた、 最後のマスクは また、
清らかな海上の、 夜の祭りを信じていたから

(ノート下書き S18)


ランボオ


出発



<『流域』26号「ランボオ断片」、イリュミナシオン

渇きの喜劇


渇きの喜劇


(『ランボオ詩集』蒼樹社 昭和23年)

神秘



(『ランボオ詩集』─イルミナシオン)

夜明け


(『ランボオ詩集』─イリュミナシオン)

 この詩は『イリュミナシオン』のなかでももっとも美しい作品のひとつとして知られている。
 自然への愛は、ランボオにおいては、情熱的で、きわめて官能的な様相をおびる。初期の「感覚」という詩で、彼は早くもこう書いている。

  そしておれは行こう 遠く 遠く 放浪者のように
 「大自然」のなかを 女といっしょのように幸福に

 この散文詩でも、詩人は夜明けを「ブロンドの髪をふりみだしたような光の滝」と擬人化し、女神として見るにいたる。彼は女神のヴェールをはぎとるが、彼女は逃げてしまう。けっきょく、「拾い集めたヴェールで」彼女を包んでやって、ようやく彼女を抱くことができる……女神が鐘楼や円屋根(ドーム)のあいだを逃げまわるというイメージは、その後のシュルレアリストたちの想像を先取りしているようである。ここで詩人はギリシャ神話の「あけぼの」の女神エオスを恋人に仕立てているように見える。
 「夏の夜明け」は、ランボオがいつも愛していた「えも言えぬひととき」である。ドゥラエに宛てた一八七二年六月の手紙にも彼は書いている。「ぼくは、朝まだきの、このえも言えぬひとときに浸った樹や空をよく見ることにしている。」──この「夜明け」もその頃に発想されたものかも知れない。
<『流域』26号 ランボオ断片(四)1989.4>

ランボオ「イルミナシオン」目次   大島博光訳

イルミナシオン─ 1 新しい詩と歌

1 めまい
2 沈默
3 
4 『黒すぐり』河
5 朝のよき思想
6 ミッシェルとクリスチイナ
7 「渇き」の喜劇
8 汚辱
9 思い出
10 若夫婦
11 忍耐
12  永遠
13 いちばん高い塔の歌
14 ブラッセル
15 あれは埃及(エジプト)の舞姫か
16 幸福
17 黄金時代
18 飢えの祭り
19 海
20 運動

イルミナシオン─ 2 散文詩
1 大洪水の後
2 舞台
3 野蛮人
4 天才
5 神秘
6 わだち
7 花々
8 古代
9 或る理性に
10 苦悶
11 酔いどれの朝
12  夜明け
13 (凡俗な夜曲)
14 眠れぬ夜
15 少年時代
16 都市 1
17 妖精
18 美しいひと
19 都市 2
20 メトロポリタン
21 岬
22 歴史的な夕ぐれ
23 道化
24 小話
25 王位
26 労働者
27 水晶のような灰色の空
28 都市
29 出発
30 青春
31 生活
32 デモクラシイ
33 放浪者
34 ボトム
35 献身
36 見切品


(自筆原稿)

黒すぐり川

 *てくてく歩く男──ランボオは自分のことを自ら「てくてく歩く男」pietonと呼んでいた。
 **この最後の二行は、一八七三年五月、ランボオがドゥラエに書いた手紙によって解明されよう。「これらの百姓たちといったら、なんといやらしく、愚直な怪物だろう。夕ぐれ、一杯飲むためには二里以上も行かねばならない。」

 「黒すぐり川」は、アルデンヌのモンテルメからブイヨンのあいだの谷間を流れるスモワ川をうたったものである。スモワ川は、シャルルヴィルの北方でムーズ川に合流する。ドゥラエによれば、スモワ川の水は「澄んでいて、深い淵では黒く見え、夕ぐれには菫色がかった(黒すぐり)の色に見えた」という。ランボオはよくこの谷間を歩きまわった。ブイヨンにはゴドフロワ公の城があって、中世の物見の塔がそびえていた。
 ランボオの詩は、そのイメージを獲得してきた中心として、シャルルヴィル、ロッシュ、ベルギーの一部分などのまわりを、ぐるぐるまわっているように見える。
(『流域』23号 1988年)

 このような幻覚を得るために、ランボオは酒やアヘンのたぐいまでも用いていたらしい。かれは、それらのしげき剤による酔いのさなかにおける幻覚をえがいているばかりでなく、なにか、酩酊のモラルとでもいうべきものまでも歌っている。『イルミナシオン』のなかの『酔いどれの朝』、『眠れぬ夜』などの散文詩には、そのような酩酊による幻覚と、精神状態(エタ・デスプリ)とが、二重写しのように美しくかさなりあって、そこから詩人の傷ついたたましいの影像、苦悩とたたかいに色どられた影像が、うかびあがってくる。『眠れぬ夜』では、酩酊のさなかの影像がつぎのように描かれている。

 「ともしびの明りが、家の木組を照らしている。なにか、がらくたを飾りつけた部屋の両はじは、よく調和しながら高まって、つながっている。眠れぬ男が面とむかっている壁のうえには、コップの影や、青い壁掛けや、ふんいきをかもしだすおびのような壁布や、かべのうえを走っている地図のようなひびわれが、まるで心理模様のように、つぎからつぎえと現われる。目にうつるすべてのものが、いろいろなかたちをしてあらわれ、生きものの群れのように、目まぐるしい強烈な夢となる。・・・
 ・・・中ほどまでは、うす緑のレースで編んである壁掛け。その緑のなかから、眠れぬ夜のきじ鳩のむれが飛びたつ・・・」

 しかし、この酩酊者は──「眠れぬ男」は、酩酊そのものにも酔えず、酩酊によるこの美しい幻覚にも酔えず、どこか醒めている。この美しい影像をよびだしたそのあとで、かれはまたつぎのように書かないではいられぬ。

 「おまえはまだ聖アントワーヌの誘惑にかかっているのだ。・・・
 ・・・おまえがこの世から出ていってしまったら、この世はどうなるだろう?どのみち、いま目のまえにあるこんな眺めも、なにひとつ残るまい。」

 詩人はいまや、じぶんのよびだした影像を惜しみながら、「この世から出てゆく」という絶望をも洩らさないではいられない。
 さらに『酔いどれの朝』においては、酩酊はいつか詩人のモラルそのもののよそおいとさえなっている。酔いどれ──この毒を飲むことが、「おお、おれの善よ、おれの美よ」とよばれ、ふるいキリスト教社会における「善と悪の木」にたいするイロニイとなっている。

 「・・・ひどい楽隊のどんちゃん騒ぎだ、おお、おれはよろめくまい。夢幻劇につかうような拷問台!・・・今こそおれたちには、こんな拷問がぴったり似あうのだ。神につくられたという、おれたちの肉体とたましいに与えられたこの超人的な約束を、いっしょうけんめい果してやろう。・・・お上品、知恵、強迫、くそくらえ。善と悪の木はもうやみに葬りさられたと、おれたちには約束されたはずではないか。・・・
 かれんなてつ夜の酔いどれだ。聖女よ、だがこれはただ、おまえさんが授けてくれた仮面をかなぐり捨てるためなのだ。・・・おまえさんはきのう、おれたち同じ年頃の者どもに祝福を垂れてくれたが、おれたちはそれを忘れるまい。おれたちはこの毒を信じているのだ。おれたちは毎日でもこの毒に、おれたちの命ぐるみをささげるのだ。

 今こそ『暗殺者』たちの時刻だ。」

 ここでは、酔いどれることがキリスト教にたいする反抗として対置され、みごとな価値顚倒のモーメントとされている。そうしてここでは、酩酊による幻覚のかわりに、反抗の精神がめざめ、それがみごとな象徴のことばを見いだしている。「毒」にたいするイロニイにみちた信頼が『暗殺者(アッササン)』という酒にゆかりのある言葉をよびだしている。フランス語の暗殺者 assassin ということばは、haschischins より転じてきたことばで、haschischinsとは、中世にひじょうに恐れられたイスラムの異教徒たちで、かれらは haschisch 、すなわちインド麻からとった強い酒に酔わされ、その酔いの苦しさと高奮にまぎれて、敵の首領たちを暗殺しにゆく役目をひきうけたのである。「今こそ『暗殺者』たちの時刻だ」という一行は、そのような暗殺者たちの酔いの状態をいいあらわしてると同時に、詩人じしんの反抗的な精神の状態を、みごとに象徴しつくしているのである。
 この暗殺者ということばは、もう一度、『やばんじん』という詩のなかに、おなじような意味あいをもって、あらわれてくる。

 「・・・また、英雄主義をかきたてる、古くさい軍楽隊ががなりだし──またしても、おれたちの心臓やあたまを攻めたてる──もうむかしの暗殺者たちよりは遠くへだたってきたのに。」
 さらに、『地獄の季節』のなかの『地獄の夜』においては、この毒はいっそう象徴的に高められ、そこには、はげしい絶望と苦悶のひびきがまとわりついている。酩酊の感覚的なものが、精神的なものに置きかえられ、高められている。

 「おれはのどいっぱい、ぐっと毒をあふった。──今までおれのうけた忠告には、せいぜいお礼をのべよう。──ああ、はらわたが焼けつくようだ。毒のはげしさに、手足はよじれ、形相はかわり、おれは地上をのたうちまわる。のどがかわいて死にそうだ。息がつまる。わめこうにも声さえ出ぬ。地獄だ、永遠の責苦だ。見ろ、この火の燃えあがりよう!おれは思いきりよく燃えている。・・・」

 このような「毒」の地獄的なモチーフから、詩人の精神の地獄がくりひろげられてゆく。またしてもキリスト教との対決、革命的野望の思い出、世界救済者の夢想、これらのいつものランボオ的なテーマが、そこにちりばめられ、くりひろげられて、この地獄のソナタを構成するのである。「毒」はもはや、酩酊をつくりだすというよりは、地獄の影像をよびだし、地獄の伴奏となり、あるいは「地獄の火」をいっそうかきたてるよすがとなっている。
 アルコールもアヘンも、詩人のたましいの渇きをいやし、眠らせるどころか、いよいよ詩人のたましいの傷ぐちをひらかせ、うずかせ、地獄をふかめるばかりである。
 こうして、『イルミナシオン』において、言葉の錬金術は色うつくしい多くの影像をつくりだしたが、そこで弱められ、うしろえ引きもどされていたランボオの反抗と怒りは、ふたたび『地獄の季節』のなかに、ばくはつ的に立ちあらわれてくる。しかしそれは、そのあとにつずくランボオのふかい沈黙のまえの、ブルジョア社会にたいするにがにがしい別れの、詩人の最後の声として。──

<発表原稿 詳細不明>

ランボオの『イルミナシオン』(つづき)
 
 「右手には、もう夏の夜明けが、公園のかたすみに、木の葉や、もやや、ざわめきなどを呼びさまし、左手の斜面には、まだただようすみれ色の影のなかを、車のわだちがいく本も、ななめに、しめった道のうえを走っている。おとぎの行列が通った跡だ。ほんとうだ、金ぬりの木の動物たちを積みこみ、色とりどりの旗ざおや幕をめぐらした車が、いく台も、ギャロップで駈ける曲馬団の二十頭ものまだら馬にひかれ、子供や大人どもが、世にもめずらしいけものにまたがり──いく台もの荷車が、なわでつながれ、旗をおし立て、むかしの四輪馬車や、『物語り』の馬車のように、色はなやかに飾りたてられ、田舎芝居にでる子供たちが、けばけばしく飾りつけられて、あふれるように乗っている。──それにつずいて、棺(ひつぎ)がいくつも、夜の天がいのしたから、まっ黒な羽根かざりをおしたて、大きな青や黒の牝馬たちのだく足につれて、ゆらゆらくりだしてゆく。」

 詩人は、さわやかな夏の夜明けの感じからえがきはじめながら、たちまち、いつか見た曲馬団の行列をおもいうかべ、そのまぼろしをよびだし、えがきだしている。その異様な影像そのものに酔いはてているようにさえ見える。詩人はここでも、現実から幻想のなかえと身をうつし、一枚の色ぬり画をえがくことで満足し、むしろその奇妙な影像をほこっているように思われる。
 『神秘』とだいする散文詩もまた、まぼろしと夢にみちている。

 「なだらかな斜面の坂のうえ、天使たちは毛のきものをひるがえす、牧草がはがね色にまたうす青いろに、光りかがやくそのなかで。
 燃える牧場は、まるい丘のうえまで、燃えあがり、はねあがってくる。左の方、高台の台地は、入りみだれた人殺しどもや、戦いでふみ荒らされ、不吉な叫びごえや、ざわめきが、曲線をえがいて流れてくる。右手の高台のうしろには東方えの道がのび、進歩がある。

 さて、この場面のうえの方、おびのようにほそながい空地で、夜のなかを駈けめぐる人間たちのどよめきや、ほら貝の音が、いりみだれ、はねかえる、そのあいだ、
 一方、またたく星の群れや、空や、その他もろもろの、花のような甘いやさしさが、斜面のうええ、花かごのように降りてくる、おれたちの目のまえに。そうして下のほうの深淵を、香ぐわしく花のように匂わせ、青く青くそめるのだ。」

 月の夜、斜面の草のうえに横たわった詩人は、風景と幻想と、まぼろしの音とを、思うままに組みあわせている。まぼろしに聞く「不吉な叫びごえや、ざわめき」の音にたいして、「星の群れや、空の、花のような甘いやさしさ」が対照させられ、ぜんたいは、色彩、音、匂い、触感などの協奏曲をかなでている。
 これらの作品には、ボオドレエルの「万物照応(コレスポンダンス)」の教義の影響や、エルベシウスの感覚的唯物論のえいきょうがはっきりあらわれている。しかし、それらにもまして、はっきりよみとることのできるのは、ほとんど意識的な幻想や幻覚の歌いだしであり、呼びだしであり、それらえの没入である。かってのはげしい社会的関心や、容赦なきリアリズムは、まったく影をひそめ、詩人はひたすらまぼろしをつくりだし、えがきだすことに没頭している。かっての革命的な精神は、いまはただ色うつくしい「色彩画」の画家となり、芸術の革命をめざしているように見える。しかし、そのはなばなしい感覚の解放、幻想の自由な拡大にもかかわらず、──これらはのちのキウビズムやシウルレアリズムにふかい影響をあたえたものだが──それはいぜんとして、ランボオのあとじさりを示すものであり、のちにかれみずから名ずけたように「気ちがい沙汰のひとつ」であったろう。
 このような幻覚、言葉によるまぼろしの呼びだしを、ランボオは、「言葉の錬金術」と名ずけ、『地獄の季節』のなかでつぎのように言っている。

 「おれはもうながいこと、ありとあらゆる風景を、思うままわがものにしうると誇ってきた。そうして近代詩や絵画の大家たちをあざけってきた。・・・
 「おれは母音の色彩を発明した。・・・おれは沈黙を書き、夜をえがき、いい現わしがたいものを書きとめた。おれはめまいをも書きとどめた。
 「おれはそぼくな幻覚をみることには馴れていた。おれは手もなく、まのあたりに見た、工場のかわりに回教寺院を、天使たちの太鼓の一隊を、空の街道をはしる四輪馬車を、みずうみの底に沈んだサロンを、無数の怪物を、神秘を。・・・」

 ここでは、ランボオのブルジョア社会にたいするぶべつと憎悪が、平凡なもの、凡俗なものえのぶべつとなってあらわれ、ことさら異常なものをかかげ、ほこっているが、それはけっきょく敗北的なイロニイでしかない。かっての革命的なヒロイズムは、ここでは、単なる閉ざされた芸術のうちがわにおける、芸術家的なヒロイズムになっている。そうしてランボオは、これをみずから「おれの気ちがい沙汰のひとつ」とよび、「それは過ぎさってしまったことだ。おれはこんにち、美におじぎすることができる」と、のちに否定しているのである。
(つづく)

ランボオの『イルミナシオン』
                   大島博光

『イルミナシオン』には、ランボオの作品のなかでも、もっとも象徴主義的な、幻想や幻覚にみちた散文詩が多くふくまれている。『イルミナシオン』が書かれたのは、あのランボオの革命的情熱をかきたてた一八七一年のパリ・コミューンが敗北し、それにうちつずいた、ベルサイユの反革命軍によるはげしい弾圧のあれ狂った反動期においてであった。「ルーブルの宮殿を焼きはらえ」と語る文学者たちは、銃殺によっておびやかされ、沈黙せしめられていた。『イルミナシオン』に幻想的な、象徴主義的な詩の多いということ。──かってのランボオの、するどいカシャクないリアリズムが影をひそめ、あの反抗のひびきも弱まっているということは、まさにこのような反動期を反映してのことだった。そうしてこの反動期が、いかにひとりの孤独な革命的な詩人を絶望させ、その歌ごえのひびきを変えてしまい、ひろい社会的現実をとらえ歌うことから、せまい自己のうちがわえと追いやってしまったかを、それは示している。一八七二年、ランボオはベルレエヌとつれだって、ヨーロッパからロンドンえと、「居酒屋に酒をのみ、街道にビスケットをかじりながら、おれはおれで、尻をおちつける場所と生き方を見つけようとあせりながら・・・」(『放浪者』)さまよいつずけた。かれらはロンドンで、そこに亡命していた多くのコンミュンの革命家たちとも落ちあっている。このさすらいのなかで、そのときどきに、『イルミナシオン』のいくつかの詩は書きちらされたのである。
 ベルレエヌによれば、イルミナシオンということばは、英語からとられたもので、「色彩画」を意味し、ランボオじしん、その手記のなかでに、Coloured plates という副題をつけていたという。まことに『イルミナシオン』には「色ぬり画集」の名のとおり、色彩にとんだイマージュがみちみちている。しかも、それらのイマージュは、なみはずれた幻覚や幻想からうまれたものが多い。
 たとえば、『花々』という散文詩は、はなやかな感覚のあや織りであり、色彩の祭りである。

 金の階段から眺めると、──絹の飾りひも、ねずみいろの絽(ろ)、みどりのビロード、日の光りをうけて、ブロンズのように黒ずむ水晶の花盤、それらのむらがるなかに──ジキタリスが、眼をちりばめ、髪の毛をあしらった銀模様の毛氈(もうせん)のうえに、花咲いている。
 みどりのめのうのうえにまき散らされた黄いろい金貨、紺青の丸天井をささえるマホガニイの柱、白い繻子(しゅす)や紅玉(ルビー)のほそやかな鞭をたばねた花束、それらが水のほとりのばらをとりまいている。
 青い大きな眼の、雪のような姿をした神のように、海と空とは、この大理石のテラスのうえに、つよく若々しいばらの群れをひきよせている。」

 詩人は、ここで、かれにいつもつきまとっていたモラルの苦悩からときはなたれて、ひたすら「新しい花」をつくりだすことに心をかたむけ、色彩とかたちの交響楽をかなでることに熱中している。自我ぜんたいの解放ははらいのけられて、ここではただ、感覚の解放だけがはなやかにとりあげられている。そうしてここにあるのは、言葉の錬金術による純粋影像ばかりである。社会的現実から身をひいて、ただ「新しい花」の画面にむかったこのことのなかに、詩人のふかい絶望とそれによる現実からの後退がよみとられるようにおもわれる。現実からしりぞいて、うしろ向きに、閉ざされた夢えとむかうとき、そこにいつでもあらわれてくるのは象徴主義である。だが、注目すべきことは、ランボオの象徴主義がけっして観念から出発しておらず、また、なんらかの観念をよびだすことに終っていないで、いきいきとした感覚から出発しており、あるいはそのはげしい精神状態を歌いだす手だてとなっているということである。『花々』の影像も、目のまえの花や風景から感じとられた色彩やかたちから組みたてられている。しかし、つぎの『わだち』においては、目のまえの風景は、たちまち思い出の影像を詩人によびおこさせ、奇妙な幻想をくりひろげさせている。
(つづく)

<発表原稿>