ナーズム・ヒクメット Nâzım Hikmet

ここでは、「ナーズム・ヒクメット Nâzım Hikmet」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 「死んだ女の子」の詩人ヒクメットが1963年6月3日に亡くなって55年になります。同年8月の『詩人会議』にロシア文学者の中本信幸さんが「ヒクメットはバラの花のかおる歌をうたってきた」と追悼文を書いています。

◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 ヒクメットの死を悼んで なかもと・のぶゆき

 夜っぴて、モスクワからタス通信は世界のすみずみに悲しい知らせを打電していた。エーテルを伝って、寝ずの番のオペレーターの指先を伝って、口伝えでこの知らせは、ひたすら駆けっていた。ひとからひとへ。あくる日の朝まだき、アカハタ編集部の電話がぼくにこの知らせをとどけた。「六月三日、トルコの詩人、世界平和賞受賞者ナジム・ヒクメット心臓病のためモスクワにて死去。」

 開けてちょうだい たたくのはあたし
 あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
 こわがらないで 見えないあたしを
 だれにも見えない死んだ女の子を

 …………

 あなたにお願い だけどあたしは
 パンもお米もなにもいらないの
 あまいあめ玉もしゃぶれないの
 紙きれみたいにもえたあたしは

 戸をたたくのはあたしあたし
 みなさん 署名をどうぞしてちょうだい
 炎が子どもを焼かないように
 あまいあめ玉をしゃぶれるように

             (「死んだ女の子」より)

 「ヒロシマで「死んだ女の子」にたくして、平和の署名をうったえながらやさしく、やわらかく人びとの胸のなかに入ってゆくヒクメットの声は、すでに平和をねがう数千万人の声になっている。日本の平和運動の頌歌の一つになっている。去年のくれ、たまたま朝日新聞が目をとめた出来事が思い出される。九州の高校生たちが修学旅行の途次『死んだ女の子』の詩を募金箱にはりつけて、行きかう人びとに平和をうったえていた、と同紙は報じた。こういうことは、おそらく、見えないところで数知れず起っていることであろう。ヒクメットにはまた、第五福竜丸の漁夫たちを扱った『日本の漁夫』という詩がある。いくつかの戯曲が上演され、バレーにふりつけされている。日本人にとって、彼の名は近しい。ささいなぼく自身の経験を記そう。数年前、昼間働き夜勉強するひとたちに授業をしていたとき、ぼくはふっとヒクメットの詩句をつぶやいた。授業のおわったあと、娘さんが近よってきて、胸のポケットから紙きれをとりだして、いった。「ヒクメットの詩だったのですね。あたしこの詩好きになって書き写していたんですけど、今まで誰のか分らなかったのです。」白い紙片にはつぎの詩句がのっていた。

 いちばんすてきな海
   それは まだ見たことのない海
 いちばんすてきなこども
   それは まだ育ったことのないこども
 いちばんすてきな時代
   それは まだ生きたことのない時代
 いちばんすてきなことば
   それは まだいったことのないことば
   そのことばを ぼくはきみに捧げたい

 「空色の眼の巨人」ナジム・ヒクメットは一九〇二年に生れた。去年、盛大にこの詩人の六十歳が祝われたばかりだった。享年六十一歳。昔流なら、老齢で亡くなった。今流になら、若くして亡くなった。詩人としては、青春のさかりに亡くなった。蔵原惟人、あるいは中野重治も一九〇三年の生れである。ヒクメットを思うとき、ぼくは、中野につながる同年輩の先輩たちを思う。いろいろの国の先輩たちの運命の違いと同一性を思う。コムニストであるがゆえに、熱烈に祖国を愛しているがゆえに亡命の地で、たび重なる獄中生活の苦痛のためにいたんだ心と体をいだいて死んだ詩人を思う。一九四八年にヒクメットはうたっている。「先生/わたしの心臓の半分がここにあるとすれば/もう一つの半分は 中国にあるのです/黄河めざして流れる軍隊のなかに/それから先生/夜の白むころいつも/夜の白むころいつも/ギリシャで/わたしの心臓は射抜かれるのです/それから夜ごと夜ごと/囚人たちが寝しずまり/病監から最後の足音が消えるとき/先生/わたし心臓は出むくのです/イスタンブールに/古びたちいさな木造家屋がある路地に……/獄窓から夜をながめます/壁という壁がわたしの胸に重くのしかかろうとも/わたしの心臓はいちばん遠くにきらめく星とともに/鼓動しているのです」

 何回となく死を覚悟しなければならなかったナジムにとって、せめてもの幸せは、青年の日を過したモスクワ、レーニンの葬儀に儀仗兵として参列したモスクワで息をひきとったことであろう。モスクワはソヴィエトの都であるとともに新しい世界の都だ。一九五〇年に詩人は予言的に書いていた。「メメッドよ、ぼくは恐らく死ぬだろう/ぼくの言葉から遠くはなれて/ぼくの塩からパンから遠く/お前の母とお前とを慕いながら/ぼくの人民とぼくの同志とを慕いながら/けれどそれは亡命ではなく/異国ではなく/ぼくはぼくの夢のなかで死ぬだろう/ぼくのもっとも美しかった日の白い都で死ぬだろう。」(服部 伸六氏訳)
 モスクワで、彼は最後のメーデーをどうむかえたか。

     赤の広場

 メーデーに
 世界のありとあらゆる広場を
 赤の広場が通過する
 旗をもって 旗をもたずに
 歌いながら あるいは歌わないで
 けれど 世界のありとあらゆる広場を

 メーデーに
 世界のありとあらゆる希望のなかに
 赤の広場が入ってゆく

 メーデーに
 赤の広場が
 ありとあらゆる監獄のなかに
 ありとあらゆる独房のなかに
 闘入する
 自由を閉じこめているところに

 メーデーに
 赤の広場が
 ありとあらゆる緯度線の上を通過する
 陽の下を
 雨の下を
 雪の下を

 メーデーに
 全世界が
     赤の広場になる
 レーニンの演説した
 その広場に。

 平和と人類の進歩をめざす活動家としてナジムは多忙な生活を送っていた。彼の愛するマヤコフスキーのいう「社会的要請」に応じて、人民の闘いのあるところ、どこへでも飛んでいった。今日はカイロに、明日はワルシャワに、明後日はヘルシンキに、パリに、プラハに、ハバナにと飛んでいった。そのあいまに、あるときはジェット旅客機の機上で、ホテルで旺盛な創作をつづけた。彼の芸術のジャンルはひろい。詩、ルポルタージュ、小説、戯曲、評論、シナリオ、そのいずれでも独自な芸術を作り出していた。形式も多様である。それがもっともくっきりとあらわれるのは、戯曲である。メイエルホリド、ブレヒトらに学び、諸民族の民族伝統と現代文明の最先端の達成を結合させて舞台芸術の独自の領域をこしらえている。その土台にあるのは、なんといっても、リアルな現実認識、世界認識であろう。であればこそ、彼の芸術は直裁にぼくらの中にとびこんでくるのであろう。ナジムは、会うたんびに創作の計画をぼくに話した。最近数ヵ年のナジムは、ますます創作力がみなぎり、多作だった。作品と同様、人となりは満身に仲間たちへの愛情をみなぎらせていた。
 「ぼくの兄弟! 元気かい。」電話に出るナジムはぼくに呼びかけた。対談中、パリから電話が繋がった。「おい兄弟、たいへんなこった!」ナジムは叫び、なにか不幸な知らせなのだ。眼に涙がにじんでいる。彼は会うひとたちに、そういって呼びかける。彼のその声はぼくの耳に今だにひびいている。彼は演壇から、ラジオで、テレビで、詩で、「兄弟たち!」といって呼びかけてきた。
 兄弟たち! ナジムは息をとめた。彼に誓おうではないか。
 私たちの兄弟、ナジムよ、安らかにおやすみ。きみがうたってきた、うたおうとしていたバラの花のかおる歌を私たちはうたいつづける。きみがいつもいっていたように、私たちは歌がなければ生きられない。きみは、生きる、私たちの歌のなかに。
(六月十日)
 (引用の詩は飯塚書店『ヒクメット詩集』より)

(『詩人会議』1963年8月)

赤バラ




ヒクメット

(「アカハタ」1963年6月8日)

ヒクメット

ヒクメット



ヒロシマの少女


(自筆原稿)

*博光の「ヒクメット」封筒に自筆原稿「ヒロシマの少女」がありました。別に「死んだ女の子」(印刷物)のコピーが残されていましたが『ヒクメット詩集』(飯塚書店 1972年)で確認した結果、これは中本信幸氏の訳と判明しましたので訂正します。
[ヒクメット「ヒロシマの少女」]の続きを読む
ヒクメットの詩

【訳詩】
日本の漁夫 (1955)         『角笛』23号 1962.4
妻への手紙              掲載誌不詳
気候が怪しくなってきた (1958年3月) 掲載誌不詳
誕生                 自筆原稿
メメットへの最後の手紙 (1950)    自筆原稿
郵便配達夫 (1954)          自筆原稿
処方箋 (1954)            自筆原稿
ヒロシマの少女死んだ女の子) (1955)        自筆原稿
雲が人間を (1955)          自筆原稿

【追悼詩】
「ヒクメットよ、さようなら」大島博光 『赤旗』1963.6.8

【解説】
 ナジム・ヒクメットはトルコの生んだ世界的な大詩人です。青年時代から革命運動に参加した彼は、その生涯に、何回となく投獄され、そしてまた国外に亡命しなければならなかったのです。ソヴェトに亡命したときには、彼はマヤコフスキーとも会っています。ヒクメットの詩は、素朴で、自然で、透きとおっている、といっていいでしょう。しかし、そこでは、すべてが歌っているのです。詩人の善意、やさしさ、ゆるぎない革命的精神が、うたっているのです。彼はまたこう言っています。
 「自分の祖国と自国の労働者を愛さない者は、全世界と世界の労働者を愛することはできない。そして世界と全世界の労働者を愛さないものは、自分の祖国と自国の労働者を愛することはできない。そして愛することを知らぬ者は、文学や絵画にたずさわることはできない。
 ネルーダはつぎのような詩をヒクメットに贈っています。
  全世界のために書いた 偉大な詩人
  人類の多数派にぞくする 偉大な男
  自分の祖国から責めたてられた 偉大な愛国者
  ナジム・ヒクメットは 世紀の詩で無類だ
  彼はわたしにとって 英雄主義と優しさの化身であった
     (「妻への手紙」解説 大島博光 掲載誌不詳)


雲が人間を


(自筆原稿)

*トルコの生んだ世界的な大詩人ナジム・ヒクメットは日本の原爆被災についていくつか詩を書いています。特に有名なのが「死んだ女の子」で、曲がつけられて広く歌われています。「雲が人間を殺さぬように」もそのひとつです。
日本の漁夫」ではビキニ環礁での第五福龍丸の被爆を告発しています。


 処方箋
              ヒクメット 大島博光訳

兄弟たち
  病んでいるひとたち
    君たちの病気はよくなるだろう
苦しみと痛みは やわらいで
やすらぎがやってくる
ひんやりとここちよい夏の夕ぐれが
   うっとうしい緑の枝ぐみをくぐってくるように
君たちは寝床から起きあがり
   出かけてゆくだろう
ふたたびきみたちは見いだすだろう
   パンと塩と
      太陽の味を

レモンは黄いろく熟れ 蠟燭は溶ける
枯れたすずかけの木はどっと倒れる
兄弟たち 病んでいるひとたち
       だが わたしたちは
蠟燭でも レモンでも すずかけでもなく
さいわいにも 人間なのだ
わたしたちは しあわせにも知っているのだ
わたしたちの薬のなかに
   希望という薬を配合することを
そうして辛抱づよくふみこたえることができる
『どうしてもおれは生き抜かねばならぬ』と

兄弟たち
   病んでいるひとたち
      わたしたちはよくなるだろう
苦しみと痛みは やわらぎ
やすらぎがやってくる
ひんやりとここちよい夏の夕ぐれが
   うっとうしい緑の枝ぐみをくぐってくるように

      フランチチコビー・ラチーヌにて
          一九五五・六・三〇

(自筆原稿)
恐らくはメメットへのわたしの最後の手紙
                   ナジム・ヒクメット/大島博光訳

一方では
   死刑執行人どもが壁のように
      わたしらの間をひき離し
他方では
   あのこころ卑劣な奴が
      ひどい仕打ちをしかけた
息子よ メメットよ
   恐らくわたしはもう おまえに会うことはできなかろう
わたしにはわかる
   お前は 麦の穂先にも似た 少年となろう
わたしの若い頃にはそうだった
金髪で すらりとして背が高かった
おまえの眼はお母さんの眼のように
ときおり悲しみのにがいかげりをたたえる 大きな眼となろう
おまえは明るく晴れやかな額をもち
また美しい声音をもとう
   わたしの声はごっついものだった
おまえのうたう歌は
   ひとびとの心をひきむしり
おまえは輝やかしい語り手となろう
わたしもまた機嫌のいいときには
その道の名人だった
蜜がおまえの口から流れよう
    ああ メメット
      おまえはなんとひとびとの心をとらえる
         死刑執行人となることか!
息子を父親なしで育てるのはむつかしいことだ
おまえのお母さんに苦労をかけるな
   わたしはお母さんをよろこばせてやれなかった
   おまえはお母さんをよろこばせてくれ
お母さんは
   絹のように強く やさしかった
お母さんは
   お婆さんの年になっても美しかろう
わたしが ボスフォールの堤防のうえで
   初めてお母さんを見た頃のように
   そのときお母さんは十七だった
お母さんは月の光り
      陽の光りだった
お母さんはすももの実に似ていた
いつものようなある朝
   「今晩会おう」と言って
     わたしたちは別れた
それ以来わたしたちはもう会えなかった
世にもかしこい優しさをもった
   おまえのお母さんが
百までも生きていてくれるよう
   神が彼女を祝福してくれるよう
わたしは死を恐れないが 息子よ
それでも
   仕事をしているときなど時おり
思いがけずふと
   わたしはぞっと身ぶるいする
あるいはまた眠りこむおまえの孤独のなかで
先ざきのことを思いはかるのはむずかしいことだ
   誰もこの世に満ちたりることはできぬ
   メメットよ
     誰も満ちたりることはできないのだ

下宿人などのように
   あるいはまた自然にかこまれた
      別荘暮らしなどのように
この地上で生きるな
この世界のなかに生きるがよい
それが おまえの父の家だったように
信じるがよい 穀物を
     大地を 海を
だが何よりも人間を
愛するがよい 雲を 機械と本を
だが何よりも人間を
感じとるがよい
   枯れてゆく木の枝の悲しみを
   消えてゆく星の悲しみを
   傷ついたけものの悲しみを
だが何よりも人間の悲しみを
この世のすべてのしあわせが 惜しみなく
   おまえに悦びを与えてくれるよう
四季それぞれが 惜しみなく
   おまえに悦びを与えてくれるよう
だが何よりも人間が  惜しみなく
   おまえに悦びを与えてくれるよう
わたしらの祖国トルコは
   ほかの国ぐににくらべても
      うつくしい国だ
わがトルコのひとびとは
   まじり気のない無垢のひとびとは
働きもので
   考えぶかく 勇敢だ
だが おそろしく貧乏だ
いままでも苦しんできたし いまも苦しんでいる
だが ついに輝やかしい解決の日がやって来よう

おまえは祖国で 祖国のひとびとと共に
   共産主義をうちたてるだろう
おまえはその眼で共産主義を見るだろう
おまえはその手でそれに触れるだろう

メメットよ わたしは恐らく死んでいよう
遠くわたしのことばから離れ
   わたしの歌からはなれ
わたしの塩とパンから遠く離れて
おまえとお母さんのことを思い
祖国のひとびとと同志たちのことを思いながら
   だが 亡命の地ではなく
      異国ではなく
つねにわたしの夢みた祖国で死のう
   わたしのもっとも美しい時代の白い都で
メメットよ 息子よ
   わたしはおまえを
      トルコ共産党に預ける
わたしは行ってしまうが 心は静かだ
わたしのなかで消えてゆく いのちは
まだずっとながいこと生きつづけるだろう おまえのなかで
そうしてわが祖国のひとびとのなかで 永遠に

(自筆原稿)
妻への手紙
妻への手紙


解説●大島博光(詩人)
 ナジム・ヒクメットはトルコの生んだ世界的な大詩人です。青年時代から革命運動に参加した彼は、その生涯に、何回となく投獄され、そしてまた国外に亡命しなければならなかったのです。ソヴェトに亡命したときには、彼はマヤコフスキーとも会っています。この詩も、獄中から妻におくった手紙というかたちをとっています。この詩でわかるように、ヒクメットの詩は、素朴で、自然で、透きとおっている、といっていいでしょう。しかし、そこでは、すべてが歌っているのです。詩人の善意、やさしさ、ゆるぎない革命的精神が、うたっているのです。彼はまたこう言っています。
 「自分の祖国と自国の労働者を愛さない者は、全世界と世界の労働者を愛することはできない。そして世界と全世界の労働者を愛さないものは、自分の祖国と自国の労働者を愛することはできない。そして愛することを知らぬ者は、文学や絵画にたずさわることはできない。
 ネルーダはつぎのような詩をヒクメットに贈っています。

 全世界のために書いた 偉大な詩人
 人類の多数派にぞくする 偉大な男
 自分の祖国から責めたてられた 偉大な愛国者
 ナジム・ヒクメットは 世紀の詩で無類だ
 彼はわたしにとって 英雄主義と優しさの化身であった

(掲載誌不詳、「ひとつの愛の詞華集」)

 郵便配達夫
                ヒクメット/大島博光訳

わたしは こころの鞄のなかに
いつも入れて歩いたものだ
  人間の便り
    世界と祖国の便り
      狼と木と小鳥の便り
夜明けにも
  夜ふけにも
わたしはこの郵便をひとびとに配った
    わたしは詩人を職業とした
    こうしてわたしは郵便配達夫だった

子どもの頃
  わたしは郵便配達夫になりたかった
だが詩の道にはいってしまった
ほんとうにわたしは真実の郵便配達夫になろうと夢みた
そうしてジュール・ベルヌの小説の頁に
わたしの地理の本のなかに
    おんなじ繪が
      色鉛筆で
    いくどとなく描かれた
    おんなじ郵便配達夫の肖像が
      つまりナチムの肖像が
こうしていま わたしはそりに乗っている
   つないだ犬たちをむち打ちながら
     そりは氷のうえを滑べる
そのまま 缶詰の箱のうえに
  荷作りした行李のうえに
    オーロラがかがやく
  わたしはバンドをぎゅっと締め
  ベーリング海峡を渡るのだ

またわたしは草原(ステップ)にゆく
    重ぐるしい雲の影のなか
わたしはたくさんの手紙をくばる
    軍隊式の淡白さで
      そうして少しばかりのミルクを飲む

また わたしは大きな都會の
   ふるえるアスファルトのうえをゆく
わたしの鞄のなかには
  ただよろこばしい便りばかり
  希望を告げる手紙ばかり

またわたしは 星の下
     砂漠のなかをゆき
あるいはまた
    外のくらやみのなかにいる
    嵐がたけり狂っている
そうしてどこかで病気の少女が
      熱にうなされている
夜なかに戸がたたかれる
──郵便配達だよ!
その子どもの眼は青くひらかれる
彼女の父は明日の晩 牢獄からもどってくるだろう
    わたしは彼女の家を見つけた
嵐のなかを
  そうしてわたしは小さな隣人に
      電報をとどけた

子どもの頃
    わたしは郵便配達夫になりたかった
わがトルコでは それはつらい職業だったが
このうつくしい国で
   郵便配達夫のはこぶのは
   悲しみで重い電報と
   苦しみにみちみちた手紙ばかり

子どもの頃
    わたしは郵便配達夫になりたかった
わたしの夢はついにかなえられた
    ハンガリーで
わたしにとって五十才の鐘が鳴ったとき
わたしの鞄のなかには 春があり
わたしの鞄のなかには たくさんの手紙があった
ダニューブの波のかがやきと
  小鳥たちの音楽と
    草花の香りにみちたたくさんの手紙
モスコーへ送るブタペストの子どもたちの手紙
わたしの鞄のなかには
  このうえないしあわせが入っていた
    ひとつの封筒のうえには書いてあった
    「ナチム・ヒクメットの息子メメット
                トルコにて」と

モスコーで これらの手紙をひとつひとつ
  その宛名先にわたしはくばるだろう
ただひとつ
  わたしが配るのを禁じられている手紙は
メメットへの手紙だ
  わたしはそれを送ることさえできぬ
憲兵が通りをさえぎっている
だから手紙は
  どうしてもおまえには送られぬだろう

(自筆原稿)
  誕 生
              ナーズム・ヒクメット/大島博光訳

わたしの妻が
   わたしにひとりの息子をあたえてくれた
眉毛のない金髪の男の子を
青い産衣のなかに
   埋もれた
     陽のいろをした頭
重さはたった三キロ

わたしの息子が生まれたとき
朝鮮でもたくさんの子どもたちが生まれた
その朝鮮の子どもたちはひまわりにも似ていた
マッカーサーが彼らをなぎ倒した
彼らは死んでしまった
  まだ母親の乳を飲みたりぬままに

わたしの息子が生まれたとき
たくさんの子どもたちがこの世に生まれてきた
    ギリシャの牢獄のなかで
かれらの父親は銃殺された
かれらは牢獄の格子を見た
まるでこの世で最初に
   眺めなければならなかったもののように

わたしの息子が生まれたとき
たくさんの子どもたちがアナトリーで生まれた
黒い眼や
  青い眼や
    栗いろの眼をした赤ん坊たちだった
生れおちるときから
   かれらは虱だらけだった
かれらのうちの幾人が
   奇蹟的に生き残るだろうか
      誰が知ろう

わたしの息子が生まれたとき
たくさんの子どもが世界のもっと大きな国ぐにで生れた
かれらは生まれるとすぐに しあわせだった

わたしの息子がわたしの年にまでなる頃
もうわたしは この世にはいないだろう
だが この世界はすばらしい揺りかごになっているだろう
その揺りかごは
   青絹の産衣のなかに揺するだろう
黒い子ども
  黄いろい子ども
    白い子ども
      すべての子どもたちを

(自筆原稿)
 日本の漁夫
                      ヒクメット/大島博光訳

大洋のうえで 雲に殺された
   日本の漁夫は 若ものだった
かれの仲間がわたしに歌ってくれた
  ある日ぐれ太平洋で出会った物語を

獲ったこの魚をたべるものは死に
   わしらの手にさわるものは滅びる
見よ わしらの船は長く黒いひつぎ
   この船に乗るものは命をうしなう

獲ったこの魚をたべるものは死ぬ
   すぐにではなく徐々に蝕まれて
肉はくさり くずれおちる
   獲ったこの魚をたべるものは死ぬ

  わしらの手にさわるものは滅びる
太陽と砂にまみれた わしらの塩辛い手
仕事に疲れを知らぬ わしらのまめやかな手
  わしらの手にさわるものは滅びる
すぐにではなく徐々に蝕まれて
  肉はくさり くずれおちる
  わしらの手にさわるものは滅びる

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
見よ わしらの船を 黒い冷えきったひつぎを
  この船に乗るものは命をうしなう
わしらのまうえに 雲がすべりおちたのだ

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
  妻よ わしを抱いてはならぬ
  死がわたしからおまえへ乗り移るから
切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
見よ わしらの船を 黒いつめたい柩を

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
  おまえがわしから生む子どもは
  くさった卵よりも早く潰えよう
黒い柩のようなわしらの船はわしらを運び
  この海は死の海だ
ひとびとよひとびとよ わしらはあなたらに叫ぶ!


◯ わたしたちのねがいがきかれず、太平洋上での核実験が再開された折から、今月の訳詩は近刊予定の大島氏の訳詩集からヒクメットの作品をえらんだ。これは第五福龍丸のことだけうたっているのでなく、きょうまた太平洋上でおきつつあることをうたっているのだ。この一頁が平和のためのチラシにもなるように。(立岡─編集後記)
<『角笛』23号 1962.8>
 死んだ女の子
               ナーズム・ヒクメット/中本信幸訳

開けてちょうだい たたくのはあたし
あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
こわがらないで 見えないあたしを
だれにも見えない死んだ女の子を

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 十年前に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ子はけっして大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれてった灰

あなたにお願い だけどあたしは
パンもお米もなにもいらないの
あまいあめ玉もしゃぶれないの
紙きれみたいに燃えたあたしは

戸をたたくのはあたしあたし
みなさん 署名をどうぞしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉をしゃぶれるように

(『ヒクメット詩集』飯塚書店 1972年)