信州モンパルナス

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


『信州モンパルナス』目次

島崎藤村「口語と詩歌の一致について」
日夏耿之介「黄眠草堂詩話──言葉の愛」
村上成實「旅愁」
土屋二三男「古ぼけた繪」
泉潤三「によせて」
竜野咲人「或る光のための歌」
原田天眠「夜明け前」
長谷川香堂「静けき嵐のNocturne」
八幡真砂「白馬の夢」
木川新太郎「湯の湧く山にて」
大島博光「詩と詩人について」
田中冬二「橙」
武井つたひ「野火」
近藤武「主知」
西山克太郎「逸題」
澤木隆子「父」
浅井俊吉「城址」
新巻圭太郎「詭辯──自己防衛について」
清澤清志「山の繪はがき」
高橋玄一郎「哀史」
故岩垂保一郎「春日鈔 散文詩」
(あとがき 高橋玄一郎)

昭和15年5月10日発行 頒價壱圓
編集・発行人 小岩井源一(高橋玄一郎の本名)松本市外浅間600
発行所 信州詩人協会 信州浅間温泉

信州モンパルナス

信州モンパルナス
後記および奥付

戦争前夜の終幕飾る「信州モンパルナス」

柳沢さつき

詩人の柳沢さつきさんが戦前の詩誌『信州モンパルナス』と、それに関係した詩人たちについて話しました。
初めにパリ地図を使ってモンパルナスの位置を説明。モンマルトルと間違えやすいが、モンパルナスはパリの南、モンマルトルは北にあります。

柳沢さつき

島崎藤村と日夏耿之介、二人の大物の詩論を冒頭に置いた由来をお話し。
若手リーダー大島博光が『信州モンパルナス』の名付け親で、「詩と詩人について」を書いた。
高橋玄一郎を編集・発行人として昭和15年に創刊されたが、翌昭和16年12月9日、真珠湾攻撃の翌朝、高橋玄一郎は治安維持法違反容疑で逮捕され、2号は実現しなかった。
清沢清志は吉行エイスケと親交、穂高を文化活動の拠点とした。
(清沢清志の詩「山の絵はがき」を朗読)
文中の哲一郎は一人息子だったが、早稲田大学文学部在学中に学徒動員され戦死。戦後になり清沢清志は友人が持ち込んだメチルアルコールを飲んで失明した。
昭和36年10月、清沢清志3周忌にあたって「清沢清志追悼大島博光現代詩講演会」が松本で開かれ、「新しい詩の方向」(資料添付)という題の講演をした。主催した「緑地」詩話会は20〜30才代が中心の詩のサークルで、後押ししていた高橋玄一郎が大島博光を呼んだ。
「緑地」詩話会には信州大学文理学部の学生も加わっていた。信州大学の前身の松本高校には西條八十の子息・八束さんが在学していた。西條八束夫妻とはお二人の絵の展覧会の縁で知り合い、青木湖の別荘にも伺ったことがある。詩誌『無限』西條八十特集号を頂いたが、そこに博光が「香りもない花束」を書いている。
(『無限』を提示して朗読)

 香りもない花束
  ──わが師西條八十の思い出に

いつか わが身もこころも老いさらばえて
遠い春の日をはるかに思いかえしても
すべては茫漠とかすんで 墨絵のようだ
だが墨絵ながらにわたしは書いておこう
わが師西條八十の思い出のはしばしを
先生にささげるには あまりに貧しく
色どりもなく香りもない花束であろうと
   *
思い出せば わが春の日も輝いていた
あの六月の 奥利根のみどりのように
われら 十人あまりの仏文科の学生を
先生は 水上温泉へひき連れて行った
まるで 小学生たちの遠足のように・・・

夕ぐれて 西日がまぶしく射していた
宿の広間には 膳と酒とが並べられ
詩人の司祭する 青春の祭りが始まった
おお 湧きあがった笑いよ 歌ごえよ
だが 若わかしかった先生もとうに亡く
あの時の若者たちは どこにいるだろう
・・・
 
(大島博光全詩集から「パリの王様」を朗読)

 モンパルナスの駅前に聳え立った
 シェラトンホテルの十階あたり
 わたしのとった部屋の窓は
 パリの街にむかって開いていた
 ・・・

さいごに大島博光全詩集から「ランボオ」を朗読、詩人大島博光はランボオから始まり、ランボオに終わったと結びました。

柳沢さつき
柳沢さつき
柳沢さつき

・まるまる2時間立ちっぱなしで明晰に話された。内容も面白かった。
・詩の朗読に感動した。
・文学の話は久しくを聞いてなかったので勉強になった、感動した。偶然参加したが良かった。
・知らない世界に行ったようで、とても面白かった。

柳沢さつき
柳沢さつき
柳沢さつき
昭和15年に発行された詩誌『信州モンパルナス』は信州詩界の詩史的相剋を止揚し戦争前夜の詩の終幕を飾る祝祭であった、と県詩人協会会長(当時)の殿内芳樹が書いていました。

・・・そのあと、昭和十五年になって高橋玄一郎・清沢清志・吉沢夏雄・龍野咲人・浅井俊吉・近藤武・西山克太郎らの詩人集団が「信州詩人協会」を組織し、高橋玄一郎 編集・発行で詩誌「信州モンパルナス」が生まれた。この「信州詩人協会」は、構成メンバーや活動からみて、第四次信州詩人連盟」をそのまま引き継い  であり、その延長線上  とみていいものであった。
 「信州モンパルナス」はアンデパンダン風の性格であり多彩な内容をもっていた。  主義詩があり、種々のモダニズム詩があり、思想詩があり、抵抗詩があり、抒情詩があり、象徴詩などもあって、いわば 祭典の観を呈した。「信州詩人協会」はこの「信州モンパルナス」を刊行しただけで活動を停止した。
 こうして一九二四年(大正十三)結成の第一次「信州詩人連盟」から一九四〇年(昭和十五)第四次「信州詩人連盟」および「信州詩人協会」まで信州詩界はさまざまな色彩をちりばめ、多数の詩的個性や詩  開花をみせながら、錯綜し  路を描いてきたのであるが、戦前の信州詩界の展開は「信州モンパルナス」をもって、一  の詩史的相剋を止揚したいうことができよう。「信州モンパルナス」の多彩な内容は、 感や終末的な焦燥感や敗北 から生じる狂気に満ち、その  抵抗と解放への欲求に貫かれてもいた。それは戦争前夜の 終幕を飾る祝祭であり、歴史の曲がり角がいつもみせる悲愴と挫折感をも漂わせていた。四五年(昭和二十)終戦後、 界は敗北の代償として自由と解放を得たけれども、詩人たちは この祝祭を彩った「狂気」「焦燥」と「ざ折感」を源泉として再出発しなくてはならなかった。それは、本来詩というものの原質がもつ虚妄の一面であった。(以下略)
(殿内芳樹<ふるさとの詩人たち─15─戦争前夜の終幕飾る「星林」と「信州モンパルナス」>掲載紙・日付不詳)

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