シャヴァンヌ Pierre Puvis de Chavannes

ここでは、「シャヴァンヌ Pierre Puvis de Chavannes」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


4 作家の心理(下)

 シャヴァンヌはすべてを自分の藝術、自己の絵画に結びつけて考へないでは居られなかった。自己の藝術に関係の無い様なものには何者にも興味を抱かなかった。彼の作品に就いて、不正確な或いは不当の意図の下に為された一つの言葉、一つの会話、一つの文章も彼をひどく苦しめ、そして激しい怒りを抱いた。彼が言葉や文章に依って反発する時には、彼の激しい皮肉や苛烈な言葉が相手をおそふのであった。又、或る新聞記者が素朴にも、誰を大家として取るかと尋ねた時、彼は簡単に《私だ》と答へたのも、極めて真面目だったに違ひない。彼には見事なエゴイズムが在ったと云へよう。彼の神経質は人の考えられない程ひどかった。サロンが始まる前日頃、彼は習慣によって社交界の夫人を招き、ヌウリイのアトリエで夜を自己の作品を披露し、又、夕方、優雅さと慇懃さとを以って夫人達を庭園に案内した。彼が部屋に帰ってきた時、一人の弟子は彼の手に泉の水が流れてゐるのを見た。近づいてみると、彼の掌は血が滲んでゐた。夫人達の不作法な会話を聞いて憤激した彼は自分の爪を掌に突き刺したのであった。《私は自分の絵をひとに見せるとき、まるで人の前で自分が赤裸になる様な気がする》と彼はしばしば語ってゐた。

 シャヴァンヌはその明るさと力強さとエゴイズムと思想とによって、よくギリシャ的楽天家と考えられるが、それは洞察を欠いた心理分析家の幻想にすぎない。彼の天性が如何に堅固に見えたにせよ、その芸術的信念が如何に熱烈なものであったにせよ、シャヴァンヌの生涯にはやはり悲哀、絶望、落胆の時期があったのだ。しかも、彼はこの苦悩にみちた闘ひによってよわまるどころか、闘ひを通じていよいよ自己を練磨したのであった。彼が友人に宛てた多くの手紙は、個人と社会の精神(モラル)的破産を宣告された十九世紀末にあって、一藝術家の魂の姿を物語ってゐる。人生の困難さと不安と失望と闘へる若き芸術家たちは、それらの手紙に勇気と精進の多くの教訓を見出だすであらう。そしてシャヴァンヌの苦悩と煩悶と厭世観(ペッシミスム)との記録は人を感動させると同時に、豊穣なものであり、健康なものである。人生に対してこのやうな態度をとったひとびと、反抗したひとびと、懐疑家や好事家が皮肉にも厭世家と呼ぶひとびと、これらのひとびとこそが、不撓不屈にその魂を高揚し、その心情を傾けて、幸福、歓喜、希望に到達するのである。彼らのみが、高き理想を英雄的に休みなく追求し、熱烈にまた豊かに労作することによって、人類を進歩させうるのである。

 『リュデュス・プロ・パトリア』の成功はシャヴァンヌに賞牌を齎し、批評家たちはこの大作を讃美し、国家及び市廳はかかる独創的な才能を用ふべきであると主張したにも拘らず、シャヴァンヌには何ら新しき制作命令が与へられなかった。このやうな成功のさなかにあって、彼は次のやうに書いてゐる。
 『私には世界がますます閉ぢられるばかりです。それには閑暇に対して闘ふやうに、闘ふ以外にはしかたがありません。そのために私は舊友ブノンの肖像を試みました。それは良心的な仕事で、私に与へられたかも知れない他の仕事を殆んど忘却させてくれました。とにかく、もうかなり永い画家生活をし、多少の仕事もし称賛を得たものが、なほどのやうな状態にあるかを、落胆せる性急な青年画家たちに示すだけとしても、私の生活は無意味ではなかったことになりませう。』
・・・・・
 『親しき友よ、今年も暮れますが、今年ほど私に孤独と静寂とがたいへん必要だといふことを感じさせた年はありません。鋭敏な君は私の精神状態をよく理解してくれるにちがいない。私のやうな苦しい人生は、死ぬまで休むことはできさうに思はれませんが、全く憂鬱になるやうにできてゐるのです。しかし、私は憂鬱が消え去るやうに祈ってゐます。』
 巴里市廳の最初の壁画を、彼は描き終へたばかりであった。しかし、この仕事に捧げられた三年間の重苦しい労作の後にも、彼は休息しようとするどころか、いよいよ想像力は豊かに燃え、新しい構想を描くべき新しい壁面を夢みるのであった。しかし、彼の希望に應(こた)えてくれるものとては何もなかった。彼の心は悲しみで一杯であった。『あなたにお知らせすべき変わったことは何もありません。あなたは私の生活をよく知ってゐる筈です。このまへお別れした時からただほんの少しの仕事をしたばかりです。そんなことが進歩だといへませうか。一つの作品を仕上げるたびに、また空虚さがすぐ訪れてきます。そこから抜け出したい。悲哀の外へ抜け出したい。私の芸術的遂行には何といふ沈滞が憑きまとってゐることでせう。何か、こんなひどい目に會わないで、何んとかほかにうまくゆくことはできないものかと思います。しかし、そんなことは黙ってゐる方がよいのです。あまりにそれは苦しいのです。』

 画家や詩人が彼らの芸術を群集の面前にかかげる時、ひとは彼らを羨むかもしれぬ。群衆は彼らに喝采を送るやうに見える。しかし、如何なる苦悩と悲哀によって、この勝利が獲られたか、如何なる幻滅と悔恨がそのあとに残るか。もしもひとがそれを知るならば、やがてひとは彼らを憐れむであらう。シャヴァンヌもこれらのすべてをつぶさに味ひなめたのであった。

 シャヴァンヌは彼の抱ける芸術理論と思想の故に多くの攻撃と憎悪を受けたが、そのために、彼は若い画家や臆病なひとびとに親切であった。また彼が本能的に共感を覚えていたのは、当時罵倒され、嘲笑されてゐた印象主義者や象徴主義者たちに対してであり、周囲の敵意と無関心の中に己が道を辛苦して切り開いてゆく革新者たちに対してであった。
 国家によって最初に開催された一八七二年のサロンに、彼は審査員を命ぜられた。時の美術局長シャルル・ブランは一席、審査員たちを招いてどしどし落選すること、厳選を旨とすることを表明した。シャヴァンヌはかって自分が一再ならず落選したことを想ひ、もっと寛大に扱ふやう主張するのが彼の義務であると考へた。しかし美術局長は自説を固執してまげなかったので、彼は即座に辞表を提出した。もはや彼は審査員でなかったので、彼の作品も前日の同僚の審査を受けねばならなかった。彼の二点のうちの一つ『少女と死』はみごとに落選したのであった。

 シャヴァンヌに教えと忠告を請ひに集まった青年達に対して、彼は父親の様な愛情と心盡しとを與へ、各々の個性や資質に深い理解を持って育んだ。弟子の一人に彼は次の様な手紙を書き送ってゐる。『私は多くの羊の群を導いてゐる。そして牧人として、私は良き指図をしなければならないし、又したいと思ふ。私は人の感情を強制したことは無かった。それは聖なるものであると考へたからである。然も私は制作を通じて方法や様式の嗜好を教へ込む事が出来た。』

 シャヴァンヌが技法を教へ、永年に亙って導き続けた画家たちは、皆、夫々の個性を持ち、極めて異なった仕事を追求し乍らも、皆独創的であった。こうした多くの青年画家たちがシャヴァンヌに心から慕って行った。その中にはルウアン図書館の壁画を描いたポール・ブーダン、プロヴァンスとコート・ダズュウルの風景画家となったモントナール等が居た。彼等こそシャヴァンヌの最も熱烈な賛美者であり、最も忠実な仲間であった。
 国民美術協会のサロンが閉会になった翌日──シャヴァンヌはこのサロンに巴里市廳に描いた一連の作品を出品した。──シャヴァンヌの金婚式を祝うと云ふ提案がなされたが、それはこれらの青年画家たちの意見に依るものであった。メッソニエの死後、これらの青年画家たちに推されて、彼はその美術協会長になった。

 シャヴァンヌは、すべての生命、勢力、豊穣さ等を愛したが、自らも妻の死によって大きな打撃を受ける日迄これらの美徳を持ち続けた。妻の死後、彼が生き残った日も極めて短かった。彼の面上には誇らかな明るさが漂ひ、人のよい、しかも精神的な優雅さが輝き、悲しみと幻滅の皺は見られなかった。彼の眼はすべての人を迎へて頬笑み、その大きな手は、男性的な友情を以って人々の手を握り、彼の声は明晰でしかも優しくふるへてゐた。彼は実に懐疑家でもなく、先入見や幻影に依って作られた伝説的な夢想家でもなかった。シャヴァンヌの型姿は、その性格と資質とに於いて極めて美しく、独創的にして、又偉大であった。
(この項おわり)

シャヴァンヌ・ノート
4 作家の心理(中)

 シャヴァンヌは遺伝と環境とに依る多くの美質を持ってゐた。精密さ、明晰、強い視覚、人体や事物の特徴に就いての驚くべき記憶等がそれである。此等の天性を仕事と反省とに依って絶えず研磨すると云ふ事こそ彼にとって至高の義務であったが、それが彼の技法をより力強く高めたのであった。鉄の様な健康と、溢るる様な想像力と、激しい自尊心とによって、彼は最も異常な創案を描き、極めて大膽な意匠と、特異な夢想を抱き、それを執拗に追究したのである。かうして彼が自己に課した偉大な芸術家になると云ふ人生の目的を実現しようとしたのである。かくて、労作すると云ふ事は彼の眞の情熱となり、その情熱は決して弱まった事は無く、寧ろ一作毎に強まるかに見えた。彼は絶えず世俗的及び社会的強制から遠く離れて、労作する事のみを心掛けてゐたと言へよう。晩年に至る迄の彼の大きな評価はそれを證してゐる。

《友よ、唯仕事をする事の中にのみ憩ひがあります。その他は総て私を疲れさせます。眞の良い気晴らしにも快楽にも私は性が合いません。その為には巧みに暇を潰す事の出来る有閑な藝術家で無ければなりませんが、それは私には出来ません。》
 私は時々、われらの偉大なローヌの地の事を考へます。幾度、その広大な地平線の中に英気を養ふ為に、幾度汽車に乗らうとした事でせう。併し、それは何時も夢に終ります・・・。

 この様な孤独と労作との中で、シャヴァンヌは精神(エスプリ)の自由を獲得し、かくて激しい不当な攻撃にもよく堪へ、それらに妨げられる事無く、己が芸術的理想の完全な実現を根強く追究し得たのである。しかし一般に考えられる様に、彼の多くの敵対者及び讃美者たちの批評に対して、彼が将来の侮蔑と故意の軽蔑を持ってゐたのではなく、反対に彼程自分の仕事に対する批評に敏感で動かされやすい芸術家は無かった。次の様な若き日の友情を破り捨てる様な苦々しい出来事もあった。エドモン・アヴウがシャヴァンヌの或る作品に就いて、デッサンも絵の具の塗り方も識らないと言って非難する激烈な批評を書いてから間もなく、街でシャヴァンヌに会った。アヴウは彼の方に近寄って手を指し出して言った《シャヴァンヌ君、お目にかかれて嬉しいです。》
シャヴァンヌは答へた。《どうか、もう僕には言葉を掛けないで呉れ給へ。例へ不幸にも道でお会ひしても。》エドモン・アヴウは多くの協同の友を介して和解をしようとしたが、シャヴァンヌの決意は動かなかった。彼は批評家が己が名声を維持する為に不当な批評に依って画家を侮辱するのを許すことが出来なかった。

 一八七九年、私は《現代藝術家叢書》の一冊としてシャヴァンヌの作品研究を出版した。その書の中で、私はアミアン美術館の諸画《平和》《戰爭》《労働》《憩ひ》《アベ・ピカルディア・ヌ・ヌートリックス》等を青年の熱狂を以って讃美したのであった。一夜、何時もの様にドゥローネーとギュスターヴ・モローを加へて彼と晩餐を取った後、私は彼を家迄送って行った。途々、我々はよも山の事を話した。ピガアル広場に来て別れやうとした時、シャヴァンヌは突然言ふのであった。《では君はパンテオンの僕の絵よりアミアンの方を取るんだねえ。つまり、十四年間と云ふもの僕はぼんやりして居て少しも進歩をしないし、僕はもう発展の余地も無い終った人間だと云ふ訳なんだ。君の意見は僕を慰めては呉れない。君は友達甲斐が無いんだ。こんな状態では僕等はもう友人で無い方が寧ろいいんだ。さよなら(ア・デュウ)》さうして彼は驚いて茫然たる私を残して急いで家に入ってしまった。翌朝早く、私の扉を激しく叩く者があった。こんな早朝に誰が訪れたのかと、急いで扉を開けて見ると、それはシャヴァンヌであった。彼は私に両手を差し出しながら言った。《どうか昨晩の事は苦にしないで呉れ給へ。その事で僕は昨晩一睡も出来なかった。僕のアミアンの絵がパンテオンのより良いと云ふ君の考えは多分理由があるに違ひないのだ。けれども・・・。》突然彼は大笑して、又次の様に付け加へた。《まあいいさ。僕は又やり直さう。怒らないで呉れ給へ。では又会はう。さよなら(ア・デュウ)》そうして彼はいつもの上品な足どりも軽やかにヌウイリイのアトリエへ帰っていった。

 十四年後に私はもう一度同じ様な争ひをシャヴァンヌと繰り返した。この争いに就いては彼は一八九五年九月二日附の手紙で一人の友人に次の様に書き送ってゐる。
 ヴァッションは私のすべての作品中、《ソルボンヌ》を取ると云ってゐます。併し私は、彼がその様な選擇を為すべきではないと言ってやりました。最も、私は同一作家の作品中から個人的に分類したり、選擇し得ると云ふだけは、理解出来ました。しかし、本当は作品を比較する事は出来ないのです。一つの作品はそれ自体完全である事だけが問題なのです。もしもこれらの條件にかなってゐるならばそれは優れた作品で、それはもう他の作品の上位にある訳でも無く、下位にある訳でも無く、それ自体完全なのです。しかし、勇敢なヴァッションは自分の言葉を訂正しようとは思わない様です。彼は批評家としての役割よりは行き過ぎてゐる様に思はれます。
(つづく)

シャヴァンヌ・ノート

*ここの記述で、原著者がヴァッション(マリウス ヴァション)と分かりました。Marius Vachon (1850–1928) フランスの美術評論家。彼の書いた 'Puvis de Chavannes' (1895年 パリ) はこちらで読むことが出来ます。

シャヴァンヌ展
渋谷のBunkamuraで開催中のシャヴァンヌ展に行きました。

シャヴァンヌ展
シャヴァンヌ展
地階にあるレストラン「ドゥ マゴ パリ」のテラス。ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメ、ピカソ、ヘミングウェイなど多くの芸術家に愛され、1世紀以上パリの人々に親しまれてきた老舗カフェ「ドゥ マゴ」の提携店だそうです。

売り場
テラスの横に展覧会の入り口

シャヴァンヌ展
ポスターに使われているのは代表作「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」(リヨン美術館の壁画、1884年)。神話の世界を題材に、独自の色調で公共建築への壁画を数多く描き、ゴーギャン、ピカソ、マチス等多くの画家に影響を与えたといいます。
本邦初のシャヴァンヌ展で、よくこれだけ大作を集められたと感心、本物を見た充実感をおぼえました。
展覧会カタログも充実しています。1870年の普仏戦争やパリ・コミューンなど、作品の時代背景もわかり、興味が深まります。


4 作家の心理

 シャヴァンヌの藝術生活の初期を通じて多くの敵と誹謗とに面し乍らも、彼は決して反逆する事も無く、冷静に自己の仕事を続け、自ら自己を意気阻消よりふるひ起たせ、不屈にも常に自己自身たる事に努力した。彼は一つのイデアの打ち勝ち難き力の見事な例証の一つであらう。《天才とは忍耐である》この奥深い言葉を彼は身を以て証したのである。総ゆる時代に於いて傳統派と穏健派の外に数々の反逆者たちが不屈な執拗さと不抜の信仰とを以って新らしき理想を追究し、或いは少なくとも既成の教義に反する理想を掲げるものである。此等の革命家と言はんよりは寧ろ革新者は、その信念と作品とに於いて宿命的に罵倒され攻撃される。彼等は、休む間も無く闘ひ続けねばならぬ。彼らは社会的不正と誹謗との的であり、彼等の独立性は一つの反逆に見え、彼等の独創性は一つの気狂ひ沙汰に見えるのだ。併し、徐々に彼等の信念の真面目を発揮し、作品の中に花咲かせ、かくていつか反逆者は一流派の創始者となり、師匠となる。まことに藝術が存続し、盛んになり、絶頂に達するのは、この様な大膽さと狂気さとに依るのである。フランスが他の国より遥か増して総ての知性に打ち勝ち難い誘惑を及ぼすのはこの故である。かかるが故にこそフランスは世界のユニークな場所であって、其處から人類を照らし豊かに光の昇るのを待ち望んでゐるのである。

 サロンに容れられず、シャヴァンヌにもこの様な孤立孤独の生活が始まつた。それは、彼の独創性と盡きせざる豊かさとの証しであつた。世俗的な気晴らしや、街の騒音や、総ての流行の影響や、スノヴィスムやアカデミスムに対して、アトリエの中で固く扉を閉ざした。彼は孤独な仕事をする習慣になった。アングルやミレーやコローやルソーの様に。はじめは同時代者たちに知られない迄も理解されず、彼は自己自身の為に描いた。モーツアルトも亦《私はドンジュアンを私自身とそれから三人の友人の為に書いたのだ》と、言ってゐる。

 眞の藝術家として、シャヴァンヌは次の事を理解してゐる。藝術制作は慰みでも無ければ、気晴らしでもなく、極めて荘重な使命であって、それは多くの犠牲と放棄と仕事との闘ひであることを意味する。厳格にして、正規な技法(メチエ)は、シャヴァンヌにとって思想の忠実な唯一の表現法であった。彼はこの技法を飽くなき追究によつて獲得したのであつた。彼はその一人の弟子に次の様に書き送ってゐる。《君は私にモデルの事を云々するけれども、私は君が習作の為に習作する様、お進めする。私は更に拒絶された九年間と云ふもの、それ以前の事をしなかった。どうか、この事をよく考へて頂き度い。》
(つづく)

<シャヴァンヌ・ノート>
シャヴァンヌ  3 リヨン人気質 (下)

<マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人>
 シャヴァンヌは、その幼年時代に、かくも幸福な母親の影響を受けたが、ついで画家としての生活に入って再び彼は一女性からゆたかな深い影響を受けた。丁度、ミケルアンジェロがヴィクトリヤ・コロナを愛した様に、シャヴァンヌはこの女性を情熱的に愛したのであった。彼は愛敬と感謝とを以って、彼女にその作品を献じてゐる。彼は自ら次の様に語ってゐる。《私は彼女にすべてを負ふてゐる。私が現に画家であるのも亦、私が描き得たものも皆、彼女に負ふてゐるのだ。》この女性こそ、マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人であった。シャヴァンヌは、一八五六年テオドォル・シャッセリオーのアトリエで彼女を識ったのであった。婦人は彼の優雅な精神と高貴な感性と芸術的信念によって彼に結びつけられた。夫人は相互的敬愛と信頼の上に築かれた友情のみが持つ献身と愛情とをシャヴァンヌに捧げた。優れた知性と高い教養と芸術に対する深い直感を持てる夫人は、やがてシャヴァンヌの思想と仕事の相談相手となった。ひとり夫人からのみ彼は議論すること無しに、忠告や批評や指示を受けとったのである。それ程彼は夫人の確実な判断、真摯な意見、洗練された鑑賞に絶対的な信頼を抱いてゐたのだ。一つの作品を描く準備の間、夫人は彼のアトリエの隅に坐りに来てゐた。そして、シャヴァンヌは、人物や群像の素描が出来上がると、その批評を彼女に乞ふた。彼女の答はシャヴァンヌの躊躇や不安や迷ひにとって決定的な終結となった。
 社交界に於いてその優雅さと才気とに依って讃嘆された公爵夫人は藝術を愛する餘り、疲労をも厭はず色々のポーズをとる事を躊躇しなかった。職業的なモデルには不可能な身振りや仕草や襞の配置や、高貴さや魅惑など、シャヴァンヌの夢みるすべてを夫人は與へてくれたのであった。
 パンテオンの作品は、シャヴァンヌの藝術的遺言ともなったが、彼は此の作品に於いて、眠れる巴里を見守る聖女ジュヌヴィエーヴのうちに公爵夫人を描いて夫人の想ひ出を不滅化しようと願ったのであった。虔やかな黒衣と白の長いヴェール、そしてヴェールのかげに見える甘美にしてしかも荘重な面輪、これらの高貴にして嚴そかな聖女ジュヌヴィエーヴの形姿は、シャヴァンヌにとって公爵夫人の化身であった。夫人こそは彼の長い苦闘の時、又、遅く訪れた光栄の喜びの日にあっても、常に変わらざる献身的な友であり、その言葉と微笑とまなざしとを以って彼に平和と勇気と希望とを齎らしたのであった。夫人は自ら発見し、讃嘆を捧げたシャヴァンヌに彼女のすべてを、即ちその心とたましひとを與へたのであった。彼女が死んだ時、シャヴァンヌも亦死ぬ以外の無い事を感じた。彼女がもはや存在しないからには彼も亦消え去る可きを覚えた。そして超人的な勇気と精力とに依ってパンテオンの第二作を完成したのち、彼も又ほほえみつつ夫人の墓の傍らに永遠の眠りについたのであった。二ヶ月前、夫人が死んだ時、彼はこの別離が身近いのを感じ、又お目にかかりませうと云ふ別れの言葉を告げたのであったが、そう云ふ胸も裂けむばかりの彼の苦悩の姿は、そのそばに居た人々の涙を誘はないではゐなかった。

 リヨンの教育と夫人とはシャヴァンヌの強烈な天性に優雅さと品位のある態度と繊細な感性とを與へたのであった。同時に彼の独創的な精神、自然な陽気さ、洗練されたユーモアは彼との友情関係を愉しいものにすると同時に、確実なものにしてゐた。多くの人が彼の友人となることを誇りとし、又、そうなる事に於て幸福であった。
(この項おわり)

<シャヴァンヌ・ノート>
シャヴァンヌ  3 リヨン人気質 (中)

<リヨンの街と自然>
 シャヴァンヌはかういふ芸術家としての理想をリヨンの教育と誇り高い厳格なブルジョアである己が家庭の伝統から学びとったのであった。この教育は彼の母親によって為された。芸術家の魂に対する母親の影響は常に大きいものである。リヨン人の気質は、リヨンの街と田舎との自然によってはっきりと定義されてゐる。リヨンの街は岩と砂との丘の上に立ってゐて、丁度北から南へ向ふ舟の舳にも似てゐる。二つの河が街の前で合流して大河となって地中海へと向ふ。一つはアルプスの永遠の氷河にその源を発して峨々たる山峡を飛沫を上げて下り、その冷たい蒼い透明な水は白砂の川床の上を流れくる。もう一つの川は、ゆるたかにフォシィユより流れ来て緑の丘の間を蛇のように縫ひ、その鏡のように静かな水面に、岸辺の村々の屋根や鐘楼を映し、柳やポプラの樹影を浮べてゐる。そして、その潺湲(せんかん)たる急流と緩るやかな流れとが各々その男性的な美しさと、女性的な優しさとを溶け合はせてゐる。これが静かで壮大なローヌ河である。このローヌ河は、平野や谷間をうるほしたのち、プロヴァンスの輝かな太陽の下に静かにまどろむ。やがて地中海に流れ入る。リヨンの街を取り囲むみどりの山は北風を防ぎ、河と共に甘美な雰囲気を作り出し、しばしばうす靄で街を包み、詩的な風情を添へるかとおもへば、忽ち又殆んど南国的な太陽が明るく街の上に輝くのである。
此処にリヨン人の気質そのもの、魂そのものが見られる。臆病であると同時に大膽であり、神秘的でしかも実証的あり、精力的であるが又優しく、明るくしかもどこかほのかな蔭を宿してゐる。それは、北国への瞑想的な粘着力と南国への明るい霊感とを融合してゐる。この様なリヨン人の魂は、善良さ、純潔さ、独立、自由を愛し、藝術に於いては常に優雅さと洗練と、独創性を特徴とする作品へと向ふのである。シャヴァンヌが心情豊かにして、才気に富める母親に依ってはぐくみ與へられたのは、まさにこの様なたましひであった。
(つづく)

<シャヴァンヌ・ノート>
シャヴァンヌ  3 リヨン人気質 (上)

<美しい善きものを愛して>
 シャヴァンヌの作品に於ける美学的性格と高き社会的価値とを分析する前に、人間及び芸術家としてのシャヴァンヌを見るのがよい。両者は互ひに説明しあひ、相俟って完成するのである。
 シャヴァンヌは その血統に於いてはブルゴオニュ人であり、その教養と気質に於いてはリヨン人である。土壌豊かな田舎、広やかな葡萄畑、明るく晴れ渡った空。これらの自然から、シャヴァンヌはその強い性格、逞しい精力、快活に愉快に生きる趣味、勤勉さ等を得たのである。彼はまたその両親からみごとな体質を受け継いだ。優雅で丈高い背、広い肩、逞しい胸、すらっとした脚、廣い額と明るい眼、力強い鼻、さうして繊細な唇が軽やかに開いていた。
 シャヴァンヌは人生を愛し、女性を愛した。或る批評家が彼におもねるつもりで彼の神秘主義と純潔さとを讃美すると、彼は勢ひよく答へたものであった。『まちがへないで下さい。私は聖人ではありません。芸術に於いては、聖人をもつこともできないし、もつべきでもないです。女性や快楽や、すべて美しい善きものを愛して、芸術家は美しいものをつくればよいのです。』
 彼は強大な胃袋の持ち主で、御馳走の並んだ食卓に就くのを好んだ。フロオベルがユウゴオに就いて言った言葉はシャヴァンヌにも当てはまる。即ち『彼は一個の自然力であって、彼の血管の中には樹液が流れてゐるのだ。』
 畫家の生活に入って以来、彼は永い時間仕事をするために、食事は一日一回、夕方の七時に摂る習慣であった。彼は昼食には、アトリエにゐる時には一杯の牛乳か茶を、仕事をつづけたまま飲むだけで、外出の折には一片の麺麭を食べるだけであった。しかし、一回の晩餐は豊穣であった。彼は健康法のため、晩餐の前後には永い散歩をした。彼はまたアトリエに於いては孤独と静寂を愛したが、食事は静かなレストランで友人か弟子と共にするのを常としてゐた。彼は五十年間もモンマルトルに住んでゐたが、モンマルトルの畫家生活の風俗には少しも染まらなかった。彼は生涯のいつの時代にも、ボヘミヤンであったこともなければ、またダンディを気取ったこともなかった。遺産のおかげで、彼は惨めな青春を送らないですんだのである。さうして芸術への情熱と野心に燃えて、人生の真面目な高い理想に役立たないやうなものには眼もくれなかった。
(つづく)

<シャヴァンヌ・ノート>
シャヴァンヌ  2 初期の作品 (下)

<巨大な装飾画の時代>


 それから二年後に、シャヴァンヌは再びサロンに出品し、《狩猟よりの帰還》が入選した。それはマルセイユ美術館の食堂を飾ってゐる大きな作品の複写であった。ひとりの騎士が、その尖に猪の頭を刺した槍を意気揚々と持ってゐる。獲物の鹿を担いだ二人の従卒が徒歩で、彼のあとに従ってゐる。この一行の傍(わき)に、角笛を吹き鳴らしながら歩いてゐる。そのあとから、狩猟に参加した二人の婦人が馬に乗ってくる。
 この年はシャヴァンヌの生涯に歴史的な一時期を画せる年であり、巨大な装飾画の時代の端緒である。
(この項おわり)

<シャヴァンヌ・ノート>

シャヴァンヌ  2 初期の作品 (中)

<サロンからの追放>


 一八五二年から二年つづけてシャヴァンヌはサロンに落選した。このうち続いた失敗によって、彼は落胆するどころか、反対に画家としての己が思想を確立しようと決心し、ギャルリィ・ボンヌーヌウヴェルに開かれた民間の展覧会に出品した。そこには同じくサロンで落選したクゥルベも出品してゐた。観衆はシャヴァンヌの繪の前で、クゥルベの前に於けると同じやうに騒がしく、嘲笑の聲を擧げるのであった。クゥルベは凶暴で危険な狂人とされ、シャヴァンヌは静かで無害な狂人と呼ばれた。こうして、サロンからの追放は八年間続いた。その当時、同じくアカデミイの犠牲者の中には、ドラクロア、ジュル・デュプレ、バリー、トロワィヤン、テオドル・ルソー、ミレー、コロー、等がゐる。例へ、テオフィル・ゴーチェとか、テオドオル・ド・バンビィユ等の詩人がシャヴァンヌを辯護し、勇気づけたとしても大部分の芸術批評家は、激しく彼を攻撃した。
 併し、一八五七年はシャヴァンヌにとって多作の年であった。
 《聖セバスチァンの殉教》《瞑想》《村の消防夫》《エロディヤット》《瀕死者の枕頭に立てる聖カミーユ》《ジュリー》これらの種々の傾向の作品が又可也、変化に富んだ手法で描かれてゐるが、それらには、彼がルーヴルやイタリヤで学んだ巨匠たちや、彼がついた師匠たちの影響が反映してゐる。彼は、チントレットと同時にヴェロネーズを夢想し、ドラクロアと共にシェフェルを憧れてゐる。《聖セバスチァン》は、夜、森の中の空き地に連れられて来て、大木の軒に縛りつけられた。既に矢傷を追ふて、血にまみれた彼の肉体は、月明の中で悲劇的な背景をなしてゐる。五人の死刑執行人が、身を休めてゐる。一人は泉で水を飲み、他の一人は仲間と論じてゐる。《瞑想》は、夏の一夜、ビヤリッツの海辺での初見によって想を得たものであって、一人の牧師が崖の上に坐って頭を両手に抱へて瞑想に耽ってゐる。その黒い影は幻の様に空に映ってゐる。この絵は、パリー包囲の際、シャヴァンヌの手から盗み取られてしまった。《エロディヤット》に於いては、大きな階段の頂きにエロードの妻が立ってゐて、下に居る死刑執行者にバブチストの聖ヨハネを殺す合図をしてゐる。聖ヨハネは暗い教会堂下の暗い穴ぐらに閉じ込められてゐるのがみえる。《村の消防夫》は、シャヴァンヌが或る旅行中に目撃した光景を描いたものでる。遠方に見られる農家に火事が起きてゐる。人々や家畜が野を過って逃げ惑ってゐる。警鐘の音を聞いて、消防夫が駈けつけ、或る者はポンプを押し、或る者は梯子や綱やバケツを持ってゐる。この画面には厳しい写実と幻想との奇妙な混合が見られる。青い仕事着を着て頭に鉄兜を被った農夫や、法衣を着た牧師の傍らに素足で破れた着物を着、とり乱した数人の女が見られる。これらの女は田舎の仕立屋から出てきたと云ふよりは寧ろ歴史画や寓意画の中に見られる女たちである。
(つづく)

<シャヴァンヌ・ノート>
シャヴァンヌ 2 初期の作品(上)

<最初の出品>


 シャヴァンヌが最初に出品したのは一八五〇年のサロンであった。当時の模様を彼は次のやうに面白く語っている。
『どうにかかうにか 私は『ピィエタ』を仕上げたばかりであった。聖母の膝の上に死せるクリストが横り、すぐ傍にマドレエヌが跪いてゐる図である。入選にすっかりうれしくなって、開会の当日、私は自分の作品を見るために朝早く出かけた。自分の繪のまへに立ってみると、三人の人物が見えるべきなのに、二人の姿しか見えないではないか!驚いて近づいてよくみると、残念なことに、紫色の衣をつけた聖母は、私がうかつに描いた同じ紫がかった背景の中に溶け込んでゐることがわかった。この時始めて私は色彩の度合(ヴァルール)といふものをはっきりと知ったのだ。それから色調(トーン)の大切なことがわかった。実にこの日から始めて私は画家になったのだ。』
 この繪は永いあひだヌゥイリのアトリエに飾られてゐた。

 同年、彼は『父を救ふために血の杯を飲むソムブルイ嬢』を描いたが、その素描の数葉が今日、残ってゐるだけである。またこの頃には『母親の最後』或ひは『末期の母親の枕もとに立つジャン・カバリエ』と名づけられる作品がある。痩せ衰へた憐れな婦人が、野に面した窓べの寝台の上に横ってゐる。彼女の手は胸の上の大きな聖書のうへに、力なく置かれてゐる。今まで彼女は死の準備のために、詩篇を読んでゐたのだ。寝台と窓の間に、彼女の息子である栗色の髪をした美しい若者が何か聖歌をひくく弦楽器で奏でてゐるやうに見える。
 詩人アンリ・ド・ラクルテエルはこの繪に次のやうな四行詩を寄せてゐる。

 死にゆく母の希(ねが)ひに應(こた)へて、
 息子は悲嘆(かなしみ)の涙を抑へつ、
 いと低く琴を奏づれば、その安けき音(ね)とともに、
 母の魂(みたま)は天へと昇る。

 次いで、力強い筆勢と色彩をもてる『この人を見よ(エクセ・ホモ)』が描かれた。この繪はブルゴオニュの片田舎、シャンパニヤの小さい教会に所蔵されてゐる。
(つづく)

<シャヴァンヌ・ノート>

いま、渋谷でシャヴァンヌ展が開催されています。(Bunkamura25周年記念シャヴァンヌ展
シャヴァンヌは19世紀フランスを代表する画家で、博光は彼について戦前?のノート2冊(Chavannes1とChavannes2)にかなりの分量で書いています。フランスの解説書からの翻訳のようです。

全体で10章ありますが、1章は省いています。
2 初期の作品
3 リヨン人気質(マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人との関係など)
4 作家の心理 
5 文学及び哲学的教養
6 美学理論 審美学的原理
7 壁画についての想念
8 ヴィジョン
9 デッサン
10 色彩

始めの部分は:
2 初期の作品
 シャバンヌが最初に出品したのは一八五〇年のサロンであった。当時の模様を彼は次のやうに面白く語っている。
『どうにかかうにか 私は『ピィエタ』を仕上げたばかりであった。聖母の膝の上に死せるクリストが横り、すぐ傍にマドレエヌが跪いてゐる図である。入選にすっかりうれしくなって、開会の当日、私は自分の作品を見るために朝早く出かけた。自分の繪のまへに立ってみると、三人の人物が見えるべきなのに、二人の姿しか見えないではないか!驚いて近づいてよくみると、残念なことに、紫色の衣をつけた聖母は、私がうかつに描いた同じ紫がかった背景の中に溶け込んでゐることがわかった。この時始めて私は色彩の度合(ヴァルール)といふものをはっきりと知ったのだ。それから色調(トーン)の大切なことがわかった。実にこの日から始めて私は画家になったのだ。』
この繪は永いあひだヌゥイリのアトリエに飾られてゐた。・・・