時代の流れに──戰爭が終って

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



国民詩について

(「希望/エスポワール」 1953年10月号)

妙義
妙義山

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 詩に音楽性を
                      大島博光

 詩の朗読がまたさかんになる機運がみられる。 そしてそれはそれなりの条件と必然性をもっているのだ。つまり、集会と言論が自由となり、集会がわれわれの社会生活の大きな部分をしめるようになってきた。そして詩人たちもひとびとのなかに出て行って、すべてのひとびとと詩を語り合うようになってきた。また、ひとびともみずから自分の感情や思想を詩にうたうようになってきた。こうして詩の朗読される機運はいたるところにかもしだされてきている。詩の朗読会や研究会もよくおこなわれている。たしかに、詩の朗読はその役割と機運とを大きく増してきたのである。

 このような新しい条件のもとに、詩の朗読はさかんになるべきであるが、このことはどうしても朗読に適した新しい詩をつくりださなければならないこと意味し、あらためて詩について考えなおすべきであることを意味する。
 いままで、詩はきわめて少数の詩人たちによってつくられ、一部の詩を愛好者だけによって読まれてきた。つまり、詩と民衆とのむすびつきはほとんどみられなかった。詩人たちがひとりよがりの、狭い心情のみをうたってきたことも事実であり、このような傾向はまだまだ根深い。それに印刷の発達にともなって、詩はただ目でよまれるものになってしまい、詩の実質をなすところのリズム、調子、ひびきはだんだん失われ、散文とほとんどかわりのないものになってしまった。こうして、詩は目で読んで、頭でその意味や感じを解く判じもののようなものになってしまった。生活からかけはなれて、ただ頭のなかでつくりあげられるような詩は、このようなものになったのは当然のことと言わねばならぬ。

 詩も今こそすべてのひとびとの生活のなかに根をおろし、そこから歌いだされるものとならなければならない。そうしてはじめて詩の朗読される意義もはっきりしてくるのだ。いくら詩の朗読がさかんになっても、詩が朗読に値し、耳できいて美しい効果のある詩が書かれない限り、朗読の研究や練習だけでは、決して詩の朗読は進歩しないだろう。
 われわれは今こそ詩の音楽性をとりもどさなければならぬ。今こそ、詩が失っていた音楽性の翼をとりもどさなければならぬ。現実の生きいきした影像、ひとびとのよろこび、悲しみ、怒り、涙は、新しい詩のひびきとリズムのつばさにのってのみ、ひとびとの耳をうち、ひとびとの胸にねむっている感情をよびさまし、かきならすであろう。

(『新詩人』1947年3月)

千曲川


 詩人は見る者、透視者であるといわれる。眞に眼醒めている者として、眞に夢みる者として、詩人は今こそ厚い影の壁を見とおし、明晰に凝視し、厳密に夢みるべき時である。ひとびとの共同の生活に根深くはいり込んで、いたるところに暗い真理を読みとり、歌いださねばならない。私たちは二度と迷信や虚偽を歌わないように眼醒め、迷信や虚偽から人間を解放しなければならない。人間に無智を強い、人間をただ腐敗させるような巨大な悪の手から人間を擁護しなければならない。

 こうして私たちの人間性そのものが変えられるべき時がきたのである。より多くの意識をもてる新しい人間が形成さるべきであり、そしてこの新しき人間はそれを歌うべき新しき詩人を見出すであろう。革命的な新しき文化建設の一翼はそれら生れくる新しき詩人たちの肩に担われるであろう。私たちはそのような革命的な詩人の登場してくるのを心待ちに待っているのである。

 新しい詩は、詩と科学との綜合の方向に進められるであろう。新しい詩は、眞に悦ばしき科学の名をかち得なければならない。詩と科學とは両立しがたい相反する二つのものであるというように考えられてきたが、今やこの古い考え方は一掃されなければならない。古い世界にあって、エドガア・ポオにおいて詩的精神と科學的精神の綜合は試みられたのであったが、今や私たちの新しい世界にあっては、全く新しい面に於いて詩と科学との綜合が果たされねばならない。そうしてこのような詩精神と科學的精紳の結婚は詩人の内部に於いてまず生きられねばならない。詩は単なる詩論や詩形からつくられるのではなく、詩への生きた血と肉をとおして、果実のように熟すべきものだからである。いかに現実からかけ離れ、人間性から抽象されているように見える詩作品でも、なお真実には生きられた地上の生活のひびきと雰囲気とを担っているからである。しかし、ここで詩と科學との総合を掲げたとはいえ、それは詩のなかに科学的術語や代数の方程式を取り入れよ、という意味ではない。詩の中に於いてはすべての思想や理念は深く秘められていなければならず、ここでいう科學、或いは科學精紳も詩のなかに深く秘められ、いわば眼に見えない血管のように詩をつらぬいて流れ、或いは眼に見えない堅い骨格のように、詩の肉を支えるものでなければならない。このような詩が生まれてくるためには、科學的精神が詩人の内面生活に浸透し、そこで血となり肉となっていなければならず、しかも絶えざる覚醒と追求とによって闘いとられねばならない。

 今やすべてのひとびとの飢えた胸をうつ新しい言葉の音楽は、新しい世界の生成とともに鳴りひびき、迸りでるだろう。新しい影像は現実を抉りつつ、新しい未知を拓き、新しい夢を見させるであろう。
 「夢みなければならぬ」というレーニンの言葉は、新しく詩人たちに課せられているのである。
(完)

(『新詩人』1946年3月)

千曲川
千曲川と飯縄山

 新しき詩のために
                      大島博光

 私たちの世界は一変しつつある。それはまさに革命という言葉によってのみよく言いあらわされるような偉大な変化である。それは単に私たちの外部世界の変革ばかりでなく、私たちの内部世界までが変革されようとしているのである。昨日まで真理のように歌われていたものも、今日ではもう真理ではなくなっている。昨日まで美しいものと思われていたものも今はもう美しいものではなくなっている。昨日の善も今日の善ではない。全く世界は一変しつつある。私たちはこの偉大な変化にいかに驚いても驚きすぎるということはない。そうして驚きにつづいて、よくはっきりとこの変化に想いをいたし、新しい詩の出発をなすべき時である。

 昨日まで私たち詩人も真の自由をもったことはなかった。私たちの周囲にはただ無智と退廃ばかりが見られた。ほんとうの理想をかかげ、真理を歌おうとするものの唇は大きな影によって抑えつけられた。ひとびとは離れればなれに孤立し、互いに胸を開いて語りあうこともできなかった。ひとびとは互いに敵視しあい、互いに疑いあっていた。私たちは今こそ、それが何処に由来してるかをはっきり知らねばならない。それは虚偽と欺瞞と迷信によって構成された野蛮な國の悲しい暗い気候だったのである。

 昨日まで詩人たちは孤独を嘆きつつ、或いは孤独を誇りつつ、孤独に歌っていた。またその或るものは象牙の塔に隠れ、真の詩人たちの多くはいつか歌うことをやめ、沈黙してしまった。しかし、他方、戦中ほど虚偽と迷信の詩が多く書かれたことはなかった。それらは真実には詩でも何ものでもなかった。むしろ詩があのように汚され、あのように汚わしき暴力の奉仕に駆りたてられるたことはいまだかってなかったのみならず、マルスが歌うとき、ミュウズは黙するといわれるが、しかしミュウズはただに黙したばかりではなく、その多くの愛人たちをも奪いさられたのであった。私たちの仲間であった多くの若き詩人たちはもはや永遠に私たちのところへは帰って来いのである。詩神に捧げられるべきであった彼らの美しい胸は、無残にも暴虐なマルスの足にふみつぶされたのである。私たちは私たち詩人のペンの弱さを嘆きつつも、今やこれら戦線に散った私たちの美しき仲間の霊に謝罪しなければならぬ。そうして私たちは二度とかかる野蛮の支配を招かざるよう、私たちの弱いペンを躯って、勇敢に歌わねばならぬ。(つづく)

(『新詩人』1946年3月)

千曲川

 屍体置場
                   大島博光

一本の樹もない 黄色い砂地の上
崩れ落ちた 家並みのあいだ

投げ出され 放り出された屍体たち
横向きに 斜めに 十文字に

血も乾いた檻裡と 頭と手と脚の堆積(やま)
むきだしにさらされた 無数の死

手を天にあげ 地だんだふんで
泣きわめいている 女たち

幼い眼に 涙と闇をたたえて
途方にくれている 子供たち

何ひとつ身を守る手だてをもたぬ
年より 女 子供たちが虐殺された

その画家と詩人とを
まだもたない 新しいゲルニカ

路上の屍体置場は 叫んでいた
人間が 人間にとって狼になったと

犯罪は ベイルートの
シャチーラ*で行われた

 * レバノンのベイルート市内にあるパレスチナ難民キャンプ。

(『赤旗』1982年10月21日、『大島博光全詩集』)
 緑の泉

赤く焼けただれた亜鉛の廃屋
ひろく開けた澄んだ青空
骸骨のように焦げ残った黒い木立
崩れた壁を縫う涸れた地平線

──灰が坤く
疲れはてた悪夢の夜から
蒼ざめた憎悪の額が立ち上る
廃墟のなかに春の嵐が目覚める
いたるところ正義への郷愁が蘇える
いたるところ美しい怒りの眼がひらかれる

廃墟のなかに投げすてよ
彼らの罠を鎖を鞭を神神を
そうすれば忽ち湧き出るだろう
灰の中に 緑の泉が奇蹟のように

(1946『ルネッサンス』5月号・『大島博光全詩集』)

 自由都市・東京
                         大島博光

囚われの自由都市・東京
だが どん底でなお 明日の日を歌う街・東京

あどけない子供たちの遊び場から
いたいけない小学生たちの教室から

競輪場が見える
競馬場が見える
四辻 四辻で 駅前で
官許の賭 宝くじが賣られる
大蔵省の名で賣られる

愛の本も賣れなくなった
本屋はパチンコ屋になった

男も女もむなしい鉛玉を廻している
年寄りも子供も賭けている

太平洋岸のモンテカルロで
オペラ・ハウスの緑のテーブルで

祖國の運命が賭けられているのに
じぶんたちの血と肉が賭けられているのに

パンさえ賣れなくなった
パン屋もパチンコ屋になった

ひとびとは忘れようと賭けている
みじめさを賭けている

生死を賭けるに足る賭を知らずに
自分の運命を変える大きな賭を知らずに
ひとびとは小さな破滅の賭けにふけっている

そうして電車のなかに バスのなかに
木枯らし吹く場末の街に

ひとびとの眼は暗い
ひとびとの額は蒼い

生きた墓場のように
原子砂漠の亡霊のように

そうして焼跡から 錆びた銃剣が立ち上り
埃捨場から 長靴が立ち上り

不吉なサーベルの音をひびかせる
戰爭の重い歩調をとりはじめる

<ノート 昭和28年頃>