スペイン紀行 Spain Travelogue

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 アントニオ・マチャドの墓

 わたしたちはグラナダからまた二○時間も超鈍行列車にゆられて、ヴァルセロナに着き、そこで、ピカソ美術館やガウディの「サグラ・ダ・ファミリヤ」の奇妙な尖塔群を見たりした。ここのピカソ美術館には、ピカソの少年時代からごく初期の絵画やデッサンが集めてあって、それらの初期の作品のなかに、すでに後年の大ピカソへと発展・展開してゆく萌芽を見ることができて、感銘深かった。
 それからわたしたちは、地中海の絶妙海崖(コート・ド・メルベイニ)に沿って走り、スペインとフランスの国境を越えてまもない小さな町コリウールに降りた。ここの墓地に眠るアントニオ・マチャドの墓に花束をささげるために。
 コリウールは小さな漁港でもあるが、夏には押しよせる海水浴客で賑わう地中海岸の町である。だが十一月ともなれば季節はずれで、たくさんのホテルや別荘はみんな閉ざしていた。一軒だけ、ホテル・タンプリエというのがひらいていて、もう避寒にきているらしい数組の老夫婦が泊っていた。このホテルの壁という壁は、絵で埋まっている。見るからに 下手くそな画や、しかし楽しい画が、ぎっしりとかけてある。このホテルに泊った画学生や日曜画家が置いていったのにちがいない。「絵がたくさん、たくさんある」といって、ホテルのおやじはそれを自慢していた。食事のとき、下のレストランに坐って、ひょいと前の壁をみると、なんとそこには、ピカソの署名入りの絵や例の鳩のデッサンなど四、五点が飾ってあるではないか。どうやらピカソもこのホテルに泊ったことがあるのかもしれない……。
 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へむかった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海べの墓地にちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャドの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような墓石には、「スペインの詩人、アントニオ・マチャド/一八七五年七月二六日セヴィリャに生まれ/一九三九年十一月二二日コリウールに没す」と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二二日で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が覆いかけてあって、追悼と讃辞(オマージュ)を書いた紙きれが三、四枚、小さな石で押えて、供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……。そこに来あわせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に、死んだマチャドが葬られたとき、かれのからだは引き裂(デジレ)かれていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャドの死はひとびとの話題ともなったのにちがい 。──ロルカが銃殺されたとき、いち早く「虐殺はグラナダで行われた」を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいたマチャドは、その後フランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、ここで非業の死をとげたのであった……
 マチャドの死から数年後の一九四一年十二月、第二次大戦下のレジスタンスで、「パリの虐殺」の作者ジャン・カッスーは、南仏のトゥールーズで捕えられて、軍事刑務所の独房にぶち込まれた。かれはそこで「独房で作られた三三のソネット」をつくった。その二一番めのソネットは、かれの敬愛するマチャドにささげられている。
 スペインの人たちは国境を越え、ここコリウールの墓地にまで詣でるのである。
(おわり)

(『詩人会議』 1979年4月)

マチャードの墓
マチャドの墓にて

 さらに、そのフェンテ・ヴァケーロス村の白い砂地のひろい広場で、一九七六年六月五日、ロルカ生誕七十八周年記念集会が、六○○○人の参加者たちによって、ひらかれたのであった。この集会は、官憲の監視のもとに、三○分だけ許され、それ以上は一分たりとも超過してはならなかったといわれる。この集会でロルカの詩が朗読され、アルベルティの「歳月は過ぎ去らなかった」が朗読された。その一部分をここに掲げておこう。

  ……
  「フェデリコと 叫ぶ声がおれに聞こえる
  屋根のうえから フェデリコ
  庭のなかから フェデリコ
  崩れ落ちた塔から フェデリコ
  消えた泉から フェデリコ
  凍(い)てつく山から フェデリコ
  暗い川から フェデリコ
  掘り返えされた大地から フェデリコ」
  ──なんだ なにが起きたのだ?
  ──なんでもないさ
  ──そんな風に騒がずにそっとしといてくれ
  ──よし わかった
  心臓はひとりぼっちで この世から出て行った
  ──ああ ああ かわいそうなおれ! フェデリコ!

  彼は いまもまだ立っている
  ひとは いまも 彼について
  語ることができる
  平然とした 彼の顔を描くことができる
  彼の葬式の 倒れて硬くなった 大理石の顔を
  なぜなら 彼はずっと あそこに
  血の海のなかに 漬(つか)りつづけ
  あそこに 根をおろしているからだ
  彼は 血にまみれた鏡の水銀に面と向かい
  自分の詩のなかの自分を見つめ
  自分の哀れなスペインを
  蛆虫どもに食い荒された
  死んだスペインを 見守っているからだ 
  カルロ・クァトラッチが* ローマで彼を描いた
  画家は そのように彼を描くことができた
  なぜなら 三〇年後のいまも
  歳月は過ぎ去らなかったからだ
  そうだ 歳月は過ぎ去らなかったのだ

    *訳注 この詩は、画家カルロ・クァトラッチの挿画入りで発表された。

 この詩が六○○○人の聴衆のまえで朗読された集会をおもいみて、わたしはひろい広場にしばし立ちつくしていた……。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

ロルカ
 犯罪はグラナダで行われた

 ところで、この自由で甘美な詩人は、周知のように、一九三六年八月十九日、フランコ一派のファシストたちによって、このグラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺されたのだった。その一カ月前、スペイン共和国に襲いかかったフランコ・ファシストは、まるでその出撃の合図ででもあるかのように、いち早くロルカを血祭りにあげた。なによりもロルカの自由の精神が、ファシストたちの怒りと憎しみを買ったのである。先輩老詩人アントニオ・マチャドは、いち早くロルカの死を詩に書いた。この詩は数年前すでに「文化評論」に発表されたが、もう一度ここに引用しておこう。

    犯罪はグラナダで行われた
                        アントニオ・マチャド

  かれは銃にかこまれ/長い道を とぼとぼと歩き
  まだ 星の残っている朝まだき/寒い野っ原に 姿を現わした
  やつらは フェデリコを殺した/そのとき 朝日が昇った
  死刑執行人(ひとごろし)の一隊は/かれをまともに見ることができなかった
  やつらは みんな眼を閉じて祈った/──神さえも救えはしない!
  かれ フェデリコは倒れ死んだ/──額から血を流し 腹に鉛をぶち込まれて
  虐殺は グラナダで行われた/知ってるか──哀れなグラナダよ
  フェデリコのグラナダよ

  ……/とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた

  友よ わたしのために建ててくれ /石と夢の墓を──詩人のために
  アランブラの/すすり泣く 泉のほとりに/そうして 永遠に伝えてくれ
  虐殺は グラナダで行われた と/かれのふるさと グラナダで行われた と

 はじめてこの詩を訳したとき、わたしはまだアランブラ宮殿のことはよく知らなかった。そのアランブラを見てみると、「アランブラの/すすり泣く泉のほとりに」という詩句が、遠いむかしの悲劇と現代のそれとを結びつけて、言いようもなく美しく適切なものに思えるのであった。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

アランブラ

ロルカの家

 翌日の朝、ロルカの家を訪ねるべく、グラナダ郊外のフェンテ・ヴァケーロス村へとタクシーを走らせた。ちょっとした工場地帯を抜けると、オリーヴ畑があったり、丈の高いポプラ林のあいだに農地が広がっている。行手に、禿山が、やわらかい線を描いて現われる。ずんぐりとして太い大根を満載したトラックと、何回もすれちがう。恐らく砂糖大根を工場へ運ぶのにちがいない。ギュヴィックが砂糖大根のことを詩にかいていたのを思い出した。やがて街道から左に折れてしばらく行くと、白い家々をつらねた、フェンテ・ヴアケーロスの村にはいる。ひろい広場があって、小さな木がそこここに立っている。陽の輝く午前なのに、村の人々が三々五々、連れ立って、この広場でおしゃべりをしている。タクシーの運転手が、ロルカの家をきき出してくれた。広場から左にちょっとはいったところに、やはり白い家がひとかたまりつづき、そのひとつの家に、「フェデリコ・ガルシア・ロルカの家」としるした銅版がかかっていた。わたしたちが写真に撮っていると、この家の現在の住人らしい老人が出てきて、黙って向うの方へ歩いてゆく。「わたしらをそっとして置いてくれ」と言いたげに。そこへ、ぼろをまとった、大柄で赤ら顔のジプシー女が出てきて、大声で何かまくしたてた。わたしはとっさに、そのジプシー女をカメラに収めた。すると、そばに立っていた、やはりジプシーらしい二人の若者といっしょになって、そのジプシー女が、わたしたちに手のひらを差し出してきた。カメラに撮った、そのモデル代を出せ、というのだ。わたしたちは何がしかのペセタをその手のひらにのせてやった……ジプシーたちは、働く仕事もなく、貧しいままに、村の広場に集って、おしゃべりなどをしているのかも知れない。そういえば、アランブラ宮殿の近くで、来かかった二人の若い男に道をきいたら、たちどころに、かくし持っていた靴みがき台を出して、靴をみがき始めた。あっけにとられているわたしたちに、しかも二○○ペセタを要求してくる。……この二人もジプシーだったのだ。こうしてみると、ロルカが「ジプシーの歌」を書いた、その源泉が肌に感じられるような思いであった。
 ロルカは「栗色の歌」という詩で、栗色の女をうたっているが、あるいは彼女もまたジプシー女だったのかも知れない。

   栗色の歌
         フェデリコ・ガルシア・ロルカ

  わたしはふみ迷い 消え入る
  栗色の おまえの 大陸に
  マリア・デル・カルメンよ

  ほかのものに見とれて うつろな
  おまえの眼の中に わたしは消え入る

  おまえの腕の中に わたしは消え入る
  空気までも 栗色に染めて

  そよ風が なぶっている
  おまえの肌の そのうぶ毛を

  わたしは 滑りこみ 消え入る
  むっちりと 息づき はずむ
  おまえの ニつの乳房のあいだから
  おまえの甘いからだの 暗い深みへ

(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

ロルカの家

 しかし、アランブラの最大の悲劇は、一四九二年、カトリック王フェルナンドとイザベルによって、アラブ最後の拠点だったこのグラナダが落とされたことである。
 アラゴンは、「グラナダの陥ちた前夜」という、ある歌の文句にとり憑かれて、──そこにまた第二次大戦ちゅうのパリの陥落を思いあわせて、やがて、「エルザの狂人」という尨大な散文と詩による大冊を書くことになる。そこでは、アラブの王の悲劇、アラブ文学・哲学、などが縦横に歌われ、二○世紀の問題として、考察されることになる。「巻頭の歌」はアラブ最後の少年王の嘆きを歌っている。

  風も凍てつくアランブラに
  わたしは 痴呆のように生きた
  うつろな眼 灰色のくちびる
  つぶやく噴水 いつか傷つき
  いま割れて 砕ける 鏡よ
  グラナダの陥ちた 前夜

  わたしは 使いはたされた夜だ
  朝がた おのれの思想を探すのだ 
  またわたしは もう賭け金もなく
  自分のシヤツを引き裂く賭博者だ
  すでに刺された心臓をひとが狙う
  グラナダの陥ちた 前夜

注 アランブラ宮殿で、英語による解説者はアルハンブラと発音していたが、グラナダのタクシーの運転手はアランブラと発音し、アルハンブラではないと言った。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

アルハンブラ


グラナダ紀行
                     大島博光
アランブラ宮殿

 さる十一月上旬、マドリッドでひらかれたチリ連帯国際会議に出席した帰途、南スペインのグラナダを訪れた。
 グラナダ……それは、重い、深いひびきをもつ名まえだ。アランブラ宮殿が、繊細優雅なアラブ文化・芸術の粋をいまにつたえると同時に、アラブ王国が滅びさった悲劇をそこに秘めているからである。そしてまた、それは、フェデリコ・ガルシア・ロルカの町であり、しかもかれがそこで銃殺された町である……
 わたしたちはマドリッドを夜の急行で発ったが、急行とは名ばかりの超鈍行列車で、そのうえがたがたと横ゆれがひどい。出発のときは気笛らしいものが、ヒーヒーと鳴って、まるで騾馬の啼き声を思わせる。するとまたわたしには、それがドン・キホーテのお供のサンチョ・パンサの騾馬のように思われてくる……つまり、わたしたちは、のろいサンチョの騾馬に乗って、荒涼として広いカスチリヤの野を、アンダルシヤへと向って、のろのろと走っているのだ……
 翌朝やっとグラナダに着く。駅のカフェテリヤで、ミルク・コーヒー二杯とハム・サンドを食べたが、うまかった。それから、間島さんがかねて目星をつけておいた、ホテル・グワデルーペにタクシーをとばした。街なかに大きな噴水や銅像があり、古い城門をくぐると、鬱蒼と樹木の茂った坂道になる。幾台もの観光バスが走っている。そこがアランブラの宮殿の前庭ということになる。いくつかのホテルを通り越して、最後のホテルがグワデルーペであった。近くに、「アルハンブラ物語」を書いたアメリカ人ワシントン・アーヴィングの名をとったホテルもあった。(「アルハンブラ物語」は江間章子さんの訳で、講談社文庫に収められている。) 通された四階の部屋は、たいへんわたしの気に入った。窓べに、ポプラ林が黄色い葉むれを輝かせていた。その枝越しに、向うは、低い松の点在する小さな低い山になっている。ホテルに鞄をおくと、さっそくアランブラ宮殿へ向うが、ホテルから五百メートルぐらいしかない。道の片側には、赤煉瓦のぶ厚い城壁がそそり立って、つづいており、片側は亭ていとそびえた森になっていて、ポプラや銀杏のたぐいが、黄色くなった葉むれを秋の陽に輝かせている。かねて写真で見た、「獅子の中庭」や「太子の間」などの前に立ってみると、つまり、太陽のひかりのもとにあるそれらを見るとますます夢まぼろしのなかにいるような想いになる。水盤をささえている石の獅子たちの鼻が、永い時の流れのなかで、もう擦りもげている。「コーラン」をモザイクできざみこんであるという大理石の壁面、みごとなアーケードと噴水をあしらった中庭の組み合わせ、すべてが繊細優雅で変幻自在な結構である。また、美女たちがその裸形をさらしたであろう大浴場のうちの「アベンセラーへスの間」には、血なまぐさい物語が伝えられている。ムレイ・アビュル・ハッサンという王は、お気に入りの愛妄ソラヤの子に王位をつがせるために、最初の王妃との間に生れた自分の子供たちをみんな、この部屋で暗殺させたというのである……。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

アルハンブラ
 マチャードの死から数年後の一九四一年十二月、第二次大戦下のフランスで、『パリの虐殺』の作者ジャン・カッスーは、抵抗活動のさなか、南仏のトゥールーズで捕らえられ、軍事刑務所の独房にぶち込まれた。かれはそこで、紙もペンもなしに『独房で作られた三十三のソネット』をつくった。三十三のソネットを暗誦しておいて、公判のために外に出た折に、さっそく紙に書きとったのである。その二十一番目のソネットを、かれは敬愛するマチャードにささげている。なお、ジャン・カッスーもスペイン出身である。

  アントニオ・マチャードの墓
                   ジャン・カッスー

  聖なる魂よ 慈愛にみちたあなたは
  夜の聖女たちを みちびいて
  汚辱の地に 辿りつくが
  あなたの松明(たいまつ)もその地を清めはしない
  
  もはや 砂でしかない国から
  聖女たちは あなたの灰を解き放ち
  明るく飛ぶ小鳥たちのように
  ひろびろとした空にまき散らす

  そこであなたはまた見いだすだろう
  涙にくれた あの深い夏の匂いを
  コリウールの 墓石のほとり

  そこに囚人らは 朽ちはててゆき
  うち砕かれた 怒りの壺のほかは
  もう 何ひとつ 残らないだろう

 わたしもつぎのような詩をマチャードの墓にささげた。

  アントニオ・マチャードの墓
                      大島博光

  地中海の 小さな漁港
  スペインに近い コリウール
  海べの墓地の 糸杉のかげに
  アントニオ・マチャードは眠る

  いち早く ロルカの処刑を
  あばき歌った 詩人もまた
  カスティリヤの狼どもに追われ
  国境を越えて ここに倒れた

  「この墓の下に葬られた時
  彼はもう 引き裂かれていました」
  いあわせた老婆は 話してくれた
  怖るべき思い出をたぐって

  墓石のうえには 菊の鉢植え
  死者を讃(たた)える 紙片(オマージュ)数枚
  スペイン文字のインキの色も
  雨ににじんで 色褪(あ)せて

  横たわった 平らな墓石の裾を
  赤・黄・紫の 三色旗が蔽う
  まるで 墓石をかい抱いて泣く
  黒い眼の スペイン娘のように

  そうだ スペイン人民は国境を越え
  いまも ここコリウールの墓地へ
  花束と涙を ささげにくるのだ
  たたかい倒れた詩人のために

           (この項おわり)

<草稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」>

マチャードの墓

 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へ向かった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海辺の墓地にはちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャードの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような平墓石には、

  スペイン詩人 アントニオ・マチャード
  一八七五年七月二十六日 セヴィリヤに生まれ
  一九三九年十一月二十二日 コリウールに没す

と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二十二日 で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が蔽いかけてあって、追悼と賛辞(オマージュ)を書いた紙きれが三・四枚、小さな石で押さえて供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……そこに来あせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶり手ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に死んだマチャードが葬られたとき、かれのからだは引き裂かれ(デシレ)ていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャードの死はひとびとの話題ともなったのにちがいない。──一九三六年から一九三九年にいたるスペイン内乱には、彼は人民の側に立って民主主義のためにたたかった。ロルカが銃殺されたときには、いち早く『虐殺はグラナダで行われた』を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいた。その後彼はフランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、コリウールの広場でこの世に別れを告げた。それはスペイン人民とおのれの信念に忠実な模範的な死であり、すべてのひとびとが敬愛をささげる死であった。その日、コリウールの広場では、鈴懸けの樹木の枝も折れんばかりに、大風が吹き荒れていたという……

 アラゴンは『詩人たち』のなかに書いている。

  マチャードは コリウールに眠る
  スペインを出て 三歩も行かぬうち
  空は かれにとって 暗く重くなった
  かれは この田舎に 坐りこみ
  永遠に その眼を 閉じた
                (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

 ▷コリウール─アントニオ・マチャードの墓(下)

マチャードの墓
Machado's grave in Collioure

コリウール  アントニオ・マチャードの墓(上)

 一九七八年十一月二十二日
 グラナダからまたおんぼろの列車に乗り、地中海の太陽海岸(コスタ・デル・ソル)をくだった。ヴァレンシアの秋の夕焼けの海は、何か夢のなかでみる海のようにうつくしかった。岩の上からリール竿を投げている釣りびとたちの姿も見え、その釣りびとたちがたいへん羨ましかった。わたしもつりきちがいだからである。あんなうす薔薇色に映える、静かな海に向かっていたら、魚(さかな)なんか釣れなくたっていいのだ……

 ヴァルセロナは埃っぽい古い灰色の都市(まち)だ。ローマ時代の遺跡や中世のカテドラルが建っていて、街じゅうがその灰色に調子をあわせているようなところがある。そんななかに、さいきんわが国でも評判になっている、ガウディのサグラーダ・ファミリア贖罪聖堂の尖塔群が夢幻的な色と形でそびえていた。また、ここのピカソ美術館には、ピカソの少年時代からごく初期の繪畫やデッサンが集めてあって、それらの初期の作品のなかに、すでに後年の大ピカソへと発展・展開してゆく萌芽を見ることができて、感慨深かった。ここでは『ゲルニカ』の大判の複製なども賣っていた。
 それからわたしたちは、地中海の絶妙海岸(コート・ド・メルベイユ)に沿って走り、スペインとフランスの国境を越えてまもない小さな町コリウールに降りた。ここの墓地に眠るアントニオ・マチャードの墓に花束をささげるために。
 
 国境を越えるとき、丸い弁当箱をうしろで切ったような、いかめしい帽子をかぶった警官たちが、ものものしい検問をしていた。わたしはふと、スペイン戦争の頃のきびしい検問を想いみた。
 コリウールは小さな漁港でもあるが、夏には押しよせる海水浴客で賑わう、地中海岸の町である。だが十一月ともなれば季節はずれで、たくさんのホテルや別荘はみんな閉ざしていた。一軒だけ、ホテル・タンプリエというのがひらいていて、もう避寒にきているらしい数組の老夫婦が泊まっていた。このホテルの壁という壁は、繪で埋まっている。見るからに下手くそな繪や、しかし楽しい繪が、ぎっしりと懸けてある。このホテルに泊まった画学生や画家たちが置いて行ったのにちがいない。繪がたくさん、たくさんある、といって、ホテルのおやじはそれを自慢していた。食事のとき、下のレストランに坐って、ひょいと前の壁をみると、なんとそこには、ピカソの署名入りの繪や例の鳩のデッサンなど四、五点が飾ってあるではないか。どうやらピカソもこのホテルに泊まったことがあるのかも知れない……
               (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

サグラダコリウール
La Sagrada Família              Hotel Des Templiers


3.ロルカの家

(4) ロルカの死を悼んだエルナンデスの詩

 なおここに、やはりロルカの死を悼んだミゲル・エルナンデスの詩をしるしておこう。かれは羊飼いから詩人になった男で、ネルーダはかれのことを「オレンジのしみのついた鶯を口のくちにいれてやってきた」とうたっている。エルナンデスはスペイン戦争のとき人民戦線軍の兵士として戦い、ポルトガル国境でフランコ軍にとらえられ、オカニヤの牢獄で死んだ。

フェデリコ・ガルシーア・ロルカへの悲歌
                           ミゲル・エルナンデス

錆びた槍をたずさえ 大砲を身によろって
死神が カスチリヤの草原をよこぎる
人間は 草原で 根と希望をたがやし
塩をふりかけ 死者たちの頭蓋骨(ほね)を蒔く

おお ひろい地面のうえの緑よ おまえが
喜びに溢れたのは どれほどの時だったのか
いまは太陽も ただ血を腐らせて黒く乾かし
いっそう暗い闇を 湧き上がらせるばかり

苦しみ悲しみが 黒いマントを着て
またしても おれたちの間に割か込んでくる
おれはまたしても 涙の路地に
降る雨のように はいり込む

おれが 二六時中 はいり込んでいるのは
このにがい苦しみを塗りこめた闇の中
涙にぬれた眼と嘆きにみちみちた闇の中
入口には 断末魔の苦しみの蠟燭が燃え
人びとの心臓をつらねた 怒りに燃える首飾り

もしもできるものなら 人気ない水の根方で
井戸の底で おれは 思いきり 泣きたい
そこでなら だれにも 見られはしない
おれの泣き声も 濡れた眼も 涙の跡も

おれはゆっくりと入(はい)る 額が重くのしかかる
まるでゆっくりと心臓がひき裂かれるようだ
ゆっくりゆっくりと そしてまたしてもおれは
詩人のギターの前で 声をあげて泣くのだ

おれが悲しむ すべでの死者たちのなかで
だれにもまして忘れられぬこだまがある
それはおれの心にいちばん深く鳴りひびいたからだ
おれはつらい悲しみで その男の手を執るのだ

きのうまでは フェデリコ・ガルシーアが
かれの名前だった きょうは 土くれがかれの名前だ
きのう かれは 白日のもとに席を占めていたが
きょうは 草葉のかげの穴がかれを迎える

これがかれのすべて かれはもうこの世にいない
きみの 柱やピンを揺すっての騒々しい喜びよう
きみはその喜びを歯から抜きとってふりかざした
いまや哀れなきみは 棺桶の楽園しか望めない

骸骨(ほね)を身にまとい 鉛のように眠りこみ
心動かさぬ冷静さと敬愛でかたく武装して
おれはきみの眼のなかにまではいり込もう
もしもきみが おれに見えるものなら

きみの 鳩の生命を 風が吹きとばした
まるで一陣の羽根の突風(はやて)のように
きみの鳩は その白さとその啼き声で
空と窓べを 花輪のように飾っていたのに

林檎の従兄弟(いとこ)よ 黴(かび)もきみの樹液にはうち勝てぬ
蛆虫の舌も きみの死には うち勝てない
林檎の実に 野性のたくましさを与えようと
林檎作りは きみの骨の髄を選ぶだろう

鳩の息子よ 鶯とオリーブの孫よ
きみは 地球がまわっているかぎり
いつまでも 麦藁菊の夫であり
すいかずらの父親であるだろう

死神は なんと単純素朴であることか
だが 彼女はまた 不法にも乱暴なのだ
彼女は やさしく振舞うことができない
思わぬ時に その不吉な大鎌をふるうのだ

いちばん堅固な建物だったきみが ぶち壊された
いちばん高く飛んでいた鷹が 撃ち落された
いちばん大きく鳴りひびいた声が 黙りこんだ
あとには 沈黙 永遠の沈黙 沈黙

ひとりの詩人が死んで 詩神は脇腹に
致命傷を負ったのを感じ その身ぶるいは
宇宙的な振動となって 山やまを走り
死の光は 川という川の子宮を走る

村村のすすり泣き 谷間じゅうの嘆きが聞こえる
涙の乾くことのない たくさんの眼が見える
涙の雨 喪の黒いマントが見える
喪につづく喪、のべつまくなしの喪だ
涙につづく涙、のべつまくなしの涙だ

きみの骨は風のなかにばら撒かれはしない
やさしくて苦(にが)い詩人よ 蜜の火山 閃く稲妻よ
長い二列の匕首(あいくち)のあいだの 熱いくちづけで
きみは味わったのだ 長い愛 長い死 長い熟さを

きみの死の伴奏をしようと ぞくぞくと
空と大地の隅ずみから やってくるのは
空駆ける協和音 顛える弦の青い稲妻
打ち鳴らされる カスターネットの一群
ジプシーの長太鼓 フリュートの一隊
一斉に鳴りひびく鐘 バイオリンの一団
ギターとピアノの嵐 トロンペットと喇叭の洪水

だが沈黙は これらすべての楽器よりも大きく深い

荒涼とした 死のなかの
沈黙 孤独 ちりあくた
きみの舌 きみの息吹きは ぴしゃりと
みずからの上に扉を閉ざしてしまったようだ

かつて きみの影といっしょにさまよったように
いまおれは 自分の影とともにさまようのだ
沈黙が重く覆いかぶさっている大地のうえ
糸杉がいっそう暗くしている大地のうえ

きみの断末魔の苦しみは
鉄の責め具のように おれの咽喉(のど)を締めつける
まるで 死に洒を舐める想いだ
フェデリコ・ガルシーア・ロルカよ
きみは知っているのだ おれが毎日
死と額をつきあわせている連中のひとりだということを


 ここには、ロルカの死とエルナンデスの慟哭とが、詩のことばで、密度濃くうたわれていると同時に、ロルカの偉大さもみごとに表現されているといえよう。また、死をきびしく克明に歌った詩人ケベードの伝統を、そこに読みとることもできよう。だが何よりもここには、フランコ・ファシスト軍にたいして、一兵士として、「毎日 死と額をつきあわせている連中のひとり」として戦った詩人エルナンデスの切実さがにじみ出ているのである。

(この項おわり)

3.ロルカの家

(3) 歳月は過ぎ去らなかった


 さらに、このフェンテヴァケーロス村の白い砂地のひろい広場で、一九七六年六月五日、ロルカ生誕七八周年記念集会が、六〇〇〇人の参加者たちによって、ひらかれたのであった。この集会は、官憲の監視のもとに、三〇分だけ許され、それ以上は一分たりとも超過してはならなかったのである。この集会でロルカの詩が朗読され、ラファエル・アルベルティの『歳月は過ぎ去らなかった』が朗読された。この詩はスペイン内戦三〇周年を記念して書かれたものである。

   歳月は過ぎ去らなかった
                       ラファエル・アルベルティ

「この平和の三〇年
スペイン万歳を叫ぶスペインは
ずっと わしを映す鏡なのだ
いつもそこに自分を映して
日ごとに若がえる自分を見いだし
死者たちのように幸福な自分を見いだし
わしは年齢(とし)をとらぬのだ」
「おまえはこう言いたいのだ
おまえはおれたちを殺した時の年齢(とし)のまんまだと
おまえは死者たちを呑みこんだ墓場なのだ」
「神の御加護で わしは恩寵にあずかっておる」
「おまえは戦死者たちの谷間なのだ
死者たち
かず限りもない死者たち
おまえは 死者たちの保管所だ
おまえは 死者たちの博物館なのだ」
「わしの良心にやましいことはなにもない」
「おれたちはかず限りない死者たち
怖るべき空虚(うつろ)さだ
ぽっかりと口をあけた穴だ
銃殺された血が煮えくり返っているのだ」
「たとえわしが死なねばならぬとしても
天国がわしを迎え入れてくれるわ」
「おれたちは かず限りもない死者たちだ」
「この輝く太陽と 押しかけてくる観光客
溢れる喜びと わしの王公ぶり
わしのおかげで スペインは生きておるのだ
よく見るがよい
これが わしの王国なのだ」
「おれたちは かず限りもない死者たちだ」
「わしは 神のご加護でスペインを統治しておる
わしは わし自身の後継者なのだ
スペイン人よ 諸君に勝利をもたらしたのはわしじゃ」
「おれたちはかず限りもない死者たち
おれたちには 墓もない
おまえは毎日おれたちを踏みつける
すべての死者たちが泥となって
おまえの長靴にひっつくのだ 
生ける死者どころか おれたちは生きていて
おまえの足の下で ぎしぎし音を立てるのだ
「ほんとうにおれたちは おまえを映す鏡なのだ」
「わしはスペインが待ち望んでいた救世主じゃ
見るがいい わしの約束した平和と歳月を」
「そんなものは死者たちの平和だ」
「いや 平和の三〇年だ」
「そんなものは死者たちの平和だ
傷つき
よろよろとよろけ
凍え
焼かれ
泣き呻き
殴りつけられ
うちのめされ
辱かしめられた
死者たち」  
「平和の三〇年だ」
「死者たちの平和だ」
「まさに スペイン万歳を叫ぶこのスペインは
ずっとわしを映す鏡なのだ」
「おれたちは死者たち
死者たち
かず限りもない死者たちだ
だが この死者たちは
挙げている
挙げている
高く挙げているのだ
死者たちの手を

「マチャドは はるか遠い向こうに
いまも 向こうに埋められている
かれを見守っていたポプラの木が一本
ドエロ川の岸べをのがれて
いまも向こうで かれを見守りつづけている」
「おれたちはかって はっきりと歌ったが
いまもはっきりと歌っている
おれは おまえなどとはいっしょにいない
おまえなどを歌うために
おれの唇からは ただ一つの言葉も洩れず
おれの手は ただ一つの綴りも書かなかった」
「ある日 マドリッドからの
マチャドの声を わしは聞いた」
「おれの足はもう役立たぬ
だが おれにはまだ腕が残っている……」
「死の雨が空から降ってきた
マドリッドは 四方八方から
血を流した
それから かれは出て行った……
向こうの大地の下で
かれは語りつづける」

「あの男はコルドバめざして馬で行ったが
どうしても辿り着けなかった
あの男とは きみだ
黒い月の下 赤い月の下を
あの男は 風とともに行った
あの男とは きみだ
傷ついて 自分の影のなかを飛んでいる
四羽の鳩たち
それは きみだ」
「おれは天に殺された……
せめて髪の毛の伸びるままにまかせよう
頭をぶち割られた子供たちといっしょだ
乾いた足に 水がぼろのようにまといつく
おれは毎日 ちがう自分の顔にぶつかる
おれは天に殺された」

「フェデリコ と叫ぶ声がおれに聞こえる
屋根のうえから フェデリコ
庭のなかから フェデリコ
崩れ落ちた塔から フェデリコ
消えた泉から フェデリコ
凍(い)てつく山から フェデリコ
暗い川から フェデリコ
掘り返えされた大地から フェデリコ」
──なんだ 何が起きたんだ?
──なんでもないさ
──そんな風に騒がずに そっとしといてくれ
──よし わかった
心臓はひとりぼっちでこの世から出て行った
──ああ ああ かわいそうなおれ!
フェデリコ!

彼はいまもまだ立っている
ひとは いまも 彼について
語ることができる
彼の平然とした顔を描くことができる
彼の葬式の 倒れて硬くなった 大理石の顔を
なぜなら 彼はずっと あそこに
血の海のなかに浸かりつづけ
あそこに根をおろしているからだ
彼は血にまみれた鏡の水銀に面とむかい
自分の詩のなかの自分を見つめ
自分の哀れなスペインを
蛆虫どもに食い荒された
死んだスペインを 見守っているからだ
カルロ・クァトラッチ*がローマで彼を描いた
画家は 彼をそのように描くことができた
なぜなら 三〇年後のいまも
歳月は過ぎ去らなかったからだ
そうだ 歳月は過ぎ去らなかったのだ

* 訳注 この詩は画家カルロ・クァトラッチの挿画入で発表された。

 この詩は、フランコと死者たちとの対話、マチャドとフェデリコ(ロルカ)との対話、そして作者の発言、といったかたちで構成されている。この構成をとおして、あのスペイン人民の歴史的な悲劇の本質が、大きく叙事詩的にとらえられると同時に、スペイン人民の怒りの感情が、抒情詩的に生きいきと表現されている。
 「神の御加護で、わしは恩寵にあずかっておる」という詩句もたんなる形容句ではなく、フランコのファシズムがスペイン聖職者たちの庇護協力のもとに押し進められた事実に対応している。また、「死者たち/死者たち/かず限りもない死者たち」という言葉の積みかさねも、フランコ軍との戦争による死者が百万人にも達したという事実に対応していることを思えば、それがたんなる詩的羅列や強調だけではないことがわかる。そしてフランコと死者たちとの対話をとおして、ここにも二つのスペインがあざやか対照のうちに描かれている。かつてネルーダはこう指滴した。
 「かれ(ロルカ)の死とともに ひとびとは けっして相容れることのない二つのスペインを まざまざと見た。ひづめの割れた悪魔の足をした 蒼黒いスペイン 呪われた地下のスペイン 大罪を犯した王党派と聖職者たちの 十字架につけられるべき有毒なスペイン──それに面と向かって 溌溂とした誇りに輝くスペイン 精神のスペイン 直観と伝統継承と発見のスペイン フェデリコ・ガルシーア・ロルカのスペイン……」
 アルベルティが、スペイン人民の歴史的な悲劇を大きく総体的に捉えることができたのは、やはり三〇年という時間的な距離のおかげかも知れない。そしてここでも、マチャドとロルカには、かれらにふさわしい大きな場所が与えられている。とりわけロルカにたいする哀惜・思慕のひびきはきわ立っている。ロルカはさらに、この悲劇の象徴として、この詩のなかに立っている。「彼はずっとあそこに/血の海のなかに浸かりつづけ/あそこに根をおろし……/自分の哀れなスペインを/蛆虫どもに食い荒された/死んだスペインを見守っている……」ロルカは立っているだけでなく、「死んだスペイン」を見守り、「蛆虫ども」を告発しているのである。    
 この詩が朗読された後、「すべての民主的自由が回復され、スペイン国民が自分の未来をきめ、自分の個性を自由に表明することができない限り、真の人民的文化の基礎は確立されない」と強調した宣言が発表された。その後、参加者たちは、「自由、大赦」を叫びながらデモに移ったが、警官もこれには介入しなかったという。虐殺と圧制にたいするスペイン人民の怒りにとって、四〇年後のこんにちも、まさに「歳月は過ぎ去らなかった」のである。
 この詩が六〇〇〇人の聴衆のまえで朗読された集会をおもいみて、わたしはひろい広場にしばし立ちつくしていた……

(つづく)
3.ロルカの家

(2) 虐殺はグラナダで行われた


 ところが、この自由で甘美な詩人は、周知のように、一九三六年八月十九日、フランコ一派のファシストたちによって、このグラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺されたのだった。その一ヶ月前、スペイン共和国に襲いかかったフランコ・ファシストは、まるでその出撃の合図ででもあるかのように、いちはやくロルカを血祭りにあげたのである。なによりもロルカの自由の精神が、ファシストたちの怒りと憎しみを買ったのである。先輩の老詩人アントニオ・マチャドは、いち早くロルカの死を詩に書いてファシストの犯罪を告発したのだった。

   虐殺はグラナダで行われた
                    アントニオ・マチャド

  かれは銃にかこまれ
  長い道を とぼとぼ歩き
  まだ 星の残っている朝まだき
  寒い野っ原に 姿を現わした
  やつらは フェデリコを殺した
  そのとき 朝日が昇った
  死刑執行人(ひとごろし)の一隊は
  かれをまともに見ることができなかった
  やつらは みんな眼を閉じて祈った
  ──神さえも 救えはしない!
  かれ フェデリコは倒れ 死んだ
  ──額から血を流し 腹に鉛をぶち込まれて
  虐殺はグラナダで行われた
  知ってるか──哀れなグラナダよ
  フェデリコのグラナダよ

  ・・・
  とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた

  友よ わたしのために建ててくれ
  石と夢の墓を──詩人のために
  アランブラの
  すすり泣く 泉のほとりに
  そうして 永遠に伝えてくれ
  虐殺は グラナダで行われた と
  かれのふるさと グラナダで行われたと

 はじめてこの詩を読んだとき、わたしはまだアランブラ宮殿のことはよく知らなかった。そのアランブラ宮殿を見てみると、「アランブラの/すすり泣く 泉のほとりに」という詩句が、遠いむかしの悲劇と現代のそれとを結びつけて、言いようもなく美しく適切なものに思えるのであった。

(つづく)

スペイン紀行 3.ロルカの家

(1)栗色の歌

 一九七八年十一月十七日
 朝、ロルカの家を訪ねるべく、グラナダ郊外のフェンテヴァケーロス村へとタクシーを走らせた。ちょっとした工場地帯を抜けると、オリーヴ畑があったり、丈の高いポプラ林のあいだに農地が広がっている。行く手に、禿山が、やわらかい線を描いて現れる。ずんぐりとして太い大根を満載したトラックと、何回もすれちがう。恐らく砂糖大根を工場へ運ぶのにちがいない。ギュヴィックが砂糖大根のことを詩に書いていたのを思い出した。やがて街道から左に折れてしばらく行くと、白い家々をつらねた、フェンテヴァケーロスの村にはいる。ひろい広場があって、小さな木立がそこに立っている。陽の輝く午前なのに、村の人びとが三三五五、連れ立って、この広場でおしゃべりをしている。

 タクシーの運転手がロルカの家をきき出してくれた。広場から左にちょっとはいったところに、やはり白い家がひとかたまりつづき、そのひとつの家に、「フェデリコ・ガルーシア・ロルカの家」としるした銅版がかかっていた。わたしたちが写真を撮っていると、この家の現在の住人らしい老人が出てきて、黙って向こうの方へ歩いてゆく。「わたしらをそっとして置いてくれ」と言いたげに。そこへ、ぼろをまとった、大柄で赤ら顔のジプシー女が出てきて、大声でなにかまくしたてた。
 わたしはとっさに、このジプシー女をカメラに収めた。すると、そばに立っていた、やはりジプシーらしい二人の若者といっしょになって、そのジプシー女が、わたしたちに手のひらを差し出してきた。カメラに撮った、そのモデル代を出せ、というのだ。わたしたちは何がしかのペセタをその手のひらにのせてやった・・・ジプシーたちは、働く仕事もなく、貧しいままに、村の広場に集まって、おしゃべりなどをしているのかも知れない。そういえば、アランブラ宮殿の近くで、来かかった二人の若い男に道を聞いたら、たちどころに、かくし持っていた靴みがき台を出して、靴をみがき始めた。あっけにとられているわたしたちに、しかも二〇〇ペセタを要求してくる・・・この二人もジプシーだったのだ。こうしてみると、ロルカが「ジプシーの歌」を書いた、その源泉が肌に感じられるような思いがした。
 ロルカは「栗色の歌」という詩で、栗色の女をうたっているが、あるいは彼女もまたジプシー女だったのかも知れない。

   栗色の歌
             フェデリコ・ガルシーア・ロルカ

  わたしはふみ迷い 消え入る
  栗色の おまえの 大陸に
  マリア・デル・カルメンよ

  ほかのものに見とれて うつろな
  おまえの眼の中に わたしは消え入る

  おまえの腕の中に わたしは消え入る
  空気までも 栗色に染めて
  そよ風が なぶっている
  おまえの肌の そのうぶ毛を

  わたしは 滑りこみ 消え入る
  むっちりと 息づき はずむ
  おまえの 二つの乳房のあいだから
  おまえの甘いからだの 暗い深みへ

(つづく)
ロルカの家
ロルカの家にて





 その夜、ホテル・グワデルーペの窓べに、月が出た。黄色いポプラの葉越しに、向いの小高い山のうえに月が出た。わたしは久しぶりに、夜の闇と月のひかりのかもしだす世界に見とれていた・・・あたりはやはり「そのむかし サラセンの軍隊が集結した要害の地」(アラゴン)だ。そうして「アランブラに月が出た」をわたしは書いた。

  アランブラに 月が出た

  オテル・グワデルーペの窓べ
  ポプラ林の 黄色い葉っぱのうえに

  はるかな空の高み シエラ・ネバダの
  万年雪を 鈍く光らせて

  アランブラに月が出た

  ヘネラリーフェの 糸杉のうえに
  そのうすら闇に沈んだ 薔薇たちのうえに

  天人花(ミルト)の 生垣の奥で
  すすり泣いている 泉のうえに

  アランブラに月が出た

  カトリック王フェルナンドと イザベルの
  雄叫びも消えた 沈黙のうえに

  アランブラに月が出た

  ダロの谷間に眠る石工 画工 煉瓦工たち
  それら 墓もない死者たちのうえに

  かなたに煙る フェンテヴァケーロスの
  ガルシーア・ロルカの 白い家に

  そうしてまたそのロルカが 銃殺された
  風に鳴る ビスナルのオリーヴ畑のうえに

  アランブラに月が出た

               (この項おわり)

<『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>

アランブラ

 しかしアランブラ最大の悲劇は、一四九二年、カトリック王フェルナンドとイザベルによって、アラブ最後の拠点だったこのグラナダが陥とされたことである。
 アラゴンは、「グラナダの陥ちた前夜」という、ある歌の文句にとり憑かれて、──そこにまた第二次大戦ちゅうのパリの陥落を思いあわせて、やがて、『エルザの狂人』という尨大な散文と詩による大冊を書くことになる。そこでは、アラブの王の悲劇、アラブ文学、哲学、などが縦横に歌われ、二〇世紀の問題として、考察されることになる。「巻頭の歌」はアラブ最後の少年王の嘆きを歌っている。

    巻頭の歌

  明日のない身の 最後の時を
  わたしは 壕(ほり)のなかで過した
  ほのかな 夜明けを待ちながら
  わたしは宮殿を追われた 少年王
  死が わたしの脇に坐っていた
  グラナダの陥ちた 前夜

  風も凍(い)てつく アランブラに
  わたしは 痴呆のように生きた
  うつろな眼 灰色のくちびる
  つぶやく噴水 いつか傷つき
  いま割れて 砕ける 鏡よ
  グラナダの陥ちた 前夜

  わたしは 使いはたされた夜だ
  朝がた おのれの思想を探すのだ
  またわたしは もう賭け金もなく
  自分のシャツを引き裂く賭博者だ
  すでに刺された心臓をひとが狙う
  グラナダの陥ちた 前夜
  (飯塚書店『アラゴン選集』第三巻二〇三ページ)
 
 注 アランブラ宮殿で、英語による解説者はアルハンブラと発音していたが、グラナダのタクシーの運転手はアランブラと発音していた。

 宮殿の一郭、崩れ落ちたアルカザーバ(要塞)のあたりには、赤茶けた陶器のかけらなどが散らばり、グラナダ陥落の悲劇をいまにつたえている。眼下のダロの谷間の向うには、いまなお山の斜面をくり抜いた洞穴を家としている人たちが見えた。その山道を少年がひとり、五、六頭の羊を追って降りてくる……グラナダの郊外に生まれたロルカは、このダロ川とヘニル川のことを歌っている。
   三つの川の小さなバラード

  グァダルキヴィルの流れは
  オレンジとオリーヴの間を流れる
  グラナダの ふたつの川は
  雪の山から 麦畑へと流れくだる

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ

  グァダルキヴィル川は
  えんじの髭を生やし
  グラナダの川は ひとつは
  涙を流し ひとつは血を流す

  ああ 空(そら)なかへ
  消え去った 恋よ!

  セヴィリアへ行くには
  帆かけ舟の 舟路がある
  だが グラナダの流れのなか
  漕ぎゆくのは 溜息(ためいき)ばかり

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ!

  グァダルキヴィルよ 高い塔よ
  オレンジ畑を吹く 風よ
  ダロとヘニルよ 池のほとりに
  朽ちはてた 小さな塔よ

  ああ 空(そら)なかに
  消え去った 恋よ!

  水の流れは叫びながら
  鬼火を運ぶと 誰が 言うだろう!

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ!

  アンダルシーアよ オリーヴを運べ
  オレンジの花を運べ おまえの海へ 

  ああ 空(そら)なかへ
  消え去った 恋よ!

 ロルカは、グラナダを流れる二つの川と、セビリヤへ流れるグァダルキヴィル川を対照させながら、グラナダの歴史と現実をさりげなく歌っているように思われる。「グラナダの ふたつの川は/雪の山から 麦畑へと流れくだる」──この雪の山は万年雪におおわれたシエラ・ネバダを指している。また

  グラナダの川は ひとつは
  涙を流し ひとつは血を流す

というすばらしい二行は、グラナダの案内書のなかにさえ引用されていた。
                 (つづく)

<『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>