スペイン紀行 Spain Travelogue

ここでは、「スペイン紀行 Spain Travelogue」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 マチャードの死から数年後の一九四一年十二月、第二次大戦下のフランスで、『パリの虐殺』の作者ジャン・カッスーは、抵抗活動のさなか、南仏のトゥールーズで捕らえられ、軍事刑務所の独房にぶち込まれた。かれはそこで、紙もペンもなしに『独房で作られた三十三のソネット』をつくった。三十三のソネットを暗誦しておいて、公判のために外に出た折に、さっそく紙に書きとったのである。その二十一番目のソネットを、かれは敬愛するマチャードにささげている。なお、ジャン・カッスーもスペイン出身である。

  アントニオ・マチャードの墓
                   ジャン・カッスー

  聖なる魂よ 慈愛にみちたあなたは
  夜の聖女たちを みちびいて
  汚辱の地に 辿りつくが
  あなたの松明(たいまつ)もその地を清めはしない
  
  もはや 砂でしかない国から
  聖女たちは あなたの灰を解き放ち
  明るく飛ぶ小鳥たちのように
  ひろびろとした空にまき散らす

  そこであなたはまた見いだすだろう
  涙にくれた あの深い夏の匂いを
  コリウールの 墓石のほとり

  そこに囚人らは 朽ちはててゆき
  うち砕かれた 怒りの壺のほかは
  もう 何ひとつ 残らないだろう

 わたしもつぎのような詩をマチャードの墓にささげた。

  アントニオ・マチャードの墓
                      大島博光

  地中海の 小さな漁港
  スペインに近い コリウール
  海べの墓地の 糸杉のかげに
  アントニオ・マチャードは眠る

  いち早く ロルカの処刑を
  あばき歌った 詩人もまた
  カスティリヤの狼どもに追われ
  国境を越えて ここに倒れた

  「この墓の下に葬られた時
  彼はもう 引き裂かれていました」
  いあわせた老婆は 話してくれた
  怖るべき思い出をたぐって

  墓石のうえには 菊の鉢植え
  死者を讃(たた)える 紙片(オマージュ)数枚
  スペイン文字のインキの色も
  雨ににじんで 色褪(あ)せて

  横たわった 平らな墓石の裾を
  赤・黄・紫の 三色旗が蔽う
  まるで 墓石をかい抱いて泣く
  黒い眼の スペイン娘のように

  そうだ スペイン人民は国境を越え
  いまも ここコリウールの墓地へ
  花束と涙を ささげにくるのだ
  たたかい倒れた詩人のために

           (この項おわり)

<草稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」>

マチャードの墓

 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へ向かった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海辺の墓地にはちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャードの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような平墓石には、

  スペイン詩人 アントニオ・マチャード
  一八七五年七月二十六日 セヴィリヤに生まれ
  一九三九年十一月二十二日 コリウールに没す

と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二十二日 で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が蔽いかけてあって、追悼と賛辞(オマージュ)を書いた紙きれが三・四枚、小さな石で押さえて供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……そこに来あせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶり手ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に死んだマチャードが葬られたとき、かれのからだは引き裂かれ(デシレ)ていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャードの死はひとびとの話題ともなったのにちがいない。──一九三六年から一九三九年にいたるスペイン内乱には、彼は人民の側に立って民主主義のためにたたかった。ロルカが銃殺されたときには、いち早く『虐殺はグラナダで行われた』を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいた。その後彼はフランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、コリウールの広場でこの世に別れを告げた。それはスペイン人民とおのれの信念に忠実な模範的な死であり、すべてのひとびとが敬愛をささげる死であった。その日、コリウールの広場では、鈴懸けの樹木の枝も折れんばかりに、大風が吹き荒れていたという……

 アラゴンは『詩人たち』のなかに書いている。

  マチャードは コリウールに眠る
  スペインを出て 三歩も行かぬうち
  空は かれにとって 暗く重くなった
  かれは この田舎に 坐りこみ
  永遠に その眼を 閉じた
                (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

 ▷コリウール─アントニオ・マチャードの墓(下)

マチャードの墓
Machado's grave in Collioure

博光には<フランス紀行>と<スペイン紀行>からなる「ヨーロッパ紀行」を出版する構想がありました。草稿および編集者との打ち合わせメモがありますが、出版には至らなかったようです。

詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行

<フランス紀行>
1.ミラボー橋の詩人アポリネール
2.コロネル・ファビアン広場 
3.ペール・ラシェーズの墓地
4.エリュアールの生地 サン・ドニ 
5.ランボオの故郷 シャルルヴィル(新聞掲載)  (ランスの微笑み)
6.モンパルナス マヤコフスキーとアラゴン
7.赤いポスター 
8.「両替橋の不寝番」の詩人ロベール・デスノス

<スペイン紀行>
1.マドリードで(上)(中)(下) (ヴィクトル・ハラの手)
2.グラナダ──アランブラ宮殿(上)(中)(下)
3.ロルカの家(1)(2)(3)(4)
4.コリウール──アントニオ・マチャードの墓(上)(中)(下)
5.アヴィニヨン──エルザの町

コリウール  アントニオ・マチャードの墓(上)

 一九七八年十一月二十二日
 グラナダからまたおんぼろの列車に乗り、地中海の太陽海岸(コスタ・デル・ソル)をくだった。ヴァレンシアの秋の夕焼けの海は、何か夢のなかでみる海のようにうつくしかった。岩の上からリール竿を投げている釣りびとたちの姿も見え、その釣りびとたちがたいへん羨ましかった。わたしもつりきちがいだからである。あんなうす薔薇色に映える、静かな海に向かっていたら、魚(さかな)なんか釣れなくたっていいのだ……

 ヴァルセロナは埃っぽい古い灰色の都市(まち)だ。ローマ時代の遺跡や中世のカテドラルが建っていて、街じゅうがその灰色に調子をあわせているようなところがある。そんななかに、さいきんわが国でも評判になっている、ガウディのサグラーダ・ファミリア贖罪聖堂の尖塔群が夢幻的な色と形でそびえていた。また、ここのピカソ美術館には、ピカソの少年時代からごく初期の繪畫やデッサンが集めてあって、それらの初期の作品のなかに、すでに後年の大ピカソへと発展・展開してゆく萌芽を見ることができて、感慨深かった。ここでは『ゲルニカ』の大判の複製なども賣っていた。
 それからわたしたちは、地中海の絶妙海岸(コート・ド・メルベイユ)に沿って走り、スペインとフランスの国境を越えてまもない小さな町コリウールに降りた。ここの墓地に眠るアントニオ・マチャードの墓に花束をささげるために。
 
 国境を越えるとき、丸い弁当箱をうしろで切ったような、いかめしい帽子をかぶった警官たちが、ものものしい検問をしていた。わたしはふと、スペイン戦争の頃のきびしい検問を想いみた。
 コリウールは小さな漁港でもあるが、夏には押しよせる海水浴客で賑わう、地中海岸の町である。だが十一月ともなれば季節はずれで、たくさんのホテルや別荘はみんな閉ざしていた。一軒だけ、ホテル・タンプリエというのがひらいていて、もう避寒にきているらしい数組の老夫婦が泊まっていた。このホテルの壁という壁は、繪で埋まっている。見るからに下手くそな繪や、しかし楽しい繪が、ぎっしりと懸けてある。このホテルに泊まった画学生や画家たちが置いて行ったのにちがいない。繪がたくさん、たくさんある、といって、ホテルのおやじはそれを自慢していた。食事のとき、下のレストランに坐って、ひょいと前の壁をみると、なんとそこには、ピカソの署名入りの繪や例の鳩のデッサンなど四、五点が飾ってあるではないか。どうやらピカソもこのホテルに泊まったことがあるのかも知れない……
               (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

サグラダコリウール
La Sagrada Família              Hotel Des Templiers


3.ロルカの家

(4) ロルカの死を悼んだエルナンデスの詩

 なおここに、やはりロルカの死を悼んだミゲル・エルナンデスの詩をしるしておこう。かれは羊飼いから詩人になった男で、ネルーダはかれのことを「オレンジのしみのついた鶯を口のくちにいれてやってきた」とうたっている。エルナンデスはスペイン戦争のとき人民戦線軍の兵士として戦い、ポルトガル国境でフランコ軍にとらえられ、オカニヤの牢獄で死んだ。

フェデリコ・ガルシーア・ロルカへの悲歌
                           ミゲル・エルナンデス

錆びた槍をたずさえ 大砲を身によろって
死神が カスチリヤの草原をよこぎる
人間は 草原で 根と希望をたがやし
塩をふりかけ 死者たちの頭蓋骨(ほね)を蒔く

おお ひろい地面のうえの緑よ おまえが
喜びに溢れたのは どれほどの時だったのか
いまは太陽も ただ血を腐らせて黒く乾かし
いっそう暗い闇を 湧き上がらせるばかり

苦しみ悲しみが 黒いマントを着て
またしても おれたちの間に割か込んでくる
おれはまたしても 涙の路地に
降る雨のように はいり込む

おれが 二六時中 はいり込んでいるのは
このにがい苦しみを塗りこめた闇の中
涙にぬれた眼と嘆きにみちみちた闇の中
入口には 断末魔の苦しみの蠟燭が燃え
人びとの心臓をつらねた 怒りに燃える首飾り

もしもできるものなら 人気ない水の根方で
井戸の底で おれは 思いきり 泣きたい
そこでなら だれにも 見られはしない
おれの泣き声も 濡れた眼も 涙の跡も

おれはゆっくりと入(はい)る 額が重くのしかかる
まるでゆっくりと心臓がひき裂かれるようだ
ゆっくりゆっくりと そしてまたしてもおれは
詩人のギターの前で 声をあげて泣くのだ

おれが悲しむ すべでの死者たちのなかで
だれにもまして忘れられぬこだまがある
それはおれの心にいちばん深く鳴りひびいたからだ
おれはつらい悲しみで その男の手を執るのだ

きのうまでは フェデリコ・ガルシーアが
かれの名前だった きょうは 土くれがかれの名前だ
きのう かれは 白日のもとに席を占めていたが
きょうは 草葉のかげの穴がかれを迎える

これがかれのすべて かれはもうこの世にいない
きみの 柱やピンを揺すっての騒々しい喜びよう
きみはその喜びを歯から抜きとってふりかざした
いまや哀れなきみは 棺桶の楽園しか望めない

骸骨(ほね)を身にまとい 鉛のように眠りこみ
心動かさぬ冷静さと敬愛でかたく武装して
おれはきみの眼のなかにまではいり込もう
もしもきみが おれに見えるものなら

きみの 鳩の生命を 風が吹きとばした
まるで一陣の羽根の突風(はやて)のように
きみの鳩は その白さとその啼き声で
空と窓べを 花輪のように飾っていたのに

林檎の従兄弟(いとこ)よ 黴(かび)もきみの樹液にはうち勝てぬ
蛆虫の舌も きみの死には うち勝てない
林檎の実に 野性のたくましさを与えようと
林檎作りは きみの骨の髄を選ぶだろう

鳩の息子よ 鶯とオリーブの孫よ
きみは 地球がまわっているかぎり
いつまでも 麦藁菊の夫であり
すいかずらの父親であるだろう

死神は なんと単純素朴であることか
だが 彼女はまた 不法にも乱暴なのだ
彼女は やさしく振舞うことができない
思わぬ時に その不吉な大鎌をふるうのだ

いちばん堅固な建物だったきみが ぶち壊された
いちばん高く飛んでいた鷹が 撃ち落された
いちばん大きく鳴りひびいた声が 黙りこんだ
あとには 沈黙 永遠の沈黙 沈黙

ひとりの詩人が死んで 詩神は脇腹に
致命傷を負ったのを感じ その身ぶるいは
宇宙的な振動となって 山やまを走り
死の光は 川という川の子宮を走る

村村のすすり泣き 谷間じゅうの嘆きが聞こえる
涙の乾くことのない たくさんの眼が見える
涙の雨 喪の黒いマントが見える
喪につづく喪、のべつまくなしの喪だ
涙につづく涙、のべつまくなしの涙だ

きみの骨は風のなかにばら撒かれはしない
やさしくて苦(にが)い詩人よ 蜜の火山 閃く稲妻よ
長い二列の匕首(あいくち)のあいだの 熱いくちづけで
きみは味わったのだ 長い愛 長い死 長い熟さを

きみの死の伴奏をしようと ぞくぞくと
空と大地の隅ずみから やってくるのは
空駆ける協和音 顛える弦の青い稲妻
打ち鳴らされる カスターネットの一群
ジプシーの長太鼓 フリュートの一隊
一斉に鳴りひびく鐘 バイオリンの一団
ギターとピアノの嵐 トロンペットと喇叭の洪水

だが沈黙は これらすべての楽器よりも大きく深い

荒涼とした 死のなかの
沈黙 孤独 ちりあくた
きみの舌 きみの息吹きは ぴしゃりと
みずからの上に扉を閉ざしてしまったようだ

かつて きみの影といっしょにさまよったように
いまおれは 自分の影とともにさまようのだ
沈黙が重く覆いかぶさっている大地のうえ
糸杉がいっそう暗くしている大地のうえ

きみの断末魔の苦しみは
鉄の責め具のように おれの咽喉(のど)を締めつける
まるで 死に洒を舐める想いだ
フェデリコ・ガルシーア・ロルカよ
きみは知っているのだ おれが毎日
死と額をつきあわせている連中のひとりだということを


 ここには、ロルカの死とエルナンデスの慟哭とが、詩のことばで、密度濃くうたわれていると同時に、ロルカの偉大さもみごとに表現されているといえよう。また、死をきびしく克明に歌った詩人ケベードの伝統を、そこに読みとることもできよう。だが何よりもここには、フランコ・ファシスト軍にたいして、一兵士として、「毎日 死と額をつきあわせている連中のひとり」として戦った詩人エルナンデスの切実さがにじみ出ているのである。

(この項おわり)

3.ロルカの家

(3) 歳月は過ぎ去らなかった


 さらに、このフェンテヴァケーロス村の白い砂地のひろい広場で、一九七六年六月五日、ロルカ生誕七八周年記念集会が、六〇〇〇人の参加者たちによって、ひらかれたのであった。この集会は、官憲の監視のもとに、三〇分だけ許され、それ以上は一分たりとも超過してはならなかったのである。この集会でロルカの詩が朗読され、ラファエル・アルベルティの『歳月は過ぎ去らなかった』が朗読された。この詩はスペイン内戦三〇周年を記念して書かれたものである。

   歳月は過ぎ去らなかった
                       ラファエル・アルベルティ

「この平和の三〇年
スペイン万歳を叫ぶスペインは
ずっと わしを映す鏡なのだ
いつもそこに自分を映して
日ごとに若がえる自分を見いだし
死者たちのように幸福な自分を見いだし
わしは年齢(とし)をとらぬのだ」
「おまえはこう言いたいのだ
おまえはおれたちを殺した時の年齢(とし)のまんまだと
おまえは死者たちを呑みこんだ墓場なのだ」
「神の御加護で わしは恩寵にあずかっておる」
「おまえは戦死者たちの谷間なのだ
死者たち
かず限りもない死者たち
おまえは 死者たちの保管所だ
おまえは 死者たちの博物館なのだ」
「わしの良心にやましいことはなにもない」
「おれたちはかず限りない死者たち
怖るべき空虚(うつろ)さだ
ぽっかりと口をあけた穴だ
銃殺された血が煮えくり返っているのだ」
「たとえわしが死なねばならぬとしても
天国がわしを迎え入れてくれるわ」
「おれたちは かず限りもない死者たちだ」
「この輝く太陽と 押しかけてくる観光客
溢れる喜びと わしの王公ぶり
わしのおかげで スペインは生きておるのだ
よく見るがよい
これが わしの王国なのだ」
「おれたちは かず限りもない死者たちだ」
「わしは 神のご加護でスペインを統治しておる
わしは わし自身の後継者なのだ
スペイン人よ 諸君に勝利をもたらしたのはわしじゃ」
「おれたちはかず限りもない死者たち
おれたちには 墓もない
おまえは毎日おれたちを踏みつける
すべての死者たちが泥となって
おまえの長靴にひっつくのだ 
生ける死者どころか おれたちは生きていて
おまえの足の下で ぎしぎし音を立てるのだ
「ほんとうにおれたちは おまえを映す鏡なのだ」
「わしはスペインが待ち望んでいた救世主じゃ
見るがいい わしの約束した平和と歳月を」
「そんなものは死者たちの平和だ」
「いや 平和の三〇年だ」
「そんなものは死者たちの平和だ
傷つき
よろよろとよろけ
凍え
焼かれ
泣き呻き
殴りつけられ
うちのめされ
辱かしめられた
死者たち」  
「平和の三〇年だ」
「死者たちの平和だ」
「まさに スペイン万歳を叫ぶこのスペインは
ずっとわしを映す鏡なのだ」
「おれたちは死者たち
死者たち
かず限りもない死者たちだ
だが この死者たちは
挙げている
挙げている
高く挙げているのだ
死者たちの手を

「マチャドは はるか遠い向こうに
いまも 向こうに埋められている
かれを見守っていたポプラの木が一本
ドエロ川の岸べをのがれて
いまも向こうで かれを見守りつづけている」
「おれたちはかって はっきりと歌ったが
いまもはっきりと歌っている
おれは おまえなどとはいっしょにいない
おまえなどを歌うために
おれの唇からは ただ一つの言葉も洩れず
おれの手は ただ一つの綴りも書かなかった」
「ある日 マドリッドからの
マチャドの声を わしは聞いた」
「おれの足はもう役立たぬ
だが おれにはまだ腕が残っている……」
「死の雨が空から降ってきた
マドリッドは 四方八方から
血を流した
それから かれは出て行った……
向こうの大地の下で
かれは語りつづける」

「あの男はコルドバめざして馬で行ったが
どうしても辿り着けなかった
あの男とは きみだ
黒い月の下 赤い月の下を
あの男は 風とともに行った
あの男とは きみだ
傷ついて 自分の影のなかを飛んでいる
四羽の鳩たち
それは きみだ」
「おれは天に殺された……
せめて髪の毛の伸びるままにまかせよう
頭をぶち割られた子供たちといっしょだ
乾いた足に 水がぼろのようにまといつく
おれは毎日 ちがう自分の顔にぶつかる
おれは天に殺された」

「フェデリコ と叫ぶ声がおれに聞こえる
屋根のうえから フェデリコ
庭のなかから フェデリコ
崩れ落ちた塔から フェデリコ
消えた泉から フェデリコ
凍(い)てつく山から フェデリコ
暗い川から フェデリコ
掘り返えされた大地から フェデリコ」
──なんだ 何が起きたんだ?
──なんでもないさ
──そんな風に騒がずに そっとしといてくれ
──よし わかった
心臓はひとりぼっちでこの世から出て行った
──ああ ああ かわいそうなおれ!
フェデリコ!

彼はいまもまだ立っている
ひとは いまも 彼について
語ることができる
彼の平然とした顔を描くことができる
彼の葬式の 倒れて硬くなった 大理石の顔を
なぜなら 彼はずっと あそこに
血の海のなかに浸かりつづけ
あそこに根をおろしているからだ
彼は血にまみれた鏡の水銀に面とむかい
自分の詩のなかの自分を見つめ
自分の哀れなスペインを
蛆虫どもに食い荒された
死んだスペインを 見守っているからだ
カルロ・クァトラッチ*がローマで彼を描いた
画家は 彼をそのように描くことができた
なぜなら 三〇年後のいまも
歳月は過ぎ去らなかったからだ
そうだ 歳月は過ぎ去らなかったのだ

* 訳注 この詩は画家カルロ・クァトラッチの挿画入で発表された。

 この詩は、フランコと死者たちとの対話、マチャドとフェデリコ(ロルカ)との対話、そして作者の発言、といったかたちで構成されている。この構成をとおして、あのスペイン人民の歴史的な悲劇の本質が、大きく叙事詩的にとらえられると同時に、スペイン人民の怒りの感情が、抒情詩的に生きいきと表現されている。
 「神の御加護で、わしは恩寵にあずかっておる」という詩句もたんなる形容句ではなく、フランコのファシズムがスペイン聖職者たちの庇護協力のもとに押し進められた事実に対応している。また、「死者たち/死者たち/かず限りもない死者たち」という言葉の積みかさねも、フランコ軍との戦争による死者が百万人にも達したという事実に対応していることを思えば、それがたんなる詩的羅列や強調だけではないことがわかる。そしてフランコと死者たちとの対話をとおして、ここにも二つのスペインがあざやか対照のうちに描かれている。かつてネルーダはこう指滴した。
 「かれ(ロルカ)の死とともに ひとびとは けっして相容れることのない二つのスペインを まざまざと見た。ひづめの割れた悪魔の足をした 蒼黒いスペイン 呪われた地下のスペイン 大罪を犯した王党派と聖職者たちの 十字架につけられるべき有毒なスペイン──それに面と向かって 溌溂とした誇りに輝くスペイン 精神のスペイン 直観と伝統継承と発見のスペイン フェデリコ・ガルシーア・ロルカのスペイン……」
 アルベルティが、スペイン人民の歴史的な悲劇を大きく総体的に捉えることができたのは、やはり三〇年という時間的な距離のおかげかも知れない。そしてここでも、マチャドとロルカには、かれらにふさわしい大きな場所が与えられている。とりわけロルカにたいする哀惜・思慕のひびきはきわ立っている。ロルカはさらに、この悲劇の象徴として、この詩のなかに立っている。「彼はずっとあそこに/血の海のなかに浸かりつづけ/あそこに根をおろし……/自分の哀れなスペインを/蛆虫どもに食い荒された/死んだスペインを見守っている……」ロルカは立っているだけでなく、「死んだスペイン」を見守り、「蛆虫ども」を告発しているのである。    
 この詩が朗読された後、「すべての民主的自由が回復され、スペイン国民が自分の未来をきめ、自分の個性を自由に表明することができない限り、真の人民的文化の基礎は確立されない」と強調した宣言が発表された。その後、参加者たちは、「自由、大赦」を叫びながらデモに移ったが、警官もこれには介入しなかったという。虐殺と圧制にたいするスペイン人民の怒りにとって、四〇年後のこんにちも、まさに「歳月は過ぎ去らなかった」のである。
 この詩が六〇〇〇人の聴衆のまえで朗読された集会をおもいみて、わたしはひろい広場にしばし立ちつくしていた……

(つづく)
3.ロルカの家

(2) 虐殺はグラナダで行われた


 ところが、この自由で甘美な詩人は、周知のように、一九三六年八月十九日、フランコ一派のファシストたちによって、このグラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺されたのだった。その一ヶ月前、スペイン共和国に襲いかかったフランコ・ファシストは、まるでその出撃の合図ででもあるかのように、いちはやくロルカを血祭りにあげたのである。なによりもロルカの自由の精神が、ファシストたちの怒りと憎しみを買ったのである。先輩の老詩人アントニオ・マチャドは、いち早くロルカの死を詩に書いてファシストの犯罪を告発したのだった。

   虐殺はグラナダで行われた
                    アントニオ・マチャド

  かれは銃にかこまれ
  長い道を とぼとぼ歩き
  まだ 星の残っている朝まだき
  寒い野っ原に 姿を現わした
  やつらは フェデリコを殺した
  そのとき 朝日が昇った
  死刑執行人(ひとごろし)の一隊は
  かれをまともに見ることができなかった
  やつらは みんな眼を閉じて祈った
  ──神さえも 救えはしない!
  かれ フェデリコは倒れ 死んだ
  ──額から血を流し 腹に鉛をぶち込まれて
  虐殺はグラナダで行われた
  知ってるか──哀れなグラナダよ
  フェデリコのグラナダよ

  ・・・
  とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた

  友よ わたしのために建ててくれ
  石と夢の墓を──詩人のために
  アランブラの
  すすり泣く 泉のほとりに
  そうして 永遠に伝えてくれ
  虐殺は グラナダで行われた と
  かれのふるさと グラナダで行われたと

 はじめてこの詩を読んだとき、わたしはまだアランブラ宮殿のことはよく知らなかった。そのアランブラ宮殿を見てみると、「アランブラの/すすり泣く 泉のほとりに」という詩句が、遠いむかしの悲劇と現代のそれとを結びつけて、言いようもなく美しく適切なものに思えるのであった。

(つづく)

スペイン紀行 3.ロルカの家

(1)栗色の歌

 一九七八年十一月十七日
 朝、ロルカの家を訪ねるべく、グラナダ郊外のフェンテヴァケーロス村へとタクシーを走らせた。ちょっとした工場地帯を抜けると、オリーヴ畑があったり、丈の高いポプラ林のあいだに農地が広がっている。行く手に、禿山が、やわらかい線を描いて現れる。ずんぐりとして太い大根を満載したトラックと、何回もすれちがう。恐らく砂糖大根を工場へ運ぶのにちがいない。ギュヴィックが砂糖大根のことを詩に書いていたのを思い出した。やがて街道から左に折れてしばらく行くと、白い家々をつらねた、フェンテヴァケーロスの村にはいる。ひろい広場があって、小さな木立がそこに立っている。陽の輝く午前なのに、村の人びとが三三五五、連れ立って、この広場でおしゃべりをしている。

 タクシーの運転手がロルカの家をきき出してくれた。広場から左にちょっとはいったところに、やはり白い家がひとかたまりつづき、そのひとつの家に、「フェデリコ・ガルーシア・ロルカの家」としるした銅版がかかっていた。わたしたちが写真を撮っていると、この家の現在の住人らしい老人が出てきて、黙って向こうの方へ歩いてゆく。「わたしらをそっとして置いてくれ」と言いたげに。そこへ、ぼろをまとった、大柄で赤ら顔のジプシー女が出てきて、大声でなにかまくしたてた。
 わたしはとっさに、このジプシー女をカメラに収めた。すると、そばに立っていた、やはりジプシーらしい二人の若者といっしょになって、そのジプシー女が、わたしたちに手のひらを差し出してきた。カメラに撮った、そのモデル代を出せ、というのだ。わたしたちは何がしかのペセタをその手のひらにのせてやった・・・ジプシーたちは、働く仕事もなく、貧しいままに、村の広場に集まって、おしゃべりなどをしているのかも知れない。そういえば、アランブラ宮殿の近くで、来かかった二人の若い男に道を聞いたら、たちどころに、かくし持っていた靴みがき台を出して、靴をみがき始めた。あっけにとられているわたしたちに、しかも二〇〇ペセタを要求してくる・・・この二人もジプシーだったのだ。こうしてみると、ロルカが「ジプシーの歌」を書いた、その源泉が肌に感じられるような思いがした。
 ロルカは「栗色の歌」という詩で、栗色の女をうたっているが、あるいは彼女もまたジプシー女だったのかも知れない。

   栗色の歌
             フェデリコ・ガルシーア・ロルカ

  わたしはふみ迷い 消え入る
  栗色の おまえの 大陸に
  マリア・デル・カルメンよ

  ほかのものに見とれて うつろな
  おまえの眼の中に わたしは消え入る

  おまえの腕の中に わたしは消え入る
  空気までも 栗色に染めて
  そよ風が なぶっている
  おまえの肌の そのうぶ毛を

  わたしは 滑りこみ 消え入る
  むっちりと 息づき はずむ
  おまえの 二つの乳房のあいだから
  おまえの甘いからだの 暗い深みへ

(つづく)
ロルカの家
ロルカの家にて





 その夜、ホテル・グワデルーペの窓べに、月が出た。黄色いポプラの葉越しに、向いの小高い山のうえに月が出た。わたしは久しぶりに、夜の闇と月のひかりのかもしだす世界に見とれていた・・・あたりはやはり「そのむかし サラセンの軍隊が集結した要害の地」(アラゴン)だ。そうして「アランブラに月が出た」をわたしは書いた。

  アランブラに 月が出た

  オテル・グワデルーペの窓べ
  ポプラ林の 黄色い葉っぱのうえに

  はるかな空の高み シエラ・ネバダの
  万年雪を 鈍く光らせて

  アランブラに月が出た

  ヘネラリーフェの 糸杉のうえに
  そのうすら闇に沈んだ 薔薇たちのうえに

  天人花(ミルト)の 生垣の奥で
  すすり泣いている 泉のうえに

  アランブラに月が出た

  カトリック王フェルナンドと イザベルの
  雄叫びも消えた 沈黙のうえに

  アランブラに月が出た

  ダロの谷間に眠る石工 画工 煉瓦工たち
  それら 墓もない死者たちのうえに

  かなたに煙る フェンテヴァケーロスの
  ガルシーア・ロルカの 白い家に

  そうしてまたそのロルカが 銃殺された
  風に鳴る ビスナルのオリーヴ畑のうえに

  アランブラに月が出た

               (この項おわり)

<『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>

アランブラ

 しかしアランブラ最大の悲劇は、一四九二年、カトリック王フェルナンドとイザベルによって、アラブ最後の拠点だったこのグラナダが陥とされたことである。
 アラゴンは、「グラナダの陥ちた前夜」という、ある歌の文句にとり憑かれて、──そこにまた第二次大戦ちゅうのパリの陥落を思いあわせて、やがて、『エルザの狂人』という尨大な散文と詩による大冊を書くことになる。そこでは、アラブの王の悲劇、アラブ文学、哲学、などが縦横に歌われ、二〇世紀の問題として、考察されることになる。「巻頭の歌」はアラブ最後の少年王の嘆きを歌っている。

    巻頭の歌

  明日のない身の 最後の時を
  わたしは 壕(ほり)のなかで過した
  ほのかな 夜明けを待ちながら
  わたしは宮殿を追われた 少年王
  死が わたしの脇に坐っていた
  グラナダの陥ちた 前夜

  風も凍(い)てつく アランブラに
  わたしは 痴呆のように生きた
  うつろな眼 灰色のくちびる
  つぶやく噴水 いつか傷つき
  いま割れて 砕ける 鏡よ
  グラナダの陥ちた 前夜

  わたしは 使いはたされた夜だ
  朝がた おのれの思想を探すのだ
  またわたしは もう賭け金もなく
  自分のシャツを引き裂く賭博者だ
  すでに刺された心臓をひとが狙う
  グラナダの陥ちた 前夜
  (飯塚書店『アラゴン選集』第三巻二〇三ページ)
 
 注 アランブラ宮殿で、英語による解説者はアルハンブラと発音していたが、グラナダのタクシーの運転手はアランブラと発音していた。

 宮殿の一郭、崩れ落ちたアルカザーバ(要塞)のあたりには、赤茶けた陶器のかけらなどが散らばり、グラナダ陥落の悲劇をいまにつたえている。眼下のダロの谷間の向うには、いまなお山の斜面をくり抜いた洞穴を家としている人たちが見えた。その山道を少年がひとり、五、六頭の羊を追って降りてくる……グラナダの郊外に生まれたロルカは、このダロ川とヘニル川のことを歌っている。
   三つの川の小さなバラード

  グァダルキヴィルの流れは
  オレンジとオリーヴの間を流れる
  グラナダの ふたつの川は
  雪の山から 麦畑へと流れくだる

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ

  グァダルキヴィル川は
  えんじの髭を生やし
  グラナダの川は ひとつは
  涙を流し ひとつは血を流す

  ああ 空(そら)なかへ
  消え去った 恋よ!

  セヴィリアへ行くには
  帆かけ舟の 舟路がある
  だが グラナダの流れのなか
  漕ぎゆくのは 溜息(ためいき)ばかり

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ!

  グァダルキヴィルよ 高い塔よ
  オレンジ畑を吹く 風よ
  ダロとヘニルよ 池のほとりに
  朽ちはてた 小さな塔よ

  ああ 空(そら)なかに
  消え去った 恋よ!

  水の流れは叫びながら
  鬼火を運ぶと 誰が 言うだろう!

  ああ 行って
  帰えらぬ 恋よ!

  アンダルシーアよ オリーヴを運べ
  オレンジの花を運べ おまえの海へ 

  ああ 空(そら)なかへ
  消え去った 恋よ!

 ロルカは、グラナダを流れる二つの川と、セビリヤへ流れるグァダルキヴィル川を対照させながら、グラナダの歴史と現実をさりげなく歌っているように思われる。「グラナダの ふたつの川は/雪の山から 麦畑へと流れくだる」──この雪の山は万年雪におおわれたシエラ・ネバダを指している。また

  グラナダの川は ひとつは
  涙を流し ひとつは血を流す

というすばらしい二行は、グラナダの案内書のなかにさえ引用されていた。
                 (つづく)

<『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>


 一九七八年十一月十五日

 チリ連帯国際会議が終って、わたしたちはマドリードからパリまで、長い列車の旅を始める。まずグラナダを訪れることにする。
 グラナダ……それは、重い、深いひびきをもつ名まえだ。アランブラ宮殿が、繊細優雅なアラブ文化・芸術の粋をいまにつたえると同時に、アラブ王国が滅びさった悲劇をそこに秘めているからである。そしてまた、それは、フェデリコ・ガルシア・ロルカの故郷の町であり、しかもかれがそこで銃殺された町である……
 わたしたちはマドリードを夜の急行で発ったが、急行とは名ばかりの超鈍行列車で、そのうえがたがたと横ゆれがひどい。出発のときは汽笛らしいものがヒーヒーと鳴って、まるで驢馬の啼き声を思わせる。するとまたわたしには、それがドン・キホーテのお供のサンチョ・パンサの驢馬のように思われてくる……つまり、わたしたちは、のろいサンチョの驢馬に乗って、荒涼として広いカスチリヤの野を、アンダルシーヤへと向かってのろのろと走っているのだ・・・

 翌朝、やっとグラナダに着く。駅のカフェテリヤで、ミルクコーヒー二杯とハムサンドを食べたが、うまかった。それから、かねて目星をつけておいた、ホテル・グワデルーペにタクシーをとばした。街なかに大きな噴水や銅像があり、古い城門をくぐると、鬱蒼と樹木の茂った道になる。幾台もの観光バスが走っている。そこがアランブラ宮殿の前庭ということになる。いくつかのホテルを通り越して、最後のホテルがグワデルーペであった。近くに「アルハンブラ物語」を書いたアメリカ人ワシントン・アーヴィングの名をとったホテルもあった。(「アルハンブラ物語」は江間章子さんの訳で、講談社文庫に収められている。)
 通された四階の部屋は、たいへんわたしの気に入った。窓べにポプラ林が黄色い葉むれを輝かせていた。その枝越しに、向うは、低い松の点在する小さな低い山になっている。

 ホテルに鞄をおくと、さっそくアランブラ宮殿へ向うが、ホテルから五百メートルぐらいしかない。道の片側には、赤煉瓦のぶ厚い城壁がそそり立って、つづいており、片側は亭ていとそびえた森になっていて、ポプラや銀杏のたぐいが、黄色くなった葉むれを秋の陽に輝かせている。かねて写真で見た「獅子の中庭」や「王の広間」などの前に立ってみると、つまり、太陽のひかりのもとにあるアランブラ宮殿を見ると、ますます夢幻まぼろしのなかにいるような想いになる。水盤をささえている石の獅子たちの鼻が、永い時の流れのなかで、もう擦りもげている。「コーラン」をモザイクできざみこんであるという大理石の壁面、みごとなアーケードと噴水をあしらった中庭の組み合わせ、すべてが繊細優雅で変幻自在な結構である。また、美女たちがその裸形をさらしたであろう大浴場のうちの「アベンセラーヘスの間」には、血なまぐさい物語が伝えられている。ムレイ・アビュル・ハッサンという王は、お気に入りの愛妾ソラヤの子に王位をつがせるために、最初の王妃との間に生まれた自分の子供たちをみんな、この部屋で暗殺させたというのである……

 宮殿は、グラナダの町を見おろす岡の上に建っているのに、遠く万年雪をいただいたシエラ・ネバダから水を引いた泉は、ヘネラリーフェの空中庭園にもせんせんと流れていた。刈り込んだ糸杉のくぐり門、同じように幾何模様に刈り込んだ糸杉の生垣。その方形の生垣に沿って色とりどりに花咲いた薔薇うねがあり、そのまた内側に細長い方形の池があしらってあり、池のまわりを散歩するようにつくられている。その方形の池の正面には、やはり物語によく出てくる、「奥方の塔」と呼ばれる美しい館(やかた)が、赤黄色に映えて建っていた。あたりにはまた、十一月も末だというのに、名も知らぬ灌木が、夢のような白い花や淡い青や紅の花をつけていた。遠いむかしの夢の舞台を飾るかのように……
   (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

アルハンブラ


 十二日、王宮博物館にはいるために、王宮に出かけて行く。ひろい中庭に面したアーケードのところで、市民たちが立って、中庭でくりひろげられている「玩具(おもちゃ)の兵隊たち」のセレモニーを眺めている。わたしたちもそこに立って見物することにする。セネガルの大統領がスペインを公式訪問していて、その大統領を金塗りの馬車で送り出すところなのだ。
 赤い筋の入った黒ズボンをはいた軍楽隊の一隊が、古風な行進曲を奏しながら先頭をゆく。赤い羽根飾りのついた帽子をかむり、緑色の軍服を着た龍騎兵の一隊がそれにつづく。六頭立ての白馬に曳かれて、黄金色の間者がつづく。そしてまた、赤黄赤のスペイン国旗をもった騎兵の一隊がつづく……わたしも子供のようになって、このおとぎ話のような、おもちゃの兵隊ならぬ生きた兵隊たちの繪のようなパレードに見入っていた……それも、スペインのひとつの象徴的な貌(かお)にちがいない。
 それとは相反する、もう一つのスペインの貌(かお)を、その夜わたしたちは見た。その夜、チリ連帯国際会議を記念して、チリのフォルクローレ集団キラパジュンとインティイジマニの合同演奏会が、マドリード郊外の大きな体育館でひらかれた。わたしたちもバスに乗って聴きに行った。会場は万を越えるマドリードの市民で埋まっていた。わたしたちの席の近くにビクトル・ハラ未亡人がいたので、わたしたちはいっしょにカメラに収まったりした。開会に先だって、ビクトル・ハラ未亡人が紹介されると、全員が起立して、割れるような拍手を彼女に送った。そしてマドリードの一万の市民たちが「チレ・ベンセレモス!」(チリは勝利する!)を熱狂的に繰り返えすのであった……そしてキラパジュンが日本公演で好評を博した ¡El pueblo unido, jamás será vencido!(団結した人民は敗れない)の合唱が始まると、照明を消した場内のうすらやみのなかに、聴衆の興奮はその極に達した。同じくスペイン語を国語とする、チリ人民とスペイン人民の、歌をとおしてのストレートな交流交感がそこにあった。そしてわたしはまた、スペイン人民戦線以来の革命的伝統をそこに感じとらずにはいられなかった……
 翌日、わたしはつぎの詩を報告をかねて東京の新聞に送った。

 マドリード・一九七八年十一月
                ─チリ連帯国際会議にて

むかしのコンキスタドールたちの略奪の夢がまだ
王宮やレティロ公園にただよっている町 マドリード
プラドのほとり ゴヤの立っている町 マドリード
四十年まえ スペイン人民がおびただしい血と涙を流し
ネルーダが 最初の血の叫びをあげた町 マドリード
世界の四方からやってきた 国際旅団の義勇兵たちが
おんなじ夢と自由のために骨を埋めた町 マドリード
きのうも スペイン広場のドン・キホーテのまえを
日本人観光客の群が渡り鳥のように通り過ぎてゆく町 マドリード
ゴヤの光と闇が いまも生きている町マドリード

きょう にせあかしあの街路樹と石だたみのうえ
セゴビヤのギターのような雨の降るなか
ふたたび 世界じゅうから人びとがやってくる
どんな遠い距離も はばむことのできない
熱い連帯の想いと ファシズムへの怒りを抱いて──
そうしてここ オドンネル街の 城塞のような
ホテル・コンヴェンションの大ホールを埋める
そこに あのコルバランがいる カリリョがいる
アジェンデ夫人がいる ビクトル・ハラ未亡人がいる
アルベルティがいる エフトシェンコがいる
ニカラグアの婦人代表がいる ベトナムがいる……

日本の代表は ホールの入口に 写真展をひらく
チリ船の横浜入港に抗議した デモの写真や
キラパジュンを迎えた 大集会の写真など……
たくさんの代議員が それを見て 感想を寄せる
「わたしたちのために闘っているあなた方を見て
わたしは感動でふるえました」とチリの青年は書く
「いっしょに ファシズムのない 平和な世界を
つくりましょう」と 中年のスウィス婦人が書く

だが この大会を 黒い影がおびやかしている
ホテルの玄関を 赤い帽子の警官隊が警戒し
なかには 軽機関銃を構えているものさえいる
ここでも 右翼が 攻撃をしかけてくるからだ
亡者どもは くらやみのなかでうごめいている
ちょうど 日本のファシズムの 亡者どもが
またしても 有事立法を叫んでいるように
ここマドリードでは 過去と現在と未来とが
ごっちゃになって せめぎあい たたかっている

そうしてカリリョは さいごに叫んだ
「わたしたちは自由のために 四十年 待った
チリは二度と 四十年も待たないでほしい
これがわたしのねがいである……」
         一九七八年十一月十二日

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

コルバランと
コルバラン・チリ共産党書記長(左から2人目)らと


 マドリードに来れば、やはりネルーダのことを思い出さないわけにはゆかない。一九三四年、ネルーダは新進詩人の名声を抱いて、総領事としてマドリードに赴任してきた。彼はロルカ、アルベルティ、セルヌーダなどの若いスペイン詩人たちに歓迎されて、かれらといっしょに詩誌「緑の馬」を出すことになる。当時、スペインは一九三一年の合法的な選挙の結果、ブルボン王朝が崩壊し、共和制を迎えたところであった。そしてスペイン詩も輝かしいルネッサンスの季節を迎えていた。しかしそれも束の間、フランコの反乱と襲撃によって、すべてはくつがえされる・・・ネルーダはフランコの暴虐を眼のあたりに見て、あの有名な「そのわけを話そう」を書く。

 わたしは マドリードの街に住んでいた
 鐘楼があり 時計塔があり
 たくさんの木があった
 はるか遠くに
 カスチリヤの乾いた顔が見えた
 広漠とした 革の海のように!
 ・・・
 ある朝 まっ赤な火が
 大地から吹き出して
 ひとびとをなめつくした
 そのときから 戦火が燃えあがり
 そのときから 硝煙がたちこめ
 そのときから 血が流れた

 悪党どもは飛行機をもち モール人たちを連れ
 悪党どもは指輪をはめ 公爵夫人たちを連れ
 悪党どもは 祈りあげる黒衣の坊主どもを連れ
 悪党どもは 空の高みからやってきて 子供たちを殺した
 街じゅうに子供たちの血が
 子供の血として素朴に流れた
 ・・・
 きみたちはたずねる──なぜ わたしの詩が
 夢や木の葉をうたわないのか
 故国の大きな火山をうたわないのかと

 来て見てくれ  街街に流れてる血を
 来て見てくれ  
 街街に流れてる血を 
 来て見てくれ 街街に流れてる
 この血を!
     (角川書店『ネルーダ詩集』三四ページ)

 この詩集をさかいとして、ネルーダはモダニズムの詩人から革命詩人へと進み出てゆくこととなる。それから四〇年後、ネルーダの祖国チリがおなじような悲劇に襲われることになろうとは。そのチリ支援の国際会議がこのマドリードでひらかれているのである。なんと歴史の歯車のめまぐるしいことだろう。

 十日の夜、ネルーダの『回想録』から作られたシュプレヒコール劇を観るために、ホセ・アントニオ通りの横丁にある小さな劇場に行った。劇場は古いビルの二階にあって、小さいながら古い由緒のある劇場らしく、王朝風の装飾や絵画などで飾られていて、およそネルーダのシュプレヒコール劇とはそぐわないような感じがする。六十歳を越えたような老婆たちもきていて、きいてみると、むかしからネルーダの芝居が好きで、よく来るのだと言った。
 シュプレヒコール劇が始まってまもなく、突然、場内が騒然となり、観衆が立ち上がって退場を始める。「ボンブ!ボンブ!」(爆弾だ!)という女の叫び声がする。その割には、あわてふためくという騒ぎにもならずに、みんなが街に出る。きくところによると、右翼がしかけた爆弾らしい怪しい物体が階下の廊下に見つかったということらしい。右翼の襲撃におびえているスペインの姿がそこにある。そういえば、わたしたちがマドリードに着いた日にも、三人の警官が右翼のテロによって殺されたということだった。つぎの日には、その右翼のテロに反対する民主勢力のデモが行われた。
               (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

マドリッド二人
間島三樹夫さんと


 一九七八年十一月八日
 きのう正午(ひる)ごろ成田空港を発ってきて、パリで一泊したあと、朝早くノートルダムからパリ市廳のあたり、黄色い落葉を敷いたセーヌの河岸をぶらぶら歩いただけで、きょうの昼には、パリ南部のオウルリ空港からイベリヤ航空機に乗る。マドリードでひらかれるチリ連帯国際会議に出席するためである。一行は、チリ連事務局長の間島三樹夫さんと画家の飯野さん夫妻とわたしである。機内は満席で、晩秋にしては汗ばむように温かい。見ると、わたしたちのほかにも、アジア人とかアフリカ人とすぐわかるような乗客が大勢乗っている。あとでわかったのだが、この便のほとんどの乗客が、こんどの国際会議に出席する、ソヴェトやフランスやベトナムなどの代表であった・・・。はじめは下にうつくしいフランスの野や森が見えていたが、やがて飛行機は秋の白い雲のうえに出て、どこを飛んでいるのか、かいもくわからない。いつかピレネーを越えて、二時間後にはもうマドリードに着く。

 マドリード空港には、スペイン側の接待員が待っていてくれて、わたしたちを車で宿舎のホテル・コンヴェンションへ案内してくれる。その接待員のひとり、マリーナ・プレシオーン嬢は、二十歳(はたち)のスペイン共産党員で、いわば、あの「ラ・パッショナリヤ」の孫娘というところだ。かもしかのような長い細い脚を黒い細身のズボンでつつみ、白いレースのブラウスをきていて、清楚で行動的である。黒い睫毛も長く、愛くるしい眼をしている。男の同志が「マリーナ」と呼ぶ声は、まるで恋びとの名を呼んでいるように、感情がこもっているいるようにひびく。わたしはすでに、マリーナと呼びかけた男の同志に、ほのかな嫉妬をおぼえたのかも知れない。彼女のおかげで、スペインには美人が多いということに気がついた。

 空港から市内へはいるあたり、そこらの壁や荒地にもあのスペイン戦争の弾痕や傷あとがまだ残っているような郊外・・・。途中、ふと見ると路の左側の小高いところに、ITT(国際電信電話)の黒くて高い四角のビルが不気味にそびえている。これこそ、チリの反革命クーデターを演出した悪名高い多国籍企業ITTにほかならない。

 ホテル・コンヴェンションは、オドンネル街の表通りから裏通りまでの一角を占めた大きなホテルだ。このオドンネル街には、細い葉をつけたにせあかしやの並木がつづいていて、そのうしろに兵営か何かを思わせるようなどこか暗いきびしい表情をした家々高く並んでいる。ホテルの玄関のあたり、むかしの日本陸軍兵士の帽子とそっくりな、赤い横帯のついたカーキ色の帽子をかぶった警官が3,4人武装して立っている。あとできけば、右翼が押しかけてくるかも知れないので、そのための警備ということであった。
 ホテルに地下には千人以上も収容できる大会議場があって、翌九日から国際会議もそこでひらかれた。広いロビーも地下室の大会議場も、世界の四方から集まってきた代議員や関係者でごったかえすような賑やかさである。会場もほぼ満員で、さすがに大規模な国際会議となる。議長団にはアジェンデ未亡人、コルバラン書記長などの顔が見える。会議はカリリョ・スペイン共産党書記長の開会の演説によって始まった・・・
 思えば、ついこないだまで、ファシスト・フランコの圧制下にあったここスペインのマドリードで、おなじように軍部ファシストの圧制下にあるチリ人民を支援する国際会議がひらかれるとは、なんという歴史の皮肉であろう。こうしてチリ人民への熱い連帯の心を抱いて、いま人びとは世界のすみずみからマドリードに集まって、チリを見つめ、チリのために心をくだいている。ソヴェトのエフトシェンコは長い長い詩を読んで満場の拍手を浴びた。ベトナムの代表は、会場には来られなかった詩人チェ・ラン・ビアンの、ネルーダに贈る詩を朗読して、深い感動をあたえた・・・それは四〇年のむかし、国際ファシスト軍と戦うスペイン人民戦線軍を支援するために、世界じゅうからやってきた義勇兵のことを思い出させる。そしてわたしは、その義勇兵たちを歌ったラファエル・アルベルティの有名な詩『国際義勇旅団にささげる』を思い出さずにはいられない。国際主義の精神を感動的に讃えたこの詩をわたしはもう何度も引用したが、もう一度ここに書いておきたい。

  国際義勇旅団にささげる
              ラファエル・アルベルティ

きみたちは遠くからやってきた・・・だがその遠さも
国境を越えて歌うきみたちの血にとって何んであろう?
避けがたい死が毎日 きみたちを名ざしているのだ
町なかだろうと野っ原だろうと路上だろうと お構いなしに

こっちの国 あっちの国から 大きな国 小さな国から
ほとんど地図の上に色もついていないような国から
おんなじ根から生まれた おんなじ夢を抱いて
素朴で無名のきみたちは 話しながらやってきた

きみたちは 壁の色さえも知らぬこの城壁を
うち破りがたい約束でもって 堅めるのだ
その身を埋めるここの大地を 断固として守るのだ 
砲火に向かって 戦闘服をまとったままの死を賭して

いつまでもいてくれ──木々も野っ原もそう頼むのだ
おんなじひとつの感情を呼び起こし 海をも動かす
あの光の小さな火花たちもそう願うのだ 兄弟たち!
マドリードはきみたちの名前で偉大となり光り輝いている
               (つづく)

国際会議にて
チリ連帯国際会議 会場にて


<注釈>
博光には<フランス紀行>と<スペイン紀行>からなる「ヨーロッパ紀行」を出版する構想がありました。草稿および編集者との打ち合わせメモがありますが、出版した形跡はありません。
<スペイン紀行>
1.マドリードで (ヴィクトル・ハラの手)
2.グラナダ──アランブラ宮殿
3.ロルカの家
4.コリウール──アントニオ・マチャードの墓

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)