ピカソを語る Talk about Picasso

ここでは、「ピカソを語る Talk about Picasso」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


博光の講演会「私とピカソ」について、彫刻家の山本明良・喜代子夫妻が教えて下さいました。

山本良

1986年10月に葛飾区新小岩社会教育館で「アトリエかつび」が主催しておこないました。
「アトリエかつび」の仲間10名ぐらいが新書版「ピカソ」の発刊を記念して、ぜひ「ハッコーさん」のお話しを聞きたいとという願いで企画したものです。100名を超える盛会になりました。画家の八木義之介さんが似顔絵を書いて下さって、今に残っております。

私とピカソ
私とピカソ


八木義之介さんが描いた似顔絵と講演会の写真が同じときのものとわかりました。


アヴィニヨンのピカソ


<『マチャード/アルベルティ詩集』土曜美術社出版販売 1997年12月>

*参照「アヴィニヨンにおけるピカソ展

(5)
 質問がありましたら、それに答える形でお話したいと思います。
 ──口火の形で感想を述べたいと思います。大島さんがお書きになった『ピカソ』は非常に勉強になります。ピカソとの付き合いは、われわれにとって一つの闘いなんです。「ゲルニカ」をどういうふうに理解するかについて自分の内部に問わなければならない。というのは、初めは「ゲルニカ」がわからない。しかし、ファシズムに対する、あの残虐さに対する告発という歴史的な課題に取り組むのに、ピカソはあれ以外のやり方では表現できないんだということはだんだんわかってきます。彼の感覚、彼が育ったスペインの環境、彼の非常に強烈な個性、こういうふうなものと、彼が鍛えあげてきたシュルレアリスムその他の技法、蓄積を考えると、これは非常によくわかってきます。
 それで、今度はわれわれ自身の課題として、日本のこういう環境のなかに、日本の人民の悩み、希望、そういうものをしょいこみ、自分の課題とする戦争と平和の問題をどう表現し、どう取り組んでいくかということです。日本には日本の技術的な伝統と、われわれが生きてきた社会、それぞれの作家たちの個性がある。これを考えてみますと、それぞれの民族の現代の画家たちは、さまざまな技法を使い、新しい芸術形式を創造しながらそれぞれ自分の世界で新しい形象化を展開しなければならないし、そこまで非常に広い個性を承認していくことが大事ではないだろうかと思うのです。
 大島 そのとおりです。あなたのおっしゃるように、そこで今度は民族形式の側面も問題になってくるだろうと思います。
 ただ、わたしが言いたいのは、自然主義は描くべき対象を選択しないということです。スナップ写真のように、何でも問題意識なしに描くのが自然主義なのです。「ゲルニカ」がファシズム闘争という問題意識をもって、選択して描かれたときに、それが典型をとらえることができたということなのです。
 もう一つは、その「ゲルニカ」の問題には、ピカソにとっても幸せな傑作ができたという芸術の不思議さがあります。私も『ピカソ』のなかで書いておりますが、フェルミジェは、「ゲルニカ」を描いたピカソは怒り狂って燃えたっていたと言っています。ところがその後の、朝鮮戦争や戦争と平和の絵を描いているときには、そういう猛々しい、あのピカソはもういない。だからこれは非常につまらないという批評をしています。こういうことを見ても、ピカソのなかでも、「ゲルニカ」の創造というものは、そういう高揚したときの一回限りのすばらしさだというふうにも思います。もちろんそういう方法だけしかないと、私は言っているわけではありません。私なども、詩のほうではやはり自分たちの言葉で、自分たちの詩の伝統のなかで、新しく革新しつつ、そういうものを創造していかなければならないとも思っています。

 ──近代的自我と革命的モダニズムの連関性が、いまの大島さんの話で若干わかりましたが、革命的モダニズムの問題について、さらに大島さんの見解を教えていただきたいと思います。
 大島 モデニスムという言葉が日本で使われる場合には、私たちが若い頃、詩のほうでモダニスムというと、ちょうど日本の歴史的な状況のなかでは、プロレタリア文化運動が弾圧されてもう何にもなくなって、小説のほうでは横光利一の新感覚派が出てきて、詩のほうでは私たちのやった「新領土」というような、つまりフランスのシュールレアリスムなどをまねするけれども、フランスのシュールレアリスムがもっているような反抗精神は抜きにして、ただ形だけのモダンさ、いわばファッションのモダンさが日本の詩におけるモダニスムの歪んだあらわれだったわけです。私がいま革命的モダニスムというのは、そういうモダニスムではなく、こんにちの社会でのいちばん先端的な、前衛的なありかたについての関心と、それを芸術表現していく精神をモダニスムというわけです。
 それは先ほどのフランスの場合では、あのランボオが「絶対に近代的モデルンでなければならない」と言っています。そしてこの言葉をアラゴンなどもー種のモットーのようによく引用しています。モダンでなければならないというのは、その時代の先端的な問題、もっと言えば、その時代の中心的な問題をつかんでいかなければならないという態度だと思います。そういう意味で、こんにちのピカソのような芸術が、世界的な文化芸術のなかでいちばんモダンというか、進んだというか、そういう位置を獲得している意味でモダニスムと言ったのです。ピカソのなかにも、つねに新しい世界、現実、新しい手法に挑戦していくモダニスムの精神があって、それがみごとに作品のなかに開花していると思います。そして手法的に言えば、たとえばピカソ、エリュアール、アラゴンにみられるように、キュビスムやシュルレアリスムのなかでの獲得物をすべて清算するのではなく、そのなかのレアリスムに有効なものは、これを新たに併用する。そのことによってレアリスムをいっそう豊かにする、そういう態度もふくまれると思います。
                 (おおしま はっこう・詩人)
(この稿は一九八六年十二月十三日、日本共産党美術家後援会主催、日本共産党詩人後援会協賛の講演会「ピカソの友人たち」に加筆されたものです)
(完)

<『文化評論』1987年4月号>
(3)
 詩のほうでは状況の詩と言いますが、絵のほうでも、たとえば「ゲルニカ」とか、「朝鮮の虐殺」とか、あるいは「戦争と平和」というようなピカソの絵はやはり状況の絵画、状況の芸術ということができるだろうと思います。
 ところで、状況の詩を非常に苦労して書くようになったエリュアールは、状況の詩について非常にうまいことを言っております。つまり、状況の詩を書くためには、状況の芸術が成り立つためには、外部的状況と詩人の、芸術家の内部的状況とが一致しなければならないということです。どういうことかというと、先ほどの「ゲルニカ」のような絵の場合に、ゲルニカ爆撃に対する怒りをどのように絵で描くかという問題が提起されたときに、ピカソのなかにあれだけの技法、芸術的な蓄積があり、そうしてピカソ自身の怒り、感動という内部的状況があって、それらが結びついて初めてああいうものがつくり出されたわけです。
 ここが非常におもしろいところです。つまり、ゲルニカの悲劇をどういうふうに絵に描くか、ファシズム反対、戦争反対の絵をどういうふうに描くかという問題がピカソに与えられたときには、まだ「ゲルニカ」の構想も生まれず、どういうふうに描いたらいいかピカソにもわからない。そこにはただ、「ミノトールマシー」のような闘牛の絵や、たくさんのスペイン的なもののスケッチやエスキースを描いている蓄積があり、彼の絵画的言語の蓄積があって、初めて「ゲルニカ」という答えが出てきたわけです。
 この問題についてピカソはこんなふうに言っています。スペイン戦争について描けといわれても、わたしはあのゴヤの「五月三日」の、フランス兵が並んでスペインの民家を射撃しているような、戦争をそのまま絵のなかに描くわけにはいかない。わたしはわたし流で描かなければならないし、わたし自身が戦争のなかへ入っていかなければならない。そういう言い方をしております。このことはやはり、先ほどわたしが申し上げた近代的自我の内部を通して、自分の個性と感性のすべてを通して、自分のもので戦争を描く、現実を描く、あるいは反映する、という方法だろうと思います。
 そのように非常に個性的な、あるいは一見レアリスムに反するような、レアリスムから逸脱するように見えるほどにも奔放自由なイマジネーション、ファンタジーを駆使し、描いた作品、そういうものがピカソにもあるいはエリュアールにも、近代芸術のなかには出てまいります。ここで、そういうものはレアリスムなのか、それともレアリスムではないのかという疑問が出てくるだろうと思います。じっさいに、そういう疑問はまず「ゲルニカ」に対する評価という形で出てきたのです。

 一九三七年の夏、万国博のスペイン館の壁に、初めて「ゲルニカ」がかかげられたとき、それを注文した当時のスペイン共和政府の文化関係の人たちでさえが、こういう絵はスペイン戦争でたたかっている人民の役には立たない、われわれはもっと直接に武器をとって立ち上がれというような絵を要求した。ところが、この「ゲルニカ」にはあまりにもデフォルマンオン(変形)やトランスポジション(置き換え)というようなものがあり、非常に変わったフォルムがあって難解で、これは人民の芸術ではない、というような酷評も出たほどです。こんにちでこそ、「ゲルニカ」は衆目の一致する傑作と言われておりますけれども、当初においては、人民の側に立つ文化人でさえもがそういう評価をしたのです。そこにはやはり、文化の発展における不均等ということがあり、前衛芸術をめぐる評価におけるずれ、意議のずれがあるように思います。
 ここでわたしは典型というものを考えてみたいと思います。「ゲルニカ」におけるように、いわば二十世紀の典型的状況が、ピカソのような個性的、独創的な想像力と技法で描かれ、そのことによって典型として生かされているといった場合には、それこそがレアリスムだと思います。あるいはそれをまた革命的レアリスムと言ってもいいし、革命的モダニスムと言ってもいいと思います。逆に、そういう近代的自我を抜きにして、自分の主体を意識的に豊かにせずに、単なる古い自然主義的反映で終わっている場合には、それはレアリスムではなく、古い自然主義のままに陥っていると言っていいと思います。
 ピカソの偉大さは、一言で言えば、ニ十世紀の典型を描いた、というところにあると思います。もしも二十世紀を、資本主義から社会主義へ移行する世紀、あるいはファシズムと民主主義との闘争の世紀というならば、まさに「ゲルニカ」によって反ファシズム闘争の典型的な画面を描いたことに、ピカソの決定的な達成、貢献があったと言えるように思います。
 わたしの本のなかで、ピカソのレーニン平和賞受賞について、アラゴンがこういうことを言っています。
 ある人たちは、ピカソに平和賞が与えられたのは、ただピカソのハトの絵に与えられたのだ、と言うかも知れない。しかし、「ゲルニカ」やそのほかの傑作を描いた画家のハトでなかったら、そのハトはそれほど評価されなかっただろうと。
 わたしもその通りだろうと思います。あの激しい個性をもって、その時代の典型的なものを描きだす、という仕事は、「ゲルニカ」だけでなく、朝鮮戦争のときの作品、あるいは「戦争と平和」という、こんにちの最も重大な課題に対する壁画による対応、平和の謳歌、人間の生きる悦びに対する絵画による賛歌など、広くあるわけです。
 この豊かさ、主題の多様さ、レパートリーのひろさ、いろいろな分野──彫刻や陶芸などへの挑戦、……これらは、ピカソがつねに現実から出発したことによって可能でもあり、獲得されたのでもあったと思います。現実──人間の内面世界、意識世界をふくめ、政治、歴史をふくめた現実世界を対象としていたからこそ、可能だったのです。キュビスムのような抽象に近い仕事を追求しておりながら、しかしピカソは抽象絵画には一顧もしない。抽象には一瞥もくれないというところには、やはりピカソの断固たるレアリストの精神をうかがい知ることができます。
(つづく)

(文化評論1987年4月号)
(2)
 二十世紀の典型を描いたピカソ

 さてピカソのほうは、十九世紀から二十世紀に変わった状況、政治状況や社会状況の変化につれて、もっと前進した形で現実にタッチしています。「ゲルニカ」のように、ファシズム反対の闘争にもちゃんと反応しています。しかもピカソの場合には、絵画芸術上の方法、手法、技法などのほとんどあらゆるものを勉強し、キュビスムおいては、ああいう分析、総合、再構成というような方法を試み、そういう芸術手法上の蓄積によって、「ゲルニカ」という傑作も出てくるわけです。そういう歴史的状況にこたえた絵ばかりでなく、あの愛の絵にしても、あるいは青の時代の絵にしても、そこにはピカソ自身の主体的な近代的自我の生きた声、叫び、生きざまが表現されており、自己を語ることで万人を語るというところにまで到達します。それらは画面のうえでは、構成(コンポジション)ぜんたいの運動によって表現されたり、筆敦や線の勢いによって強調されたり、たとえば、いななく瀕死の馬や、頸を絞められて叫びをあげる鶏や、足をしばられて悲鳴をあげる犬といったような、叫びそのものの形象によっても、それらは表現されているように思います。
 さて、先ほどのランボオのことで申しますと、古い「美」に毒づいたということ、詩もきれいごとではすまないという態度は、やはりレアリスムになるほかはないと思います。たとえばランボオは、「七歳の詩人たち」という詩のなかで、労働者街の子供たちと遊んだ子供の頃を書いていますが、この詩のなかには、子供が半ズボンのなかにもらした下痢の臭いまで書きこんだり、庭の果樹を「皮癬に罹った果樹」などとも表現しています。ランボオはこの「皮癬」といったたぐいの醜怪なものが好きで、「酔いどれ船」のなかには「皮癬に罹った大蛇の群」などがうたわれています。こういう異常な醜怪なもののなかにも美を見いだす精神は、やはりピカソのなかにも、もっと違った、発展した形で出てきているように思います。
 たとえば有名な「アヴィニョンの娘たち」について考えてみましょう。当時ピカソが非常に愛していた絵に、アングルの「トルコの風呂」があります。裸の女たちがあらゆるポーズをとっている有名な古典主義の絵です。ピカソが、こういう絵を自分ならこういうふうに描くんだといって、それに対置してみせたのが「アヴィニヨンの娘たち」」のような気がします。「アヴィニヨンの娘たち」というのは、バルセロナにアヴィニョン街という港に近い町があっで、そこに淫売窟があったのです。南フランスのアヴィニヨンとは違います。ですから、初めからあれは淫売窟の女たちで、何でもピカソが若い頃、そこの近くに住んでいてよく見かけていたということです。この絵はそういう光景に触発されて描かれたもので、初めはその女たちを船員がひやかしているという構図だったといわれます。それが、アングルの「トルコの風呂」に対する一種の近代的なパロディの形として定着したとも考えられます。片方の古典的で美しい豊満なアングルの裸婦たちに対して、ここにはキュビスムの分析と再構成になる新しい女たちが描かれたのです。そこには淫売婦の巌しさと現実の厳しさが、新しい造形的意識によって描きだされているようなおもしろさがあるように思います。
 それから、怪異なイメージについていえば、スペイン人民を血の海に投げこんだファシスト・フランコを風刺した一連の戯画が思いだされます。そこではフランコは不気味な蛸のような怪物として描かれていて、そこにピカソの怒りと嘲笑がこめられています。
 また一連の「ミノトール」の版画、木炭による連作も忘れられないもので、とりわけ「小娘にみちびかれる盲目のミノトール」ほど、ピカソが自分の内面の苦悩を語った興味ぶかい自我像はないといえましょう。
 それからピカソのいちばんの親友であった詩人のエリュアールについて言いますと、彼はピカソのおかげで共産党員になったんだと、わたしは考えます。エリュアールのほうがピカソよりも先に共産党に入りますけれども、ほんとうはピカソの影響を受けて、彼はだんだん党に近づいていったのです。当時、シュルレアリスムの親玉であったアンドレ・ブルトンは、歴史的、あるいは社会的状況を書いた詩は、ほんとうの前衛的な詩ではない、それは詩の後退でしかない、という考えをもっていて、その影響下にあって、エリュアールは状況の詩、つまりレアリスムの詩のほうへはいかずに足踏みをしていたわけです。そういうときに、ピカソと親友になって、ピカソ巡回展では、ピカソといっしょにスペインをまわります。そこで講演をして歩いているうちにだんだんスペインに対する理解ももち、人民戦線に対する共感ももって共産党へ近づいてくる。スペインのファシストの暴虐をあばいた「一九六六年の十一月」という詩が「ユマニテ」紙に掲載されて大きな反響をよびます。ピカソが「ゲルニカ」を描くと、エリュアールは詩で「ゲルニカ」を書きます。こうしてエリュアールはブルトンの呪縛からぬけでて、レアリストになっていくわけです。そこに、ピカソの影響の大きさを見ることができると思います。
(つづく)

(『文化評論』1987年4月号)

 ランボオ・ピカソ・モダニズム
                         大島博光

(1)
 こんど『ピカソ』(新日本出版社刊)を書きまして、そのなかでわたしがいちばん感じたことをお話してみたいと思います。
 またここには画家の皆さんや詩人の皆さんがお集まりなので、絵を描く、詩を書く、そういう創作者の立場、創作者の内面における制作の過程、手続きというような側面からも、ちょっとピカソのことを考えてみたいと思います。

  ランボオの詩の本質

 わたしは詩のほうが専門で、主としてフランスの近代詩を勉強してまいりました。若い頃には、その頃フランスで盛んであったシュルレアリスムの運動にも関心をもち、絵のほうでは、マックス・エルンストとかキリコなどにも魅かれたものです。ピカソもシュルレアリスムに関心をよせたばかりでなく、エリュアールと親友になってからは、『ミノトール』という、シュルレアリストの雑誌に協力して、その表紙絵を描いています。それらはモダニスム芸術として、いっしょくたになってわたしのなかにはいってきたのです。その頃(一九三〇年代)すでにピカソはわたしたち若い詩人仲間でも有名で、ピカソがわからない奴は詩人ではない、とさえいわれたほどです。
 こんど『ピカソ』を書いていちばん感じたことのひとつは、ヨーロッパ文化・芸術のなかで、近代的自我というか近代的精神というか、そういうものの系統、発展、展開がやはり歴史的に続いているという点です。
 なぜわたしがいま、近代的自我などということを申し上げるかというと、フランスの近代詩では、たとえばランボオから近代詩が始まると言われます。こういうランボオなどの近代的自我というものは、ブルジョワ的近代自我に対する批判者として、反抗者としてあらわれています。日本の現代のイデオロギー状況をみますと、もう近代を超克するという、あの戦争中に小林秀雄などがとなえたような反動的な近代的自我の否定ということが、反動のイデオローグのほうでは日程にのぼってきています。こういうことに対してもやはり近代的自我の確立、あるいはそれを基礎にした芸術活動の重要さをわたしは感ずるわけです。
 ところで、わたしの本のなかで、フランスの詩人ジャク・ゴーシュロンがこういうことを言っています。ちょっと引用いたします。
 「……ランボオは『地獄の季節』のなかであの神秘的な言葉を吐いている。
 (ある夜、おれは『美神』を膝のうえに据えた。するとおれには『美神』が苦にがしいものに思われた。そこでおれは『美神』に毒づき侮辱した……)
 ……ピカソの作品は(ピカソそのひととは無関係に)完全に、このランボオの言葉の一種の解説であり、挿画(イラスト)である、とわたしは考えることができる……
 美神は、画家ピカソの膝のうえに据えられて、毒づかれ侮辱されたのだ。美であったものが、忘れえぬ形象となり、非人間的な形象となった。
 そしてランボオが『美神』を侮辱した『荒唐無稽なオペラとかれの最後のざ折を語ったのちに──『おれはきょう日を尊敬できる』という新しい言葉、新しい詩法を発明したように、ピカソもまた絵画のなかに、ちがった次元の美を創造するにいたる。それは、ちょっと見ただけではわからない、いっそう秘められた、見かけは辛辣で、腐蝕的な美である……』
 ちょうどこのくだりを訳した頃、わたしはまたランボオを勉強し直していたものですから、そのことが初めてよく理解できたのです。この指摘はまた、ピカソ芸術の本質に光をあてて、これを照らしだしています。
 ランボオが〝美神〟に毒づいたというくだりについて解説いたしますと、当時パリ詩壇に、パルナシアン(高踏派)という詩人グループがあって、『パルナッス』という立派な詩誌を出していたのです。少年詩人のランボオはパリ詩壇に憧れて、そこへ詩を送るけれどもちっとも載らない。だから羨望するけれど、侮蔑もあるわけです。そこでパルナシアンのことを美神と言いかえて毒づいている。つまり、おれはあんなパルナシアンのような詩は書かないぞ、という反抗と新しい詩法の宣言を、ああいう独特の言いまわしで言っているわけです。では『パルナッス』の詩とはどういうものかといえば、結局は象牙の塔の詩であり、パリのサロンの詩であり、現実生活とはほとんど無関係なつくりごとの文学だったのです。
 ランボオの詩をご存じの方は、そういう言い方がよくおわかりになるだろうと思うのです。というのは、ランボオは少年でありながらすでにパリ・コミューンに自分の反抗の夢を託し、これを支持します。母子家庭における母親の独裁下のような暮らしのなかで、「ここには真の生活はない」と叫び、「生活を変える」ことを夢みるわけです。そうして彼は、「ジャンヌマリーの手」という有名な詩で、コミューンのバリケードでたたかった婦人戦士をほめたたえ、「パリのどんちゃん騒ぎ」という詩では、コミューンを絞め殺して勝ちほこるヴェルサイユのブルジョアどもを痛烈に罵倒するのです。
 それから、こんにちで言えば非行少年のような面もあって、しょっちゅう家出をして食うや食わずで街道をほっつき歩いている。またそういう生きざまや放浪生活を美しい詩に書く。そういう実践、行動、生きざま、生き方を自分の詩のなかでうたう。つまり現実の自分の体験や生きざまや、ブルジョワ社会への反抗や批判や、そこから抜け出る夢などをうたう。こういうのが彼の詩人としての態度です。
 こんにち、わたしなどがランボオに興味をもつのは、そういう詩を書きながら、それが個人主義的でないという点です。なぜ個人主義的でないかというと、パリ・コミューヌの思想・精神を共有していて、世の中をよくしよう、生活を変えようという希望──それはコミューヌが敗北して絶望に陥りますが、その希望はすぐには終えず、時代の精神、時代の課題を忘れずに、いつでもそれを念頭においてものを書いている。だからそこでは、ランボオが「私」と言っても、それは「われわれ」であり、こんにちのわれわれにもつながる時代精神を感ずるわけです。
 マルクスはパリ・コミューヌについて、その弱点を指摘し、さきほど引用したゴーシュロンは、こういうランボオの詩の本質を、古い美に毒づいてこれを否定した点、きれいごとの詩に対して反抗した点に見いだしていて、そういうことをピカソは絵のうえでおこなった、と言っているわけです。つまりこの二人の芸術の本質のあいだにある類似性、アナロジーを指摘しているのです。ピカソ芸術は「辛辣で、腐蝕的な美である…」という指摘はそのままランボオの詩の本質をも浮きたたせるものです。
(つづく)

(この稿は一九八六年十二月十三日、日本共産党美術家後援会主催、日本共産党詩人後援会協賛の講演会「ピカソの友人たち」に加筆されたものです)

(『文化評論』1987年4月号)

 強烈な人間賛歌 ─ピカソ素描
                              詩人 大島博光

 東京・上野の森美術館でピカソ展がひらかれています。展示される作品のなかでも、「青の時代」「キュビスム」「新古典派」とさまざまな技法を展開しています。これらの技法の変化はどのようにうまれたのか──詩人で「ピカソ」(新日本新書)の著者としても知られる大島博光さんに聞きました。

 フランスで育ったスペイン人、ピカソ
 こんどのピカソ展は、青年時代から晩年までの作品を網羅した七十九点にのぼる多彩なものである。長い生涯におけるピカソの人と芸術を語るのは容易ではない。
 まずピカソはゴヤやヴェラスケスの伝統につちかわれ、闘牛に象徴されるこの国の光と影をその身に深く秘めたスペイン人であり、青年時代以後をフランスで過した画家である。
 その人となりを知るのに大事なのは、少年時代、オルタ・デ・エプロという山の村でひと夏を過ごした体験である。彼は村の農民たちの生活にとけこんで、牛乳をしぼったり、ロバの世話をしたりした。こうして彼はスペインの人民と風物にふかく結びつく。

 「表現したい何かに必要と感じた技法」
 その頃、スペインはキューバをめぐるアメリカとの戦争によって疲弊し、人民の貧窮に拍車をかけていた。「青の時代」の作品はそれをよく反映している。「ラ・セレスティーナ」(売春をとりもつ女)はその傑作のひとつである。彼女は青色の背景のうえにさらに濃い青の、頭巾付きのマントを着、左目は盲目の老女である。売春をとりもつ女といういかがわしい表情はほとんど消えて、「片目の老女」と呼ぶほかはない重々しさをもつ。若いピカソはすでに苦い現実を深く凝視していたのである。
 
 一九一〇年頃からピカソのキュビスム(立体主義)追求が始まる。対象を切子のような幾何学的な面に分解して、それを再構成する手法で、「ギターをもつ男」もその代表のひとつである。
一九二二年には、このキュビスムとは全く相反する、いわゆる新古典主義的と呼ばれる「海辺を走る二人の女」が描かれる。地中海の太陽と汐風を浴びて走る二人の女たちはギリシャの円柱のような太い脚と腕をもち、たくましい動きと造形を与えられている。手法の豹変を問われたピカソは答える。「表現したい何かがあったとき、わたしはそのつどそれを表現するに必要と感じた手法で表現してきた」

 自由を愛する力強い人間賛歌
 その後、多様な手法による肖像画がぞくぞくと描かれる。古典的な手法で描かれた端正な「オルガ像」。父性愛の途れる優しさで息子を描いた、甘美な「ピエロに扮するポール」。一九三〇年代、人民戦線とスペイン戦争の時代には、有名な「ゲルニカ」が描かれる。肖像画では、ドラ・マール、マリー・テレーズなどの恋人たちが、また詩人エリュアール夫人ニューシュが、直接的に、あるいはキュビスム風に、人物の眼のなかのきらめきとともに、フォルム(かたち)の歌とともに、造形的に、時に叙情的に描かれる。「マリー・テレーズに導かれる盲目のミノタウロス」は、たくさんの女たちを食ってきたおのれの業の深さにおののく盲目のミノタウロスに託された、ピカソ内面の自画像であろう。
 この人民戦線の時代、ピカソは親友エリュアールとともにつねに人民の側に立っていた。その後二人は相ついで、「泉へ行くように」共産党に入る。
 一九六〇年頃、八十歳近いピカソは、ヴェラスケス、ドラクロワ、クールベなどの巨匠たちの傑作のヴァリエーションを試みる。音楽における「バッハの主題によるヴァリエーション」のように。「草上の昼食」はマネの主題によるヴァリエーションである。しかしピカソは模倣しない。彼は先輩たちのテーマや構図をかりて、自分自身の絵画の言葉で語り直す。人物たちはピカソ独特のポーズや描写や配置を与えられて、全く新しいものとなる。それによって彼は先輩たちに敬意(オマージュ)をささげているのだ。
 ピカソのまなざしは率直で激しく、大胆で斬新で人間的であり、どんな束縛をも知らぬ自由さによって、生きる悦びや悲しみ、夢や心の内奥(ないおう)の歌をひびかせる。それは力強い人間賛歌にほかならない。

「パリ・国立ピカソ美術館所蔵 ピカソ展」六月十四日まで。東京・上野の森美術館(☎03−327218600)にて

(『民主青年新聞』1999.4.26  みんしんアカデミー)

世界の共産党員物語(8)

ピカソ(中)

●ファシズムを告発する「ゲルニカ」


●ファシズムヘの怒り
 一九三六年の夏、突如としてピカソは政治に眼をひらきます。そのときピカソは五十五歳。青年時代の「青の時代」を通過し、有名な「アヴィニョンの娘たち」を描き、立体主義(キュビスム)の絵画を追求し、そのかたわら新古典主義といわれる豊満な大女たちの絵を描いて、ピカソの名はすでに世界にとどろいていました。
 ピカソに政治に眼を向けさせたのは、祖国スペイン共和国にたいして、ファシスト・フランコ軍が反乱を始めたからです。つまりスペイン市民戦争の勃発です。
 スペイン共和国は、一九三一年四月、スペイン各地でおこなわれた地方選挙の結果、共和制を支持する人民が決定的な勝利をおさめて、スペイン人民が流血をみることなくして獲得し、成立させた共和国でした。その折、アルフォンソナ三世はついに王位を放棄し、ブルボン王朝は崩壊したのです。この偉大な夢の実現と未来への希望は、どんなにスペイン人民を歓喜させたことでしょう。それにつづく数年はスペインの民主的な文化が花ひらく輝かしい季節となります。
 しかし、春の日は長くはつづきませんでした。国際反動とファシストたちは、若いスペイン共和国の隙をうかがい、おのれの出番を待っていたのです。こうして一九三六年七月、ヒトラーとムソリーニに支援されたフランコ軍が、スペイン人民に襲いかかったのです。
 ピカソは共和国とスペイン人民を支持し、そこに希望を託していました。そしてピカソは共和国政府によって、プラド美術館長に任命されていました。
 ピカソはこのポストを名誉として受けもつだけでは十分と思わず、スペイン人民の支援に全力を傾けるのです。ファシストの恐るべき犯罪、勝ちほこった「野獣」のふりまく恐怖を前にして、ピカソは怒りの声をあげ、この悲劇の残酷さを、その天才をもって描くことになります。また内戦の犠牲となったスペインの子どもたちを支援するために、彼は多くの絵を売って、多額の義援金をいく度も贈ったのです。

●ゲル二力の悲劇
 一九三七年一月、スペイン共和国政府は、その夏パリでひらかれる万国博覧会のスペイン館をかざる壁画をピカソに依頼しました。ピカソは壁画を引き受けましたが、なかなかその仕事に手がつきませんでした。そうこうしているうちに、世界を衝撃させる事件が起きたのです。──ゲルニカの悲劇です。
 一九三七年四月二十六日、バスク地方の小さな町ゲルニカは、フランコを支援するナチス・ドイツ空軍によって三時間半にわたる波状爆撃をうけ、町は全焼全滅し、死者は二千人にのぼりました。ナチスの戦闘機は、町のまわりの畑に避難した町民たちにまで機銃掃射を浴びせたのです。このドイツ軍による爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との共用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験することにあったのです。
 このファシストによる残酷な犯罪の知らせは、たちまち世界に伝えられ、世界じゅうの人びとに衝撃をあたえたのです。
 四月三十日には、フランスの新開には、廃墟となったゲルニカの写真が掲載されたのです。
 スペインの同胞のうけた、この残酷な悲劇にたいするピカソの怒り、反発──そこから一挙に、壁画のイメージが生まれ、傑作「ゲルニカ」へと結晶してゆくのです。

●20世紀最大の傑作・ゲルニ力
 できあがった画幅はきわめて大きなものでした(三・五☓七・八二メートル)。構成の上でピカソはごく古典的な形式をとっています。
 中央の三角形の項点にはランプがあります。大きな横顔を見せている女の腕が、このランプを差し出しています。人物たちと部屋の部分とは、舞台装置の印象をあたえるように圧縮されて配置されています。左側には大きな電灯に照らされた部屋があって、テーブルの上には頸(くび)をのばしてくちばしを大きく開けている鳥が描かれています。右側には瓦屋根の家と炎に包まれた家、その窓と入り口などが、きわめて立体主義風な幾何学図形によって描かれています。およそ古典的な絵においては、恐怖の場面は一般に広場でくりひろげられ、殉教者や無実の者たちは四方に逃げようとしています。しかしここでは逃げることは不可能なのです。町と町の人たちは爆撃によって全滅させられていたからです。そこでピカソはこの閉ざされた舞台装置を選んだのです。
 八人の登場人物──中央には馬が断末魔の叫びをあげています。左側には牡牛が顔を横に向け、尾を立てています。その下に顔をのけぞらせた女が苦しみの叫びをあげ、死んだ子どもを腕に抱いています。右側には、ランプを差しだしている女の横顔をかこむように、もうひとりの女が光の方に身を伸ばしており、さらにもうひとりの女が炎を噴いている家の前で、腕を重くあげて大きくわめいています。前面にはひとりの戦士が床に横たわり、折れた剣を手に握りしめています。剣のそばには花が描かれています。
 牡牛と死んだ子どもをのぞいて、その他の顔はみな口を大きくあけて、あるいは断末魔の叫びを、あるいは怒りと恐怖の叫びをあげています。それらすべてはゲルニカの時代に絵画があげた叫びそのものなのです。ひき裂かれ、ふみにじられたスペイン人民の悲劇にたいして、絵画があげることのできた叫びそのものなのです。そしてそれはまたピカソがファシズムの暴虐にたいしてあげた叫びにほかならないのです。ここに、絵画「ゲルニカ」が二十世紀最大の傑作といわれる理由があるのだと、わたしは考えます。
 「ゲルニカ」についてはいろいろな解釈がおこなわれていますが、ピカソの友人でスペインの大詩人ラファエル・アルベルティが「ゲルニカ」について書いた詩を引用しておきたいと思います。

 ……怒りに燃えて告発し
 きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を
 断末魔の馬のいななきを
 きみは地面に並べて見せた
 倒れた戦士の折れた剣を
 えみ割れた骨の髄と
 皮膚の上のぴんと張った神経を
 苦悶を断末魔の苦しみを憤怒を
 そしてきみじしんの驚愕を
 ある日きみがそこから生まれてきた
 きみの祖国の人民を
 それらすべてを
 きみは「ゲルニカ」と名づけた
 (アルベルティ『途切れざる光』)

●仔山羊と鳩
 それから十数年後の一九五〇年、ピカソの「ゲルニカ」の映画がつくられたとき、詩人のエリュアールはそれにすばらしい解説を書いたのです。そのなかには、「ゲルニカ」の意義にふれた、つぎのような美しい文章があります。

 「ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかには鳴く仔山羊をかかえ、心のなかには一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い声を挙げているのだ。
 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう」

 ここには「ゲルニカ」につづくピカソの仕事が簡潔に、しかも詩のように描かれています。「腕のなかには鳴く仔山羊をかかえ……」というのは、一九四四年につくられたピカソの彫刻「羊を抱いた男」を指しており、「一羽の鳩」というのは、一九四九年の第一回世界平和大会のポスターに描かれた、ピカソの「鳩」を指しているのです。つまり、「ゲルニカ」によるファシズムの告発ののちには、ピカソは平和運動にその芸術と実践をもって参加したのです。
 なおヒロシマと並べられている「オラドゥール」というのは、フランスの南西部リモージ市から二十キロほど西にある村の名です。第二次大戦末期の一九四四年六月十日、敗走を始めたナチス・ドイツ軍は狂暴になって、通過する村々に火を放ったのです。オラドゥールの村も焼きはらわれ、全村民が虐殺され、女と子どもたちは教会に閉じこめられて焼かれたのです。ひとつの村が文字どおり地図から消された悲劇として、オラドゥールはチェコのリデイツェ村とともに有名です。
<本稿は拙著『ピカソ』(新日本出版社)に拠って書かれた。詳しくは同書を参照されたい。>

(『月間学習』1988年1月号)
世界の共産党員物語(7)
ピカソ(上) 青年時代
●スペイン人民との結びつき
                   大島博光(詩人・フランス文学者)

 二十世紀最大の傑作といわれる絵画「ゲルニカ」の画家ピカソ、世界じゅうを飛びまわった、平和運動のポスターの「鳩」を描いた画家ピカソ──そのピカソが、共産党員であったことはあまりよく知られていないようです。
 ブルジョア批評家たちは、共産党員ピカソにはできるだけふれないように努め、ふれる場合には、ピカソはただ共産党に利用されただけだとか、平和の「鳩」はアラゴンがピカソのところから盗みだしたものだとか、いって、ピカソを共産党から引きはなし、あるいは事実をゆがめて、〝解毒″をはかっているのです。
 そうしてピカソは悪魔的な力と理想とに引きさかれているといって、心理分析の図式を描いてみせる批評家もいれば、実存主義の文句でピカソをきらびやかに飾ったり、難解な形而上学的な言葉を長ながとつらねる者もおり、あるいはピカソをひたすら魔術師として語り、崎型(きけい)学として語る者もいるといったありさまです。
 しかし、人間ピカソの姿が明らかになり、彼の生涯の時代時代と芸術の展開発展の関係が明らかになるにつれて、彼の芸術とその意義もまた、ますます明らかになってきているのです。「ピカソを雑誌や漫画新聞の伝説でしか知らなかった数百万の人びとが、とつぜん作り笑いをやめて、ピカソを心から信頼しはじめたのだ」とアラゴンはいいます。たくさんの人びとが、「ゲルニカ」と「鳩」の画家ピカソが自分たちと無縁ではなくて、自分たちの仲間だということを感じはじめたのです。
 人間ピカソ、画家ピカソ、そうして共産党員ピカソのあとを少しばかり追ってみましょう。

●ピカソの生いたち
 パブロ・ピカソは、一八八一年十月二十五日、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれました。父親のドン・ホセは絵の教師で、ピカソに小さな子どもの時から絵を描くことを教えたのです。
 またドン・ホセは、絵にたいする自然な愛着と同時に、闘牛にたいする愛着を息子に伝えます。ピカソにスペイン的な精神と形象をあたえたものは、まさにこの闘牛だったといえましょう。九歳のピカソが残している最初の油絵は牡牛であり、闘牛士なのです。この闘牛への愛着、執着は、作品においても生活においても生涯ピカソから、消えることはありませんでした。晩年、南仏ムージャンに居をかまえたころには、アルルやニームの闘牛場に、ピカソはその姿をあらわしたのです。
 ピカソはわずか十五歳でバルセロナの美術学校の入学試験にパスします。もう彼はアカデミックな絵画修業をひととおり終わっていたのです。そのころピカソの一家が住んでいたバルセロナは、文化的にも活気にみちた街で、若いピカソが世界へ飛躍する跳躍台となります。
 ここでピカソが青年期を迎えたころ──十九世紀末におけるスペインの社会状況を見てみましょう。それは画家ピカソの生成にとっても無縁ではないからです。
 「学校の先生よりももっと貧乏」というスペインのことわざがあるように、絵の教師ドン・ホセ一家の生活もらくなものではなかったのです。ピカソは自分の最初のパリ旅行にふれて、友人サバルテスにこう語っています。
 「おやじは旅費をくれて、おふくろといっしょに見送ってくれた。だが、家に帰れば、おやじにはもう何ぼかしのかねも残っていなかったのだ……」
 つまり、そのころも、こんにちでも、スペインでは貧乏はきわめてありふれたものだったのです。
 一九〇三年から一九〇五年にいたるいわゆる「青の時代」のピカソの絵には、乞食たちが寒そうにうずくまっていたり、やせ細った旅芸人たちが、途方にくれたような表情で立っています。それらは、そのころのスペインの貧困さ、みじめさそのもののイメージなのです。当時のスペインの歴史は、貧農の反抗とプロレタリアートの闘争でみちみちているのです。
 一八九〇年、ヘレス地方の日雇労働着たちは町を襲撃しています。一八九−年、カタルーニヤの葡萄園の小作人たちは、土地闘争のために立ち上がっています。一八九〇年、バルセロナでは、バクーニン主義者の指導する暴動が起きています。一八九二、三、四年とつづいて、ビルバオの炭坑労働者たちは会社側の監視に反対し、バラック住宅の改善、強制的な給食反対、労働時間の短縮などを要求して大ストライキを敢行しています。「カタルーニヤの工場地帯では、週に三日だけ働き、バルセロナでは工場閉鎖で一万七千人の失業者で溢れていた」(ブルーゲーラ『スペイン現代史』)のです。
 また当時バルセロナではアナーキスムの運動が盛んで、暴動や騒乱が頻発していたのです。ピカソの一九〇一年ころのデッサン、「アナーキストの集会」「囚人」などは、彼がバルセロナの街頭で見た光景を描いたものにちがいありません。

●オルタとコソルの村で
 十七歳のピカソは一八九八年の夏を、病気静養をかねて、友人バヤレスの山の村の家で過ごします。そこはタラゴナ地方の高地にある、オルタ・デ・エブロという村でした。彼は村の人たちにとけこんで暮らし、鍛冶屋、靴屋、農民たちの働く姿を見、彼らからそれぞれものをつくる技法を教わるのが好きだったといわれます。サバルテスはつぎのよう語っています。
 「……ピカソはみんなといっしょに働いた。森の仕事や庭での仕事や、家畜の世話など……彼は百姓のズック靴をはいて、驢馬(ロバ)の世話をし、井戸から水を汲み、ひとびとに話しかけ、しつかりと荷造りをし、生馬に荷物を積み、牛乳をしばり、かまどに火を燃やして米をたき、その他いろんなことどもをした。彼はよくこう言ったものだ。『わたしの知っていることはみんな、オルタ・デ・エブロの村でおぼえたものだ』と……」
 このエピソードほどに、ピカソの庶民性を物語っているものはありません。こうしてピカソは生涯にわたってスペイン人民とふかく結びつくことになります。
 「このオルタ滞在は、ピカソ伝説における最初の『素朴主義者(プリミチヴィスト』のエピソードとなる」と批評家フエルミジエはいって、つぎのように書いています。
 「……彼は生涯、ひじょうに素朴で野性的な男であり……態度は直接的であり、冷酷さと同時にあたたかい人間的な寛大さをもっている。……彼の外見、身なり、生き方はまるで労働者や村の職人のそれに似ている。そして恐らく、彼の政治参加、貧しい人たち、無知で何ひとつ持っていない人たちにたいする同情ほど本心からのものはない」
 その後まもなくパリに出て、ピカソは大画家への道を歩み始めます。しかしときどきバルセロナへ帰ったり、夏にはスペインの山地へ出かけるのが好きでした。
一九〇六年の春には、彼は愛人のフエルナンドといっしょに、ピレネーの高地にあるゴソルの村を訪れます。このときも健康を害していたので、静養をかねての旅でした。ゴソルの村は海抜一四二三㍍の高地にあって、あたりは野性にあふれた雄大な風景でした。村の生活ぶりも、オルタ・デ・エブロにもまして素朴なものでした。そのころのピカソの姿を、愛人のフェルナンド・オリヴィエはこう書いています。
 「そのころ、彼には故国の雰囲気が必要でした。そしてそれは彼の創作欲を刺戟したのです。あそこで描かれた習作には、きわめて強烈な感動、感覚がただよっています……スペインで見たピカソは、パリにいるピカソとはひどくちがっていました。陽気で、人づきあいもよくなり、もっと生きいきとして元気で、落ちついてものごとにうち込んでいました……
 彼は農民たちとつきあうのが好きで、彼らからも好かれていました。彼はのびのびと自由にふるまい、彼らといっしょに酒をのみ、彼らといっしょに遊びました。あの不毛で荒涼とした雄大な風景のなかで……彼はパリにいる時のように、社会の外にはみ出ているようには見えませんでした。……この密輸入者のいっぱいいる村で、彼はなんとちがった人間になり、どれほどうちとけた人間になったことでしょう。彼は密輸入者たちの長い物語に熱心に耳傾けて、まるで子どものように面白がっていました……」
 これがキュビスムの画家になる数年前のピカソの姿です。故国の親しい風物と人びとのなかにうちとけて暮らし、民衆の話に耳を傾け、故国の人民と結びついたピカソの姿です。
(本稿は拙著『ピカソ』(新日本出版社)に拠って書かれています。詳しくは同書を参照されたい。)
  キュビスム
  一九〇七〜一四年ころピカソやブラックによって創始され、フランスを中心におこった美術運動(派)の名称で、立体主義または立体派と訳されています。
(『月間学習』1987年12月号)


党員証

ピカソの共産党党員証が消えた
パリ 美術館でケースごと
【パリで伴安弘特派員】ピカソといえば今世紀最高の画家の一人。彼がフランス共産党員だったことはよく知られています。このことを証明する彼の党員証がパリのピカソ美術館に飾られていましたが、つい最近、この党員証がガラス・ケースとともに姿を消してしまいました。
 美術館関係者によると、このガラスケースはピカソの著名な絵画「朝鮮の虐殺」がアール・エ・エンデュストリ美術館に貸し出されたとき一緒にもっていかれたというのですが、党員証の行方については口をにごしています。
 十日付仏共産党機関紙ユマニテは一面に生前のピカソがかつての仏共産党幹部マルセル・カシャン、ジャック・デュクロ(元大統領候補)らと語らっている写真を掲げ、「共産党の信用失墜のためにあらゆる行為がおこなわれているときに、ピカソが共産党員だったことを思い起こさせまいとするものだと考えざるをえない」と指摘。さらに、共産党員ピカソを消すことは「ランボー(詩人)のパリ・コミューン活動時代やゾラのドレフュス事件へのかかわりを消すにも匹敵する計画的偽造である」とのべています。
(『赤旗』1988年2月)
三人のパブロ

<「赤旗」1989.1>
 パブロ・ピカソへ
                 ポオル・エリュアル
                 大 島 博 光 譯

    Ⅰ

あるものは倦怠をあるものは笑ひを創造した
そしてあるものは生命を嵐の外套に裁(た)つた
かれらは蝶を撲殺し鳥を水に變へ
そして黒の中へ死にに出てゆく

君は眼を開いた眼は自己の路を
あらゆる年齢の自然物のなかに突き進めた
君は自然物を収穫した
そして君はあらゆる時代のために種子を蒔く

ひとびとは君に魂と肉體を説いた
君は再び肉體のうへに頭を置いた
君は飽満した人間の舌を刺しつらぬいた
君は麺麭を焼き美を祝福した
ただひとつの心臓が偶像と奴隷に生命を吹きこんだ

そして君は君の犠牲の中で描きつづける
無邪気に

つひに悲哀に接木された歓びは終つた

    Ⅱ

一塊の空気髪の毛の楯
交差した三本の剣である君の視線の背後で
君の髪の毛は逆きやすい風を編む
君の顛倒された顔色の下君の額の圓屋根と斧は
突きでた口を赤裸に解放する
君の鼻は圓く静かである
眉毛は軽く耳は透明である

君の眼からは何ものも逃れられない

    Ⅲ

彷徨を終へてすべては可能である
圓卓は樫の木のやうに直立してゐるから
坑道の色希望の色
われらの小さな畑には金剛石(ダイアモンド)のやうに
すべての星が映るから

すべては可能であるひとは人間と獣との友である
またがる虹のやうに

交互に燃えそして凍る
われらの意志は眞珠母である
それは萌芽と花を變へる時の流れによつてではなく
われらには知られない手と眼によつて

われらは眼に見えるすべてのものに触れるだらう
女にも同じく天空にも
われらはわれらの手を眼へ接ぐ
祭りは新しいのである

    Ⅳ

荒野の家の窓に當てられた牡牛の耳
そこには傷ついた太陽
ひとつの内部の太陽が埋没される
覺醒の壁紙部屋の内壁は
睡眠にうち勝つた

    Ⅴ

あのひき裂かれた新聞紙より乾燥した粘土があらうか
それをもつて君は躍りこむ黎明を征服するために
單純な物體の黎明を征服するために

君は愛をもつて描く存在することを待つてゐるものを
君は空虚の中に描く
ひとびとが描かないやうに

寛大に君は雛鳥の形(フォルム)を截(き)りとつた
君の手は賭けた君の煙草包みとコツプと瓶と
そして煙草包みとコツプと瓶とが勝った

子供世界がひとつの夢想から出てきた

よき風をギタアと鳥へ
唯一の情熱を寢室と小舟へ
死んだ緑色と新しい酒へ

湯浴みする女の脚は波と濱邊を露出させる
朝君の青い鎧扉は夜のうへに閉ざされる
畔の中で鶉は榛の實の匂ひがする
過ぎ去つた八月の月月と木曜日
色彩られ響きわたる農夫の収穫
沼地の鱗巣の早魃

嗄れた日没の傷ましい燕に向けられた顔

朝は緑の果實に火をともし
穂を頬を心を黄金に色どる
君は指のなかに焔を掴み
そして火事のやうに描き塗る

つひに焔は結合しつひに焔は救はれる

    Ⅵ

私は女の變りやすい影像を再び知る
二重の天體動く鏡
砂漠と忘却を否定する女

生命を生命に彼女の血を血に與へる
ヒースの奥の泉火花信頼

君が彼女の歌をうたふのを私は聞く
彼女の想像された無数の姿(フォルム)を
田園の寢室を用意し
それから夜の蜃気楼を染めにゆく彼女の色彩を

そして愛撫が去り行くとき
尨大な暴力が残る
疲れた翼の邪悪が残る
暗鬱な變貌
不幸が貪り食ふ孤独な民衆

見るといふことの悲劇そこには
自己と自己に似たもののほか見るべき何ものもない

君は君を消滅させることはできない
君の正しい眼の下にすべては穗へる

そして目前の記憶の基礎のうへに
秩序も無秩序もなく單純に
見ることを與へる魅惑は立ち上がる

(「アトリエ」特輯「ピカソ一九三八」 昭和14年3月)
対談「三人のパブロ」
          カザルス、ピカソ、ネルーダの芸術(5)


                      大島博光(詩人)
                      井上頼豊(チェリスト)

 先駆的な労働者の鑑賞組織をつくる

 大島 カザルスはスペイン戦争より前にドレフュス事件(注1)で思想的に目覚めていますね。
 井上 そうです。十代で貧しい人が多いのに他方で大金持ちが権力を握っている状態を見て悩み、青年時代にマルクス・エンゲルスも読んでいます。ですから最初から、まず人間であり音楽家であることは第二である、と。芸術家だからといって人間としての義務から免れられるだろうか、というわけです。若いころから思いつづけてきたことが、ドレフュス事件というきっかけで深まったと思います。晩年に親しくしたのはベルグソンで、思想的な面ではシュバイツァー(注2)と深い交友を結びました。
 大島 若いころのそういう考え方から労働者の鑑賞団体を組織するんですね。たいへん先駆的な仕事です。
 井上 まず最初にカザルス・オーケストラ、これはアマチュアを含めたオーケストラですが、つくる。それを母体にして労働者コンサート協会をつくります。音楽の分野での勤労者の鑑賞団体としては世界最初です。共和国成立の三年前、一九二八年です。根っからの共和主義者ですね。自分は庶民の間に生まれて庶民の中で育って常に庶民とともにあった、そして共和主義者だ、と。王族にも親しくした人はいるが王制にたいする批判は別にあるということも、はっきりいっています。そこにひとつ、カタロニア人の気質がひじょうに強固にあると思うのです。スペインの中で長年抑圧されてきたカタロニアの精神と歴史が、しっかりカザルスの背中に負われている。カタロニアの差別は今でも妙な形で残っているようです。

 まず人間、音楽家であることは第二

 大島 抑圧をはねかえしていく気風ですね。まず人間であり音楽家であることは第二だというのは芸術の基本の問題だと思います。つまり芸術至上主義か、それとも人間のための芸術か。私たちのことでいえば社会の発展方向に沿う芸術を磨いていく態度の問題です。
 カザルスがフランコ独裁のスペインを承認している国では演奏しないと宣言して、自由と民主主義を要求する。ピカソは鳩の絵で知られるように平和運動に参加するし、スペインに自由が回復したら「ゲルニカ」をスペインに返すようにと、ニューヨーク近代美術館と協定を結ぶ。ネルーダは激烈ともいえる詩で祖国の自由のために決起を訴えるし、外交官・政治家として括躍する。そういう行動が自分の芸術を支えるために不可欠なんだという深い理解ですね。

 聴き手が成長できるように協力する

 井上 とくに演奏家の場合、美そのものの追求だけに追われがちです。しかしそこからはほんとうに偉大な芸術は生まれない。聴いているうちは興奮し、ときには技術的な鮮やかさに賛嘆するけれど会場を出たら忘れてしまう。音楽は時間とともに消えてしまう芸術ですから、ほんとうに偉大な音楽というものは一生聴いた人の心に残るもの、忘れられることのない演秦、作品でなければならない。ですから聴き手のために演奏するということが大切です。聴き手が聴き手として成長できるように協力することも大切ですね。カザルスの労働者コンサート協会はそれです。
       (つづく)

 注1 ドレフュス事件=一八九四年、フランスのユダヤ系人、アルフレッド・ドレフュスが陸軍機密をドイツに売り渡したとされたえん罪事件。作家ゾラらが人権擁護に立ちあがり国論を二分した。一九〇六年無罪。
 注2 ベルグソン(一八五九−一九四一年}はフランス哲学者。シュバイツァー(一八七五−一九六五年)はフランス哲学・神学者。バッハの研究、オルガン奏者としても知られた。

<「赤旗」1989.1.11>
対談「三人のパブロ」 カザルス、ピカソ、ネルーダの芸術(4)
               大島博光(詩人)
               井上頼豊(チェリスト)

 ずばぬけていた真実発見する知性

 大島 カザルスが愛したというバッハについては、バッハの「サラバンド」をロストロポービッチ(注1)がアラゴンの奥さんのエルザ・トリオレ(注2)の墓の前で追悼演奏したことがあり、そのことをアラゴンが詩に書いていています。口ストロポービッチの愛称をスラヴァというんですね。
 井上 ええスラヴァ。
 大島 とても感動的にスラヴァのチェロ演奏の雰囲気をうたっています。()その墓はパリの南七〇キロほどの田舎の、水車小屋の庭にあって、いまはアラゴンもそこに眠っています。
 井上 セバスチャン・バッハという大作曲家自体が時代を先取りした人ですから、無伴奏組曲は今でこそ最高の作品として演奏されています。しかし当時はほとんど演奏できなかったのではないかと思います。しかも一本の楽器だけで弾くわけですから、高級練習曲という扱いで十九世紀終わりまできた。組曲は一番短いのでも十七、八分かかり、全曲をステージで演奏した人はいなかった。それをカザルス十三歳のとき、バルセロナの楽器店で楽譜をひと目みてショックを受け、それから約十年勉強して、これで人の前に出しても大丈夫という見極めがついてから、二十五歳ではじめて公開演奏しました。ですから、これはピカソとも共通しますが、一つのできごとの中に最も美しいもの、最も真実なものを発見する知性と直感、それがずばぬけている。天才的だったと、それしかいいようがない。

 バルセロナで一度だけあった二人

 大島 天才には年齢がないというか…。アラゴンの二十歳代、エリュアールでも同じですが、シュールレアリスムに入るとき、ピカソは三十代前半ですがもう大家なんです。革新的な先輩として彼らが名を挙げたなかに、とっくに死んでいるボードレールやランボオなどと並んでピカソが入れられている。しかもピカソはエリュアールの詩集に挿画を描いてやったり、後には二人でパートナーとして発展していく。そういう芸術上の若さもあった。
 井上 カザルスとピカソは、カザルスの方が五歳年上ですが、十九世紀末の同じ時期を二人ともバルセロナで育つんですね。当時のバルセロナは騒然としていて、何か熱気があったようです。
 大島 革命的な空気が強く、とくにアナーキズムの運動が盛んで、ピカソは、直接的にデモなどにも加わって民衆の空気に触れています。街頭でアナーキストがつかまったりするのを見ていて、それを描いたデッサンなども残っています。
 井上 二人は一度だけバルセロナで会ったことがあるようですね。一八九〇年、ピカソがまだ美術学校の学生のころで、カザルスは「そのころくから私は彼の仕事に敬服していた。だが、どうしたことか、パリでは、二人の道は相交わることはなかった」といっています(注3)。どうしたことかというのは、カザルスがパリに出てからはすぐ大家になってしまって多忙で、ピカソも第一次大戦のころパリに住みますが、カザルスはちょうどアメリカに移っていたり…。その後も、カザルスはバルセロナに帰って労働者の音楽協会をつくったり、自分のオーケストラをつくったりしていたからです。
       (つづく)

 注1 口ストロポービッチ(一九二七年〜)=ソ連のチェリストで一九七四年に亡命。カザルスに次ぐ世界最高のチェリストで指揮者。ワシントンのナショナル響音楽監督で首席指揮者。
 注2 エルザ・トリオレ(一八九六〜一九七〇年)=ロシア生まれの作家。アラゴンとの恋愛は有名。『赤い馬』など多くの小説をフランス語で書いた。
 注3 『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(新潮社)

<「赤旗」1989.1.10>
対談「三人のパブロ」 カザルス、ピカソ、ネルーダの芸術(3)

               大島博光(詩人)
               井上頼豊(チュリスト)

 三人とも若いうちからすごい才能を

 井上 戦後はじめてピカソの絵に直接触れまして、ピカソの芸術のすごい造形力、ものを見る目の深さと洞察力というか、真実をつかみ出す力に圧倒されました。十四歳のときに描いた老人の絵などはほんとうに印象深かった。十四歳の絵で、その老人の歴史が浮かびあがっている。

 大島 ピカソの父親は美術教師でしたが、たいへん貧乏していましたから、人民の立場、考え方や感情、そういうものが一貫してあったのではないでしょうか。だから芸術の上では新しい運動をいろいろやるが、観念的なブルジョア・モダニズムへはいかないで、リアリズムへ向かうのは、そういうところに基盤があると思う。
 井上 それにして若いうちからすごい才能を発揮しますね、三人とも。

 古いやり方をどんどん改革していく

 大島 ピカソの才能に驚いて、父親はピカソの十三歳のときに自分で絵を描くのをやめたと伝えられています。
 井上 カザルスがチェロの奏法を大改革してしまうのが十一歳、バッハの無伴奏チェロ組曲を再発見するのが十三歳。
 大島 ネルーダがチェコ作家のヤン・ネル一ダの名を借りてパブロ・ネルーダというペンネームで詩を発表し出すのが十六歳。天才としかいいようがないですね。
 井上 カザルスの場合、チェロを弾きはじめるのが十一歳で、すぐにバルセロナの学校に入るのですが、その時代はまだ昔ふうの非合理的なチェロの弾き方をしていたのです。両ひじを両わきにぴったりつけて弾かなければいけないとか。チェロは楽器が大きいので、それを技術的に早くこなすために、音楽抜きといっていいくらい、右手も左手も非合理的な方法だった。
 カザルスはそれ全部ひっくりかえして、こうやれば楽器が十分に鳴って作曲家の意図を正しく深く表現できるという方法を、どんどん考えついた。
 大島 そういう発想ができるところが素晴らしい。

 規範にしばられないで合理的に追求

 井上 その直接のきっかけとなったのはジプシーの弾き方で、彼は音楽学校で習ったことがないから自己流の演奏方法だったのです。カザルスはその中に技術における真理を発見したわけで、たとえば、当時の弾き方は弦を押さえる左手の指が、必ず一本、遊んでいたのですが、ジプシーは知らないから全部の指を使っていた。カザルスが考えついたのはそれです。すべての指を均等に、また結合状態も均等に使って、大きな楽器をどこでも同じよう弾ける合理的、科学的な方法ということです。
 大島 規範にしばられないで合理的に追求する、ピカソもそうでした。あらゆる絵画手法をわがものにして、それまでのアカデミックなものを壊してキュビズムその他を追求していった。方法を通じて真理に迫るという態度ですね。
 井上 それによって芸術の歴史が変わるんですね。音楽家としてはどうしてもその方にひかれるのですが、カザルスの名声は、思想的な面よりそういう面で早くからひじょうに大きなものになっていきます。 (つづく)

<『赤旗』1989年1月9日>