治安維持法の時代

ここでは、「治安維持法の時代」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



ほんとうの人殺しは


ほんとうの人殺しは

(赤旗」1988年3月13日)

*テキスト<ほんとうの人殺しはだれなのか

☆今日の詩「一八七一年三月十八日を記念する 」(パリ・コミューン成立)

たねをまいた人たち

                       大島博光

晴れた明日(あす)の日のために
明日の日のみんなのとりいれのために
北風の吹き荒れる荒地を 鍬をふるって
手に血をにじませて 耕した人たち

霰(あられ)のたたく畝(うね)のなかに いのちがけで
種子をまいて歩いた その人たち
たねをまいてるさなかに ひっ捕えられ
逆さ吊りにされ 虐殺されたそのひとたち

なんの報いも名ももとめずに
その血をいのちをさし出したそのひとたち
しかも歌をうたいながらとりいれをするのは
ずっと後の人たち 未来のほかの人たち

その人たちのいさおしを忘れないようにしよう
そのほまれを模範をほめたたえよう
晴れたあすの日のために
明日の日のみんなのとりいれのために

          一九九九年十月

(第32回 三多摩解放運動無名戦士を偲ぶ会の献詩)

たねをまいた人たち
☆今日の詩 小林多喜二
 ほんとうの人殺しは だれなのか
                               大島博光

いきなり狂犬が吠えた スゴンでみせた
こともあろうに 国政の委員長席で
「殺人者 宮本顕治君……」

日本じゅうが見ていた 唖然とした
そうしてみんなが 怒りの声をあげた
民主主義をふみにじった ヤクザぶりに

その文句 もう何度か聞いた同じ文句
昔 治安維持法の犬どもがでっち上げた
根も葉もない 共産党への殺し文句

宮本議長を 人殺し呼ばわりするやからは
昔のファシストと同じ穴の 狂犬どもだ
あの巣穴の 饐(す)えた匂いがなつかしいのだ

どうしても 人殺し呼ばわりしたいなら
ほんとうの人殺しは だれなのか
白日の下にあばき あぶり出してやろう

見るがいい 人民の血にまみれた黒い手を
治安維持法の斧をふるって 手当り次第に
殺しまくった 天皇制の死刑執行人(ひとごろし)どもを

その証拠は 消そうにも消えはしない
やつらの残虐な拷問のはてに虐殺され
また死へ追いやられた たくさんの人たち

小林多喜二 岩田義道 上田茂樹……
野呂栄太郎 市川正一 国領五一郎……
今野大力 今村恒夫 槙村浩……

かぞえれば 数限りもない犠牲(いけにえ)の名簿
鎖につながれ 殺された死者たちの長い列
見よ 歴史の壁にきざまれたこの罪業を

「堅忍と勇気にみちた」(*) この英雄たちは
炎のように生きて 炎のように消された
ほんとうの人殺しは だれなのか

この人たちは 何をしたというのか
みんな 官本議長の戦友 同志たち
平和と自由を 叫んだだけではないか

そのとき党は 虐殺された人たちの党だ
偉大な宮本議長は 牢獄で掲げつづけた
侵略戦争反対を 人民主権の旗を
                        一九八八年二月

注*『今野大力・今村恒夫詩集』(新日本出版社)序文・宮本顕治「今野大力・今村恒夫詩集の刊行にあたって」より

(『赤旗』1988年3月13日)


虐殺
(『文化評論』1976年4月号)
治安維持法の犠牲になった大野貞純さんに関する証言が治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟のサイトの【2009年活動および関連情報】に掲載されていました。ここに出てくるサークルが『新世紀』同人、高名な詩人が『新世紀』を主宰した竹内てるよさんです。

   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇
私と戦争/大野英子さん(88)埼玉・本庄市/兄を抹殺した治安維持法

 戦前、治安維持法による弾圧で兄を亡くした大野英子さん(88)=埼玉県本庄市在住=が「小川町平和のための戦争展」で体験を語りました。
 大正生まれで終戦時は24歳です。私たちの年代は戦争一色でした。国がどうにかして庶民を戦争に駆り立てることに狂奔(きょうほん)していた時です。労働運動を取り締まった治安警察法、言論の自由をじゅうりんした治安維持法を悪法として身に染みて覚えています。庶民は食べ物もなく、日夜空襲にさらされても「こんな無謀な戦争はやめてくれ」と言えなかった。そうさせたのが治安維持法でした。

詩のサークル
 昭和12年(1937年)、私と姉は東京の池袋で19歳の兄に養われていました。兄は昼間勤めて夜学に行き、詩を書くサークルに通っていました。
 9月のある日、兄が勤めに出たきり戻って来ず、帰りをじっと待って5日ほど過ぎると、憲兵が土足で家に上がり込んできました。家捜しを始め、何も出てこないと本箱をけ倒して出て行きました。その間一切無言でした。兄はいくら待っても帰って来ませんでした。「あそこは非国民の家だ」とささやかれました。
 翌年、兄の骨があると教えられて父は群馬の霧積山に行きました。そこには兄と、兄と同じサークルの18歳の女の子の二つの骸骨(がいこつ)がありました。父は二人をねんごろに弔いました。たくさんの物を焼き捨て、二人は心中したと言い張りました。
 父はすべて知っていたのだと思います。大事な一人息子を殺されても、一族に累が及ばないようにしたのです。それが昭和の庶民の生き方でした。

反戦と疑われ
 それから50年もたったころ、ある高名な詩人が私を訪ね、当時のことを教えてくれました。兄の所属したサークルは若い労働者や貧しい学生が集まって詩を書き、励まし合った小さなサークルでした。サークルを襲ったのは弾圧などという生やさしいものではなく、人間のせん滅でした。この団体が戦争反対の何かを起こしそうだと思われたため、葬られてしまったのです。
 治安維持法で人知れず抹殺されてしまった人が大勢いると言われています。指導者や思想家だけでなく、まじめに底辺でいじらしく生きて、小さい妹を養っていたような者にさえ降りかかってきたんです。戦争を進めるために若い命をどんどん消していったのです。
 戦争の実態を語り継いでいかなければならないと思っています。戦争は体験で学習させてはならないのです。
(2009年9月25日,「赤旗」)

大野英子
埼玉から大野英子さんが平さんと一緒に2回めの来館をされ、『蝋人形』11冊(昭和9〜10年)と詩誌『新世紀』第2輯(昭和10年4月5日発行)、西條八十と古賀政男の流行歌楽譜4編をお送りくださいました。
大野さんは元小学校教師で、日本作文の会で北原白秋賞を受賞され、昨年『続・九十歳のつぶやき』を刊行しています。

蝋人形
歌謡曲

お手紙を添えてくださいました。
「昭和10年9月16日 治安維持法により全員(12人)逝きました
何年も過ぎ 霧積山に骨を拾いに行きました」

これは治安維持法の犠牲となった兄大野貞純さんと「新世紀」同人の仲間のことです。

『続・九十歳のつぶやき』にも書いています。
今また戦争に向っています。
あのおぞましい治安維持法が首をもたげて来る時代。
兄ちゃんよ、私は叫び続けます。
おぞましき治安維持法かくあると言いつくすまで吾れは死なじと

新世紀
市川正一


(『赤旗』1995年4月19日)

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治安維持法の時代 
    政党法の陰謀に抗して  
                       大島博光

思い出せば わたしがはたちの若者だった頃
世界恐慌の波が 日本をももろに巻きこんで
雲ゆきの早い 嵐の時代がもう始まっていた

わたしは早稲田のキャンパスにいた 教室で
「戦旗」が 手から手へ さっと配られた
新しい風が 夢みがちな若者をよび覚した

わたしは始めて「空想より科学へ」を読んだ
夢が あれほど強くわたしを捉えたことはない
十月革命の光芒が わたしの空を照らした

朝焼けの空の下 わたしもビラを撒きに行った
市電の 高円寺車庫に 下落合のゴム工場に
七月の夜明けの なんと清(すが)すがしかったことか

治安維持法が 大手を振ってのさばっていた
眼つきの悪い ハンチングをかむった犬どもが
いたるところ 路地や木かげにつっ立っていた

きのうまで いっしょに歌っていた学友たちが
忽然と姿を消して 二度とは現われなかった
それは 神かくしではなく 狼かくしだった

戸塚署の留置場は 黒い学生服で溢れていた
「三・一五 怨みの日 われらは君に誓う*」
そっと歌って 若者が街を通りすぎて行った

新緑の日比谷公園をメーデーのデモが出発すると
やにわに隊列のなかから 星が引き抜かれて行った
まるで 櫛から歯が 無理にもぎとられるように
築地小劇場の舞台の上からも 観客席からも
やつらは手当り次第に しょっぴいて行った
まるで革命劇の生まなましい劇中劇のように

体(からだ)じゅう赤黒く紫ばれにされて 築地署で
小林多喜二は虐殺された 二十九歳の若さで
やつらは あけぼのの一つの光を消しさった

だが罠に落ちたのは 共産党員だけではなかった
社会民主主義者も ヒュマニストも キリスト者も
自由主義者さえも ひっ捕えられてぶち込まれた

それらすべては ファシスムそのものだった
その血のしたたる悪法は 立ち上った人民を
縛りくくり殴り殺す 鎖 棍棒 斧だった

それらすべては また侵略戦争への過程だった
サーベルと長靴が わがもの顔にのし歩き
若者たちは 戦場へと駆りたてられて行った

だがそこに ただひとつ 何ものをも怖れずに
侵略戦争反対! を叫んでいた 党があった
太陽は覆われていたが ひかりは射していた

そのときだ 天皇制の法廷にすっくと立って
偉大な市川正一同志が 火の言葉を吐いたのは

「党の勝利 プロレタリアートの勝利は必然である**」

思い出せば それはもう半世紀もむかしのこと
いままた ファシストがしゃしゃり出てきて
やつらの 治安維持法の時代をなつかしがって

政党法などという罠を かけようというのだ
そんな悪夢の悪法を 生き返えらせてはならぬ
歴史の歯車を逆まわしに まわさせてはならぬ

             一九八四年三月

* 当時、一九三〇年頃、この歌は「赤旗の歌」の曲でうたわれていた。
** 新日本出版社『日本共産党の六十年』上巻七八ページより。

<『文化評論』1984年>
墓前祭

渡辺政之輔没後85年 墓前祭が命日にあたる10月6日、市川市の安國院で行なわれました。

墓前祭
墓前祭

お焼香を済ませたあと、懇談会で語り合いました。

墓前祭

実行委員長の前田堅一郎さんが渡辺政之輔の卓越した革命家としての姿と壮絶な最期(1928年10月6日、台湾のキールンで警官隊に襲われ、自ら命を断った)を語り、若くして殺された伊藤千代子24歳、飯島喜美24歳、河合義虎22歳はじめ、虐殺されたり獄死した犠牲者が1,682人に上ること、その願いは戦後、新憲法で基本的人権や不戦がうたわれたことに結実したと強調しました。

墓前祭

亀戸事件のフィールドワークガイドをしている藤田廣登さん(労働者教育協会理事)。亀戸事件の犠牲となった革命家10人は亀戸警察の中で殺されたが死体を処分され隠蔽されたために、死亡診断書もなく、戸籍台帳も白紙になっていると。事件の詳細な資料が配布されました。そこでは小林多喜二が亀戸事件の現場を訪れ、南葛労働運動に触れたことが彼の思想に合流し『転形期の人々』などの作品に結実したと論証しています。

墓前祭
墓前祭
墓前祭

加藤文三さんの著作がとても参考になります。