博光エッセイ

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


  フランスの詩壇について 
                          大島博光

 フランスの詩壇について書けという編集部からの注文であるが、まだむこうの雑誌も新聞もはいらないので、くわしく知ることができないがほんのわずかな資料から、フランス詩壇の動向をうかがってみよう。

 ソヴェートの作家、イリヤ・エレンブルグは一昨年の夏、アメリカを訪問して帰国したのち、こんどはフランス視察にでかけた。そうして、戦後のフランス文化の動向について、イズベスチャ紙につぎのように書いている。

 「流行をおって、上流の粋をきどる紳士仲まにとって、世界の中心をなすものは、サン・ジェルメン街であり、そこにある二つのカフェーである。その一つ、カフェー「ド・マゴ」には、頭に霜をいただいたシュルレアリスト(超現実主義者)たちがその余命を終らんとしており、そのとなりのカフェー「フロール」では、シュルレアリストの敵である「実存主義者」たちがとぐろをまいている。世界は実存主義者サルトルの冷笑、超現実主義者ブルトンのくしゃみ、コクトオの善良なまなざしに、ふるいつきたいような衝動をおぼえると見る連中がある。ところが、こんなことはみんな時代さくごであり、過去の変態的な現象にすぎないのだ。思想・文化のよき代表者たちは、あたらしい生活の建設者である労働者階級にうつっているのだ。大學者ランジエヴェン、ジョリオ・キューリー、大詩人アラゴン、エリュアル、大画家ピカソ、マルケを見よ。これらがフランス精神のよき伝統者であり、革新者であることを否定することはできない。彼らは、生きた生活をはなれて生きた芸術はなく、生きた生活をつくるものは、生きた國民、生きた階級であることを理解しているのだ。
 精神的に青春の香りをうしなっているブルジョア社会の青年たちは、サルトルの「実存主義」を愛しているが、サルトルは、才能あるそうめいな作家で、悪をみるけれども、この悪の根本を見ず、この悪を克服するすべを知らない。無為徒食のひとびとの憂愁をえがくときは、誠実で力づよいが、哲学を論ずると、まるで子供か、もうろくした老人のたわごと同然になってしまう。
 フランス芸術のよき代表者たちは、生きた生活と手をにぎるようになった。アラゴン、エリュアル、シヤンソンなどの大家や、ガリ、バイヤンなどの新人の作品を、戦前のものとくらべるとき、どんなにその複雑深遠な芸術が、より一段と組織的となり、より一段と大衆的になっているかがわかろう。
 われわれのまえには、明るい生活を確信するボンナールやマチスの絵があり、とくに老いてなお若々しい精神の持主たるマルケの最近作「窓」という一連の絵がある。そこには、真夏の正午の荘ごんさがひしひしと感じられる。
 フランスの運命は、美しいセーヌやローヌ河ではなく、ゆたかな水をみなぎらせてながれるアール河のように、新しい文化へ約束づけられている」(一月一日附人民新聞)

 この一文のなかで、エレンブルグが「余命を終らんとしている、シュルレアリスト」と、労働者階級のがわに立ち、「生きた生活と手をにぎるようになった」アラゴンとエリュアルとを対比しているのは、おもしろい。このほか、フランス詩壇の復興に活躍している詩人には、ビェール・ジャン・ジューヴ、ジャン・カッスウ、アンリ・ミショウなどがある。画壇のほうでも、すでにシュルレアリスムは、ほとんど消滅して、ピカソの流れをくむ「十一人組」という若い新人のグループがあらわれてきているとのことだから、おそらく詩壇の方でも、多くの新人があらわれてきているにちがいない。

 フランス詩壇で、いちばん活動している詩人は、やはりアラゴンである。彼は戦争ちゅうも、フランスを占領していたドイツ軍に抗戦をつづけ、詩作によってフランス國民を鼓舞げきれいし、抗戦作家の組織である全國作家委員曾をつくって活躍した。この戦争ちゅうの作品の一部が、一九四五年マルコルム・カウリイによって、米国でほんやく出版された。

 アラゴンとエリュアルは、いずれもシュルレアリストから共産主義者になった詩人だ。そうして二人ともブルジョア階級出身のインテリゲンチャであることもおもしろい。彼らは、第二次大戦後、ロマンチックな反抗、みにくいブルジョア社会と文化にたいするアナーキーな反抗をシュルレアリストとしてあらわしたのであったが、しかしそれは、現実から出発した反抗ではなく、超現実という指定された現実へたち向うイデアリストの反抗であった。しかし、一九三〇年前後より、ファシズムの攻勢と脅威が高まり、文化の危機がせまるにつれて、シュルレアリストたちも政治的にめざめざるをえなかった。すなわちアラゴンはいままでの彼のロマンチックな反抗、アナーキーな反抗が、究極において、いかなる同盟軍とむすび、いかなる闘争に加わるべきであるかを見出すにいたったのだ。それは、いうまでもなく、明日をになう階級──労働者階級の側に立つことであり、その日常闘争に加わることである。

 シュルレアリストの陣営で、政治的態度の問題がさかんに論議されたのもその頃である。ブルトンもよくマルクスとレーニンを引用して、シュルレアリストの政治的立場を論じたが、さきほどのエレンブルグの報道によれば、ブルトンはとうとうシュルレアリストとしてとどまったようであるが、アラゴンは、はっきりと共産主義者に転じたのであった。彼は一九三〇年ソヴェートを訪問して、社会主義建設をまのあたりに見て、革命への讃歌をうたった。彼はその詩においてもいちはやくシュルレアリスト的手法をあざやかに清算して、レアリストの立場をとっている。しかし、アラゴンのこの変わり方のかげには、血のにじむような自己批判と、ながいあいだの自己の教育と、自己変革のたたかいが秘められている。
 これにたいして、同じくコンミュニストになったエリュアルの方は、徐々にシュルレアリストからコンミュニストへ変わってゆくという態度をとっている。強いシュルレアリスト的手法で、ファシストにたいするブルジョア的なものが強く残っているようであるが、あるいは、それがフランス人民戦線のはばのひろさとともに、フランス文化の高さをものがたっているのかも知れない。手法はとにかく、そこに歌われているファシストへの階級的憎悪、人間的憎悪はひじように強烈なものだ。ひとつ訳してみよう。

 用心するがいい、
 たくらみにみちた夜にもかかわらず
 われらの力は強いのだ
 君らの姉妹や妻女の腹よりもつよいのだ
 そうして彼女らなしに
 ふたたびわれらは、生れ出てくるだろう
 君らの牢獄のなかから

 石の流れ、泡だつ耕地
 そこに遺恨なき眼はただよう
 希望なき正しい眼は
 君らをはっきりと見わけるのだ
 そして君らは、その眼を知らないよりは
 むしろえぐりとらればならないだろう

 君らの絞首台よりもするどい釣針をもって
 われらは、われらの幸福を奪いとるだろう
 幸福のあるべき場所に幸福を、
           (壁にぶつけられた頭)

               (『新詩人』1947年11月)

アラゴン
ルイ・アラゴン オラドールにて 1949年

 それが共同の武器になるとき  詩の翻訳について
                           大島博光

 言葉の発見
 ハイネの名訳者である井上正蔵さんは、その訳業について、こう語っている。
 「それはたしかに、詩をつくるような苦しみと、よろこびがなくてはできなかった。ただの翻訳ではなくて、つまり、ぼくなりに、ハイネになりたかったのです」(本紙一九七二年十月二十八日付)
 ここには、詩を訳すものの苦心と願望とがこの上なく簡潔に語られている。わたしが訳詩をこころみているのも、「詩をつくるような苦しみと、よろこび」があるからにほかならない。アラゴンやネルーダの詩を訳していて、そこに詩(ポエジー)を見いだしたときのよろこびは忘れられない。詩を訳すのだから、詩を見いだすのはあたりまえではないか──そうはいっても、そこでは、詩はあくまで横文字のなかに横たわっているのである。それを日本語のなかに移すわけだが、それがつねに、うまい日本語に──日本語の詩のことばに乗るとは限らない。一行の詩句について、一つの名詞や形容詞について、幾日も考えつづけることもまれではない。その果てに、思いがけない、いいことばが見つかったときのよろこびは、大きい。

 本質を歌う
 たとえば、アラゴンにこういう詩句がある。

 砕けたさかずきから こぼれ流れる酒のように
 姿かたちもないわたしの亡霊はどこへ急ぐことやら
 土の重みにおしつぶされた すみれの花の
 ほのかな香りに酔って わたしの足は千鳥足
   (『エルザの狂人』)

 これは、自分が死んで、土の中に葬られた死後についてのファンタジーを歌ったものである。この最後の二行は、もし直訳すれば、
「おしつぶされたすみれの花は/ほのかな香りで わたしの足を酔わせる」となる。
 これだけでは、亡霊のイメージは出て来ない。どうしてもさまよってゆく足どりを現わす「千鳥足」が必要なように思われた。ここを訳しながら、わたしはふと、よいどれていた自分の青年時代を思い出した。つまり、千鳥足という一語には、わたし自身の体験がひらめいたように思う。
 ついでにアラゴンのこの詩についていえば、この詩の主題は、死後についてのファンタジーだけにあるのではなく、そのあとの詩句の、「わたしは、わたしに似たひとたちのなかに生まれ変わる」という未来への委託──未来への精神にある。ここにこの詩の本質的な新しさがある。死のファンタジーをうたった詩は多い。しかし、そのなかで、このような「新しいもの」を歌ったものは、いまだかつてなかった、といっていい。

 共通の感情
 ところで、詩の翻訳は可能か、という問題が、ときおり論議にのぼっているようである。これはなかなかむずかしい問題のようだ。わたしの場合についていえば、詩の翻訳の可能をめざして、翻訳をこころみている、ということになろうか。
 それはともかく、ひとが外国語の詩を外国語でよんで感動する、ということがある以上、外国語の詩を母国語に翻訳しようとする試みは、これからもやはりつづけられるであろう。それはひとり日本においてだけではない。一九三三年、アラゴンは、エルザとの共訳で、マヤコフスキーの詩「声をかぎりに」をフランス語に訳したとき」こう書いている。
 「マヤコフスキーの場合のように、翻訳の役割がこれほどにもドラマチックだったことはかつてなかった。それはほかならぬ、偉大な社会革命における最も高度な詩的表現に到達し、この革命にその天才を奉仕させた、ひとりの人間にかかわっているからである。ソヴエト同盟のそとから、さぐるようなまなざしを、じつと共産主義革命に向けているすべての詩人たちにとって、このマヤコフスキーの模範は、無類の価値と効力とをもっているのである・・・」
 ここでは、詩の翻訳は可能かどうかということは、ほとんど問題となっていない。詩の翻訳の役割が、のっけから強調されているのである。世界の詩人たちの、それぞれの国語のちがいを越えて、そこに共通のことばがあり、共通の思想、共通の感情、共通の目的があり、詩人たちのあいだに連帯の精神があり、詩を武器としての共同のたたかいがあるとき、詩の翻訳の役割はなくならないだろう。

 すばらしい
 じっさい、一九三〇年代、マヤコフスキーが全世界の進歩的・革命的詩人たちに与えたひろく深い影響をおもいみるとき、マヤコフスキーの詩の翻訳がはたした役割を無視することはできないだろう。おなじようなことが、アラゴン、エリュアール、ネルーダ、ヒクメットなどの詩人たちについてもいえるだろう。
 ところで、エルザ・アラゴンの共訳になる「声をかぎりに」を、わたしは読んでいないが、きっとすばらしいものにちがいない。エルザは少女時代からマヤコフスキーの友だちであり、詩をいち早く理解し発見したひとりであり、その上、アラゴンという共訳者を得たのだから、「声を限りに」という詩は、フランス語への、この上もなくすぐれた、よい訳者を見いだしたということになる。
(おおしま ひろみつ 詩人)

<『赤旗』1973.10>

随想 ひとり老人
                 大島博光

 ひとはだれでもとしをとる。生きるということには、さまざまな哲学のことばや芸術のことばが与えられるが、生きるということはとしをとることだ。そうしてわたしは八十四歳になった。
 若いころには、自分が老人になるとか、死ぬとか、そういうことをわたしはほとんど考えなかった。わたしの若いころは、あの戦争のさなかだったので、たくさんの友だちや知人が死んだり殺されたりした。それでもわたしには、死の不安や恐怖におびえたという記憶はほとんどない。まるで、死は自分以外のところにあるものだ、と信じこんでいたかのようである。思えばこのようなノンシャランな無頓着さこそが、青春の特権かも知れない。
 無頓着さといえば、生きることについてもわたしはかなり無頓着だった。若いころから結核を病んで、しかも毎晩のように酒に浸って、わたしは喘えぎ喘えぎ生きてきた。長生きしようとも思わなかったが、いつのまにか生き残ってしまった・・・
 七十歳代の終りから八十歳を越えるころになって、わたしは腰痛からくる脚のしびれでのろのろ歩きになった。片手に杖をついて、片手で壁や手すりにつたって歩くようになる。いやでもおうでも、自分も老いぼれになったと考えないわけにはゆかない。そんなとしになって、わたしよりも十歳の余も若かった妻を失って、わたしは悲嘆に暮れ、途方に暮れた。わたしも、世に多い、ひとり老人のひとりになったのである。
 妻の死後、一年半ほどのあいだに書いた、生き残りの泣きごとの詩を集めて、さる二月、わたしは『老いたるオルフェの歌』(宝文館出版)という詩集を出した。

 妻に死なれて あとに残って
 ひとり暮らしは きみひとりでない
 みんな涙を じっとこらえて
 きみのようには 泣きわめかない

 死んだ妻を恋うる歌とあわせて、生き残ったものの苦しみの歌、ひとり老人の孤独の歌がわたしから流れこぼれた。おのれひとりの悲しみに溺れて、そこにのめり込んではならない──そう思いながらも、涙の歌は溢れつづけた。しばしば絶望にとらえられ、くずおれようとするわたしを支えてくれたのは、「ひとりの地平から万人の地平へ」という、フランスの詩人エリュアールの教えだった。これは、やはり愛妻を失った地獄のなかで、エリュアールがみいだした、みごとな一行である。その精神を、わたしはつぎのように書いた。

 忘れるな 大きく生きたまえと
 きみをはげましてくれるものを
 めざして行こう 伝え歩きでも
 あけぼのの方へ いざってでも

 これがわたしの地獄からの出口である。
           (おおしま はっこう/詩人)

ひとり老人

<『月刊民商』1995.6>
グァダルキビル河の紀行番組を見て
                             大島博光

こないだテレビで スペインのグァダルキビル河の紀行番組をみました
ロルカの詩を愛する日本の老俳優が旅人で ロルカの詩を アンダルシアの町々で土地の人たちといっしょに歌ったり朗誦したりしていました
そして最後に むかしはよかったが いまの日本はだめだから「わたしの灰をグァダルキビル河に撒いてほしい 日本よ ではさようなら」というメッセージ 日本と生への訣別のことばを残して終わりになりました 
そしてわたしは いろいろ考えさせられました 
いまの日本はだめだからといって日本から逃げてしまう
「新ガイドライン」などという怖るべき罠が 日本と国民の上に投げかけられているとき だめだからといって たたかわずに逃げ出してしまう
ロルカはスペイン人民と自由を愛したゆえに虐殺されたのに 
ロルカを愛するといいながら 日本の人民を見捨てて美しいグァダルキビルの流れを選んでしまう 
その美しい河には かってファシスト フランコとたたかった たくさんのスペイン人民の血と涙が流されたのです
画面のなかで ロルカの生まれたファンテヴァケーロス村の老人は語っていました
「ロルカが殺されたとき わたしらは何もしなかった 何もできなかった ただ黙って耐えるしかなかった・・・」と
彼らは何もしなかったが 逃げることもできなかったのです
たたかわずに逃げる人たち 儚かない夢想を抱いて 
遠い島や 山の中や 遠い河へと 逃げる人たち
声もあげずに 敵を前にして逃げ出す人たち
おのれの首を締めつけようとする手を払いのけようとしない人たち

                   一九九七年十一月

神戸の町で

 神戸の市長選挙のたたかいに少しでも役立ちたいと、私たちが神戸に着いたとき、神戸の町はちょうど港まつりのさなかだった。
 アメリカの水兵が二人ずつ連れだって町を歩いている。第七艦隊の水兵たちだったかも知れぬ。
 港町らしいどこかエキゾチックなふんいきをたたえた元町通りに面して、しゃれた店舗のあいだにはさまって、党の兵庫県委員会の事務所があった。それは東京でいえば、銀座通りに面して党東京都委員会の建物が立っているようなものであろう。それはまったく地の利をしめている。そうして事務所のなかには、多田留治県委員長を先頭に、おおぜいの同志たちの人の和があって─それはむろん思想的統一のうえにかちとられるものだが─いきいきとした活動をくりひろげているのが、ふらっと訪れた私のはだ身にも感じとられるのだった。
 港まつりの仮装行列がこの元町通りをねり歩く。それはむかしながらの、楠正成とその一党らしいのや、明治維新のあの赤い長髪を頭からたらした隊士らの行列であった。通りの両側には、それを見物しようとする市民たちが人がきをつくる。
 そのとき、県委員会の前では、写真展がひらかれた。神戸の港湾労働組合の仲間たちが、自分たちのひどい生活ぶりを市民に訴えようとしてひらいた写真展である。
 そこには、ふ(埠)頭への引込み線の線路で寝ている人たち、荷馬車時代の馬の水飼い場で顔を洗い、からだをふいている人たち、手配師が目を光らせている職安の光景などがならんでいた。そうしてこれらの写真の背後には、そこには見えぬとしても、あの巨大な三菱のドックや川崎造船や独占資本の立ち並んだ倉庫があり、しばしばアメリカの第七艦隊がそこにちらつくはずなのだ。
 この写真展は、港湾労働者は自分たちにふさわしい、自分たちのお祭りをやるんだという創意のもとに、はじめは港の方の通りで開いたのだが、警察が例によって道路交通法や何かをたてにして干渉してきたので、しかたなく県委員会の前に移動したとのことだった。そう私に語ってくれた組合の活動家は、たくましい、エネルギーにみちた若ものだった。
 こうして仮装行列を見にきた市民たちが、この写真展の前に足をとめて見入る。おばあさんのひとりは「ひどいね」という共感をしめすようなため息をもらしていた。お祭りのさなかでも、そこではきびしい現実が口をあけて訴えていたのだ。
 私たちは、党の市長候補者松井岩男同志と、いくつかの集会をまわった。なかでも、新しい「アカハタの歌」のとおり、明るいひとみをよせあい、明るい笑いにみちみちた、ある証券会社の青年たちの集まりほど、新しく伸びてきている若い世代の姿をまざまざと私に見せてくれたものはない。
 ながいこと中学校の校長をつとめ、かつて県の日教組の委員長であり、「朝鮮詩集」をかいた詩人でもある松井同志は、すばらしい話し手であった。それはいわゆる雄弁を越えた、自由自在な話しぶり、演説ぶりだった。松井同志は、党の新しい綱領を、たくみな、具体的な、たとえ話や比ゆ(喩)で、それを神戸の状況にむすびつけながら、ひとびとのなかに持ち込んでいた。たとえば──私にはとてもその名調子を書き現わすことはできぬが、あえて書くなら、こういった調子である。
 「・・・みなさん、ここに大きな大きなつけものだるがある。なかには、三菱、川造その他の労働者の諸君、港湾労働者の諸君、そうして私たち小市民みんながはいっている。あのつけものの大根のようにはいっている。このたるをしめつけていたサンフランシスコ条約というタガにこんどは新安保条約という鉄のタガをかぶせて、がんじがらめにしめつけてきた。その上には、日本の独占資本というふたが乗っかり、そのまたふたの上にはアメリカ帝国主義の重石がどっかと乗って、押えつけている。そうしてたるのなかのうまい汁をしばりとろうというしくみ。われわれはどうしてもこのタガをはねのけなければならない・・・」
 松井同志は、このたとえ話でもちょっと無理があるから、もっとうまいのを考え出さねばならん、といって、あとでわらっていた・・・。
 人間味もゆたかな松井同志が、こんどの市長選挙で勝利してくれることを、私ははるかにねがっている。(詩人)

(『赤旗』1961.11.18)
棒にあたる
                   大島博光

朝 わたしは犬を連れて 団地の小公園のベンチに坐って
あたりの柳や銀杏の新緑に見とれていた
そこへ 幼稚園へ行く孫娘を連れた
六十がらみの女が通りかかってわたしに言った
「そこは児童遊園地だから
犬を連れて入らないで下さい」
朝のこころよいいこいをぶち破られてわたしは怒鳴った
「だっていまはだれひとりいないじゃないか としよりをいじめるな!」
「だってここには 犬を禁ずるという立札が立っていたんです いまはないけれど・・・」
まるで法の執行者のような女の冷厳さにわたしは叫んだ
「老人の朝のひとときを乱すな このクソババ!」
それでもわたしのむかむかは収まらなかった
その日一日 わたしは人間嫌いに
ペッシミスムに沈んでいた
犬も歩けば棒にあたる
しかし人間はベンチに坐っていても棒にあたるのだ

(自筆原稿)

林
石車に乗る
                     大島博光

 この夏、北海道の西大雪の赤岳の中腹まで登った。──などと書くと、たいへん高いところまで登ったように見えるが、ほんの三,四百メートルの標高差を登ったにすぎない。層雲峡から車で標高一七〇〇メートルの銀泉台小屋まで行って一泊、あくる日の朝、二〇七八メートルの赤岳をめざして登り始める。ゆっくり、のろのろと登る。ほかの登山家たちがどんどん追い越してゆく。少し登ると息切れがするので、休んで息をととのえて登る。やっと頂上が見える見張り小屋のあたりまで登った頃、強烈な南風が吹き始め、その風をまともに受けて進むことが困難になったので、引き返えすことにした。こうして帰途、お花畑をゆっくりたのしむことができた。第二花園は、小さな残雪のある斜面のしたの平らなお花畑で、澄んだ雪どけの水がちょろちょろと幾筋も流れ、そのあいだに可憐な白いちんぐるまと薄桃色のえぞこざくらの群生が花をならべていて、花の刺繍を散らかしたようであった。わたしたちはそれを楽園だ、天国だとはやしたててしばらく見とれていた・・・
 やがて銀泉台の小屋の見えるあたりまで下った。細い道で、敷きつらねたような砂利の上に左足を踏みおろした途端、左足はざざっーと滑り、右脚はは折りまげて引きずったままに倒れた。思わず「しまった!」と叫ぶと同時に、右脚を激痛が走った。立とうとしたが立てない。ちょうど近くにいあわせた青年が、わたしを背負って小屋まで運んでくれた。それでも、まるで天国から地獄に落ちたようだ、などと冗談も出た・・・
 その日のうちに車やバスを乗りついで旭川に出て、翌朝、さっそく整形外科病院にいって診てもらった。脚部のレントゲン写真には、腓骨の上部に横に亀裂の線がくっきりと映し出されていた。その場でギブスをはめられて、そのまま入院。数日後、松葉杖をついて帰京した。
 帰ってから、山登りの好きな知人にこのてんまつを話すと、「ああ、石車に乗ったんですね」という言葉がかえってきた。──そうか、あれも石車か。石車とはうまく言ったものだ、とわたしはすっかり感じ入ったのだった。
 思えば、去年の夏はパリのまんなかのポン・ヌーフの橋のうえで、二人のジプシーの少女に二五〇〇フランばかりを強奪され、そのうえ熱発して一週間もヴィレット街の宿でねこんでしまった。ことしは大雪山で石車に乗って脚の骨を折った。──年をとって出歩くとろくなことがないようだ。犬も歩けば棒にあたるということだろうか。しかし、たとえ棒にあたろうと、脚を折ろうと、生きているかぎりは歩かねばなるまい。

(自筆原稿 1981年)
旅と人生
宇治の平等院で
                        大島博光

 秋の一日、宇治の平等院へ行ってみた。
 じつはその前日、京都の嵐山から嵯峨野のあたりを歩いたのだった。たいへんな人出で、嵯峨野の道は人の流れに埋まり、わたしもまたその流れに浮かんだまま、流されるままに流されてゆくほかはなかった。まるで書割のような紅葉の下の小道、かずかずの歴史を秘めた寺院や遺跡、むかしの姫君が出てきそうな庵(いおり)苔(こけ)むした古い、枯れた萩の根株・・・、それらをゆっくりと観照する静けさや、遠いむかしに想いを馳せる落ちつきなどは、この人の流れのなかにあっては、得られるべくもなかった。
 ところが、宇治の平等院は、ウイーク・デーのせいか、訪れるひとも割合に少なく、静かに、優雅でひろやかな両翼を張って、秋の陽ざしのなかに輝いていた。わたしはゆっくりと屋上の鳳凰(ほうおう)を眺めた。また高くて大きな扉(とびら)に、数百年を経てなお残っている絵画の色に見とれた。そこに松の緑はまだあざやかであった。この高くて大きな扉は、こんにちの普通の扉の大きさ、扉の観念というものを遥かに越えて、豪壮なものであった。わたしはそこに当時の権力の気宇の高大さを感じずにはいられなかった。するといつか労音で見たオペラ「山城国一揆」が想い出され、この伽藍(がらん)の背後から農民たちのときの声が湧きおこり、鳴りどよもして聞こえてくるようだった。 
                        (詩人)

<掲載紙・日時不詳─「学生新聞」か?>
インタナショナルの思い出
                           大島博光(文学者)

 昭和四年の春、わたしは早稲田第二高等学院の文科に入った。
 その頃、校舎は安部球場の東側にあって、玄関から十五メートルほどの通りをへだてたところに、緑色の木造二階建てのクラブ・ハウスがあった。その中の一室に、「新興文学研究会」という礼のさがった部屋があった。新しいロマンチシズムの文学を夢みていたわたしは、さっそくこの研究会に参加した。入ってみると、そこではルナチャルスキーの「革命と芸術」(?)といったような本をテキストにして研究会を開いていた。そこで初めてわたしは、革命文学や革命運動というものがこの世の中にあるということを知った。そうして、「共産党宣言」やエンゲルスの「空想から科学への社会主義の発展」などを読むようになり、それまでの自分の観念論的な考え方のまちがっていたことを思い知らされた。まさに、目から鱗が落ちるような気持だった。
 その頃は、たしか戦前の学生運動の最後の昂揚期にあたっていて、向いの四階建てのコンクリートの校合の屋上からは、オーケストラの「インタナショナル」がしょっちゅう流されていた。「戦旗」がひそかに教室で配られ、一方戸塚署などのブタ箱にはたくさんの学生が放りこまれていた。あの非合法の時代にあって、誰がレコードをかけたものか、毎日のように屋上で放送された「インタナショナル」の力強い旋律は、わたしに大さな感動を与え、新しい世界の存在を教えてくれたものであった。その力強いひびきは、今もわたしの耳に、明るい希望のように聞こえてくる。
 その翌年の春だったろうか、上野の自治会館とかいう名の集会場─今はもうなくなったようだ─でPM(プロレリア音楽同盟)の主催する音楽会が開かれ、わたしも聞きに行った。会場がいっぱいで中に入れず、あふれた聴衆が公園の植えこみの中に群がっていた。その時、会場からハミングの「インタナショナル」が流れてきた。すると植えこみの中からもそれに和して合唱が涌きあがるのであった。おそらく、当局の弾圧によってその歌詞をうたうことが禁じられていたのである。それにしても、あんなに緊迫した雰囲気の中で、あんなに力強い「インタナショナル」を、わたしは聞いたことがない。        
 戦後、この「インタナショナル」や「憎しみのるつぼ」などの革命歌が自由に歌えるようになった時の嬉しさは、今も忘れられないものがある。
 先年パリを訪れたおり、モンパルナスの地下鉄の駅の長い地下道を歩いていた時、わたしの前を数人の高校生が「インタナショナル」を歌いながら歩いているのに出合った。嬉しくなったわたしは、「同志!」と呼びかけ、「きみたちはコミュニストか」と聞いた。「支持者です」という返事が彼らからかえってきた。パリ・コミューンのさなかにつくられたこの歌を、パリの若者たちの口を通して聞いた感動は、またひとしおのものがあった。

編集部注
*インターナショナル
一八七一年、パリ・コミューンの評議貝、詩人ウジェーヌ・ポティエによって書かれた。「コミューンが敗れ、同志たちが『連盟兵の壁』で虐殺された後、なおもヴェルサイユ軍の弾圧がつづいた六月、ポティエは、まだ戦火にくすぶるパリの街なかに身をひそめて、『インタナショナル』を──こんにち、全世界の労働者が歌っている、あの『インタナショナル』を書いたのであった。
彼じしん、逮捕と死とにたえずおびやかされながら・・・。しかも、かれは、この偉大な希望の歌をもって、戦士たちに呼びかけ、はげましたのである」(大島博光「パリ・コミューンの詩人たち」──新日本新書より)
**「戦旗」
 全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌。昭和三年五月創刊 同七年二月廃刊。

<うたごえ関連機関誌(誌名不詳)1977.12>
吉江喬松先生の思い出(下)
                               大島博光

 わたしが早稲田で先生の講義をきいていたころ、先生の講義はすばらしい人気を博していた。先生の文学思潮の講義には、怠けものゝ多い文科の学生が二、三百人もはいる大きな教室に、ほとんどいつもいっぱいであった。先生はもうだいぶ年をとられていて、小柄なからだを黒い上衣としまズボンで包んでいかにも気品のあふれた老教授といった姿であった。やわらかな微笑をうかべながら、時おり、窓のそとへ夢みるような詩人のまなざしを投げながら、講義をつづけられたが、時として、そのやわらかな微笑とゝもに、しんらつ、人を刺すような警句や皮肉がとびだすのであった。わたしは、そんなときの、先生の鋭い言葉ほど、滋味きくすべき瞬間を味わったことはない。
 ノートや洋書を入れた大きな革のかばんをなゝめに抱きかゝえ、黒いソフトに、細いステッキをついた先生の姿は、今もなお、わたしの眼に浮ぶ。
いかにも洋行帰りのひとらしい、洗練された、洋服姿でありながら、またいゝようもなく地味で落ついた姿であった。先生は革のかばんを重そうにかゝえていたがそれはどこか、博大な知識を重くかゝえているようにも見えた。しかもこのしょうしゃな洋服姿にひきかえて、お宅にいるときの先生は、渋い茶色の濃いつむぎの着物をきておられたが、それは、どことなしに、信州の田舎のおじいさんを想わせるものであった。あるいは、その厚手の地味な生地は、先生の田舎で織られたものかもしれなかった。この着物姿の先生と、洋服姿の先生を総合するならば、それはそのま、先生の大きな仕事の性格、本質に通ずるように思われる。
 先生は信州人にはまれなほど、包容力のひろいひとで、視野もまたひろかった。それは単に、人間関係においてばかりでなく、仕事のうえにおいても、そうだった。みずから、孤雁と号して、風格の高い、どっしりした詩作から、膨大なフランス文学史の研究、博識と人間味と詩情とにみちた数多くの随想、紀行文など、きわめて多岐多彩である。しかも、それらに一貫して見られる特徴は、あくまで地味で、堅実で、そのなかに洗練された知性と誠実にあふれた人生追求と、美しい詩情とを配合していることである。まさに、先生の、あの洗練された洋服姿と、落ちついたつむぎの和服姿とに象徴されたものである。
 昭和初頭の、日本のプロレタリア文学運動にも、おそらく先生は無関心などころか、かなり同情的な立場におられたのではないかとおもう。それは、前に引用した二つの文章のうちにも、はっきりとうかがえるところでもあるが、先生の文学研究の態度から推して考えてもそうではないかと思う。例えば、シャルル・ルイ・フィリップを論じた「大地の声」のなかには、次のように書かれている。
「大地に即した多数の生活者──貧しき農人、幾代を、幾世紀を、不平すらもらすことを知らず、黙々として働き、土より土へ、生命を運び行く多数の人々。・・・けれど、時代は彼らの眼醒めを求めている。彼らを通じて大地の精気を、大地の力を表現し、表出し、力強き働きを世界の表面になすことを求めている。
・・・フィリップの総ての作品を通じて、我々の感ずることは何かある大きなものが始まろうとしていることである。彼の芸術は、あるものを開放し始めた。けれど、この開放者は、手をつけただけで、大きなうねりを地上、空中に立てたままで何処かへ行って了った。併しこのうねりは地球の一端に起こるとともに、その全表面に伝播せずにはいられない動波である。黒い土の胸を開け、幾世紀その中に眠っている人々の霊を眼醒ましめよ。この全体の隆起が地球の表面へ、新らしい精気を吐き出すであろう」
 これらの言葉はそのまま、すでに、こんにちの人民民主主義文学を予言している、美しい言葉でなければならぬ。そうして恐らく先生はフィリップを通じてフランスの農民を思いながらも、そこに絶えず浮んでいたのは、またやはり、先生の生い育った信州の農民たちの姿ではなかったろうか。
(フランス文学者)
吉江先生

吉江喬松先生の思い出(上)

                               大島博光

 吉江喬松先生といえば、わたしはなぜともなしに、何かの文藝雑誌にのっていた、つぎのような逸話を思いだす。それはこういう話である。先生がまだ松本中学の学生のころ、どこかの山から谷へ落ちた。落ちながらも、その左手にもっていた『若きエルテルの悩み』か何かの文学書を、手からはなさなかった、という話である。大した意味もない、いかにも逸話にすぎない。
 しかし、大した意味もないこの逸話の背景になっている「山」─山をふくめての信州の大自然は、やはり吉江先生にはしょうがい忘れることのできない大きな背景であり先生のこころをはぐくみ育てたものではないかと思う。信州の大自然といっても、それは単なる観光的な自然美のみを意味するような自然ではなく、たたかいつつ、苦悩しつつ生きている人間をふくめての大自然である。先生は決して、自然の美しさのなかに没入逃避して人生を忘れ去るようなしかたで、自然を見たのではなく、自然のなかに、逆に人生の意味をさぐろうとする態度をもちつゞけていたのだと思う。このことは、数多くの先生の随想のなかにも、はっきり現れているし、また遠く、フランスに遊学したときの「仏蘭西印象記」や「南欧の空」に見られる美しい自然描写と、自然をとおして社会・文化・歴史に浸透してゆく詩人的な態度のなかにも、はっきりとうかがわれる。
 わたしは二、三度、小田急沿線、経堂にあった先生のお宅にうかがったことある。裏がわには低いたんぼが廣く残っており、南手には、武蔵野の名残りの竹林などをまじえた雑木林が、まだちらほら、点在していた。赤いかわら屋根の、如何にも郊外の文化住宅といった二階家であったが、うす緑色の壁の色が、非常に落ち着いた、さびた印象を与えていた。二階の、およ二十畳もある洋室が、先生の書斎で、南にひらいた窓からは遠く国境の山脈が、かすんで見えた。四方の壁じゅうぎっしりつまった洋書のなかに埋まりながら疲れた眼を遠い山脈にさまよわせることが、先生の大きなたのしみでもあり、休息でもあった。先生はこのながめが非常に気に入っていたらしく、いくつかの随筆のなかで、このながめについて書いている。
 「小田原急行の鉄路はある部分では、眞一文字に富士を目がけて馳っている場所がある。私は時おり夕方なぞ、その富士が紅に、紫に、紺色に変化して行く黄昏の景色をながめやって、朝鮮人の労働者がニ、三人赤ら顔に夕陽の反射を受けながら、じっとして立っている姿を見掛けることがある。山岳と鉄路と労働人と、この三者の描き出すー幅の画図は、まさに生きた大きな芸術である。この労働人が無心になってながめやっている山岳の遠望は、おそらくほかの何人がながめているよりは、身に徹する感覚を想起せしめていることであろう」(『山岳遠望』)  
 ここに引用した、この短かい文章のなかにも、先生の、自然と人間社会を総合して見ないではいられない、近代的な態度が、いかんなく現れている。『武蔵野』と題する随筆のなかにも、次のよう文章がある。
.「独歩の『武蔵野』に見るような光景は、全く消え失せてしまって丘陵の彼方に、野路の末に、松林の中に、赤がわら屋根をした家々が到る所の視線に打ち当る。人工が天然の光景を一変しつつある好き例証である。・・・荷車はトラックに代り、農民のワラジはゴムの長ぐつにはき代えられている。しかも秋は収穫の悦びを農人等に与うる代りに、一年間の労苦の空しさを痛恨せしむる時期となってしまった。
 二人の老人が武蔵野の小流でつりの糸をたれていた。
 「どうもこのごろは、以前のようにつれませんな」と、一人が言った。
 「まったくです。おたがいのような失業者ばかり出来て、つり仲間がふえたのでは魚も種切れになりましょうさ」と、もう一人がさびしく笑った。
 この二人の老人を置物のようにして見せる武蔵野には、もはや以前のように、友を呼び群をなして、南方へ帰って行く準備をするために、電線へ列をなして止っているツバメの姿も、ほとんど見かけられなくなってしまった。陸稲の穂はまずしげに、さみしげに風に揺れて、今年の秋もまた空なる努力の跡を見せるに過ぎない」
 武蔵野の風景をながめながらも、そこにさえも反映している時代の動き、失業者ばかりが出来る社会状態、秋の収穫に悦ぶどころか、農業恐慌におびえる農民の姿、これらのことが、何気なく、しかも正確に、美しく描かれている。先生は自然をながめながらも、そこに現れる時代の動きと社会の姿を、見ぬかないではいられないのである。
 このような態度は、先生の文学を見る態度のなかにも、一貫して見られる態度である。先生は決して文学を、文学そのものとしていわば芸術至上主義的に見るとはせず、あくまで、その文学の生まれた時代と社会環境との相関関係のうちに、文学を見きわめるとというむしろ実証的な態度をとっていた。こんにち思いかえせば、このような先生の進歩的な態度こそが、先生の学校における講義を、何よりも生彩あらしめ、学生の人気をあつめたものではなかったか、と思われる。(続く)
(掲載誌・年月不明)

(注釈)吉江喬松は博光が早稲田大学仏文科在籍中の主任教授で、博光の卒業論文「アルチュール・ランボオ論」を評価し、西條八十教授が認めるきっかけをつくる。
カット

 ふるさとへ行く
                       大島博光

この夏は、五年ぶりで信州へ帰ることができた。三年まえに、胸の空洞をおしつぶすために、背なかの骨を六本きってから、こんどようやく汽車にのれるまでに元気になったからである。
 東京をたつころから、汽車のなかでも、まだ信州を知らない三つの娘までが「シンシュウへ行くの」とたのしそうに発音しているのをきくと、その「シンシュウ」は、わたしのなかにある「信州」よりは、はるかにうつくしいひびきとあこがれをふくんでいるのに、はっとおどろかされた。生活や現実のきびしさにとらわれて、ともすればわたしなども、ふるさとの、うつくしさを忘れがちなのだ。小諸あたりから見る浅間のゆるやかな斜面のうつくしさ、それはもう、そのかなたに多くの夢をひめている。ひろやかな地平線のようにうつくしいのに、改めて気がついた。まえに、浅間の話を書いたときにも、わたしには軽井沢の方からながめた浅間山ろくだけが思い出されて「浅間の山ふところ」というような言葉をつかったが、やはり浅間のうつくしさは、千曲川のほうへとその裾をのばしきった、その斜面にあるといっていい。それにつけても、このうつくしい斜面が、軍靴と砲声を遠ざけることのできたのは、なによりもよろこばしいいことであった。ふるさとがうつくしいのは、風景のうつくしさをふくめて、それがわたしたちを養いそだててくれ、わたしたちの祖先がそこに眠っているがゆえにこそ、うつくいのだから。三つの娘が、まだ見たこともないおやじのふるさとを、無心に、あどけない声で「シンシュウ」と発音した。そのゆたかなひびきは、ほんとうはわたしたち自身がとりもどさなければならないところのものではなかろうか。
  ×
 帰っているあいだに、ちょうど、長工詩話会の主催で国鉄の詩サークルをはじめ「長野文芸」「呼子」「麻績文学会」などのひとたちがあつまって、詩話会がひらかれた。そこで、高橋玄一郎、西山克太郎などのなつかしいひとたちに会うことができた。詩話会は、傾向も職場もいろいろとちがった人たちをふくみながら、なごやかに、大きなむすびつきをめざして、もりあがってゆくものを感じさせた。この地方の、戦後ほぼ十年の文学サークルの活動がいままでの手さぐりの状態からようやく未来にのびてゆく道へ──まださだかでないが、ほのぼのと見える道へ、ぬけででゆくところにきたことも感じさせた。サークル活動のそとにいる二、三のひとたちは、この地方のサークル活動は低調だ、と言っていたが、わたしにはそのようには思えなかった。文学の運動は、たんにその量の面からばかり見ることはまちがいで、その質の面をも、いや、質をこそ見なければならないからである。その点で、長野文芸や呼子にあらわれている質は、全国のサークルを通じてみても、高い方にぞくすると、わたしはお世辞でなしに言うことができる。たとえば、ここのサークルの生んだ小熊忠二、立岡宏夫のような詩人たちは、「詩学」や「現代詩」などにも、個性ゆたか作品を発表して、その将来を期待されているのである。
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 この帰省のこころ残りの一つは、千曲川で大きな鯉を釣りおとしたことである。多摩川のゆるやかな流れで用いていた細い糸のままで釣ったのが、そもそものまちがいで、三日目にようやくかかった大魚は、見るまにリールの糸をひっぱって、川のまんなかに泳ぎ出してしまい、それに流れの力がくわわったゝめに、竿をもちあげるとたんに、ひっぱりっこの格好になって、おもりの下で、六厘のナイロンがきれてしまったのだ。あの糸のひっばり具合と重さからみて、とり逃した魚は大きいと言うが、おそらく、一貫匁はくだらなかっただろう。残念である。(詩人)
☆カット……荻太郎(新制作)
(信濃毎日新聞 1955年9月3日)