長野県詩人協会

ここでは、「長野県詩人協会」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 昭和35年に創刊された詩誌『緑地』について柳沢さつきさんが講演「信州モンパルナスの詩人たち」で語りました。

 『緑地』は昭和35年に松本で創刊された。若い人たちの理想・夢を集約する「緑の大地」という意味を込めて『緑地』と名付けられた。高橋玄一郎が後押しをし、松本の信州大学文理学部の学生たちをも引きつけての創刊だった。
 昭和36年10月には大島博光が招かれて「新しい詩の方向」というテーマで講演をした。『緑地』を確かなものに育て上げたいという高橋玄一郎の思いから実現したものだ。
昭和37年に廃刊になるが、その間に若い人たちが頑張って13冊刊行した。

緑地
緑地もくじ
緑地後記
現代詩人会

10月12日の現代詩ゼミナールin長野に参加された日本現代詩人会・長野県詩人協会の皆さんが松代地下壕見学と合わせて記念館を見学。博光の詩に触れながら交流しました。

現代詩人会
現代詩人会
現代詩人会
現代詩人会
現代詩人会、長野詩人協会主催の現代詩ゼミナール〈東日本〉in長野が10月12日、長野犀北ホテルで開かれました。

現代詩ゼミ
清水茂さんが講演「存在と詩のことば」。イヴ・ボヌフォワの詩を紹介。大震災後にあって「いま、この時、あきらめるな、・・・絶望して死んではならないと私たちに言い遺すがいい。」

現代詩ゼミ
高森忠義さんが講演「北信濃の前衛文化」。幕末にフランスの文化を日本に紹介した先覚者として佐久間象山と村上英俊が功績を称えられているが、二人とも松代藩に属していた。

現代詩ゼミ
続いて詩の朗読。秋山泰則、清岳こう、竹内清志、佐相憲一、柳沢さつきさんら8名。

現代詩ゼミ
現代詩ゼミ
懇親交流会の冒頭に善光寺木遣り。

現代詩ゼミ
乾杯の音頭は倉石長彦さん。

現代詩ゼミ
福井の稲木信夫さん。

現代詩ゼミ
現代詩ゼミ
現代詩ゼミ
柳沢さつきさんと畠山隆幸さん。

清水
清水茂先生と語る重田さん。

高森
現代詩人会理事へ感謝のお酌。

お酒
和田攻さんがみごとな祝謡を披露。

詩人会
役員の皆さんが前に立って万歳をし、和やかな会がお開きとなりました。
<戦後・長野県詩人の活動>
 北信地方            青山伸

 十五年は、長いように感ずるが「戦後」と言うように考えると、ひどく短かく、もう十五年もたってしまったのかと思えてくる。
 戦争直後の解放感、知らない事の恐しさ、知る事のすばらしさ、食糧難、組合運動、講和条約、原水爆反対運動、朝鮮戦争と基地反対運動、現在の安保改定反対、等々、どれも戦争につながる歴史の動きのめまぐるしさや、戦争の傷あとの深さとが、私たちの心身にするどく刻みこまれている。
 戦後十五年の詩の歩みも、詩人が戦後おかれた位置や、詩法のいかんを問わず、何らかのかたちに於て、これら歴史の動きに左右されてきた。
 敗戦翌年の二十一年一月、北信地方の地元や、疎界していた詩人たち、鈴木初江、岡村民、小出ふみ子、大島博光、穂苅栄一、篠崎栄二、田中聖二、武井つたひ、らが同人となって、詩誌としては全国最初の発行である「新詩人」を出した。これらが現在まで十数年、百七十号近く続けられたのは、小出ふみ子の詩に対する強い熱情と努力にほかならず、敬服する。北信や県下ばかりでなく、同人会員は全国に及んで、ここから数多くの詩人が生れた。なお、そのほかNHKの詩の選者をはじめ、詩のグループやサークルの指導にと、小出の存在なくしては「新詩人」はありえないだろう。
 二十一年三月、更埴市の武井つたひ方で、北信詩人協会を結成し、季刊誌発行。それがどんなものであったか詳でない。
 二十一年十月、大島博光、武井つたひ、高橋玄一郎、田中聖二、穂苅栄一らによって、全信州詩人連盟がつくられた。現在の県詩人協会のさきがけであったろうか。この連盟がどのような経過や盛衰をたどって消えてしまったのか、先輩詩人に聞きたいものだ。協会を運営発展していく上に参考となるだろう。
 二十三年一月、大島博光編集による詩誌「歌ごえ」が長野市から発行された。これには社会主義或は民主主義の詩人らが集り、自由、平和、独立の名のもとに、戦争中、うたう事は勿論、沈黙さえもゆるされなかった、弾圧された詩人たちが、高らかにうたい始めた。
 この「歌ごえ」と大島博光の人間的魅力が相ともなって、この北信地方の労組や地域サークルの詩人たちへの刺戟となり、大島を中心とした若い詩の書き手が力強く育っていった、記念すべき詩誌とも言える。
 私の手もとには「歌ごえ」の三号一冊のみ残っているが、大島博光、浅井十三郎、壷井繁治、岡村民、植村諦、サカイトクゾーら現在も活躍している戦前からの詩人がいる。
 ちょうどこの頃、新日本文学会長野支部結成の動きがあり、その運動のために東京から来た壷井繁治や、長野にいた大島博光などを囲んで、座談会を開いたのに刺激されて「高原文学」を発行した。詩人からは、穂苅栄一、立岡宏夫、井上志朗が編集同人となって参加した。
 その翌二十四年には、北信地方文学サークル協議会が結成され「若いまど」が出たが、いずれも二号で消えた。
 だが、消えたと言っても、それは詩人が消えさったと言う意味ではない。地方での総合的な文芸誌の発行をつづけていく事は、単に経済的に無理であったに過ぎない。これらの雑誌にみえる詩人たちは、それぞれの労組や地滅の詩のサークル、グループにおいて、有力な書き手であると同時に、それらを盛りたて発展させていった中心として、現在も広く深く活躍している。

 それら詩の動きの、最も活溌であった、国鉄長野工場を例にとれば、それまで、労組の機関誌に投稿する詩の書き手が五〇名ばかりいた。しかし、その殆んどが、藤村調、流行歌めいたもの、花鳥風詠……、現代詩と呼ぶには遠い存在であった。しかし、戦争から解放され、腹は空いていても、のびのびとした楽しい集りでもあった。
 だがしかし、東京地方で近藤東らの提唱する勤労詩運動が、この地方の、働く詩人たちをめざめさせ、また新日本文学会の結成、労働運動による階級意識のめざめ等により、長野工場に「工人詩サークル」が出来た。ここには小熊忠二、長尾和志、岡沢光忠、井上志朗、西沢孝夫、青山伸らが集り、メーデー文化祭には、一日の労働をえがいた組詩を発表し、詩サークルとして強力に育っていく地盤となり注目されるようになった。しかし、それも二年余りで十三号まで続けたが、レッドパージに名をかりた組合弾圧で仲間を失い、会員も七名程となり、発行不能となった。
 詩誌はつぶれても詩人は生きつづけるものだ。
 二十六年六月、長野地方文学サークル協議会発行で詩誌「呼子」を出した。小熊忠二が編集し、穂苅栄一、岡沢光忠、南出好子、立岡宏夫、原山林、轟武三郎、青山伸らが主な書き手であった。
 この「呼子」で、とりわけきわだったのは、二十八年夢、浅間山の米軍演習地化反対運動に、長野県中がわきかえっているときだった。小熊忠二は軽井沢の軍事基地反対運動のデモに直接参加し、現地の生々しい動きを、身をもってさぐり、又、呼子の詩人以外に、この運動に加った農民や商人、労組の人々の声をとりいれ、記録と詩を結びつけ、実験的だが、行動の詩とも言えた。会員六名が、それぞれの項目を分担し、千八百行に及ぶ長篇詩「怒る浅間山」を発表し、大きな反響を呼んだ。
 その后、十六号まで出して、何時も書き手が同じメンバーである事に、マンネリにおちいるのを心配して発行を停止した。
 それ以前、東京に引揚げた大島博光が詩誌「角笛」を出したが、氏の病気のため、三号より長野で編集された。小熊忠二、立岡宏夫とうけつがれ十七号まで出した。北信地方では南出好子、青山伸らが参加した。詩は、やはりうたわねばならぬと主張し、現実への激しいいどみを、形式にあてはめ、言葉のリズムの中に、内的なひゞきを盛ろうと努力している。まだ手探りの断階であるが、詩を民衆のものとする未来が、新しい芽生えが、ここらにあるように思える。
 別な動きとして、戦後まもなくから現在まで、続いて出されているのに、国立長野病養所の「詩苑」がある。元気に退所していくもの、むなしく亡くなったものと、長い歴史のなかに、たえず死と貧乏の対決であったから、幼い作品が数多くあるとしても胸を打つものが多かった。医学が今日のようでない、しかも食糧のとぼしい戦争直後時代の作品には、すさまじいものがあつたように記憶する、小出ふみ子から大江満雄と、よき指導者があって山崎多賀夫、鷲沢達朗、和田ひろ子、中村武 太田春子らが活躍した。
 先の国鉄長工の「工人詩サークル」が五年ばかり低調であったが「広めることは高めることになる」と言うサークル運動の一つの考えから、新しく「長工詩サークル」として、もっとくだけた形で、何んでもよいから詩のような形式で、書いてみよう──と云う呼びかけで三十年四月から再出発した。メーデー文化祭への参加、国鉄労組全国大会が長野で開かれたおり、会場に壁詩など、あらゆる分野に質量ともに、広く詩を前面におしだした。
 同年八月、この長工サークルが中心となって「高めること」の意味もあって、現代詩講演会を長野で開いた。壷井繁治、大島博光、近藤東、高橋玄一郎、小出ふみ子、田中伊左夫らが、それぞれの立場から講演し、後に意義ある討論会を開いた。これには地元の詩人は勿論、松本、上田、飯山から、又、長野・上田の各療養所から、いろいろのサークルの指導的な人をはじめ、多くの詩の書き手、読み手が集った。
 いわゆるサークルの詩運動として、長工詩サークルは、それが成立する条件がととのっていたにしても、最も成果をあけたものと思う。工人詩サークル時代から書きつゞけている人たちは勿論、山岸重治、桜井純堆、山岸陽、羽生田忠治と言う有力メンバーが生まれた。三十一年には、全国鉄詩人大会において、詩人連盟団体賞をうけている。
 三十三年、小熊忠二は「種子」をだした。現在、岡沢光忠、山本晋二が編集発行している。地元では轟武三郎、桜井純雄、青山伸がかき、全国から詩人がよせている。
 三十四年、全逓長野貯金局支部の文化部から詩誌「酸素」が出た。玉石混合、いろいろな作品がある。サークルとしてよくまとまり楽しい集いをかさねている。
 この北信地方から出された、十五年間の詩誌のアウトラインだけを書いたに過ぎないが、ほかに、それこそ多くの詩集が出され、それぞれ問題にもなり、好評をうけたものもある。また、海底の真珠貝のように、人の知れぬ美しい作品もあったろうが、こゝではとりあげなかった。詩誌の方が、詩の動きを知るであろうから。こうして若干調べながら書いてきて、詩の書き手、読み手が、大変な数になった事に、驚きと自信をおぼえる。その殆んどが、生きていく地盤にたって書きつつある。ひとはそれを、クソとかソボクとか、或はプラカードとかサークルとかをくっつけたリアリズムと言い、私もそのような悪意と侮蔑批評をうけてきた。今もうけつつある一人だ。いわゆる詩人は、そのような、自己を裸にさらけだしたまゝの、ぼう大の数の、サークルやグループの作品の存在価値を本当に考えた事があるんだろうか。私はこれらの詩の運動や流れは、あくまでも正しく、まちがっていないと信ずる。
 これらの活溌な動きや、また甚しい低調と、いろいろな波をくぐりぬけながら、いちど仲間に反響を呼ぶような作品をかくと、働くもの同志の共感というか、作者自身でさえ、あらためて現実に、新鮮な警きの目を向けるのだ。それが一回限りのものだったとしても、その魅力は忘れられないものとなって、次の段階へと、意識された詩法へと進むものだ。
(『長野県年刊詩集』1960)
長野県詩人協会が1958年に結成され、最初の年刊詩集が1960年に発行された。小熊忠二があとがきを書いている。

 あとがき
 一九五八年十月、松本において長野県詩人協会が結成され、発足してから約一年半、ようやく協会の、ひとつの仕事である年刊詩集の発行を、軌道にのせることが出来た。
 これは、会員諸氏の積極的な協力の結果であることは云うまでもない。
 なによりもまず、会員相互の詩生活を知り、理解を深めることに重点をおき、アンデパンダンの方法で編集した。細部についての編集は、事務局においてタッチした。例えば、多少の作品撰択、詩集全体のバランスを考えての作品順序など。
 戦後からの、長野県における詩活動については、スペースがなかつたこと、及び、とり急いだことが重なり、まことに、アウトラインそのものの報告しかできなかつたことをおわびしたい。
 さて、このアンソロジイを年々持続し、内容を高めていくことにこそ、詩人協会のちからが試され、示されるであろう。(小熊)

長野県年刊詩集

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