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詩誌『歌ごえ』 

ここでは、「詩誌『歌ごえ』 」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。





扉

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

1


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(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

浜辺






[鈴木初江「ガリ版を切りながら」]の続きを読む
    *

 こんにち、ニッポンの帝國主義的侵略戦争の結果である、人民のみじめさ、不安、絶望、虚無を、なにか人間ほんらいの本質であるかにすりかえ、そこに実存主義などというものをうちたて、そこからぬけ出ようとする努力をこころみるどころか、むしろ、この不安、絶望、虚無のなかに酔っばらい、ねそべり、その傷ぐちをケントウちがいにほじくることによって、ヒュマニズムを主張するひとびとがある。あるいはまた、傷ついた精神をとりだし、精神が救いなく虚無のなかになげだされていることをなげき、ただ観念的に精神の危機をさけんでいる純粋詩人というひとびともいる。これらのひとびとは、虚無と絶望と、傷ぐちの深さを語るが、それらがほかならぬ侵略吸争の結果であること、天皇制資本主義のもとにおける当然な帰結であることには、ほとんどふれようともしないし、見きわめようともしない。そうしてこれらの古い精神主義者たちは、個性主義者、観念論者たちは、現実をおそれ、現実を見つめようとせず、現実にそっぽを向け、いぜんとして観念のなかをさまよい、うしろ向きの夢想や、やぶれはてた孤独や、まぼろしの世界をうたっている。

 (わたしはここで、告白するが、わたしじしんも、ながいこと、そのような観念の雲のなかをさまよっていた。わたしじしんも、ながいこと、なにか、空中にただよう美を追いもとめ、ことさらに異常をつくりだそうとこころみ、まぼろしのとりことなっていた。そうしてわたしじしんも、死んだうぐいすのむくろを歌ったり、出ぐちのない暗い夜の歌など、うたっていたのであった。そんななかから、わたしをひきだしてくれたのは、敗戦後の人民革命の波の高まりであり、信州の美しい革命的な青年たちが、わたしをニッポン共産党の組織のなかに、みちびきいれてくれ、人民の日常闘争のなかにむすびつけてくれたおかげである。そうして、わたしもようやく自己変革の、自己の再教育の第一歩をふみだしたばかりだ。わたしも、いま、観念論者からマテリアリストへ、リアリストへうつりかわる、その苦しい努力をはじめたばかりだ。)

 くちにヒュマニズムをとなえながら、そのヒュマニズムそのものの名によって、人民解放の政治的闘争をおそれ、こばみ、革命にせなかを向け、革命に悪口をあびせかけるものは、究極において真のヒュマニズムをねがわないものである。これらのひとびとは、そうすることによって、むしろ、人民の解放をおしとどめようとする支配階級に奉仕しているのであり、ヒュマニズムそのものをふみにじっているのである。なぜそうなるのか。これらの小市民的ヒュマニストたちは、すすんで自己を変革しようとはねがわない。社会を変革しようとはねがわない。かれらは、古いサルのしっぽを残した人間でとどまり、その古い人間を、──その飢えやせた「精神」を後生大事にまもろうとしている。
 そこから、かれらの受け身の、うしろ向きのヒュマニズムがでてくる。そこから、かれらの革命にたいする恐怖と嫌悪がでてくる。そこから、政治への不信やあなどりがでてくる。
 しかし、このような古い人間が、「精神」が、受け身のヒュマニズムが、こんどの戦争をとおして、どんなにみじめな姿をさらし、いかに暴力にふみにじられるままにまかせられてきたかを、われわれは身をもって、血をもって、思い知らされてきたはずだ。あの暴力のまえで、あわれな「精神」はいつかドレイ精神にまでなりさがっていたのではなかったか。わたしたちは今こそ、この暴力の正体をみきわめ、ふたたび精神を肉体を、ドレイにしてはならない。この暴力の正体とは、天皇制資本主義にほかならない。しかも、それは今なお、人民解放をくいとめようと、必死にもがいているのである。そうして、この暴力の根もとをなくなさないかぎり、ほんとうの人間精神の解放もありえない。
 じつに、人間解放のためにこそ、わたしたちを古い人間におしとどめておこうとする支配階級をなくなすためにたたかい、ブルジョア社会にゆがめられた自己の古い人間性を、みずから進んで変革しようとする、自発的な熱意だけが、革命をおそれるどころか、革命を自己のものとして、わたしたちを革命のなかへ駆りたて、参加せしめるのである。そうして、このような革命的なヒュマニズムこそこんにち、真のヒュマニズムの名にあたいする。

 「ウ・ナロード!」──四十年のむかしに、タクボクが叫んだこのことばも、革命的実践へ身をもってふみいり、そこから歌いだせ、ということにほかならない。人民の生活のなかへ、根ぶかくふみいり、人民のかなしみを、よろこびを、愛情を、にくしみを、希望を、人民のことばとひびきで歌いだせ、ということにほかならない。そうしてこのことは、すぐまた、このような人足の詩が、どうしても人民的なリアリズムのうえに立つ、ということをもふくんでいる。また、人民だけが何ものをも、おういかくす必要もなく、見せかけの飾りで自分をごまかしたり、むなしいまぼろしのなかに逃げこんだりする必要もなく、だいたんに、卒直に、現実へせまり、現実をえぐりだし、現実のほんとうのすがたを歌いだすことができる。また、人民だけがするどく生産をうたい、新しく、自分の集団をうたい、ほんとうに生きいきとした、未來へつながる人間の美しさを歌うことができるのだ。

 「ウ・ナロード!」──四十年のむかしに、タクボクが叫んだこのことばは、こんにち、いっそう切実なひびきと、ふかい現実的な内容とをふくんで、わたしたちの胸をたたき、わたしたちのこころの底をゆすぶるのである。
(完)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

浜






     *

 さて、こんにち、ふたたび問題にされているヒュマニズムの問題も、こんぽん的には、革命の問題にむすびついており、人間変革の問題へとつながっている。

 わたしたちのヒュマニズムの問題は、われわれがまだ「社会的なサル」だという事をはっきり、みとめる事から出発する。「社会的なサル」──近代ドレイから人間を解放し、ほんとうの人間が確立されることこそ、ヒユマニズムのこんぽんの問題である。ほんの少数の、権力や富をもっているひとびとだけが人間であるのではなく、すべての人民が、ほんとうに人間らしい人間になるのでなければならぬ。すべての人民が、サルから人間へと解放されるヒュマニズムこそ、こんにちのヒュマニズムだ。このようなヒュマニズムは、けっしてほかから与えられるものではなく、人民じしんがたたかいとらねばならない。ヒュマニズムの歴史そのものが、血まみれのたたかいだったこと、コペルニクスやガリレオがひどい迫害とたたかって、たたかいとり、うちたててきたことを示している。フランスの「自由・平等・博愛」の、いわゆる「人間権利の宣言」が、たとえブルジョアジイによってよこどりされ、ごまかされ、裏切られたとはいえ、それもまた大革命やパリー・コンミュンの英雄的な戦士たちの血によって支払われたのであった。人間解放のヒュマニズムはつねにたたかいであったし、いまなおたたかわれている。そうしてこのようなヒュマニズムは、とうぜん政治革命とむすびつき、政治もまたヒュマニズムのうらずけによって、はじめてその肉と血をもつのである。

 すべての、真のヒュマニストたちは、政治と文学とをきりはなさなかった。「レ・ミゼラブル」と「海の労働者」のユウゴォがそうだった。パリー・コンミュンのために、いくつかの讃歌をかいたランボオも、詩と政治とをきりはなしては考えなかった。いや、ランボオは、ブルジョアジイにたいする「気ちがいじみた怒りにかりたてられて、」コンミュンの軍隊にくわわろうという、はげしい情熱的な手紙をかきのこしている。かつて、ダダイストとして、またシュルレアリストとして、ブルジョア社会とブルジョア芸術に反抗したアラゴンやエリュアルは、かれらの反抗が、けっきょくブロレタリアートの闘争とむすびつくべきであることを知ったとき、明日の社会と文化がプロレタリアートの肩にになわれることを知ったとき、そうして、てってい的な人間解放のにない手が、プロレタリアートであることを知ったとき、かれらはプロレタリアートのがわに立ち、その陣列にくわわった。アラゴンはフランス共産党に人党し、かつてアナーキーな反抗と絶望をうたったそのくちびるで、こんどは「赤色戦線」をうたい、「パルチザン」をうたい、抗戦をうたった。エリュアルはスペイン人民戦線の英雄的な闘争に、「ゲルニカの勝利」といくつかの美しい詩をささげた。かれらは、人間解放のために、ペンのたたかいを、現実の政治的闘争にむすびつけ、またそうすることによって、詩そのものを、はるか前方へおしすすめることができた。ヒュマニズムの名においてこそ、かれらは政治をおそれることなく、みずから進んで政治のなかにはいって行った。革命家になることが、──革命家であることが、かれらが真のヒュマニスト詩人であることをしめしている。そうして、かれらのなかで、詩人と革命家とが矛盾するどころか、詩人と革命家とが統一されて、はじめて、かれらは革命詩人となることができた。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

浜

 人間変革について
                     大島博光

 一九一一年(明治四十四年)、タクボクは「はてしなき議論の後」という詩で、革命詩人のはげしい調子と、いち早い先駆的な直感のするどさとをもって、つぎのように歌った。

 われらの且つ讀み、且つ議論を闘わすこと、
 しかしてわれらの眼の輝けること、
 五十年前の露西亜の青年に劣らず。
 われらは何を念すべきかを議論す。
 されど、誰一人、握りしめたる拳《こぶし》に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 われらはわれらの求むるものの何なるかを知る。
 また、民衆の求むるものの何なるかを知る。
 しかして、われらの何を為すべきかを知る。
 実に、五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ここにあつまれる者は皆青年なり。
 常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
 われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
 見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しさを。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ああ、蠟燭はすでに三度も取り代えられ、
 飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
 若き婦人の熱心に変りはなけれど、
 その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり、
 されど、なお誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 V NAROD! と叫び出ずるものなし。

 ほぼ四十年まえに、タクボクが歌ったこのなげきと、なにか、わたしたちのえりくびをとらえて、はげしく責めたてるような、このひびきは、こんにちなお、わたしたちの胸をたたき、ゆすぶる。「ウ・ナロード!──人民のなかえ!人民となれ!」と。
 ただはてしない議論をくりかえすばかりで、「民衆のなかえ!」という実践の情熱を叫ぶものが一人もいないことをなげき、責めているこの詩は、ほかならぬタクボクの実践への情熱を、熱っぽく、あつく、たたえている。そのゆえにこそ、この詩はいまなおわたしたちの胸をたたき、わたしたちを実践へとかり立てるのである。
 タクボクがこの詩をかいた時代にくらべれば、こんにちの時代はまったく、おどろくべき変りかたをしている。タクボクの時代に、遠くのぞみ見られた夜明けの最初の光りは、その後荒れくるう反動の嵐に、暗くおういかくされ、ひきちぎられたが、こんにち、それは人民革命として、現実に、かがやきだしている。人民の新しい歌ごえは、いたるところに、わきあがりつつある。こうした革命の進行のなかで、「ウ・ナロード!」という合言葉は、いよいよ具体的な内容をもち、いっそう現実的な課題をはらんで、わたしたちの耳にひびく。詩の革命、抒情の変革、新しい叙事詩の創造、というような問題まで、この合言葉にむすびついて、はじめて現実的なものとなることができる。なぜなら、それらの新しい詩の課題、とくに抒情の変革は、それだけきりはなされた問題ではなく、抒情の主体である人間の変革の問題とわかちがたく、ぎりぎりにむすびついているからだ。

 「ウナロード! ──人民のなかえ! 人民となれ!」というこのことばは、とりもなおさず、新らしい人間になれ、新らしい社会主表的な人間になれ、ということだ。そうして、このような人間変革は、ただ実践をとおしてのみ可能だということだ。いくら、社会主義の本をよんだり、革命の理論をきわめても、書斎のなかにとじこもっていたのでは、あたまは変るかも知れないが、人間ぜんたいは変えられはしない。もちろん、理論はたいせつだ。しかし、理論はそのものとしてたいせつなのではなく、それがわたしたちの肉となり血となり、新らしい美しい行為を生むゆえに、たいせつなのだ。理論もまた、このような実践によって、きたえられ、深められ、新らしく発展することができる。そうして、わたしたちにとって問題なのは、この践をとおして、生きたシンゾウと血をもった人間ぜんたいを契革するということだ。これはまったく、なまやさしいことではない。わたしたちはたくれたニッポンのブルジョア社会に、ゆがめられ、ひんまげられ、傷つけられてきた人間である。いまなお、たえず、あらゆる手だてによって、ゆがめられつずけている人間である。くちに近代をとなえ、近代的な市民をよそっているが、わたしたちのどこかには、今なお、封建性の、近代ドレイの、サルのしっぼが根ずよく残っている。
 アラゴンがつぎのように語ったことばは、わたしたちには、いっそうはげしい程度に、あてはまる。アラゴンは人間変革の問題にふれて、つぎのようにいっている。「われわれは、ちょうど人類史であのサルが人間に進化した時代と、どこか似かよった時代に生きている。すなわち、人間によって人間がサクシュされる、階級社会の人間から、階級のない社会の人間えと変りゆく時代にいる。プロレタリアートは、かつてない偉大な歴史的事業をくわだてつつある。それは、階級社会における社会的なサルを、未来の社会主義的人間に変えるという大事業であり、人間による人間の再教育である。いまや、この大事業は、ソヴェートにおいて、ボルシェビーキたちによって進められつつある。」と。わたしたちの人間変革も、このような社会的なサルから、社会主義的な人間に変わってゆくことにかかっている。この一大事業」は、しかし、現実の政治の革命によってカずよくおし進められるが、革命が完成されて、はじめて人間変革がはじまるというようなものではなく、革命の進行とともに、人間変革も徐々に進んでいるのであり、また進められねばならない。
こうして、人間処革の問題は、現実にすすんでいる革命からきりはなしては考えられないし、革命とむすびついて、はじめて人間の変革もねこなわれうる。そうして、「ウ・ナロード!」ということは、こんにち、現実の人民革命の隊伍のなかにくわわれ、ということにほかならない。人民の、ブロレタリアートの、日常闘爭にくわわる、その実践をとおしてのみ、人間の獎革は現実的にすすみ、そうして、抒情の変革もおしすすめられる。近代詩の名のもとに、近代的自我をうたうと稱して、書齊にとじこもって、けっきょく、小ブルジョア個人主義をまもっているかぎり、人間変革も抒情の変革もおこなわれないだろう。いまや、詩の革命もまた、それが革命の詩であることによってのみ、前方え、おしすすめられるのだ。(つづく)

(『歌ごえ』2号)

舟

詩誌『歌ごえ』1〜4号 目次

創刊号(昭和23年3月 山川書店)

(巻頭)創刊のことば(新しい朝の歌)…………大島博光
詩の前進のために…………壺井繁治
ソヴェートの詩…………上田進
轉形期の詩人…………平林敏彦
ー作品─
 舊友…………岡本潤
 方向性…………高橋玄一郎
 一つの燈火は…………高田新
 警察署長殿…………穂刈榮一
 子守歌…………岡村民
 牛車にゆられて…………佐藤さち子
 おまえは…………岡田芳彦
 コメをとられた女…………長谷川尚
 山羊…………武内利榮
 愛…………藤田三郎
 ヨーカイ…………近藤東
国鉄にあがる歌聲…………鈴木茂正
長詩 鍛冶屋…………ランボオ 大島博光譯
ランボオについてのノート(一)…………大島博光
 カット 宮城輝夫・大宮昇
 昭和23年3月15日発行 
 山川書店 長野市西長野二番地


2号(昭和23年4月 山川書店)

職場における詩の在り方………サカイ・トクゾウ
人間變革について………大島博光 
──作品──
 言葉………遠地輝武
 流るる日々………奈切哲夫
 ガリ版を切りながら………鈴木初江
 雪にきく歌………武内辰郎
 葬列………鈴木正志
 思い出の人々………濱田初廣
 入党………小田英
 扉………北條さなえ
 どた靴の歌………関口政男
 人形芝居………勝山勝三
 塩売り娘………鶴見甚三郎
 引揚列車………德永壽
 毒………濱田耕作
 同志Kに………池田時雄
 五月の風に………仁木二郎
新鉄の詩人たち………眞貝欽三
ソヴェートの詩………上田進
長詩 ふたたび賑わいに返えるパリー………ランボオ
 表紙・藤井令太郎 カット・宮城輝夫


3号(昭和23年6月 山川書店)

アンケート 詩とヒユマニズム
 豫言者の任務………新島繁.
 封建的抒情の駆逐………岡本潤
 働く者のヒユマニズム………淺井十三郎
民衆の歌ごえ………小野十三郎
──作品──
 断章………………壺井繁治
 桜………………佐川英三
 小使さんの天國……..壺田花子
 土蜘蛛の歌………………曾根崎保太郎
 カンパ………………岡村民
 種………………植村諦  
長詩 とんきち二等兵……………サカイ・トクゾウ
絶望について………………佐々木陽一郎
ソビェートの詩(3)………………上田進
──作品──
 あの人たち………………平林敏彦
 メーデー………………田中敏子
 供出………………長谷川尚
 人夫の詩………………伊藤直彦
 つかれ………………今井朝二
作品コンクール
 表紙・藤井令太郎 カット・宮城輝夫

4号(昭和23年7月 山川書店)

──作品──
 偶作………………金子光晴
 断想………………大江満雄
 夜きこえてくるのは…………北條さなえ
 食後の唄…………エモリ・モリヤ
 火花………………藤田三郎
プロレタリア詩にふれて…………佐藤さち子
──詩の普及と高揚について──
 朗詠詩をとりあげよ……………近藤東
 詩の分業………………竹中久七
長詩 とんきち二等兵.……………サカイ・トクゾウ
大鍵の詩人たち………………乾 宏
すべてのものと歌わればならぬ………岡田芳彦
「私は風に向って歌う」について…………新島繁
長詩 農奴の死……………ネクラーソフ 谷耕平訳
──作品──
 友よねむれ………………武內辰郎
 風の中の道標………………新貝欽三
 帽子………………関淳二郎
 窓………………松島忠
作品コンクール

*『歌ごえ』は1948年3月創刊。大島博光が戦後最初に手がけた詩誌で、民主的詩運動を唱えて発行した。4号があることは判っているが、5号以後が発行されたかは不明。

歌ごえ


歌ごえ3号・目次

アンケート 詩とヒユマニズム
 豫言者の任務………新島繁.
 封建的抒情の駆逐………岡本潤
 働く者のヒユマニズム………淺井十三郎
民衆の歌ごえ………小野十三郎
──作品──
 断章………………壺井繁治
 桜………………佐川英三
 小使さんの天國……..壺田花子
 土蜘蛛の歌………………曾根崎保太郎
 カンパ………………岡村民
 種………………植村諦  
長詩 とんきち二等兵………………サカイ・トクゾウ
絶望について………………佐々木陽一郎
ソビェートの詩(3)………………上田進
──作品──
 あの人たち………………平林敏彦
 メーデー………………田中敏子
 供出………………長谷川尚
 人夫の詩………………伊藤直彦
 つかれ………………今井朝二
作品コンクール
 表紙・藤井令太郎 カット・宮城輝夫
(山川書店 1948年6月号)

歌ごえ4号・目次

──作品──
 偶作………………金子光晴
 断想………………大江満雄
 夜きこえてくるのは………………北條さなえ
 食後の唄………………エモリ・モリヤ
 火花………………藤田三郎

プロレタリア詩にふれて………………佐藤さち子
──詩の普及と高揚について──
 朗詠詩をとりあげよ………………近藤東
 詩の分業………………竹中久七
長詩 とんきち二等兵.………………サカイ・トクゾウ
大鍵の詩人たち………………乾 宏
すべてのものと歌わればならぬ………岡田芳彦
「私は風に向って歌う」について………………新島繁
長詩 農奴の死………………ネクラーソフ 谷耕平訳
友よねむれ………………武內辰郎
風の中の道標………………新貝欽三.
帽子………………関第二郎.
窓………………松島忠
作品コンクール
(山川書店 1948年7月号)

*『歌ごえ』は1948年3月創刊で、大島博光が民主的詩運動を唱えて戦後最初に手がけた詩誌。いままで2号までしか目にできなかったが、このたび国会図書館に3号、4号があることが判った。

もも


        Ⅱ

 一九一八年にアレクセイ・ガスチョフの詩集「労働者の突撃の詩」がでた。これは革命後にでた最初のプロレタリヤ詩集であった。その年の七月に、文化団体「プロレットクリト」の機関誌「プロレタリヤ文化」の創刊號がでた。それからしばらく間をおいて、一九一〇年の五月に、そのブロレットクリトの流れを汲んだプロレタリヤ詩人のグループ「鍛冶屋」が組織され、雑誌「鍛冶屋」が發判された。かうして、プロレタリヤ詩が、社會の表面に姿をあらはしてきたのである。
 十月の嵐はまだ荒れつづけていた。内には内乱が続き、外からは外國の干渉がつづいていた。物情騒然とした、戦時狀態の継続であった。一般には戦時共産主義の時代、あるひは市民戦争時代といはれている時期である。
 鍛冶屋派は、この時代の詩を代表したものであった。否、詩を代表したといふよりも、文學一般を代表したものであったといった方がいい。といふのは、この時代はさういった慌ただしい時期であった関係上、散文芸術はほとんど發展せず、詩がソヴェート文学全体の圧倒的な部分を占めていたからである。
 鍛冶屋派の詩全体を通しての特徴は、一言をもっていうならば、ロマンティックであったといへる。それは、革命の初期のあのあわただしい、けれど華々しい時代、いはゆる「革命の蜜月」の、ロマンテイックな気分をよく表現しているのである。したがってその詩には、火のやうに激しい信念が横溢しているが、しかし同時に抽象的なものが多い。高いもの、遙かなもの、華やかなものに眼をうばはれていて、足もとの日々の生活はほとんど忘れられている。けれどやはりその詩には、多くの真実性があり、多くの美と崇高さとがあったのである。以下、この派の代表的な詩人數名をあげて、それらの人をとおして、この派の詩のいろんな特質を見てゆかう。

 サモブイトニクは、工場を歌っている。彼によれば、工場は人類の未来の幸福と自由とを保証するものである。工場とむすびつくことは、とりもなほさず闘争に参加することなのである。工場は、ブロレタリヤートの力の源泉であり、新しい世界の揺籃である。彼は工場をそのやうに見、賛美した。
 ゲラシモフも工場を歌っている。だが彼の工場はもつとロマンテイックな、そして回想的な色彩をおびている。モータァの響きも、サイレンの唸りも、彼にとっては楽しく、なつかしい山の松風の音にきこへるのだ。
 キリーロフの詩には労働の讃美がある。彼は現在の闘争や苦悩についてはあまり語らない。彼はいつも労働の喜ばしさを歌ひ、未來の世界の幸福を歌っている。
 このやうに、工場と労働の主題は、鍛冶屋派の詩人たちが最も好んで歌ったところのものである。しかし、その工場や労働は現実のものではなく、彼らの頭の中で美化された抽象的なものであった。
 ガスチョフの詩をみると、又もっと別な主題がうかがはれる。それは宇宙とでもいふべきものだ。彼は労働と科学の無限の力を信ずる。その結果、彼はもはや地上の世界では満足できなくなる。そこで彼の想念は地球の限界を突破し、とほく遊星の世界にまでとび、やがて全宇宙を征服しようとする。
 カージンの詩にも、この宇宙主薬的な気分がみなぎつてゐる。彼は、自分を「宇宙の永遠性」に結合させ、「はるかな世界」に透徹するエネルギーの源泉とならせようと欲している。
 この宇宙主義はもちろん象徴派の神秘的な逃避的な宇宙主義とは全く別なものである。鍛冶屋派の詩人たちにとっては字宙の無限に融合することは、プロレタリヤの力を全世界にひろげることであり、人間が自然を完全に征服することを意味しているのであった。

 銀冶屋派の詩のもう一つの特徴をなしていたのは、集団主義の思想である。これまでのブルジョア的な詩人がいつも一人稱の単数「私」で歌つてゐたのにたいして、彼らは多くの場合一人稱複數「われら」をもって歌つてゐるのだ。そして集団の威力を謳歌しているのである。キリーロフも歌ったし、ゲラシモフも歌った。しかも彼らは、空間的な集團の力、つまり同じ時代の同じ地上の集団の力ばかりでなく、時間的な集団の力、即ち歴史の線の上につながっている集団の威力をも、誇らかに歌つてゐるのである。
 
 前にも述べたように、この時代には詩人が圧倒的な多数を占め、散文作家は非常に影がうすかった。これは時代の性格である。この時代の生活・氣分は、まだ大規偵な散文芸術を生みだすまでに成熟し、おちついてはいなかつた。その気分は、調子の高い、ロマンティックな抒情的表現に適していたのだ。そしてその故にこそ、鍛冶屋派のあれだけの大きな華々しい活動がみられたのだ。

 だが、この時代に、鍛冶屋派とならんで、ソヴェート詩の中にもう一つ別の潮流を形づくっていた、特異な存在があった。──それはデミヤン・ペドメイである。彼はこのめまぐるしい時代の中にあって、単純な形式とわかりやすい言葉でもつて、つぎつぎにおこつてくる眠のまえのさまざまの事実を歌ひ、その意義を大衆に懇切に説いてやり、大衆を闘争に駆りたてたのであった。
 デミヤン・ペドメイは一九〇九年から文学的活動をはじめた。最初は主として人民派の雑誌「ロシヤの富」に詩を発表した。デミヤン・ペドメイというのはペンネームで、一九〇九年にかいた「危険な百姓デミヤン・ペドメイについて」からとったものである。一九一二年に、彼はボリシェヴィキーに近づいてゆき、その派の刊行物に政治的色彩のつよい作品をのせるようになった。それから一九一七年の革命にいたるまでの数年間は、彼は専ら寓話詩や諷刺詩をかいていた。これはむろん一種のカムフラージで、當時の峻厳な検閲制度のもとにあつては、そのやうな形でしか彼の思想や気分は表現できなかったのだ。だが、彼がクルイロフやシチェドリンの流れをひいた、古くから口シヤにあつたこのやうな形式を利用したことは、かへつて彼の詩を一般の大衆に親しみやすくさせたと見ることもできるのではないかと思ふ。
(つづく)

『歌ごえ』1号 昭和23年3月)

花

ソヴェートの詩  上田進

    

 ソヴェート詩の歴史はブロークの「十二」からはじまる、と僕は考へてゐる。十月の嵐が吹きさった直後の混乱した社會で、新しい芽はまだ姿をみせず、古い詩人たちは或は沈黙し、あるひは国外に逃亡して、新しい権力にたいして呪咀をたたきつけていたときに、ブロークはいちはやく革命をうけいれ、すばらしい叙事詩「十二」をかいたのであった。この詩は、ブルジョア社會にたいする峻烈な否定の色でつらぬかれている。資本家や僧侶や貴婦人や反ボリシェヴィキー的な作家なぞに鋭い嘲笑をあびせかけ、古い世界を「尻尾をまいた、疥癬かきの犬」のすがたで示している。そして、この古い世界に對立するものとして、彼は十二人の赤衛兵をだしている。
 かうして彼は古い世界にむかつて、はげしい憎悪をたたきつけた。そして狐疑逡巡しているインテリゲンチヤの先頭にたって、まっさきに新しい世界に人りこんでゆき、新しい権力に奉仕しようとしたのだ。そこに、この叙事詩の最も大きな意義がある。

 大体アレクサンドル・ブロークの詩は、つねに現実否定の概念につらぬかれているといへる。だが、その否定の性質が、初期と後期と・・・・所の否定は、象徴主義に特有の神秘的・・・・・現実の世界というのを認めないで、・・・・・しまっているのだ。これはいはば資・・・・孤判であった。だが、一九○五年の動・・・・んだんに現實の世界に向けられてき・・・・・族的批判が、民衆的な批判にかはってきた。プルジョア的退廃にたいする極度の嫌悪が、彼の心に固く根をはった。十月革命をうけいれる土台はできていたのである。
 しかしブロークは、十月革命の社会的、組織的性質を充分に理解していたとはいえない。彼にとっては、それは無秩序な自然現象であり、大吹雪であり彼が嫌悪していた古い世界を掃蕩する大旋風であるやうに思はれただけであった。ここにブロークの思想的限界があつたわけだ。結局ブロークは革命をロマンティックに理解しただけで、リアリスティックに理解することができなかったといはなければならない。革命と彼とのあひだの深いギャツブはつひに埋めることが出來ず、その結果、彼はまもなく沈黙してしまったのであった。けれど、とにかく彼は少くとも古い世界を否定したといふことだけで、すでに新しい世界の肯定の第一歩をふみだしていたのだともいへる。彼が今日、他の象徴派の詩人たちからぬきんでて高く評価されているのも、まったくその點においてなのである。・

 ブロークとほとんど同じやうな態度で革命をうけいれた詩人にアンドレイ・ペールイがある。その叙事詩「キリストは甦りたまへり」において、彼も矢張り十月革命を、嵐のやうな氣狂ひじみた一つの現現象としてうけいれているのである。だがペールイは、その後十數年間も動揺を続けたのち、社会主義建設の時代に入つて、やうやく確固たる思想的立場をかため、はっきりとソヴェート政府の側の詩人となるやうになった。もつとも彼は、それから間もなくこの世を去ってしまったけれど。革命前から活躍していた詩人のうちで、いちはやく新しい世界にとびこんでいた人がもう一人ある。それは、ブリューソフである。彼は前の二人にくらべると、ずっとはっきりした政治的意識をもっており、やがて党にも加盟し、文化的、教育的方面の活躍にしたがひ、また文学上でも大きな功績をのこした。

 農村に足場をもつていた詩人たちは、ブロークやベールイとはまた異った態度で十月革命をうけいれた。一般的にいうと、それらの詩人たちは、十月革命の社會主義的な使命を理解することができなかつたといへる。彼らは革命が封建的地主の権力をくつがえして、農村にブルジョア的デモクラシイの發展を保證してくれたと思ひこみ、それで革命を謳歌したのであった。
 そのやうなイデオロギーをもつとはっきりと表現しているのがクリュエフである。彼は農村の生活に幸福をもたらすものとして、十月革命を一応は歡迎している。けれど彼は、都會に對し、機械文明に對し、ブロレタリヤにたいしては、あくまでも敵對的な感情をすてることができない。彼は宗教的信仰にみちた古い口シヤの牧歌的な村落生活の勝利をもたらすやうな革命を期待したのである。だからクリュエフの手にかかると、レーニンの姿も古めかしい教會風な神秘的な相貌をおびてくるのだ。要するにクリュエフの詩は、十月革命の本質を古い農民的な立場から歪曲したものと断言することができる。
 クリュエフと大体おなじやうな立場をとつていた詩人に、クルイチコフとオレーシンとがある。
 これらの古い農民的イデオロギーを反映していた時人たちの群の中で、一人ずばぬけておおきな姿を示しているのが、セルゲイ・エセーニンである。彼は芸術的に最も豊かな天分をもっていたばかりでなく、新しい都會的、プロレタリア的文化と古い農村との相克を、最も鋭く、したがって最も悲劇的に体現しているのである。
 彼は、いはば騒々しい都會へ、古いロシヤの農村の民衆の信仰とは認と、村の寺院と牝牛の白ひと收人の歌とをもって入ってきたのだ。彼は農民のロシヤの自然と神話のなかからこそ、つきることのない量感をくみとり、美しい自の時を思ひあげたのであった。だが彼は、この牧歌的な農民のロシヤを愛すると同時に、農民一揆のロシヤを受してるた。彼は子供の頃から喧麻ずきな、おそろしい風基者であった。「反復する提民のロシヤ」の典をもってみたのだ。けれどその反題は組織的なものではなくて、まったく盲目的な、自然的なものであつた。エセーニンもやはり十月革命を一応はうけいれた。有名な時がある。

   空は鐘
   月は舌
   母は故郷
   おれはボリシェヴィク。
   全人類の幸福のために
   おれはお前の死を
   よろこび、歌う

 だが彼は革命を組機的に理解し、うけいれることはできなかったのだ。彼は古い農村と有機的にむすびついてしまっていた。だからプロレタリヤの都會的な面に反発してしまったのである。この都會的なものと農村的なものとの矛盾を、エセーニンはつひに克服することができなかった。これこそ彼に負はされた宿命的な悲劇であった。しかも彼は、自分の愛する農村の破滅すべき運命をはっきりと知ってみた。知っておりながら、それを棄てることができなかつた。「私は農村の最後の詩人」と歌った一行には、エセーニンの悲劇の深刻さが圧縮されている。そしてしかも彼は、自分とは相容れない都合的なものが、新しい世界が勝利を得ることを知っており、その世界においては自分は無用者であり、その世界の勝利は彼自身の死であることも知っていたのだ。この悲劇は、つひに彼エセーニンの自殺をもって終りをつげた。

 以上述べてきた時人たちは、結局十月革命を消極的にしかうけいれなかつた。それにたいし、革命を積極的にうけいれたものとしては未来派をあげることができる。
 未来派は、一九一二年にマヤコフスキイを中心として結成された、小ブルジョア的な反抗的な芸術家のグループである。過去のすべての芸術の否定が、その主要な眼目となつてゐた。十月革命はその反逆的な気分に合致した。彼らはすすんで新しい権力の傘下に馳せ参じた。
 この未来派の主張は、芸術は生産であるといふにあった。つまり芸術は、人生についての物語ではなく、人生そのものの建設なのであるといふのだ。したがって彼らは、生活の認識としての芸術を否定し、生活の建設としての芸術、行動としての芸術を主張した。そして大衆との直接的な結びつきの問題を提起した。──ここに未來派の肯定的な意義があった。
 しかし、その未來派の実際の活動をみると、彼らはその主張を現質の社会のなかにおいて実践せずに、書斎の中で実現しようとしたのであつた。その結果、彼らは現實から離反し、大衆からうきあがって、つひに単なる言葉の専門家になりおほせてしまったのである。
 はじめ未來派を主宰していたマヤコフスキイは、未來派が現實から離反してしまったとき、自分もそのグループと袂を別ち、やがてプロレタリヤ文學の陣営に入っていった。マヤコフスキイは、未來派のなかをさまつてゐるには、あまりに大きな存在でありすぎたのだ。マヤコフスキイのことについては、後でまた詳しく述べることにする。
(つづく)

(『歌ごえ』1号 昭和23年/1948年3月)

*上田 進(1907年10月24日 - 1947年2月24日)ロシア・ソビエト文学者。 早稲田大学露文科在学中に日本プロレタリア作家同盟に入る。本論考は没後の発表となるが、『歌ごえ』にその記載はない。

タチアオイ

歌ごえ

戦後の昭和23年に大島博光が創刊した詩誌『歌ごえ』の2号が見つかりました。腰原先生が提供くださいました。新しい詩運動を始めた当時の息吹が感じられる貴重なものです。

歌ごえ


<執筆者>
サカイ・トクゾウ(坂井徳三)
大島博光
遠地輝武・・・ナップ、『角笛』
奈切哲夫・・・『新領土』
鈴木初江
武内辰郎・・・『蝋人形』
鈴木正志
濱田初廣(浜田初広)・・・高知、農民詩人、国見善弘を歌った詩
小田英・・・上田、農民詩人
北條さなえ ・・・新日本文学、『角笛』
関口政男・・・『蝋人形』『角笛』
勝山勝三
鶴見甚三郎
徳永壽
濱田耕作
池田時雄・・・『新領土』
仁木二郎・・・ナップ
眞貝欽三・・・新日本文学
上田進・・・早稲田大学露文科卒、ナップ、上田
表紙 藤井令太郎
カット 宮城輝夫

歌ごえ


発行は昭和23年4月15日、編集所は長野市吉田町押鐘30番地となっています。
詩誌『歌ごえ』は3号までは発行しましたが、1号しか保存されていません。3号は手元にあると青山伸が『長野県年刊詩集1960』に書いています。博光のメモから3号は次のような内容と推定されます。

『歌ごえ』3号 目次(推定)

断章 その一 その二 その三 その四・・・壺井繁治
アンケート 詩と詩人とヒュマニズム 特集
預言者の任務・・・新島繁
封建的抒情の駆逐・・・岡本潤
働く者のヒュマニズム・・・浅井十三郎
民衆の歌ごえ・・・小野十三郎
叙事詩 とんきち二等兵・・・サカイ・トクゾウ
作品コンクール
ソヴェートの詩(三)・・・上田進



新しい朝の歌

(『歌ごえ』創刊号 1948年)
『歌ごえ』創刊号 目次

(巻頭)創刊のことば(新しい朝の歌)・・・大島博光
詩の前進のために・・・壺井繁治
ソヴェートの詩・・・上田進
轉形期の詩人・・・平林敏彦
ー作品─
 舊友・・・岡本潤
 方向性・・・高橋玄一郎
 一つの燈火は・・・高田新
 警察署長殿・・・穂刈榮一
 子守歌・・・岡村民
 牛車にゆられて・・・佐藤さち子
 おまえは・・・岡田芳彦
 コメをとられた女・・・長谷川尚
 山羊・・・武内利榮
 愛・・・藤田三郎
 ヨーカイ・・・近藤東
国鉄にあがる歌聲・・・鈴木茂正
長詩 鍛冶屋・・・ランボオ 大島博光譯
ランボオについてのノート(一)・・・大島博光

カット  宮城輝夫・大宮昇

昭和23年3月15日発行 
山川書店 長野市西長野二番地

博光は戦後の詩人としての再出発にあたり、詩誌『歌ごえ』を昭和23年に発行した。『歌ごえ』前後の北信地方の詩人の活動について青山伸が書いている。
  *   *   *
 敗戦翌年の二十一年一月、北信地方の地元や、疎界していた詩人たち、鈴木初江、岡村民、小出ふみ子、大島博光、穂苅栄一、篠崎栄二、田中聖二、武井つたひ、らが同人となつて、詩誌としては全国最初の発行である「新詩人」を出した。これらが現在まで十数年、百七十号近く続けられたのは、小出ふみ子の詩に対する強い熱情と努力にほかならず、敬服する。北信や県下ばかりでなく、同人会員は全国に及んで、ここから数多くの詩人が生れた。なお、そのほかNHKの詩の選者をはじめ、詩のグループやサークルの指導にと、小出の存在なくしては「新詩人」はありえないだろう。
 二十一年三月、更埴市の武井つたひ方で、北信詩人協会を結成し、季刊誌発行。それがどんなものであつたか詳でない。
 二十一年十月、大島博光、武井つたひ、高橋玄一郎、田中聖二、穂苅栄一らによつて、全信州詩人連盟がつくられた。現在の県詩人協会のさきがけであつたろうか。この連盟がどのような経果や盛衰をたどつて消えてしまつたのか、先輩詩人に聞きたいものだ。協会を運営発展していく上に参考となるだろう。
 二十三年一月、大島博光編集による詩誌「歌ごえ」が長野市から発行された。これには社会主義或は民主主義の詩人らが集り、自由、平和、独立の名のもとに、戦争中、うたう事は勿論、沈黙さえもゆるされなかつた、弾圧された詩人たちが、高らかにうたい始めた。
 この「歌ごえ」と大島博光の人間的魅力が相ともなつて、この北信地方の労組や地域サークルの詩人たちへの刺戟となり、大島を中心とした若い詩の書き手が力強く育つていつた、記念すべき詩誌とも言える。
 私の手もとには「歌ごえ」の三号一冊のみ残つているが、大島博光、浅井十三郎、壷井繁治、岡村民、植村諦、サカイトクゾーら現在も活躍している戦前からの詩人がいる。
 ちようどこの頃、新日本文学会長野支部結成の動きがあり、その運動のために東京から来た壷井繁治や、長野にいた大島博光などを囲んで、座談会を開いたのに刺激されて「高原文学」を発行した。詩人からは、穂苅栄一、立岡宏夫、井上志朗が編集同人となつて参加した。(以下略)

(『長野県年刊詩集』1960 ──戦後・長野県詩人の活動 北信地方/青山伸)

うたごえ
戦後、松代で出版した詩誌「歌ごえ」創刊号が見つかりました。

うたごえ
「歌ごえ」創刊のことば。当時の博光先生および取り巻く人たちの沸き立つ熱情があふれ出しています。
うたごえ
うたごえ後記

昭和23年3月15日発行とあり、今年は61周年になります。住所が松代町馬場町1407番地とあり、親友だった長谷川健先生のお宅の近所に住んでいたことがわかりました。