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戦争に反対する詩人の会

ここでは、「戦争に反対する詩人の会」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


『信州白樺』特集 反戦・反核を訴える詩人たち 目次
(1984年6月、上田市で行われた第4回反戦・詩人と市民のつどいの記録)

1 プロローグ「反戦・詩人と市民のつどい」まで…………(小崎軍司)
2 現代日本における反戦詩の役割…………三井為友
3 歓迎の言葉…………松本隆晴
4 朗読詩(1)指…………丸地守
5 上田自由大学運動の今日的意義…………小崎軍司
6 反戦平和への行脚の旅…………森田宗一
7 戦争と人間…………長谷川龍生
8 抵抗詩について…………大島博光
9 戦争と民主主義…………藤原定
10 峠三吉と「原爆詩集」…………増岡敏和
11 朗読詩2  小石…………赤羽恒弘
        知覧:…………新津利通
        列島のトルソー………松村好助
13 歴史を繰り返さないために…………長田三郎
14 エピローグ 参加者の個人的感想…………清野龍

(『信州白樺』61・62・63 合併号 特集「反戦・反核を訴える詩人たち」 1985年2月)

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『信州白樺』は宮坂栄一が編集発行した季刊教育誌。「時代の壁に抗して、ひたすらに教育の理想をめざした、その(大正デモクラシーの底流する信州教育の土壌に花ひらいた白樺運動の)ヒューマンな不屈の精神を現代に再現しようとするものにほかならない」と唱えた。
宮坂栄一の同志であった小崎軍司が提案して「長田新特集号」が発行されることになり、長田新の息子の長田三郎を宮坂栄一に引き合わせた。また、大冊だった「長田新特集号」に自分が事務局長としてまとめた「第4回反戦・詩人と市民のつどい」の全記録を小特集として加えさせた。

プロローグ
「反戦・詩人と市民のつどい」まで  (小崎軍司)

 ここに掲げる小特集「反戦・反核を訴える詩人たち」は、一九八四年六月十日に長野県上田市の上田市民会館で開かれた反戦・詩人と市民のつどいの全記録である。
 この全国集会は(戦争に反対する詩人の会)と同会会員で長野県に住む有志が中心になって構成された〈反戦・詩人と市民のつどい長野県実行委員会〉の共催によって設定されたが、実質的には殆ど後者により企画、推進された。一九八三年十月(戦争に反対する詩人の会)世話人会で、世話人のひとり長田三郎氏により上田市での計画が報告され世話人会より長田氏に一任された。以来、氏は会場の確保、講師との交渉など自費を投じて積極的に行なってきた。私もたびたび意見を求められ、相談にのり、また、当時の長野県詩人協会事務局長だった松村好助氏中村貞友氏も協力してくれた。

 「趣意書の手書きの草稿をコピーして、長野県内の詩人や文学サークルに毎日十通か二十通ずつ送る作業が続けられた。最初全く自信はなかった。しかし反響はすぐに表れた。元長野県詩人協会会長の北沢勝二氏からは激励の言葉と共にカンパが送られてきた。西山克太郎氏、腰原哲朗氏、高橋渡氏をはじめとして、中沢蔵人氏、藤岡弘造氏、前川政明氏、伊藤貞彦氏等県内外からつぎつぎと賛同と激励の言葉が送られてきた。」

 長田氏は「連帯の環を拡げて」と題し書いているが、実際、主催団体の組織づくりから手をつけなければならなかったので、大変だった。私は、既成の政党や政治団体、労働組合などの組織には頼らないようにした。苦労でも、既成政治団体や労組の号令などによってではなく、アメリカの極東における核戦略にまきこまれ、国民の医療、福祉、教育費などを切り詰め、戦争しても勝利する可能性など全然ない軍事費に多額な国家予算を使っている、きわめて危険な政治権力者の姿勢に対し、危惧の念を抱き、鋭く告発している市民各層の自発的な参加に期待した。 賛同者は日を追ってふえていった。一九八四年四月二十九日には(反戦,詩人と市民のつどい長野県実行委員会)の正式発足をみた。委員長に長田三郎、副委員長に中村貞友、松村好助、保坂富男、それにわたしが事務局長に選ばれた。この会の決定により集会の会場には、過去に(戦争に反対する詩人の会)が東京都内と横浜で開いた三回の「詩の朗読と講演・反戦詩人のつどい」を継承し、「第四回、詩の朗読と講演、云々」を掲示することや、同会会報の長野県版の編集発行、参加をよびかけるチラシの作成などにとりかかることになった。
 まず、「いま、私たちは核の脅威にさらされています。先端技術の発達に伴い米ソの核軍拡競争は激化しています。ヨーロッパでは「陸の核」の配備が増加され、アジア・太平洋地域においては、アメリカが「海の核」である対地上攻撃用巡航ミサイル「トマホーク」を搭載した軍艦をふやしています。「トマホーク」を載せて第七艇隊ニュージャージーや攻撃型原潜(SSN)が、横須賀や佐世保へ寄港しようとしています。この寄港は、両港が実質的に核戦略基地になることを意味します。
 唯一の被爆国に住む私たちは、これを傍観できません。政府は非核三原則の維持を言明していますが、核軍縮や核離脱政策に消極的であり、核廃絶は現実的でないなどといい、逆に軍事費だけの突出した増額を平然と行なっています。
 私たちは、詩の書き手として、限りなく人間の生命を尊びいとおしむ一人の人間として、わが国の核基地化に反対します。この集会が(詩)を媒介にして、人間の生命を尊ぶ人々の連帯の場となることを望みます。」というよびかけを印刷して広範囲に配布した。

 「戦争に反対する詩人の会会報・長野県版」には、殿内芳樹氏からつぎのような詩が寄せられた。

   クライシスを超えるために    殿内芳樹

 トマホークとSS20の交叉する
 谷間の列島でわれわれが
 かかなくてはならない詩篇は
 もうとっくにきまっている
 日ましに砂漠くさくなっていく列島で
 身辺雑記詩や不毛の幻覚詩や自己疎外詩を
 かくことはなんともはかない
 日常茶飯の些事を独断と自慰のメタフォアにすりかえるの もまたやたらにむなしい
 それを全く抹殺することはできないが
 いまは意識のまぐちをもっとひろげるときだ
 戦略詐術がグローバルに拡大し
 核の脅威がギザギザの波型を描く今日
 詩人は詩のオブジェクティブな行動領域に
 ひたすら挑まなくてはなるまい
 不戦と核廃絶はわれわれにとって
 まさに不可避の主題とならざるをえまい
 死の灰を拒絶する詩を
 政治的不純ときめつけた詩人がかつていたが
 いまはもう
 そんな閉ざされた詩人はひとりだっていない
 詩人の視座はすべて鋭く見開かれている
 崩壊と破滅の秒よみの金属音が耳染を裂く
 このどんづまりの世紀の底を脱けでるために
 われわれはわれわれにできることを
 われわれがぜひしなくてはならないことを
 どこまでもやり遂げなくてはなるまい
 このどす黒い奈落のクライシスを超えるために
 詩人は詩プロパーの使徒として
 自ら身を焼いては蘇生しつづける
 熾烈な行動をくりひろげなくてはなるまい

 すがすがしい響きを持ち、胸底にしみわたるすぐれた作であった。このほか広島大学名誉教授の森滝市郎氏、『みずき芽吹くとき』の作者の山口勇子氏、詩集『地方自治抄』で大資本による乱開発で荒廃していく地方都市の人々の心をうたい上げた依田竜治氏、共産党参議院議員の上田耕一郎氏、信州文芸誌協会会長で小説『人虫記』の作者林俊氏、『小熊忠二詩集』を持つ詩人小熊忠二氏、わだつみ会理事長の中村克郎氏からエッセイや詩が寄せられた。この編集・印刷を進行させながら六月三日夜、上田市中央公民館で拡大実行委員会を開催し、開催当日の会場設定、運営などを細部にわたって検討し、各委員の担当をきめたのである。
 いよいよ十日、会場の上田市民会館会議室は開会まぎわにはほぼ満員になった。

 私は「開会のことば」の中で上田市民会館の建つ場所は、第二次大戦末期には陸軍参謀本部の分室が置かれ、本土決戦に備えてさまざまな動きをしていた場所であり、ここから十キロ離れた東塩田小学校は仮兵舎になって中野重治がそこで終戦を迎え、加藤周一も当時の国立上田結核療養所(いまの国立東信病院)医師として同所で敗戦に遭遇したと述べた。
 峠三吉の青木文庫版『原爆詩集』の「解説として」のなかで、新聞も自由に読めなかった軍隊だったが、小学校の玄関さきに小学生が配達を受け持っている新聞が配給所からとどけられ、一時置かれているのを知って、分配の隙をみて読むことができた。「ある日の朝、広島に新しい型の猛烈な爆弾が落とされたことを知った。私たちは原子爆弾ということを考えたが、原子爆弾ときめることもできず、第一わたしたちは、原子爆弾とはどんなものかということも全く知らなかったのであった。続いてわたしたちはソヴィエト同盟の参戦を知った」と中野重治が書いていたのを思い出したからであった。
 一九六三年六月下旬、わたしは広島市の平和記念館を訪れた。峠三吉の没後三十年を記念する事業の一つである「峠三吉遺品展」が開会したつぎの日であった。会場には日記帳をはじめ、ポスターの原画や詩稿などが展示されていた。病弱のうちに被爆した身体で、よくもこれだけの文化活動ができたものだと、ひどく感心した。チラシ一枚刷るにも原紙切りから印刷までした時代が思い出された。会場で求めた『詩民』(広島詩人会議発行)十号の峠三吉特集号に寄せられた人々の文章にも心を打たれた。
 あのむごい目にあわされた日本人が、軍備拡張により、じわじわと戦争への道を走り出している現政権をなぜもっと批判し、軍拡政策をくいとめようとしないのか。トマホークを搭載しているかも知れぬアメリカの軍艦を港に自由に出入りさせておいて、わが国民の悲願にも近い北方領土の返還などを主張して、国民の感情に訴え反ソ感情をあおろうとする中曽根政権の姑息な態度に、政治的に動いたことのないわたしだったが、いい知れぬ危機感を持つようになっていた。そこへ長田三郎氏より、「第四回詩の朗読と講演、反戦詩人のつどい」を開くので協力せよとのよびかけがあり、すすんで参加したのである。
 だが、先にも書いたように、「詩人のつどい」だけにはしたくなかった。会場を見渡すと、保守政党を支持していたと思われる人々の顔も見えた。「四時間半をみなさんの力で、有意義な時間に創造して下さい」といって「開会のことば」を閉じた。

 以下はほぼ会の進行に従って当日の様子を再現した。講演筆記は私がまとめた上で固有名詞など不明な点のあるものについては講演者に目を通し、加筆補正して戴いた。朗読詩の一部は割愛せざるを得なかった。
 「会報」第四号(七月十五日発行)紙上で、元大正製薬KK常務取締役で詩人の土屋二三夫氏は「今戦争でないからという安心はない筈、詩が真実を書くのであれば、この会の目的を厳しく心しなければならない日々、反戦反核を草の根に全ての詩人の筆に」「遠方にもかかわらず率先して駆けつけられた方、また朗読に講演にご協力頂いた会員及び世話人の方々に、厚くお礼申し上げる次第であります」と書いておられたのをここに紹介しておく。
 目さきの暮らしをよくするため、子どもに学歴をつけるため、子どもの出世のため、近所づきあいでなんとなく子どもと、いろいろ理由を並べて、いいたいこともいわずにいたら、やがて私たち無力な庶民はどんな危険な運命をたどるかわからない。そんなことを自覚した市民がふえているからであろう。集会は予想以上にもりあがった。

(『信州白樺』61・62・63合併号 特集「反戦・反核を訴える詩人たち」 1985年2月)

もくじ



歓迎の言葉


(『信州白樺』61・62・63合併号 特集「反戦・反核を訴える詩人たち」 1985年2月)

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燕


(『反戦のこえ』1995年11月)

浜
反戦のこえ

1982年10月に発足した「戦争に反対する詩人の会」は2001年12月、詩集『反戦のこえ』第39号を最終号として発行し、解散することとなった。2002年1月27日、最終総会が神楽坂エミールにて開かれた。

反戦のこえ
反戦のこえ


戦争に反対する詩人の会 会員名(2001.11.1現在)◯印世話人

青井耿子   あおき あきら   あさ あゆむ   朝香進一   秋野さち子
◯浅尾忠男   ◯安達双葉   新井隆雄   ◯安在孝夫   飯島幸子
◯池田錬二   池田久子   ◯石川逸子   石川とみえ   泉渓子
◯いだ・むつつぎ   伊藤勝行   伊藤真理子   一宝実   稲木信夫
上田周二   うめだ けんさく   埋田昇二   ◯大河原巌   大島元
大島博光   大滝修一   大塚史朗   大橋晴夫   大広行雄
岡亮太郎   小川アンナ   小熊忠二   尾崎驍一   小野雄市
賀川幸夫   ◯門倉訣   金井廣   ◯金光洋一郎   河田房子
木村迪夫   ◯木村廣   北村愛子   ◯木津川昭夫   桑原浜子
くにさだ きみ   久保田穣   栗田文雄   呉美代   こうず まさみ
◯甲田四郎   ◯小坂太郎   古田島あい子   小鮒美江   小松寿子
崔龍源   ◯斎田朋雄   斎藤健一   斎藤幸雄   佐藤一志
佐藤惠子   佐藤三平   作田教子   篠原中子   島崎文緒
白石祐子   庄司捷彦   白倉洋和   杉山満夫   鈴木俊夫
◯鈴木初江   鈴木文子   鈴切幸子   ◯瀬戸應夫   瀬谷耕作
園田千萬男   祖父江拓史   高橋田一   高橋次夫   高橋英男
高畑弘   田上昌惠   滝村路鹿   竹内正企   立川千年
谷崎眞澄   玉置幸孝   津森太郎   ◯遠山信男   冨沢宏子
富澤キヨ   友永淳子   内藤健治   納富教雄   中正敏
仲玲央   ◯長岡昭四郎   中原澄子   中村貞友   中山公平
成瀬峰子   西沢泰子   野田寿子   萩谷早苗   長谷川節子
長谷川健   ◯羽生康二   橋本富子   橋爪文   浜田照子
林ひろみ   原圭治   馬場晴世   坂東寿子   日高のぼる
檜山三郎   福田美鈴   古屋志づゑ   ほかり きよかず   牧野孝子
◯増岡敏和   松浦郁   丸山勝久   美見昭光   ◯三木昇
三井庄二   満江ふさ   緑川ふみ   宮崎清   宮前利保子
宮本勝夫   森田和美   ◯森田進   森田タカ子   森原直子
柳生じゅん子   柳澤澄   ◯山岡和範   山県衛   山越敏生
◯山城百合   山田隆昭   山田典子   山田茂里夫   山野なつみ
山本しげひろ   ◯山本隆子   ◯鎗田清太郎   横山照夫   ◯よしかわ つねこ
吉田朗   吉原つぎお   和田攻   ◯わたうち ちふみ

 池田錬二さん略歴

 1919年、長野県下伊那郡座光寺村(現在飯田市に合併)に生まれる。飯田中学、第一早稲田高等学院文科から早稲田大学法学部を、1942年戦時特令のため9月繰り上げ卒業。徴兵検査第二乙種で現役入隊免除、日本通運株式会社に入社、札幌支社旭川支店勤務、7カ月後札幌支社に戻る。1944年1月召集、東部1991高射砲部隊入隊、しばしば空襲にあう。1945年東京都拝島で敗戦、11月米軍に陣地を引き渡して帰郷、翌年5月再度渡道、日通札幌支社に復職、日通労働組合青年部の活動で組合運動に目覚める。1947年7月、日通を辞め教育の道へ。下伊那郡山吹村新制中学をふり出しに、上郷中学、木曽山林高校、桔梗ヶ原高校(定時制)、松本須々ヶ丘高校と5校35年勤めて、1982年退職。

 1964年、県歴史教育者協議会結成、32年間委員長。同年松本労演創立に参画、同委員長8年。平和委員会、日本と中国友好協会ほか多数の平和、大衆運動に力をそそぐ。
 文学運動では短歌誌、空穂主宰の「槻の木」、近藤芳美主宰の「未来」に属し(「槻の木」「未来」現在退会無所属)、「詩人会議」「信州詩人会議」「戦争に反対する詩人の会」「民主主義文学同盟」同「松本支部」等に所属。

 著 書
「長野県の教育に夜明けを」1・2集、「甦れ平和教育!」
 文学関係では青春歌集「初花」「愛と歴史の十字路」前・後編、連作詩集「蝗軍」1・2集、「抵抗の系譜」、妻との共同詩集「明日への二重唱」、合同歌集「群芳」「河」「嶺」「伊那」短編小説集「戒名なき墓標」「雪嶺を越えて」、合同詩集「21世紀へのメッセージ」詩人会議編、反戦詩人の全編「反戦の声」15周年記念集、合同詩歌集多数。
 歴史関係では「おはなし歴史風土記・長野県」「長野歴史散歩」「僕らの街にも戦争があった」「戦争を掘る」ほか多数。
 他に日記がわりの個人ミニコミ誌「露滴山房おりおりの記」を月刊12冊、季刊4冊年16冊、77号まで出し継続中。

<『小説「二・四事件」 赤いホオズキ』(1996年 章文館)より>

*1987年6月21日、第十回「反戦・詩人と市民のつどい」(松本市あがたの森文化会館ホール)で実行委員長。

池田錬二さん

反戦のこえ
反戦のこえ
反戦のこえ
反戦のこえ
反戦のこえ

「戦争に反対する詩人の会」のあらまし

 「戦争に反対する詩人の会」は東京の鈴木初江が中心(代表委員)となって活動した全国組織で、1982年10月に発足し、2002年1月に解散した。100人でスタートしたが250人前後の規模になっていた。

 「詩人も反戦の声をあげなければならない」という鈴木初江の音頭で1982年3月、4月と準備会がもたれた。賛同者が増えて、急速に運動はふくらみ、5月に第1回発起人会が狛江市民センターで開かれた。8月に結成を呼びかけるアピールが発表され、10月に結成記念集会が狛江市市民文化会館で開かれた。
 年2回「反戦、市民と詩人の集い」を全国各地(東京、横浜、千葉、春日部、前橋、水戸、山形、秋田、長野、名古屋、岡山など)で開催し、当該地域の詩人たちの力を集めて成功させた。また詩論・詩史研究のための研究集会などを開いた**

 活動の重要な柱として、パンフレット詩集『反戦のこえ』を年2回定期刊行した。これは朗読会のテキスト等とした使用され、市民の間に浸透・普及することを願って作られた詩集で、B5の大きさ、50頁前後だった。

 1995年11月にアンソロジー『戦後50年 詩集 反戦のこえ』を土曜美術社出版販売から刊行した。これはパンフレット詩集『反戦のこえ』を集大成したもので、139人の詩人が登場している。編集委員は鎗田清太郎編集委員長以下、大河原巌、増岡敏和、山岡和範、木津川昭夫、甲田四郎、森田進、わたうちふみ、山本隆子の9名。

 パンフレット詩集『反戦のこえ』は2001年12月発行の第39号が最終号となった。そして2002年1月27日、最終総会が神楽坂エミールにて開かれた。 鈴木初江の前年からの病気臥床が解散の原因と思われる。(2002年6月、鈴木初江は90歳で永眠。「私は反戦に命をかけたいのよ」と言いつづけていたという
 19年間、全国の詩人の力を結集して反戦の声をあげ、国家機密法など軍国主義復活の動きに反対して運動してきた意義は大きい。

* 山城百合「自由と愛の詩人──鈴木初江さんを悼む」(『稜線』78号 2002年9月)
** 鎗田清太郎「『戦後50年 詩集 反戦のこえ』あとがき」(1995年11月)

反戦のこえ
「詩と平和を考えるフォーラム──第21回戦争に反対する詩人の会・群馬集会」は1992年11月1日午後、前橋・婦人会館で開かれました。会場は予想を大きく超える170人もの参加で大盛況となりました。
久保田穣さんと萩原由美子さんの司会で、斎田朋雄実行委員長の挨拶から始まり、大島博光が「第二次大戦下のフランスの詩と詩人」、鎗田清太郎さんが「戦争を考えること」と題して講演を行いました。

戦争に反対する詩人の会

詩の朗読を関口将夫、門倉詇、平石正子、笠原三津子、増岡敏和、大河原巌、森田進、佐藤恵子、仲沢康雄、斎田朋雄の諸氏が、詩の暗唱を遠山信男さんがしました。
戦争に反対する詩人の会
アトラクション・合唱として丸山亜季先生ピアノ伴奏により群馬音楽教育の会の皆さんが「ぼくはパルファン川のうたごえをきく」「春がきたら」「自由」「薔薇と木犀草」(以上大島博光詩・丸山亜季作曲)と組詩「スーホの白い馬」(久保田穣詩・丸山亜季作曲)を合唱、会場は熱気に包まれました。
群馬集会アピールを採択したあと、本部・代表世話人の鈴木初江さんから盛会を喜ぶメッセージがあり、さいごに松井保さんの閉会の辞で幕を閉じました。

戦争に反対する
実行委員会は斎田朋雄(委員長)久保田穣(事務局長)新井隆雄、大塚史朗、尾高正敏、斎藤守弘、萩原由美子、仲沢康雄、原迪代、平石佳弘、松井保、砂長志げるの諸氏。
新井隆雄さんと斎藤守弘さんが編集した会報には二人の講演の要旨、参加者の感想文、アンケートの回答、実行委員の声などが掲載されて、集会の熱気を伝える貴重な記録となっています。
一九八七年に松本で開かれた「反戦・詩人と市民のつどい」についても長田三郎氏が続けて書いています。
  ◇    ◇    ◇  
 上田集会から三年後の一九八七年六月二十一日、松本市あがたの森文化会館ホール(旧制松本高等学校跡)で、第十回「反戦・詩人と市民のつどい」が開かれ、県内外の詩人と市民百三十余名が参加し、東京・宮城・神奈川・埼玉・愛知からも駆けつけた。松本は木下尚江を生み、松高事件に代表される反戦・抵抗の伝統ある土地である。金子修氏と渡辺隆美子さんの司会で、池田錬二実行委員長が開会を宣した。
 増岡敏和氏は「峠三吉の原爆詩集について」と題して、峠三吉が、原爆によって痛めつけられながらもその中から人間が起き上がってくる未来への展望を示したこと、病床で最後に書いた「人間をかえせ」の詩は、死者への鎮魂歌ではなくて、人間を愛するが故に人間に敵対するものを告発する詩として今も生きていると話された。
 大島博光氏は、松本が木下尚江、永田広志、高橋玄一郎、清沢冽らの先駆者を生んだレジスタンスの土地であることを紹介し、戦前のプロレタリア文化運動が弾圧されてモダニズム芸術至上主義が中心だった当時を回顧しつつ、今また人間の知性や判断力を奪い人間を人間でなくさせようとする動きが復活し、再び戦争への道を歩もうとしていることを指摘された。そして自作の詩「核戦争のあとには」を朗読し、核戦争後の廃墟にはだれも生き残らない、ぜひとも核戦争を防ごうと力強く訴えられた。
 殿内芳樹氏は「反戦詩雑感」と題して、長尾一臣の詩を紹介し、詩の作者と読者とは縦の関係ではなくて水平の関係に立つものであり、作者が読者に結論を押し付けるのではなくて読者が受け容れる余裕が必要であること、頭で解るだけではなくて胸で解る感動が大切であり、この感動が行動の原動力になることを力説された。そして子どもは、余分なことは言わずに宝石の部分だけを言うから感動的であり、子どもの詩の中にこそ失われた詩の原点があると話された。
 森田進氏は「詩人にとってのアジア」と題して、日本の近代詩現代詩はヨーロッパに啓発され、その関連において生きてきたし、アジアの詩といえば中国の古典詩を教養として取り入れてきただけで、日本の詩は、欧米人の眼を持った、日本語で書かれた欧米の詩であり、美の表現が社会的現実への関心を上回っていると話された。一方韓国では、叙情詩人といわれる人たちも、現代の政治的状況を踏まえて書いており、かつての侵略者日本に対して厳しい拒否の姿勢をとっていること、われわれは今後アジアの詩人たちとの交流の場を拡げ、大衆と結びついたアジアの詩人たちと共通の苦しみを分かち合えるように努力すべきではないかと訴えられた。
 西山克太郎氏は「高橋玄一郎をめぐって」と題して、吉田一穂が高橋玄一郎を高く評価して「周囲の若き世代の精神の師表と慕われている人」と書き、佐藤惣之介も玄一郎に宛てたはがきに「あの山に雪来たら人恋し」と書いていたことを紹介され、若い頃マラルメの影響を受けた玄一郎が、ソーシャルな面に目覚めていき、リアン編集人として昭和十六年に検挙された戦時を回顧しつつ、スパイ防止法が復活すれば再び大変な時代が来ることを指摘された。
 地元の音楽集団ムジカコンパスの主宰者狭間壮氏は、池田久子さんの詩を朗読し、青木資子さんのピアノ伴奏で反戦の歌を独唱され、聴衆の胸に染み込む感動を呼びおこした。詩の朗読は、長野県関係では下諏訪出身の武井京氏、上伊那の細田伊佐夫氏、塩尻の浅井充氏、長野の穂刈栄一氏、戸隠の和田攻氏、松本の六井洋子さん、伊那の原久子さん、松本の伊藤智子さんが中学一年の令息たかし君の詩を代読、県外から参加した矢野克子、木津川昭夫、いだむつつぎの諸氏、それと長田三郎であった。
 土屋二三男氏から、詩集『反戦のこえ』十集までの編集発行の経過と会の歩みについて報告があり、綿内千文氏が提案した国家機密法反対声明が全員の拍手で採択され、実行委員会事務局長の赤羽恒弘氏が「本州の中心にあたるこの地に全国から結集した反戦平和の願いが、全地球を覆っていくことを確信する。」と力強く閉会のことばを結んだ。
 記念レセプションでは鈴木初江さんが、はじめての抵抗組織として、なぜ反戦を呼びかけたか──戦争責任の追求の弱さから核状況下の危機を招き、「戦争に反対する詩人の会」を結成するに至った経過を報告された。松代の長谷川健氏が自作の詩を朗読され、病気で欠席された長野の小熊忠二氏の詩を長田三郎が代読した。大町の上原章三氏、東京から駆けつけた長岡昭四郎、広井三郎、内藤健治の諸氏と、広島出身の山岡和範氏のスピーチがあり、この地の抵抗の歴史を継承し発展させようと誓い合って、長野県詩人協会副会長の柳裕氏の挨拶で会を閉じた。
 「戦争に反対する詩人の会」は全国組織で、九十九人で発足したが、五年半後の今日、約二百四十五人、松本の次に昨秋十月十八日は名古屋で第十一回が開かれ、次の第十二回は今年の六月五日東京早稲田での開催が予定されている。(一九八八・二・十一)
(長田三郎「戦争に反対する詩人の会──長野県における運動の軌跡」『長野県現代詩史』かおすの会発行)
  ◇    ◇    ◇ 
この集会では増岡敏和さんに続いて大島博光が講演し、詩「核戦争のあとには」を朗読しました。西山克太郎、長岡昭四郎、鈴木初枝の諸氏に、松代から長谷川健さんが参加していることがわかりました。
 
松本にて
博光が「抵抗詩について」を講演した上田での「戦争に反対する詩人の会」の様子を長田三郎氏が詳しく書いています。
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・・・上田城址公園の新緑がむせかえるような芳香を放っている一九八四年六月十日の午後、市民会館講堂で第四回「反戦・詩人と市民のつどい」が開かれた。地元長野県をはじめとして、東京・水戸・静岡・京都など各地から駆けつけた詩人と市民たち百六十余名で埋まった会場は、静粛ではあったが溢れるような熱気に包まれていた。会場設定と進行を小崎軍司氏が担当して「開会のことば」を述べ、前長野県詩人協会会長の松本隆晴氏が「歓迎のことば」を述べ、松村好助氏の司会でプログラムが進められた。
 富士見出身で創価大学教授の三井為友氏は、特別講演「現代日本における反戦詩の役割」の中で、北ボルネオの戦線で六〇〇キロの死の行進に参加した自らの戦争体験を回想し、信州には馴染み深い尾崎喜八の戦争中の作品に触れて、前の戦争に対する痛切な反省から出発しなくてはならないこと、日本全土が焦土と化するかも知れない今日の切迫した事態の中で、戦争を食い止めるためにすべての詩人が叫ばなくてはならないと訴えられた。元家裁判事で弁護士の森田宗一氏は「反戦平和への行脚の旅」と題して、アメリカ大陸横断の平和大行進に参加し、ガンジーやタゴールの息吹を求めてガンジス河のほとりを巡礼した行脚の旅を回顧し、アメリカインディアンの聖地でウラニウムを掘らせないために反戦平和の闘士として立ち上がった詩人ジョン・トゥルーデルの作品を紹介され、その朗読が録音テープで会場に流された。
 長谷川龍生氏は「戦争と人間」と題して、明治以後の流行歌における音階変遷の歴史を辿り、小泉文夫の著書に触れて、演歌師が歌う流行歌の中に人々が気づかないうちに軍国調が復活する危険性を指摘された。大島博光氏は「抵抗詩について」と題して、戦争中『蝋人形』誌にロシア十月革命を讃えたアラゴンの訳詩をローマ字で載せたことを回顧し、アラゴン、エリュアールらのランボー、ユゴー観を取り上げてフランスの抵抗詩の歴史を紹介しつつ、反戦詩への自らの姿勢を表明された。
 小崎軍司氏は「上田自由大学運動の今日的意義」と題して、「一九二一年に開設され、土田香村、高倉輝、三木清、安田徳太郎らを講師として迎えた輝かしい伝統をもつ上田自由大学が、十五年戦争突入とともに跡絶え、受講者たちも体制に協力していった歴史を辿り、日本が核戦略基地になろうとしている今日、時流に迎合せず核戦争を食い止めていきたいと訴えられた。藤原定氏は「戦争と民主主義」と題して、民意は反映されず天皇の統帥権だけが強調された前の戦争を回顧して、戦争になれば民主主義はかならず崩壊すると力説された。増岡敏和氏は「峠三吉と原爆詩集」と題して、朝鮮戦争の最中に峠三吉を中心に反戦詩集『われらの詩』を発行した当時の回想を、広島でいっしょにサークル活動をした仲間のひとりとして話された。
 作品を朗読した十一名のうち長野県からは、諏訪の西川博彬氏、松本の赤羽恒弘氏、佐久の新津利通氏、戸隠の和田攻氏、川中島の浜田順二氏、地元上田の山崎庸子さん、松村好助氏、県外からの参加者では、矢野克子、笠原三津子、岩本敏夫、丸地守の諸氏が、それぞれ自作の詩を全身の力を込めて朗読した。長田三郎は「閉会のことば」の中で、松本連隊を描いた自作の詩を朗読した。(以下略)
(長田三郎「戦争に反対する詩人の会──長野県における運動の軌跡」『長野県現代詩史』かおすの会発行)
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この集会が全国規模のもので、活況を呈し内容も大変充実していたこと、多数の長野県の詩人たちが協力したこと、松本隆晴が前長野県詩人協会会長として「歓迎のことば」を述べたことがわかりました。