対談

ここでは、「対談」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


昨日のうたごえ喫茶で吉田隆子作曲の「君死にたもうことなかれ」を歌った池田夫人が「中央合唱団一期生の壇上さんから教わった、中央合唱団にはチェロ奏者の井上頼豊も指導に来たがとても厳しくて背筋を正した」とコメント。ご主人の池田達生さん(アコーディオン奏者)は「井上頼豊はカザルスが日本に来た時、公開レッスンでただ一人ほめられた、そのことが頼豊と大島博光との対談記事に書いてある」とつけ加えました。その対談記事とは「三人のパブロ」(1989年1月6日から9回連載)で、自由と平和を求めた三人の偉大な芸術家パブロ・ピカソ、パブロ・カザルス、パブロ・ネルーダについて音楽家と詩人が語り合っていて興味深いものです。

三人のパブロ
 一時的なものでない世界人民との連帯

 大島 ギジェンさんは、「詩人としての私にとって最も大きな意味をもっているのは『ソンのモティフ』(一九三〇年刊)です」といっておられますし、〝ソン″という形式を大事になさっていますが、〝ソン″というのは一言でいうとどういうものでしょうか。
 ギジェン 〝ソン″はキューバの一番ポピュラーな踊りの音楽のリズムです。詩を聞いたときに、その踊りと直結していく、つまり、踊りをイメージして、体に訴えて行動をよびさますものです。
 大島 ギジェンさんは俳句にたいへん影響をうけられたと聞いていますが。
 ギジェン 影響をうけたというより、わたし自身俳句をかいてみたいと思っています。でもそれはまだ完成されていません。わたしなどよりも、ファンタグラーダというメキシコの詩人が日本にきて俳句を学んでいます。かれは俳句をつくることに生涯のかなりの部分をそそいだ人です。彼の詩は、スペイン語で書かれた詩のなかで、日本の俳句の精神を一番保ちつづけた詩だと思います。
 大島 あなたは詩をかくとき、どういう点が大切だと思いますか。
 ギジェン 一番重要なのは才能を持つことです。わたし自身のかいたものの中で気にいっているのは一九三〇年から三一年にかいたものです。いまかいているもの──つまりそれ以後四十年後にかいたものを比べてみると似ているものもあるが、芸術的観点からみるとその頃かいたものの方が好きです。
 そして、わたしは詩をかくうえで大切なのは詩的な印象・感興がわいたときにかくということだと考えています。
 大島 ベトナムのホー・チ・ミンをうたった詩がありますね。あれもたいへんいい詩ですね。
 ギジェン わたしのその詩の根本としてホー・チ・ミンの詩をわたし自身が受けいれて書いたということです。非常に短くて、単純な詩ですが、深みをもったいい詩だと自分でも思っています。そのように読んでくださればたいへんうれしいです。
 大島 べトナム人民のたたかいについてどういうふうに思っていらっしゃいますか。
 ギジェン 人間性のためにたたかった人民のたたかいだと思います。
 大島 チリ人民との連帯、団結のたたかいについてはどう考えておられます。
 ギジェン キューバ人民のチリ人民への連帯活動は一時的なものではありません。その根本にあるのは兄弟であるラテン・アメリカ人民への連帯の精神であり、ピノチェット独裁政権へのたたかいを支援するものです。
 大島 日本の詩人たちもこれまでベトナム人民やチリ人民のたたかいをはげます詩をつくって奮闘してきましたが、これからもー層世界の人民のたたかいをはげまし、連帯を強めるために奮闘したいと思います。
 わたしたちはラテン・アメリカを代表する偉大な詩人をむかえて、光栄に思っています。またぜひお会いしたいと願っています。
 〔タイトルのカットはギジェン氏の自筆〕

ギジェン

 余 録           大島博光

 わたしたちはいま、麻布のプリンス・ホテルの一室に、詩人ギジェン夫妻といっしょにテーブルをかこんでいる。新緑の映える庭園には、まだ桜の花が咲き残っている。そしてわたしの前に、丸くずんぐりと肥ったギジェンがいる。彫刻家なら、その顔を彫像にほりたいという衝動に駆られるにちがいない、そんな彫りの深い造型的な顔だ。黒くもない。白くもない。むろん黄色くはない。わたしはムラート(黒白混血)のギジェンを見ている。そうだ、青年時代、人種差別に反対し、アメリカ資本の長靴や鞭とたたかって、母国を追われたギジェンがそこにいる。一九三七年、スペイン人民が国際ファシストどもと血まみれになって戦っていた時、さっそく支援にかけつけ、スペイン戦争の火と煙のなかをくぐり抜けてきたギジェンがそこにいる。一九五一年、ベルリンでひらかれた世界青年平和友好祭で、ナジム・ヒクメット、パブロ・ネルーダとならんで写真に映っていたギジェンが、そこにいる。そして祖国キューバが解放をかちとったとき、

 きのうの文なし太郎のおれが
 きょうはなんでも持ってる
 物もち太郎だ

 と、よろこび歌った詩人がそこにいる。
 ごっつくて、ちょっといかめしいこの顔が、ふと上機嫌になると眼を細め、厚いくちびるでユーモアを飛ばし、無邪気な童顔をほころばせ、底ぬけの善良さ、人間的なあたたかさをそこにのぞかせる。それは、キューバの砂糖キビ畑を吹きぬけてきた風のあたたかさを想わせる。そして、言いたいことは、それを率直簡潔にずばりと言ってのける詩人は、七十六歳になっても、まるで子供のように無邪気であり、なんの飾りけもなく、率直であった。老詩人は、その席で日本キューバ友好協会から贈られたセイコーのデジタル腕時計を、さっそく腕に巻いて、うれしそうに子供のように夢中になって、いくどとなく、その腕時計に眼をやっていた。やがて、つぎのような冗談を言って、わたしたちみんなを笑わせた。
 「わたしが腕時計をしげしげと見るのは、わたしに時間がなくて、あなたがたを急(せ)きたてるためではなくて、いただいたこの時計がたいへん気に入ったからです・・・」

*最後にギジェンの詩を3篇掲載

<『文化評論』1978年6月号>
対談・人間賛歌ギジェン

ラテンアメリカの代表的詩人と日本の詩人が語る革命・連帯・詩・人生
                            ニコラス・ギジェン 
        大島博光 

 廃墟を回復させた人間の力

 大島 わたしたち日本の詩人は去年来お待ちしていたギジェンさんを迎えることができてとてもうれしく思っています。ギジェンさんは日本ははじめてだと思いますが、いかがですか。とりわけ広島には特に来日前から訪れてみたいといっておられたそうですが。
 ギジェン 広島を訪れて、一口でいえないくらい複雑な気持になりました。廃墟のあとをみて、非常に悲惨なことがおこったのだという思いがわきました。ナチスも同じように残虐なことをしたのです。が同時に、その廃墟を回復させた人間の力に感動しました。つまりああいう悲惨なことに出会っても、新しい生命は芽ばえるのだという感動がわいたのです。
 その他、京都や大阪でお目にかかったたくさんの方がたや、多くの詩人、文学者、キューバと日本の友好と連帯を願う人びとと出会って、わたしは、いま、たいへん日本を去りがたい思いがしています。
 大島 日本のたべものはどうでしたか。
 ギジェン 刺身はおいしかった。でもわたしより妻の方がもっと好きだといっています。天ぷらも食べたし、大阪ではカキ鍋も食べました。
 大島 ではもう一度日本にぜひきて、また食べてください。
 ギジェン 必ずもどってきます。(笑い)
 大島 ギジェンさんは少年時代をどんなふうにすごされたのですか。
 ギジェン わたしは、中学卒業後、父の経営するカマグェイの新聞社で印刷工として働いていました。そして働きながら高校を卒業し、そのあとハバナ大学で法律を勉強しました。でも一年で法律の勉強をやめてしまい、新聞記者として働くようになりました。
 カマグェイはわたしの生まれた土地ですが、ここはキューバで三番目に大きい都市です。
 大島 ギジェンさんの「テンゴ」(おれは持ってる)という詩にはキューバの人民の生活が描かれていると思いますが、ギジェンさんの少年時代のキューバの人民の生活はどんなものだったのでしょう?
 ギジェン 「テンゴ」という詩を読めばある程度、民衆の生活はおわかりいただけるかと思いますが、文化などはすべてお金のある一部の人に握られて、貧しい人には何も与えられていなかった。

 スペイン内乱に参加できた誇り

 大島 ギジェンさんは、一九三七年スペイン動乱に際して、「スペイン」というすばらしい詩を書いておられます。私たちはたいへん感銘深くその詩を読んでいます。そうしてあなたのこの詩や、ネルーダの詩集『心のなかのスペイン』が、その後のフランスの抵抗詩に大きな影響を与えたといわれています。その頃の思い出に残るエピソードをお話いただけませんか。
 ギジェン 一九三七年に文化を守るための芸術家会議の招待をうけてマドリッドに行きました。マドリッドに行くまでにカナダのケベックを通り、パリに行き、やっとバルセロナに入ったところでナチスにあと押しされたファシスト軍の爆撃を受けてしまいました。
 大島 そのとき、アラゴンやネルーダとお会いになったわけですね。
 ギジェン アラゴンとパブロ・ネルーダとはマドリッドで会いました。もうその頃にはピカソもきていましたし、世界中の重要な文化人が集まっていました。
 その文化を守るための会議で、政治的テーマが話題にのぼりました。そこでスペインの人民がなぜフランコ独裁政権に対してたたかっていかなければならないかがよく理解できました。
 そこにはヘミングウェイもきていました。わたしはキューバにいたときからへミングウェイの友だちでしたが、へミングウェイは、電話局のそばに住んでおり、通信機関はよく爆撃の対象となりますので何度か爆撃を受けましたが、幸いなことに彼の家は壊されなかったということでした。
 その会議ではスペインの大詩人アントニオ・マチャードが議長をしていたのですが、そのマチャードがいったすばらしい言葉は、その会議のスローガンにもなりました。
 さきほどもいいましたが、アラゴンをはじめ世界の著名な詩人たちが参加したこの会議では決議がおこなわれました。その決議は世界中で協力してフランコ主義とたたかっていこうということでした。これは、ラテン・アメリカの同じスペイン語を話す民族にとってはたいへん重要なことでした。この決議をしたことが自分たちの国の政治を変えていく重要な力になったことはまちがいありません。
 そのころのキューバはちょうどバチスタ独裁政府とのたたかいがおこなわれていたときでした。スペインのなかでスペイン人民の自由のためにたたかうことは、同じような独裁政権下で苦しんでいるキューバ人民のためにたたかうことでした。スペインのためのたたかいは、キューバのためのたたかいでした。ですから、そのときキューバの多くの人たちがこのたたかいに加わりました。
 その頃、わたしはたくさんの共産主義者たちと協力し行動をともにするようになっていたのです。そういうなかでわたしはついに共産党に入党することを決意したのです。
 その後わたしは船でキューバに帰りました。キューバのサンチャゴに着いたとたんに、わたしは警察の手で弾圧を受けました。それはスペインの内乱に加わって人民戦線を支持してたたかった人間すべてに対しておこなわれたキューバ独裁政権の弾圧だったのです。つまりキューバについたとたんに、それまでスペインでスペインのためにたたかっていたことが今度はキューバのためのたたかいに変わったのです。
 わたしはいま、その歴史的なスペイン内乱のたたかいに参加できたことは非常に誇り得べきことだと思っています。
(つづく)

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 ニコラス・ギジェン氏略歴
 一九〇二年、キューバ中部の都市カマグェイに生まれる。父はリベラリストで、カマグェイ市とハバナ市で二つの新聞社を経営していたジャーナリスト。ギジェンが詩を書きはじめたのは中学一年頃からだが、それは詩人でもあった祖父(パンチョ・ギジェン)の影響をつよくうけて育ったからだという。中学卒業と同時に父の経営するカマグェイの新聞社で、印刷、製版の仕事に従事。一九二〇年ハバナ大学で法律を学び、ふたたびカマグェイに帰って、詩人を志す友人たちと同人誌『リス(ゆりの花)』を発刊。また雑誌『カマグェイ人』の編集を担当。その頃の詩はニカラグワの詩人ルベン・ダリオの影響をつよくうけたモデルニズムの作風のものが多い。またカンポマモール、ベッケルなどもギジェンら青年たちにつよい影響をあたえていた。一九二二年『心臓と脳髄(こころと想念)』という〝解剖学的な書名″の詩集を発刊。これがギジェンの処女作詩集である。
 一九二六年ハバナに移り、内務省の書記として勤務、かたわらハバナの有力日刊紙寄稿をつづけ、次第に世の注目を浴びる。一九三〇年『ソンのモティフ』、三二年『ソンゴロ・コソンゴ』と二つの詩集を刊行、異常な反響をよぶ。
 一九三三年のマチャード政権崩壊後はジャーナリスト、詩人としての活動に専心。日刊紙「インフォルマシオン」の編集、週刊誌『エル・ロコ』の編集長。とくに人種差別問題、社会的不正にはげしい怒りの論陣を張る。共産党(人民社会党PSP)への接近は一九三七年正式に入党。週刊誌『レスメン』の編集委員、月刊誌『メディオディア』の責任者(一九三六〜三九年)、日刊紙「オイ(今日)」の編集者(一九三八〜五三年)として国内、国外の出版物に執筆、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの諸国を訪問。その著書は世界のほとんどの国ぐにで刊行されている。
 人民社会党の中央委員であったことと、その著作が革命的であったことで、時の政府に何回か逮捕、投獄され、ついに国外亡命を余儀なくされる。亡命中の一九五四年、レーニン国際平和賞を受賞、世界平和作家会議国際委員。革命と同時にキューバに帰国、一九六一年キューバ作家芸術家同盟(UNEAC)議長。一九七六年、キューバ共産党中央委員。
(ギジェン氏歓迎実行委員会パンフより)
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<『文化評論』1978年6月号>

海外誌

  ランボオの前に出会ったエンゲルスの著作

奥田 フランス語の勉強は、大学に入られてからですか。
大島 そうだよ。中学時代は英語だけれど、今から思うと、その頃ぼくらが学んだ田舎の中学校には、いい英語の先生がいたんだね。ラフカディオ・ハーンの『Kwaidan(怪談)』を習った。
奥田 ぼくらも、中学時代に教わりました。
大島 そのときぼくは、こういう外国文学を翻訳するのはいいな、と思った。そういういろんなことが、ぼくを外国文学に向かわせる大きな呼び水というか、きっかけになっているような気がする。
奥田 そんなハイカラなことなどほとんどない家柄で、フランス文学をやるといったとき、お父さんの反応はいかがでしたか。
大島 もうなんにも言わずに、お前の好きなことをやれ、と。それは、ほんとうにありがたかったね。まあ、フランス文学をやって食えなくて将来乞食をしようと(笑い)、お前の世話になるつもりはない……。だから、好きなようにやれ(笑い)というわけさ。
奥田 その当時、文学というのは、道楽者のやることですものね。
大島 そうさ。おまけに外国文学だからなお悪い(笑い)。でも、今のように、教育を見栄や投資としては考えていないから、何をしていようと生きてさえいればいい(笑い)、という考えだった。
奥田 年表には「生家は自作の小地主」とありますが、その当時に息子を東京の大学に入れるくらいですから、相当大きな家だったのでしょう。人も何人か使っていらしたのでしょう?
大島 人は使っていたけれど、そんなたいしたことはないよ。
奥田 大島さんは、ご長男じゃありませんか。
大島 そうなんだけど、あとは心配するなというわけ(笑い)。
奥田 中学時代から文学に関心をおもちだそうですが、その頃は他の科目も熱心に勉強されましたか。
大島 いやあ、中学時代はクラスでもビリから数えたほうが早いくらい(笑い)悪かった。というのは、もうその頃からペシミズムに影響されて、ドストイエフスキーなどを読み耽って、学校の勉強は意識的にしないのだもの。落第さえしなければいいだろう、というハラだからね (笑い)それでも中学を出てから、こんなことをしていてもいけない、学校へ行って勉強したいなと思って、それから、受験勉強を始めたんだ。それで早稲田を受けたとき、ぼくよりずっと席順が上のはずの同級生が落ちて、ぼくの方が入った(笑い)。
奥田 それだけ受験勉強を一生懸命にやったということですか。
大島 一年浪人して駿台予備校に通い、それなりにはやったね。
奥田 それで、大学に入ってランボオにめぐり合うことになる。
大島 そう。本当は、その前にエンゲルスにぶつかっているんだ。それは予科、今でいえば高等学校時代だね。読書研究会で『空想と科学』や『共産党宣言』などをいろいろ読んだ。三・一五事件(一九二八年)の翌年あたり、学生運動の最後の高まりを見せた頃で、そんな運動をしないものは学生じゃないみたいに思われていた。
奥田 それで、ビラや『戦旗』などの配布を手伝って捕まり、一か月近くも留置場に入れられたわけですね、
大島 ビラ配りしてすぐに捕まったけれど、ぼくが″生き残った”のは、どこの組織にもまだ属していない、学生運動の末端の一運動員に過ぎなかったので、上の方へたぐりようもなかったからなんだ。もっとも、学生の中には青年共産同盟のシンパもいたかもしれないけれども、こちらは何も知らない下っ端だったから……。そうこうしているうちに、学生の組織が全部やられて、後はやろうとしても何もやれない状況になってしまった それで、ぼくらは有耶無耶(うやむや)になって、なんというか、一種の脱落状態になってしまった……。
奥田 そんな状態では、就職などとてもできませんね。
大島 できもしないし、第一、世の中全体がすごい不況だった。
奥田 『大学は出たけれど』という映画が流行語になったりした時代ですね。その頃『東京行進曲』を書いたとき、西条さんは最初、三番目か四番目のところを「長い髪してマルクスボーイ/今日もかかえる赤い恋」としたんだそうです。当時よく読まれたコロンタイの著書『赤い恋』のことですね。ところがレコード会社が用心して書き直しさせられ、「シネマ見ましょかお茶のみましょか/いっそ小田急で逃げましょか」にしたというのを読んだことがあります。職人・西条八十の面目躍如たるエピソード(笑い)ですが、学生の間にそんな風俗が満ちていたという証拠でもありますか。さすが、早稲田の先生をしていただけあって、若者たちの状況をかなりリアルに描いたのではないでしょうか。
大島 そういうことはありそうだねえ。それで、その頃からちょうどシュールリアリズム詩を紹介するような雑誌もあらわれて……、こともあろうに、あの戦争のさなかに、アラゴンの『ウラル万歳』という詩集が売られていたんだよ。
奥田 それは原書ですか。丸善みたいな所に……?
大島 どこだか忘れたけれど、輸入元の書店だった。そして、フランス人民戦線やそれに類したニュースにほのかに関心をもっていた。スペイン戦争の頃には東京でも密かにそのポスターが貼ってあったりしたよ。今は共産党にいる宮森(繁)君がそのころPCL(東宝の前身の映画会社)で働いていたが、彼のアトリエなどに行くと、そういうポスターが貼ってあった。
奥田 それでは、ゲルニカの話などもご存じでしたか。
大島 うん、英語やフランス語の情報を通じて、ほのかにね。

  "反抗精神" 抜きの外側ばかりが紹介されてきた

奥田 戦争が終わった直後は、どこに詩を発表されていたんですか。
大島 どこにも発表するところがないので、それで、『歌声』とか『角笛』などという雑誌を自分で作っていたんだよ。
奥田 『蠟人形』は、戦後になって復刊されていますね。
大島 ええ、でももうそちらには参加しなかったから。
奥田 戦後すぐに共産党に入党していらしたから、そういうものとは″決別”という考えでもあったのでしょうね。
大島 まあ、そうだね。『蠟人形』から『新領土』あたりまで、当時の海外の新しい詩の傾向を紹介することはいろいろと試みられたけれども、日本における一番の特徴は、"反抗がない”ということだよ。あの時代は、共産党はじめ、プロレタリア文化運動・文学運動などに対しても治安維持法を中心とする弾圧があるため、詩人やインテリゲンチャはびくびくして、そういうところへ絶対に寄り付かない。″政治" や "現実” や "人生" などは扱わない、見向きもしない。そういう言葉すら注意深く遠ざけて使わないという、そういう時代だった。
 だからあの頃のモダニズム詩は、いかにもフランスのシュールリアリズムを紹介しているように見えるけれども、中身は全然違っている。向こうの精神というか、核にあるものは "反抗″だものね。向こうはそれを堂々とやっているのに、こちらは形式だけで、中身は全然空っぽ、つまり風俗的にだけ取り入れている。北園克衛の詩がシュールなどといわれるのはまったく違うね。ところが、戦後、あの北園克衛を研究するために金を貰ってアメリカから研究にやってきた青年がいるくらいだからね。あれが日本のモダニズムで、意味があると思われているとは、まったく不思議なことだよ(笑い)。
奥田 いわば、魂抜きになっている……?
大島 ああ、魂抜きの、無内容のままで、詩を作ってみたって、何になるのだろう。こうした ″反抗抜き" の構図は、戦前・戦中ももちろんそうだけれど、現在でも、それは根本的には変わっていないと思うよ。こんなに言論・表現が自由になっても、そのものがもっている "反抗”の精神や本質は伝えようとはしないのだから。
奥田 それは、詩や文学だけでなく、フォークソングだとかロックなどのそもそもの精神だとか歌詞などでも、そういう傾向があるといわれていますね。つまり、アンコ抜きの饅頭を、「これこそ新しい饅頭だ」(笑い)といって売っている。新しい芸術のスタイルや傾向が生み出されるときは、既製のものに対する "反抗精神″ がバネになっていると思うのですが、日本に入ってくると、なぜかアンコ抜きになっていて、表面的な部分だけが紹介される。
大島 反抗的ということは、つまり一つの批評精神だからね。

 "形式" を考えてみると詩の世界も豊かになる

奥田 翻訳は若い頃からなさっていますが、翻訳をめぐってはよく、異なる文化や外国のことばをどこまで正確に、あるいは忠実に移せるものかということが論議になりますね。とくに詩の場合、そのことが大切だと思いますが、詩の心を移すほかに、やはり、ことばの響きや音楽性などに注意されたり、苦心されたりしますか。
大島 それはアラゴンの詩をみればそういう思いをするし、他の人の散文詩ではそんなことを全然考慮しなくてもいい場合もある。
奥田 ただ、現在の日本における自由詩は韻を踏む必要もないし、行数や形式的な制限は何もないでしょう?
大島 日本に限らず、現在自由詩といえば、どこの国だって形式的には自由だよ(笑い)。しかし、それが果たして詩を創る場合に有利なことなのかどうかは、考えてみるべき課題ではあるよ。
 中国の詩ではご承知のように、形式に対する特有の決まりがあるでしょう。日本でも短歌の流れから俳句が生まれてきたように、そのような広く国民に受け入れられた伝統的な形式を、たとえば島崎藤村などは、どんなふうに受け継いだのだろうか。
 そのように考えると、外国詩の場合のようにそんなにきっちりしたものではなくても、また、本来的を形式は短歌や俳句にあったとしても、詩のほうにも、それに近い形式的な何かを作り出しても悪くはないと思うわけだよ。形式というものがそれだけ強いということは、俳句や短歌が今日、あれだけ多くの作者や読者愛好者をかかえているのをみてもわかるだろう。
奥田 詩を愛好する人口よりも、絶対に多いですからね。
大島 詩の″形式的な自由”のおかげでみんながバラバラに「自分の詩はこれだ」と提出してみても、客観的にその中にどれだけ詩の"含有量"があるかといえば(笑い)、非常に疑問だね。とにかく、まったく歯止めなしよりは、何か "形式″を考えていろいろやってみた方が、詩が豊かになることは確かだよ。
奥田 その後、結核はそれほど進行しなかったのですか。
大島 戦後も微熱が出る時期がかなり続いたけれど、幸い悪化せずに戦後を迎え、手術をしたり良い薬ができたので療養しながら生きながらえてきたら、いつのまにかすっかり治っていた(笑い)。
奥田 菌のほうでも諦めたのでしょうか(笑い)。先生の西条八十をこえて「八十六歳になられるとか。長生きのコツはなんですか。
大島 タバコをきっぱりとやめたことだよ(笑い)。食べ物もおいしいし、長生きしたかったら君もやってごらんよ(笑い)。(了)

(「詩人会議」1997.3)
《詩人訪問 第4回》 大島博光さん

海外詩の精神は ”反抗” だよ

                            聞き手・奥田史郎

奥田 大島さんは、アラゴン、エリュアール、ネルーダなどの詩もたくさん翻訳されていますし、これらの詩人たち──ほかにピカソなどもありますけれど──それぞれ彼らの生涯と芸術について紹介した著書もたくさん書いていらっしゃいますね。
大島 いちばん新しいのは、この間出版されたばかりの、パブロ・ネルーダのことを書いたものだね。
奥田 そういう一連の著書のなかで、ランボオの伝記だけは少し異質だと思われるのですが、大島さんはランボオから否定的教訓ではなく "肯定的教訓” をひきだすためにあれを書いたとおっしゃっています。異質のようですが実は、ランボオは大島さんの大学の卒論テーマでもあったし、その当時の早稲田の先生でもある西条八十のライフワーク・テーマでもあったのですね。
大島 そうそう、そうなんだ。
奥田 西条さんは名前は八十でも、実際は八十歳になる二~三年前に亡くなっているんですね(笑い)。たしか七十五歳頃だと思いますが、三十年以上の研究成果と銘打って『アルチュール・ランボオ研究』を発表しています。それを書店で見たとき、その本のあまりに分厚いのと、原文引用がふんだんに入っているので、正真正銘、本格的な研究だなとびっくりした記憶があります。西条八十というと、どうしても「かなりや」の作者のような抒情詩人の面と、あまりにもヒット歌謡曲の作者という印象が強いですからね。英語・フランス語も堪能であったという話ですし、大島さんは大学では直接お習いになったのでしょう?
大島 先生との結びつきは、全部が ″ランボオ″ なんですよ。わたしが卒業論文にランボオを書いて、その論文の主査教授が西条教授だった。それでまあ、わたしのその論文を先生が認めてくれたというか評価してくれたのですね。その縁で、西条先生が主宰していた詩誌『蝋人形』の編集者のポストを与えられたわけです。
奥田 そのお仕事はどのくらいの期間、続けられたのですか。
大島 一九三五(昭和10)年の三月から、戦争末期に廃刊になるまでずっとだから、かれこれ十年近くにはなる計算だね。
奥田 勤務先は、西条さんの自宅ですか。たしか、その頃は新宿・柏木に住んでいられたようですね。それで、西条八十は世間的には「東京行進曲」や「東京音頭」など、それこそたくさんの流行歌の作詞を次々としながら、ずっと早稲田の仏文科の先生も続けていたのですね。戦後もずっと、映画の主題曲だのたくさんの歌謡曲の作詞は続けていますよね。
大島 早稲田の先生は長いことやっていましたよ。それで、レコード会社に重宝がられた作詞の仕事は、西条八十のなんていうかね。自分ではいつも自由主義者だといっていて、歌謡曲をつくるようなそういう側面は ”営業” だというんだね(笑い)。商売として割り切っているというか、そういう点を器用に使い分けているんだ。だから、そこが西条八十という人の不思議なところでね。ああいうことをしながら、ランボオに対する調査・研究は、一年中手を離さなかったし、いわゆる純粋詩、芸術詩も書き続けていたからね。
奥田 フランスの新しい詩人や詩の動向も、若いころからずっと追いかけて研究をつづけていたようですね。
大島 そこがおもしろいところで、ほくが『蝋人形』の編集部に入って、ぼくがあの当時のシュールリアリズム詩の紹介とか、ロートレアモンの紹介とかいろいろやっていても、なんに言わずにやらせてくれた。その点、寛容というか、許容力があるというか・・・・・

 一日おきの、午後からの仕事

奥田 雑誌の編集にかかわるスタッフは、大島さんの他にも何人かいらしたのですか。
大島 いやいや、小さな雑誌だから、ぼく一人で‥…(笑い)。
奥田 それは意外ですね。それで雑誌は毎回、どのくらい発行していたんです?
大島 多いときには、三〇〇〇から四〇〇〇部も出していたでしょぅ。あれで当時は、独立採算制でやっていたんだから。
奥田 採算がうまくとれていたんですか。
大島 とれていたよ。ぼくの給料もちゃんと出して……、どこかの製薬会社から広告料もとっていたしね。それに毎号、原稿料もきちんと払っていましたよ。
奥田 へえー。雑誌が月刊だとすると、結構忙しいですね。何ページぐらいあったかにもよりますけれど……。
大島 あれで、今の『詩学』ぐらいのページ数はあったね。
奥田 ご自身がつくられた年表によりますと、大学を卒業した年に「召集令状を受けたが、結核の為、即日帰郷」とありますが、その頃の結核では、就職もままならないわけでしょう?
大島 だから、この仕事でずいぶん助かったよ。ありがたかったね。
奥田 当時、大島さんはどこに住んでいらしたんですか。
大島 阿佐ヶ谷です。そこから柏木まで行くんだけど、編集の仕事は一日おきに行けばいい。それも、午後からでいいんだ(笑い)。最後は、雑誌がちゃんと出ればいいのだから(笑い)。
奥田 午後からの出社では、前の晩、少しぐらい夜更かししていても平気ですね(笑い)。
大島 それどころじゃないよ。結核で具合悪いというのに、しょっちゅう飲んでは二日酔いになっているんだからね(笑い)。だから、電話だけかけて、「今日も休ませてもらいます」なんてこともあったね(爆笑)。
奥田 西条家の一室が、編集室になっていたのですか。
大島 近くにアパートの一室を借りて、そこを編集室にしていた。それに、西条家のお茶の間はあれで十二畳ぐらいあったかなあ、そこに出入りの弟子たちが集まって、そういうところでやったりしたこともある。
奥田 それでは、大島さんは詩人たちに原稿依頼やインタビュー取材などもなさったわけですね。
大島 高村光太郎とか夏目耿之介などの訪問記事を取りに行ったりもしたよ。福田正夫の所にも行ったなあ。 今でも夢にみて困るくらいだよ、仕事が遅れて間に合わないなんて夢を……(笑い)。
奥田 五十年以上も昔のことなのに、いまだに困った場面を夢に見るなんて、相当まじめに仕事をしてらしたんですね(笑い)。
大島 そんなにまじめじゃないけれど(笑い)、出さなきゃいけないのに、事務が溜まってしまって……。ぼくにもう少しそういう能力があって、あの頃から自分の作品をまとめて詩集を出すようなことをしていれば、外部的にはもう少し有名になっていたかもしれないね(笑い)。
奥田 若いころに詩集を出されなかったというのは、戦争中というきびしい時代のせいもあるでしょう?
大島 まあ、自信がなかったのか……、つまり、″詩人″としての自分を押し出していこうという考えが希薄だったんだね。ぼくの当時のポストを利用すれば、ある程度は売れたわけだよ。それなのに、そういう努力もせずに、飲んだくれて酔っ払ってばかりいたんだからね(笑い)。
奥田 西条さんは何もおっしゃらないのですか。
大島 そういうことをしていても、私生活や生活態度については何もいわれたこともないし、叱られたりしたことなど一度もなかったから、偉いものだよ(笑い)。
奥田 それでも、わぎわぎ引いて下さったというのは、卒論の内容がよほど見所があるということだったのでしょうかね。でも、結局のところ、西条さんの詩風だって、ランボオとは全然似ていないように思いますが……。けれどご本人も、どうしてランボオに惹かれるのか不思議だと言ってはいますね。
大島 それでも西条先生も、ランボオの詩の面白いところを真似て作っていますよ。大きな木が、裸になった若い女を窓からのぞいている(笑い)などというようなところは、とてもうまく利用しているんじゃないかな

  「ランボオはわれわれの仲間だ」とアラゴンは言った

奥田 結局のところランボオは、十代後半の、わずか五年たらずの間しか詩を書いていないのですね。それなのに、これだけ多くの詩人たちに大きな影響を与えているというのはすごいことですね。
大島 日本では、反抗者ランボオ、パリ・コミューヌを支持したランボオ抜きのランボオがまかり通っている (笑い)。どちらかといえば、風変わりな生き方にばかり焦点が合っていて、反抗者としてのランボオにはほとんど触れていないからね。
奥田 テレビで「そして、彼は砂漠に消えた……」という、ウイスキーのCMに登場したときは、ほんとに驚きましたものね。
大島 ぼくも『アラゴン』の中で書いておいたけれど、アラゴンもランボオについて書いているんだ。しかしその文章は、自分が死んでから発表するように、という曰(いわ)く付きのものだった。短いものだけれど、「ランボオの生きた時代はわれわれと時代が違うように見えるけれど、状況は同じだ。ランボオの反抗とわれわれの反抗は同じで、彼はわれわれの仲間だ」ということを言っている。
奥田 精神的には、自分たちの先輩だというわけですね。
大島 そう、精神的には先輩でもあり、仲間であり、兄弟だといっている。つまり、他の人たちは解釈して面白がって眺めているのに、アラゴンたちは″共に生きた”というわけだ。その差は大きいね。そこから、いろいろなランボオ像が出てくるわけだから。
 ぼくも一応、若いころ西条八十の所にいたとしても、歌謡曲など書かずに来たというわけだ。
奥田 魂の純潔を守って、ですか (笑い)。
大島 いやあ、純潔を守るというよりも才能がない……いや、才能がないわけじゃないな(笑い)、そういうものを書こうと思ったことが一度もないんだね。
奥田 『蝋人形』は、必ずしもそういうことを目指して集まったわけでもないんでしょう?
大島 いやあ、そういう目的の人もたくさんいたよ。西条先生が忙しいときには、ぼくなども、先生の原稿をもってコロムビアまで使いにやらされたことも何回かあったよ。ところがぼくは、そういうことが身近にあっても、どうしてもそういう作品は書こうという気がしなかった。

  日本におけるランボオ論

奥田 大島さんは早稲出大学に入られるときから、専攻科目はフランス文学と決めていられたんでしょう? それは、生まれ育った長野のおうちの環境が、そういう影響を与えるようなハイカラなものだったのですか。
大島 いやいや、家にはそんなハイカラなものはなんにもなくて、それは芥川龍之介からだよ。中学校時代に読んだ「河童」などから受けた影響だね。でも、芥川からはせいぜいボードレールどまりだった。その後、次々に他のフランスの詩人の作品も読んでいって、ランボオにたどり着いた。
奥田 その頃のフランス詩の翻訳で普及していたのは、堀口大学あたりですか。ぼくらも中学時代に上田敏訳でカアル・ブッセの「山のあなた」、ロバート・ブラウニングの「春の朝」、ポール・ヴェルレーヌの「ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな」などというのを副読本で習ったのですが、その中に堀口訳もありました。例のヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく」は誰の訳だったのか、「わが心にも雨ぞ降る」というので覚えました。
 そのあとしばらくして、タイロン・パワー主演のハリウッド映画で原題はなんだか知りませんが(笑い)、『雨ぞ降る』というのがやってきましたから、″ああ、あの訳からとっているな″と思った印象があるんです。ところがどれだけ探しても、今そんなふうに訳したものが見つからない。でも、最初に接した訳文というのは、どうしても印象が強烈ですね。
 少々脱線しましたが(笑い)、そもそも詩人ランボオを初めて世に紹介したのは、ヴェルレーヌだそうですね。まあ、彼と同棲生活をしていた関係からも必然的にそうならざるをえなかったんでしょうが、ヴェルレーヌが紹介したその頃には、ランボオはすでに ”風のように去って”、コマーシャル風にいえば ”彼は砂漠に消えた” (笑い)後だったんですね。
大島 ヴェルレーヌが「呪われた詩人たち」というエッセイに書いたおかげで、ランボオという名前が残ったんだよ。
奥田 ランボオの妹が最初の評伝に、いろいろと資料を出したりしているそうですが、ランボオと妹は年齢的にみても差があり、ランボオの活躍時期にはまだホンの子どもで文学的理解ができるわけがないのに、後に理解者のように発言したり振る舞ったりしていることに、大島さんはとても批判的ですね。
大島 そうそう、そうなんだよ。妹の亭主がインチキな男でね。
奥田 それが世間に広まったとき、新日本新書の『ランボオ』にもそのへんのことははっきり書いていらっしゃいますが、とにかく、大島さんの場合は″卒論のランボオ”が初心ですから、ずいぶん長く研究されているわけですね。
大島 いやあ、とにかくランボオは面白いよ。その生きざまと、それにパリ・コミューヌとのかかわりだね。ところが、だいたいのランボオ伝、ランボオ論では、パリ・コミューヌのところはすっぼりとオミットされている。パリ・コミューヌ抜きではランボオは、ありえないわけだからね。

(続く)
(「詩人会議」1997.3)