戦いの歌(遺稿)
武井脩
生きる可能のない
死ぬることもない
戦場で
砲弾は
いくたびか私の胴体に黒い穴を残していった
風が通うその洞穴よ
魚鱗が泳ぐ洞穴よ
打ち捨てた砲弾が血に錆びるころ
しかし 私の穴は飢える
濁った塹壕の水を飲み
やがて 穴は立ち上がる
鳩を喰い
犬を呑み
赤い血を滴らせ
未明の白い野を横切って
見よ
私の穴が駈けてゆく
私の穴が転ってゆく
*註──詩人武井脩は「学徒出陣」によって侵略戦争に駆り立てられ、むなしくビルマで戦死した。そのときの詩と手帳の一部分は『きけわだつみのこえ』のなかに収められている。この詩はおそらくビルマの戦線において書かれたものにちがいない(大島博光)
<詩誌「角笛」2号>
* * *
「大島博光氏とあなたにだけは全魂を傾けて私は書きに書いている。たとえこれらの手紙が海に沈もうと、神様はこれらの文字と真心を読んでくださるであろう」(「きけ わだつみのこえ」第2集)と妻に手紙を書いた武井脩の遺稿が「角笛」2号に載っていました。戦場の苛酷な絶望的な状況をうたっていて胸を打ちます。
武井脩
生きる可能のない
死ぬることもない
戦場で
砲弾は
いくたびか私の胴体に黒い穴を残していった
風が通うその洞穴よ
魚鱗が泳ぐ洞穴よ
打ち捨てた砲弾が血に錆びるころ
しかし 私の穴は飢える
濁った塹壕の水を飲み
やがて 穴は立ち上がる
鳩を喰い
犬を呑み
赤い血を滴らせ
未明の白い野を横切って
見よ
私の穴が駈けてゆく
私の穴が転ってゆく
*註──詩人武井脩は「学徒出陣」によって侵略戦争に駆り立てられ、むなしくビルマで戦死した。そのときの詩と手帳の一部分は『きけわだつみのこえ』のなかに収められている。この詩はおそらくビルマの戦線において書かれたものにちがいない(大島博光)
<詩誌「角笛」2号>
* * *
「大島博光氏とあなたにだけは全魂を傾けて私は書きに書いている。たとえこれらの手紙が海に沈もうと、神様はこれらの文字と真心を読んでくださるであろう」(「きけ わだつみのこえ」第2集)と妻に手紙を書いた武井脩の遺稿が「角笛」2号に載っていました。戦場の苛酷な絶望的な状況をうたっていて胸を打ちます。
ひめゆり部隊の少女たちが歌った「相思樹の歌」、これを作詩した太田博の師が大島博光であったという。


音楽教育の会の方が資料を提供。太田博については福島中央テレビで太田博~戦場に散った若き命の詩という番組を放送していました。
この歌についてひめゆり学徒だった渡久山さんが語っています。
「与儀での陣地構築作業の頃、福島県郡山商業学校出身の太田博少尉の作詞、東風平恵位先生作曲の「相思樹の歌」という曲がたちまち私たちの間に広がり、愛唱歌になりました。軍歌づくめのあの頃、この歌はどんなに私たちの心を打ったことでしょう。「目に親し/相思樹並木/往きかへり/去りがたけれど/夢のごと/とき年月の/行きにけむ/あとぞくやしき」と校門前の相思樹並木を歌い、そして友情、学園との別れをしみじみと歌っています。特に卒業を間近に控えた私たちにはじーんとくるものがありました。生きている限りの愛唱歌になることでしょう。」(『読谷村史第五巻資料編4 戦時記録下巻』ひめゆり学徒「私がたどったいくさ場の道」)
*コピーで提供された上の資料について、太田博遺稿集編集委員長の常松明男氏からつぎの通り誤りがあるとの指摘がありましたのでご留意ください。
1、太田博の生年は1921年です。
2、沖縄赴任は8月で秋ではなく、夏の赴任です。
3、学芸会には招かれていません。陣地構築の際に学徒の方々と交流しその話を聞いて、12月頃卒業式のはなむけに詩をおくりました。ひめゆり学園訪問はその後翌1月です。
4、内省は測ることができませんが、反戦の意思を表した表現は見当たりません。
(2012.7.1)


音楽教育の会の方が資料を提供。太田博については福島中央テレビで太田博~戦場に散った若き命の詩という番組を放送していました。
この歌についてひめゆり学徒だった渡久山さんが語っています。
「与儀での陣地構築作業の頃、福島県郡山商業学校出身の太田博少尉の作詞、東風平恵位先生作曲の「相思樹の歌」という曲がたちまち私たちの間に広がり、愛唱歌になりました。軍歌づくめのあの頃、この歌はどんなに私たちの心を打ったことでしょう。「目に親し/相思樹並木/往きかへり/去りがたけれど/夢のごと/とき年月の/行きにけむ/あとぞくやしき」と校門前の相思樹並木を歌い、そして友情、学園との別れをしみじみと歌っています。特に卒業を間近に控えた私たちにはじーんとくるものがありました。生きている限りの愛唱歌になることでしょう。」(『読谷村史第五巻資料編4 戦時記録下巻』ひめゆり学徒「私がたどったいくさ場の道」)
*コピーで提供された上の資料について、太田博遺稿集編集委員長の常松明男氏からつぎの通り誤りがあるとの指摘がありましたのでご留意ください。
1、太田博の生年は1921年です。
2、沖縄赴任は8月で秋ではなく、夏の赴任です。
3、学芸会には招かれていません。陣地構築の際に学徒の方々と交流しその話を聞いて、12月頃卒業式のはなむけに詩をおくりました。ひめゆり学園訪問はその後翌1月です。
4、内省は測ることができませんが、反戦の意思を表した表現は見当たりません。
(2012.7.1)
既述の「きけ わだつみのこえ」の武井脩にふれた博光の手紙(下書き)が見つかりました。
松代の友人あてなので、おそらく親友だった長谷川健先生への手紙だと思われます。

武井脩について聞かれて答えているようです。「いい詩を書いている」というので、『蝋人形』に載っていいる可能性があります。よく文通していたとありますので、武井脩からの手紙が出てくればいろいろわかるのですが・・・
松代の友人あてなので、おそらく親友だった長谷川健先生への手紙だと思われます。

武井脩について聞かれて答えているようです。「いい詩を書いている」というので、『蝋人形』に載っていいる可能性があります。よく文通していたとありますので、武井脩からの手紙が出てくればいろいろわかるのですが・・・
「日本戦没学生の手記 きけ わだつみのこえ」(東大協同組合出版部刊 1949年)を見ましたら、武井脩氏の手記が載っており、そこに栞と博光による赤線が引いてありました。
武井 脩(旧姓花岡)九大法文学部卒業。昭和十七年二月入営。十二月見習士官としてビルマ出征。二十年五月戦死。二十七歳
博光は<わだつみの声>への挽歌という戦没学生への鎮魂の詩を書いていました。




この中で「人間の中心とは何であらう・・・大島博光氏は東京で彷徨ふであらうし、田口は・・・新沼は・・・中尾は・・・そして俺は、口をあけて馬体検査を見ている・・・」とあり、詩人仲間だったようです。
武井 脩(旧姓花岡)九大法文学部卒業。昭和十七年二月入営。十二月見習士官としてビルマ出征。二十年五月戦死。二十七歳
博光は<わだつみの声>への挽歌という戦没学生への鎮魂の詩を書いていました。




この中で「人間の中心とは何であらう・・・大島博光氏は東京で彷徨ふであらうし、田口は・・・新沼は・・・中尾は・・・そして俺は、口をあけて馬体検査を見ている・・・」とあり、詩人仲間だったようです。
溝原光夫さんからお手紙を頂きました。
<「きけ わだつみのこえ」第2集を読んでいたら、武井脩氏の妻への手紙の中に
大島博光の名が有るのを見つけた>とコピーを送ってくださいました。
・・・書いた手紙も海の藻屑と消え失せるかもしれないと思うと、たよりなど書
く気になれぬ。しかし大島博光氏とあなたにだけは全魂を傾けて私は書きに書いている。
たとえこれらの手紙が海に沈もうと、神様はこれらの文字と真心を読んでくださ
るであろう。・・・
(昭和20年5月26日ビルマにて行方不明。27歳)
武井脩氏と大島博光とどういうつながりがあったのでしょうか。調べてみたいと思いました。
<「きけ わだつみのこえ」第2集を読んでいたら、武井脩氏の妻への手紙の中に
大島博光の名が有るのを見つけた>とコピーを送ってくださいました。
・・・書いた手紙も海の藻屑と消え失せるかもしれないと思うと、たよりなど書
く気になれぬ。しかし大島博光氏とあなたにだけは全魂を傾けて私は書きに書いている。
たとえこれらの手紙が海に沈もうと、神様はこれらの文字と真心を読んでくださ
るであろう。・・・
(昭和20年5月26日ビルマにて行方不明。27歳)
武井脩氏と大島博光とどういうつながりがあったのでしょうか。調べてみたいと思いました。