パリの街

ここでは、「パリの街」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




占領されたパリ



<『レジスタンスと詩人たち』第二章 10 パリは飢える>

パリ写真

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パリ


静物
ピカソ「静物」

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 幸福について 
         フランソワ・ケレル
         大島博光訳

おれは想いみる 二人の恋人たちを
もう くちづけをかわし
二人だけの家のなかで
愛のちかいをとりかわした恋人たちを

並木通りの春のなかで
若ものたちは たがいに知り合う
アスファルトは青春にこたえ
みどりの色がもどってくる

明日の日の希望をになう
ここ 労働者の町
夢は ひとすじの道となり
ひとびとは帆船の水脈(みお)のように

場末の町にきりもなくつづき
場末の町は 海よりうつくしい
おお 虚無をまぬかれた幸福よ
おお すっかり明けはなたれた町よ

だが どうして眼をとじていられよう
行きかう みんなのくるしみに
おれたちは 住んでいるのだ
悩みが石をもつきとおすようた国に

まるで地上の穴倉のような
二階もないような家に
かなしみをわけあうこともない
孤独な顔つきをした家に

くずれた壁が 灰いろのそらをくぎり
地平線ももう ふくろ小路でしかない
空間をはかる 人間の単位である
地平線もここでは かけらでしかない

枯れた木々のような家々よ
もいちど おまえたちを立てなおそう
おれたちはあかつきと人間の樹液なのだ
おまえたちはふたたび芽ぶくだろう

給料の額にふさわしく
もう五十年にもたった家に
怒り 立っている家々
脈うつおれたちの心臓のようないえいえ

おお おまえたち 弔鐘のような家々よ
工場よ 倉庫よ 車庫よ
ここに 嵐は生いたち
ここに リラは伸びるだろう

聖人祭のよそおいをした街よ
おれたちはお前の仲間ではない
かえでのようにやさしく やさしく
女は乳房を与える

女は 手に子どもをかかえ
子どもは眠ったり さめたり
おお 明日の町々にも似て
永遠に新しいうつくしさよ

数百万人の人間が住んでる街
暗いくぼみにたまった しみずのような
希望と 調和の街
よこたわったわが偉大な町よ

ポワン・ドュ・ジゥルからベルシイまで
セエヌの両岸は 奴隷船(ガリー)だ
労働者たちが なさけ容赦もなく
漕いでゆく奴隷船なのだ

王たちのいた 遠いむかしから
おお 大理石ととたんの町よ
仕事袋を肩に おれたちはゆくのだ
飢えをかかえ 寒さにふるえ

はたらくひとびとが立ち上るとき
おのが運命にかえる町
サント・ジュヌヴィエヴの町よ
おまえ 朝のカテドラルよ

そうして 雀たちはさえずり歌う
おまえをふちどるマロニエの木かげで……
ひとびとは腕をくまなければならない
まいにちのパンに ことかかぬために!

   (『詩学』1955年6月)

山下公園

 パ リ      アラゴン 大島博光訳

わたしが胸に抱くのは あの影たちの劇場 パリだ
わがパリ わたしからすっかり奪いとることのできぬ わがパリ
ひとびとのくちびるから叫びを奪いとることもできぬ
わたしをパリから追い出すために 何が必然だったろう
わたしの心臓を抉(えぐ)りとってみたまえ きみはそこにパリを見るだろう

わたしが詩に歌ったのは そのパリについてだ
わたしの言葉は パリの屋根の奇妙な色をしている
そこに鳩の咽喉がくうくう鳴き その羽根が玉虫色に光る
パリよ わたしは自分(おのれ)自身よりも おまえについてよけいに書いた
年老いるよりも おまえなしでいることの方がつらい

時が経つほどに ひき裂かれたパリとわたしについて語ることは やさしくなくなろう
雲は サン・ジェルマン・デ・プレから逃げてゆくだろう
いつか まぶたの間の涙のような日がくるだろう
黄金色のアレキサンダー三世橋のような

その日きみは帰えってくるだろう わたしの哀歌をほしいか
石の楽器でわたしはその哀歌をつくり出した
ゴルゴタの十字架を抜くことができるだろうか
迷宮から抜け出るや アリアーヌは死にはてる
この歌(しらべ)は マジェタ大通りを歌っている
いやされぬ不幸をうたった歌は
深夜更けのイタリー広場よりも悲しく
憂鬱ゆえにポワン・デュ・ジウルにも似ている

(自筆原稿)
仮想インタビュー
仮想インタビュー
仮想インタビュー
パリの王様

(『狼煙』74号)

 パリの街

パリほど、たくさんの詩人たちに歌われた都市(まち)はない。
一九四四年、ナチス・ドイツの鉄のくびきから解放されたパリを、アラゴンはこう歌った。

 ポワン・デュ・ジゥルからペール・ラシェーズへと
 祖国の不滅のかがり火は 消えることなく
 その赤い熾火(おきび)より よみがえり 燃えあがる
 あのやさしい薔薇の木は 八月に花咲き
 四方から集まったひとびとは パリの血だ

 硝煙のなかのパリほどに 輝やかしいものはない
 蜂起したパリの額ほどに 清らかなものはない
 いかなる危険も怖れぬ わがパリほどに
 砲火も 雷も ちから強くはない
 わが抱く パリほどに 美しいものはない

 アラゴンはここで、パリの革命的伝統をたたえ、パリ・コミューンの末期、いわゆる「血の週間」に、たくさんの戦士たちが虐殺されたことで有名なペール・ラシェーズ墓地の「連盟兵の壁」を思い出しているのである。
 一八七一年のパリ・コミューンの翌日、アルチュール・ランボオは、偉大な革命の首都パリをこう歌った。

  パリよ おまえの足が怒りに燃えて 踊り狂っていた時
  その身を匕首(あいくち)で めった切りにされていたとき
  その明るい瞳のなかに なおも鹿の子色の春の
  あのやさしさをたたえて 横たわっていたとき

  おお 苦しみ悶える首都 おお 瀕死の首都よ
  その頭と二つの乳房を 「未来」の方に向けて
  蒼ざめた身に 無数の城門をひらいた首都よ
  詩人は歌うのだ「おまえの美しさはすばらしい!」と


  嵐は おまえを 至高の詩へと高めた

 詩人たちの熱狂と讃歌は、その背後にいる人民の熱狂と情熱の表現であり、反映である。ヴィクトル・ユゴーをはじめ、多くの詩人たちがパリ・コミューンを支持し、すでに詩を「歌う武器」としてたたかい、あるいはじっさいに銃を執って、バリケードでたたかった。しかし、反動のヴェルサイユ政府の側には、ひとりの詩人もいなかったのである。ヴェルサイユ政府には、「秩序を維持する」のに、シャスポー銃と機関砲しかなかった。だが機関砲も、人民の声や詩人たちの歌ごえを抑えつけることはできなかったのである。
 こんにち、全世界の革命的な労働者の歌となっているポティエの『インタナショナル』は、一八七一年六月、ヴェルサイユ軍による血なまぐさい弾圧のさなかに書かれたのであった。

(「パリ・コミューンの詩人たち」)

 パリの街歩き(抄)
            ジャック・ゴーシュロン

活気に溢れた都市よ
そのすべての石で 石畳で
壁で 街まちで
人影もなく寂れているどころか
ここに群がる人影や足跡は
想像もつかぬ運命をめざしてゆく

高い断崖のあいだを流れる河のような
活気に溢れた並木通り
家いえの正面 窓 人影のないバルコン

とても晴れたある日 大通りを
ひとつに腕を組んだ群衆がねり歩き
おのればかりに耳傾ける支配者どもに
民衆にも耳をかすようにと要求する
ほんの少し正義のために
せめてほんの少し圧制のために
みんな市民であることを忘れぬように

おれは何者なのか どこでしゃべっているのか
知らねばならぬ
おれは道を歩いている途中だ
背をかがめて数世紀の道をとぼとぼ辿っているのだ
名もない者のなかの名もない者だと言った方がいい
ついこの間まで 幽霊のように
影もうすい奴隷の身に落されていたのだ
はるか遠いむかしから

蔽いかくされた顔 むきだしの顔
何者なのか おれは
まさしく何者なのか おれたちは
バリケードの石畳の間で生まれてから
二世紀 おれたちは何者になったのか

おれは二〇〇歳だ ちょうどおれは
バスチーユ広場からやってきたところだ
おれはパリの街なかを歩いている
ひとりぼっちではない
死んだ人たちや生きてる人たちと腕を組んでゆく
むかしの不屈な闘士たち
新しい若者たち

空間のなかの数世紀をたどる街歩きよ
おお 貧乏人たちの世界に辿りつくまでののろさ
おれはきのう城塞の根方
牢獄の根方にいた
おれは叫んだ 牢獄を開けろ
囚人たちに空と大地を返してやれ
人民を解放しろ
いまおれはバスチーユ広場を後にしてきたところだ
それは悦ばしい重大な変化の一日だった
その生ける民衆と腕を組んでおれは歩いている
民衆はめいめいおのれの顔を昂然と挙げる
新しい顔を

つらつら思い出せば おれは
バスチーユを占領した人びとといっしょにいた
このパリの大通りからおれは見た
病み衰えた王制や
恐怖をふりまいた王公たちが蒼ざめて
卑劣な巨大な圧制が崩れ落ちてゆくのを

おれは見た 世界を見るもうひとつの眼をおれはもつ
おれは肌を変え血を変えた
突然おれはずっと大きく生まれついたように

あたかもおれは 新しい身の丈を
市民の背丈をたしかに獲得したかのようだ
・・・

おれはむかしの老戦士たちの足どりに追い着く
おれはバリケードの石畳の上を歩いた
なるほど人間はすべて権利において平等だ
パリの七月の太陽に輝く
レプュブリック広場の銅像の上によじ登って
悦びのあまりおれは赤い縁なし帽*を空に放り投げた
・・・
おれはパリの街まちを歩く
かずかずのドラマや謎にみちた
白日の下の歴史のなかを

おれはパリにふさわしくなろうと努める
わが町よ わが市民の都よ
多くの水がセーヌの橋の下を流れ
多くの血が街まちに流れ
多くの血が壁のうえ
墓のほとりにまで流れた

おれはパリの街まちを歩く 時は五月
おれはふと
花屋の店に立ちよる
あそこの壁に花束を捧げに行こう

注* 赤い縁なし帽── 一七八九年のフランス大革命のとき革命家たちがかぶった赤い縁なし帽。
** この壁は主としてパリ二〇区シャロンヌ地区にあるペール・ラ・シェーズ墓地の「パリ・コミューヌの壁」を指す。この壁の前で、一八七一年五月コミューヌ最後の戦士たち数百名が銃殺された。その弾痕がいまもこの壁に残っている。

 この詩はゴーシュロンの詩集『不寝番』(一九九八年)より訳出した。ゴーシュロンは文芸誌『ユーロープ』誌編集委員会にぞくして、エリュアールやアラゴンについての優れた評論を書き、『詩とレジスタンスと』という信頼に足る名著の作者である。それにもかかわらず、彼の来歴についての資料はわたしのところにはほとんどない。彼の著書にもそれについては何も書かれていない。ただわたしにわかったことは、彼が一九二〇年生まれで、美学・芸術学の教授だったということぐらいである。
(訳者)

<「稜線」二〇〇〇年夏 七二号>


♪鐘は鳴る 鐘は鳴る マロニエの並木道♪

 懐かしい調べを口ずさむだけで、行ったこともないのにパリの風情が思い浮かんでしまう「巴里の屋根の下」、フランス好きにはたまらない名曲ではないでしょうか。もともとはフランス映画の主題歌で、歌詞は西條八十が書きました。
 何がヒミツかというと、この歌詞は西條八十ただ一度の本当の恋愛、パリで若い画家山岸元子と過ごした思い出を歌ったもので、元のフランス語の歌詞とは別物だということです。今度出版された「父・西條八十の横顔」(西條八束著・西條八峯編、風媒社)で、故西條八束氏が明かしています。
 この歌詞はフランスのオリジナルの歌詞が届かないうちに曲だけ聞いて作ったが、八束氏が1964年に初めてパリを訪れて八十が過ごした若き日をしのんだとき、この歌詞が山岸元子との有名なロマンスの回想そのものであることに気づいたということです。
 八十が生涯で一番楽しかったというパリ留学、そこでのただ一度の本当の恋愛、その思い出が込められている「巴里の屋根の下」、いつかパリのマロニエの並木道をそぞろ歩きながらこの歌を口ずさんでみたいものです。

 なつかしの想ひ出に さしぐむ涙
 なつかしの想ひ出に ながるる涙
 マロニエ花は咲けど 恋しの君いづこ

 巴里の屋根の下に住みて 楽しかりし昔
 燃ゆる瞳 愛の言葉 やさしかりし君よ
 鐘は鳴る 鐘は鳴る マロニエの並木みち
 巴里の空は青く晴れて 遠き夢を揺する

西條八十
西條紀子さんはパリのペール・ラシェーズ墓地、さくらんぼのクレマンのお墓に3回行かれたそうです。レジスタンスで有名なギイ・モケのお墓にも。クレマンのお墓は博光の詩にも出てきます。

ポール・エリュアールの墓

 ・・・
 鈴懸けの大樹のかげ
 『桜んぼ』の詩人クレマンの墓の前
 レジスタンスの戦士たちと並んで
 エリュアールよ きみはここに眠る

ペール・ラシェーズ
連盟兵の壁

ペール・ラシェーズ
ナチ殉難者の象

クレマン
クレマンの墓

クレマンの墓の写真と解説は大野修平氏の「桜んぼの実る頃をめぐって」に詳しく書いてあります。
博光は「さくらんぼの熟れる頃」と訳しています。
市川の岩崎弘子さんが1月にパリ旅行され、ポン・ヌフの橋の近くのホテルに9泊滞在したが、自炊も出来る綺麗なアパートホテルで快適だったとのお話でした。
博光がポン・ヌフの橋を詩に歌っており(「小さな禿鷹たち」)、なつかしいこころもちで伺ったら、ルーブル美術館もオルセー美術館もノートルダム寺院もすぐ近く、窓からセーヌ川が見えるそうで、パンフレットを見せて下さいました。
ルーブル美術館はじめ大きな美術館がたくさんあるが、マルモッタン美術館、オランジェリー美術館が岩崎さんのおすすめ。
パリ パリ
広い室内で、テーブルやデスクのほか、流し、コンロや電子レンジも。

パリ