鮎沢露子

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 清沢洌「暗黒日記」(昭和19年5月13日)に出てくる、軽井沢で鮎沢露子と博光が逢ったいきさつが、西條紀子さんの話でわかってきました。
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 鮎沢露子は西條ふたば子の親友だった。5歳年上の鮎沢露子は軽井沢南ヶ原のテニスコートつきの大きな別荘にいた。西條家も軽井沢の別荘ですごしたので、別荘生活を通して交流したもので、「蝋人形」や詩を通した関係ではない。
 偶然にも紀子さん自身が啓明学園の生徒で、英語の先生だった鮎沢露子から教わった。
 啓明学園が軽井沢に疎開したとき、先生が足りなかった。そこで失業中だった博光を雇う話になった。西條八十から鮎沢巌(学園理事)へ声をかけたようだ。
 アカだという理由で啓明学園に採用されなかった博光だったが、啓明学園自身がミッション系で英語を教えていたために、戦争末期に閉鎖されてしまった。
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 県の教育委員会から辞令が下りなかったというので、博光が就職しようとしたのは県立の女学校だと思いこんでいましたが、それは啓明学園だった。それで軽井沢でふたりが会ったわけがわかりました。鮎沢露子は博光を啓明学園に紹介する役割から軽井沢で会ったのではないでしょうか。

 博光が軽井沢で女学校の先生になり松代に帰らなかったら、別の人生になったかもしれない、赤くならないで早稲田の教授に迎えられたり・・・などとの夢想もなりたたない事がわかりました。もっとも、博光が実際に生きた人生、成した仕事こそが最も価値のある、誇りにみちたものだったのは間違いないでしょう。

博光の友人であった鮎沢露子の写真がありました。シンの強い女性のように見えます。
鮎沢
CISAC(著作家作曲家協会国際連合)の会議に出席した際、左から二人目鮎沢露子、金川義之、三井嫩子、八十(昭和35年9月於チユーリッヒ)<「西条八十著作目録・年譜」より>

目録
西條紀子さん(西條八束氏夫人)よりお贈りいただいた「西条八十著作目録・年譜」。厖大な作品のリストとくわしい年譜のほか写真も多数収録してあります。
清沢洌「暗黒日記」に「鮎沢つゆ子さんが軽井沢の駅で逢った友人の詩人大島博光が訪ねてきた」と書かれている鮎沢露子が「西條八十年譜」に登場していました。

西條八十年譜

昭和三五年(一九六〇) 六八歳
 九月一日、八十は嫩子を伴い、スイスで開催されるシザック(CISAC-著作家作曲家協会国際連合)の大会に出席し、帰途ヨーロッパ各地を歴訪するために羽田を出発した。日本音楽著作権協会の金川義之常務理事も同行した。大会はスイスのチユーリッヒ、ビュルゲンストック、ベルヌの三カ所で開催され、英仏独など各国から三〇〇名の代表が出席した。この会議で各国代表から、日本の著作権法第三十条第八号に対する集中的な非難を受けた。それは「われらの国では貴国の歌曲をレコードによって演奏、放送すれば、その使用料を貴国に送付している。然るに貴国では、自国の歌曲以上に、われらのそれを多く使用しているのに、レコードにより演奏、放送するものについては自由利用が許されているため一文の送金もない。われらは文化国家としての日本の信義を疑い、貴会の著作権法改正に対する努力の不足を糾弾する」といった手厳しいものだった。そして、同時に日本国著作権法中第三十条第八号の削除を要望する決議が満場一致で採択された。
 滞在中カルチェ・ラタンでルネ・ビルシ、エチアンブル、クトー、堂本尚郎等と会談した。柳沢和子仏訳にて「胸の上の孔雀」をパリ国営放送局で朗詠される等のこともあった。
 会議には、スイス生まれの鮎沢露子と、秘書役の和服の嫩子を同伴して出席、同連合に加盟の目的を果たして、旅行の第一の目的は無事終った。シザックの会議を終えて、フランス、ドイツなど往年の思い出の地をめぐって一〇月一四日帰国した。

(「西條八十著作目録・年譜」より)

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鮎沢露子と博光とは、西條八十=蝋人形を通してのつながりだったようです。露子については西條嫩子(ふたばこ)が知っているはずなので、何処かに書いていればもっとわかるのですが。
清沢洌が戦中に書いた「暗黒日記」に博光のことが書いてあると腰原哲朗先生(詩人)が教えてくれました。
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昭和19年5月11日
 鮎沢つゆ子さん(啓明学園理事鮎沢巌長女)、七時頃来たる。その教えている啓明学園の疎開に従って、教えるため。宿る。
昭和19年5月13日(土)
 鮎沢つゆ子さんの友人の詩人大島博光という人尋ね来たる。つゆ子さんが駅で逢ったのだという。詩の雑誌をやっていたが統合されて無職である。
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博光は当時のことを 「雑誌(蝋人形)の編集を手伝っていて 戦争中紙の配給が無くなって いよいよ出せなくなって こっちは失業だから軽井沢の女学校の先生の話があって 荷物も送って行ったら 校長はいいって言ったんだけど あいつは赤だからだめだって そこから二~三時間だから松代に帰って(療養した) でもそれが良かったんだね」(尾池和子「博光語録」)と語っています。

従って、女学校からの帰りに鮎沢露子と逢って清沢宅に寄り、そのあと松代に帰ったものと思われます。
鮎沢露子とどういう関係かはわかりません。ネットで調べたところでは、

*鮎沢露子 1923.6.30スイス生まれ
1950.4.11 第5代アウエルシュタット公爵レオポルド・ダブーと結婚、6人の子をもうけた。
『戰線文庫』研究というサイトで「全滅直前のハワイ米海軍の生活ぶり」当時ハワイ大学生 鮎沢露子・・・という記載もありました。

*鮎沢巌(1894-1972) 1920年にコロンビア大学を卒業(博士論文のテーマは国際労働法規)、卒業後はジュネーブのILO本部で1934年まで働いたあと、戦前最後のILO東京支局長を務めた。戦後最初の中央労働委員会事務局長を歴任したあと、1952年に国際基督教大学教授となった。晩年はフランスで過ごした。

*啓明学園は昭和15年に帰国子女教育のために三井財閥の三井高維が東京に創立。昭和19年、軽井沢に疎開学園を開設した。三井高維と鮎沢巌との関係は不明です。

*この年(昭和19年)、当局の指令により雑誌統合が強行され、「蝋人形」も二・三月合併号を最後に休刊のやむなきに至った。(「西条八十著作目録・年譜」昭和47年6月)