パリ日記

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


パリの雨  八月二十六日



パリの褐色の屋根に初秋の雨が降る
積み重ねた石の見えるむき出しの灰色の壁に雨が降る

ヴェルレーヌの心に降った
雨が降る

煙突のひさしのかげに 雀が二羽 雨宿りしている
ひとりパリに病んで

わたしはそれらを眺めている

向うの屋根裏部屋の窓べに立って

やはり雨を眺めている赤シャツの男がいる

日本では 秋の長雨が始まる頃だ
そうして台風がやってくる頃だ 


わたしのこころには しとしとと泌みるように降る
ひとり遠いパリに来て はじめて
旅愁という言葉が身にしみる

旅愁とは こんなに生の切なさに
みちたものとは 知らなかった

パリノート

<ノート 「1980 パリ」>

*ヨーロッパ詩集の「パリの雨」の草稿にあたります。

 ミラボー橋─淡い錆色の鉄の橋から見て、左岸には現代的な高層ビルが群立している。左岸の橋のたもとから下手には、セメント工場があって、砂利や砂の船着場になっている。なんとも殺風景なミラボー橋界隈というか、眺めだ。
 「エスプリ・ヌーボー」の提唱者であったアポリネールがこれを見たらどう思うことだろう。このセメント工場もビルの群立も、第二次大戦後もかなりたって後のことであろう。アポリネールがあの詩を書いた頃はこういうものはなく、セーヌの岸べもまだ石の補岩ではなく、土手であったはずだ。そういうミラボー橋でなければ、あの詩*はふさわしくあるまい。
 橋から上手に「自由の女神」の立像が輝くというよりは白くまぶしく霞んでいた。夏の熱い光りのなかに。
<ノート「パリ 1980」>
*アポリネール「ミラボー橋」

ミラボー橋

旅愁               八月二十三日

七〇歳
わたしはパリにひとり旅
好きなパリも
ひとりぼっちでは地獄のようだ

毎日のように
ビュット・ショーモンにきて
あの高い釣り橋の上から
池のなかの鯉を眺める
藻に蔽われた浅い水のなかを
二,三尾 群をなして泳いでいる鯉たち
ときには それをめがけて
恐ろしい釣針をかくした
釣り師が 糸を投げる  
パン屑や角切りのじゃが芋に誘惑されずに
泳いでいる鯉よ

わが多摩川の是政の釣り場が思い出される
おお、魚影の濃い多摩川を思い
心は是政の釣場に走る

ビュット・ショーモンの鯉よ さようなら
明日(あした)は もう多摩川だ

<ノート 「1980 パリ」>

ビュイットショーモン
ビュット・ショーモン公園にて

*ヨーロッパ詩集の「ビュット・ショーモンの公園」の下書きノートになります。

八月二十日(水)
宿で一日休養

八月二十一日(木)
頭痛で一日休養。
ひる頃より空が曇ってくる。
是政の釣り場が恋しい。
夕刻より大悪寒。アスピリン二錠のむ。
二時頃まで発汗おびただしく、七,八枚の下着を変える。
熱のあつさで、もう死ぬかと思った。

八月二十二日(金)
朝、生きていたので万才!をする。
発汗のせいか、頭痛は半減したが、まだ具合悪い。──とにかく生きて帰れそうな自信がわいてきた。
午後、フランスの若い医者のところへゆく。たいへん親切だった。
アスピリンをのんで一日静養。
とにかく帰えりさえすればいいのだ。

八月二十三日(土)
(最後のページ=ボールペンの素描のみ)
日記

*「パリの雨」でこの時の心象を書いています。単なるホームシックで帰国したのかと思っていましたが、実際に高熱が出て具合が悪く、帰国しないとどうしようもない状態だったことがわかりました。

画家 八月十九日 夜

長ながとつづく アカシヤ並木
八月のさなか そのアカシヤの白い花が咲いていた
まるで白いレースを垂らしたように
その香りもさわやかな夕暮れ

プラント街 ○番地に
画家は住んでいた
青春をともにしたわたしたちは 三〇年ぶりの再会だった
自殺した画家 吉岡憲の葬式以来の──

画家は若者のような熱っぽさをもって語った
パリの光は 
油絵の色によくマッチする
佐伯ユーゾーもそれを感じとっていたのだ
パリでしか絵が描けなかった

この光 この明るい軽やかな光
これが 絵を生むのだ

アトリエには
オウレー地方 ロワール河らしいひろい河と橋の絵
リュクサンブールの噴水と
あのマロニエの緑の壁と
地中海マントンのブルーと船と
うすいローズ色の馬と少年

若くて美しい夫人の手づくりの
ムール貝の白ブドー酒蒸しの珍味を味わいながら
遠い若い頃の思い出話に花が咲く

黒い殻のなかの黄色い身に
レモンを垂らして食べるそのうまさは
忘れられぬ
若くて美しいマダム

「ノヴァ」で呑んで、「山小屋」へ流れて
それから屋台で飲んで
明け方 ○谷近くのアトリエへ辿りつく

楠田一郎が死んで四〇年後
パリのアトリエで 彼の思い出を語ろうとは──
かれも夢みた パリの空の下で
楠田は「山小屋」の光(み)っちゃんが好きで通ったのに
気の弱いかれは
とうとう それを告げずじまいだった

その頃だ 楠田一郎が新宿三丁目裏の花園神社の
軒下で寝たのは──

<ノート 1980 パリ>
八月十七日 日曜日
サン・マルタン運河のケ・ド・ヴァルミー運河岸の楡の木かげに
A la m�moire
de Charles DUPAS
Aspirant du G�nie
Tomb� glorieusement
pour la Lib�ration de Paris
Le 21 Ao�t 1944
A l'age de 29 ans
<一九四四年八月二一日
パリ解放のために華々しく倒れた
シャルル・デュパの記念に
享年二九歳>

(注)この記銘板をもとに「楡の木かげ」という詩を作っています。
パリ日記

八月十八日(月)
ポン・ヌフの上のアクシダン、忘れがたいアクシダン
西原君と会い、たいへん面倒をかける
(注)ポン・ヌフの橋の上でジプシーの少女に財布をすられた事件と思われる。→小さな禿鷹たち

八月十九日(火)
コミッサリア・デ・サン・ジェルマン・デプレへ
ひる アラブ料理クスクスをたべる。
夜 末永画伯のアトリエでごちそうになる。ムール貝のうまさ。→画家 八月十九日夜

*パリで食べたムール貝はとても美味しかった、というのでネットで見つけたレシピをもとにムール貝のワイン蒸しを作ってあげましたが、満足してもらえませんでした。

八月十三日(水)
一日じゅう宿で静養
赤旗日曜版に原稿送る

八月十四日(木)
リュクサンブールの近くのパンションを見に行くが狭くて臭くて汚いのでやめる。マドモアゼル大和田の世話になる。
セーヌの美しさ、両岸の灰がかった白い石の岸べと、両側に立った黄みがかった、やはり白灰色の建物とうすみどり色のゆたかな流れ
パリ日記

八月十五日 頭痛
八月十六日 少し回復

八月十二日(火)

HARRIX JEAN
Gardien de la Paix
Au 8 �me ADRDT
Tu� par les Allemands
Le 19 Aout 1944,

ポントシャンジュの右岸の橋のたもとのらんかんに小さな大理石の

flague commemorative four un gardien de la

うすみどりの水の流れのふしぎな魅力

橋
HARRIX JEAN
平和維持軍
第八DRDTで
ドイツ人によって殺される
1944年8月19日

八月四日(月)
昼食72フラン。絵ハガキ10フラン。切手代11フラン。
エコールに行き、エクゼルシスを受ける。
涼しく、昼、風邪気味の頭痛がして帰って午後ねる。よるアスピリンをのむ。
フランスのテレビもポパイをやっている。

八月五日(火)
夜食、Cabillaud(Poisson de mer) なまたらとゆで卵とトマト、ホワイトソース とてもおいしかった。
昼食 サラダと紅茶 23フラン

八月六日(水)
なんのことはない、わたしは老人ホームを東京からパリのヴィレット大通りに移したというにすぎない。ねたり起きたり、街を歩いたり・・・まだ遠出をする気力も相棒もない。久しぶりの独身天国といっていいかも知れぬ。
      *
やはり運命はわたしを赤い街区へ連れてくる─
コロネル・ファビヤンの生まれたヴィレット大通り、そのコロネル・ファビヤン広場のほとり─ちょっと下ればベルヴィル、メニルモンタン、ペール・ラシェーズの墓地・・・パリ・コミューンが最後まで抵抗し戦った赤い街区・・・ぼろをまとい鋭い眼つきをした黒や灰や黄や白の男たちが行きかう恐るべき街区・・・

マドモワゼル大和田とレ・コール・デ・ザールの前のレストランでビーフシチューを食べる。肉がたっぷりあって、食いきれない。美術学生の学生食堂で、それで200フランという安さ。帰えりにサン・ジェルマン・デ・プレの辻公園で休む。ピカソ作のアポリネールの頭部像が置いてある。なんともふしぎな頭と顔で、のっぺりとしたデフォルメ。
マロニエとアカシヤの大樹の緑の木蔭があって、寒いくらい。

八月七日(木)
午後、マドレーヌ街の大韓航空に、九月十六日の帰国便の予約にゆくが、九月じゅう満員で、キャンセル待ちのよし。どうなることやら。暑くなり、少し疲れをおぼえる。

八月八日(金)
朝、ポン・ヌフのVedettesの木蔭の芝生のうえに、若者たちが寝袋にくるまってビバークをしていた。
ボージュ広場のユゴー美術館と近くのカルナヴァレ博物館を大和田嬢と訪ねる。ユゴーの怪奇趣味のデッサンが面白い。それから老婆になった恋人ドゥルーエの肖像画。
ボージュ広場、中央に数本の大きなマロニエの茂み、そのなかに立つ馬上のルイ十五世の石像。

八月九日(土曜)
御子柴君親子とリュクサンブールからモン・パルナスの大通りを歩く。diners 170Fr,
ビュット・ショーモンの正門からはいった小さな岩山のふもとに、Clovis Huguesのブロンズの小さな胸像がある。

八月十日(日)
la cl� du changement un parti communiste plus fort. Adh�rez(赤地に白)

Avec le PCF
union dans l'action contre la vie ch�re

Je veux la v�rit� ,
je lis l'humanit�

Emploi pour tous, progr�s social , libert�s
tout d�pend de vos luttes et de vous
Adh�rez au parti communiste Fr.


ボージュ広場
ボージュ広場にて

八月二日
300ドル→1176フラン
オルリー─ダンフェルロシュロー バス代7フラン
ダンフェルロシュロー─ヴィレット大通り タクシー代25フラン
絵はがき10枚 10フラン エヴィヤン水 5フラン

八月三日
オデオンの近くのレストラン 52フラン
ユマニテとヌーヴェルリテレール 7フラン
カルト・オランジュ 80フラン
十一時 宿を出て、オデオンからセーヌの岸を歩く。ポン・ヌフを写真にとる。ポン・ト・シャンジュ(両替橋)をさがして、ポン・ド・マリーにいたる。河岸にそびえたポプラの緑の葉が夏のそよ風に揺れて輝いていた。

橋
ポン・ヌフ・・・アラゴンが詩に歌った

橋
両替橋・・・デスノスが詩に歌った
八月一日
ひとり成田空港で
パリ行きの飛行機に乗る
夢と行動にみちた若者たちを見て
わたしはパリに
何をもとめてゆくのか
と思えば
老残の身は悲しい
もうパリもわたしには墓場でしかない
わたしは パリに死にに行くのだ
   *
わたしはいま 空のなかにいる
酔うほどに 空は天国になり
わたしは文字通り 天国にいる
   *
飛行機は しかし 地獄のうえを飛んでいた
パリ地図
パリ地図
博光の持っていたミシュランのパリ地図を3枚つなぎ合わせてみました。
──東駅(ガル・ド・レスト)から/妻と二人で 道をたずねたずね
楡(にれ)の茂ったサン・マルタン運河を渡って/コロネル・ファビアン広場への/だらだら坂をのぼって行った──
東駅から東へ1Kmでコロネル・ファビアン広場、そこからさらに1Km弱でビュット・ショーモン公園です。コロネル・ファビアン広場から南東へ2Kmでメニルモンタン通りとペール・ラシェーズ墓地になります。パリ滞在中の博光の足どりが少しわかってきました。

カノンヌ家
ホームステイしたカノンヌ家の人と
カノンヌ家
ふぁびあん広場
博光は1980年夏に数ヶ月間パリにホームステイしました。
ホームステイしていた場所について、
「大佐ってなんて言ったっけ? ちがう そうじゃなくて(地図を見られ) ここだ コロネル・ファビアン(広場の)通り 偶然(フランス共産党本部の近く)だったんだよ (ペールラシェーズの北側)」(「博光語録」)と語っています。
赤鉛筆で印をつけたパリの地図がみつかりました。たしかにコロネル・ファビアン広場の東に接しているフランス共産党本部の隣の区画にあります。ビュット・ショーモン公園(E19)もすぐ近くで、毎日のようにビュット・ショーモンに行ったというのもうなずけます。
「パリの乞食」から、住所はヴィレット大通り五三番地とわかりました。

 パリ滞在中の一日、わたしはモンパルナスの駅前のホテルを出て、地下鉄(メトロ)でガール・レスト(東駅)に行った。駅前のカフェーのテラスでコーヒーをのみながら、堂々としたガール・レストの駅舎を眺めやった。
 この駅頭で、家出をして無賃乗車をしてきた少年ランボーは警官につかまって、マザスの牢獄にぶちこまれたのであった。わたしはそんな光景を思い描きながらコーヒーをのんだ。
 そこからほど近くにあるコロネル・ファビアン広場を訪ねていった。広場の一角にあるフランス共産党をさがして。あたりの壁には、この春おこなわれた大統領選挙のビラがまだそのまま残っていた。

  「みんなの幸福と自由のため
   フランスの独立のため
   フランソワ・ミッテランに投票しよう
              フランス共産党」

 ビュット・ショーモンの丘につづくコロネル・ファビアン広場はだらだら坂になった広場で、下から登っていくと、正面の角のテラスに、日本の青年が三人、コーヒーをのんでいた。あいさつをすると、ひとりはすでに六年もパリにいる画家であり、ひとりは詩学を勉強している青年であり、ひとりは陶芸を勉強にきた青年であった。
 ひとりが言った。
「こんなところに日本人がなんにきたのです?」
「フランス共産党を訪ねてきたのです」
 日本人とはパリでは、モンマルトルでも、シャンゼリゼでもサン・ミッシェルやサン・ジェルマンでもよく会うのだ。かれらはといえば、この近くに、何かペンキを塗るアルバイトにきて、テラスで一ぷくしていたのである。

パリ
コロネル・ファビアン広場と近代的なフランス共産党の建物
パリ
パリ
お供え用の花を手にペール・ラシェーズ墓地へ

パリはもう寒かった
わたしの好きなモンパルナスの大通りを
西から東へ
冷めたい木枯しが吹き抜けて
マロニエの黄色い枯葉が
からからと乾いた音をたてて
わたしを追いかけてくる
それはまたヴェルレーヌの見た枯葉なのだ
わたしは身をふるわせて
ホテルに駆け込んだ

一九七八年十一月二十三日

(博光の日記より)