博光/静江 物語

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



  黎 明
              大島博光

休息やすらひの闇影の なほ消えがてに躊躇ためらへる
朧ろなる森蔭の しみづたたへし泉にも
もやらず めくるめき 夢想ゆめみに燃えしわが眼にも
いと仄か あかつきの薄明うすらあかりは訪るる・・・

ほの白み 茉莉花の窓べのうつろへる
死の床にただひとり 死にゆくひとの瞳にも
いとうまし夢つつむ をとめの薔薇のまぶたにも
まどろみと覚醒めざめとのあはひに淡く訪るる・・・

されどはや 白楊はくやうの高き梢に鳩はきて
いちはやく 葉を揺する朝の微風そよぎにゆあみして
咽頭羽根の ど ば ねに紫に 射しいづる太陽を望みつつ




くれないに明けゆける純粋きよら時間ときを告げうたふ
今ははや 熟睡うまいより女人をみなも覚めて身をよそ
照りはゆ花房はなぶさうつる鏡に微笑ほほえみつつ・・・


(静江への手紙 「光のなかで制作の歓びに浸っているあなたが見えるやうです」に同封されていた詩)


市民新聞
(5月24日)
 大島静江と絵画
  ──企画展「博光/静江物語」によせて
                    /大島朋光

愛の物語
 ──お母さんはよく《お母さんはお父さんと結婚してほんとうに良かった。こんなに良いお父さんは世界中にいないのよ》とまるでうたうたうように私に話してきかせたものです──小林園子さんが語る博光と静江の愛の物語のさわりの部分です。──十五歳も年上で結核、収入のない詩人と結婚して苦労したのに、静江さんは娘の桃子さんにこう言っていたのです──。聞いた方からは「心に響いた」「感動した」との感想を頂きます。
 静江は女手一つで花屋を始め、働きに働いて博光を支え三人の子供を育てましたが、一方で絵画や音楽、スキーや山登りなどにも情熱を燃やしてエネルギッシュに生き、たくさんの絵を描きました。大島博光記念館の今年の企画展は「博光/静江物語──ひまわりのように咲いた静江の生と絵」と題して、静江の生き方と絵画に光を当てることにしました。

女学生時代に芸術に目覚める
 女学生時代に芸術に目覚めた静江は理想に燃え、封建的町家に反逆していました。卒業後上京して叔母の家に寄宿し、本郷絵画研究所へ通ってデッサンを学びました。画家と交流のあった博光と知り合い、芸術を理解する同志を得ることになります。戦争末期に松代で結婚し、戦後、民主的な書籍の取次商をしながらオルガナイザーとして女性の組織化や労働争議の支援に走りまわりました。

花屋をしながら美術学校へ
 昭和二十五年に一家は東京三鷹に転居し、静江は二人の子供を抱えながら花屋を始めたのでした。翌年には武蔵野美術学校の聴講生となり、仕事の合間に絵の勉強に通いました。また、地域の油絵を描くグループに加わって、デッサン会に参加していました。小さかった私は、自転車の荷台に乗せて連れて行かれたデッサン会場で、大人たちがヌードモデルを囲んで描いているのを見て目を見張ったものでした。
 静江は子供たちにも絵を描かせたくて「子供のアトリエ」という絵画教室に通わせました。私や弟の絵が東京地区のコンクールに入賞すると大喜びして見にいきました。次男秋光には小学生のうちから個展を開くなどして熱心に絵を学ばせました。秋光は美術大学に進学し、卒業後は学校の先生をしながら絵画の道を歩むことになります。

音楽やスキーに情熱を燃やす
 三十才から静江はクラシック音楽に情熱を燃やします。演奏会に通い続け、ヴァイオリンのレッスンを受け、合唱団に参加しました。一方、山野草や野鳥にも熱を入れ、休日には信州などの山々に通いました。五十才にしてスキーに熱中し、冬は毎週のように日帰りスキーに出かけ、絵を描く生活からは遠ざかっていました。

療養生活に入って絵を描く
 静江が再び絵を描くのは五十九才でパーキンソン病になってからです。「私の生きがいだったのに」と泣く泣く花屋をやめた静江ですが、やっと絵を描く時間がもてるようになりました。庭に面した部屋の真ん中にベッドを置き、脇にイーゼルを置いて絵を描く生活が始まりました。たくさんの花の絵を描きました。「ただただ花が好きでたまらないという気持ちから、こんなにもいい絵が生まれるのかと、新鮮に感じました」と静江の絵をお持ちの加川さんが述べています。
 病気が進行して入院してからも、ベッドの上で必死になってスケッチブックに描いていました。手の震えがひどく、思うように鉛筆が動かなくてどんなに悔しかったことでしょう。

作品について
 花や静物、風景、人物、ヌード、自画像などの作品を残しましたが、花の絵が最も多く、ひまわり、アネモネ、あじさい、りんどうを好んで描いています。水彩画もあり、花の美しさを鮮やかな色彩で表現しています。
 母の病気を治すためには何の役にも立たなかった私ですが、この様な形で初の個展を開くことが出来て、罪滅ぼしのひとかけらにでもなっただろうかと考えています。

<『狼煙』69号>
結婚
 戦争末期の昭和20年5月に二人は松代で結婚した。静江の父静一は結婚に反対して参列せず、母だけが前橋から付き添ってきた。結婚は詩人としての展望が見えずに結核で療養生活を送っていた博光にとって、新しい人生への出発となった。静江にとっても結婚は古い束縛からの解放であり、”すべては自由で、すべては明るかった”。

松代で活動
 結婚しても博光は結核療養のため千曲川で鯉釣りをする毎日で、静江が畑仕事を手伝っていた。結婚して3ヶ月後に日本軍国主義は敗北し、民主主義的変革の時を迎えた。翌年2月、博光は日本共産党の演説会で演説を聞いて感動し、その場で入党、民主革命をめざす新しい詩運動を始めた。静江も書籍取次商をしながらオルガナイザーとして女性の組織化や労働争議の支援に乳児を背負って走りまわった。若くて活動的な静江の存在を励ましとして病弱の博光も衆議院選挙闘争に取り組み、『ランボオ詩集』(蒼樹社)刊行や詩誌「うたごえ」発行、アラゴン「フランスの起床ラッパ」の翻訳などに取り組んだ。
──松代に帰って でもそれが良かったんだね 結核の療養をして 半年くらいいたんだよ その時に遊びに来たんだ で 温泉へ行ったりして その頃家一軒買えるくらいの退職金をもらって それを全部使って家には全然入れないんだから いい気なものだよ──(尾池和子「大島博光語録」)

昭和19年2月の「蝋人形」誌解散で失業した博光だったが、高額の退職金を得て優雅に暮らしていた。郷里・松代で療養生活に入りながら、同年5月から8月まで軽井沢・沓掛の宿を定宿にしてフランスの詩人を訳したりしていた。昭和20年3月、静江との仲が公然となってからは、二人で金沢へ温泉旅行に行ったり軽井沢・追分で逢ったりしていた。静江の父親・静一は二人の結婚に反対だったが、静江は意に介さなかった。
きみはやってきた

前年10月から親に秘密で文通していた博光と静江は昭和20年1月3日、長野駅頭にて運命の再会をする。3月、召集令状(赤紙)を受け取った博光は、公然と前橋の鈴木静江へ「おいで乞う」の電報を打った。その深夜、静江は屋代より千曲川の土手を伝って3里、西寺尾の里にたどりついた。この情熱的な行動によって二人の仲はいっそう強くなり、親との関係でも大きく踏み出すことになった。