ランボオ論 Criticism of Arthur Rimbaud

ここでは、「ランボオ論 Criticism of Arthur Rimbaud」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 スウルレアリストの抗議
                          大島博光譯

 一九〇一年シャルルヴィルに建てられたランボウの記念像が世界大戦中独逸軍に破壊されたことは余りにも有名な話である。
 再度の記念像が、一九二七年に造られた。スウルレアリズムの詩人達は、銅像建設委員どもが、少しも正当にランボウを理解してゐないこと、従つて記念像再建が一つの冒涜に過ぎないこと等に憤激して、除幕式の際、左に紹介する抗議文を、委員の手許に送付した。文中の六号活字は、ランボウの手紙、散文詩その他からの引用文である。
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   抗議文

      スウルレアリスムがなかったなら,私は少し
      しかランボウを理解しなかったであろう。
             ──エルネスト・デゥラへイ──

  一九二七年十月廿三日 於巴里
  アルデンヌ州議員殿
  シャルルヴィル市長殿
  諸名士殿
  アルデンヌ詩人協会長殿

 今日、諸君はアルチュル・ランボオ再建記念像の除幕式を挙げ、そのために地方的な小さな祭典を催す責任を有して居られる。諸君の企てにまたしても輿論の参興が欠けてゐることは遺憾である。それでは何にもならないことはわれわれが保證する。実に諸君は、ルイ・バルテゥ氏を混乱させることにも、たとへ一瞬時ではあれコムミュニスムから受けた不安を感ぜぬまでに氏を導くことにも、又最近氏が牢獄の御用商人たる役割を演じて奔走の余り忘れ果ててゐたかに見える進歩主義者たる投割を、氏の裡に自覚させることにも、成功しなかつたのではあるまいか。
 諸君、諸君は愛国的熱狂に赴くには機会を間違った。諸君の祭らんとするところのものは諸君にとって嫌悪の姿態と憎悪の表現に過ぎない。かくて諸君は、フランスのために死んだ作家──エリオットの所謂、「大戦中にフランスが守つたところのものを一身に集めてゐた精神の騎士達」──の光栄とは全然反対の光栄を永遠に享受するに過ぎないであらう。
 実に、諸君はランボウとは何者であるかを知らない、諸君は新にランボウを彼自身によつてよく知るべきである。

 僕の生れ故郷の町は田舎の町々の間でも一等愚劣だ。こんな町にもう夢を織るまい。町はメツチイエル──二度と見られない町──の傍にあるからだ、町の通りを歩兵が二三百ぶらついてゐるからだ。あのメッツやストラスブルグの包圍された連中とはちがつて、お利巧さうに決闘好きで、勿体ぶつた幸福な民衆がぶらついてゐるからだ。凄じいことには、後備の乾物屋が軍服を着けてゐる。更にひどく驚くことには、公證人、硝子屋、収税吏、指物師その他すべての有象無象が鐵砲執つて、祖国は立てり!と、メッツイエルの城門を守つてゐる。……僕は、僕は坐つてゐる祖国の方が好きだ。長靴を動かすな! それが僕の信條だ。
            (一八七〇年八月廿五日)

 祖国のために死んだ戦死者の記念像の存在と、敗戦主義──戦争中諸君が銃殺した活動的敗戦主義──の最高観念の権化であつた人間の記念像の存在とを、諸君は町内で如何に調和させるのであるか。それを知ることはわれわれには興味深いことである。

 戦争──メッチィエル攻圍の足並み。いつまで続くのか。誰もそのことはしやべらない……──あちらにもこちらにも義勇兵。馬鹿さ加減の醜悪な痒疹(さかしい)、それが民衆の精神だ。ひどい物音が聞えて来る。うるさい! まるで風俗壊乱だ。
               (一八七〇年十一月三日)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
僕はアルデンヌがもっともつとひどく占領され、しぼりとられることを切に切に願ふ。しかし、依然として変らない。
                 (一八七二年六月)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
一昨日、こゝから七粁のヴッツイエルで 一萬のプロシヤ人の一群を見た。それですつかり僕は愉快になつた。
                 (一八七三年五月)

 フランスは凡ゆる方法でランボウを嫌悪させたのである。フランスの精神、その偉人、その風習、その法律は、ランボウにとつて世界に存在し得る最も無意味なもの、最も低級なものを象徴してゐたのである。

 何んといふ醜悪さだ、このフランスの田舎は。何んといふ汚さだ、何んといふ無智の怪物だ、この百姓達は。晩に一寸飲むためには二里以上も歩かねばならない。母はこんな憂鬱な穴に僕を閉ぢ込めてゐるのだ。
                 (一八七三年五月)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
いつもながら、肺病で滑稽で意地悪なフランスの植物だ。脚の短い犬の腹が
そのくらがりをおつとり航海する。
… … … … … … … … … … … … … … … …
 

 ミュッセはわれわれ幻影に憑かれた苦悩の世代にとつて十四回も憎むべきである。如何に彼の天使の怠惰が汚辱したことか。おゝ、下手なコントと諺。おゝ「夜」も「ロオラ」も「ナムウナ」も「盃」もすべてフランス的だ、即ち極度に憎悪すべきだ。フランス的だが、パリ凰ではないのだ。またもこの恨むべき天才の一作がラブレエ、ヴォルテェル、テェヌ氏に註釈されたジャン・ラ・フォンテェヌを鼓吹したのだ。青春なるかな、ミュッセの精神は! 愛すべきかな、彼の恋愛は! こゝ
に七寶焼の絵画が、確乎たる詩がある。「フランス的」な詩がしかもフランスに於て長い間玩味されるであらう。
             (一八七一年五月五日)

 ランボウとは? 彼は目前の死者に人口が敬礼するのに我慢出来なかつたものである。彼は教会の壁に「神なんかくたばれ!」と書いたのである。彼は「鐵兜をつけた七三個の軍団と同じ位不撓不屈な」母を愛さなかつたのである。
 ランボウとは? エルネスト・デゥラヘイ氏の証言によればコムミュニストであり、「ボルシェヴイスト」である。

 ──必重な破壊だ……ほかの古い樹も伐り倒されねばならない。ほかの古い樹蔭での愛すべき習慣も失はう。この社会そのものも。社会にも斧が入れられ、鶴嘴が入れられ、修道轆(ぢならし)が轉ばされるだらう。「すべての谷は埋められ、すべての丘は低められ、曲りくねつた道は眞直になり、凸凹の道は平坦になるだらう。」財産は平坂され、個人的な倣慢は打ち挫かれるだらう。「おれが一番金持で権力家だ。」と、もはや誰も云ひ得ないだらう。あの傷しい羨望と阿呆な讃嘆とは、すべての人々の間の平和な和合や平等や労働によつて置き代へられるだらう。」
                                                  
 ランボウとは? 彼も諸君の如く生活したのである、シヤルルヴィル愚民諸君、だが考へても見給へ、これが生きるなどと言へやうか。彼は酔っ払っぱらつた、彼はなぐつた、彼は橋の下に寝た、彼は虱にたかられた。
 しかし、彼は働くことを怖れたのである。

 断じておれは働くまい。
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 働くことは嫌らしい。
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 決しておれたちは働くまい、あゝ火の悔が!
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 おれには凡ゆる職業が怖ろしい。親方も職工も、すべての汚い百姓も。ペンもつ手も鋤執る手も同じことだ。──何んと手ばかりもの言ふ世紀だ。──おれは手なんか持つまい。

 地上にも何處にも何らの希望をつながなかつた彼は、たゞいつも何處かへ出掛けて行くことばかり考へてゐた。諸君の決して知ることのないあの怖るべき倦怠(アンヌイ)の虜(とりこ)になつて。彼は世界を股にかけ、荒涼たる土地にまで、彼自身にもわれわれにも。最も悲しむべき影像(イマアジュ)を求めて駈け巡つたのである。

 あゝ、私はもはや人生のすぺてに何の繋がりも持つてゐない。生きてゐると云つても、疲労を食つて生き……そのひどい気候の中で、途徹もなく激しい遣瀬なさで身を養ふ習慣になつてゐるだけだ……一体、われわれはこの人生で数年間のほんたうの休息を楽しむことが出来るのか。「幸ひにこの人生はたつた一つであり、それは明白なことだ。」といふのはこの人生よりももつと大きい退屈(アンヌイ)のつきまとつたもうひとつほかの世なんか想像することも出来ぬ。
         (一八八一年五月廿五日、アデンにて)

 諸君の汚はしい貧弱な人生を組み立ててゐる凡ゆるものへは彼の気に喰はなかつたのである。彼はそれらすべてを嘔吐したのだ。

   みんな戦争に、恐怖の復讐に行く。
   おれの心よ、傷口の中に引き返へさう。 
   おゝ、行け行け、この世の共和国!
   皇帝、聯隊、移住民、群衆、もう沢山だ!


 彼は常にこの世に存在するものには反対であつた。諸君は単にそれを忘れた風をしてゐるに過ぎないのだ。誤魔化さうとし給ふな。諸君は「ざらにある」詩人のためには記念像を建てないで、この記念像を怨恨と下劣さと復讐とを以つて建てるのだ。諸君は「徒刑場にいつも閉ぢ込められた手のつけられぬ徒刑囚」を讃美してやまなかつた者を、汚はしい土地の醜悪な半心像に變形しようとするのである。

                シャルゝヴィル停車場廣場
   樹も花もみな端正な辻公園
   けちな芝生で裁(た)たれた廣場は、
   暑さにブルジョアが息切らし
   毎木曜の晩、その愚劣さをお大事に持参する。

 「この世のものごとの奇怪な反覆、とペリション氏は書いてゐる、一九〇一年に建てられた銅と花崗岩のランボウ記念像はこの停車場廣場に立つてゐる。この停車場贋場へは毎木曜日にシャルルヴィルの市民がいつよりも軍楽隊を聴きに行く。しかも、この軍楽隊は記念像の除幕式に「酔ひどれ船」に霊感を得たエミイル・ラテの交響楽の改作を演奏したのである。」  
 軍楽隊! 諸君は歌手のことなんか忘れて了つてゐる。
 諸君の顔が「イエスの腐つた接吻」のためにつくられてゐるやうに、「旗は汚らはしき風景の中を進む」のである。
        ★
 影は侵略的な沼の上に日々重く濃くなるやうである。偽善はその醜悪な手を人間の上に拡げる。常に闘ひとつたものを保存しょうとするわれわれの愛する人間の上に。勿論われわれはかかる公奪の企てに誤魔化されはしない、諸君の恥ずべき習慣的な運動にひどく驚きもしない。全体的完成の力は諸君を裏切つて、世界の眞に霊感を得たすべてのものを鼓舞することとわれわれは信ずる。☓☓☓☓の記念像が完成しようと、☓☓☓☓の全集が出版されようと、最も破壊的な理知(アンテリジアンス)が利用されようと、われわれには大した問題ではない。何故なら、彼等の素晴らしき毒液は永遠に青年の魂の中に浸み込んで行き、彼等を汚すか偉大にするかどちらかである。
 今日、除幕される記念像は恐らくこの前の銅像と同じ運命を辿るであらう。この前の銅像はドイツ人によつて破壊され、弾丸の製造に役立つた筈である。そしてランボウは、その弾丸のひとつが諸君の「停車場廣場」をこつぱみぢんに粉砕し、又彼の光栄を汚らはしくも周旋しようとした博物館を、灰燼に帰するのを待つてゐたのである。

 牧師、先生、師匠の方々(かたがた)、君達が間違ってゐる、おれを裁きの手に引き渡すなんて。おれはかつてクリスト教徒だつたことはない。おれは地獄の苦しみの中で歌歌ふ人種なんだ。おれは法なんか理解しない。良心なんか持ち合はせぬ。おれは獣なんだ。君達が間違つてゐるんだ。      
 
 アレキサンドル、アラゴン、アルプ、バロン、ベルナアル、ボアファアル、ブルトン、カアリイヴ、デスノス、デュアメル、エリュアル、エルンスト、ジェンバック、ゴオマンス、ウウルマン、レエリ、ラムヴウル、マルキイヌ、マツソン、モリイズ、ナヴイル、ノル、ノオジェ、ぺレ、プレべエル、クノオ、サドゥル、タンギイ、テウアル、ユニツク、

<『文藝汎論』昭和10年(1935年)8月>

ランボオ像

* 詩「ランボオ
ランボオのこと
                 大島博光

 木津川昭夫さんからランボオについて何か書かないかと誘われたので、ちょっと自己宣伝めくが、書いてみよう。
 この夏、わたしは『ランボオ』(新日本出版社)を出したが、思えば学生時代からのランボオとのつきあいということになる。つまり、わたしは学校の卒業論文のテーマにランボオを選んで、それから五十年後にようやく小冊の『ランボオ』を書くことができたということになる。われながらやはり深い感慨をおぼえる。
 卒業論文でランボオにとりくんでいた時は、ほとんど無我夢中で、参考書、研究書に出てくる「反抗者ランボオ」という言葉ばかりが眼についた。しかしその言葉がかかえる内容はあまりはっきりとはつかめなかった。
 その後、一九七四年八月、わたしは初めてランボオの故郷シャルルヴィルを訪れることができた。この放浪の詩人が「風の靴」をはいて、さまよい歩いたアルデンヌの野やムーズ河のほとりを見たり、「ランボオ博物館」を訪れた。そのことによって、「言葉の錬金術」の密室の詩人が、はじめてアルデンヌの大地に立っていたこと、そのアルデンヌの野からパリヘ、ロンドンヘ、はてはエチオピアのハラルの砂漠へとさまよったことが、眼に見えてきたように思う。
 むかしは水車小屋だったというランボオ博物館は、ムーズ河の河岸にたっていた。その三階がランボオの記念室で、一階と二階はアルデンヌ地方の郷土資料館になっていて、むかしの鍛冶屋の道具類、古いフイゴ、大きくて重そうな鋤、やはり重そうな木靴(サボ)、森の中で小鳥やけものをとらえるワナやカスミ網のたぐいなどが陳列されていた。それらは、フランスのこの辺境の地方における人民の生活ぶりをいまに伝えていた。そうしてランボオもそういう人民のなかから出てきたのである。
 よく、ランボオがパリ・コミューヌにじっさいに参加したのか、しなかったのか、という問題が提起されて、そのセンサクが行われる。しかしそんなセンサクに大した意味はないだろう。ランボオが銃をとって参加しようとしまいと、彼はコミューヌの子なのである。彼が抱いた革命的思想、社会主義の理念は、その弱さ、古さをふくめて、まさにコミューヌの時代のものであった。コミューヌの時代を生きたジャン・フォランはその頃のイデオロギー状況をつぎのように語っている。
 「コミューヌという矛盾にみちた運動の時代には、いろいろなイデオロギーがあった。それらのイデオロギーがどのようなものであれ、あの当時作られていたような運命にたいするひそかな反抗は、すでに数多くのコミューヌの士を集めていた。ランボオはより現実的で真実の世界を熱望して、その反抗に参加したのである」

(「日本現代詩人会報」昭和62年12月10日)

 ランボオの何を追憶するか
    没後100周年によせて           大島博光

 フランスの天才詩人アルチュール・ランボオが、一八九一年十一月十日、マルセイユの施寮病院で梅毒性関節炎のために三十七歳の生涯をとじてから、ことしは百年になる。フランスのいくつかの雑誌は「ランボオ」特集を組んで、この詩人を追憶している。なにしろ、その無類に美しい詩、『酔いどれ船』、「ダイヤモンドの散文詩」『地獄の季節』(ヴェルレーヌ)などの作品とともに、たちまち詩筆を折って、エチオピアの砂漠にまでいたる、放浪をつづけた波瀾の生涯など、ランボオの愛読者、愛好者はいまもあとをたたず、いまなお多くの研究書が刊行されている。しかも、詩人の詩や思想や行動についての解釈や評価は、批評家の数と同じほどにも多様である。クローデルのように、ランボオをカトリックと見なすものもいれば、町の貧民街が生んだ浮浪児──捨て育ちに育った野性の浮浪児のひとりとみなすものもいる。また、めまい・眩暈(げんうん)を定着した幻視の詩人の側面を強調する批評家もいる。
 そこで、われわれはいったいランボオの何を追憶し、何を模範とするのか、という問題が出てくる。
 わたしは、受けつがれるべきは、この詩人の積極的な側面であり、この詩人が叫んだ真の声である、と考える。それを見きわめるためには、この詩人を彼の生きた時代と空間のなかに据(す)えて見なければならない。
    ◇
 ランボオが詩を書いたわずか五年ほどのさなかに、パリ・コミューヌの革命が起きた。そのとき彼は十七歳の若者というよりは少年であった。しかし彼はすでに「感覚」「わが放浪」などのすばらしい詩を書いていた詩人であり、家庭への反抗を社会への反抗に向けていた早熟な少年であった。こうして彼はパリ・コミューヌに自分の夢を託し、パリ・コミューヌが勝利した一八七一年三月十八月、「コミューヌ宣言」の知らせに、彼は歓喜して叫んだ。
 「やったぞ! 保守が敗けたんだ」(ドゥラエの証言)
 コミューヌが敗北すると、ランボオは「パリのどんちゃん騒ぎ」を書いて、コミューヌを圧殺したブルジョワどもを痛烈に罵倒(ばとう)する。この詩は虐殺されたコミューヌ戦士の叫びそのものである。
 コミューヌ敗北後の一八七三年、彼は有名な『地獄の季節』を書く。こ傑作の背景、風景は、「おれは見た、炎の海と空を蔽う煙りを。左に右に、あらゆる財宝が無数の雷のように燃えあがり……」「火と泥だらけの空をした巨大な都市」である。詩人ジョルジュ・ソリアの指摘するように、『地獄の季節』は、コミューヌがランボオに残した痕跡なしには、あのような高みには到達できなかっただろう。
 ランボオはコミューヌをわがものとして支持し、たたかうコミュナールの姿を「ジャンヌ・マリィの手」のなかに書いた。そしてコミューヌが敗北すると、絶望した彼はいさぎよく詩筆を折ってしまう。
    ◇
 ランボオから、これらコミューヌにかかわるものすべてを捨てさるようなランボオ解釈には、反抗を抜きにした「野性の状態における神秘家」(クローデル)が残るだけであろう。そしてランボオの沈黙、逃亡を模範とするような人たちがそれにつづくだろう。
 コミューヌを圧殺した社会的条件はランボオをその沈黙、逃亡へと追いこんだのである。詩を捨てた詩人はアフリカの砂漠へ逃げた。アラゴンは大戦さなかの一九四一年に書く。「ランボオからゴーギャンへと七十年来、われらの儚(はかな)い夢想を支配してきた逃げの精神……」と。
 そしてアラゴン、エリュアールたち、一九二〇年の若者たちは、ランボオの「逃げの精神」ではなく、反抗をうけついで、これを延長したのだった。
 (おおしま・はっこう 詩人)

ランボオの何を

<1991.7.14 赤旗日曜版>
 ある郷土資料館
                        大島博光

 数年前、わたしは天才詩人アルチュル・ランボオの生地シャルルヴィル・メッジエールを訪ねた。パリから特急で二時間半ほどの処である。フランス西北部の辺境の地で、ベルギー国境にあるアルデンヌ県の県庁所在地である。第二次大戦ではドイツ軍の機甲化部隊が怒涛(どとう)の進撃をつづけた処でもある。
 わたしはまずランボオ博物館を訪れた。それは石造りの三階建てで、ムーズ河の岸べにあった。十七世紀に建てられたもので、むかしは水車小屋であった。ランボオの記念室は三階にあって、一階と二階は郷土資料室になっている。フランスでは、どこの町でもこういう郷土資料館というものがあって、その町や地方の生んだ詩人や芸術家の記念室をそこに併設するのがならわしのようである。
 この郷土資料室も独特のものであった。森のなかで小鳥を捕らえるワナや、カスミ網に似た網仕掛けなどが陳列されていて、その網を操作している絵図や、それを描いた油画までがかけてある。またこの地方の古い家具調度品や陶器、皿、ランプのたぐいも並べてある。とりわけ眼をひくのは、この地方で使われていたむかしの鍛冶屋の黒ぐろと錆びた道具類である。一八世紀から十九世紀中頃まで、一日十五時間労働で、この鍛冶道具で釘などをつくった、という解説がついている。それはマニュファクチャーという言葉に、汗の匂いと労働のひびきをあたえて肉づけするもののように見えた。
 それから重そうな大きな鋤(すき)や、やはり重そうな木靴(サポ)などが、アルデンヌの野づらでの、つらい畑仕事をいまに物語っている。それらはいわばフランスの辺境の地で、人民が遠いむかしから、フイゴを動かして釘や鋤をつくり、木靴をはいて畑を耕し、森で小鳥を捕ったり狩りをして、一生懸命に働いて生きてきた、その息遣いや、そのなかであげた陽気な歌声さえをも、いまに伝えているのである。パリ・コミューヌをほめたたえた反抗詩人ランボオは、こういう人民のなかから生まれてきたのだ──この郷土資料館はそのことをわたしに教えてくれたのである。  (おおしま ひろみつ=詩人)

<『明日の農村』1985年3月号>


ランボオに

<『大島博光詩集』草稿>
ランボオとエリュアールのことなど
                        大島博光

 詩人ジャック・ゴーシュロンは、ピカソを語るにあたって、とりわけ「アヴィニヨンの娘たち」のもつ深い絵画的意味をさぐるにあたって、ランボオの言葉を引きあいに出してつぎのように語っている。
 「・・・ランボオは『地獄の季節』のなかであの神秘的な言葉を吐いている。
 (ある夜、おれは『美神』が苦々がしいものに思われた。そこでおれは『美神』に毒づき侮辱した)・・・ピカソの作品は(ピカソそのひととは無関係に)完全に、このランボオの言葉の一種の解説であり、挿画である、とわたしは考えることもできる・・・
 美は、画家ピカソの膝のうえに据えられて、毒づかれ侮辱されたのだ。美は、忘れえぬ形象となり、非人間的な形象となった。
 そしてランボオが『美』を侮辱した後、『荒唐無稽なオペラ』とかれの最後の挫折を語った後に、──「おれはきょう美を尊敬することができる」──という新しい言語、新しい詩法を発明したように、ピカソもまた絵画のなかに、ちがった次元の美を創造するにいたる。それは、ちょっと見ただけではわからない、いっそう秘められた、見かけは辛辣で、腐飾的な美である・・・」
              (拙著『ピカソ』四九ページ・新日本出版社)
 ランボオが毒づいた「美」は、当時の高踏派(パルナッス)の詩人たちの「象牙の塔」の美である。おなじように、ピカソが毒づき侮辱したのも、現実のうつろな美化につとめる古典的な美にたいしてであった。
 ランボオが当時の高踏派の詩人たちともっともちがう点は、彼が詩と生とを引き離さなかった点にあった、と見ることができる。彼はしばしば、街道を飲まず食わずに放浪しながら、パリの橋の下や、セーヌ河の石炭船のなかに寝ながら、おのれの生きざまを詩に書いた。しかも「ダイヤモンド」(ヴェルレーヌ) のような言葉で書いたのだ。しかしまたパリ・コミューヌへと高まって行った人民の高揚をも「朝のよき想い」や「ジャンヌ・マリーの手」のなかに歌った。M・A・リュフはこういうランボオをこう書く。
 「ランボオの革命的モダニスムは、生ける現実から切り離された、型にはまった因襲的な詩の虚偽に根本的に対立している」と。
 ランボオが詩を放棄して、詩人であることをやめた後でさえ、彼の人生は彼の詩の延長線上にあったのではないか。死の前、アデンの砂漠のなかで悲惨な貿易商人の生活をおくったのも、それによって彼は見果てぬ夢を追いつづけ、ヨーロッパヘの反抗をまっとうしたものとも見ることができる。しかしアラゴンはまた、一九四二年、ナチス・ドイツ軍にふみにじられたフランスにおいて回想する。
 「ランボオからゴーギャンへと七十年来、われわれの儚ない夢想を支配してきた逃げの精神・・・」 (『アンリ・マチス・ロマン』)
 さて、こうしたランボオの逃げの精神ではなく、その反抗をうけつぎ、それをさらに発展させた詩人としてエリュアールやアラゴンをあげることができる。シュールレアリスム運動を展開したとき、彼らが旗じるしとかかげたのは、ロートレアモンとともにランボオであった。そうしてこの二人の詩人が、ランボオにならって、ブルジョワ芸術に反抗し、これを侮辱して、シュールレアリスムからレアリスムへと発展して行ったことはよく知られている。
 象牙の塔を破壊した詩人たちは人びとのなかへ、人民のなかへ入ってゆく。一九三六年、まだシュールレアリストであったエリュアールは「詩的自明のこと」のなかに言う。
 「すべての詩人が、ほかの人びとの生活のなかに、共通の生活のなかに、根深くはいり込んでいる──そう主張する権利と義務をもつ時代がやってきた・・・詩人たちの孤独はこんにち消えうせる。いまや彼らもふつうの人びとのなかのふつうの人間であり、いまや彼らにも兄弟がいる・・・」エリュアールは生涯、この自分の言葉を忠実に守って、人民の詩人、人民のなかの詩人となる。レジスタンスのなかで、ナチス・ドイツ軍に屈服することなく闘った詩人たちの詩作品をみずから編集した「詩人たちの名誉」の序文にエリュアールは書く。
 「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を執れと呼びかけたユゴー、パリ・コミューヌに霊感を吹きこまれたランボオ、みずからも奮いたち、ひとをも奮いたたせたマヤコフスキー──いつかある日、広大な見地に立った詩人たちは行動へとみちびかれたのだ・・・闘いこそが詩人たちに力を与えることができる・・・」
 エリュアール晩年の最後の長詩「貧乏人たちの城(シャトー・デ・ポープル)」は、貧乏人たち──人民の生活の真の姿を詩のことばで描き出している。

  まさにやつらはつけこんだのだ
  貧乏人たちの疲労に その眠りに
  「貧乏人たちの城」のまわりで
  すべての犠牲着たちのまわりで
  腹をむき出しにした人たちのまわりで
  子供を生んだり死んだりするために
  そしてやつらは言った 生きさせてやると
  それは大量に死なせることだ
  そしてやつらは詩を口ずさんだ
  理性を曇らせるために
  牢獄を居心地よくするために

 この最後の三行は、ある種の詩の役割を痛烈にあばいている。たとえば芸術至上主義の詩などの役割もそこにある。牢獄を破壊し、牢獄をなくなすためにではなく、そこに人びとをつないでおくために。「牢獄を居心地よくするために。」牢獄に気づかないように、そうして牢獄にいることを忘れさせるために。
 フランスの南西部ペリゴール地方に、「貧乏人たちの城」と呼ばれる古い小作農湯があった。そこからほど遠からぬところで、エリュアールはこの詩を書いた。彼はこの「貧乏人たちの城」をみずから状況の詩とよんでいるが、彼はまだ鎖から解放されない人民の状況を、その典型を、そこに見いだしている。そしてこの貧乏人たちは、彼らを結びつける「長い鎖」──連帯によって、ついには光へと到達し、俸大な希望へと到達せずにはいない。
 同じ頃書かれた「詩は伝染しやすい」(一九五二年)にはこう書かれている。
 「・・・ゴンゴーラ、エドガ・ポオ、マラルメはたしかにみな詩人である。
 だが、ドラマはどこにあるのか。「おれたち」と言う詩人たちのところ以外には。自分の仲間といっしょになって闘っている詩人たちのところ以外には。詩は闘いのなかにある。
 真の詩人たちは、詩が彼らだけのものであるなどとはけっして考えなかった・・・詩は生活のなかにある・・・」
 これが「ゲルニカの勝利」「自由」の詩人が到達した高みである。きわめて単純な真実でありながら、実践によってしか到達できない高みである。

  幸福になるためにはひたすらはっきりと見て
  あやまりなく闘わねばならぬ

  体をかがめていた人間が立ち上り
  ひと息入れて勝利を叫ぶ
  隣人にむかって無限にむかって
             (「貧乏人たちの城」)

  愛するとは闘うことである。
  愛さないものは闘わない。

                          一九八八年二月

<詩誌「柵」>

ランボオについて
                          アラゴン
                          大島博光訳

  一貫したイデオロギーこそ持ちあわせなかったが、われわれはかずかずの賛美賛嘆をもっていた。そしてわれわれはまったくあの中世の聖職者たちのように振舞っていた。彼らにとって、およそ知恵は『福音書』の中にあり、他の者たちはヴイルギリウスの中にあると言って、自分の書物をでまかせに開いて、見いだした最初の文章を詩的に解釈して、そこから一つの予言、一つの教訓、一つの指針を読みとったのだ。われわれの聖なる文書は、季節とともに少しは変った。この変化の物語はわれわれをたいへん遠くへ導くことになる。要するに、われわれを特徴づけていたもの、そしてその後も長くわれわれをつかみつづけるだろうもの、それはわれわれがランボオに傾倒した最初の世代であったということである。
 われわれの以前に、他の人たちがランボオを認めて愛したことを、わたしは承知している。例えば、クローデル。しかしかれらは、彼ら自身の仕組みの中にランボオを組み入れたのだ。アポリネールの世代にとっては、この世代がランボオの中に主体主義の正当化を見るにつれて、ランボオに熱中した。われわれは、大まかに言えば、最初に、ランボオの光でこの世界を見直した者たちであった。以来、人びとはこの方向で大いにわれわれのあとについてきた。ランボオ主義は、ひとりフランスにおいてだけでなく、世界において、若い知識人たちの主流となった。ランボオ主義は、人類の精神史が考慮に入れなければならぬだろう一要因となった。それが善となるか悪となるかは別問題である。だが考慮に入れなければならぬだろう。ランボオ主義、つまり近代的感性のきわめて特殊な一形式によって生みだされた、もろもろの観念、イメージ、人間的反応の一綜合体は、とくに、一貫したイデオロギーを持たない若者たちには気に入るものであり、彼らにとってイデオロギーの代りとなるものであった。彼らは、非哲学的な道を通って、アルチュール・ランボオの詩とその伝説という二つの道を通って、そこに到達した。彼らはそこに、過去の数世紀のあらゆる詩人たちによって提起された諸問題の解決をみいだした。詩的問題そのものの解決、詩人としての存在についての問題、あるいはファウストにおける言葉と行動の葛藤のなかでハムレットにならないという問題の解決を見いだした。彼らはそこにあの陶酔を見いだした。若きランボオにおける詩的天才とその天才を放棄する者との共存、『イリュミナシオン』とハラルの共存を見いだした。ランボオ主義、つまり、ランボオの作品と模範が、今世紀より数年年長の人々に与えた、強烈な美学的および精神的な影響は、この世代から始まって、恐らく終りはしないが、それが或る若者たちに或るゆるやかな連帯のような印象を与えることを説明はしないが要約し得ている。結局、それは彼らにとって思想の代りになっていた、ということができる。
 わたしは、メルキュール・ド・フランスのポケット版の『イリュミナシオン』と『地獄の季節』─黄色い表紙の、とても使いやすい二冊の小冊子を、軍隊に持っていった。この二冊は戦線においてわたしの日々の読みものであり、わたしの隠れ家であり、わたしの復讐であった。また一種の誇りであり、ひとつの高貴の観念であった。あの八月十八日の夜明け、ウルシ・ラ・ヴイル(もしもウルシ・ル・シャトオでないなら)の前方で、わたしはわが中隊長と出会う。攻撃の時刻で、わたしはガス・マスクをつけ、わたしの本を手にしていた。「おまえはそこで何を読んでいるんだ?」それは「眩暈」であった。

 さあ 復讐へ 激昂へ わが魂よ

 ホライゾン・ブルーの外套に身を包んで、街道沿いの土手の近くに曲線状に隊列を敷いていて、弾幕の下では、塹壕を掘る時間などなかった。幸いに風が毒ガスを反対側の方へ吹きちらしてくれた。わたしはふたたびD・・・中隊長を見る。たいへん勇敢な人物は、土手を飛び越えろという命令をくだしたところで、茫然としていた。彼はわたしについて、その日その日で違った考えを抱いていた。
 恐らく、ランボオの影響に匹敵するそれを与えたものは、ニイチェだけであろう。説得ではなく魅惑に似た影響。しかしニイチェはやはり哲学者である。一つの体系をもった人間と言いたかったのだ。ランボオの力強さは、「おれは体系を持っている」と言うことができたところにあった。しかし、すばらしいことに、この体系さえ定義されないままである。彼は啓示のかたちを守っている。彼は理屈を並べることを拒否する。どんなにそれはわれわれの気に入ったことか!ランボオ主義は、そこに心酔する者の夢想をかきたてる。わたしはランボオ主義についてまるで麻薬のように語っている。それは、心酔する者の知と無知、文化と野蛮の段階に一致する。それはひとつの哲学ではない。ひとつの空である。めいめいがそれに満足して、目がくらむためには目をあげさえすればいい。
 われわれの以前に、そう言わねばならないからだが、ランボオの方程式を解くもっとも論理的なエッセイはたしかにクローデルのそれであった。だがクローデルのランボオ解釈は、その主張の根拠を、ランボオからではなく、キリスト教の信仰から引きだしていた。それこそが、まさにわれわれをしてクローデルにたいして、われわれがランボオの歪曲とみなしたものにたいして対立させたのである。クローデルの後には、ジャック・リヴィエールがいた。戦争の前夜、N・R・F誌に現われたリヴィエールの研究は、感嘆することに、ランボオを文学の外に置くというものだった。しかし、このまじめな精神の関心事はといえば、テキストの注釈であり、一般的な体系による、詩としての解釈であった。それはむろんわれわれを満足させるものではなかった。学校の先生の見地である。われわれはランボオを説明しなかった。われわれは、ランボオ主義によって、ランボオとわれわれとのつながりによって、彼が詩の上に、詩のメカニスムの上に投げた光によって、ランボオを弁護したのだ。
*原注 ジャック・リヴィエール(一八八六ー一九二五)フランスの作家。N・R・F誌の編集部員、後に編集長。一九一九年から一九二五年にかけて同誌を盛りあげた。
 言っておかねばならぬが、われわれはあの奇妙で感動的なテッキストをよく知り始めていた。このテッキストは、世界が再発見され精神が茫然自失するような展望を『イリュミナシオン』に、『地獄の季節』に与えるのである。わたしはランボオの手紙のことを言いたいのだ。その後、『ジャンヌ・マリイの手』『法衣の下の心』が再発見される。さっそく批評的空論が書かれ、それにたいして、われわれは罵詈と呪詛を浴びせる機会をのがさなかった。批評的空論はしばしばそれに価した。それはしばしばごみ箱に、警察の捜査に似ていた。精神分析はまだ参加していなかった。だが参加するのに長くはかからなかったにちがいない。とうとう、ひとりランボオの魅惑が存在しなくなっただけでなく、汚らわしい手が彼の作品の上に伸びてきたのだ。それに反対することがわれわれの騎士道であった。
 こんにち、われわれがランボオに抱いていたイメージは、優秀であったイメージである。こんにちの若者たちのなかで、精神の勉強を始めて、読むように勧められたいろんな先生方にランボオを対置させる情熱を持っているような若い人びとのなかでさえも、わたしが出会うのはこのイメージである。なぜなら、反抗する者であるというのが、ランボオの大きな特徴の一つだからである・・・二十歳の頃、五十歳の頃、そこにいるのは依然としてわれわれがベルサイユ条約の翌日に見たあのランボオだろうか。熱烈で反抗的な若者たちが発見するだろうランボオだろうか。わたしにはわからない。恐らく、どちらとも言えないだろう。そこにあのランボオの特徴があるだろう。そこにやはり、その後彼から発見されるものがあるだろう。なぜなら、彼の作品の校訂版をつくった連中のみみっちい仕事は、われわれが抱いていた抒情的見解に相反するもので、ランボオ理解に決定的な要素をもたらさざるを得ないだろう。そこにはまた、歴史がランボオに与える顔もあれば後退もあるだろう。しかしランボオは、まさにめいめいの人がそこに自分の夢想の大麻をみいだし得た、あの伝説的な人物であったという事実が残るだろう。そこには、十字架の陰のクローデルがおり、れっきとした無神論者のわたしの仲間たちとわたしがいた。だが、いつごろ、ランボオを共産主義者とみなす解釈が生まれ始めたのか、わたしは思い出せない。この問題については説明する必要があろう。それはランボオをコミュニストとする解釈に関するものである。それは彼がパリ・コミューヌの軍隊に参加した、あるいは参加しようと思ったからであり、またランボオがある友人たちに語り、その友人たちが語り伝えた言葉からである。ランボオを共産主義者として、つまりマルクス主義者として厳密に語る解釈はない。そういう解釈をわたしは好奇心を持っているが、それはまだどの文献の対象ともなっていない。
 確かに、少くともランボオに予言者の、とりわけ共産主義社会の予言者の性格を与えようとするものをすべて好意的に受け入れて、クローデルのカトリック的な解釈と鋭く対立するに至り、これをこの側面における主要の敵とみなしていた。けれども、われわれの英雄のカトリック風な解釈が華々しく成功を博するのに、われわれは我慢できなかった。そのために、まだそこを進もうと大して考えてもいなかった道に、われわれは入ってゆくことになった。
 だが結局、わたしが何者かになろうとしていた頃、わたしが言ったことから逸れないためには、まず何より、ランボオの性格の一つがそこにあって、それがさまざまな解釈に適しており、それゆえさまざまな、相反しさえもするひとびとの上に光を投げていたことを確認しなければならない。彼は自分のまわりに高名な心酔者たちの奇妙な取巻きをつくった。ランボオはひとが闘うひとつの戦場であると同時にひとが相和する場所でもあった。そのおかげで、彼はその偉大さと天才を越えて、歴史的な重要性を獲得する。
 くりかえし言うが、ランボオ主義が、ひとつのイデオロギーとして、異端的な精神たちを結びつけ、相対立させ、また結びつけた、と考えるのはばかげているだろう。彼は或る人びとにとって期待の仲裁の役割を果したし、いまも果している。彼のおかげで、彼らは定義されたイデオロギーを選ばずにすんだ。彼のおかげで、彼らはつねにそれを明日に延期することができた。わたしはランボオ主義について語っているのであって、ランボオの詩についてではない。ランボオ主義は、イデオロギーが存続するかぎり死ぬだろう。そして恐らくより純粋な光だけをもつだろう。けれどもランボオは、そこにこそランボオ主義における重大なものがあるのだが、人びとにひとりの男をモデルとして与え、その男の詩的天才の正当さの証明を添え、ランボオ主義はこんにち、「おれは夏の夜明けを抱いた」「いと高き塔の歌」にたいして抱かれうる讃嘆から区別することはむつかしい。
 少年ランボオが言い放ったあの衝撃的な言葉の名において、ランボオ主義は、ランボオがちがったところで、ちがった仕方で述べた考えのために人びとを動員する。いろんな伝説や小さなエピソードが伝えたり彼のかれのものとしている考えのために。ちょっと分厚い一冊の詩集︱いくつかの冒涜を除けば、そこから人はけっして行動指針を引き出さないだろう︱が現出させたあの定着した幻想、あの魅惑の名において、ランボオ主義は、ジャン・アルチュール・ランボオの生と手紙集から汲みとりながら、一九二〇年から一九四〇年へと、若者たちの目に好意的な或る先入観をくりひろげた。人びとが『酔いどれ船』にも、『イリュミナシオン』にも、『地獄の季節』にも、けっして見いださないだろう、多くのものに、若者たちは手をつけている。例えば、怖るべき言葉、「おれはヴージィエールでプロシャ人たちを見た。それはすっかりおれを元気にした。これは、われわれがいまよぎっているこの時代にも似た時代に書かれたのである。

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 われわれが自分たちの原則ときめた奇弁のひとつは、そのすべてが善であるか、あるいは悪であるか、ひとかたまりとして取り上げるか、それともひとかたまりとして捨てるか、そういうひとりの男のものであった。わたしは、われわれの誰かがそれを作ったとは思わないが、じっさいには、まるでわれわれがこの厳しい法則に従ったかのように、すべてが運んだのである。
 じつを言えば、われわれの苦境を救い、われわれの熱中を可能にするには、われわれはそこでなんらかの精神的制約を実行しなければならなかった。また少くとも、われわれが好んで旗じるしとした人物たちのあれこれのところで、われわれをひどく混乱させたものを、われわれは知らん振りをしていた。われわれが、二十人から二十人足らずの詩人、哲学者、英雄、政治家、画家などを、ちょっとごったまぜに書きこんだ奇妙な名簿は(それはわれわれが威厳を与えていたささやかな室内ゲームである)われわれのでたらめさ、首尾一貫の無さをぞんぶんに示していたし、またわれわれの文学的および人間的な情熱が自在に採用した様式の特徴を示していた。
 思うに、「ミシェルとクリスティヌ」「岬」あるいは「大安売り」は、あらゆる点で讃美すべき詩であり、ヴージィエールにおけるプロシャ人たちに触れて伝えた言葉は、必然的にまったく讃美すべきものであり、こうして「ミシェルとクリスティヌ」等々・・・を愛するためには、それが言おうとしている感情を心いっぱいに受け入れ、わかち合わねばならない。︱しかしそう考えるものはわれわれのなかにはひとりもいなかった。その上、バルザックを愛するためには王党派でなければならず、ボーマルシェを愛するためには密売人でなければならない、などとわれわれに言わせるために、あなた方はわれわれをせきたてなかっただろう。もう一度いうが、これらの狂気は、わたしにとっても、それらを分かちあった誰にとっても、滑稽ではありえなかったろう。わたしはそれらを思い出して面白がっているのではない。わたしは単純に示したかったのだ、わたしが属していたブルジョワ家庭の若い息子たちにあって、あのこれ見よがしの冒涜的な振舞い、あのわれわれ自身のみなもとへのわれわれの祖国への否認拒否は、どこから来たのかを。
 こういう反抗の態度をわれわれにとらせるにはランボオの模範で充分だった、と言うのはやはり正しくないだろう。じつを言えば、われわれの家庭の環境、あの紋切り型の考え方と動産、あの小ブルジョワジーのパーティーと習慣、それらがわれわれの少年時代の環境であった。われわれの仲間はめいめいこれに反抗しており、ランボオのなかに、ランボオの模範のなかに、抑制なしに反抗する自由をみいだしていた。ランボオはわれわれの仲間のひとりだった。われわれのようなひとりの若者、われわれと同じものに反逆したひとりの若者だった。一八七一年のパリ・コミューヌ敗北の社会的状況と一九一八年の第一次世界大戦の勝利のそれとは、ランボオとわれわれにとって、ひとの考えるほどにはちがっていなかった。われわれもわれわれの家庭への反抗を祖国の次元へ、社会の次元へと書き替えていったのだ。ランボオ主義はこれらの反発の起源ではなかったが、ランボオのおかげで、これらの反発が個人的な小さなちがいをもちながらも共通性をもっていたことを知ることができた。しかもランボオはそれらに一般的な意味を与えるのである。
 一時的なものではなかったこの現象を正面から見つめねばならない。一語でそれを断罪するためではなく、それを理解するために。かってなく残虐だった戦争の翌日、フランスの多くの若者たちはあれほどまでに国民感情を欠いていた。少くとも、試験のなかに重きを要求する、国民感情をもつことを断固として、必死に拒んだのである。知名な人物の悪い好みだけによって、これを説明することはできない。これを理解するためには、当時、フランス及び祖国という神聖な言葉が若者たちの目に思い描かせたものを再現しなければならない。
 それらの言葉を国民的現実との間には、あの若者たちの目にとって、奇妙なずれがあった。それらの言葉は排他的な特権となっていた。少くともわたしは、彼らの言うこと、あの一味を構成する人びとの言うことを言っているのだ。社会的・政治的な或る一味が愛国主義を独占していた。戦争、検閲、フランス・ブルジョワジーの内部闘争(カイヨー事件、マルヴィ事件、軍部の初めのうちの勝利とその後の失権など)は、それらの言葉の価値を大いに失墜させたので、それらの言葉はそれぞれ順番に発音しうるのは自分だけだと主張した。指摘しなければならぬが、例えば『アクション・フランセーズ』は、(「大革命」の人びとのように、ヴィクトル・ユゴーのように)議論の余地のない愛国者のジョレースを、殺し屋どもの標的にさせたものであり、戦争中、「祖国」の法廷で幅をきかす白紙委任状をもっていたのである。しかも、コブレンツの亡命者たちのこの新聞は、「祖国」という概念を「フランス革命」の産物、共和主義者の狂気の沙汰とみなしていた。「国家的なものはすべてわれわれモーラス主義者のものである」という言葉は、その後ヒットラーの国家・社会主義がみごとに演じてみせた意味において、言葉の全的乱用・腐敗の最たる模範のひとつである。モーラス主義の欺瞞がすべての人びとの目に明白となるには、一九四〇年を待たねばならなかった。この年、祖国、フランス、国家という言葉に隠れて、あの奥深い裏切りが露呈し、四〇年にわたる殺人教唆、文献の偽造歪曲、長く続いた混乱を明らかにするのである。
ランボオとパリ・コミューヌ
                          大島博光

 まちがいなくコミューヌ派

 三月十八日──パリ・コミューヌ蜂起(ほうき)の日がやってくると、わたしはランボオとユゴーのことを思い浮べる。これらの詩人はパリ・コミューヌに深くかかわっているからだ。
 数年前、北仏シャルルヴィル・メッジエール市のランボオ博物館を訪れたことがある。その展示室に詩人の手紙類を収めたガラスのケースがあって、その上に「ランボオはパリ・コミューヌに参加したか?」と書いた小さな紙片が置いてあったのを思い出す。
 ランボオをカトリックの聖列に加えたり、神秘家にしたてたりして、この詩人とコミューヌのかかわりに触れたがらない人びとがいる。
 ランボオが銃をとってコミューヌに参加したという考証はいまのところないが、彼がコミューヌ派──コミュナールであったことは、いくつかの詩や手紙などによってまちがいない。
 この反抗の天才詩人は、コミューヌ蜂起の数日前、一八七一年二月末から三月十日にかけてパリにいる。このパリ滞在中はコミュナールの新聞──ヴァレスとヴェルメルシュの新聞を見つけ、とくに後者の住所を知ろうと尋ねまわっている。
 彼は自分をとりまいていた普仏戦争、社会的状況にたいしてきわめて敏感であった。コミューヌの夢を抱きながら死んでいった労働者たちを思って、彼は怒りと反抗の念に駆りたてられた。同年五月十三日付の恩師イザムバール宛(あて)の手紙に彼は書いている。
 「・・・ぼくは労働者になるでしょう。はげしい怒りがぼくをパリの戦場へと駆りたてている時にも、この考えがぼくをひきとめているのです。しかもあなたにこうして手紙を書いている間にも、たくさんの労働者たちが死んでいるのです。」

 世界の青年の夢をいい表す

 彼はまたその頃ドゥラエ宛の手紙に書いている。
 「破壊が必要だ・・・ほかの古い樹も伐り倒されなければならぬ。・・・この社会そのものにも斧や鶴っぱしが加えられ、ローラーがかけられるだろう。・・・曲りくねった道はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになるだろう。『わしはこの世でいちばん力強く、いちばん金持ちだ』などという男はいなくなるだろう。にがにがしい羨望(せんぼう)や、金持ちなどにたいするばかげた感嘆に代わって、なごやかな団らんや、万人のための万人による労働がとって代わるだろう。」
 この言葉は、トリスタン・ツアラが言うように、若いランボオの夢だけでなく、世界の青年たちの夢をいい表しているだろう。
 そしてランボオは、コミューヌのバリケードで英雄的にたたかったパリの婦人労働者たちの姿を「ジャンヌ・マリーの手」のなかに書いている。

 すばらしいその手は蒼ざめた
 愛にあふれた太陽のもと
 蜂起したパリのさなかの
 青銅の機関銃のうえで

 この婦人労働者たちの闘いについては、「赤い処女」とよばれた女流詩人ルイズ・ミッシェルが記録を残している。

 鳴りひびいている魂の叫び

 さて、有名な『地獄の季節』が刊行されたのはコミューヌの二年後である。詩人ジョルジュ・ソリヤはその「コミューヌ史」に書いている。
 「この傑作は敗北したパリ・コミューヌの燃えさかる炎に射しつらぬかれている。その情景、背景は、『火と泥にまみれた空の下の巨大な都市(まち)』である。『おれは見た、火の海を、空をおおう煙を、そして無数の雷(いかずち)のように左に右に燃えあがるすべての財宝を』(「悪胤」)。
 むろん『地獄の季節』からは、ランボオが一八七一年春の、パリ・コミューヌの火と血と涙の海のなかに飛びこんだということにはならないかも知れない。しかしこの作品は、コミューヌが彼のうえに残した精神的痕跡なしには、このような頂点に到達しなかったであろう。一八七三年五月、ランボオは『ふたたび賑わいに返えるパリ』を書いた。この詩のなかに鳴りひびいている偉大な叫びは、五月の「血の週間」におけるコミューヌ戦士たちと処刑された人びとの叫びそのものにほかならない。(拙著「パリ・コミューヌの詩人たち」(新日本新書)を参照されたい。)
                              (詩人)
(1981.3.20「赤旗」)

きみは反抗を生きた
                 ──ランボオ
                           大島博光
きみは 気まぐれな風のように
韻(うた)をひねりながら 放浪を生きた
大熊星の下 渡り鳥のように
飢えて渇いて 街道をさまよった

きみは 野の子らしく野放図に
ブルジョワどもへの反抗を生きた
神の偽善をののしり �(けが)し
皇帝たちの赤い縁なし帽(ボンネット)を投げつけた

きみはひたすら一途に詩を生きた
きみは 酔いどれ船のめくるめきを
きらめく詩のなかに 書きとめた
それをひとはディアマンと呼んだ

きみは詩のなかにもちこんで歌った
おのれの生きぎまを 現実を
それがパルナシアンやサンボリストから
きみをひき離して きわ立たせた

きみは 蜂起したパリをほめ讃えて
コミューヌ戦士の逞しい手を歌った
そして勝ち誇るブルジョワどもに
きみは怒りを投げつけて馬倒した

そしてきみはまた出かけて行った
あの哀れな兄きと 二人で
海の向うの 霧と煙の大きな都市(まち)へ
そしてきみは近代の地獄を歌った

詩を生きたきみは 詩を投げ捨てた
そして苦行者のように砂漠へ消えた
コミューヌの死んだパリの街には
もうきみの聴衆はいなかった

最後に きみは熟い砂漠を生きた
ハラルできみを待っていたのは
砂のようにざらざらした現実だった
きみは 砂嵐のなかにも立っていた

(「詩人会議」1997.1)
「ポエジー紀行 アルチュール・ランボオ」と題して本の情報誌「ほんばこ」91年秋号のランボオ没後100年特別企画で、詩人の故郷シャルルヴィルの紀行文を書いています。
ランボオ

ランボオの生まれ故郷シャルルヴィルを訪ね、詩人の面影をさがしてみよう。
・・・列車がパリを離れると、なだらかで広い小麦畑、ぶどう畑などが、これまた広大な森とこもごもにつづく・・・シャンパーニュの広いぶどう畑の上に、ラ ンスのカテドラルの尖塔がひょっこりと現われる。そこを過ぎると、もうアルデンヌの野である。「風の靴をはいた男」ランボオがさまよい歩いた野である。

 夏の青い夕暮れ おれは小道を行こう
 小麦にちくちく刺され 小草を踏んで
 ・・・
 おれは遠く遠く 流浪者(ボヘミアン)のように行こう
 大自然のなかを 女といっしょのように幸福に


ランボオランボオ
ランボオ
ランボオ
ランボオ
ランボオ
ほんばこ
ランボオ
                         大島博光

きみに会いたくて はるばる 訪ねてゆくと
きみは シャルルヴィルの 駅前公園の片隅に
おとなしい若者の胸像となって 坐っていた

きみが憎悪し 侮辱した ブルジョワどもは
まるでいまになって きみに復讐するかのように
きみを 哀れな模範青年の像に仕立てあげた

髪をぼうぼうと伸ばし みずから無頼の徒となり
「手のつけられぬ徒刑囚」にうっとりとしたきみが
去勢された若者のたぐいに おとされたのだ

だがわたしは きみの影をいたるところに見た
街通りの壁のうえに ムーズの岸べの水車小屋に
きみの酔いどれ船の もやった船着場の跡に

またわたしは見るのだ きみの詩人の肖像を
ファンタン・ラトゥールの「テーブルの片隅」に
ざんばら髪で 肱ついた きみの閃く青い眼を
   *
・・・

ランボオよ きみもまた嵐のなかに生まれた
そのためだ きみの夜を稲妻がひき裂くのは
そのためだ きみの空に炎と血が映えるのは

運命はきみを一八七一年のフランスの若者にした
あの「天をも衝く」 コミューヌの嵐のなかを
きみは「コルクのように踊って」走り過ぎた

「生を変えよう」という夢と希望を託した
きみの五月のパリは 血と泥のなかに潰えさった
戦い倒れた ジャンヌ・マリーの手は蒼ざめた
・・・

詩を書くことと生きることとは ひとつだった
もしも きみの詩のどこか一行をひき裂いたら
そこから きみの血が赤くほとばしり出るだろう

きみはいつもなにものかに急きたてられるように
着いたかと思えば またどこかへ出かけて行った
そしてきみは 永遠に出かけるものの歌をうたった

きみはいぎよくペンを折って 別れを告げた
コミューヌを絞め殺したブルジョワのフランスに
そしてうそぶいた 「詩なんか あんなものは安酒さ」

そうしてきみがハラルの砂漠にみいだしたのは
象牙とコーヒーと 砂まみれの汗と疲労と退屈と
きみが抱いた現実は 熱い風の吹く 砂地獄

世界を股に歩きまわった きみの右脚の膝は
いつか カボチャのように大きく腫れあがり
きみはマルセイユの病院で生きることをやめた

渡り鳥のように 絶えずさまよいつづけたきみは
ひと知れぬ 飢えと渇きから 解き放たれて
やっと眠ることができた シャルルヴィルの墓地に

(大島博光全詩集)

ランボオ
       (ランボオ像と大島博光氏)