チリ連帯 Solidarity with Chilean People

ここでは、「チリ連帯 Solidarity with Chilean People」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


【年表】アルピジェラと日本のチリ人民連帯運動 
 Arpilleras and Japanese movement of solidarity with Chilean people

1971年 チリ大統領選挙で人民連合のアジェンデが当選、初の社会主義政権樹立
1973年9月11日 軍事クーデター、アジェンデ死去。24日、ネルーダ死去。世界中に抗議行動ひろがる。
1973年9月30日 ヘルシンキでチリ人民連帯国際会議。53ヶ国、16国際団体の代表が参加。
1974年2月 チリ人民連帯日本委員会創立 (代表幹事の一人に大島博光)
1974年3月 アジェンデ夫人歓迎連帯集会
1974年7月 ネルーダ生誕70年記念・チリ人民連帯の夕べ
1975年 アルピジェラ作業所が生まれ、次第にサンチャゴ中に広まった 
1976年3月 フォルクローレ「キラパジュン」日本公演(札幌~熊本、14都市)
1976年4月 チリ貨物船入港阻止闘争(横浜)
1977年3月 「インティ・イジマニ」日本公演(札幌~福岡、13都市)
1978年 チリでは海外からの連帯活動があってアルピジェラが制作出来るようになった
1978年11月 マドリードでチリ連帯国際会議、アルピジェラが展示された
1979年11月 フォルクローレ歌手「イサベル・パラ」日本公演
1980年 ピノチェト訪日反対の運動、チリ人民連帯集会
1982年5月 キラパジュン日本公演(12都市で12回)
1983年5月 チリ人民が公然と反軍政行動に立ち上がる
1987年9月 ミゲル・リティン監督(「戒厳令下チリ潜入記」)連帯集会(東京、名古屋、京都、大阪、神戸)
1988年 チリ人民連帯日本委員会がアルピジェラを輸入販売(高橋正明氏がたびたびチリ訪問)
1988年10月 ピノチェト信任の国民投票で「ピノチェト・ノー」の運動が勝利
1989年12月 大統領選挙でピノチェト敗北
1990年3月 民政移管
1991年3月 チリ人民連帯日本委員会解散
1998年10月 イギリスでピノチェト逮捕
1999年2月 ドキュメンタリー番組「パッチワークに願いを込めて」(1992年カナダTV局) NHK教育で放映
2008年7月 大島博光記念館創設
2009年8月 アルピジェラなどチリ人民連帯日本委員会の資料を高橋正明氏から大島博光記念館が譲り受ける
2011年5月~10月 大島博光記念館企画展「愛と革命の詩人パブロ・ネルーダ」
  8月6日 映画「イル・ポスティーノ」鑑賞
  8月21日 記録映画「ベンセレモス」鑑賞
  9月11日 PHILIA project公演「from/to 9.11ビクトル・ハラの歌が殺されるとき」
  11月19日 映画「ミッシング」鑑賞
2012年3月 酒井朋子先生が大島博光記念館訪問、調査
2013年2月 ロベルタ・バシックさんが大島博光記念館訪問、調査
2013年5月3日~10月31日 大島博光記念館企画展「チリのキルト=アルピジェラに出会う」 
  7月27日 酒井朋子先生(東北学院大学講師)講演「世界を翔るアルピジェラ」
  8月25日 ドキュメンタリー「パッチワークに願いを込めて」鑑賞
  9月15日 高橋正明先生(東京外大名誉教授、元チリ連常任)講演「アルピジェラとチリの女性たち」
2015年3月 『世界のかわいいパッチワーク・キルト』(誠文堂新光社)でアルピジェラを紹介。
2015年11月5〜30日 いわきアリオスで展覧会「アルピジェラ 沈黙のなかで物語る、チリのキルト」

チリ連ニュース


ミゲル・リティン監督のドキュメンタリー映画「戒厳令下チリ潜入記」がYouTubeで見られます。



前編では軍事政権の下で自由を求めて闘う人々の声にうたれます。



後編はアジェンデ大統領の高潔な姿を描いています。クーデター当日の緊迫した様子を側近のジョアン・ガルセス(アジェンデ大統領顧問)、ダニーロ・バルトリン(医師)、ミリア・コントレーラス(大統領秘書)が証言していて歴史的にも貴重な映像。

大統領秘書


戒厳令下の祖国チリに潜入したリティン監督の日本滞在

 九月九日、マイケル・ジャクソン来日で数百人の報道陣がつめかけていた成田空港に、ヒゲをたくわえた一人のチリ人が静かに降りたった。
 中南米映画界の指導的な監督、ミゲル・リティン氏(四五)。ノーベル賞作家G・ガルシア・マルケスがリティン監督の体験を聞き書きした『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書)の主人公だ。チリ人民連帯日本委員会を中心に栗原小巻さん、小林久三さん、山田洋次さんといった人たちによる歓迎実行委員会が彼を招いた。
 アジェンデ大統領をはじめ数千人が殺害され、数万人が逮捕、拷問、投獄された一九七三年九月のピノチェト将軍を先頭とする反革命軍事クーデターで人民連合政権が倒されて以降、リティン監督は十四年間祖国を追われている。一九八五年初めの六週間を除いて……。
 ピノチェト政権によって帰国を禁止されているリティン監督は、顔を変え、姿を変えてその六週間、祖国に潜入した。ヨーロッパの三つの撮影チームと、六つの国内レジスタンス映画チームの総監督としてこのとき彼が撮ったのが「チリに関する全記録」(邦題「戒厳令下チリ潜入記」)である。
 このドキュメンタリーは、リティン監督の来日を記念し各地で緊急上映された。上映会、歓迎集会は二十代、三十代の人たちを中心にどこも超満員だった。
 日本政府の招きでピノチェトが来日を策したとき、「われわれはピノチェトを歓迎しない」という詩で抗議の矢を放った大島博光氏は、今回「ミゲル・リティン監督を歓迎することば」を用意し、リティン氏を前に朗読した。

  ようこそ ミゲル・リティン監督
  ようこそ あなたは日本へやってきてくれました
  血ぬられたサンチャゴの映像(イメージ)をかかえて
  不屈な チリ人民の 怒りの声をたずさえて……

 過酷な弾圧を乗り越えて、チリ人民の反軍政のたたかいは八○年代に入って急速に前進している。集会でリティン監督が「共産党や革新的な社会党の幹部が、アンデス山脈を越えて次々と帰国し、弾圧覚悟で公然と活動を開始している」と報告すると、参加者は遠いチリに思いをよせ、熱烈な拍手を送った。
 「アジェンデの時代、私たちはこの手で空をつかもうとしたが、それはできなかった。しかし、遅かれ早かれ必ずできる。それは私たちの空だから。それは人民の空だから」──リティン監督の言葉だ。
 チリでは、アジェンデ政権のことを知らない青少年たちが、ピノチェトの軍事独裁に抗して自由と民主主義という「空」をその手につかむため、みずからを組織しはじめているという。
 リティン監督は二週間の滞在を終えて日本を去った。彼に接した日本の多くの青年たちも、チリ人民支援の最大の保障は、日本の政治を変革すること、という誓いを胸に、それぞれのたたかいの場、地域、職場、学園へ帰っていった。
    写真・酒井猛

(「グラフこんにちは」1987年11月号)

リティン監督


インティ・イジマニ
(「インティ・イジマニ日本公演パンフレット」1977年3月)

*インティ・イジマニはチリのフォルクローレグループ。民主チリの文化使節としてヨーロッパで公演中に軍事クーデターが起きた。ローマに本拠を置き、チリの軍事政権に反対し、チリ人民への連帯を訴えて世界各国で演奏していた。1977年3月、日本の連帯運動の一環として公演が取り組まれ、函館、札幌、東京、横浜、京都、岐阜、大阪、名古屋、神戸、福岡、岡山、静岡、立川で公演が行われた。

インティ・イジマニ


 今年2月7日、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が開催した緒方靖夫さんの講演会『激動の世界情勢と平和の共同体──ASEANとCELACを中心に──』で、今年1月にチリを訪問した緒方さんが、チリではピノチェトのクーデターが否定されて大統領府の展示からピノチェトは外されていること、犠牲者の名誉が回復していることを話されました。
 緒方さん(日本共産党副委員長・国際委員会責任者)は1月1日のブラジル大統領就任式に招かれて出席し、その後チリを訪問したのです。「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ」千葉県AALA版 に講演内容が掲載されていますので、チリ訪問の部分を紹介します。

 ◇     ◇     ◇     ◇     ◇
チリで感動の出会い

(1)クーデターの犠牲者に名誉回復と補償

 その後、隣国のチリを訪問しました。
 1973年に、アジェンデ政権を打倒するクーデターが起きました。人口900万人の国で、虐殺もふくめ3万人が弾圧され、25万人以上が亡命しました。このピノチェットの統治は、国民の選挙による審判を一度も受けないで、1990年まで17年間続きました。
 しかし、民政移管後、正当に選挙されたアジェンデ政権を倒したことは憲法上許されないと、社会的に審判が下っています。与党として人民連合政府を支えた人々、チリ共産党をはじめ大きな犠牲を払った人々の名誉が見事に回復されています。
 さらに、弾圧犠牲者には、名誉回復だけではなく、具体的に補償として年金が支払われています。
 1990年の民政移管後、軍政下の人権侵害・弾圧調査が始まり、92年に補償法が作られました。内務省に国家補償和解公社が作られ、犠牲者の直系家族──親、配偶者、24歳未満の子どもに対して一律月300ドルの年金が支払われています。また、子どもは奨学金を受け、兵役義務の免除、専門医療の受診の権利、障害のある子どもは一生年金を受給できます。2004年には年金が改正され増額されました。正義のたたかいに決着をつけ、その補償を勝ち取っているのです。

(2)否定されたクーデタ一

 大統領府には、歴代の大統領の顔のメダルの展示がありましたが、アジェンデの横は空白であり、ピノチェットのメダルはありません。また、大統領府の前にアジェンデの大きな銅像はありますが、ピノチェットのものはありません。
 また、政府が作った「記憶・人権博物館」の展示は見事で、クーデタ一がいかに非合法で卑劣なものか、アジェンデ大統領がいかに命をかけて闘ったかがわかるものとなっています。ピノチェットの行動は、否定されています。この博物館には、国際連帯のコーナーに、日本のチリ連帯のポスターも展示されていました。
 バチェレ大統領は、ピノチェットとたたかって弾圧された政治家の娘ですし、上院議長はアジェンデの娘三人の内の一人というように、チリは今、そういう政治状況になっています。
 なお、チリ映画「NO」(2012年)は、独裁政権下、ひとりの広告マンが立ち上がり、歴史を大きく変えた実話に基づくもので、是非見ていただきたいと患います。
(日本AALA連帯委員会機関紙「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ」千葉県AALA版 No74 2015年4月)

緒方靖夫
緒方靖夫さん(2014.11.24)
映画「NO」の最終盤、数十万人の人びとがオヒギンス公園に集まり、歴史的なNO、ピノチェト・ノーの勝利を祝った。熱狂し、喜びにあふれる会場をあとに主人公レネは無表情でスケートボードを走らせる。行く先は息子の待っている家。最後は現代的な広い広告ビジネスのオフィスでクライアントにプレゼンするレネの姿で終わる。
その後のチリの歩んだ社会状況を暗示する終わり方だ。

<「喜び」は本当にやってきたのか>(映画「NO」パンフレット)で高橋正明氏が概略次の様に解説しています。

・・・ピノチェト軍政が残した新自由主義経済モデルによりチリは世界で最も不平等な国になった。人びとの価値観・社会観を変え、社会的な連帯の精神は姿を消し、私的な利益追求と消費を美徳とする雰囲気が社会全体に行き渡った。民政移管した後の歴代政府も独裁時代の経済政策を基本的に踏襲、2010年には右派のピニェラが大統領に当選し、政治面でもピノチェト支持派がチリを牛耳ることとなった。ラライン監督が映画「NO」の企画を持ちかけられ、制作に取りかかったのがこの時期だった。チリの現状を見た時、果して「NO」が勝ったといえるのか。これこそがこの映画にララインが込めた思いだったのではないか・・・。

しかし最後に高橋氏は現在のチリの動向にふれて「新しい世代への希望」を大略次の様に語っています。

・・・ピニェラ政権の民営化による教育制度改悪にたいし、学生たちの大規模なデモ行進がくりひろげられ、多くの国民の支持を得た。一方ピニェラの支持率は20%台と史上最低を記録した。ピニェラの後任を選ぶ2013年の大統領選挙では2人の女性候補が対決した。右派が推すエブリン・マテイ、マテイ空軍司令官の娘と、ミシェル・バチェレ、彼女の父バチェレ将軍はアジェンデ政権に協力的だったとしてクーデターの際に逮捕され、拷問されて獄死した。大統領選挙はバチェレの勝利に終わった。2014年3月11日、バチェレは新大統領として宣誓した。大統領の肩章をバチェレの肩にかけたのはその日上院議長に就任したばかりのイサベル・アジェンデ、故アジェンデ大統領の娘だった。接吻と抱擁を交わす二人に拍手を送る新議員の中に4人の20代の若い男女がいた。学生運動のリーダーだった若者たちで、それぞれの選挙区でトップ当選を果たした。そのうちの一人のスポット制作責任者を務めたのがラライン監督だった。

映画「NO」http://www.magichour.co.jp/no/introduction/
監督 パブロ・ラライン
原作 アントニオ・スカルメタ
主演 ガエル・ガルシア・ベルナル(「モーターサイクル・ダイアリーズ」)
製作国 チリ 2012年
映画ノー

1988年、チリで行われたピノチェト信任の国民投票で「ノー」が勝利し、ピノチェトは退陣に追い込まれました。メディアを完全に握り、政治的にも圧倒的に強大な軍事政権を相手に、数カ月前まで誰も予想しなかった反軍政派の勝利でした。この勝利には1日15分だけ「ノー」の運動に許されたテレビ宣伝が決定的な役割を果たしました。

・・・十五分の短い放送にもかかわらず,いやまさに十五分という短い時間だったからかも知れない,「ノー」の番組は絶大な効果を生んだ.皮肉なことに,軍政側がこれまで権力と資金力にものを言わせてテレビ放送を独占してきたことが裏目に出た.十五年間にわたってブラウン管からは軍政側の決まり切った宣伝文句しか聞こえてこなかった.その同じ画面から,突然,それまで沈黙を強いられてきた声が,豊かなイメージ,美しい色彩,新鮮な表現でとびこんできた.十五年間,テレビの世界には,弾圧も,拷問も,殺害も,行方不明も,国外追放も,亡命,貧困も一切存在しなかった.しかし「ノー」の番組は視聴者一人一人が抱えている問題を正面から取り上げた.十五年間で初めて,人々は自分たちが蒙っている問題をテレビの画面に見た.それまで自分のまわりの狭い範囲だけで語られていたことが,おおやけにテレビの画面で取り上げられるのを見た.そして自分たちが一人ぼっちの存在ではないこと,自分の問題が他の人たちの問題でもあることを確信したのである・・・
(有延出「チリよ、喜びはもうすぐやって来る」『文化評論』1989年1月号)

このノーの運動の歴史的勝利を主題にした映画「NO」がチリで制作され、この9月から日本で上映されています。各地で上映されていますが、長野市での上映は終わり、東京は「渋谷アップリンク」で11月7日までです。また、映画パンフレットに高橋正明先生(東京外国語大学名誉教授)がチリの政治背景を解説しています。

*高橋正明先生のWEBサイトに『文化評論』の「チリよ、喜びはもうすぐやって来る」が掲載されています。ここでは「ノー」のテレビ番組の豊かな内容が詳細に書かれており、映画『NO』に出てくる映像の詳しい解説になっています。

人民連合の解体で連帯運動のあり方が変化

山口 残念だったのは、クーデター直後に強制収容所にいれられていたチリ共産党書記長コルバランの釈放を要求して、赤旗まつりで「コルバランまんじゅう」を売るまでして運動したのだが、コルバランがモスクワに亡命したあとチリ共産党の方針が武装路線をとったことから人民連合が解体してしまったことです。
 それまではチリ人民連合、具体的にはその亡命機関であるローマの「民主チリ」という相手がある運動だった。しかし「民主チリ」が解体してからは情報が入らなくなって、高橋さんが独自にチリ情勢を分析、紹介し始めるまで直接情報源なしの運動となりました。
 八三年五月にチリ人民が決起してからは、片思いであっても私たちの連帯の思いをつなぐ相手が見えてきました。
 このように連帯運動のあり方は変化してきたのですが、一貫した特徴は、チリ人民と連帯するという一点で一致するさまざまな人が加わってきたことで、最初からの行事や行動に参加してくれた人、カンパをしてくれた人の名簿を作ったら尨大なものになるでしょう。
 政党として参加してくれたのは、日本共産党だけでしたが、政党支持をこえて、幅広い人たちがチリ連の運動に参加してくれました。そのあたりがチリ連が長く続いた理由だと思います。

立松 結局、社会党が協力したのは、アジェンデ夫人が来たとき、九段会館を一杯にしたことと、歓迎のためのカンパを十万円渡すから取りにこいと言われたこと。おじぎをしてもらってきたわ。
 わたしが考えるのは、東欧の激動などのなかで誰と手を結んで連帯運動をすすめていくかということ。今の段階で、その国で自主的な運動をすすめているのは誰なのかを探し出して連帯していくことにひとつの示唆を与えたのは、チリ連のとくに八〇年代以降の多彩な運動だった。映画「サンティアゴに雨が降る」を見れば、ほとんどの女性が感激するし、自覚を高めた人が多い。そういう文化的な運動だったわけ。
 アジェンデのころまではソ連の息がかかった運動があった。しかし今、国際民婦連自身がどうなるか分からないなかで、連帯する相手を探していくこと。そこには失敗もあるが、恐れていてはダメ。そういう点では大変勉強になりました。

(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
難しかった政党との関係

司会 チリ連の活動のなかでは、意義自体がかなり変ってきた面があるけど、そのあたりはいかがでしょうか。

高橋 七〇年代のチリ連のつき合いは、だいたい亡命者、しかもチリ共産党が相手という党派的な色彩が強かった。
 それが八〇年代以降もっと多様なかたちで結びつきができてきた。ダニエルとコロリンの来日が象徴的だった。あのときは、話をまとめるのに苦労したよ。日本側の運動の論理と、向う側の運動のダイナミックな性格とのあいだで不協和音が鳴った。
 ダニエルは左翼、レイナルド(コロリン)は中道のキリスト教民主党。中道と左翼は一面で仲が悪いが、いっしょに運動をやっていた。ところが日本では党派の問題が入ってくるとなかなかうまくいかない。
 チリでは政党が強く、政党にたいする帰属意識も高い。しかし同時にそれがかなりオープンで、この人はコムニスタ、彼はソシアリスタなどとみな知っている。もちろん政党面での対立はあるが、政党が違っていても個人的なレベルで結びつきが強い。人間的な結びつきがあるわけ。「ノー」の運動ではそれが高度に発揮された。ところが日本の場合には、すべて政党系列で縦割りになってしまう。これはいやだなあ。
 民政移管してもチリとの結びつきを深めていこうという人が僕の知っている人でも何人かいて、そういう人たちが外から見ると、チリ連は政党の色がついていて参加しずらいということになる。
 政党の色を越えたところで結びつきを作っていくスタイルがある程度できたが、それをさらにもう少し広げていきたかった。

山口 自分の青年時代はファシズムの時代で、スペイン戦争には大きな関心をもっていましたが、何もできませんでした。そのせいか反ファシズムのたたかいには共感があって、今日までチリ連帯への原動力となりました。だからクーデターのときの怒りも大きかった。
 その青年時代以来の連綿とした思いがあって、政党にたいする関係も割り切っている。その点で戦後生まれの高橋さんと、ギャップがある。私はもっと素朴なところ、あんな圧政許せるか、もう戰争は金輪際いやだというところで運動を始めていく。政党を見るときもそういう尺度がある。
 チリ連が設立されたときに、アジェンデ夫人の歓迎のときは一緒にやった社会党が入っていないわけを間島さんに尋ねたことがある。呼びかけたが来ない。勝間田氏のところに事務所をおく別のチリ連をつくったようだというんでやれやれと思ったことがある。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
少数でも意気高くデモ

立松 チリ連で楽しかったこと。毎年九月にチリ人民連帯月間でチリ大使館の前でデモをやるんだけど、「バカヤロー」(正しくは「イバカエール」。スペイン語で「やつは倒れるぞ」の意味)しか覚えていないけど。(笑)スペイン語で訴えたあとアジェンデの最後の演説をスピーカーで流すと、あそこでぐっとくる。涙が出る。なんてのかな。三〇人のデモなんだけど、自分たちは少数でないんだということを、何千人のデモより、大げさでなく感じたわよ。

 ああいう小さいデモというのは全員が主催者で、がんばらなくちゃという感じで、ふつうのデモとは違う。ばかでかいデモだと下を向いて歩いてられるけど。

小松 誰かに命じられてやっているわけではない。チリ連が新橋のボロ事務所でずっと専従を抱えてやっていたのは何か不思議な気がしましたが、たんに使命感でやっているわけではなかった。サンティアゴのポブラシオンでやられていたことを、日本のチリ連が日本的に形を変えてやっていたんではないか。
 一方で、マドリード会議(一九七八年十一月・チリ解放のための全世界都市会議)に間島さん、詩人の大島博光さんが行って、若い女の子に万年筆をやったり、詩を書いたり、いろいろと楽しい交流をしたエピソードを聞くと、手作りの味が相当あった。それがチリ連が続いてきたエネルギーになった。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
文化を重視した運動

谷(圭) 間島さんの手法は、連帯集会でかならず歌とか写真とか文化をくっつけた内容でやった。文化の結合を非常に重視した。連帯月間のたびに演説会をやっていたのでは続かない。

立松(隆子) 年表を見ていると、他の運動と比べてたしかに文化的なものが多い。そしてチリの貨物船を阻止したり、コンサートをやったり、貿易使節団の来日に反対するとか多岐にわたっている。構成員が少ないわりにはネットが広いのね。
 間島さんの思い出でいちばん印象に残っているのは、アジェンデ夫人を招いて九段会館を一杯にしたとき。社共でわりかしうまくいっていた時期だけど、いっしょにやるというので、どこで打ち合わせをするかについても、参議院のロビーなら対等で話ができると会場を決めるなど、社会党、総評にえらく神経を使っていた。日本の統一戦線運動のなかでも創意を発揮したときだったと思う。
 集会が成功して終ったあと、興奮して彼女(アジェンデ夫人)はキューバ大使と飲みに行っちゃった。彼女はあれがいちばん感激したらしい。

 七五年十一月のアテネ国際会議には四〇カ国くらいの代表が集まった。ソ連派と祖国派と二派があって、両方から人を出して運営するなど複雑な舞台まわしだった。
 間島さんと一緒にモスクワ経由で行ったが、そのときからソ連ペースだった。アテネの街を歩くと、日本の横浜タイヤだの、ビクター、セイコー、トヨペットだのの広告だらけで恥かしかった。会議で中心に動いたのは、チリ共産党のテイテルポイムだった。えらい人間が牛耳っている。これじゃうまくいかないなと思いながら帰ってきた。
 大衆運動と政党とはスジが違うとうまくやっていけない。案外、大衆的にうまくやっていると思ったのは、フランス、イタリア、イギリスだった。ブラジルの人がやってきて、日本の資本がブラジルを痛めつけていることを訴えにやってきたのが印象的だった。日本と関連する重要な問題がいっぱいあると感じた。

司会 チリ連帯に関心をもったのは、ビクトル・ハラのカセットを大学一年のときに初めて開いて感銘を受けた時です。
 学生のときは、「ベンセレモス」(われわれは勝利する)をよく歌いました。
 八一年四、五月ごろ、外大のたまり場で、先輩が「ベンセレモス」をスペイン語で歌って聞かせてくれた。チリの文化との初めての出会いでした。
 そのころ、高橋さんが「ピノチェトを通すな」というパンフを研究室で売っていた。そのころの「赤旗まつり」で、チリ連の店で高橋先生がチリ連帯のTシャツを売っていてびっくりした。さっそくそのTシャツを買って、いまでも持っています。それが直接チリ連を知るきっかけとなりました。
 ひとつはチリの文化が優れていて質の高いものがあった。いま聞いてもとてもいいもので、それが新しい世代に関心を持たせるものとなりました。
 チリ連の運動もパンフ、Tシャツなど文化的な要素を持ちながらすすめてきたことが、いろいろな人が加わってくるきっかけとなりました。チリ連の運動はチリの文化と結びついていたし、文化的だった。

立松 チリの男もたたかったが、チリの女性もすばらしい運動をやってきました。
 最後のころ感激したのは、アルピジェーラ。働く婦人の中央集会で二時間で百枚売れた。どこに感激したのかというと、アンデスではいつもお日様があるわけ。いつも勝利する希望があるのでお日様がかいてあるのね。そう解釈するのね。
 日本だって針を持つ人はたくさんいるけど、ああいうものでたたかいを知らせていく知恵ってたいしたものね。
(つづく)

 *出席者
  山口啓二(歴史研究者)
  立松隆子(国際婦人運動家)
  谷 圭(画家)
  高橋正明(中南米研究家)
  小松健一(フォトジャーナリスト)
  司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
  記録 大島俊介(チリ連常任委員)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
チリ連帯運動は日本の民主主義運動の一環

山口 間島さんの主張点は、われわれの連動はチリ人民連帯の運動であると同時に日本の運動なのだということだった。チリの運動と直接イコールにはならないという点、これは一方で弱点をはらみながら、運動をつぶさないことにもつながった。
 多数者革命や反帝反独占という点でチリとはかなり一致するところはあるが、チリはすぐ社会主義革命をめざす、われわれは民主主義革命をのざす、という違いがあった。
 日本では民主的な条件を拡大する、それ以外では先が見えない。そこに固執した。だから一致点で連帯する、つまりチリの民主主義的な運動や要求と連帯するというのが、間島さんの考えであり、私たちの気持ちであってそれが運動を最後まで支えたのだと思います。情報が少なく、片思いであったにしても。
 九月のチリ・クーデターに怒ってたわたしは抗議集会にはいつも参加しました。そうするうちに江口朴郎さんから明日チリ連が発足するから来ないかと誘われ、出席したら幹事に選ばれました。次の年から常任委員となり、今日にいたっています。
 戦後、杉並に間島さん夫妻が指導する「火曜会」という地域の文化運動があり、わたしも参加していたのですが、それでチリ連結成総会で会った時、ああ君いたのかというので幹事にさせられたのです。
 われわれの若い時代は、天皇制と軍国主義のもとで、自由と民主主義を渇望していました。それが戦後実現した。戦後の運動は燃えるような民主主義の運動でした。いろいろな所でさまざまな運動が湧き出て、文化の香りの高い運動が花を咲かせました。
 それがアメリカ占領軍によって弾圧され大きな後退を強いられたのです。講和条約のあともういちどいろいろな運動を組み直していく過程で、文化運動は大きな役割を果たしてきました。間島さんが指揮をとったチリ連の運動は、そうした運動の伝統をふまえていたから、チリ人民の運動と共鳴しあえたのだと思います。それがチリ連の運動を十七年間持続させた理由です。
 どんなに一般の関心が薄らいだときでも、ピノチェト来日反対運動など、自主的な運動を組み立てることで、フィジーやフィリピンの人たちとも連帯することができたのだと思います。

(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>
虹をシンボルに「ノー」の運動

高橋 その後チリ情勢は八八年の国民投票に向けて動き出しました。このとき、チリではいろいろな議論が起きていました。国民投票に参加するのは軍事政権の法体制を認めることだとか、自由選挙を要求すべきだとか。リティンが来日したとき、彼も国民投票はまやかしだと言っていた。
 僕が八八年七月にチリに行ったとき、日本でのイメージがズレていることが分かった。チリではおそろしく多様で豊かな色彩の運動をやっている。白黒イメージでなくて、カラーなわけ。虹がシンボルだった。希望の象徴であるとともに、いろいろな政治的色合いを持った人たちがひとつになっていることを象徴していた。そうした色彩豊かな運動だった。
 帰国してから明るい運動をやっているといっても、何が明るいんだなんて言われた。

立松 先生だけが喜んでいてギャップを感じた。

司会 あのときは本当にわからなかった。高橋さんはチリ人じゃないかと思った。ビデオを見てはじめてああそうかなと思った。

高橋 イメージをきちんと正しくもっていること、そうしたイメージにもとづいて手をつないでいくことが、本当に大事だし、また難しい。
  チリはこれで一つの区切りがついたが、これで終ったわけではないし、未解決の問題が残っている。軍は相変らず無傷だ。ただ軍の腐敗が暴かれてきて、軍の危機感がつのってきている。
 経済も問題だ。貧困は相変らず。しかも深刻なのはこれからどのような経済をつくっていくのか、発展の方向は何なのかというモデルが壊れてしまっていることだ。工業化をどうするのか、一次産品の輸出をどうするのか、外国資本にどのような態度をとっていくのかなど、昔の公式では通用しなくなっている。どこに活路を見つけていくのかが大変です。
 話は飛びますが、つくづく感じるのは文化の力です。歌とか、映像とか。歌を通じて参加してくる人が日本でも多かった。アルピジェーラ(壁掛け)も技術は稚拙だが訴える力をもっている。文化的な活力はすぐに効果は出てこないけれど、長期的には質の高い運動をつくっていくことになると思います。

山口 八一年十一月から高橋さんの論文が「ニュース」に初めてのった。そのタイトルは”腐朽化がすすむピノチェト体制──強まる弾圧と反撃のたたかい”というもの。チリ人民のたたかいを高く評価し、ピノチェトの側の弱点を浮き彫りにする。そのひとつの根拠がチリ経済の危機的な状況。それを引き出したのが、シカゴ・フリードマン学派の経済政策、とこうなるわけです。
 ゆきずまるピノチェト。ところが、これにたいしてピノチェトの側から戒厳令などの弾圧が強まる。暗い見通しとなっていく。この高橋さんの書くチリ情勢にしたがって僕らの情勢判断もゆれ動いていく。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>

チリのたたかいは日本のたたかいに示唆

小松 東欧・ネパールも見たが、ひとつの世紀末の今日、あれだけ強い独裁を紙と鉛筆の力でひっくり返したチリ人民のたたかいは、一九九〇年代の今後の民衆のたたかいにひとつの指針を与えたものと思う。
 クーデター以後、独裁の十六年のなかで、草の根の民衆が一人一人できることで立ち上がっていくチリのたたかいは貴重だ。学んでいくことが大事だ。アジェンデ政権ができたときに励まされ、その後のきびしいたたかいのなかで励まされ、いまも励まされている。あの本(『チリ・嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店)の出版はささやかな恩返しだ。
 今度は日本でチリの民衆がやったことをやる。それが真の連帯につながるのでは、と思っている。

司会 今まで共通して出てきた問題は、ピノチェトの弾圧がひどかったということ。そのなかで、八八年十月の国民投票の勝利が確信を持たせることになったということ。そのときの情報の収集を高橋さんがやって、その資料がとても役に立ったということなどです。
 皆が勝てないと思っていたチリ人民がどうして勝てたのか、そのあたりを今の状況にもふれて話して下さい。

高橋 年表を見ていると、思っていることと実際とのあいだにズレがありますね。僕は七八年頃にチリ連に引っぱり込まれたと思っていたけど、でもそれ以前から活動に加わっていたんだなあ。チリの建築家のミゲル・ラウネルの来日(七五年八月)のときには通訳をしたし。
 彼とは今も付き合っていますが、反軍政運動では大事な役割を果たした人だった。いまではすっかり白髪頭で、建築家組会の理事をしています。
 キラパジュンのとき(最初の来日)も通訳をやってますし、新庄さん(初代のチリ連専従)の指揮で封筒の宛名書きのバイトもやったな。
 でも本格的に始めたのは七八年頃です。横目でチリ連の活動を見ていて気になったのは、これは日本側の、きつい言い方をすれば独りよがりな、片思い的な運動だなということでした。チリの現状をあまり知らないでやっている。それでチリの状況を紹介する必要を強く感じた。
 ほかの国のことを理解するのは難しい。クーデターのイメージも違う。僕はクーデターの半年後、七四年三月に短期間ですがチリに行きました。
 ある晩、ピノチェト以下軍政の幹部連が建物から出てくる場面にぶつかった。そのとき、通りの人たちから自然発生的に拍手が起こって、これに強いショックを受けました。
 もちろん野次など飛ばせばすぐ引っぱられる状況だったから、このことを一般化するつもりはありません。現に僕自身、写真をとっていて捕まったこともありました。
 でも僕が目撃した光景は、メキシコで伝えられていた、圧倒的多数の国民を一握りの軍人が暴力で抑え込んだというイメージとは違っていた。クーデターが起きるにはそれなりの社会的な条件があったのだと思いましたね。そうしたことも伝えなければと思って始めました。
 ただチリ情勢についてはいつも読みまちがいをしていました。八三年五月からプロテスタ(抗議行動)と呼ばれる厳しい形での決起が起こった。毎月のように激しいたたかいが起きた。それでピノチェトの最後は近いなどと口走ったりしました。
 ああいう運動は分かりやすいですね。たたかうチリ人民というイメージにぴったりだから。でもそれが八六年にポシャる。八六年九月にピノチェトの暗殺計画が失敗して、直接行動型の反軍政運動が終る。
 それからしばらくは混迷状態に入ります。その時期に僕らはミゲル・リティンをよんだ。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>

嵐にざわめく民衆の

アジェンデ夫人は日本の連帯に感謝

立松 マダム・アジェンデと娘のマリアさんを招いたときは、いろいろと大変だったけど、いまにして思えば、チリという皆があまり知らない国を知らせるいい機会だった。
 その後、アジェンデ夫人に何度も会う機会があり、その間に彼女はどんどん変貌していった。最後に会ったのは、八五年五月、彼女がナイロビでチリのことを訴えているのに出会ったとき、ブルジョア夫人が本当に大衆的な運動家に変っていたのにはびっくりした。
 会うたびに披女は言うんだけど、日本で運動が持続していのは誇らしいし、こんなに続いているのは日本だけで、感謝していると。
 正直なところ、一ペんひっり返ったものが、もう一度勝てるかどうか疑問をもっていた。
 途中から確信をとりもどしたのは、間島さんの発案で国労会館で日本の軍国化の問題とからめて集会をやったとき。やっぱり日本人がかかえている問題とチリの問題とは海をへだてていても密接なんだなと思いました。
 だからこそ、この間の勝利には感激しました。一番感激したのは、女たちが水をぶっかけられても「第九」を歌い、場所を変えてまた「第九」を歌う映像を見たとき。ああいう闘争は私たちはまだやっていないし、私たちはまだ余力があるなと思っています。

 はじめは文団連として間島さんといっしょにチリ連に出ていました。
 わたしは当時はチリを知らなかった。一九六九年から七〇年にキューバに行っていたとき、アジェンデの話を聞いて、チリに行きたいなと思ったが、結局行けなかった。そのときからチリに関心をもつようになりました。
 九段会館のアジェンデ夫人歓迎の集会のとき、舞台のうしろに何か書いてくれと言われ、でっかい画板を買ってきてつないで、大塚のガン研の大きな講堂を借りて、ぼくと飯野(紀雄)君とで描いてもっていった。
 それから何となく文団連のひとは出てこなくなったが,間島さんが何かと電話をかけてくるから、だんだんとチリ連と関係が深くなった。チリ人民支援の画展「ベンセレモス展」をやろうじゃないかと四、五人集めて、五、六回やった。小さな画集も出した。いっしょにやった絵かきもついてこれなくなった。たいして情報もないので、チリの問題を考えていくことができないわけね。あんた何してんの、絵を描いているより新聞読む方が中心みたいだね、なんて言われながらやってきた。まだ若かったんだね。

世界のチリ連帯運動

 最後の方では「ノー」の勝利のときには、本当に勝つのか分からなかったという感じは確かにありましたよ。ピノチエ卜独裁がきつかったんだよね。それで勝つときはテンポが早いという感じがしましたよ。
 長い運動のなかでいちばん印象に残っているのは、ピノチェ卜が外遊して、南太平洋のフィジーでストライキをやって追い返したという事件があったでしょ。あれにぼくはどえらいショックを受けたね。あのときはね。これはチリ人民は勝つなという感じがした。
 ピノチェトがタラップを降りてくる。ストライキで誰もいなくて役人がタラップをつないでやっと降りてくる。卵をぶつけられる。ホテルでもストライキ。勝手にやれってんで、飲み物も食物もなく帰った。あれはね、どうしてフィジーが、と思った。日本より情報が発達していない小さな国だよね。ああ日本は遅れてんな、人民の団結ってすごいものなんだなと感じた。
 最後のほうは、十何年になってどこでピリオドをうてるのか確信を持てなかったが「ノー」の運動でやっと持てました。
 チリの映画監督リティンが来たときもそうだった。たまたま息子がスペインに住んでいて、ミゲルが近所だったので、連絡して来てもらうことになったんだが、『戒厳令下チリ潜入記』に書かれていたチリの状況が変るには、まだまだずいぶん時間がかかるなと思っていました。それが、ふっと変ったのは「ノー」の勝利からだな。
 それからひどくこの運動で役に立ったのは、マスコミ情報の少ないなかで高橋さんが詳細に紹介してくれたチリ情勢だった。分からないことがパッと分かる。楽しみだった。
 アテネの国際会議(一九七五年十一月)に行ったとき、往復ともにローマの「民主チリ」に寄りました。なかなか訪ねられないところを、コネをえてやっと訪ねました。イタリアの大きな労組のビルの迷路のようなところを通って、奥の一部屋を「民主チリ」が借りていた。
 イタリアではずいぶん丁寧に亡命者を扱っていた。仕事につけてやったりね。責任者は若い人で、話を聞いているうちにこの人たちは大変だなと思った。世界中の労働者が連帯を強めている。若い人が中心となって働いている。これはうまくするといけるかなとあの時分から思った。

小松 一九七〇年当時の青年学生運動、六〇年安保や七〇年の変革のたたかいで、当時はひとつの高揚期だった。
 セイロン(スリランカ)で民主連合政府が成立し、チリで社会主義政権が選挙で成立し、その当時の青年学生のなかでは、つぎは日本だというイメージが強かった。美濃部革新都政をはじめ、社共が統一した革新自治体がたくさんできていたし、日本でも民主連合政府が実現できるのでは、という期待が強かった。
 当時、新聞記者で伊豆に取材に行っていたとき、お昼のニュースでクーデターでモネダ宮が燃えているのを見た。あのときの、チリの人民連合政権はわずか三年でひっくり返ったという印象が強く残っている。
 アジェンデ夫人が来日したときも取材した。チリのフォルクローレ・グループ「キラパジュン」が来日したとき、彼らの前で「隅田川」と「もみじ」を歌った記憶がある。「インティ・イジマニ」とも新宿にすき焼きを食べに行った。外相に申し入れに行ったときも同席した(日本政府がピノチェトを国賓として招待を決めた一九八〇年前後、チリ連代表は園田外相、大来外相、伊東外相に会い、ピノチェト招待中止を直接申し入れた)。節目、節目でチリ連と関わってきたという思いがある。いつかチリに行ってみたい気持があった。
 それがたまたまこのあいだ、ベルリンの壁が崩れる前後のドイツとか東欧の民衆の生活を見る機会があって、そのとき、チリがどうなるのだろうか、チリ連の活動をやってきた一人として、ジャーナリストとして見ておきたい気持ちが強くなった。
 高橋さんが一緒に行こうと言ってくれたのでこんどの仕事ができた。一人だけでは上っつらを見て終った気がする。
(つづく)

 *出席者
  山口啓二(歴史研究者)
  立松隆子(国際婦人運動家)
  谷 圭(画家)
  高橋正明(中南米研究家)
  小松健一(フォトジャーナリスト)
  司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
  記録 大島俊介(チリ連常任委員)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>