詩集『ひとを愛するものは』

ここでは、「詩集『ひとを愛するものは』」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



雪の下に1

雪の下に2
雪の下に3

(詩集『ひとを愛するものは』)

西寺尾



[雪の下に ──わが父の墓に──]の続きを読む
大島博光の詩とこころ

(『赤旗』1985年3月23日)

[土井大助「大島博光の詩とこころ」]の続きを読む

わたしのうち1

わたしの2
わたしのうち3
わたしのうち4
わたしのうち6


(『文学界』1955年10月号、『ひとを愛するものは』)

千曲川



[わたしのうちにもそとがわにも]の続きを読む

千曲川のほとり

(『民主長野』1985年3月17日)

*「千曲川べりの村で
*「絵はがき

ひとを愛するものは
[千曲川のほとりの思い出 「多喜二・百合子賞」受賞に際して]の続きを読む
てい談 第十七回多喜二・百合子賞を語る <上>

『大島博光詩集 ひとを愛するものは』

 第十七回多喜二・百合子賞は、『大島博光詩集 ひとを愛するものは』(新日本出版社)、佐藤貴美子『母さんの樹』に決まりました。受賞作をめぐって、西沢舜一、土井大助両氏とともに、山中郁子参院議員に作家・秋元有子さんとして語りあってもらいました。

 西沢 今年の多喜二・百合子賞は、詩と小説の分野で大きな収穫があったことを大いに喜びたいと思います。
 受賞の発表にもありましたが、『大島博光詩集 ひとを愛するものは』は、大島さんの戦後、日本共産党に入党してからの仕事を一巻の詩集にあまれたものです。作者のあとがきにもありますけれども、「党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活」(市川正一)という生活が芸術的完成度においても立派な域に達している、そこに大きな意義があると思います。
 『母さんの樹』は、「赤旗」に連載中から大きな反響があり、単行本になってからも、多くの読者に歓迎され、版を重ねている。題材になっている長岡事件そのものが感動的ですが、それを一つの文学作品の世界にまとめあげた力作です。大島さんの詩集からはじめたいと思いますが、この詩集の編集に協力された土井さんからまずお話を……。

最初の個人詩集

 土井 これは大島さんの最初の個人詩集なのですね。そういうと、意外だという人が多い。フランス詩を中心とした訳詩・編詩集をあれだけだされ、戦前からの長い詩歴をもつ詩人なのに、七十四歳にして処女詩集というのは異例のことだからだと思います。
 大島さんには、こういうことにわりと恬淡(てんたん)としたところがあるのですね。この詩集刊行にあたっては、健康にすぐれない大島さんを支えて資料を整理された奥さんの協力が絶大でした。

 秋元 大島さんといえば、『フランスの起床ラッパ』などのアラゴンの訳詩がすぐ浮かんできます。ですからこれが初めての詩集とうかがってちょっと驚きました。大島さんは、日本共産党の獄死した幹部、市川正一の言葉を引いて、党員となった時代が自分にとって真の時代とのべておられますが、この詩集全体から大島さんの日本共産党員としての人格、生きる姿勢、その人格のさわやかさ、すがすがしさが伝わってきますとね。自分が選んだ共産党員としての人生に、何のひるみも、迷いもなく、また肩ひじもはっていない。
 私はときどき、だれも聞いていない真夜中に詩を声にだして読んでみるんですけれど、「わたしの党に」「千曲川べりの村で」など党をうたった作品は朗読すると、いっそう感動させられます。

 土井 すがすがしい人柄、と秋元さんがいわれましたが、ぼくもこの詩集には、まぶしいくらい、ナイーブな感性を感じました。声を出して読むとよくとどくとのことですが、表題作「ひとを愛するものは」の終連で「言わないでくれ 音楽のない言葉は/語らないでくれ 酩酊のない散文は」とうたっているように、そういう意味で音楽性を重んずる詩人なのでしょうね。音声だけでよく伝わる言葉、これは詩法の特徴として一貫しています。いわば、この詩人の大衆性でしょう。

 西沢 詩の朗読の機会はもっとふやしたいですね。大島さんが翻訳・紹介されたパブロ・ネルーダの詩を、私、キューバへいったとき、葉巻き工場の中で朗読を聞いて感動したことがあります。最高級の葉巻きは一つひとつ手づくりなんですが、その作業場のまん中に銭湯の番台のようなものがあって、そこで朗読される詩を聞きながら手仕事をすすめるわけですね。大島さんの詩集も、もっと朗読・鑑賞をすすめたい。

 ナイーブな感性

 土井 大島さんは、プロレタリア詩運動が退潮期に入ったころに、ものをかきはじめた世代なのです。一九三四年早稲田大学を卒業。卒論は「アルチュール・ランボオ論」だったといいます。三三年に小林多喜二が殺され、三四年二月に作家同盟が解散している。だから、プロレタリア文学の影響は、文学的にはあまり受けていない。ヒューマンな心を抱きながらも、しかしそれをどう社会現実に結びつけていくのか、出口がまったくない時代に出発した詩人といえます。現実にたちむかうべき詩が出口をふさがれたまま、戦前、戦中の暗い時代をすごし、戦後を迎えたわけです。それ以前には、いろんな迷いも悩みもあったでしょうし、その一端は詩集からも読みとれます。「わたしもうちひしがれたもののひとり/だがくらやみをくぐりぬけたものにこそ/太陽のひかりはさらにまぶしかろう」(「わたしはさがしむとめた」)とうたっていますが、この「太陽というのは、戦後の新しい時代、人生を再出発させようとした大島さんの道が、日本共産党のさし示す道と必然的に合致した、そのことを象徴するイメージです。

 秋元 この詩集を読んで感じるのは、非常によくわかる詩だということです。現代詩の中には難解なものも多いですが…。
 私はそういうのはちょっとお手あげなんです。わからないとかわかるとかをめぐる問題が詩の評価とどうかかわるのか、読者、鑑賞者の一人としてよく考えさせられることがあります。

 西沢 そうですね。散文の場合は描写や説明が自由にできますが、詩歌は韻律という要素が決定的だから、詩人、歌人が鋭敏な感覚でことばを選択するわけですね。そこで一読して意味のとりにくい作品も生まれる。それにたいして、難解な詩はだめで平易な詩がよいという、単純な考えは正しくないと思うんです。一時期、こういう俗流大衆路線と呼ばれる主張もありましたが、むろんまちがっている。しかし、それでは一般鑑賞者に難解であることをもって良しとするということにはなりません。やはり多くの鑑賞者に親しみやすい作品はほしいですね。全国民に親しまれる詩の書き手を国民詩人というように、共産党員、党支持者に愛唱されるという意味での党員詩人といいますか、アラゴンやネルーダの紹介をしてこられた大島さんは、ご自身の詩作にもその司能性をもった詩人だと思います。

 土井 先ほどもいいましたが、たしかに「酩酊のない散文」では詩にならぬと思い定めつつ、酩酊がいきすぎて人を迷路に誘う詩がいかに多いかという詩壇事情も、彼にはよく分かっていたわけでしょう。かつては多少とも芸術至上のボヘミアンだった人のはずですから。そこから、「ひとびとの胸の火を照りかえして/火をつくりだすものこそ詩人」(「わたしのそねっと」結び)──戦後の再出発に、そう自分の態度と詩法の基本をきめて、それが四十年今日まで貫かれてきているわけです。だからこそ、今もって詩精神が若わかしく党派性も堅固なのだと思いますね。その軌跡がこの詩集です。

 近代詩の遺産を

 秋元 「硫黄島」という詩。私も何年か前に、国会の調査団として硫黄島にいったことがありましたので、興味深い題材でした。数万人といわれる玉砕した日本軍の主力が、少年兵だったそうですが、あくまでも青く澄み切った空と海のもとで、何で若い子どもたちが死ななければならなかったのかと思うと、涙がでましてね。この詩をよんで、そのときのショックを作日のことのように思いだしました。戦争への告発として大変力のある詩ですが、詩集が全体としてそついう主張をもっていると思います。

 西沢 さて、『母さんの樹』に移る前にひとことふれておきたいのは、大島さんが内外の近代詩を身につけて党に入党された、というか、党をうたいあげるときも、青年時代の素養が血肉化していると思うんです。直接にはランボオに傾倒し、西条八十のお弟子さんだったわけだけど、先生をつうじ、さらに独自に吸収した近代詩の遺産ですね。藤村などとも共通の郷土である信州をはじめとして、日本の風土をうたい、季節をうたう詩にも、近代詩の発展的継承者としての大島さんを感じます。近代文学の遺産の積極的な継承、発展という点では、この賞がちなむ小林多喜二、宮本百合子がそうでしたが…。
(つづく)

(「赤旗」1985年3月12日)

てい談

てい談



みなみ風が


詩集『ひとを愛するものは』──春としあわせについて)

赤バラ


誌上インタビュー 第17回多喜二・百合子賞受賞者に聞く

 今年の第17回多喜二・百合子賞は、大島博光詩集『ひとを愛するものは』と佐藤貴美子『母さんの樹』に授賞されました。誌上インタビューとして、受賞のお二人に、つぎの五項目についてお答えいただきました。
(1)今度の受賞作の成り立ちについて。
(2)ご自分の文学的な出発(原点)と、今日の到達について。
(3)その間の民主的文学運動(その他の民主運動)とのかかわりについて。
(4)現在取組まれている文学的なお仕事、これから取組まれようとされているお仕事(計画)について。
(5)その他、受賞のご感想について。

詩集『ひとを愛するものは』について
                        大島博光

(1)こんど多喜二・百合子賞を受賞した詩集『ひとを愛するものは』は、「あとがき」にも書いているように、敗戦後まもない一九四六年、わたしが三十六歳で日本共産党に入党してから以後に書いた作品によって成立っている。しかし、それらの詩作品の性質の点からみれば、個人的な感懐をうたった詩、自己変革をあつかった詩、平和の詩、状況の詩、政治詩などによって成立っている。
 そしてもっと根源的に考えれば、このわたしの詩集を成り立たせたものは、そういう詩を書きたいと思ったわたしの意識であった。そしてそういう意識を与えてくれ、そういう活動を保証してくれたのは党であるから、この詩集の成り立ちは党のおかげによるのである。「……多少なりと詩をたたかう武器とし、状況の詩、政治詩を書くことができるようになったとすれば、それは党のおかげであり、そこに党があったからである」とわたしが「あとがき」に書いたのもそういう意味である。

(2)わたしはまた「あとがき」につぎのようにも書いている。「わたしは元来レアリスムからは遠いところ、むしろレアリスムとは相反するところから出発した。わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしているが、党員になる前のわたしは多かれ少なかれ芸術主義者であって、きわめて狭い小さな内面生活をうたうことしか知らなかった。外部では、苛烈な階級闘争がおこなわれ、治安維持法をふりかざした特高によって小林多喜二が虐殺され、とうとうファシズムがのさばり、侵略戦争がおし進められていたのに、それがそのものとして見えなかった。見ようともしなかった。そういう外部世界、状況、歴史は、詩とは無縁のものだとわたしは思いこんでいた。」
 戦前のわたしが詩について抱いていたこのような考え方、態度は、詩の分野におけるブルジョア・イデオローグたちが、こんにちもなお宣伝にこれつとめているところのものである。新しいよそおいやニュアンスなどのちがいはあるにしても。戦後のわたしの詩は、このような戦前の詩にたいするアンチ・テーゼである。
 といっても、このアンチ・テーゼをどれほど実現しえているかは、わたしじしんにはわからないが、それはわたしにとって容易なことではなかった。古いおのれの詩を変えることは、単なる頭の切り換えなどでできることではないからである。おのれの詩を変えるには、新しい思想を身につけると同時に、実践をとおしておのれの人間そのものを変えるよりほかに道はない。つまり意識と詩法を変えるには長い時間にわたる過程が必要なのである。
 詩を書くという作業の点についていえば、たとえば状況の詩、政治詩を否定するブルジョア・イデオローグたちは、外部世界──状況を詩にもちこむことは詩の後退であり、詩の貧困であり、詩に政治をもちこんではならない、と説教している。戦前のわたしも、こういう禁制をうけいれていたのであり、わたしにもたくさんの「禁じられた言葉」があった。したがって新しい詩をかくことの第一歩はまずこういう禁制を自分からとっぱらい、みずからに禁じていた言葉を解放することであった。
 詩における形式の問題についていえば、たとえば定型という問題がある。日本には俳句、短歌という定型詩形があるが、詩にはそれほど決定的な定型はないし、現代詩にあってはそんなことを問題にする意識すらもほとんどないようである。それにもかかわらず、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用しているのは、アラゴンの詩論に負うところが大きい。アラゴンは、詩の内容における個人主義を克服すると同時に、形式における個人主義を克服しなければならないといって、フランス詩における民族形式──伝統的な定型の採用を主張し、実践し、その定型に新しいひびきを与えた。フランス詩の定型は、脚韻、胸韻シラブルなどをもった詩句versのさまざまな組み合わせから成り立っている。むろん、われわれのところには、そのような詩句はないし、そのような概念もない。しかし、われわれのところにも伝統的な音数律があり、語呂あわせといわれるようなかたちでの胸韻、脚韻も考えられるのだから、それらを採用して、定型とまではゆかなくとも、形式にたいする意識なり精神をもって詩を書くことはまったく無意味というわけではあるまい。──それが、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用した理由である。それが何ほどかの効果をあげているかどうかは、わたしにはわからない。ただ、何ほどかの言葉のひびきあいを創りだし得たと思った時、創りだしたもののひそかな悦びがあったことを、わたしは告白しておきたい。言葉の音楽といわれるものが、詩を構成するところの要素であるとすれば、それを否定しさるよりは利用した方が、詩の豊かさのためにも役立つであろう。そしてそれは、なんら詩におけるレアリスムをそこねるものでも、それに相反するものでもないのである。

(4)わたしはこれから理念(イデエ)の詩にとりくんでみたいと思っている。社会主義・共産主義の新しい理念、精神といったものを、意識的に積極的に詩で追求したい。むろんそれは実践的に追求するほかはない。詩の分野においても、そういう理念は自然成長的に生まれてくるわけではないから、詩人が意識的にそれを追求する必要があるだろう。この理念(イデエ)の詩の追求を、何か観念論でないかと怖れたり、気がねすることはあるまい。それは詩人の先見性と先駆性をみずから否定し、詩人から翼を奪うことになろう。
(『民主文学』1985年5月号)

民主文学

ひとをあいする



<2010年11月3日に開かれた大島博光生誕100年記念のつどい(松代文化ホール)でのライブ録音>


 鳩の歌
                  大島博光

わたしは鳩だから どこへでも飛んでゆく
風のように 世界じゅう 飛びまわっている

わたしの巣立った巣は ヒロシマ ナガサキ
ゲルニカ アウシュビッツ オラドゥール

わたしはそこで焼かれて 灰のなかから
不死鳥のように また 生まれてきたのだ

そこで焼かれた人たちが血と涙の中から
仰ぎ見た あの空の虹が わたしなのだ

わたしは大きな不幸の中から生まれてきたから
わたしのほんとうの名は 幸福(しあわせ)というのだ

わたしの名を呼んでいるところ どこへでも
わたしは三つ葉の小枝を咬(くわ)えて 飛んでゆく

赤ん坊に乳をふくませている母親の胸のなか
新しい朝を迎えた 若い恋人たちのところへ

ごらんなさい ボンで ローマで ロンドンで
うねっているわたしの波を 「人間の鎖」を

地獄の敷居にすっくと立って叫んでる人たちを
白いミサイルも赤いミサイルも まっぴらだ

この地球がまるごと ヒロシマのように
焼かれて 殺されて 瓦礫とならぬように

どんな毒矢も わたしを撃ち落せはしない
わたしは生そのもの 人類そのものだから

どんな絶望もわたしの翼を折ることはできない
わたしは 大きな死と闘うためにやって来た

わたしの またの名を 希望というのだ
わたしは大きな春と未来のためにやって来たのだから

                 (一九八三年 詩集『ひとを愛するものは』)


ひまわり


さわやかな新しい風を

(詩集『ひとを愛するものは』結びの詩)

スノーホワイト



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   第17回多喜二・百合子賞 受賞の感想

 わたしを変えてくれた党 
                      大島博光

 こんど、偉大な党員作家小林多喜二と宮本百合子の名称をもつ文学賞を、詩集『ひとを愛するものは』によって受賞して、わたしにはこの上ない光栄である。わたしはまずこの悦びを妻静江とわかちあって、彼女に感謝しなければならない。こんにちわたしがあるのも、詩を書きつづけることができたのも、彼女の力強い支えのおかげによるからである。
 わたしがいつも映画のひとこまのように思い出すイメージがある。冬枯れた山の村の斜面の道を、小さな赤旗をおし立てて若者の一団が革命歌をうたいながらつき進んでゆく……。たしか一九四七年の戦後二回目の総選挙のときのイメージである。そのときわたしは信州の松代にいて、若い同志たちといっしょに周辺の村村を選挙闘争の演説をしたり、集会をひらいてまわって歩いた。まだ自動車(くるま)も何もない時代であったから、あのような牧歌的(?)な、叙事詩的なイメージが成り立ったのかも知れない。そのときの燃えたつような高揚と希望をわたしはいまも忘れることができない。そればいわば、わたしの戦後の出発の原体験となった。
 そのとき三十六歳だったわたしは、詩人として新しい一歩から始めなければならなかった。日本プロレタリア詩の伝統に学びながらも、しかしそれは手さぐりに近かった。それまでの現実から遊離した発想や観念的な思考のならわしをレアリスムの道へ変えてゆくのは容易なことではなかった。
 結局、詩を変えるには、おのれの人間を変えるほかに道はなかったのである。わたしは『ひとを愛するものは』の「あとがき」に書いている。
 「わたしが……資本主義社会では人間は人間にたいして狼であること、『肝腎なのは世界を変えることである』(マルクス)ということなどを多少なりと理解しうるようになり、多少なりと詩をたたかう武器とし、状況の詩、政治詩を書くことができるようになったとすれば、それは党のおかげであり、そこに党があったからである」
 こうして、それまで嘆きの歌ばかりうたっていた詩人は、狭い内面だけの世界からぬけだし、たくさんの同志たちのなかのひとりの人間となることができた。
 そしていま、新しい展望と確信をもって平和の詩を書くことができるようになったのは、平和の「日ソ共同声明」にはげまされてである。まことに「日ソ共同声明」はわが日本共産党が、先見性と先駆性をもってイニシアチィヴを発揮した歴史的な出来事ということができる。この党に、わたしはいま「平和の党」という詩をささげる。

 眼に見えない 空の道のような
 平和の道を
 党は 探しだした
 すぐれたパイロットのように

 険しく きびしい前人未到の岩山に
 ルートを見つける登山家のように
 党は 核廃絶の道を切り拓いた

 おお 平和の党よ!
         一九八五年二月


 大島博光(おおしまひろみつ) 一九一〇年長野県に生まれる。一九三一年、早稲田大学文学部フランス文学科に入学。一九三四年、卒業論文に「アルチュール・ランボオ論」を書く。一九三五年から西条八十主宰詩誌『蝋人形』の編集にあたる。戦後フランスやラテンアメリカの革命詩人の作品翻訳にたずさわる一方で、一九六一年壷井繁治らと詩人会議結成に参加。訳詩集に『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』『エリュアール詩集』、著書に『パリ・コンミューンの詩人たち』『愛と革命の詩人ネルーダ』『レジスタンスと詩人たち』など。現在は詩人会議運営委員、日本民主主義文学同盟員。

   (『赤旗』1985年2月20日)

赤旗



春と未来のために

(月刊誌「暮らしと政治」1985年)

大島博光詩集『ひとを愛するものは』の出版祝賀会開く

 本年二月「第十七回多喜二・百合子賞」を受賞した大島博光詩集『ひとを愛するものは』(新日本出版社刊)の出版祝賀会が、七日午後から東京・豊島区の東方会館で約六十人が参加して開かれました。この宴会は大島氏が所属している反戦詩人の会と詩人会儀の詩人たちが中心になって開いたもの。
 戦前から詩人として歩いてきた大島氏は、ネルーダ、アラゴンなどの紹介者としても広く知られており、大島氏の古い友人や詩友たちが長野、山形などからもかけつけました。会は鈴木初枝、井上千文両氏の司会ですすめられ、藤原定、西条嫩子、新川和江、服部伸六、草鹿外吉、増岡敏和、西条八束の諸氏らがつぎつぎ立って、出版と受賞のお祝いを述べ、激励しました。
 あいさつに立った大島氏はランボーの詩などフランス文学と自分とのかかわりなどにふれ、今後もがんばりたいとのべました。
 閉会あいさつは城侑氏でした。
(『赤旗』1985.4.9 「文化通信」)

祝賀会
祝賀会
祝賀会
祝賀会
  あとがき

 この詩集に収められている詩は、敗戦後まもない一九四六年、わたしが三十六歳で日本共産党に入党してから以後に書いたものばかりである。
 偉大な市川正一同志は、一九三二年七月の公判廷で、その陳述の冒頭にこう述べている。
 「……私の全生涯は、日本共産党員となった時代とそれ以前の時代との二つにわけられる。そして日本共産党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活である」(新日本文庫「日本共産党の六十年」上巻七七ページ)
 わたしは党員として何ほどの活動もして来なかったが、しかしわたしもまた詩人として「党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活」であったという感懐をもつ。それはこの詩集のなかでもくりかえし書いているように、自分のなかの古い残りかすをとりのけて、新しい人間へと自分を変えてゆく過程でもあった。それはまた党のおかげで、「生死を賭けるに足る現実世界」(アラゴン)を見いだすことのできた者のもつ感懐でもある。もしもわたしが、組織にくわわることを束縛とみなして、アナーキーな気ままさを選んでいたなら、この感懐を味わうことはできなかったであろう。
 詩、あるいは詩人の分野についていえば、わたしは元来レアリスムからは遠いところ、むしろレアリスムとは相反するところから出発した。わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしているが、党員になる前のわたしは多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い小さな内面生活をうたうことしか知らなかった。外部では、苛烈な階級闘争がおこなわれ、治安維持法をふりかざした特高によって小林多喜二が虐殺され、とうとうとファシズムがのさばり、侵略戦争がおし進められていたのに、それがそのものとして見えなかった。見ようともしなかった。(こんにち日本の反動はふたたび「政党法」なるものを日程にのぼせようとしているが、それはその本質と目的において、あの治安維持法を復活させることにほかならないであろう)そういう外部世界、状況、歴史は、詩とは無縁のものだとわたしは思いこんでいた。
 わたしがそういうところから抜け出て、そして資本主義社会では人間は人間にたいして狼であるということ、「肝腎なのは世界を変えることである」(マルクス)ということなどを多少なりと理解しうるようになり、多少なりと詩をたたかう武器とし、状況の詩、政治詩を書くことができるようになったとすれば、それは党のおかげであり、そこに党があったからである。それらの詩において、わたしもアラゴンやネルーダのような先駆けの偉大な詩人たちのように、美と真実を、夢と現実を、詩のなかに統合することをめざしたが、むろんそれに成功しえているなどとは思っていない。しかしとにかくわたしもそこをめざしたのである。
 こんにち、人類は、核戦争の危険が現実のものとなっている時代に直面している。いよいよ詩人も、人民のひとりとして、人類の一員として、核による大量死を拒否してたたかうときである。わたしもポール・エリユアールとともに言おう。

  万人(みんな)の未来のためなら
  わたしは何んでもする

 さて、この詩集の刊行にあたって、作品の選択、編集などの労をとってくれた、詩人土井大助と新日本出版社の森鉱一君に、ここに感謝の意をしるしておきたい。またいままで永いことわたしをささえて、詩を書かせてくれた妻静江にも、ここで感謝をささげておきたい。
  一九八四年六月
                               著 者

<『ひとを愛するものは』新日本出版社1984年>
春がきたら
                大島博光

春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に

きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が

千の若芽 若葉が
水を吸いあげる音が

だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる

三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから

春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に


 この詩は、二年ほどまえに書いて「詩学」にのせた詩を改作したものです。はじめの詩稿では、

貝がら虫にとりつかれたもちの木を
手入れにきた年老いた植木屋が話してくれた

というような説明の部分がつけくわわっていたのを、こんどは取りさったうえに、二行一節にかきあらためてみた。はじめの詩稿からとりさった部分からわかるように、この詩はじっさいにひとりの植木屋がはなしてくれた話をもとにして、書いたものです。その植木屋のほうが、あるいははるかに、春の樹木がさかんに水を吸いあげるさまを、如実に話してくれたかも知れない。「ズーズーと吸いあげる音がきこえますよ。もっとも、ききなれた耳でないときこえませんがね。」と、そんなふうに、擬音(オノマトペ)をまじえて話してくれたのです。そのとき、きいていたわたしの耳には、樹木たちがほんとうに、ズーズーと音をたてて水を吸いあげている音がきこえようにさえ思えました。ちょうど春さきで、ながい冬から解放されて、すべての生命がよみがえったように活動をはじめる、そのさかんな生命の力が、そこにまざまざと見えるような気もちがしたのです。
 わたしはこの話を、日記に書きとめておきました。わたしは、すこしながい春の詩を書きたいような心の動きがあったので、いつかその役に立つかも知れないとも考えて。しかし、プランはとうとう実現せずに、結局、植木屋からきいた話だけの部分の、この小さな詩ができあがることになってしまったのです。
 この詩には、わかりにくいようなところは一つもないでしょう。むしろ、わかりきっていることばかりとさえいえましょう。けれども、「大きな樹の幹に耳をつけて聞くと、水を吸いあげる音がきこえる」というようなこの詩のモチーフ(動機)は、一見、きわめて平凡のように見えますが、やはり年とった、経験をつんだ植木屋でなければ、なかなかつかめないところだと思います。

きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が

 この二行には、暗い幹のなかでいとなまれている植物の生命の不思議さにたいする、作者自身の感動がうたいこめられています。「暗い幹のなか」ということのなかには、わたしたち人間の内部をも暗示させたい作者の気もちが、はいってもいるのです。この、耳にうったえる詩句、生命の内部でいとなまれている眼にみえない営みをうたった詩句にたいして、

だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる

という、眼にうったえるイメージが対置されます。樹木の生命のいとなみは、井戸の水位をさげるほどにもさかんだ、ということなのですが、これはただそういう形容句であるばかりでなく、大地のなかでの樹木と地下水の関係のおもしろさも、ここでうたわれているのです。だから、そういうあらわでないところでの関係のおもしろみというものを、このなにげない詩句から、感じとってほしいというのが、作者のねがいでもあります。

三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから

という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が 千のばけつで」といったのは、たんに、漠然と生命のさかんなありさまを歌うにではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるので、ということを強調したいためなのです。
 ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。
<『中学生のために 続・現代詩鑑賞』昭和30年9月 宝文館>

ひとを愛するものは  もくじ



春がきたら
恋びとたちは
ひとを愛するものは
千曲川の歌
  ──子供の頃──
わたしのそねっと
 はたち/わたしはちいさな小屋に/わたしは想いえがいた/わたしは酒にひたっていた/きみたちもまた/まっ黒い遮光幕/しわがれ声で叫んだむかしのうた/麦笛のような/悪夢/わたしは愛をも/わたしはひとりの女にめぐり会った/春の朝こそすがすがしい/わたしの三つのつぼみたち/わたしはさがしもとめた/そこひの眼をひらいて見れは/わたしは見た/ひかりは射していた/もしもわたしが詩人なら
香りもない花束
  ──わが師西條八十の思い出に──





草むらのなかで
富士のうた
硫黄島
もはや 杞憂ではない
子どもたちと灰と
かれはぼろのなかで
  ──わたしの愛する詩人たち絵描きたち──
ひろしまのおとめたちの歌
われわれはピノチェトを歓迎しない
屍体置場
鳩の歌



党の詩人 福田律郎
壷井繁治への挽歌
ネルーダヘの悲歌
アラゴンヘの挽歌
アランブラに月が出た
アントニオ・マチャードの墓
雪の下に
  ──わが父の墓に──



春としあわせについて
 わたしはまだ/みなみ風が/うばいとられた/いくどでもわたしは・・・/たとえ石のように・・・/なぜならそこには・・・/ただひとりでなくなるために
わたしのうちにもそとがわにも
千曲川べりの村で
絵はがき
新しい同志を迎えて
  ──M同志に──
わたしの党に
さわやかな 新しい風を

 著者略年譜
 初出一覧
 あとがき

      カバー装画 中谷泰


新日本出版社 1984年初版

ひとを愛するものは