小熊忠二

ここでは、「小熊忠二」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


小熊パネル
12月5日、小熊忠二さんの葬儀会場に大きな写真パネルが飾られました。小熊さんご夫妻と博光夫婦とで戸隠高原に水芭蕉を見に行った時の写真です。小熊夫人が「足が悪くて遅れがちな静江さんを博光先生が優しく助けていた、”ハイハイ、ただ今”と、何ごとにもやさしくしてあげていた、信州の男にはありえないことです」と語ってくれました。

小熊パネル
ゆずっていただいて記念館ホールに展示しました。


酔いどれ詩人

■大島博光先生は私のことを「酔いどれ船の詩人」だなんて、詩集の評で書いてくれましたが、アルチュール・ランボーの「酔いどれ船」にひっかけて、酒呑んで酔っぱらってばかりいるもんで言ったんでしょう。
 大島先生だってね、酒は随分呑んだんですよ。西条八十先生のところで詩誌『蝋人形』の編集をしていた時分のことと思うが、外に呑みに出て仲間とどのくらい呑めるか言い合いになって、靴を脱いで酒をつがせて呑んだと話してましたからね。若い頃はかなりの酒豪だったんじやないかと思いますね。

よみがえる人

■大島先生は九十五歳まで生きて亡くなられたわけですが、よくガンバッテ生きぬかれましたよ。亡くなる二年くらい前の九十二歳か九十三歳の時に、フランスのゴーシュロンという詩人の訳詩を出した。これには魂消ましたね。なによりも九十歳過ぎての、その仕事に対する執念に驚嘆してしまう。腸のガンで、人知れず立川で入院していた頃はもう駄目かと思いました。奥さんが亡くなってから後のことで、八十七歳ぐらいの時かなあ。それが退院したら間もなく二冊の訳詩集を出版されて送られてきた時はビックリしました。
 立川の病院で大手術をして治ってから書いた詩がある。

   私はよみがえる
   希望の中にずっしり根をおろして
   私は生まれかわる
   暗闇ばかり見ていた昨日は消え失せ
   私はまた詩人に生まれかわる
                  (「点滴の歌」)

 この詩を読んだ時は嬉しかったですね。大島博光は再びよみがえったと思いましたよ。本人ももう駄目だと思っていたらしい。その頃の詩人会議の人達にも、もう危ないってことで連絡したんですよ。そうしたら、その当時に丈夫だった人々がみんな大島先生より先に向こう岸に舟でいっちまった。それに比べると博光先生はガンバリましたよ。九十五歳まで生きたんだから、大島先生は何度もよみがえったんですよ。

・小熊忠二 (1927~)
 詩人。長野市在住。若い日に大島博光と出会い、国鉄詩人として詩作を続けた。詩集『愛のあかし』『小熊忠二詩集』『ペンギンの足』『空に浮かべたこっぱ舟』

(『狼煙』58号 小熊忠二「よみがえる詩人 大島博光」)
信州での出合い

■ワシは戦後間もなく、昭和二十三年頃ですか、大島博光氏が疎開して長野にいると聞いて訪ねて行きました。その頃は労働組合の機関誌が勢いがあって、いいものが出ていて、ワシはそこの文化部にいてね。大島先生も日本共産党に入党されて間もない頃だったと思います。何にも手のつかないような大島先生が党の講演会を聴いて感動して、昭和二十一年二月の「ある雪の降る日」に「その場で入党した」と書かれています。
■大島先生が住んでいたのは長野の桐原駅のスグ裏で、結婚したばかりの奥さんと一歳半ぐらいの子供と三人で暮らしていた。
 初めて訪ねていった時は、奥さんは上田の鐘紡の争議の応援に出かけていて、博光氏が一人で子供をみていました。
■昭和十九年から昭和二十五年くらいまで、大島先生は信州で暮らした。結婚して生家のある西寺尾でしばらく暮らし、それから桐原へ移った。
 大島先生の三十四歳から四十歳までの五年間ですが、ワシの感じではもっと年をしていた感じでしたね。その当時から杖もっていた。杖を突いていましたよ。胸が悪かったですから。

夜の『歌声』

■ワシは大島先生に見てもらおうと詩を書いて持って行ったんだ。その詩のフレーズに「夜の太陽」と書いたのを読んで、博光氏はジロッとワシの顔を見て「これは君のコトバか?」と問いただした。私は「ハ、ハイ」と答えたが、心の中では驚き恐ろしくなってしまった。
 実は「夜の太陽」というのは、善光寺前の藤屋旅館のウィンドウに一枚の絵が飾られていて「夜の太陽」という題がついていたのを見て、それを拝借したものだった。
 それから私は大島先生に心酔するようになったんです。
■大島先生は党に入って、間もなく『歌声』という詩誌を出すんですが、それから少し元気になった。しかし元気になっても金は一銭もなかった。奥さんの静江さんはイモも食えなくて苦労したんですよ。
 実家から金を出してもらって三鷹に家を造ってもらって、東京に出て、やっと息ができるようになったんじゃないか。大島先生の出していた『歌声』にはワシも投稿しました。名の知れた詩人が『歌声』に詩を発表していましたよ。

(『狼煙』58号 小熊忠二「よみがえる詩人 大島博光」より)

小熊忠二詩集『ペンギンの足』を読む
                       大島博光

 小熊忠二は数冊の詩集をもつ老練の詩人である。そんなことを言えば、彼は顔にはにかみの色を浮べるだろう。そんなことには無頓着に、ひかえめに、彼はおのれの歌を──あるいはおのれの苦しみをうたってきた男である。そしていま最近の詩をあつめた『ペンギンの足』がわたしの眼の前にある。
 わたしはまず「老化衝動症」に感銘し、これを愛する。わたしはまず冒頭の四行に捉えられる。

 いつか知らず
 としとるごとに
 耐え性なくなり
 なにごとも あとの祭りだ

 この四行の詩句は、さっと描かれた線描のように自然で、画面に定着したみごとなデッサンを想わせる。そして主題は、動きに溢れた力強い線で一気に書かれる。

 溝に 餌をあさり
 セキレイがとんでいた
 猫が くわえた
 あたり感嘆の声ひびくのに
 しゅんかん
 奇声をあげておれは猫をおいかけた
 よその家の庭をぬけ
 ブロックを越え 菊をふみ
 走った・・・


 セキレイをくわえた猫に怒りの声をあげて猫を追いかけ、「よその家の庭をぬけ/ブロックを越え 菊をふみ/走った・・・」自分を、詩人はみずから老化衝動症と名づけた。しかし、きわめて人間的なこの行動には老化もなければ病状もない。きわめて健全で積極的で行動的である。──ここでわたしはピカソの一枚の絵を思い浮べる。それは牙をむきだしてニワトリをくわっとくわえた猫を描いた絵図である。この画面によってピカソは、その当時暴虐をふるっていたスペインのファシストたちへの怒りを表現したのだった。ピカソの絵をもち出すまでもなく、セキレイをくわえた猫に怒りの声をあげて走った詩人は、猫の暴力にたいする怒りや、その犠牲となった弱者への同情という、自然な人間的感情に駆られたのであって、それが力感に溢れ、ダイナミズムにみちたこの詩へと結晶したのだ。そしてこのような詩が書かれたのは、この詩人のなかに正義の人がいたからである。正義の人などと言うと、こんにち人びとは笑うかも知れない。ましてや詩人においては──しかし、この詩がさし示しているのはまさに、正義の人が存在しているということであり、そのことが色褪せることなく光っているとわたしは思う。ひとは詩人である前に人間であって、血をもった人間であることによって、詩にも血が通うのではなかろうか。
 さて、「字」という作品の冒頭にも、わたしはみごとな線描に成る四行の詩句をみいだす。

 夜っぴいて
 ねむれないのは つらいものだ
 ねむるのが こわいのだ
 朝 死んでいるのが


 この四行は、先に引用した「老化衝動症」の冒頭の四行と同様に、それ自身でひとつの詩世界をつくり出しているように思われる。これらの四行の詩句は、数十年にわたる詩作──エクリチュウル(書き方)の追求と作業ののちに獲得された、いわば枯淡自在な線描なのである。
 これは、「朝死んでいるのが」こわくて眠れない人間の詩である。眠れないままに、この不眠のひとは、文字を読み、読もうとしている。そんな不眠の夜の「つらさ」は、「字がアブストラクにうごきまわ」り、「細菌のようにくねくねして/さわいで」いるというイメージに描かれる。

 この「眠る恐怖」のつらさはさらに「また はじまった」においてエスカレートし、いっそう病的な症状となって現われ、ついに救急車の世話になるということになる。
 「またはじまった。吐き気が立ったり座ったり寝たりさせる。気が遠のくようだ・・・

 はじめ、救急車がきた。・・・ピーポー・ピーポーの音を聞きながら、はずかしいと思った。・・・

 また、はじまった。昼ちかくまで耐えてもうろうのなかで女房を呼んだ。病院へ行くぞ。・・・救急車はやめてくれ。なぜか街という街角の信号機が赤に変ってストップした。死ぬことなんてたかだかと、死を侮辱していた意識の死の厳粛さを消すために、しきりと田んぼを考えようとした。まわりの美田たちはガラクタで埋められ、ねずみが走った。背後の遠い山の亀裂からやってきたタカは、舞いおりる寸前、カラスどもの襲撃によたよたした。カラスめ。ガラクタ田んぼをおおいつくした雪、いちめんの雪をけちらし。ああ、もう夏だ。
 これはまさに小熊忠二の地獄の季節の一節である──ということができる。もうろうの意識のなかで捉えられた、流れる意識の流露、死の意識との格闘、幻想のように喚起された雪の風景──だが現実は「ああ、もう夏だ」という舞台の転換・・・この散文詩はこの詩人の傑作である──わたしはそう言うことができる。
 これらの意識内部の苦しみのつぶやき、坤めき、声にならない叫びは、おのずから詩となるほかはなかった。この詩人が意識の底から吐きだしたもの、そこに描いたファンタジーは詩となるほかはなかった。ここでは、この詩人においては、詩はどうしようもなく必然のものであり、詩は彼にとって彼のアイディンティティを証すものとなった。それこそ詩と詩人の証明ということにもなろう。
 こうして小熊忠二は詩人となるほかはなかったのである。詩集『ペンギンの足』はそのことを物語っている。
            一九九〇年五月

<詩誌「稜線」>