追悼文集「大島静江をしのんで」

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


大島静江追悼文集に遠山国臣さん(妹・房枝の夫)が、偲ぶ歌を2首書いています。

亡き人を しのぶ野川の 桜かな

利根川の ほとりに建てる朔太郎の碑に 涙せし君はいずこぞ

1首目は静江を偲ぶ会のあと、都立野川公園(三鷹市)を散策したときのこと。
練馬の近藤芳子叔母や、遠山国臣夫婦といっしょに満開の桜を見て回りました。

2首目に関して、房枝さんのお葬式のとき、国臣さんが話してくれました。
「静江さんは感激家で、敷島公園の朔太郎の詩碑を読んで感極まって涙を流していた・・・」
静江は前橋の敷島公園が好きで、少女時代、敷島公園の泉をチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレの泉」と呼んでさまよっていた(博光「静江の希い」)といいます。

 姉
                 遠山房枝

 九才違いの姉で、私が物心つく頃は上京しその後すぐ結婚しましたので姉妹で一緒に遊んだ思い出はあまりありません。
 わたしの十才頃、水色のハーフコートや絞りの四つ身のアンサンブル等上手に縫ってくれました。又、家では絵を描きラジオにかじりついてクラシックを聞き、本を読み戦争中の圧迫された中での青春だったと思います。
 私は姉の取っていた「みずゑ」を開き朔太郎の詩、高村光太郎の詩等姉の本箱から読みました。
 早世した上の兄は姉と共通するものも多く三鷹に寄宿していた時に亡くなったので姉の悲しみも大きかったそうです。
 下の兄(前橋在住)は音楽に造詣が深く聞く楽しみを姉から受けたものと思います。
 五人の兄妹も二人になってしまいました。六十七年の生涯を十二分に生きた姉を讃え心からご冥福をお祈りいたします。

       平成五年四月十二日

 不自由なる身体の姉が心こめ
   シチュー煮込みて吾を待ちをり

 四季の花好みて描きしキャンバスよ
   パーキンソン病は日毎に進む

 面高のデスマスクなり色白の姉
   改めて美しと見る

 上げるとはついに云わざりし油絵を
   姉の形見と抱え帰りぬ

 淡き黄の菜の花の横に描かれし
   枯れヒマワリに姉の死思う

<追悼文集「大島静江をしのんで」>

菜の花房枝


 「老後」
 皮肉にもパーキンソン氏病で体の自由が利かなくなってやっとゆっくりした「老後」の時間をもてた母は、油絵や料理を始めたが外の世界にも未練があり、僕は時々ドライブへ最後になるであろう親孝行のつもりで連れ出した。ニッコウキスゲが見たいと霧が峰のヴィーナス・ラインヘ。鳥の声を聞きに富士スバルラインヘ、奥武蔵へ、榛名山へ、赤城山へ、入笠山へ、湯の丸へ、信州の西寺尾へ・・・。大体、二人だけのドライブであったが、そこで出会った風景はそれが彼女にとって最後の見納めとなったはずである。
 篠原病院に入院してまだ自分で食事が取れる一、二年ほどは毎日のように博光さんが訪ねて、おそらく入院患者の中では一番幸福な時間を味わえたのではないかと思うが、後半はだんだん意識もうすれ、悲しくも「生きたしかばね」となってしまった。しかし唯一のなぐさめは母が生を充分すぎるほど生き抜いて来たことだろう。僕もずっと母のように山や野をかけめぐり続けることだろう。

花見
花見
国際キリスト教大学にて

■今日の詩 「妻静江を送る」
 「花屋」
 吉祥寺の路上で「こも」にくるんだ花を広げて裸一貫で商売を始めた母は、僕が小学生二年のとき、朝日新聞の地方版に「結核の主人と三人の子供をささえて」というような美談として記事になった。店をかまえるようになって軌道に乗って来たが、僕は高校・大学と花屋のアルバイトが組み込まれてしまった。毎月の十五日と月末には榊と仏花と生け花のお得意さん廻りの仕事があった。母はあまり売り上げ額の少ないお客さんも大切にし、花好きの人には必ず廻るように言われた。又、お花の先生の中で「花の心」が通じ合える先生にはどんなことをしても花材をそろえた。それはもうけ主義ではなく花を愛する心を持った人にはとことん尽くす母の誠実さでもあった。しかし当時の青二才だった僕は、不効率で母の神経が細か過ぎでずいぶんと反発したものだった。
 花屋の最大のドラマは何といっても「暮」だった。十二月の中頃、松が入ると根引松の根をナタで切り落とす寒風の中でのつらい作業があった。千両が入ればカナヅチで根をたたいて割った。菊やストックなどが入れば新聞紙に束ね直して湯揚げをしなければならない。二十五日から二十八日にかけてはけいこ花を何百杯分も組んでけいこ場に配達した。もうこの頃は次の花を組むのに夜の二時三時までかかり、朝になってしまったこともあった。「何もしないでボーナスが貰えるサラリーマンはうらやましい」とよく言っていたが、あと何回でも花屋の「暮」をやりたいとも言っていた。

静江
 「子供の頃」
 小学生の頃、絵画への夢を僕に託した母は、近所の確田さんという画家のアトリエで油絵を習わさせた。中学一年の時には西荻窪の「こけし屋」で個展までしてくれた。結局、中学・高校と美術部に入り、さて大学受験の段になるともう美術大学しかなかった。大学を卒業してすぐ庭の離れにアトリエを建ててくれた。そのままそれは新婚の僕らの新居となった。母の投資のおかげで現在美術教師という飯のたねにありつけたのだから全く親とはありがたいものである。
 子供の頃から物欲が強かった僕は欲しいと思ったものは何でもねだった。顕微鏡、Oゲージの鉄道模型、サイクリング車、エレキ・ギター、フルート、・・・。生活の厳しかった時代に、泣いてねだる僕に母はいつも負けて買ってくれた品々だ。中学生の頃、サイクリング少年だった僕に、何泊もの遠出の長旅にも全く自由に行かせてくれた。自由を味わった僕はやっと世俗的な物欲からも自由になろうとしている。

秋光


 僕の母
                              大島秋光
 「跡」
 人生の折り返し地点を過ぎてしまったこの頃、ふと、僕は母がやって来たことの跡をたどっているのに過ぎない─という思いに捉われる時がある。山登りも、スキーも・・・。
 五十才にしてスキーに熱中し始めた母は、毎週のように日帰りスキーに出かけ、湯の丸のオーストリースキー教室などにも通っていた。まだスキーにそんなに興味のなかった僕もさそい出してくれて、万座や八方尾根、上越などに連れて行ってもらった。思い出深いのは五月の春先に夜汽車に乗って母と二人だけで立山へ行った時のことだ。今では滑降禁止になってしまったタンボ平を、黒部・立山アルペンの大観峰からのロープウェイをリフトがわりに使い、観光客の視線に優越感を感じながら、まだうまくない僕は母のあとを追いかけるように滑ったものだった。その後三十才を過ぎて僕もスキーに熱中しだした・・・。
 小学生の頃はよく家族連れで高原や山につれていってくれ、蓼科、日光、那須などのバンガローに泊った。母は日光の戦場ヶ原や湯の丸、尾瀬、山中湖などが好きで、高山植物や野鳥の声を楽しみに何度も通っていた。これまた、三十才過ぎて子供の時の体験が甦えるかのように僕も山登りに夢中になりだした。そして高山植物やバードウォッチングの世界にも入っていった。母が二度も大雪山へ行った時は僕にとっては他人事だったのだが、娘の小学校最後の思い出に・・・と登った山は結局大雪山なのだった。母がこだわった湯の丸は僕らのファミリーのスキーや山のホーム・ゲレンデになってしまい、十年以上も夏・冬と通い続けるようになっている。
 母の行動範囲は拡がるばかりで、カナダヘスキーに行ったり、ヨーロッパ・アルプスを見に行ったりとすごい行動力だった。さすがに僕はもうその跡を追えないでいる。
<「大島静江をしのんで」1994.3>

静江