静江ゆかりの人

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ときざわの佐々木家のこと

 前橋市の北にある時沢地域に静江の母親・鈴木さわの実家があった。古くからの医家で、佐々木医院を開業していた。静江も子供の頃はよく遊びに行って愛着があったようで、「ときざわの佐々木家」の名をよく口に出し、帰省したときに子供たちを連れていったこともある。
 最近、佐々木医院の佐々木惠子さんからのはがきが見つかった。博光の『老いたるオルフェの歌』寄贈への礼状であった。

 春の陽射しが眩い季節になりました。
 御健勝にてお過ごしの御事と存じ上げます。
 さて、この度は詩集「老いたるオルフェの歌」をお送り頂き 誠に有難うございました。子供の時は一緒に遊んで、楽しかった思い出一杯の静江さんでしたが、近年はあまりお会いする事もなく、たった一度、もう10年位前でしようか、訪ねて来て下さいましたが、その時はこれが最後などと全く思って居りませんでしたので、何気なく別れてしまいましたが、でも、あの時お会いしたから、今静江さんのお顔を思い出す事が出来ますが、そうでなかったら、子供の頃のお顔しか知らないで済んでしまったのではなかったでしょうか。
 お送りいただきました詩集の詩の一つ一つを拝見させて頂き、静江さんは幸せだったんだなあ、と羨ましくなってしまいます。
 有難うございました。この御本は大切にして折にふれ読ませて頂き、静江さんを思い出すよすがに致したいと存じます。
 時節がら御自愛のほど祈り上げます。
  3月23日
大島博光様
                  佐々木惠子拜

 母を連れて最後に前橋を訪問した時のことが思い出された。
 静江が足が不自由になって療養していた頃のある日、前橋に行きたいというので二人で日帰りドライブした。言われるままに運転して着いたのが前橋の郊外の畜産試験場だった。あたりは田園地帯で、桑畑が広がっていた。静江は桑畑の一画に立ち止まり、懐かしそうに見やりながら立ち尽くしていた。青春時代の思い出に浸っているようであった。誰との思い出なのか、想像してみた。博光とのデートは軽井沢が中心で、わざわざここまで来る必然性がない。前橋高女の教師に失恋したと語っていたが、当時は教師とのデートなど考えられない。女学校の遠足で来て楽しいことがあったのかもしれない。
 ドライブの第二の目的地・佐々木医院は車でそこからすぐの所にあった。私を廊下のような所に残して静江は奥に行った。医者になった私を佐々木家の人に見せたかったようだが、先方が忙しかったようで、会うことはかなわなかった。私を会わせることは出来なかったが、静江にとって惠子さんと最後の顔合わせが出来て無駄ではなかったのだ。

静江

静江のアルバムに貼られていた女学校時代の大きく引き伸ばした写真。畜産試験場もこんな雰囲気だった。



静江さんの思い出
               河村芳枝

私が静江さんとお付き合いがあったのは 太平洋戦争の始まった頃 静江さんが東京・練馬の近藤修博さんのお家においでの頃でした。 兄茂樹の家が近藤さん宅の近くにありましたので 休みの日に遊んで頂きました。私は男兄弟しかおりませんでしたので お姉さんに甘える気持ちでした。そのうち戦争も激しくなり 生活に余裕もなくなり、お会いすることもなくなりました。

次にお会いする機会に恵まれましたのは昭和20年4月、私の通っておりました女学校が空襲で焼けてしまいましたので、前橋に疎開していらっしゃった近藤芳子さんにお世話になることになり前橋高女の4年に転入致しました。近藤家と鈴木家は2,3分の近所でしたので、鈴木さんのお家でお風呂を頂いておりましたので よくお話をさせて頂きました。後で思うと その頃は静江さんが一番お苦しい時代だったのではないでしょうか。ご結婚されるという噂が耳に入って来ました 当時は結婚といえば親の決めた相手と一緒になり、「産めよ殖やせよ」の国策にそい男児を1人でも多く生むことが常識の時代です。本人の深い愛情にむすばれる結婚など小説の中の出来ごと夢の様な話です。若い男女がいっしょに居るだけで「非国民」と冷たい眼でみられ憲兵ににらまれる時代です。恋とか愛とか口にすることも出来ない時代 世間体というものもあって お父様の反対にあわれたと伺っています。でも、静江さんはそうした「しがらみ」を断ち切って御自分の心を大事にされたのでしょう。もともとシンの強い方でしたが、大島さんのもとに嫁がれたのですが 私達には知らされませんでした。 しばらくたってから近藤夫人からご結婚の経緯を聞かされました。静江さんの勇気と愛情の深さに感動致しました。そして心から喝采を送ったものでした。

やがて敗戦の日を迎え 私も東京に帰りましが 世田谷の家は5月25日の空襲で焼け、焼け跡をさまよう日々で お互いに生活をするのが精一杯で すっかりご無沙汰することになってしまいました。
(2013年7月3日)

*   *   *
6月に「その時代に誰もが忘れかけ避けて通っている 人の道を真っすぐに追い求められた(静江の)情熱に 今更ながら感動した」という手紙を下さった縁戚の河村芳枝さん、自由に行動することが抑えつけられ、自由な恋愛も許されなかった当時の状況の下で恋愛を貫いた静江の行動に驚き、感動したと語りました。
今でこそ当然となっている結婚の自由も戦前はたたかい取らなければならなかった。憲法第24条(家庭生活における個人の尊厳と両性の平等)制定に偉大な貢献をしたベアテさんのことが思い浮かびました。
日本国憲法第24条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。


梅雨に入ったとはいえ、雨も少なく暑い日が続いております
さて 本日は お忙しい處 ご丁寧に房枝さんの三周忌の写真と「大島博光記念館ニュース」をお送り頂き 有難うございました  そこに載せられた博光様の詩が温かく 優しく また心強く 心の琴線をふるわせてくださいました

また「博光/静江物語」を拝読し 私は昭和20年には近藤家といっしょに前橋に疎開しておりまして 鈴木家のほんの近くの連雀町の家から前橋高女4年に在学しておりました
その時代に誰もが忘れかけ避けて通っている 人の道を真っすぐに追い求められた情熱に 今更ながら感動し 当時 軍国少女であった私の目にも 憧れと その勇気に驚いたことを覚えております
静江様とは少女時代(私は近藤家に入り浸っておりましたので)練馬の近藤家にお見えになった頃 近藤夫人と静江様と3人で 前の桐畑で思いっ切り大声をあげて 菩提樹やら野ばらといったドイツ歌曲を歌い 近くの林に写生に連れていって頂いたものでした あの明るい 何ものも恐れず まっすぐ我が道を往くお姿が今も眼に残っております 楽しかったなつかしい思い出をありがとうございました

こうして大島様とお附き合いできるようになったのも フーちゃんが橋渡ししてくださった お陰です
お仕事お忙しく お過ごしのことと拝察致します どうぞ 御身お大事になさいませ 地域の文化活動に 平和運動に 更にお力をお貸し下さいませ
かしこ

2013年6月10日
河村芳枝

*河村芳枝さんは遠山国臣さん(房枝さんの夫)の妹で、長兄が遠山茂樹。前橋の鈴木さわ(静江の母親)のいとこだった。母・遠山ますが近藤家の子供10人の面倒を見たので近藤家と親しくなった。近藤芳子叔母は趣味が一緒だったので静江を可愛がったという。

納骨の会
静江の妹の遠山房枝さんが11月19日ご逝去されました。享年七十九歳。
房枝さんのご主人の国臣さんは夏に亡くなられた遠山茂樹さんの弟になります。
前橋時代、ポッチャリした可愛い女性でみんなに愛され、静江と同じ様に練馬の近藤修博・芳子夫妻の世話になったそうです。
明るい優しい方でしたが、浦和にいたときは生協の活動をしていると言っており、地域での活動も積極的でした。
長男の英介さんがつくられた礼状が、房枝さんの人柄がわかって素晴らしいので紹介させていただきます。
  ◇    ◇    ◇
「花薫る」
明るく朗らかで周りの空気を和ませる母は、最高の母親であり、父にとってはかけがえのない妻で、良妻賢母そのものでした。幼い頃は、仕事で留守がちな父の分まで家庭を守り子育てをしてきた母。洋裁を趣味に持ち、子ども服はほとんど手作りでした。埼玉県の浦和に住んでいた頃に、公民館活動がきっかけで始めた短歌は、生涯を通して母の一番の趣味となり、今では生活の一部になっていたとさえ感じます。一方で、新しいものに取り組む好奇心とチャレンジ精神も旺盛でした。平成六年に多治見に落ち着いてからも、「桔梗大学」に通ったり、夫婦で多治見歴史研究会に入り活動したり、老人会「つくも会」では、今年の三月まで庶務の役員を務めさせていただきました。どこに住まいが変わろうとも地域との繋がりを持ち続けた母。穏やかで優しい外見と、内に秘めた芯の強さを合わせ持つ母がそこにはいました。

シシウドの 花を通して見る空の はるかな辺り 秋の色みゆ
川の辺も 山も一度に咲く桜 遅れししでこぶしも ともに輝ふ

母の短歌を見るたびに、懐かしい姿が浮かびます

*短歌を詠むために写真を始めました(写真キャプション)
*小さい頃から猫と一緒に育った母は、猫が大好きでした(写真キャプション)

亡母 遠山房枝のあゆみ
昭和八年三月二十七日 鈴木家の三女として群馬県前橋市に生まれる
群馬県立前橋女子高等学校卒業
昭和三十一年 遠山家四男の国臣と結婚
昭和三十二年 長男英介誕生
昭和三十六年 長女誕生
昭和四十年 次女誕生
孫四人に恵まれる
平成二十三年十一月十九日逝去 享年七十九歳

本日は、お忙しい中にもかかわらず、心のこもったお悔みをいただき、誠にありがとうございます。
併せて、生前の母を陰になり日向になって支えていただいた皆様のご厚情に、深く感謝申し上げます。

通夜 平成二十三年十一月二十二日(火) 十八時より
葬儀 告別式 平成二十三年十一月二十三日(水) 十時より
場所 豊格院多治見斎場

喪主 遠山英介
   親戚一同

房枝葬儀
房枝葬儀


コメント:義母房枝さんを偲んで
葬儀を終え、遠山房枝さんが皆にどれだけ、愛され慕われていたか、改めて感じました。
鈴木家、遠山家のかたがたの知性、人柄を再認識もできて、心が洗われたようにも、思います。遠山 敦子