マチス

ここでは、「マチス」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



 問題の四枚のデッサンは同じ主題によって描かれている。
 けれどもそれらはめいめい、線や輪郭や量感の表現において、それぞれきわめて自由に描かれている。
 じっさい、それらのデッサンのどれも、ほかのデッサンと同じではない。みんな輪郭が全く違っているからある。
 問題の四枚のデッサンでは、顔の上部は似ているが、下部はまったく違っている。このカタログの十三号の図では、顔の下部はごっつくて角ばっている。十四号の図では、それは顔の上部にくらべて 長く引き伸ばされている。十五号の図では、顔の下部は先端が尖っている。十六号では、ほかのデッサンのどの顔の下部にも似ていない。
 
 それにもかかわらず、それら四枚のデッサンを構成している異った要素は、描かれた人物の生まれつきの体格と同じ大きさを現しているのである。これらの諸要素は、同じ形象(シーニュ)によって表現されていないとしても、それぞれのデッサンの中で同じ感情でもって結びついているのである。つまり、鼻がどっしりと顔の中に根を張り、耳が頭蓋の中にしっかりと固定されている描き方、下顎がぶらさがっている描き方、鼻眼鏡が鼻と耳の上に置かれている描き方、視覚の緊張、すべてのデッサンにおける同じ濃密さ・・・とはいえ、それぞれのデッサンにおいて、表現のニュアンスは異なっているのだ。
 むろん、それらの諸要素の全体は、同一の人間を描いている。同一の人間を、特徴において、個性において、物を考察する仕方で、人生にたいする彼の反応において、人生にたいして彼が抱く慎しみにおいて、抑制なしに自分を解放することを妨げる慎しみにおいて、描いているのである。
 したがって明らかに、それらのデッサンの解剖学上の、構造上の不正確さは、人物の本質的な真実の内面的な特徴を表現する妨げとはならず、逆にその内面的な特徴の表現に役立っているのだ。

 それらのデッサンは肖像画だろうか、それとも肖像画ではないのか?
 肖像画とは何であろう?
 作品とは、表現された人物の人間的な感情を現わすものではないのか?
 レンブラントの言葉として知られている唯一のものはこうである──「わたしはひたすら肖像画を描いた」
 ルーヴルにある、赤いビロードのドレスを着たジャンヌ・ダ・ラゴンを描いたラファェルの肖像画は、まさに肖像画と呼びうるにふさわしいものであろう?
 それらのデッサンはこのようにほとんど偶然の結果ではないから、表現された特徴の真実と同時に、同じ光がそれぞれのデッサンにひろがっており、デッサンのちがった部分の造形的な特性、背景、透きとおった鼻眼鏡、物の重要感など──言葉では言い現わせないこれらすべてのものも、いわば紙を仕切ることで簡単に表現され、ほとんどつねに厚みのひとしい単純な線によって区切られ──相変らず同じものとして残るのである。
 わたしの考えでは、これらのデッサンにはどれにも、めいめい独特な創意工夫がある。この創意工夫は、芸術家が主題(テーマ)に深く没入したことから生まれて、その主題と完全に一致するまでにいたる。こうして問題の本質的な真実によって、デッサンが成り立つ。本質的な真実は、そのデッサンを制作する諸条件によって決して変えられるものではなく、反対に、その線のしなやかさと自由さによるこの真実の表現は、構図の要求にも順応するのである。本質的な真実は、それを表現する芸術家の見方、考え方によってニュアンスを与えられ、活気づきさえするのである。
 正確さは真実ではない。

一九四七年五月 ヴァンスにて
                 (おおしまひろみつ 詩人)
(完)

(『美術運動』1988年2月)

マチス

マティスの言葉 デッサンについて

 正確さは真実ではない

(一九四七年リェージュでひらかれたアンリ・マテイス・デッサン展のカタログの序文。陳列された四枚の肖像画の複製がこのカタログに掲載されていた。)

 この展覧会のためにわたしがきわめて入念に選んだ四十八枚のデッサンのなかに、鏡のなかの自分の顔を見て描いた──恐らく肖像画と言っていい──四枚のデッサンがある。この展覧会を訪れる観衆はとりわけこの四枚のデッサンに注目されたい。
 わたしの考えでは、これらのデッサンは、わたしが長い間デッサンの特徴について加えてきた考察の結果を要約している。デッサンの特徴は、自然を正確にコッピーしたかたちには依存せず、あるいは根気よく集められた、正確な細部の集合に依存するのではなく、対象を前にした芸術家の深い感情に依存するのである。芸術家が選んだ対象の上に、彼の注意は向けられ、芸術家はそこに精神を集中しなければならない。

 これらのことについてのわたしの確信が生まれたのは、例えば木の葉では──とりわけイチジクの葉では──葉と葉のあいだにはかたちに大きな違いがあるが、それもそれらの葉が共通の特徴に結びつくのを妨げない、ということを確かめた時である。イチジクの葉たちは、それぞれ気まぐれなかたちをしているが、やはりイチジクの葉なのである。そのほか大地の生みだすもの、果実、野菜などについても、わたしは同じような考察を試みた・・・したがって表現すべき対象の眼に見える外観から引き出さなければならない本質的な真実が存在する。重要なのはただひとつ、この真実である。
(つづく)

(『美術運動』1988年2月)

マチス女
アラゴンの伝える
木のデッサンについての談話
(一九四二年)

「さきごろ、わたしが木や木々の描き方を勉強するために描いたデッサンをお見せしましたねぇ。わたしはまるで木を一度も見たことがないように、木をデッサンしたのです。わたしはわたしの窓から一本の木を見ます。木の全体(マス)がどうできているか、それから木そのもの、幹、枝、葉がどうできているか、辛棒強く知らなければなりません。まず枝は、ひとつの面に左右対称(シンメトリー)に並んでいます。それから枝々はぐるっと回って、幹の前の方へ移ってくるのです・・・まちがわないでください。わたしは窓から木を眺めながら、木をコピーするために描くのだ、と言いたいのではありません。木というものはまた、それがわたしに与える印象の総体なのです。わたしの前にあるひとつの対象(オブジェ)は、たんに木としてだけでなく、またあらゆる種類のほかの感覚との関係によって、わたしの精神に働きかけるのです。木を精確にコッピーしても、木の葉を一枚一枚普通の表現法で描いても、わたしはわたしの感動から解放されないでしょう・・・しかも、その木のなかにわたしが一体化した後でも。わたしは木に似たひとつの物体(オブジェ)を創りださねばならないのです。木の形象(シーニュ)を。しかも、ほかの芸術家のところで・・・例えば33 33 33を描いて木の葉の茂みを現わす術をおぼえた画家のところで、すでに描かれたような木の形象ではなくて、それは他のひとの表現の残りかすでしかありません。ほかの人たちは彼らの形象を創りだしたのです・・・それをもう一ど取りあげることは、彼らじしんの感動の到達点という、死んだものをふたたび取りあげることです。そしてほかの人の表現の残りかすは、わたしの独自の感覚にはふさわしくないのです。いいですか、クロード・ロラン、プッサンは、木の葉を描く彼ら特有の流儀をもち、木の葉を表現する彼らの流儀を発明したのです。彼らは彼らの木を描くのに葉を一枚一枚、たいへん器用に描いたと言われます。わかりやすく言えば、彼らはじっさいには恐らく二千の木の葉のうち、五十枚ほど描いただけなのです。しかし木の葉の形象をつくりだす仕方が、観る者の精神のなかに木の葉を増殖させ、観る者は二千の木の葉を見るのです・・・彼らは彼ら独自の表現法をもっていたのです。ひとつの表現法を会得するようになって以来、わたしは自分の創意発明の質にふさわしい形象をみいださなければなりません。新しい造形的形象が、こんどは共同の表現法のなかに入るでしょう。もしも、いまわたしが彼らの方法について言ったことが、ほかの人にも重要であるとすれば。ひとりの芸術家の重要さは、彼が造形的言語(表現法)のなかに導入するであろう新しい形象の質によって測られるのです」(『フランスにおけるマテイス』)
 訳注 形象(シーニュ)──signeという言葉は、流行の記号論におけるように、日本では「記号」と訳されているが、ここでは記号と訳したのではどうしても意味をなさないので、対象のもつ特徴、しるし、核心という意味をふくめて、ここでは形象と訳した。
(つづく)

木

(『美術運動』1988年2月)

デッサン集『テーマとヴァリエーション』についてのマティスのノート

 わたしのデッサン集「デーマとヴァリエーション」を制作している時、わたしは鉛筆が画用紙の上で辿った道は一部分、くらやみのなかで手探りで道を探している人のしぐさに何か似たところがある。わたしの言いたいのは、わたしの道は前もって何ひとつわかっていないということだ。わたしは導かれるのであって、わたしが導くのではない。わたしはモデルの対象の一点から他の一点へと移ってゆく。そのほかの一点を、わたしはいつもただひとり見ているのであり、つづいてわたしのペンが赴くほかの点とは無関係に見ているのである。わたしをもっぱら導くのは、わたしの眼が見据える外部よりもむしろ、内部の躍動である。その内部の躍動が形成されるにつれて、わたしはそれを表現するが、その瞬間、わたしにとってもっと重要なのは、まずわたしが辿ってゆかねばならぬ夜のなかのかすかな光である。──だが、ひとたび辿り着くと、わたしはまたほかの光をみつけて、それにむかってさらに進んでゆくことになる。そこへ辿りつく道をつねに見つけながら。
 ちょうど、蜘蛛がいちばん好都合と思った突出部に糸を投げ(あるいは引っ掛け?)そこからつぎに見つけたほかのところに糸を投げ、一点から一点へと網を張ってゆくように。

 わたしの習作デッサン集「テーマ」の制作についていえば、わたしの制作行為はそれほどはっきりとはわたしに見えない。というのは、それはひじょうに複雑で、ひじょうに意図的だから。この「ひじょうに意図的」というのは、いちばん重要なものを洞察するのにおおきな邪魔となる。──この「ひじょうに意図的」というのは、本態がはっきりと現われるのを妨げるからである。
 わたしが感興にのってデッサンしているとき、もしもモデルがわたしに時間を尋ね、わたしがそれに注意をむけると、わたしはいやになり、デッサンはだめになる。ちがった仕事、習作のときなど、わたしは会話をつづけることがあるが、わたしは多少ともぼんやりした話で会話を運ぶ。それはそのときのわたしの仕事には役立たない。その場合でも、ひとがわたしに時間を尋ねれば、ほかの世界から──自分の仕事の世界から出てゆく。
(つづく)

(『美術運動』1988年2月)

マチス
 人物像としてのわたしのモデルたちは、内心においてだしに使われる端役などではけっしてない。彼女たちはわたしの制作の主要な主題である。わたしは自分が思うままに観察するモデルにまったく依存する。それからモデルにもっともありのままの姿に合ったポーズをとらせるように決める。わたしが新しいモデルを採用するとき、わたしがそのモデルにふさしいポーズとして判断するのは、彼女がのんびりとくつろいでいる状態であって、わたしはその奴隷となる。わたしはこういう若い娘たちをしばしば数年のあいだ、興味のなくなるまで、モデルとして採用する。わたしの造形的形象は、恐らく彼女たちの精神状態(好きな言葉ではないが)を表現するもので、わたしはそれに無意識に興味を抱くのだが、さもなければそのとき興味を抱く何があろう?彼女たちの形姿はつねに完璧というわけではない。しかし彼女たちはつねに表現ゆたかである。彼女たちがわたしに与える情感的興味は、彼女たちの肉体を表現した部分には特に目立って現れないで、それはしばしば、画布や画用紙の上にまき散らされた風変りな線やヴァルールによって示される。その線やヴァルールはわたしの興味のオーケストレーションであり建築である。しかしだれにでもそれがわかるというわけではない。それは純化された悦楽であって、恐らくまだすべてのひとにわかるというものではあるまい。

 ひとはわたしについて言う。「この魅惑者は怪物どもを魅了して喜ぶ」と。わたしの創作が、怪物どもを魅了したもの、あるいは魅惑的な怪物どもであると、わたしが思ったことは一度もなかった。ある人は言ったーわたしはわたしが表現したようには女たちを見ていなかったと。そういう人にわたしは答えた。「もしもわたしが街なかでそういう女に出会ったら、わたしはびっくりして逃げだすだろう」と。何よりもまず、わたしはひとりの女を創造するのではなく、一枚の画を描くのだ。わたしは入り組んだ線や影や半濃淡を用いなかったとはいえ、ヴァルールの働きや抑揚をしりぞけはしない。わたしは多少ともわたしの太い線によって抑揚をつけ、とりわけ太い線が白い画用紙の上に区切る面によって抑揚をつける。わたしは白い画用紙のさまざまな部分を処理するのに、そこに手を加えずに隣接する部分と部分の関係によって処理する。それはレンブラントやターナーのデッサンのなかに見ごとにみいだされるのであって一般的には彩色の得意な画家たちのデッサンに見られる。

 要するに、わたしは理論なしで描く。わたしはただ自分が使用するいろいろな力を意識するだけだ。そしてわたしはひとつの考え(アイデア)に駆られて仕事を進めるのだが、その考えは画面の進行とともに発展し、その考えの発展するにつれて、初めてわたしにもその考えが真にわかってくるのだ。シャルダンは言ったものだ。「わたしはそれがうまくゆくまで、なるようにまかせる」と。(さもなければ、わたしは画面から捨てさる。なぜなら、わたしはたくさん削って消すのだから。)
 もしもよい原則をもって仕事を進めるならば、画を描くことは家を建てることと同様、論理的に見えるだろう。人間的な側面にかかずらってはならない。ひとは人間的な側面をもつか、あるいはもたないかである。もしもっているなら、人間的な側面はやっぱり作品を彩どることになろう。
(つづく)

(『美術運動』1988年2月)
マチス


 宝石とアラベスクは、モデルによるわたしのデッサンにとって重荷となるようなことはない。なぜなら、宝石とアラベスクはわたしの交響楽法(オーケストラシオン)の一部だから、うまく配置された宝石とアラベスクは、デッサンに必要なヴァルールの調子やかたちを暗示してくれる。ここで、つぎのような医者の言葉が思い出される。「あなたの素描(デッサン)を見ると、あなたがよく解剖学を知っておられることがわかって、驚かされます」─動き(ムーヴマン)が線の論理的なリズムによって表現されているわたしのデッサンは、活動中の筋肉の働きを医者に思い浮かべさせたのだ。

 このように、ペンによってデッサンを描く前に、わたしがありのままの自然なものを研究するのは、優雅さを現わすためである。わたしはけっして荒々しさを受け入れない。反対にわたしは舞踊家や曲芸師のようなものだ─彼らは観衆の前で、一連のダンスの、ゆっくりとした、あるいは激しい運動によって、あるいは優雅な旋回によって、自分の感動を表現しようとするとき、肉体のすべての部分が自分の思うままになるように、彼らは一日の初めに、いろいろな柔軟体操を数時間も行うのである。
 わたしはつねにデッサンというものを特殊な巧みさ・器用さの訓練とはみなさないで、何よりも内面の感情や心境を表現する一方法とみなしてきた。しかもその表現にいっそうの単純さ、率直さを与えるために単純にした方法とみなしてきた。そういう表現が重苦しさを与えることなしに観衆の精神に訴えるのである。
(つづく)

(『美術運動』1988年2月)

ヌード
マチス「ヌード」 インク、1931年
アンリ・マティス
ひとりの画家のデッサンについてのノート(一九三九年)

 わたしの受けた教育は、色彩とデッサンによる、いくつかのちがった表現方法をわたしに説明することにあった。わたしの受けた古典的な教育は、自然にわたしをして巨匠たちを研究するように促し、量感(ヴォリユム)とか、アラベスクとか、対照(コントラスト)とか、調和とかを考察しながら、巨匠たちを吸収することであり、自然に即した自分の仕事のなかに自分の反省をもちこむことであり、それは、巨匠たちの手法(メッチェ)を忘れなければならないことに、あるいはむしろ、独自の仕方で彼らを理解しなければならないことに、わたしが気づいた日までつづいた。これは古典を勉強する際の芸術家の法則ではなかろうか。それからオリエント芸術についての知識と影響がやってきた。

 影をつけない線だけによるわたしのデッサンは、わたしの感動をあらわす直接的で、もっとも純粋な表現である。方法の単純化によってそれが可能となる。けれども、それらのデッサンは、それらを一種の下書き(クロッキー)とみなすある人たちの眼に見えるかもしれない以上に完璧なものである。それらのデッサンは光の再生産者である。弱い陽のなかや間接的な照明のなかで見ると、それらのデッサンは、線の味わいやセンスにもまして、色彩に通ずる色調(ヴァルール)の相違と光とをはっきりと含んでいる。これらの質は、多くの人びとにとって、光のさなかでも見えるものである。これらの質が得られたのは、それらのデッサンが描かれる前には、線描や、例えば木炭やぼかし用の擦筆のようなより厳格でない方法による何枚もの習作が行われていたからである。こういう方法によって、モデルの特徴、その人間的な表情、それをとり巻く光の質、その環境、デッサンでしか表現しえないすべてのものを同時に考察することができる。そして数回の制作にわたるこの作業によって、わたしがへとへとに精根をつかいはたした時に初めて、精神が澄みきって、わたしは自信をもってペンの赴くままにまかせることができる。そのときわたしは、わたしの感動が造形的筆記(エクリキュール)の方法で表現された、ということをはっきりと感じる。
(つづく)

(『美術運動』1988年2月)

静物


マティスの言葉 デッサンについて

                      大島博光

 アラゴンに大冊二巻から成る『アンリ・マティス・ロマン』という、マティスの絵画選集を兼ねた小説(ロマン)がある。一九七一年の刊行で、出るとすぐわたしはそれを求めたが、ほとんど読みもせずに本棚にならべて置いた。さいきん、この本のあらましでも紹介してみようと思って、読んだり翻訳を始めたりしてみたが、とてもひとすじ縄ではゆかない代物であることがわかってきた。というのも、この本は、一九四一年から一九六八年にかけて、アラゴンがマティスについて書いた文章の集大成であって、そこには、マティスとアラゴンの対話、アラゴンの夢想、ファンタジー、歴史の出来事、マティスの足跡に生まれたもの、本、経験、展覧会など、まことに広範な世界が描かれ、語られているからである。
 またここには、マティスがアラゴンに語ったり、書いてみせたりした、興味ぶかい、ユニークな言葉や文章(手紙)も収められている。それはデッサン論であったり、色彩論であったり、コンポジション(構図・構成)論であったりする。
 そしてこういう芸術・絵画・デッサンについてのマティスの言葉を一冊に編んだ本があることもわたしは知った。編者はドミニック・フルカドである。むろんこの本には、マティスがアラゴンに語った 言葉も収められている。
 ここではまず、デッサンについてのマティスの言葉を紹介してみたい。じつは、わたしは初めてマティスのデッサン論を読んだとき、その面白さに感動した。
 そこでは、モデルにむかって、モデルをデッサンする画家自身が、その制作過程やデッサンのありようについて、きわめて知的な考察をし、分析をして、デッサンそのものの意義を追求しているのである。このような芸術創造の眼にみえない過程についての、ひとりの偉大な画家の自己省察が、詩人アラゴンの興味と関心をそそったとしてもふしぎではない──わたしはそう思った。

 マティスのデッサン論に入る前に、『二○世紀のデッサンと水彩画』の著者レイモン・コニアの、デッサンについての解説をちょっと見ておきたい。彼は言う。
 「デッサンは絵画史のなかで重要な位置を占めているが、しばしばその役割は過少評価されている。一般に、デッサンは、本番の絵画作品を制作する前の細部の習作、下絵のクロッキー、構図をきめる大きな線の配置といったものとみなれてきた。・・・しかしデッサンは、こんにち、そういう副次的な役割を越えて、デッサンもまたいわゆる絵画と同様に、それ自身完全な、決定的な表現とみなされるようになった・・・
 デッサンは大きく二つの種類にわけられよう。陰影をつけないデッサン dessin au trait と筆によるデッサンの二つである・・・現実の再現にアプローチし、量感、質感、空間感覚を生みだすには、陰影やぼかしを用いたデッサンの方が都合いい。しかし陰影をつけないデッサンには、どんな策略も加える余地がない。それは暗示するだけである。一つの量は、一本の輪郭線によって表現され、一つの動きは、一つのアラベスクによって表現される。マティスのデッサンは、どんな遠近法も、線影も、陰影も用いずに、なんとそれらの感覚を奇跡的に生みだしていることだろう?一つの顔や座布団(クッション)をかこむ輪郭線が、なんと皮膚の感じや布切れの感じを観る者に与えることだろう? このようなデッサンは、芸術の極致である正確な知識と技法を必要とするもので、それは巨匠にだけぞくするものである・・・」(『二○世紀のデッサンと水彩画』)
(つづく)

マチス

アラゴン『アンリ・マティス・ロマン』より


(『美術運動』118号 1988年2月)


 マチスの微笑み Le sourire de Matisse

 アンリ・マチスはもういない。この知らせはわれわれの心に穴をうがつものである。この国の表現であり、その光の表現であったあるものが、いま隠れ消えたのだ。その眼は閉じた。その眼がなければ人はもう見るすべを知らないだろう。そのようにその眼は見たのである。フランスの1世紀にわたって嵐と度重なる戦争をとおして、時代の不幸をとおして、ひとりの男が60年のあいだ、確固として、芸術と天才の並外れた粘り強さを持って、生涯を通して、強烈な視覚、調和のとれた視覚、および前例のない色彩の楽天主義をわれわれに与えたのである。その男(ひと)はもういない。しかし彼のあとには、あの人々の運命の尨大な信頼、あの霧を乗り越える強い力、あの幸福の表明が残っている。

 彼の死を前にしてすぐにわたしの感じたのは、われわれの損失の果てしない大きさであり、わたしがみんなとともにこうむる個人的な損失である。わたしは彼からたくさんの恩恵を受けており、1941年と1942年の王国の日々をシミにおいて彼のそばで過ごした。シミの彼のアトリエの窓は外国軍による占領も曇らせることの出来ない確信に向かって、ニースの素晴らしい風景、彼の庭園、彼の風変りな家、心をなぐさめる海に向かって開いていた。わたしはそのとき彼のそばで、暗黒の時代に、フランス的な偉大さへの確信をみいだし、歌の力強さや、われわれの遠い過去、近い過去とわれわれとを結びつける生身のきずなをみいだした。いまは涙がわたしの眼にあふれるこのときに、わたしはマチスの教えをもう一度表明する義務を感じる。肉体的な苦痛も、私的な生の悲しみも、世紀の暗黒ささえもが、このマチスの教えの表明を断念させることはできなかった。……
 ランスの(カテドラルの)石のなかに、中世がその後笑みの神秘と美を残したようにこの未来への尨大な遺産、マチスはわれわれの時代の勝利した微笑みとして後世にとどまるであろう」
(自筆原稿)

* 1954年11月3日マチスが死ぬと、アラゴンはさっそく「マチスの微笑み」(1054年11月5日付「ユマニテ」) を書いている。
* 「ランスの微笑み」:ランスのカテドラルの壁面に立っている微笑みの天使のことをアラゴンは詩に書いている。

マチス写真

 いつも周囲の人たちのことには、ほんのささいなことにまで強い関心を抱いたマチスは、この予想上の計画にたいへん興味をもって、シスター・ジャックに助言したり、討論したり、提案したりした。デッサンするのが好きで、デッサンがうまかった彼女は、自分でもこの未来の礼拝堂用のステンドグラスの図案を用意した。ある日、彼女はステンドグラスの小さな図案を持ってきて、彼に見せた。透きとおった色紙の上に、聖母マリアが巧みに描かれていた。 彼らはこの図案について話し合い、マチスがそのデッサンをあずかった。

 数日後、サン・ポール・ド・ヴァンスのドミニコ会保養所で、回復期の静養中だった若い修道士、建築家の学生のレイシギイエが散歩がてらにヴァンスめぐりにやってきた。彼は修道女たちのところを訪れた。この地方の名所を知りたくて、彼は見るべきところを修道女たちに尋ねた。むろん彼女たちはマチスのことを彼に話した。しかし、この画家には容易に近づくことができなかったので、彼女たちは彼が建築家としてマチスを訪れて、彼と未来の礼拝堂の話をし、彼の意見を聞いて、彼女たちに助言してくれるようにと提案した。
 彼はそのようにした。
 二人の対談はたちまち活気を帯びた。マチスはすっかり乗り気になって、修道女ジャックのステンドグラスの図案を持って来させた。しかし彼がそれを見せると、前衛芸術の信奉者だった建築家の卵は、この「若い娘」の聖像を前にして皮肉な微笑を浮かべた。
 「先生、それこそあなたがそのステンドグラスをつくってやるべきですよ!その礼拝堂のことでは、あの人たちは他にやることもあるでしょう……また、先生がおつくりになって、どうしていけないんでしょう?」

 その後マチスは言ったものだ。「一時間で礼拝堂はできあがった」と。彼はあとに引けなくなって、楽しげに、夢中になってその仕事に没頭した。
 若い修道士はふたたび修道女たちのところへやってきて、礼拝堂を「風変りな」画家に任せるようにと、どうやって田舎の修道院長や関係者を説得したことだろう?──L. D.

(自筆原稿)

マチス

ヴァンスの聖ドミニコで働くマチス(1949年)

 ある日、モニック嬢は、自分が修道女になることを偉大な友人のマチスに最初に知らせにきた。それは彼には大きな悲しみで、彼女を哀れに思った。なぜなら、彼にはわかっていたからである。つまり彼女は快方に向ったとはいえ、結核の自分の健康状態からして、家庭を築くのには向いていないと判断して、信仰生活に入るということで、みずから背水の陣を敷いたのだ、と。

 こうして彼女は修道女ジャック・マリとなった。
 修道女ジャックは修道院の修行を終えると、もう一度ヴァンスのおなじ保養所へやってきて、40名の入所者の面倒を見る修道女の任務をひきうけた。
 彼女はすっかり成熟して、自分の精神的な苦悩を克服したように見えた。そして、くたくたになるような仕事にもかかわらず、彼女は疲れを知らぬように働いた。
 彼女のマチスへの訪問は、彼女の仕事のためにだんだん数少なくなり短かくなったが、また始まった。二人のあいだは愛情においてもイタズラ好きにおいても何も変らなかった。彼の健康や仕事やその他の気がかりなどが彼を苦しめないときは、マチスは大変からかい好きで、笑うのが好きだった。

 1948年の初め、マチスを訪れた彼女は、小さな教団が礼拝堂を大きくするためにそれをとり壊し、間に合わせの場所に応急の小さな礼拝堂を建てるという意図のあることを彼に話した。修道女たちにとってのこの「大事業」はたちまち彼女たちの大きな話題となったのである。
(つづく)

(自筆原稿)

マチス

マチスと修道女ジャック(1953年)

ヴァンスの礼拝堂の来歴『小説アンリ・マチス』)
                        ルイ・アラゴン 大島博光訳

 美しくて活発で知的な若い娘モニック・B嬢は、ニースの看護学校を卒業したので、病気療養中のマチスの看護にやってきた。
 その後、マチスがふたたび仕事を始めたとき、彼女の堂々とした容姿の美しさにうたれて、彼は彼女にモデルになってくれるように頼んだ。1942年〜43年のあいだに、彼は彼女を数点の絵に描き、(「緑の服の若い娘とオレンジ」「偶像」」「豪華なたばこ」)たくさんのデッサンに描いた。

 1943年の末、彼らはヴァンスで再び出会った。マチスは起こりうるニースからの立退き令を避けてヴァンスに避難していた。(訳注 当時ムッソリーニのイタリア軍がニースに進駐したためである)そして彼女の方は、ヴァンスにあるドミニコ会修道女たちの経営する保養所に静養に来ていた。彼女は結核の初期という重い注意を受けたばかりであったが、幸いに病気の進行はくいとめられた。
 彼女は大きな実践力と組織力にめぐまれた行動的な娘で、陽気な性格と機知に富んだ精神をあわせもっていて、たちまち小さな教団にとって貴重な助手となった。彼女は休暇を保養所と地域の子供たちのためにつくした。彼女はガールスカウトの隊長になった。
 彼女はしばしば通りすがりにマチスを訪れて、ときおりモデルとしてポーズをとった。
 彼女は父親を失(な)くしていた。マチスの子や孫たちは彼から遠くに住んでいた。そこで二人の間には一種の深い愛情が生まれていた。彼女にとっては祖父にたいする孫娘のもつような愛情であり、マチスにとっては、病弱のためにベッドに縛りつけられている老人が、若さのまっ盛りに、肉体的欠陥という考えに精神的にひどいショックを受けた若い娘に対する愛情だった。
(つづく)

(自筆原稿)

マチス
 この円形劇場が建てられたのは、占領軍の軍隊のためである。勝利者たちの気晴らしの設備をつくる必要があったのだ。セメネリアンの山の町シミイは、古代ヴェディアンチアン人、長髪のリギュル人たちの首都であり、アンチブにたいする抵抗の中心だったので、強力な守備隊を備えていた。このあたりのリギュル人たちはネルヴィアン人たちと同様にゴール軍の歩兵であった。じっさい、マチスはやっと異郷に移ったのだ。ヴェディアンチアン人たちは、首狩り族のネルヴィアン人ほど残酷ではなかったが、(わたしが多少の恐怖をいつもマチスに抱いているのは、彼がネルヴィアン人であるせいだろうか)その不屈の頑強さによってやはり怖るべき野蛮人として通っていたが、その彼らもローマの軍隊やカルタゴの軍隊に侵略されたのだ。それなのにローマやカルタゴの物語作者たちは、彼らヴェディアンチアン人たちが卑劣にもシーザーやハンニベルの軍隊に襲いかかった、とわれわれに物語るのだ。

 カンブレーの地のように、この地方もひどい目にあった。ローマ人のあとには、ヴィシゴート人が、そのつぎにはロンバル人が、そのつぎにはサラセン人が侵入してきた……やっと十世紀になって、あのジェノヴァのグリマルディ家のグリマル一世が、……むかしのリギュール国を解放し、グリモオ湾にその名を残した。彼はペペン・デ・リスタルの息子でシャルル・マルテルの兄弟、グリモールの血統を引いていたのである。なんともひとは意見が一致するものだ!
 そこへバスがやってきた……

 このようにここでアラゴンが、バスを待ちながら歴史に思いを馳せているのは、前にも書いたように、この文章が1942年に書かれたという事情による。1941年の秋、フランス西南部のシャトーブリアン、ナント、ボルドーなどで98名にのぼる人質がナチス・ドイツ軍によって銃殺された。1942年の初め、ニース滞在中のアラゴンのもとに、部厚い書類がとどけられた。シャトーブリアンの殉難者たちに関する文献であった。「これを歴史的文献にせよ」という手紙が同封されていた。こうしてアラゴンは、のちに有名になる『殉難者たちの証言』を書くことになる……したがって、ここでフランスの遠い往時における諸民族による侵略の歴史の喚起は、それはそのままナチス・ドイツ軍による侵略・占領を読者に暗示し、意識を喚起しているものとみなければなるまい。
(完)

(『美術の教室』37号 1988年)

マチス
マチスのアトリエ

 そして北仏(ノール)から南仏(ミディ)へ

 北仏(ノール)のカンブレーのカトオ生まれのアンリ・マチスの生涯には、画を描いて過ごした50年のうち、ニースで過ごした25年がある。じっさい、彼の絵画には、彼の芸術には、光から始まる、何か地中海的なものがある。こうして彼のなかで、フランス綜合が行われる。北仏(ノール)と南仏(ミディ)と。理性と没理性と。模倣と発明と。霧と太陽と。霊感と現実と。しかし、それらの対照は人間のなかに、彼の態度のなかにある。作品はすでに相反するものの均り合いだ、と彼が言うのは、それはフランスにほかならない。
 こうしてカンブレー生まれのマチスはシミイの巨匠(メートル)となった。

 夕方、わたしはアンリ・マチスにいとまごいをして、彼の住んでいる広大なレジナ荘のなかを降りてゆく。普通の部屋は、41年一42年の冬の条例にしたがって、ほとんどくらがりのなかに沈んでいた。森のように円柱のならんだ、あの柱廊・ヴェランダ・ホールをわたしはよこ切って、シミイの入口の、寒くて暗い道のうえに降り立ち、向きを変えてまたちょっと登って、壁のそびえた大邸宅の下の人気のない場所に立ちつくす。そこがニース行きのバスの停留所なのだ。そこは一種の十字路で、道は分かれて、暗鬱で奇妙な、まるくて崩れ裂けた巨大な塊一シミイの円形劇場(アレーナ)の廃墟を取り巻いている。その隣の豪華な分譲ホテルがレジナ荘なのだ。歴史のなんという奇妙な呼びかけであろう。バスはひとを待たせるものだ。わたしはその間ずっと歴史に想いを馳せる。
……
(つづく)

(『美術の教室』37号 1988年)

マチス
アンリ・マチス


レジスタンス下の画家たち・3
アラゴン『小説アンリ・マチス』について──マチスのルーツとひろがり──

                            大島博光

 アンリ・マチスは、1869年12月31日、ベルギーに隣接した北仏ノール県・カンブレーのカトオで生まれた。ノール県の西隣のアルデンヌ県・シャルルヴィルは詩人アルチュール・ランボオの生地である。
 そこでランボオを愛するアラゴンは、有名なランボオの散文詩の一節を引用しながら、マチスのルーツをさぐる。それは一見、画家マチスの生成にはあまりかかわりがないように見えるが、偉大な画家としての人間マチスの全体像を描くには、やはり必要な肉付けとなろう。アラゴンのテクストに移ろう。

 画家マチスの三つの側面

 マチスのなかにヨーロッパ人を見るというのは、言いすぎか、あるいは言い足りないかである。彼の教養は、生まれたフランドルのはるか彼方にひろがり、彼が目の前にして生きているこの地中海を越える。タヒチ、アラブ世界、中部アジアのアルカイクの古い文明、これらのすべてが彼には好ましいもので、あの認識するという癒しがたい不思議な飢えがそこでみたされたのである。彼の鳥小屋には全世界の鳥たちがいる。
 それとともに、忘れられないのは、マチスがフランス人だということだ。ノール出のフランス人であり、フランスの多様性をなすすべてのものをみごとに統一することを知っている、あの人びとのひとりである。カンブレーの男、フランスの画家、世界の市民。ときほぐすべき主題(テーマ) である。

 おれは祖先のゴール人から受けついだ……
 おれは祖先のゴール人から受けついだ、白みがかった青い眼を、偏狭な脳味噌を、そして不器用な喧嘩っぷりを。おれの着ているものも彼らのと同様に野蛮だ。しかしおれは、髪にバターなどを塗りはしない。
                       (アルチュール・ランボオ『地獄の季節』)

 カンブレーの男。……ノールは、ケルンからパリへ通ずる大道が通る国だ。侵略の大道だ。人びとは数世紀のあいだ、あらゆる旗が自分の国を通るのを見た。彼らはそれに手を出したり、なすままにまかせたりすることを学んだ。
 マチスはあの青い眼をどこからうけついだのか。それはケルトの眼だとわたしは考えたい。マチスはきわめて遠い祖先に似ているのだ。カンブレーの国を占領して、商人とゲルマンの二種類の人間たちの入国を禁じた、あのネルヴィアン人に似ているのだ。(訳注・ネルヴィアン人はケルト族に属する北方のゴール民族)彼らは、ゴールのもっとも優秀な歩兵だった。御しがたい連中で、ローマ人でさえ彼らに「自由民」の資格を認めざるをえなかった。シーザーは彼らの独立不覇の精神と勇気について語っている。彼らは野蛮人とみなされた。しかし、侵略者に屈服しない人民はつねに侵略者の眼には野蛮人なのだ。その点はまったくよく似ている。マチスのためにみごとに考えだされた野獣(フォヴ)派という名は、印象派の眼にとっての野蛮人の意を充分に言い現している。マチスは自由のシンボルである。わたしはあのフランス的自由のことを、ほかのいかなるものにも似ていないフランス的自由のことを言いたいのだ。
 こういうわたしの夢想についてマチスが言いそうなことを、わたしは想像してみる。「それじや、ここにいるわたしはいまもネルヴィアン人なのかね?」この民族のきわだった特徴は馬にたいする恐怖であった。これこそが、ほかのゴール族からネルヴィアン人を区別するものだ。わたしはマチスに、馬についてどう考えるか尋ねてみなければなるまい。じじつ、わたしはマチスの画のなかにもデッサンのなかにも、馬を見たことは一度もない。

 注・指摘すべきことは、アルデンヌには、少なくともサンブル河とムーズ河のあいだには, ネルヴィアン人たちが住んでいた。したがって、ランボオはマチス同様にネルヴィアン人とみなさなければならない。
(つづく)

(『美術の教室』37号 1988年)
まちす