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壺井繁治

ここでは、「壺井繁治」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 詩の前進のために     壺井繁治 

 終戦後の民主主義革命の進行に応じて、職場の中から詩を書く人が非常にたくさん現われて来たし、現にますます多く現われて来つつある。方々の労働組合には文化部というものがあって、そこからいろいろな雑誌が発行されているが、それらの雑誌には労働者の詩が満載されている。また組合とは直接の関係をもたぬ文化サークルもあって、それが自主的に文学雑誌を出しているのもあるが、そのような雑誌にも、俳句や短歌などと並んで、詩がたくさん発表されている。それらの詩には、大体において、一つの傾向が認められる。すなわち第一は、詩というものを自分たちの実生活とは関係のない、何か特別の世界と考える傾向であり、したがってそこには徒らに内容のない美辞麗句が並べられ、それが「詩」であるというふうに考えられている。これらの詩には自分の眼で観察し、自分のこころで感動したところから生れた自分の言葉の代りに、多くはありきたりの、または人々によって使い古された生気のない言葉がイージーに使われている。第二は、詩を自分の実生活の中からつかみ出そうとする傾向であって、そこには詩の言葉がまだ詩の言葉として充分みがきあげられてはいないが、ともかく自分の生活経験を土台とし、その経験が生み出す感動の中から新らしい詩の言葉を創り出そうと努力していることである。
 これらの人たちがいわゆる近代詩をどのように見ているか、あるいはそれとどのような交渉をもっているかということは興味のある問題であるが、私の見るところでは、第一の傾向の人も、第二の傾向の人も、ほとんど大部分の人が、それとあまり交渉をもっていないということである。それは、ある場合にはその詩人の発展のためにプラスともなり、またある場合はマイナスともなっている。第一の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない詩の現われ方は、詩が人間の内面的自覚の追求というきびしい道へは通ぜずに、それが単なる趣味として安易にもてあそばれているということである。したがってそれらは多く甘いロマンティシズムに堕し、現実に体する批判というようなものは微塵もなく、思想的には封建制の固い殻をかぶったままの感情が歌われている場合が多い。ここからは絶体に新らしい詩の生れてくることは期待できない。これに反して第二の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない現われ方は、いわゆる近代詩の病弊である意識過剰的傾向から免れているということである。彼らは自我の追究というようなところから詩を出発させる代りに、まず彼等のおかれている社会的位置・境遇・環境、そういうものと自分との摩擦・矛盾、それらに伴って起こるさまざまの感情をまず歌おうとしている。それは彼らの人間としての個人的自覚がそのまま社会的自覚であるような現われ方をしているという点で、一つの特徴的な現われ方である。そして自分の個人的な悩みをいわゆる自我の内部に追いこんで悩むという行き方の代りに、もっとひろい社会的現実の矛盾の解決に結びつけて解決して行こうとする感情の方向が見られる。彼等の人間的自覚が労働者の集団生活の中で形成され、発展させられようとしているというのが、新らしい職場の詩人の間に見られる一つの特色であり、これはこれからの新らしい文学の発展にとって一つの重要な問題を提出している。

 職場の詩人だけの間題ではなく、日本の詩人全体の前に横たわっている大きな問題の一つは、日本の現代詩は、新体詩以来まだ形成の過程にあるということであり、したがってそこにはきまった形式がまだ確立されていないということである。新体詩時代には、一定の数律による定型が一応確立されたが、明治四十年代の口語詩運動あるいは自由詩の運動によって、これまでの新体詩的定型詩は否定されて、今日のような自由詩が詩壇を支配することとなった。そして極端にいえば、散文を行わけしても、詩として通用するというような時代となった。しかしそこから一方においての安易化の道もひらかれた。この安易化を如何にして打破するかというところからこれからの詩の困難な道がきりひらかれてゆくのである。
 
 詩は韻文ではない、というのが、今日の日本の詩壇では一つの常識となっている。事実、新体詩のような韻文詩は、最早、前時代的なものであることはまちがいない。それでは、現代詩は散文の一ジャンル(一種目)であるか、といえば、そうだといいきるものもあるし、そうではないと反体するものもあって、これはまだ論議の余地があるが、今日の日本の詩が散文的傾向にかたむいているという事実は否定できない。職場の詩人の詩を見ても、散文的なのが非常に多い。ただそれは意識的に散文的な詩を書こうとしているのではなくて、出来あがった結果としての作品が非常に散文的であるのである。しかもそれが悪い意味での散文である場合がしばしばあるというところに、大きな問題がある。それは散文的であるということが、詩の安易化の道と通じているという点で特に問題があると思う。
 現代詩が散文の一ジャンルであるかどうかは、ここでしばらく間題外として、いづれにしても詩には精神の集中的表現ということが必要である。集中による立体感、重量感(ポリュウム)がなければならない。もちろん、ある詩人の詩には、一見、精神の集中的表現とは反体の感情の流露や奔騰が見られる場合がしばしばあるが、それが集中や抑制を経た上での流露感や奔騰でなければ、それらの感情の流露や奔騰は空虚なものとなるであろう。
 職場の詩人たちが、自分の実生活からかけはなれたところに詩を見出そうとする代りに、自分の身のまわりから詩をつかみ出そうとする態度は、いちばん正しい行き方であると私は思う。しかしそこから一つの弊害が生れて来つつあるということも事実である。それは現実を変革しようとする強い精神によって、現実を観察したり把握したりする代りに、それを受身に描描写する傾向に流されているということである。そこから詩が平板な思い散文に傾いている。そこには集中された精神の燃焼があまり見られない。現実に体するレアリステイックな、冷徹な追究が、その迫究の究極において火花を散らすところに、新らしい詩の韻律が創造されると思う。水に一定の熱度を加えるとき、水は沸騰して泡立ち溢れる。それがいわばわれわれのめざすところの詩である。反体に水を一定の温度に冷却するとき、それは刃のような鋭い稜角をもった氷となる。そこにもわれわれの詩がある。そのように現実の変化乃至変革の過程における律動をとらえることが詩人の任務であり、それをとらえるための感覚が鋭敏であればあるほど、そこからすぐれた詩が生れてくる。
 われわれの詩は、抒情がそのまま批評となるような高い知性と思想性によって裏ずけられていなければならない。抒情が批評となるためには、われわれの精神の内部において、その精神が物凄い熱度に燃焼しなければならぬ場合もあるし、また物凄い冷酷さをもつて氷結しなければならぬ場合もある。われわれの精神における抒情と批評との矛盾と統一、これこそが今後の新らしい詩を生みだすための格闘である。現実を熱っぽく感ずることの出来ぬ詩人は、現実を冷酷にレアリステイックに批評することは出来ない。また現実の最も冷たい部分を、その冷たさにおいて感知することの出来るものにして、はじめてみずからの精神の内部に現実を焼き払う熱度の高い火を燃やすことが出来るのである。いづれにしても、詩人は傍観者であってはいけない。現実に対する傍観的立場からは、自然主義的レアリズムは生れてくるかも知れぬが、現実を変革しようとする強い意欲をもった人々の精神をゆすぶる韻律は生れて来ない。民主主義的詩人は現実の変革の過程に鳴りひびいている律動をとらえてそれを詩の韻律としなければならない。それは現実社会の中で崩壊して行くものの響きと建設されて行くもの、新らしく生れ出るものの響きとを正しくとらえ、それを詩の構造の中に織りこんで行くことを意味する。そのような詩として、われわれは大きな構想と組立てをもった叙事詩の出現を期待する。それはこれまでの日本のいわゆる近代詩の、意識過剰的な神經衰弱的なものとは縁の薄い、全く新らしい詩のジャンルである。それは近代詩ではないかも知れぬが、それよりもさらに新らしい一つの建築物である。それは容易には現われぬであろう。それが現われるまでには、民主主義的詩人は、現実生活の上でも詩の技術的錬磨の点からも、非常に苦しいたたかいをしなければならぬであろう。一行一行がすぐれた抒情であると同時に、全体が壮大な構想によって組み立てられたような叙事詩、それを私は期待するし、私自身としてもそういう詩を書きたいと思っている。
(一九四八年一月二十四日)

(『歌ごえ』創刊号 昭和23年3月)

壺井




壷井繁治への挽歌
  ぼくの死んだ後でも
  太陽は輝いているだろうーー壷井繁治

あの戦争前夜の 一九三八年頃の秋
はじめてわたしは あなたに会った
新宿の ひどい ひとごみのなかで

あなたは 灰いろのソフトをかぶって
脇には 黒皮の鞄をかかえていた
勤め先からの 帰りらしく……

早川亭という シュウマイ屋の二階で
わたしたちは 酒を汲みかわした
電球のひかりが 妙に黄色かった

あなたは 地獄からもどってきたばかりで
「まだ羽根をふるわせている蝶」が
その黒皮の鞄のなかに はいっていた

だが そのときそのことをわたしは知らなかった
シュルレアリストなどのまねをして
わたしはまだ 雲のなかをさまよっていた……

   *
   
あなたが牢屋に入られたことで
気も狂わんばかりのふるさとのお母さんに
あなたは ふるえる手で書いた
「……どうか達者でいて下さい
どうして私達が
そんなに牢屋につながれるかが納得出来る日まで……」

あなたはまた 小林多喜二のお母さんにも
涙のようにうつくしい歌をささげた
そのあなたの胸に この夏 雪がつもった

ド・ゴール空港で買ったぶどう酒を
わたしははるばるかかえてきたのに
あなたはもう それも飲めない

おのれに錐をもみこむような自己批判をとおして
あなたは 絶望を希望に変えた
敗北の歌を 勝利にむすびつけた

だからこそ 党をうらぎり 党に泥を投げつけ
そうすることでみずからの顔に泥を塗る
そんなやからに あなたは組しなかった

花嫁のような未来をのぞき込みながら
園丁のように春を夢みながら
あなたはいつも希望をかかげた

あなたはついに 勝利したのです
詩人として共産党員として勝利したのです
これにまさるどんないさおしがあるでしょう?

そうしてあなたはいなくなったあとも
わたしたちの胸のなかには
赤あかと太陽が輝いています
                (一九七五年九月)

<『詩人会議』1975年11月号>

壺井繁治

比喩にくるんだ風刺  追い続けた蝶のイメージ

壺井繁治と「全詩集」 国文社
                             大島博光

 ファシズムへの批判と嘲笑

 戦争前夜の一九三〇年代─ファシズムの風潮がいよいよ高まり、治安維持法という名だたる悪法がわがもの顔にのさばった一九三〇年代。小林多喜二の拷問と虐殺(一九ニニ年)に象徴されるあの血なまぐさい弾圧の時代の暗黒さは、いまの日本ではもう想像もつかない。(だがおんなじ血なまぐさいファシズムが、いまもチリや南朝鮮やスペインで荒れ狂っている。)
 詩人壺井繁治は、この一九二〇年代の嵐のなかをコミュニストとしてくぐりぬけなければならなかった詩人たちの、典型的なひとりである。
 一九二九年、すでにアナーキズムと訣別してコミュニストとなっていた彼は『戦旗』の発行担当者となっている。そのために、検束、拘留をうけることが日常的となり、一九三〇年と三二年、二度にわたって投獄され、一九三四年、保釈の身となり、出獄している。
 詩人が生きたこの時代とかれの体験は、その詩のなかにも反映されている。一九二六年にかかれた『頭の中の兵士』『勲章』などの作品は、こんにちこれを読みかえしてみるとき、あらためて新しい感銘をわたしにあたえる。この風刺的な散文詩は、奇抜なイメージと、なかなか晦渋な比喩によって、当時のファシズムと軍国主義を批判し、これを痛烈に嘲笑している。

  ・・・一隊の騎兵は馬首を揃えて進軍した。・・・何処からともなく美しい一羽の蝶が飛んで来た。士官はそれを見つけるや否や、指揮刀を高く振り上げて、「止れっ!」と号令した。「おい、貴様たち!あの蝶を切り捨てて見ろ!見事に切り捨てた奴には褒美として勲章をやる」
 兵士達は、この号令に従って、われ先きにと剣を引き抜いて、その美しい蝶をめがけて斬り込んで行った・・・」(『勲章』)

 ここにすでに、この詩人の愛する蝶というイメージが現われている。このイメージに詩人が何を託したのかは、はっきりとはわからない。読者はそれをいろいろにおしはかるほかはない。しかし、この晦渋さ、難解さが、この散文詩を二重に生かしているのである。ひとつは、平板な自然主義的な描写の目立っていた当時のレアリズム詩のなかにあって、この散文詩はこのようなイメージと比喩によってひときわきわだっていること。もうひとつは、この晦渋さ、難解さによって、当時の検閲の眼をくらますことができたということである。その頃は、ちょっとした革命的な表現や言葉をふくんだ作品でさえ、しばしば発禁処分のうきめに合ったのであった.

 ″蝶″に託す人間の勝利と希望

 さて、拷問、投獄という地獄の体験は生まやさしいものではなかった。投獄されたことを知った詩人の母は、「心痛のあまり発狂(軽症)」したのでもあった。そして詩人は、

 ふるさとの母は
 愚かだけれど なつかしい

 という詩句ではじまる『ふるさとの母に』と題する、やさしい、うつくしい詩をかく。詩人はたんたんとほとんど客観的に「泥棒や人殺しだけが」牢屋に入れられると考えている母によびかけている。しかしこの詩の背後には詩人のわめきたいような激情がかくされ、抑えつけられているのである。そのことによって、この作品は詩としての力をもつことにもなる。

 おお、なつかしいふるさとの母よ
 私の仲間たちは
 まだ多勢牢屋につながれています
 そしてこれからもつながれるでしよう
 けれどもどうか達者でいて下さい
 どうして私達が
 そんなに牢屋につながれるかが納得出来る日まで・・・

 しかし情勢はますます悪化してゆく。第二次世界大戦が始まる。日中戦争がいよいよ深みにはまってゆく。一九四〇年、詩人は「標本箱に収められながらなお羽根をふるわせる蝶の登場する」詩「蝶」をかく。ここには、幾重にも屈折した詩人の想いが、標本箱の中の蝶というイメージと、胸に抱きしめて「長い冬を凌いできた」蕾というイメージによって描かれている。作者はこの詩を「一種の転向詩」とよんでいるが、この詩のなかの作者はまだ転向しきってはいない。「おお蝶よ/私の胸へ/春の溜息する方へ飛んで来い」とうたうとき、詩人の声は弱よわしいけれども、なお希望をかかげているのである。のちに詩人がみずから表現した言葉にしたがっていえば、この詩はたとえ弱よわしくあろうとなお「人間の希望と勝利へつながるものとしての敗北の歌」ということができよう。
 戦後、一九四六年、詩人は「小林多喜二のお母さんへ」という献詞をもつ『二月二十日』をかいている。ここには、多喜二を虐殺したファシズムの残虐さと共産義者たちの人間的な同志愛とが、また戦前と戦後とが、あざやかな対比のうちに描かれており、詩人の抒情がみずみずしく鳴りひびいている。この詩はやはり一九三〇年をつたえる記念碑的な作品である、といっていい。 (詩人)

<掲載紙不詳>
詩人 壺井繁治をおくる詞          大島博光

壺井繁治


 壺井さん、あなたはいつか、およそつぎのような意味の詩を発表しました。

 ・・・
 夜なかにふと眠がさめてみると
 自分の胸は冷めたくなっていて
 胸のうえには 雪がつもっている

 これらの詩句は、なぜか妙にわたしの心に泌みて、残っていました。あなたのこの予感は、いつになく暑い、ことしの夏の日に、現実のものとなってしまいました。夏のさなかに、あなたの胸のうえには、雪がつもったのです。マクログロブリン血症という、めずらしい病気が、わたしたちのあいだから、あなたを奪いとってしまいました。そうしてわたしたちはいま、わたしたちの失ったものの大きさ、失ったもののかけがえのなさを、いまさらのように、身にしみて思い知らされています。
 □
 壺井さん、あなたは若き日に、その青春の反抗を詩誌『赤と黒と』のなかに表明することによって、詩人の出発をはじめました。やがて、そのアナーキーな反抗を、革命運動のなかで、共産主義者の反抗へと発展させ、プロレタリア文学運動における、すぐれた活動家となり、書き手となりました。一九二九年頃の『戦旗』の発行担当者としてのあなたの活動は、わたしたちにとってすでにひとつの伝統ともなっています。当時、早稲田の学生だったわたしも、ほとんど非合法のかたちで配布される『戦旗』を手にしたものですが、その発行担当者があなたであったとは、まったく知りませんでした。
 その頃あなたが書いた散文詩『頭の中の兵士』、『勲章』は、斬新で奇抜な詩的イメージによるみごとな風刺によって、当時の軍国主義とファシズムにたいして痛烈な嘲笑と批判を投げつけた、傑作です。      
 しかし、反動的な権力は、このような作品をかく詩人を放ってはおきませんでした。特高警察による検束、拘留、投獄がくりかえされるようになります。あなたのうえに、地獄の季節がやってきたのです。
 有名なフランスの詩人ランボーの「地獄の季節」は、詩人の内部で体験された、精神的な、メタフィジックな地獄でした。しかし、あなたがおとされた地獄は、この地上にあって、あなたは傷つき血を流しながら、生身でそこをくぐりぬけなければなりませんでした。
 のちに、あなたの詩のなかにも、しばしば地獄が現われることになります。資本主義体制そのものの地獄、大企業による公害汚染の地獄、核兵器による地獄など・・・
 あなたはまたのちに『全詩集』(一九七〇年)の後期でかいています。
 わたしが牢獄に閉じこめられたということは、現支配体制にたいして何程かたたかったことを意味するが、この牢獄はまたわたしの敗北の場でもあった。・・・わたしになお歌うものが残っているとすれば、敗北の歌もその一つであり、しかもそれはただ敗北の歌に終わらずに、人間の希望と勝利へつながるものとしての敗北の歌として、とことんまで歌われねばならぬだろう」
 あなたは、このような永い歳月にわたる誠実な自己批判をとおして偉大となります。
 □
 戦後、あなたはいち早く日本共産党に入党して、革命的民主的文学運動に指導的な役割をはたし、ひろい文学活動をくりひろげます。『二月二十日』『十五円五十銭』などの長大な詩は、レアリズム詩の到達したひとつの頂点をしめしています。とりわけ「小林多喜二のお母さんへ」という献詞をもつ『二月二十日』は、小林多喜二が虐殺され、あなたが投獄されていたあの地獄の季節と、そこでの苦しいたたかいとうつくしい同志愛とをうたった傑作であると同時に、あの怖るべき時代を後世につたえる詩的モニュマン(記念碑)です。この詩では、叙事詩的なレアリテと共産主義的人間の抒情とが、みごとな統一を獲得している、ということができます。
 壺井さん、あなたはまた晩年、民主的詩運動組織である詩人会議の創立に大きな指導力を発揮し、創造の面、組織の面においても、詩人会議の土台をつくるのに大きな貢献をしました。日常実践においても、いつも時間を守って若い者よりも先に会合に出席するなど、あなたは人間的誠実というものの模範をしめしてくれました。また、きびしい冬の季節にも、春を夢み、春を準備する「球根」という主題は、あなたのもっとも愛した主題のひとつですが、これによって、あなたはつねに希望を高くかかげてくれたのです。あなたが育てた多くの書き手、詩人たちは、きっとあなたのあとをうけつぎ、発展させるでしょう。
 あなたはまた病床で、「共産党員として生涯を終えることができてうれしい」と、近親者に洩らしたといわれます。そのときあなたは恐らく、党をうらぎって、党に泥を投げつけ、そうすることによってみずからの顔に泥を塗っているようなやからのことを思い浮かべていたにちがいありません。
 壷井さん、「人間の希望と勝利へつながるものとしての敗北の歌」は、希望と勝利へつながることによって、すでにそれじしん勝利の歌となるほかはありません。
 あなたはついに勝利したのです。詩人として、共産主義的人間として勝利したのです。これにまさるどのような栄誉、いさおしがあるでしょう?
 壺井さん、やすらかにやすんでください。

    一九七五年九月十二日

(おおしま ひろみつ 詩人)

<「赤旗」1975.9.21>