美術

ここでは、「美術」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


絵本「まんげつのやくそく」を書いた七重さん自身が感動的なエピソードを綴っています。

・・・命をテーマに物語を考えていた時に自分の妊娠がわかり、物語と自分の状況がリンクしていった。大きいお腹を抱えながら子供の寝ている時間に筆を動かし、描き終えた二週間後に無事出産!まるで絵本と赤ちゃんが同時に成長し誕生したかのようだった・・・

・・・秋晴れの日、大イチョウの見事な黄葉の下で子供たちに初めて「まんげつのやくそく」を読み聞かせた。子供たちも最後までじっくりと聞き入ってくれた。最後にみんなで大イチョウに向かって「ふるさと」を歌った。ラストにさしかかったとき、それまで静かだった風が突然動き出し、歌声に答えるかのように沢山の黄金の葉が降ってきた。子供たちも大人たちもおおはしゃぎ。ここ一年かけてやってきた事がすべて一体となった”奇跡の瞬間”のように思え、涙が止まらなかった・・・

七重さん、大口先生、素晴らしい話をありがとう!

佐藤七重

佐藤七重

佐藤七重

冊子『大口満絵画展』の中の「絵本作家となった七重さん」に心を動かされました。
中学で不登校だった七重さん、上越高校に入学し、担任の大口先生のもとで美術部で絵を描き続け、自信をつけて美術部や生徒会の中心的な存在へと成長、水を得た魚のように輝いた話は希望に満ちた学園ドラマのよう。学校の先生として冥利に尽きる話ですね。
七重さんが絵本「まんげつのやくそく」を書くに至った経緯──彼女の結婚式で大口先生が述べた祝辞が感動を呼んで声をかけられた──感動がつながっていくいい話ですね。
長野県飯山市にある大イチョウにまつわる絵本「まんげつのやくそく」、読んでみたいと思いました。

大口満

大口満

大口満
大口満様
記念館での写真と冊子『大口満絵画展』をお送りくださいましてありがとうございました。

大口満
大口満

冊子『大口満絵画展』には上越高校美術部の教え子たちや恩師が登場、先生との温かい交流が書かれていて感動しました。(つづく)
美術館の問題(下)

 私は信ずるのである、聴明にして洗練されてゐた挨及も支那も希脳も、この互ひに喰ひあふ多くの制作を並置するといふシステムなどを知らなかつた。彼らは、記入番号によつたり抽象的原則による両立しがたい快楽の統一などを、陳列しなかつたのである。

 しかしながらわれわれの遺産は圧倒的である。近代人は、その技術的手段の広大さによつて衰弱させられてゐるやうに、またその豊富さの過剰そのものによつて貧困にされてゐる。贈輿と遺贈のメカニスム──生産と購買との継続──と、流行と好尚の変化に由来し、かつて嫌悪された作品へ再び流行と好尚が回帰することに由来する増加のもうひとつの原因とは、過剰な、したがつて使用しえない資本の蓄積に休みなく協力してゐるのである。

 美術館は人間がつくるあらゆるものの上に、絶えず引力を働かせてゐる。創造する人間が、死ぬ人間がそれをみたし維持してゆく。すべてが壁の上や硝子窓のなかに終結する・・・私はあの賭けるたびに利得する賭博の親元を想わないではゐられない。

 しかしながら、この絶えず増大してゆく富源に奉仕する能力といふものは、この富源とともに増進するどころではない。われわれの財宝はわれわれを圧倒し、われわれを茫然たらしめ悩ますのである。さらにそれらを同一の場所に集中するといふ必要は、この麻痺昏迷させる悲しい効果をより誇張するのである。いかに廊館が廣大にして快適であり、みごとに整理されてゐるとても、われわれは常に、それらの画廊のなかで何かたまらなくうち沈み、多くの芸術に対してひとり孤立してゐる自己を見出すのである。多くの巨匠たちが描き塗るに費やした長大な時間の所産が、数瞬のうちにわれわれの感覚と精神に働きかけるのである。しかもこれらの時間そのものは、追求、経験、配慮、天才の数年間をすべて背負ふた時間なのであつた!・・・われわれは宿命的に圧倒さるべきなのである。ではどうしよう?われわれは皮相的になるのである。

 或ひはまたわれわれは博識になるのである。ところが、芸術に関するかぎり博識は一種の敗北である。博識は最も美妙(デリカ)でもないものを解明したり、決して本質的でないものを深く省察したりする。博識は感動のかはりに自己の僻定を代用し、驚異の出現にたいしては自己の非凡な記憶を代用する。そして広大な美術館に無眼な図書館を附加するのである。ヴィナスが文献に変へられるのである。

 私の頭は割れるばかりに疲れ、足はよろめきながら、この最も高貴な快楽の殿堂から出るのである。極度の疲労はしばしば殆ど苦痛な精神の興奮を伴ふものである。美術館のすばらしい渾沌(カオス)は私とともに外へ随(つ)いてきて、生ける街の雑沓に融け入るのである。私は不快の原因を探る。注意をくりかへし、また考へだす──私の不快に憑きまとふこの混乱と、われわれの現代芸術の荒れた状態との間には如何なる関係があるのか、私は知らないのである。

 われわれは存在してゐる、そしてわれわれは雑沓の眩暈のなかを動きまはる。われわれはこの責苦を過去の芸術の上にも負はせるのである。

 私はとつぜん、ぼんやりした光明を見出す。ひとつの答へが私の中に生まれ、徐々に私の印象からのがれて、声を挙げようとする。つひに解明の魔は私にかう語るのである。絵画と彫刻は棄てられた子供たちである。彼等の母親は──彼等の母親である建築は死んでしまった。彼女が生きてゐた間は、彼らは自己の場所と役割と拘束とを彼女から輿へられてゐた。彷徨する自由は彼等に禁じられてゐた。彼等は自己の空間、一定の自己の光線、自己の主題、自己の契約・・・等をもつてゐた。彼女が生きてゐた間は、絵画と彫刻とは自己が何を欲するかを知ってゐた・・・

 ──では別れよう、これより以上は語るまい。と、この思索は私に告げるのである。

<掲載誌不詳>
美術館の問題(上)
                     ポオル・ヴアレリイ
                     大島博光訳

 私はあまり美術館を好まない。そこには讃嘆すべき多くのものはあるが、無上に愉しいものは決してない。分類と保存と公的利用の諸観念は、正当にして明白ではあるが、それはあの無上の愉しさとは殆んど何の関係もないのである。

 私が美しい作品へむかつて一歩を踏みだすやいなや、監督者は私の杖を取りあげてしまふ。貼札は煙草をすふことを禁じてゐる。
 すでにこの官僚的な態度と強制の感情とに私は慄然として、彫刻室にはいつてゆく。ここでは冷酷な混淆が支配してゐる。心を奪ふばかりの半身像が、青銅(ブロンズ)の競技者がひらいた両脚の間に見えたりする。静寂とこれらの乱暴さ、ばかさ加減、微笑、拘攣(コントラクチユル)、最も批評的な平均、これらのものが私に堪えられない印象を輿へる。私は凝結した創造物の騒乱のただなかにゐる。これらの創造物はおのおの甲斐もなく、あらゆる他のものの存在を排斥しあつてゐる。そして私はこれらの通約量をもたないあらゆる偉大さの渾沌(カオス)については、小人と巨人との説明しがたい混同については語るまい。さらに、完璧と未完成、仕損じと修補、怪物と凡庸等々のかかる集合が示す進化の縮図についても・・・・

 私は心のうちにあらゆる労苦を覚悟して絵画室へ進む。私の目前には、静寂のなかに、奇妙な組織された無秩序が展開する。私はある神聖な恐怖に捉へられる。私の足どりは敬虔になる。私の声は変り、教曾におけるよりは少し高く、だが日常生活においてひびくほど強くなく、落ちついてくる。やがて気がつけば、あの寺院と客間、墓地と学校・・・等を領してゐるやうなこの沈黙のなかへ、私は何のために来てゐるのか、わからないのである。私はなにか学ぶために来たのであらうか。あるひは歓びをもとめてか?それとも、ひとつの義務を果たし、禮儀を満すためにか?或ひはまた、一瞬毎に左右の傑作に振りむき、多くの美によって奇妙にも足桎を嵌められたこの散歩は、ある特殊な訓練ででもあらうか?多くの傑作の間では、商館の間をよろめく酩酊者のやうに振舞はねばならないのである。

 悲哀、倦怠、讃美、戸外の好い天気、私の良心の咎め、多数の偉大な芸術家たちの怖るべき感覚、これらのすべてが私と一緒に歩むのである。
                                                                    
 私は自分が恐ろしく真剣になつてゐるのに気がつく。何んと疲れることだらう。何んと野蛮なことであらう!私は思わずつぶやくのである。このすべては非人間的である。このすべては少しも純粋ではない。これら独立し、しかも相反せる多くの傑作を接近させるといふことは一つの矛盾である。しかもこれらの傑作が最も類似してゐる場合には、互いに最も敵対しあふのである。

 快楽も知らず理性ももたないひとつの文化のみが、かかる支離滅裂の廊館を建設しうるのである。私はこれらの死せる幻影たちの隣接ほどばかげた結果を知らない。これらの幻影たちは彼女らに実存をもたらす視線を相争ひ、嫉妬しあふのである。彼女らは私の不可分の注意をあらゆる場所から喚びもとめる。即ちこれらの幻影たちは魅了するものの方へ肉体の機関ぜんたいを引きつれてゆく生ける一点を──眼を狂気にするのである・・・

 耳は一度に十の管弦楽を聴くことに堪ええないであらう。精神は異るいくつかの作用には従ふことも、それを操作することもできない。精神は同時的ないくつもの推理を一度にすすめることできないのである。しかるに眼は、その移動する視角の開きにおいて、そしてその知覚の瞬間において肖像と海景、料理場と凱旋、つまり最も異れる多くの状態と多次元における諸人物を受け容れるやうに強ひられてゐる。さらにそれら諸人物間の比較しえない描法と調和をも一瞥のうちに迎へいれなければならないのである。

 一蒐集(コレクション)が構成するこの空問の濫用によつて、視覚の機能が犯されるやうに、また知性も重要な作品の窮屈な密集によつて、それに劣らず傷められないわけにはゆかない。作品がみごとであればあるほど、また人間野心の異例な結果であればあるほど、作品は区別されなければならぬ。作品は稀有なものであり、その作者たちはそれが独自(ユニウク)であることを希つてゐるであらう。しばしばひとびとはかう言ふのである。この絵は周囲のほかの絵をみんな殺してしまふ・・・
(つづく)

<掲載誌不詳>