Pablo Neruda 愛の詩 Love Poems/Pablo Neruda

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




19ソネット


(パブロ・ネルーダ『百の愛のソネット』)

女神




山を


(パブロ・ネルーダ『百の愛のソネット』)

山





マチルデへ

(角川文庫『ネルーダ詩集』1975年)

百の愛


パブロ・ネルーダ
百の愛のソネット 目次

マチルデ・ウルーティアに
(朝)
1 マチルデよ……
2 くちづけに辿りつくまでの
3 はげしい恋びとよ
4 おまえは思い出すだろう
5 大地と 養分にみちみちた
6 森のなかで道に迷い
7 「一緒になろう」と
8 もしも おまえの眼に
9 うち寄せる波が
10 音楽や森のように
11 おれはおまえの髪に
12 女ざかりの女よ
13 おまえの足の先から髪へと
14 おまえの髪をほめ讃える閑が
15 おまえがこの地上に生まれてから
16 おまえという地球のひとくれを
17 火を吹く火矢のような カーネーションよ
18 山をゆくおまえは
19 おまえが イスラ・ネグラのあわだつ白い泡や
20 私の意地悪さん……
21 どうか愛が
22 どれほど おまえを愛したことか
23 ひかりは火となり
24 恋びとよ 恋びとよ
25 恋びとよ おまえを愛するまで
26 グァテマラの ドゥルチェ河の
27 裸のおまえは
28 恋びとよ 穀物から穀物へ
29 おまえは 貧乏な……
30 おまえは 群島の落葉松から
31 南部の月桂樹と
32 朝の家は 羽根や敷布が乱れ 
33 愛する妻よ さあ
(昼)
34 おまえは海の娘だ
35 おまえの手が おれの眼か
36 愛するひとよ セロリとこね鉢の女王さんよ
37 おお 狂おしいまぶしさよ
38 正午 おまえの家は騒騒しい
39 ところで おれは忘れていた
40 静けさまでが緑に染まり
41 ひややかな正午(まひる)が
42 おお 海の波にゆすられる
43 おれはおまえの面影を探しまわる
44 おれがおまえを愛し
45 たったの一日でも
46 いろいろな川や
47 おれは振り返って 枝のなかのおまえを見てみたい
48 しあわせな二人の恋びとたちは……
49 昨日は 昼の指と
50 コタポスは言う
51 おまえの笑いは……
52 おまえが 太陽に向い
53 さあ パンも 葡萄酒も
(夕ぐれ)
54 絶対の房 垂直的な正午の
55 棘(とげ)や 割れたグラスや
56 いつもおれの背後に
57 かれらは おれがもう月を失くしたと
58 文学の烙印を押す 御用批評家たちの
59 哀れな詩人たち
60 彼らはおれをおとしいれようとして
61 愛は 苦悩というお供をつれてやってきた
62 なんとおれたちの不幸なことか
63 おれは行く かつて海に埋もれた塩の花が
64 おれの人生は たくさんの恋で
65 おまえはいったいどこにいるのか
66 おれはただ おまえを愛しているから
67 「南部」のどしゃ降り雨が
68 この木彫りの娘は
69 おまえがいなかったら
70 どうやら おまえの生命の放つ
71 苦悩から苦悩へと……
72 愛するひとよ 冬がまた街街にもどってきて
73 おまえはきっと思い出すだろう
74 道は 八月のにわか雨にぬれて
75 おい 見ろよ おれたちの家と
76 ディエゴ・リヴェラは 熊のようなしんぼう強さで
77 今日とはまさに今日だ
78 おれには まったくなにもない
(夜)
79 夜には おまえの心臓をおれの心臓と
80 ながい 苦しい旅から
81 さあ おれの眠りに
82 愛する人よ さあ
83 夜 ぐっすりと眠りこんで
84 愛するひとよ またみんな昼の網(あみ)から
85 海から街の方へ
86 おお 南十字星よ
87 海鳥が三羽 三つの光線
88 また三月が 陽射しをしのばせて
89 おれが死んだら……
90 おれはもう死ぬかと思い
91 寄る年波は 霧雨のように
92 恋びとよ おまえが死なずに
93 たとえいつか
94 おれが死んでも
95 だれが おれたちのように愛し合っただろうか
96 おまえがおれを愛してくれたこの時代も……
97 そのとき どこへ……
98 おれの一つの手が
99 ほかの時代がやってくるとき
100 大地の下で おまえを見つけ出そうと

解説
パブロ・ネルーダ  年譜

(角川文庫『ネルーダ詩集』1975年)

ネルーダ詩集




八番目



(パブロ・ネルーダ『百の愛のソネット』)

薔薇




一緒に


(パブロ・ネルーダ『百の愛のソネット』)

噴水




ソネット


(パブロ・ネルーダ『百の愛のソネット』)

森




マチルデよ


(「百の愛のソネット」)

薔薇




きみの髪に


(『橋』48号 1996.8.31、角川文庫版『ネルーダ詩集』の「100の愛のソネット」に加筆したもの)


彫像





私の意地悪さん
(『橋』48号 1996.8.31、角川文庫版『ネルーダ詩集』の「100の愛のソネット」に加筆したもの)

彫像


 アラゴンはつづけて書く。

  わたしは 過ぎさった過去を 一挙に思い出す
  絶望にさいなまれて さまよい歩いた日日を
  この世にすねるよりも もっと偉大だった愛を

  それらのものが わたしを生き永らえさせてくれる
  もしもそこに エルザの名がなお輝いているなら
  もしもそこに 愛の言葉がなお熱く燃えているなら
  わたしは わたしに似たひとたちの中に生まれ変わる

  愛も死とおなじように 世間を騒がせるものだ
  わたしは 自分じしんの最後を見とどけたい
  火をともしておくれ わたしはここにいるのだ
  いまもなお愛を抱いて

 それにたいして、ネルーダはこう歌っている。

  マチルデよ くちびるだけは開いていておくれ
  最後のくちづけは おれとともに生き永らえ
  おまえの口の上にも消えずに 永遠に残るはずだ
  そうしてやっと おれは死んでゆくことができる
  そして抱きあったおれたちを 大地がのみこんでくれるとき
  おれたちは おなじただ一つの死のなかに溶けあって
  いつまでもいつまでも 永遠のくちづけに生きていよう
                   (九三番めのソネット)

 エンゲルスは、「きたるべき時代の愛」について、つぎのような、慎重ではあるが、きわめて予言的な見通しを述べた。
 「こうして、きたるべき資本主義的生産の一掃後における両性関係の秩序について今日われわれが推測できることは、主として消極的な性質のものであって、おおむね、とりのぞかれる面だけにかぎられている。しかし、なにがつけくわえられるであろうか?それは、新しい世代、すなわち、その生涯を通じて金銭その他の社会的権力手段で女の肉体提供を買うばあいに一度も出あったことのない男たちと、真の恋愛以外のなんらかの考慮から男に身をまかせたり、あるいは経済的結果をおそれて愛人に身をまかせるのをこばんだりするばあいに一度も出あったことのない女たちとの世代が成長したときに、おのずから決定されるであろう。この人々がいよいよあらわれてきたときには、彼らは、未来の世代のなすべき事がらについて今日の人間がどう考えているかには、まったく頓着しないであろう。彼らは彼ら自身の慣行を、そしてそれに応じた、各個人の実践にかんする彼らの世論を、みずからつくりだすであろう。……」(国民文庫版エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』一〇六ページ)
 ネルーダの愛の歌もまた、アラゴンやエリュアールのそれとともに、すでにエンゲルスが予感していた、新しい時代の新しい愛の実現、その「慣行」、その「世論」、その内實を反映していると同時に、新しい愛の模範を「みずからつくりだ」しているのである。

(完)

93番目のソネット



ファンファーレ



[ネルーダ 愛の詩 百の愛のソネット(17)九三番めのソネット]の続きを読む
 詩人はまた、死後についてユーモアにみちて夢想する。

  そのとき どこへ飛んでゆかねばならぬのか
  羽根もなく 飛行機もなく ためらうこともなく
  もう 足音も むなしく 消えてしまった
  もう 足をあげて 旅ゆくこともないのだ

  鷲がとび 縄がとび 日日が飛びさるように
  のべつまくなしに 飛んでいなければならぬ
  サトゥルヌスの眼よりも もっと高く飛んで
  その高みに 新しい鐘楼を 建てねばならぬ

  もう 靴も道も そんなものは用をなさぬ
  この放浪者たちには もう大地も役立たぬのだ
  根も 夜をよぎって さまよってゆくのだ
                   (九七番めのソネット)

 これら、ネルーダの死についての深遠なファンタジーは、アラゴンの『エルザの狂人』のなかの、おなじく死と未来について歌ったファンタジーを思い出させる。アラゴンはこう歌っている。

  砕けたさかずきから こぼれ流れる酒のように
  姿かたちもないわたしの亡霊は どこへ急ぐことやら
  土の重みにおしつぶされた すみれの花の
  ほの暗い香りに酔って わたしの足は千鳥足

  もう夜もふけて ひいらぎの茂みも静まった
  いまはもう 亡霊たちが手をつないで踊るとき
  いつ何時でもいいのだ どこへなりとかまわぬのだ
  小さな穴さえあれば 降りてゆくのに事足りるのだ
                        (『火』)

 アラゴンの亡霊が、大地の下を千鳥足でさまようのにたいして、ネルーダのそれは、土星よりも高く、「のべつまくなしに飛んで」いるのもおもしろい。その時にもなお、二人の詩人は「愛を抱きつづけている」と歌っている。

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


97番目のソネット


夕空

 ネルーダは、死をのぞき見ながら、そこにまた未来を──「青い時代」をのぞき見ないではいない。そのためにこそ、かれは歌いつづけてきたのだから……

  おまえがおれを愛してくれたこの時代も過ぎさり
  青い時代がやってきて それにとってかわるだろう
  おんなじ骨のうえに ちがった肌がやってきて
  ちがった眼たちが この世の春を見るだろう

  おれたちをふん縛った奴らは ひとりもいないだろう
  はかない煙と語らった奴らも もういないだろう
  暴君どもや 闇商人や かげろうのたぐいは
  この星のうえに もう うごめかぬだろう
                  (九六番めのソネット)

 ──自分たちは、「この世の春」のためにたたかい、準備したが、ついに見ることはできなかった。しかし、「ちがった眼たち」──のちのひとたちがその春を見るだろうという詩句には、おのれの義務をはたしたものの満足と未来への委託をうかがうことができる。そして「おれたちをふん縛った奴らは ひとりもいないだろう」という一行には、ながいあいだ、お尋ね者として官憲につけねらわれた、ネルーダの骨身にしみた思いがこめられているようである。
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


96番目


土手


 死をみつめる、このネルーダの透明さと円熟とは、東洋風な諦観からはほど遠いものであろう。かれはマテリアリストとして、きわめて客観的に死と死の過程をみつめているからである。

  時間は雪と鍬とで生命(いのも)を削りとるのだ

  そしてそこ 大地にも 時間は流れつづけて
  塵(チリ)あくたの上に 雨のように容赦なく降りつづけて
  姿かたちのなくなるまで 執拗に消しさるのだ
                    (九一番めのソネット)

 このように詩人は、死の過程を、何ものをも容赦しない、苛酷な時間の作用として捉えている。時間が「雨のように」降りつづけるという表現には、眼に見えないものを見させようとする詩人の配慮がみられる。そしてさらに眼に見えない死と愛とのありようは、詩人のファンタジーと詩にぞくするのである。

  この愛は もう生むこともなければ また
  死ぬこともない それはまるで長い川のようだ
  それはただ くちびると大地とをとり換えるだけなのだ
                    (九二番めのソネット)
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


ソネット



ユキヤナギ



 八九番めのソネットから百番めのソネットまでは、死と死後についてのファンタジーを歌っている。死と死後についてのファンタジーにおいて、詩人は、その夢想の翼を思いのままにはばたいているように見える。まるで詩人は、愛と死との対話をはてしなく楽しんでいるかのようにさえ見える。そしてこれらのソネットは、主題の性質からしても、遺言のいろあいをいろ濃くもつことにもなる。

  おれが死んだら おまえのその二つの手を
  おれの眼の上に置いて 愛する手の光と麦で
  もう一度 おれの上に涼しさをふりまいておくれ
  おれの運命を変えてくれた優しさが分かるように

  おれは眠って待っているから 生きておくれ
  いつまでもおまえは 風の音をその耳にきき
  おれたちがいっしょに愛した海の香りを 吸い
  いっしょに歩いた砂のうえを 歩いておくれ
               (八九番めのソネット)

 ここに見られるのは、なんという透明さであろう。愛もまた、死をのぞき見るとき、いつにもまして「透きとおった愛」となるのであろうか。思えば、愛の矛盾に悩みながら、狂おしいような情熱的な愛に燃えた日はもう遠いのである。たとえば、六六番めのソネットでは、こう歌ったばかりなのだ。

  おまえを愛することから 愛さなくもなるのだ
  おまえを待っていないときにも 待っているのだ
  おれの心は 燃えたり 冷えたり 変わるのだ

  果てしなくおまえを憎み 憎みながら哀願するのだ

  おれが恋死にしたら それは愛しているからだ
  燃える血と 火で おまえを愛しているからだ
                (六六番めのソネット)
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

ソネット