Pablo Neruda 愛の詩 Love Poems/Pablo Neruda

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 アラゴンはつづけて書く。

  わたしは 過ぎさった過去を 一挙に思い出す
  絶望にさいなまれて さまよい歩いた日日を
  この世にすねるよりも もっと偉大だった愛を

  それらのものが わたしを生き永らえさせてくれる
  もしもそこに エルザの名がなお輝いているなら
  もしもそこに 愛の言葉がなお熱く燃えているなら
  わたしは わたしに似たひとたちの中に生まれ変わる

  愛も死とおなじように 世間を騒がせるものだ
  わたしは 自分じしんの最後を見とどけたい
  火をともしておくれ わたしはここにいるのだ
  いまもなお愛を抱いて

 それにたいして、ネルーダはこう歌っている。

  マチルデよ くちびるだけは開いていておくれ
  最後のくちづけは おれとともに生き永らえ
  おまえの口の上にも消えずに 永遠に残るはずだ
  そうしてやっと おれは死んでゆくことができる
  そして抱きあったおれたちを 大地がのみこんでくれるとき
  おれたちは おなじただ一つの死のなかに溶けあって
  いつまでもいつまでも 永遠のくちづけに生きていよう
                   (九三番めのソネット)

 エンゲルスは、「きたるべき時代の愛」について、つぎのような、慎重ではあるが、きわめて予言的な見通しを述べた。
 「こうして、きたるべき資本主義的生産の一掃後における両性関係の秩序について今日われわれが推測できることは、主として消極的な性質のものであって、おおむね、とりのぞかれる面だけにかぎられている。しかし、なにがつけくわえられるであろうか?それは、新しい世代、すなわち、その生涯を通じて金銭その他の社会的権力手段で女の肉体提供を買うばあいに一度も出あったことのない男たちと、真の恋愛以外のなんらかの考慮から男に身をまかせたり、あるいは経済的結果をおそれて愛人に身をまかせるのをこばんだりするばあいに一度も出あったことのない女たちとの世代が成長したときに、おのずから決定されるであろう。この人々がいよいよあらわれてきたときには、彼らは、未来の世代のなすべき事がらについて今日の人間がどう考えているかには、まったく頓着しないであろう。彼らは彼ら自身の慣行を、そしてそれに応じた、各個人の実践にかんする彼らの世論を、みずからつくりだすであろう。……」(国民文庫版エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』一〇六ページ)
 ネルーダの愛の歌もまた、アラゴンやエリュアールのそれとともに、すでにエンゲルスが予感していた、新しい時代の新しい愛の実現、その「慣行」、その「世論」、その内實を反映していると同時に、新しい愛の模範を「みずからつくりだ」しているのである。

(完)

93番目のソネット



ファンファーレ



[ネルーダ 愛の詩 百の愛のソネット(17)九三番めのソネット]の続きを読む
 詩人はまた、死後についてユーモアにみちて夢想する。

  そのとき どこへ飛んでゆかねばならぬのか
  羽根もなく 飛行機もなく ためらうこともなく
  もう 足音も むなしく 消えてしまった
  もう 足をあげて 旅ゆくこともないのだ

  鷲がとび 縄がとび 日日が飛びさるように
  のべつまくなしに 飛んでいなければならぬ
  サトゥルヌスの眼よりも もっと高く飛んで
  その高みに 新しい鐘楼を 建てねばならぬ

  もう 靴も道も そんなものは用をなさぬ
  この放浪者たちには もう大地も役立たぬのだ
  根も 夜をよぎって さまよってゆくのだ
                   (九七番めのソネット)

 これら、ネルーダの死についての深遠なファンタジーは、アラゴンの『エルザの狂人』のなかの、おなじく死と未来について歌ったファンタジーを思い出させる。アラゴンはこう歌っている。

  砕けたさかずきから こぼれ流れる酒のように
  姿かたちもないわたしの亡霊は どこへ急ぐことやら
  土の重みにおしつぶされた すみれの花の
  ほの暗い香りに酔って わたしの足は千鳥足

  もう夜もふけて ひいらぎの茂みも静まった
  いまはもう 亡霊たちが手をつないで踊るとき
  いつ何時でもいいのだ どこへなりとかまわぬのだ
  小さな穴さえあれば 降りてゆくのに事足りるのだ
                        (『火』)

 アラゴンの亡霊が、大地の下を千鳥足でさまようのにたいして、ネルーダのそれは、土星よりも高く、「のべつまくなしに飛んで」いるのもおもしろい。その時にもなお、二人の詩人は「愛を抱きつづけている」と歌っている。

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


97番目のソネット


夕空

 ネルーダは、死をのぞき見ながら、そこにまた未来を──「青い時代」をのぞき見ないではいない。そのためにこそ、かれは歌いつづけてきたのだから……

  おまえがおれを愛してくれたこの時代も過ぎさり
  青い時代がやってきて それにとってかわるだろう
  おんなじ骨のうえに ちがった肌がやってきて
  ちがった眼たちが この世の春を見るだろう

  おれたちをふん縛った奴らは ひとりもいないだろう
  はかない煙と語らった奴らも もういないだろう
  暴君どもや 闇商人や かげろうのたぐいは
  この星のうえに もう うごめかぬだろう
                  (九六番めのソネット)

 ──自分たちは、「この世の春」のためにたたかい、準備したが、ついに見ることはできなかった。しかし、「ちがった眼たち」──のちのひとたちがその春を見るだろうという詩句には、おのれの義務をはたしたものの満足と未来への委託をうかがうことができる。そして「おれたちをふん縛った奴らは ひとりもいないだろう」という一行には、ながいあいだ、お尋ね者として官憲につけねらわれた、ネルーダの骨身にしみた思いがこめられているようである。
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


96番目


土手


 死をみつめる、このネルーダの透明さと円熟とは、東洋風な諦観からはほど遠いものであろう。かれはマテリアリストとして、きわめて客観的に死と死の過程をみつめているからである。

  時間は雪と鍬とで生命(いのも)を削りとるのだ

  そしてそこ 大地にも 時間は流れつづけて
  塵(チリ)あくたの上に 雨のように容赦なく降りつづけて
  姿かたちのなくなるまで 執拗に消しさるのだ
                    (九一番めのソネット)

 このように詩人は、死の過程を、何ものをも容赦しない、苛酷な時間の作用として捉えている。時間が「雨のように」降りつづけるという表現には、眼に見えないものを見させようとする詩人の配慮がみられる。そしてさらに眼に見えない死と愛とのありようは、詩人のファンタジーと詩にぞくするのである。

  この愛は もう生むこともなければ また
  死ぬこともない それはまるで長い川のようだ
  それはただ くちびると大地とをとり換えるだけなのだ
                    (九二番めのソネット)
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


ソネット



ユキヤナギ



 八九番めのソネットから百番めのソネットまでは、死と死後についてのファンタジーを歌っている。死と死後についてのファンタジーにおいて、詩人は、その夢想の翼を思いのままにはばたいているように見える。まるで詩人は、愛と死との対話をはてしなく楽しんでいるかのようにさえ見える。そしてこれらのソネットは、主題の性質からしても、遺言のいろあいをいろ濃くもつことにもなる。

  おれが死んだら おまえのその二つの手を
  おれの眼の上に置いて 愛する手の光と麦で
  もう一度 おれの上に涼しさをふりまいておくれ
  おれの運命を変えてくれた優しさが分かるように

  おれは眠って待っているから 生きておくれ
  いつまでもおまえは 風の音をその耳にきき
  おれたちがいっしょに愛した海の香りを 吸い
  いっしょに歩いた砂のうえを 歩いておくれ
               (八九番めのソネット)

 ここに見られるのは、なんという透明さであろう。愛もまた、死をのぞき見るとき、いつにもまして「透きとおった愛」となるのであろうか。思えば、愛の矛盾に悩みながら、狂おしいような情熱的な愛に燃えた日はもう遠いのである。たとえば、六六番めのソネットでは、こう歌ったばかりなのだ。

  おまえを愛することから 愛さなくもなるのだ
  おまえを待っていないときにも 待っているのだ
  おれの心は 燃えたり 冷えたり 変わるのだ

  果てしなくおまえを憎み 憎みながら哀願するのだ

  おれが恋死にしたら それは愛しているからだ
  燃える血と 火で おまえを愛しているからだ
                (六六番めのソネット)
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

ソネット


 ネルーダの愛の歌では、女は男の自己中心主義の対象ではなく、ゆたかな大地であり、生命の源泉である。

  おまえの接吻(くちづけ)の中で ありとあるすべてのものを
  おれは抱く 砂を 時間を 雨の降る樹を
  おれはおまえの生命(いのち)の中に 生きとし生けるすべてを見る
                  (八番めのソネット)

  まるごとの女よ 肉の林檎よ 月の火よ
  濃い昆布の匂いよ 光に 鍛えられた泥よ
                   (一二番めのソネット)

  そうだ おまえという地球のひとくれを おれは愛する
                    (一六番めのソネット)

 ひとたび、ネルーダの詩において、大地と肉体の境界がとっぱらわれると、愛と世界とは、みごとに結びつけられる。愛は「大地の蜜」など、もろもろの物──要素(エレメント)によって養われ、それらをまた変形する。しかし、ネルーダのアニミズムは、けっして拝物主義(フェティシズム)におちいることがない。それは、生命・人間存在と事物とのあいだの、もっとも神秘的な諸関係を弁証法的に把(とら)えているからである。
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


一二番め


 しかし、愛は、みずからのうちの狂気を克服してこそ、自己を確立することができる。愛と理性とを統一することによって、はじめて「透きとおった愛」をうちたてることができる。

  いままでは 気狂いじみた妄想や にがい確信や
  金槌の夢よりも もっともっと堅い決意などが
  恋びとたち 二人の頭上に 落っこちたものだ
  ついに 理性と愛とが 二つの翼のように
  双子(ふたご)のように 秤(はかり)のうえで 釣りあうまでは──
  こうして 透きとおった愛が うち建てられたのだ
                 (五四番めのソネット)

 ここにみられる、輝かしい到達点──愛と理性との統一、とけあいは、この詩集の頂点をなしている。愛と呼ばれる情緒・衝動の、自然生長的な概念にたいして、ネルーダは、知性と理性によって、長い時間をかけて、ねりあげられ、つくりあげられた、愛の感情を対置しているのである。

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>



五四番目


海辺の二人


 しかし、愛のよろこびも、しあわせな愛も、人生から遠くはなれた桃源郷に住んでいるわけではない。不幸や憎しみが、嫉妬や不義不正が、つねに愛をおびやかし、狙っている。

   棘や 割れたグラスや 病気や 涙などが
   昼となく夜となく 幸福の蜜を狙っているのだ
   塔も 旅行も 壁も なんの役にもたたない
   不幸は忍びこむのだ ひとの安らかに眠ってる間(ま)に
                     (五五番めのソネット)

 しあわせな二人の恋人たちも、愛の苦悩、愛の試練をまぬがれることはできない。愛もまた生きているのであり、生きているものは、いやでもおうでも矛盾のなかに生きているのだから。傷ついた恋びとたちは、矛盾の解決をさがしもとめる。

   おれたちも二人で 一生懸命 探しもとめた
   もう汐も おまえの髪にさわらないような穴を
   おれの過(あやま)ちで 痛みが大きくならぬような星を
   胸えぐる 苦しみなしに生きられる場所を
                     (七一番めのソネット)

 だが、そんな場所はこの世のどこにもない。また、あのロマンティックな個人主義が夢みるように、この世の外に逃避することもできない。いかに苦しかろうと、愛のすみかは、この地上のほかにはないからである。

   傷つくことも苦しみもない 隠れた堅固な巣を
   だが 愛はそんなものではなく 人びとが露台(バルコン)で
   顔蒼ざめさせるような 気狂いじみた町だったのだ
                    (七一番めのソネット)

 愛はまさに「気狂いじみた町」なのだ。愛ほどに、みずからのうちに狂気を秘めているものはない。そしてまた、マチルデの詩人ほどに、情熱的な恋びとも少ない。

   いつ どことも どのようにとも知らずに おれは愛する
   ためらいも誇りもなく まっしぐらにおまえを愛する
   それがおれの愛し方だ ほかの愛し方を知らぬのだ
                    (一七番めのソネット)
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


ソネット


 アラゴンがエルザの眼に偏愛をささげたとすれば、ネルーダはマチルデの髪の毛に愛着をしめしている。

   ほかの男たちは 恋びとの眼を愛でたがるが
   おれは おまえの髪を愛でる髪結でありたい

   おまえのようなつややかな髪や 豊かな巻毛は
   イタリアでは メドゥサの髪と呼ばれたものだが
   おれは もじゃもじゃの乱れ髪と呼ぼう
   おれの太陽は おまえの髪の塔から昇るのだ……
                       (一四番めのソネット)

 ネルーダは、女性を大地のイメージによく結びつけるが、また花や果実にも結びつける。そして女性の髪の毛もまた、植物のイメージをとって描かれている。

   ……風に揺れなびく おまえの髪は
   陽ざしにかがやく 高い木梢(こずえ)の茂みのようだ
                    (一八番めのソネット)

   おまえの髪の中には 星もあれば 昼顔もある
                  (二七番めのソネット)

 そしてネルーダは、おのれの死後に思いを馳せるときにも、こう書きそえることを忘れないのである。

   おれの亡霊が おまえの髪の上をさまよえるように
                  (八九番めのソネット)

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


14番目のソネット

花
 詩人はまた、恋びとの裸像をうたうことも忘れていない。イスラ・ネグラの海に泳ぐ彼女は、あの貝殻から生まれたアフロディトのように描かれている。

   いまし方 砂浜に 足跡を刻んだばかりの
   なめらかで つややかな足を 海が洗う
   いまや 女性(おんな)の炎の燃える 彼女の薔薇も
   太陽と海とが攻めぎあう 一つの泡でしかない
              (一○番めのソネット)

 さらに、二七番めのソネットでは、みごとな暗喩(メタフォール)によって、裸像そのものがうたわれている。

   裸のおまえは おまえの手のように素朴だ

   裸のおまえは おまえの爪のように 可愛いい
   まるくて 薔薇色で なめらかで 軽やかだ

 しかし、詩人の愛撫するこの裸像も、朝がくれば、ふたたび着物に厳いかくされてしまう。

   だが夜が明けて おまえがふたたび起き出して
   着物と仕事の 長いトンネルの中に入ってゆくと
   おまえの輝きは消えて 着物をまとい 葉を落とし
   おまえはふたたび 裸の手にもどってゆくのだ

 この詩は、着物につつみかくされてしまった裸像へのノスタルジーによって終わっている。着物にかくされることで、裸像はいっそうまた浮きでるともいえよう。しかし、最後の詩句は、最初の詩句をくりかえしていながら、新しいよろこびを見いだしている。最後の詩句は、その手にくちづけするようなやさしさにみちて、このソネットをしめくくっている。

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


ソネット


裸婦像

 これらの肉体の悦び、愛の陶酔もまた、ネルーダにあってはきわめて多様な暗喩やレトリックによって歌われていて、その魅惑は汲みつくしがたい。その魅惑の例をあげようと思えばいくつでもあげることができよう。

   おまえはギターの胴だった くらやみの中で
   かき鳴らすと 荒れ狂う海のように鳴りひびいた
                       (二二番めのソネット)

   おまえの与えてくれたものは 星の光のようだ
   それは時が大事に守っている あの森林地帯の
   井戸のように きらめく稲妻でいっばいなのだ
                       (六四番めのソネット)

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

64番目のソネット

花々


 ネルーダの愛の歌では、たとえ自然な、露わな女性の描写がなくとも、そこに肉の悦び、肉の陶酔のないような愛の歌はひとつもない。なかでも、わたしは四八番めのソネット『しあわせな二人の恋びとたち』の、しあわせに溢れた魅惑を愛する。

   しあわせな二人の恋びとたちはもはや一つのパンとなり
   草のなかの 月に照らされるひとつぶの露となる
   歩いてゆく その二つの影さえ ひとつになり
   寝床には ただひとつ うつろな太陽がのこる

 恋びとたちの愛が、これほど素朴なイメージで、しかも美しく、深く、うたわれたことはまれである。

   二人を結びつけているのは絆(きずな)ではなく 香りなのだ

 という一行には、愛の機微にふれたユーモアがあって、おもしろい。このしあわせなソネットは、さらに意味ぶかい最後の三行によって、無限を獲得している。

   しあわせな二人の恋びとたちには 終りも死もないだろう
   生きている限り 何度でも生まれては死ぬだろう
   かれらは 自然の永遠さを手に入れているのだ

(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>


ソネット48


ロダン

 アンデスの山女のイメージは、一八番めのソネットで、いっそう詩的に深められている。

   山をゆくおまえは まるで吹くそよ風のようだ
   雪のいただきから駆けくだる 急流のようだ

   ついにおまえは いきなり森から受けとるのだ
   青い 空の色をした花ばなの花束や 稲妻を
   矢のように鼻をさす ふしぎな野の香りを

 彼女もまた、チリ南部の森の娘である。花束や稲妻や「ふしぎな野の香り」を森から与えられて、彼女は娘となり女となる。そして彼女の生長した、たくましい姿は、五一番めのソネットのなかに歌われている。

   おまえの笑いは あの樹木を二つにひき裂く
   銀いろの稲妻と かみなりを おもわせる

   雪の茂みにおおわれた 荒涼とした高原だけが
   こういう笑いを 生みだすのだ 恋びとよ
   それは 山の上の自由な空気から生まれる笑いだ

   わがアンデスの女よ 正真正銘のチャンの山女よ
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

ソネット

こぶし

 二九審めのソネットは、『百の愛のソネット』のなかでも、わたしのもっとも愛誦する詩のひとつである。

   おまえは 貧乏な「南部」からやってきた
   地震の多い 寒さのきびしい その地方は
   泥のなかで生き抜くすべを 教えてくれた

   おまえは まっくろな 粘土の若駒であり
   泥だらけのくちづけであり 粘土のひなげしであり
   街道の上を飛んでゆく 夕ぐれの山鳩であり
   娘のおまえは しっかりとその身につけていた
   石ころを踏みなれた 貧乏人の足と貧乏人の心とを
               (角川書店版『ネルーダ詩集』より)

 ここにはまず、ネルーダの故郷、チリ「南部」の素描と、やはりそこで生まれて育った「おまえ」のイメージが、素朴に、率直に描かれている。
 
 チリは南極に近いので、南部にゆくほど寒く、雨期にはどしゃ降りの豪雨に見舞われる。『辺境』にはつぎのように書かれている。

   家の前では 南極地方の雨水が深く道をえぐり
   すさまじい泥んこのぬかるみとなり
   夏には いちめん黄色い泥沼と化し
   熟れた小麦を満載した荷車が
   悲鳴をあげながら 横ぎって行った
                       (『大いなる歌』)

 「泥のなかで生き抜くすべを教えてくれた」という一行は、こういう「南部」の泥んこのなかでの労働と生活を指さしていて、そこからしてこの詩のレアリテもにじみ出てくる。またそこからして、「おまえは まっくろな 粘土の若駒であり 泥だらけのくちづけであり 粘土のひなげしであり」という詩句が、「南部」にふさわしい形容であり比喩であることも納得されよう。そして「粘土」はネルーダの愛する基本的なもののひとつであり、それは大地の分身でもある。一五番めのソネットでも

   おまえはまた チャンの粘土でこねあげられて
   恍惚とした 煉瓦窯(かま)のなかで焼かれたのだ

 と、書かれている。
 そして「石ころを踏みなれた 貧乏人の足と貧乏人の心とを」身につけていたという誇りにみちたイメージほどに、チリの山女の素朴な姿を生きいきと描いているものはない。そう書いて、詩人は人民への愛情をもうたいこめている。かれは、祖国の大地から生まれでた、野性的なものをこそ愛するのである。

   祖国の与えてくれる すべての贈物のなかから
   おれは選んだのだ おまえの野育ちの心をこそ
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

29番目のソネット

ひなげし


 『百の愛のソネット』は、朝、昼、多ぐれ、夜の四部から成っている。つまりそれは、愛の誕生から、青春、壮年、老年をへて、死にいたる過程を意味している。そこでは、いろいろな段階における愛がうたわれ、また、愛のほとんどあらゆる側面が弁証法的にとらえられている。こうして、それぞれのソネットは、それぞれ、愛のヴァリエーション(変奏曲)をなし、また一連のソネットは、おんなじひとつの主題をとりあつかうことによって、協奏曲ともなり、百のソネットぜんたいは、ひとつの大きな交響曲を形成することにもなる。
 このことは、内容においてそうであるばかりでなく、手法、表現の上からみても、そうである。それぞれのソネットは、韻律やリズムにおける自由さと多様さによって、それぞれ独立しており、独特である。そして、ソネット形式のおちいりがちな単調さは、言葉の多彩さ、比喩、暗喩、象徴的手法の豊かさによって克服されている。また、讃嘆すべき単純素朴な表現から、洗練されたレトリック(修辞法)にいたるまでの、表現の多様さによって克服されているのである。

 二番めのソネットは、「朝」のういういしさ、春先の悩ましさをこううたっている。

   恋びとよ くちづけに辿りつくまでのなんという長い道
   おまえと一緒になるまでの さまよっていたひとりぼっち
   孤独な汽車は 雨といっしょに走りつづけていた
   タルタルに 春はまだ やってこなかった
              (角川版『ネルーダ詩集』より)

 「孤独な汽車」のように長い道を走りつづけ、さまよっていた若者は、いまようやく「くちづけに辿り」ついたのである。そのよろこび、それまでの悩ましさが、きわめて直接的に、リリカルに歌われている。愛にたどりついたというかわりに、「くちづけ」にたどりついたという表現には、ネルーダらしい直接性と感覚とが見られる。そして詩人は、つぎのように歌うことも忘れていない。

   おれたちはひたむきに愛しあわねばならなかった
   大地や 男たち女たち みんなと溶けあって──
   大地に根づいてこそ カーネーションは育つのだ

 つまり、愛を、みんなから遠く離れた、ただ二人だけの世界に閉じこめてはならない、ひろい大地に愛も根づかせねばならない、といっているのである。カーネーションは、いうまでもなく愛の象徴である。
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』>

ソネット

ブルーベリー