鈴木久男

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


三月一日 月曜 曇 強風
猛勉の明け暮れも茲に弥生の曙光を浴びた。「最後の十日間」がすでに身を包む。──徹夜の朝は眠いながら、そして勉強に対する満足感にひたることは事はとうてい出来ないが、ささやかな征服感をおぼえて、次第に明るさを増してゆく青空が快い。
午前中一時間ばかり眠ってしまう。
昨日の暖かさを後悔している様な物凄い北風が戸をゆらせ、ほこりをまきあげてわたってゆく。空っ風ももう終わりだ。最後の名残の挨拶だろうか。早く春を呼んで来い。
昼間はろくに勉強出来ない。
夜は停電、妹は明日から考査だと云うのにと泣きっつら。九時半に床に入ってしまう。二時に起きて勉強。思うように能率が上がらない──一番の汽車が走ってゆく。そして、にわとりの鳴声以外はすべてが静粛である。──
一高々々、私の全精力は、現在ではこの一点に集中されれば許してもらえるのだ。

鈴木久男

鈴木久男
前橋の実家にて 左手前が久男
三月八日 火曜
社会主義に関する心機
私がマルキシズムに対して積極的な関心を持ち始めたのは、一口に何時と云う事が出来ない理由は、大いに私の性格による処であると思ふ。何時とはなしに積み続けられた無意識的な、現実社会の持つ絶対的な矛盾の感情が或る。これも子供らしい漠然とした反抗意識となってマルキシズムに目を向けざるを得ない一時期があった。その頃は唯、今思えばブルジョアの手先に過ぎない観念論哲学に対して、凡人が常に或る一生の内の一つの時期に持つ、感傷的なあこがれを抱きながら、これも現実とは凡そかけはなれた悩みの中に徒にひたって自らを欺いていたものだった。強いてマルキシズムに共鳴(と云うのはあまりにも軽薄な云い方であるが─)させた動機を拾ってみると、姉夫婦の(羨望的な生活も幾分あったであろうが)農村青年に対する進歩的な階級教育の中に見られた熱意と、当時私が求めていた純粋理論、姉から贈られた「現代観念論批判」に見られる資本主義社会の真実の解剖、或ひは小林多喜二の小説に見られる農村の疲弊、悲惨等、数々ある中で、特に感銘したものはこれらであった。浪人の時代は社会の中の大きな魅状を直接に身にこたえていながら、別にこれと云った積極的な態度も研究もせずに、ただ感ずる儘に感じ、結局はこれらが幾分現在の自分に役立っているのは極めて僅かであるほど、半ば自棄的な厭世的な、徒然草的なシニズムに陥っていた。この時代のおくやみは数限りないが、マルキシズムに対する好意は失っていないで、しかも退歩に終わっているのは、惜しんでも足りぬものがある。

一高に入校を許可された事は、何と云っても、このようなシニズムから解放されたと云う意味で確かに大きなエポックを劃した。が、その一学期に於ける進歩も又反省的な立場に立って見ると決して大きいものとは云えない。覚悟だけで、マルキシズムの根本的な問題たる実践については全く態度を曖昧にしていた。レーニンを本の上でしか知らなかったのである。当時は一高の最初の生活であるだけに、理科生としてこのイズムに関してとるべき態度を決定し、学理的な立場からこれを見ようと努めた。しかし根本的なファウンデイションを欠いていた当時に於いて之を成し遂げるのが失敗に終わるのは当然の事であったろう。事実、これは本当に断片的な知識を得たのみで、惨憺たる結末がもたらされた。が、社会の時間に於ける講義や、キエルケゴールへの徹底的な反感はプラスだったと云えない事もない。夏休みから二学期へかけては、これらの棄揚の結果として、すっかり高等学校の生活─遊び楽しむ方の面に於ける─に慣れて、素晴らしい思出を作ったと同時にこれ迄のマルキシズムの日和見的な態度の廃跡に、着々とじみなベイスが作られていたのを感ずる。

一月三日 月曜
八時の汽車で信州へ下る。奮発して準急に乗る。軽井沢あたりにちらほら残雪を残すのみで、例外的に暖かい今年は信州でも暖かい。二時頃姉の家に到着。小休止の後、大島の家へお年始に行き、子供たちとトランプやカルタで遊ぶ。夕方、雨の降る頃、一杯飲んだ上に、シャンなもり加減に満腹になって辞し、姉の家へ戻る。夜はおじいさん、洋ちゃん等が遊びに来て花合わせ等をして楽しみ、姉の汁粉でピリオドを打つ。十時頃、床の中で本を読んで、寝る。何か疲労感におそわれて、考えがまとまらず、不満が残るのを感じた。

一月四日 火曜 
信州の朝は炬燵に明ける。朝食のパンの後、千曲川へ朋公と散歩に行く。まだらな雪をいただいた遠い日本アルプスの連山、赤い長い橋の下を、山から山えとゆう然と流れを続ける千曲の水、これらが夏の登山、魚釣の思出を呼びかける。犬を連れた猟人の水にうつった姿も快い。朋公や博光さんと写真を撮り釣りの計画を語らひつつ千曲と別れる。リンゴを背負い、朋ちゃんを抱いて松代の町へあわて、やっと間に合って自然の中の信州を後にする。準急に乗ったが、猛烈な混雑で座る事は到底困難。五時頃帰宅。忙やかさが1段と益す。夜は疲労の為早寝する。

北アルプス


八月四日(木)午後四時頃、長野の姉の家に着く。ひるねの後、兄と千曲川の浅瀬にピンピン虫と称する奴を明日の為に取る。
五日(金)朝食(といっても十時近い)の後直ちに釣りに出かける。初めてなのであちらこちら位置を変えながら竿を下ろした為に午前中は極めて不漁。午後は相当の大漁で合計九匹を捕獲して意気揚々帰宅。
六日(土)休養をとる。
七日(日)洋ちゃんを加えて千曲の太公望に一日を過す。さすがに大漁で合計二十五匹を収め、夜は魚のフライに舌づつみをうつ。
八日(月)午前中勉強。午後は又々釣をやる。五匹ばかり。天ぷらにする。
八月九日火曜
又々位置を換えて釣りに余念がない。兄さんと競走の七対六にして敗れたが、大したものだ。夜、細胞会議にオブザーバーとして出席。
十日 飽きもせずに千曲の淵に腰をすえて釣りをやる。大シケで二対三で勝ったが昨日のオモカゲもない。
十一日 明日の乗鞍登山の用意。
十二日 四時起床、篠ノ井着五・三〇、同発六・〇〇、松本着七・五八、同所にて待ち合わせ、出発は九・五〇、島々着一〇・三〇、同発十一・〇〇、前川渡着十二・〇〇、昼食、東大ヒュッテ着四・〇〇
十三日 起床七・〇〇 ヒュッテ発八・一五、乗鞍頂上着十一・四五、同所発二・三〇、ヒュッテ着五・〇〇
十四日 起床七・三〇、ヒュッテ発九・〇〇、鈴蘭小屋着十・〇〇、前川渡着十二・〇〇、島々着一・〇〇、同発一・二五、松本着二・〇〇、同所にて休憩昼食、出発は三・三五、篠ノ井五・二〇、松代着七・〇〇
十五日 九時の汽車にて姉と前橋へ帰る。続青い山脈を田中と観る。

◇   ◇   ◇
東大在学中に亡くなった弟・鈴木久男の日記を静江は大切に保管していました。”メッチェンのことが書いてあるのよ”という日記帳の数冊は、何も残すことなく亡くなった彼の青春の証しになっています。
1949年8月に松代の博光のもとに滞在し、大島洋さんもいっしょに千曲川で釣りに興じたことをメモ書きで記していました。

ピオニール
ピオニール
ピオニール
◇    ◇    ◇

 美しき若者への挽歌
  ─同志 わが義弟 鈴木久男の霊へ

一九五〇年七月二十六日
雲もない夏空に
突如 鳴りわたる雷鳴のように
悲報は伊豆の海より来る

夏の陽の輝くさなか
われらの太陽は突如として
伊豆の海に墜つる
ああ われらの心の闇の深さ

おのれの愛と希望とを
おのれの血と未来とを
たちまち海に奪われるほど
胸痛む悲しみはなにもない


海風に髪をなびかせ
夏の陽に輝く若者に
たちまち経帷子を着せるほどに
涙しぼるものはなにもない

青空へすくすくと伸びた
柏の若木が 若葉が
たちまち雷にへし折られるほどに
痛ましいものはなにもない

人生と世界とに清らかな眼を開き
叡智と誠実とに輝く額を
たちまち失うとは
いかに惜しんでも惜しみきれはしない

青春の血と夢にあふれ
燃えはじめたばかりの瞳が
たちまち吹き消されるとは
いかに悔んでも悔みきれはしない

われらの清き涙のすべてをしても
もう おまえを呼びかえすことはできない
ただ涙のなかに浮かんでくるばかりだ
あの向日葵の微笑みが 姿が

さわやかな五月の風のなかで
祖国と自由のために旗を振り
たたかいの歌うたったその唇も腕も
もう われらのところにはない

祖国と世界の青春のために
早くも深い決意に燃えて
その戦列についたばかりで
おまえ 美しき若者は倒れた

だが おまえの歌声は
われらの耳に残って消えぬだろう
おまえが高く掲げた
あの愛と戦いの旗はわれらの前にある

美しき若者よ 同志よ
われらは君の道をつずけよう
君のたたかいを継いで行こう
光りを愛を 手から手へ

さらば美しき若者よ
ふるさとの大地の下に
きのうの日のように
肩を振り手を振り歌いつずけよ

その深い歌ごえは
ほかの若者たちの胸をふるわせ
若者たちは立ち上がるだろう
きのうの日のおまえのように

葦笛のように清らかだった若者よ
君を葬る今日 夜来の雨もやみ
君を育てた赤城も榛名も
雲間に立って君を送る

さらば 美しき若者よ
眠れ ふるさとの大地に
青春の輝きと微笑みのままに
美しき若者 久男よ

◇    ◇    ◇ 
「ピオニール」はガリ版刷りB5版、東大音感合唱研究会の機関誌でした。鈴木久男は東大音感合唱研究会で活動していたことがわかりました。
初出のこの詩にくらべ、「大島博光全詩集」の「美しき若者への挽歌」では少し句を削って、久男を失った悲しみをより美しく浮き上がらせています。

鈴木久男様
その後どうしています? ちっとも見えないので、主人と毎日、心配して話しています。前橋から長ぐつもってきてくれましたか。たのみます。
二十一日夜、共立講堂の啄木祭に、大島博光が自作詩を朗読しました。すばらしかったです。招待券送ればよかったのに、おくれてしまい、すみませんでしたし、残念におもっています。
あすはメーデー前夜祭にゆきます。
けいざい的にどうですか。うちは安定してきつつあります。
詩の傑作ができました。ますます元気です。
1950.4.23 目黒区駒場 一高明寮三 鈴木久男様
三鷹 下連、368 大島静江

大島静江様
御無沙汰しました。
十三日に上京したのですが、試験闘争に追われ、御無沙汰を重ねました。今日で試験も終わりますので、又その内おうかがい致します。試験に夢中になっている間に春も半ば過ぎてメーデーが近づきました。その前に歌曲指導でもやっておきましょう。試験が終わってもまだ闘争はこれからです。お互いに頑張りましょう。
都下三鷹町下連雀 大島静江様
都内目黒区駒場町 東大中寮12 鈴木久男
(消印なし)

*静江の手紙には経済的に安定しつつあるとありますが、まだ東京に転居してから2ヵ月の時期で、花屋を始めていたとしても軌道に乗るのはこれからのはずで、ずいぶん楽天的に考えています。博光が元気に詩を書いているのが作用しているのかもしれません。
*静江と日比谷公園を散策したおり、「ここでメーデーの中央集会があったとき、久男さんが学生代表で演説したのよ」と語っていました。この手紙からは、二人がこのメーデーを楽しみにしていたこと、久男が積極的に準備していたことがわかります。
*久男はこの時、駒場の東大中寮にいたので、三鷹の博光宅に下宿したのはメーデーの後になります。久男が革命運動に参加したのは博光の直接の影響よりも、一高─東大での学生仲間での活動からと思われます。

大島静江様
いろいろ結構な入学祝いをいただいておきながら、つい無音に過してしまって本当に申し訳ありませんでした。僕もどうやら東大の一学生として第一歩を踏み出す事が出来、新らしい時代のインテリゲンチャを目指して大いに期する処があります。
一学期は僅か十日目で終り、十七日から夏期休暇に入りますから、そちらに勉強に行けるのも間近い事と思います。
とに角、入学祝いには非常に感謝しております。お兄さんにもよろしくお伝え下さい。
長野県更級郡西寺尾村 大島静江様
目黒区駒場 東大教養学部内明三 鈴木久男
(消印なし─昭和25年4月中頃に書いたが、静江が三鷹に転居したので投函しなかったのか? 鈴木久男は静江の弟)