スペイン市民戦争

ここでは、「スペイン市民戦争」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




犯罪はグラナダで行われた



 一九三六年七月、生まれてまだ若いスペイン共和国にたいして、フランコ・ファシスト軍が反乱を起こし、スペイン人民に襲いかかった。フランコ軍をヒットラーとムッソリーニが支援していた。ファシストたちは、いち早く、詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカを血祭りにあげた。一九三六年八月一九日未明、ロルカは故郷グラナダ郊外、ビスナルのオリーヴ畑で銃殺された。「ピストルによるよりもずっと大きな害悪をペンによって与えた」│というのがその逮捕理由だったといわれる。マチャードは、彼のあとを継ぐ、次の世代の詩人ロルカの死を知ると、怒りの声をあげ、『犯罪はグラナダで行われた』を書いて、ファシストを告発し、ロルカの死を悼んだ。

 友よ 建ててくれ/石と夢の墓を──アランブラに
 詩人のために/水のすすり泣く 泉のほとりに
 そうして永遠に伝えてくれ/犯罪はグラナダで行われたと

 「アランブラに・・・水のすすり泣く 泉のほとりに・・・」──グラナダのあのイスラムのアランブラ宮殿と有名な「獅子の中庭(パティオ)」の水盤、ヘネラリーフェ庭園の泉などを思い浮べれば、そしてそれが秘めているイスラム王朝の悲劇を思えば、マチャードがロルカの墓に託した想いは、歴史の悲劇とひびき合って、きわめて深いものであったろう。こうして「犯罪はグラナダで行われた」という詩は、マチャードの詩のひとつの集大成であり、かれの詩の頂点をなすものと言えるだろう。

(『マチャード/アルベルティ詩集』)

 一九三六年十一月
                  ポール・エリュアール

  見よ 廃嘘を作りだすやつらの働きぶりを
  やつらは金持で辛抱強く整然として腹黒くけだものだ
  やつらは地上を独り占めするために全力をあげる
  やつらは人間の屑で 人間を汚物だらけにする
  やつらは愚かにも宮殿を地べたに折り曲げる
        *
  ひとはすべてに慣れる
  あれらの鉛の鳥のほかには
  やつらの輝かしいものへの憎しみのほかには
  やつらに席をゆずるほかには
        *
  潮のひいた都市(まち)よ 救われた一滴の水から成り
  白日の下 大切にされる唯一のダイヤモンドから成る海よ
  マドリードよ 見せしめとなることを拒否する
  あの怖るべき財宝のために苦しんだ人びとに馴れた都市(まち)よ
  あの輝かしい財宝に必要な貧困に
  苦しんだ人びとに慣れた都市(まち)よ
        *
  口はふたたび真実の方にのぼってゆけ
  息吹け 断ちきられた鎖のようなめったにない微笑みよ
  人間は愚劣な過去から解き放たれて
  兄弟のまえに同類の顔を挙げるがよい

  そして理性に放浪の翼を与えよ


 一九三六年はまたスペイン内戦の年である。七月、ファシスト・フランコの軍隊が、ヨーロッパじゅうのファシストたち──とりわけヒットラーとムッソリーニの支援と教会の祝福のもとに、スペイン共和国に襲いかかった。そして一九三六年九月のとある夜明け、グラナダの郊外で、ファシストたちは詩人ガルシア・ロルカを銃殺した。ロルカは政治活動には無関係だったが、しかしその自由の精神を憎悪したファシストたちは、まずロルカを血祭りにあげた。のちにエリュアールはロルカを記念して、『ドイツ軍の集合地で』のなかの詩で、フランス・レジスタンスの殉難者たちの名のなかに、ロルカの名をむすびつける。エリュアールの言ったように、敵の顔はいつでもどこでも同じなのだ。
 その頃、マドリードで、荒れ狂うファシズムの暴虐をまのあたりに見て、ひとりの南米のモダニスムの詩人が、最初のヒューマニスムの叫びをあげて、『心のなかのスペイン』を書き、共産主義への一歩をふみだした。──チリの詩人パブロ・ネルーダである。のちに彼はエリュアールの友人となる。『心のなかのスペイン』は一九三八年、アラゴンとルイ・パロの共訳によって仏訳され、フランスの詩人たちに深い感銘と影響を与える。
 スペイン市民戦争はいよいよ激化し、拡大する。フランスのブルム人民戦線政府は、スペイン人民戦線にたいして「中立政策」を決定する。それはスペイン共和国にたいするフランス社会党の裏切りにほかならなかった。それはフランコの反乱軍を助けることであり、反乱軍の立場は優位になる。マドリードは脅威にさらされ、爆撃される。そのとき、エリュアールは「一九三六年十一月」という有名な詩を書く。

 この詩はルイ・パロの紹介によって、一九三六年十二月十七日付の「ユマニテ」紙の一面に掲載された。パロはスペインからフランスに帰って、共産党機関紙の編集部にはいっていたのだ。状況にうながされてエリュアールはふたたび共産党に接近するが、それはブルトンを苛立たせずにはおかなかっただろう。

<新日本新書『エリュアール』>
 また、ラファエル・アルベルティは書く。
「──ピカソよきみは言う。『わたしは生涯を自由にささげてきた。そしてこれからも自由でありつづけたい……』
 きみは自由であり、いつにもまして自由になるだろう。なぜなら芸術を解放した者は、けっして束縛されることはないだろうから。
 ……自由のもっとも鋭い叫びを、きみは『ゲルニカ』によって挙げた。自由は、残酷さと卑劣さをもって虐殺されて、横たわっていた。きみを駆ってその死を告知させ、あのしかけられた戦争を、ただやめさせるという目的だけで非難させたのは、自由なのだ。
 怒りに燃えて告発し
 きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を
 断末魔の馬のいななきを
 そしてきみは 腕を切り落された母親たちから
 怒りの歯を抜きとった
 きみは地面に並べて見せた
 倒れた戦士の折れた剣を
 えみ割れた骨の髄と
 皮膚の上のぴんと張った神経を
 苦悶を 断末魔の苦しみを 憤怒を
 そしてきみじしんの驚愕を
 ある日きみがそこから生まれてきた
 きみの祖国の人民を
それらすべてを、きみは『ゲルニカ』と名づけた……」(アルベルティ『途切れざる光』)

 「ゲルニカ」の制作中に、ピカソはつぎのように言明している。
 「スペイン戦争は、人民にたいする、自由にたいする、反動の闘いである。わたしの芸術家としての全生涯は、もっぱら反動と芸術の死に反対する絶えざる闘争であった。ゲルニカと名づけるはずの、いま制作中の壁画においても、わたしの最近のすべての作品においても、わたしははっきりとスペインの軍部にたいする憎悪を表現している。軍部こそはスペインを苦しみと死の海に投げこんでいるのだ。」
 この声明のなかの「芸術の死」にたいする反対というのは、ミラン・アストライ将軍にたいする返答である。その頃、将軍は哲学者・詩人ミーゲル・ウナムノにたいして「知識人(インテリ)などやっつけてしまえ。死万才!」ということばを投げつけたばかりであった。それにたいしてウナムノは「あなたは勝利するでしょう。あなたは必要以上に物理的な力をもっているのだから」と答えたといわれる。ウナムノはピカソにとって青春の象徴そのものであった。
 「ゲルニカ」は、パリの万国博覧会のスペイン館に陳列されるやいなや、いろいろな批評を浴びた。フランコ派からは罵倒され、左翼からはほめたたえられた。ある共産主義者は「武器を執れ、という決起の呼びかけを期待していたのに、これは死亡通知状」だと言って嘆いた。またスペイン共和国のある高官は「『ゲルニカ』は反社会的で、滑稽で、プロレタリアートの健康な心情とは無縁だ」と言った。
 しかし、パリの批評界は熱烈にこれを歓迎した。『パリの虐殺』の著者ジャン・カッスーは書く。「いままであらゆる意味で拒絶されていたこの絵画に、名のある人びとが押しよせた。いまやこの絵は、充実と現状性とに、身振りと叫びとに、みちあふれている。それはわれわれのもっとも身近な悲劇を表現している。」
 それまでピカソにほとんど心動かさなかった批評家アメデ・オザンファンも「ゲルニカ」を評価して言う。「この男はつねに状況と同じ高さにいる。われわれはいまこの世界がだらしのないことを知っている。すべてのひとが卑められているのだ。こんにちの時代は重大でドラマチックで危険にみちている。『ゲルニカ』はこの時代にふさわしい。」
 「ゲルニカ」の制作後、一連の「泣いている女」が描かれる。十月二十六日の日付をもつ「泣いている女」はとりわけ有名である。女の手は口もとのあたりでハンカチを切り裂いている。涙だらけの顔には眼が飛びだしており、顔は悲しみのためにひきつり、ゆがんでいる。これはスペインの悲劇を反映した傑作の一つに数えられている。この肖像画のモデルは、ユーゴスラビヤ生まれの写真家で、シュルレアリスムの支持者ドラ・マールであり、ピカソは一九三六年にエリュアールの紹介で彼女を知ったのであった。その後およそ十年のあいだ、彼女はピカソとともに暮らし、絶えずそのモデルになる……。

ピカソ

<新日本新書「ピカソ」>
 ゲルニカ

 一九三七年一月、スペイン共和国政府はその夏のパリで開かれる万国博覧会のスペイン館を飾る壁画をピカソに依頼し、ピカソはそれを受諾する。スペインの共和主義者たちは、その壁画がゴヤの「五月三日」のような政治的にも有効な作品となることを望んでいた。ホセ・ベルガミンはそれを催促するように書いている。「わたしはこんにちまでのピカソの絵画をかれの未来の作品への序曲とみなしている。わたしはピカソを未来の独立不覊で革命的な真のスペイン人民画家とみなしている……われわれの現在の独立戦争は、むかしの戦争がゴヤに与えたように、ピカソにかれの絵画的、詩的、創造的な天才のいっそうの充実を与えるであろう」(『カイエ・ダール』一九三七年一〜三月)
 スペイン館の壁画をひきうけたものの、ピカソはなかなかその仕事に手がつかなかった。この年の一月に「坐った女」を描き、その後数ヶ月に、いくつかのドラ・マールの肖像や静物を描いているが、そこには政治的な意図をもったものはほとんどない。しかも、一九三七年一月の日付をもつ「坐った女」は、ピカソが恋人たちを描いた肖像画のなかでも、もっとも優しく、もっとも陽気なもののひとつである。
 こうしてピカソのもっとも有名な作品となる壁画は、「ダンス」や「アヴィニョンの娘たち」のように、念入りな仕上げ、芸術的傾向や気分の変化から生まれたものではなく、ましてや計画された作品でもない。それはじつに、スペイン戦争のもっとも残酷な悲劇にたいするピカソの反発から生まれたイメージである。このイメージのなかに数年来のピカソの作品のなかに現われていた多くのテーマやモチーフが結晶することになる。
 その悲劇──世界に衝撃をあたえたゲルニカの悲劇は、一九三七年四月二十六日に起こった。ビスカヤ湾岸からおよそ一〇キロの地点にあるバスクの小さな町ゲルニカは、フランコを支援するナチス・ドイツ空軍によって──正確にはフォン・リヒトホーヘンのひきいるコンドル部隊によって爆撃され、全焼し全滅した。ゲルニカがなんら戦略的な要点でもなく、ほとんど全市民が犠牲になったことで、衝撃はいっそう大きかった。「ニューヨーク・タイムズ」の特派員は四月二十九日に報告している。
 「ハインケル戦闘機とユンケル爆撃機の焼夷弾と爆弾は、怖るべき残忍さと科学的精密さをもって、バスクの文化と政治的伝統の中心ゲルニカを壊滅させた。」
 四月二十九日の「ロンドン・タイムズ」は報じている。
 「戦線からはるか後方にあるこの無防備の町にたいする爆撃はまさに三時間半に及んだ。ドイツ軍機の急降下爆撃によって町に投下された爆弾はおよそ五〇〇キロに達した・・・戦闘機は町のまわりの畑に避難した町民たちに機銃掃射を浴びせた。町の議事堂をのぞいて、ゲルニカじゅうがたちまち炎につつまれた。議事堂にはバスク人民の古文書が保存されており、むかしスペイン王たちが住民たちの忠誠の誓いとひきかえに、ビスカヤ地方の民主的権利の保証を誓ったゲルニカの有名な『自由の樫の木』がたっていた」
 四月三十日、当時アラゴンが編集長であった「ス・ソワール」紙が破壊されたゲルニカの写真を掲載した。
 五月一日、ピカソはゲルニカの最初の習作を描く。五月九日の日付をもつ全体の構図のスケッチは、五月十一日にはキャンバスのうえに移され、八つの段階を経て、六月の初めに完成することになる。グラン・ゾーギュスタン街のアトリエにおいて、それらの段階の画面はドラ・マールによって、逐次写真に撮られる。
 できあがった画幅はきわめて大きなものであった(三・五一☓七・八二メートル)。構成の上ではピカソはごく古典的な形式をとっている。中央の三角形の頂点にはランプがある。大きな横顔を見せている女の腕が、そのランプを差しだしている。人物たちと部屋の部分とは、舞台装置の印象をあたえるように圧縮されて配置されている。左側には大きなランプに照らされた部屋があって、テーブルの上には頸をのばして嘴を大きく開けている烏が描かれている。右側には瓦屋根の家と炎に包まれた家、その窓と入口などが、きわめてキュビスム風な幾何図形で描かれている。およそ古典的な絵においては、恐怖の場面は一般に広場でくりひろげられ、殉教者や無実の者たちは四方に逃げようとしている。しかしここでは逃げることは不可能である。町と町の人たちは爆弾によって全滅させられていたからである。そこでピカソは、この閉ざされた舞台装置を選んだのだが、そのために彼の意図をいっそう効果的に集中することができた。
 八人の登場人物──中央には馬が断末魔の叫びをあげている。左側には牡牛が顔を横に向け、尾を立てている。その下に顔をのけぞらせた女が苦痛の叫びをあげ、死んだ子供を腕に抱いている。右側には、ランプを差しだしている女の横顔をかこむように、もうひとりの女が光の方に身を伸ばしており、さらにもうひとりの女が、炎を吹いて燃える家の前で、腕を重くあげて大きくわめいている。
 前面にはひとりの戦士が床に横たわり、手に折れた剣を握りしめている。剣のそばには花がある。
 牡牛と死んだ子供をのぞいて、その他の顔はみな口を大きくあけて、あるいは断末魔の叫びをあげ、あるいは怒りと恐怖の叫びをあげている。──それらすべては、ゲルニカの時代に、絵画があげた叫びそのものである。ひき裂かれ、ふみにじられたスペイン人民の悲劇にたいして、絵画があげることのできた叫びそのものである。
 さて、ランプをかざした女は、この殺戮の場面に自由の象徴として君臨している。彼女は虐殺を見いだして驚愕の声をあげている。彼女はまた正義であり生であり、彼女がいなければここには希望はないであろう。彼女がしっかりと握っているランプが、画面の頂点を占めているのにたいして、画面の底辺では、死んだ戦士が折れた剣をこれまたしっかりと握っている。それは生と死との約束された勝利と敗北との対照をみせている。そしてランプをかざした女は、画面ぜんたいの構成を統一し、右側から左側へと動くリズムを保証しているのである。
 ところで、左側の牡牛については多くのことが語られてきた。ある人たちは(たとえばヴィセンテ・マルレロのような)牡牛は悪であり暴力でありファシスムであるという。またある人たち(たとえばフワン・ラレアのような)にとっては、それは人民の象徴であり、スペインの獣神(トーテム)である。それにたいして批評家フェルミジエはおよそつぎのように言う。
 「それはあまり説得力がない。画面ぜんたいのなかで牡牛が演じている役割を分析する必要があろう……ミノトールはまことに意地悪な野獣である。しかしピカソはそれをよろこんで美化する姿で描き、しばしば自分の同類、自分の共犯者に仕立てている。……『フランコの夢と嘘』において、フランコは馬と一体化しており、牡牛はスペイン人民の勇気を表わしている。したがって牡牛にたいするピカソの態度はまちまちで、ちがった態度が共存している。構図ぜんたいを描いた最初のスケッチの一枚を見ると、画面は四人の主要人物──ランプをかざした女、死んだ戦士、馬、牡牛──から成り立っている。……つづいてピカソはこの四つのイメージをさらに組み合わせてゆく、その後の画面の展開過程をみると、劇的な場面が決定され、人物たちの組み合わせが決まると、ピカソは人物たちの象徴的な意味に心を使うよりは、むしろ構図の問題に没頭する。……犠牲者である馬は画面の中央を占める。四つ脚をふんばりながら地に崩れ落ちる馬の動きは、牡牛のそれよりも大きく力強い。しかし牡牛そのものは何ものをも意味しない。……牡牛は観衆の想像にまかされたものであるかもしれない。悪であり、力であり、野獣性であり、善であり、抵抗の勇気であり、あるいは牛小屋の牛であるかも知れない。なおどうしてもそれにかかずらうなら、それは運命であるかも知れない。」
 またピエル・デックスは言う。
 「牡牛や馬の正確な意味を明らかにしようとするのはむだであろう。牡牛と馬との組み合わせはスペインそのものであり、スペインの光と影である。たとえ馬が断末魔の叫びをあげていようと、牡牛はファシスムでありえないだろう。恐らく暗い力を表わしてはいるが、高貴な対立者である。牡牛は自分にかかわりのない虐殺から眼をそらしているのだ……」

ゲルニカ
ゲルニカ
(つづく)

<新日本新書「ピカソ」>
スペイン戦争とゲルニカの誕生
 
スペイン戦争が始まる

 一九三六年の夏、突如として政治がピカソの生活のなかへ闖入(ちんにゅう)してくる。祖国スペイン共和国にたいするフランコ・ファシスト軍の反乱が始まったのである。「ひづめの割れた、悪魔の足をした、蒼黒い」(ネルーダ)古きスペインは死に絶えてはいなかったのだ。ピカソは共和国を支持し、そこに希望を託していた。
 共和国政府によってプラド美術館長に任命されていたピカソは、祖国の至宝たるプラドの芸術作品を安全に保存するため、これを疎開させた。一九三七年六月、フランコ将軍がプラド美術館を爆撃すると、ピカソはこれを非難告発して言う。
 「プラド美術館から救出された絵画が、バレンシアでどんな状態にあるかを、わたしは見た。スペイン絵画を救ったのはスペイン人民だということを、世界は知るにちがいない」
 ピカソはプラド美術館長のポストを名誉として受諾していたが、それだけでは充分だと思わなかった。ファシスト軍と闘うスペイン人民の悲惨、窮乏、苦境にたいして、ピカソは自分のもっている全手段をもって応える。ファシストの恐るべき犯罪、勝ちほこった「野獣」のふりまく恐怖を前にして、彼は怒りの声をあげ、この悲劇の残酷さ、むごたらしさを、その天才をもって描きだすことになる。また内戦の犠牲となったスペインの子供たちを支援するため、ピカソは多くの絵を売って、多額の義捐金をいく度も贈った。
 祖国スペインで始まった悲劇はただちにピカソの芸術に影響をあたえたというわけではない。スペイン人民の恐るべき悲劇にたいして、おのれの芸術をもって対応するためには、準備の時と、それにふさわしい絵画的表現法を見いだすことが必要だった。
 こんにちでは、それは「ゲルニカ」というかたちをとって明白に見えるが、それはピカソがその解決をわれわれに提出して見せてくれているからである。しかし、一九三六年にはまだそういうわけにはゆかなかった。人びとはゴヤをまねることを彼にすすめたが、そんなことはピカソにとって問題にならなかった。戦争画家のように、自分の絵画のなかに戦争をそのまま描くことは問題ではなく、自分の絵画が闘争を始めねばならない。怒りにふるえるおのれの全人間感情をこめて、おのれのイメージで、おのれの叫びで、この悲劇の本質を抉りださなければならない。それがピカソの問題であった。
 この年の夏、ピカソは南仏カンヌの後方の丘にあるムージャンに避暑に出かけた。エリュアール夫妻、マン・レイ、それから新しい恋人ドラ・マールなどがそこに合流する。
 八月十九日、グラナダでガルシーア・ロルカが銃殺されたというニュースがとどく。
 スペインでは政治的緊張はさらに高まって、いまや国際義勇軍までが戦線で戦っている。
 エリュアールは、シュルレアリストたちにとってタブーだった「状況の詩」──「一九三六年十一月」を書く。

 見るがいい 廃嘘をつくりだすやつらの働きぶりを
 やつらは金もちで辛抱強く整然としていて陰険でけだものだ
 しかもやつらは 地上でやつらだけになるために全力をあげている
 やつらは人間のはしくれで 人間に汚物を浴びせる
 やつらは からっぽの宮殿を 地面すれすれに折り曲げる・・・

 この詩はルイ・バロの紹介で、共産党の機関紙「ユマニテ」(一九三六年十一月十七日付)に掲載されると、たちまち大きな反響をよんだ。当時まだ党の外にいたエリュアールは、シュルレアリストたちの閉じこもっていた内部世界から抜けでて、反ファシスト闘争に連帯を示したのである。
 ピカソは親友エリュアールのこの詩にたいへん感動した。この詩は高い芸術性と歴史的政治的主題とが矛盾なく両立しうることを証明していた。それに刺戟されて、ピカソは一九三七年一月の初め「フランコの夢と嘘」という詩を書き、それに一連のつづきの版画を彫り、添えた。
 「・・・子供たちの叫び 女たちの叫び 小鳥たちの叫び 花たちの叫び 木組みと石たちの叫び 煉瓦の叫び 家具のベッドの椅子のカーテンの瓶の猫たちの紙たちの叫び たがいに引掻きあう匂いたちの叫び 首を刺す煙の叫び 大釜のなかで煮える叫びたち・・・」
 この詩は、その発想、言葉のつながりにおいて自動記述的(オートマテイック)であるが、その主題は政治的であって、フランコを告発し、フランコがスペインにおしつけている大いなる不幸を表現している。
 ピカソは、エリュアールとはちがった流儀で、おのれの芸術手法と、スペイン人民支援の意志とをむすびつけたのである。
 一連の版画で、フランコは気味のわるい蛸のような怪物として描かれ、笑う太陽のもと、虱の描かれた幟(のばり)をもって戦争に出かける。ついで巨大なペニスにまたがって、綱渡りする・・・さらに、つづき漫画のようにつづくデッサンのなかに、怪物フランコの冒険物語が描かれる。そこには腹を抉られた馬、怪物の王冠を突き落とす牡牛、断末魔の叫びをあげる女たちが現われる。ここでピカソは痛烈な風刺をもって、フランコをきわめて卑猥な、胸の悪くなるようなイメージに描いている。またここでは、牡牛は正義の象徴として措かれ、スペイン人民の英雄主義の象徴として描かれている。ピカソは牡牛や馬を、自分の創作活動のなかに現われてきたままに捉えている。したがってミノトールとおなじように、牡牛や馬はつねに善と悪のいずれかにわかれているとは限らない。
 その後、スペイン共和国支援のためにそれらの版画は絵はがきとなって売られるようになる。

<新日本新書「ピカソ」>

 「国際旅団」の伝説考
                           ジャック・ゴーシュロン

熱狂や喧騒にみちみちて
戦争や殺戮や恐怖によって暗澹として
暮れてゆく二〇世紀の上にかかった
夜明けの虹のような一団よ

自由を求める心のように素朴で純粋な
正義という基本理念のように単純な
夜明けの虹のような一団よ
地球の規模で体験された伝説
スペインのために闘った「義勇兵たち」の伝説よ

小心でこせこせする歴史も 一瞬
果てしない論争を忘れて
道をゆずるがいい
この伝説の前に身をかがめるがいい
肉と血をもったそれらの人たちのひとりひとりの前に

それらの人たちはそれぞれ自分の手を見ながら
自分の道具を洗った
そしておのれの心の奥でただひとり
遠くへ出かけてゆく辛い悲しさをもって
愛する人たちと別れてゆく自分の勇気を計り
出発するという誇らかな計画を一挙に決めた
それだけがただひとつの義務であるかのように

その人たちはそれぞれ
自分の額の奥では孤独で
無関心な人びとのきまり文句には耳もかさず

その人たちはそれぞれ出かけて行った
ひとつの手がもうひとつの手と握りあえば
絶望や不幸にたちむかう
堅い城壁となることをもっとよく知るために

その人たちはめいめい出かけて行った
なんにもない貧しい自分の家から
それはやがて百人となり
数千人また数千人となり
数万人となる
十万の人たちよ 知るために行きたまえ

出かけて行きたまえ
自分の大地のうえで
自分の国の軍隊に
襲われ攻撃されて
戦ってる人民に合流するため
 
出かけて行きたまえ 人殺しどもの
餌食となってる共和国を救うために

ひろい空間を越え
山やまを登り
海や大洋をよぎり

つっけんどんな役人どもをおしわけて
みずから道を切りひらきながら
すべての国境を越え
官憲の眼をかいくぐり
密輸の小道を通って

幹線道路をゆく
数千の人たち
市民戦争と呼ばれる
戦争にふみにじられた
なんにもない貧しい人民に
いつまでも
手をかしにやってきた人たち

「必要とあらば
スペイン人の半分を銃殺させよう」
フランコ将軍はこう言ってのけた

数千人でやってきた人たち
栄光にみちた人たちではなく何んにもないしがない人たち

名声を求める者ではなく
金をせがむ者でもなく
計算ずくの者でもなく

戦士ではなく闘士
自由のためには死をも怖れない
そうして拳を高く拳げ
五本の指で告げるのだ
平和な世界への共同の希望を

若き日に革命を夢みながら
老いの日に不幸を終らせようとした反抗者たち

かれらの手は自分の道具しか知らなかった
工場の道具と畑の道具しか
かれらはただ武器を求めていた

傲慢や侮蔑とたたかいながら
狂暴なやからに面とむかって
戦線でもよし
砲火にもよし
突撃にも襲撃にもよし
戦略にもよし
戦略がなくともよし
徹底的な防戦にもよし
そこ 生と死との名誉が
溶けあっているところで

陰険な謀略の逆光に抗して
みんなが不気味な盲目となるような流れに抗して
すべての臆病なやからの
死の策謀に抗して
つつましやかにきっぱりとした勇気をみせた「旅団」よ

おお はっきりとものを見とおした「旅団」よ
きみたちはやってきた
戦争の化け物どもの行手をはばむため
挑発者どもに立ち向かうため
できるものなら
不吉な火の粉を
世界じゅうにひろがる未来の大火を
おりよく消しさるため

おお はっきりと見とおした人たちよ
敗けた奴はいつもまちがっている
というのは から威張りするやつらの口の中だけのこと
つかの間 勝った奴らの気休めのおしゃべり
しかし正しかったのはきみたちだ
万難を排して
とてつもない犯罪の前に立ちはだかったきみたちだ

きみたちは
きみたちだった
はっきりとした見とおしと理性よ
未来はやがて
ああ 遅すぎたが
きみたちの正しかったことを認めた

<ジャック・ゴーシュロン詩集「不寝番」2003.6>

*今月2日、スペイン内戦開始75周年を記念してロンドンで「国際旅団」英国人志願兵の追悼式典が開かれた、と今日の「赤旗」国際欄で報じています。テムズ川沿いの公園にある国際旅団記念碑の前で花輪を供え、連帯の歌を歌いました。存命している2人の元志願兵が参加して歓迎されました。英国からは約4000人が「国際旅団」に参加したことが先月、英国政府によって明らかにされたということです。
*ラファエル・アルベルティも「国際義勇旅団に」という詩で国際旅団の義勇兵をうたっています。