憲法擁護・民主主義

ここでは、「憲法擁護・民主主義」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


おいらも愛する おいらの祖国を
                                大島博光

おいらも愛する おいらの祖国を
おのれの生まれた 母なる国を
野と川と山の 美しいこの国を

祖国(くに)を愛する 市民として
臣民ではなく 人民として
奴隷ではなく 自由人として

天皇の時代の 忠君愛国は
もうむかしのことだ あんな悪夢は
二度と見たくない あんな圧制は

侵略戦争を 事とした国
人民を戦争へ 駆りたてた国
人民を奴隷にした 「神の国」

いまや 憲法は変って 主権在民だ
いまや 国民が 国の主人公なのだ
人民のたたかいが かちとったのだ

それはまた 戦争放棄の 憲法
軍隊をもたない という憲法
世界に誇るべき 平和憲法

お偉方は そのように 舵をとらない
国民の方には 一向に 眼をくれない
もっぱら 独占資本にしか 眼を向けない

しかも 憲法にそむいて 軍隊をつくる
国民与論に そむいて 戦争法をつくる
さらに 平和憲法を 改悪しようとする

基地では 少女が犯され 辱められ
民家に 火を放たれ 焼き払われ
首長に 「ばかったれ」 が浴びせられ

怒り叫ぶ 沖縄の人民の声に聞け
外国の兵隊は みんな 出てゆけ
基地を返して さっさと 出てゆけ

祖国に 暗い影が しのびよるとき
国民の運命が 問われるとき
国民の未来もが あやぶまれるとき

詩人の 国民感情も 呼びさまされる
詩人もまた 国民として 声をあげる
そのことあげは 国民詩と 呼ばれる

(自筆原稿 2002年頃)

街頭行動
アルピジェラ「MCTSAの街頭行動:拷問反対」1980年代後半



いつか行ったけもの道


いつか行ったけもの道

 (『赤旗』1992年7月21日)
[いつか行ったけもの道──PKO法に反対する]の続きを読む
侵略的な圧政の体制をバクロ

『天皇をどうみる 111人の直言』を読む   大島博光

 このところの天皇・天皇制美化キャンペーンの異常さは目にあまる。マスコミによるⅩデー準備が取沙汰され、近くは全国高校野球大会で前例を破って、天皇の孫の浩宮が始球式をおこなった……

 こういう状況で、『天皇をどうみる──111人の直言』が全国革新懇によって刊行されたのは時宜にかなって意義深い。
 戦争を体験した世代の証言者たちの多くは、息子や夫を戦争で殺された肉親たちの嘆きをとおして、あるいはまた、兵隊として軍隊生活を送った体験をとおして、天皇制軍国主義の残酷な正体をあばいている。
 また治安維持法をふりかざして、人民を虫けらのように弾圧し、虐殺した天皇制の暗部をあばいたものもある。
 また多くの宗教家たちは、天皇制がいかに多くの宗派を弾圧し、信仰の自由、思想良心の自由を奪ったかを証言している。

 そして天皇制ファシズムは天皇の名において戦争を始め、天皇の名において赤紙一枚で国民を戦争と死に駆りたてたのだから、天皇の戦争責任は逃れようもなく明らかである。この点でも証言は一致している。
 これらの証言はすべて、天皇・天皇制が侵略的苛酷な圧制の体制であったことをバクロしている。そのためにあらゆる不合理な仕掛、装置がでっちあげられた。それによって国民の人間としての自由は奪いとられ、人間性をふみにじられた。こういう天皇制は民主主義と無縁のものとなり、異質のものとならざるをえない。そこからして「天皇制を廃止しないかぎり、日本の民主化は決して実現できない」(南博氏)し、「日本国民が人間として自由になるためには、どうしても天皇と天皇制をなくさねばならない」(塩田庄兵衛氏)のである。

 多くの証言者はまた小学校における儀式での、校長の教育勅語「奉読」、皇居遥拝、「御真影奉安殿」にたいする礼拝の強制などを語っている。不合理なものを信じこませるために、子どもたちの柔かい頭脳に、この不合理なものをたたきこんだのである。子どもたちが大きくなって軍隊に入れば、この天皇崇拝の野蛮な教育はさらにエスカレートした。こんにちの教育「審議会」の目標も、東郷平八郎の教科書への登場も、ふたたびこの反動教育の道を復活させるものにほかならない。
 このような軍国主義教育の影響からの転機について、高野彬氏は語る。「転機になったのは……治安維持法の兇暴な弾圧に屈せず不屈にたたかった人びとの存在を知ったときでした。」また国宗直氏も「〈軍国少年〉の転身」について語っている。「あの暗黒の時代に一貫して戦争に反対していた人たちがいた……共産主義者といわれる人たちの生き方に新しい時代の灯を見いだす思いでした」

 また多くの証言者が、天皇・天皇制を利用する勢力について言及している。
そこにはアメリカがあり、日本独占資本がいる。天皇・天皇制は「二十二個師団分に相当する」と言って彼らは、その人民支配の効用をみとめている。「彼ら(反動勢力)のかつぐ御輿(おみこし)はいつも天皇である。マスコミがその提燈持ちをする」(作間謙二郎氏)のである。
 王制を倒し、「自由・平等・友愛」の人権を宣言したフランス大革命は、来年で二〇〇周年を迎える。それとは逆に、およそ一〇〇年おくれて、絶対的天皇制は創始された。それは日本人民にとって、「皇室国家に生まれた喜びと誇り」どころか、はてしない不幸・悲惨であった。まさに諸悪はここに発したのである。
        (詩人)
 (『天皇をどうみる──111人の直言』は全国革新憩〈☎03-291-8421〉刊、一〇〇〇円)

<『赤旗』1998年9月11日>

『天皇をどうみる 111人の直言』

亡者ども


(『大島博光全詩集』、『赤旗』1985年9月22日)
ならず者考
ならず者考

(『稜線』N0.69夏 1999年7月)
風刺詩について
              (アラゴン「いかさまのペてん師ども」解説)

 こんどのロッキード疑獄事件は、日本支配層の怖るべき腐敗ぶりを、全世界のまえにさらけ出しました。そして広汎な国民のあいだから、かつてない怒りの声、憤激の叫びがあがり、それは連日のように新聞の投書欄を埋めています。また国民の怒りは、詩、川柳、狂歌、落首、落語、かえ歌、あるいは慢画など、いろいろな形式をとおして表現され、「黒いピーナツを喰った政府高官」にたいする痛感な風刺を生みだしています。まさに、「風刺の季節」といわれるゆえんです。この風刺という武器によって、さらに痛烈に事件の本質をあばきだし、「黒い政府高官」の正体を白日のもとにひきずり出したいものです。詩における風刺といえば、去年亡くなった壷井繁治の「頭の中の兵隊」「勲章」などのすぐれた風刺詩を思い出さずにはいられません。あの特高政治がのさばっていた暗黒の時代に、これらの詩は、日本の軍国主義・ファシズムの狂気、その非人間性を忘れがたいイメージをとおしてみごとに批判し、嘲笑しているのです。いまこそこの伝統をうけつぎ、発展させる時です。
 ところで、こんどのロッキード疑獄事件はいくつもの重大な問題を、あらためて露わにしました。そのひとつに戦争責任追及の問題があります。ひろく知られるように、日本における戦争責任の追及は、連合国による軍事裁判と、アメリカ占領軍による公職追放とによって処理されてしまいました。こうしてA級戦犯──れっきとしたファシストどもが戦後の日本に堂堂と帰り咲いたばかりでなく、そのあるものは総理大臣ともなり、そのあるものはわが国の政権を左石するほどの黒幕となり、こんどの疑獄の主役をも演じているのです。こうしてみると、ロッキード疑獄という黒い霧のなかに、ファシズムの影が黒ぐろとうごめいているのを見てとらずにはいられません。まして、チリのアジェンデ人民政府を謀略と暴力によって打ち倒したのはアメリカの多国籍企業I・T・TとC・I・Aであることが暴露されたこんにち、ロッキード疑獄の暗い奥にも、国際ファシズムの影がまつわりついているにちがいありません。そしてわたしはあらためて、フランスの歴史家マックス・ポル・フーシェが、一九七四年、レジスタンスにふれて書いた文章を思い出さずにはいられません。
 「……レジスタンスは、歴史にぞくするものでもなければ、すぎさった過去のものでもなければ、消えさったものでもない。……ヒットラーの、ムッソリーニの、およそその同類のファシズムは、苛酷な闘争と多くの犠牲のおかげで打ち倒された。しかし、ファシズムそのものは死にはしない。ファシズムという野獣には、生まれかわる怖るべき力がある。この野獣を生き返えらせるもの、すなわち、大衆からの搾取、暴力ヘの嗜好、正義と自由への憎悪──これらのものがこんにち依然として世界にのさばっているからである。
 この文章をかいている時にも、人民のチリは軍事政権によって血ぬられており、ギリシャでは学生たちが銃弾のもとにたおれ、スペインはあいかわらず圧制のもとにある。見たまえ、レジスタンスはきのうのものであったように、こんにちのものである。……それはファシズムへの闘争をよびかけている。青年よ、それはとりわけきみたちによびかけている。なぜなら、きみたちの幸福、きみたちの運命は、ファシズムとのたたかいにかかっているからである。」

 さて、ここに訳出したアラゴンの詩は、一九四三年、レジスタンスのさいちゅうに書かれたもので、「グレヴァン蝋人形館」というおよそ五七〇行におよぶ長大な風刺詩の第三章です。一九四三年というのは、ナチス・ドイツ軍の暴虐・虐殺がその極に達したときであると同時に、フランス人民と連合軍の側に勝利の希望がたしかなものとなりつつあったときです。この詩のなかで、アラゴンは、ヒットラーと協力し、そのかいらいとなったヴィシー政権のペタンやラヴァル一味を、蝋人形館行きのロボット人形として、痛烈に風刺しているのです。

 第二章では、
  亡者 亡者 亡者ども
 ここはヴィシー・大グリル
 「祖国」の肉の大安売り 生肉 焼肉 よりどりみどり

 とヴィシー政権の売国ぶり、裏切りぶりをあばき出しているのです。この針のような風刺、「黒いユーモア」において、アラゴンはユゴーの「懲罰詩集」の伝統をうけつぎ発展させているのです。
 わたしはこの詩を訳しながら、この詩のなかのペタンやラヴァルの像のうえに、「黒いピーナツを喰った政府高官たち」の像を重ねてみないわけにはいきませんでした。そして、ファシストどもの正体が、洋の東西をとわず、瓜二つに似ているのには驚くばかりです。なおアラゴンは、この詩を「怒れるフランス人」という署名で発表したのでした。
                (大島博光)  

(『赤旗』1976.4.4)

 一九九〇年の神秘劇
                   大島博光

二・五メートルの高御座(たかみくら)の高みで
「象徴」が ふたたび神となる
主権在民の 憲法をふみつけて

二・五メートルの高みの その下で
奴隷がしらが 万歳を三唱する
むかしの戦争の 合図のように

時代錯誤の 舞台装置や衣裳で
時代錯誤の 神秘劇茶番劇
膨大な人民の血税を濫費して

束帯黄櫨染御袍(そくたいこうぜんのごほう)や十二単(じゅうにひとえ)は
博物館の 陳列窓にこそふさわしい
荒唐無稽な 神話といっしょに

天皇制ファシズムをなつかしむやからが
むかしの夢を またぞろ夢みる
歴史から 何ひとつ学びとらずに

いったい 何を防ごうというのか
三七〇〇〇の警官たちの壁で
人民の 怨嗟の声を恐れてか

だが神話 神秘 まやかしをつらぬいて
人民はもう はっきりと見抜いている
天皇制のもとに 真の自由はないことを

天皇制のもとにあるのは 奴隷だということを

          一九九〇年十一月

(『狼煙』1号 1990年12月)


 憲法をふみにじる者たち
                       大島博光

かれらは 野合して多数派をつくり
悪政悪法をごりおしにおし通す

おれたちがパンを! と叫ぶとき
かれらは消費税の石を投げつけてくる

おれたちが 職場を! と叫ぶとき
かれらは 首切りを投げつけてくる

おれたちが 自由の歌を求めているのに
かれらはまたも奴隷の歌をおしつける

おれたちが 平和の旗を振ってるのに
かれらはまたも侵略の旗をおし立てる

外国の言いなりに外国の戦争に追従する
国と国民を売り渡す戦争法さえ押し通す

戦争放棄と国民主権を掲げた日本国憲法に
かれらはすでにそむいてふみにじっている

いまやかれらはこの憲法を破り棄てて
その黒い野望のままに改悪しようと企む

そんな歴史の逆行をゆるしてはならない
おれたちはすばらしい日本国憲法を死守する

それは平和・国民主権・生の根源だから

(「詩人会議」二〇〇〇年十一月臨時増刊号『詩集 日本国憲法とともに』)
                        

六月三日付のお手紙拝誦 天の橋立に旅行されたよし 何よりです 天下の名所名跡を訪れるのも人生のよろこびのひとつです

考えれば考えるほど いまはそら怖ろしい怪物がうごめいていて それがいつ現実のものとなるかわからない しかもいつか現実に現実のものとなって 言語に絶する害悪災難を国と人民におしつけずにはいない そういう種類のそら怖ろしい怪物です その名は有事法制 しかもこんな怖ろしいものが みんながワールド・サッカーなどに熱狂しているどさくさにまぎれて 議会を通過するかも知れないのです
この事態にたいする詩人の任務は何か と自ら尋ねるとき このような状況を適格に詩のことばで捉えて 詩のかたちにして この怪物の正体を白日のもとにさらけ出してやらねばならないのに 自分の詩の力の弱さを感じとらずにはいられないのです。このようなときにこそ、あの不純な詩 非純粋詩 悪趣味の詩が力を発揮する時なのです だから勇気をふるって この詩にとりくまねば と自らをはげましています

 いま わが国では この国では
 そら怖ろしい怪物がうごめいている
 そら怖ろしい悪企(わるだく)みがうろついている
 
 この怪物が議会から解き放たれたら
 この国はまた軍国主義ファシズム
 ぺてん師どもによる無血クーデター

 この怪物が野に解き放たれれば
 あのむかしの真昼の暗黒がやってくる
 深夜の通行人の時代がやってくる

 また口には猿ぐつわ 目には目隠し
 夜ひる犬どもが街をうろつきまわる
 叫ぶ人は引っ捕らえられぶち込まれる

 そして人民はまた奴隷の身に落とされる
 そして人民はまた羊の群と化して
 地獄のような奈落へと追い落とされる・・・

とにかくわたしたちは大きな歴史の曲がり角に立っているわけです どのみちよい方向には曲がらないでしょう それでも 新聞記事でしか報道されないような状況を なんとか詩のかたちに捉えてゆくほかはありません それがレアリスト詩人の任務です ゴーシュロンのいう不純な詩 非純粋詩の出番です こんな危険を前にして なお小さな自我の内面などを歌ってすましているとすれば それはなんと人間離れのした 非人間的なことでしょう・・・
 お元気を祈ります
  六月十日─十二日
                    大島博光
安西良子様


*安西良子さんは晩年の博光と書簡によって交流した詩の愛好家。その往復書簡は100通を超えるという(重田暁輝氏<大島博光と雑誌「同時代」>『狼煙』74号)。
この手紙は2002年、小泉内閣による有事法制制定の動きの際に書かれたと見られます。この年、ワールドカップが日本と韓国で共同開催。この手紙の鳴らす警鐘は、今、安倍政権が強行しようとしている集団的自衛権行使容認の解釈改憲の動きを射程に収めています。時あたかもワールドカップブラジル大会を目前にして、本当に大事なことを忘れさせようとしている様なテレビの報道ぶりも。


 いつか行った けもの道 ─PKO法案に反対する

                  大島博光

いくら 羊の皮をかぶってみせようとも
狼は その鋭い牙をかくすことはできない

いくら 鳩の羽根をはおってみせようと
鷹は その鋭い爪をかくすことはできない

狼は言う 鋭い牙は牙でない 国際貢献だと
鷹は言う 鋭い爪は爪ではない 平和協力だと

それならば 鳩の憲法をふみにじってまで
なぜ 狼の道を急いでごり押しするのか?

狼は いつか行ったけもの道が忘れられない
鷹は いつか飛んだ空の道が忘れられない

だが アジアの羊 鳩 雀たちは忘れない
かつて その鋭い牙や爪に血ぬられた痛みを

かつてそれは 日本帝国主義と呼ばれた
かつてそれは 日本ファシズムと呼ばれた

いくらしくじっても失敗しても 懲りずに
狼はまた あのけもの道を行こうというのだ

だが 駆りだされて血を流すのは若者たちだ
またも 未来を奪いとられるのは若者たちだ

いつでも 羊の皮や化けの皮はかなぐり捨てる
いつでも 鳩の羽根や鳩の憲法は投げ捨てる

そして海の向うの 虎や鷲どもの言いなりに
大量虐殺や血の海に 賭けるのは許されない

平和や青空には 利権も勲章もないといって
再び 戦争に賭けるものに未来はないだろう

             一九九二年七月

    (『赤旗』1992.7.21)

 「神の国」考
                   大島博光

またしても お偉方の口から ふと
こぼれ落ちる「神の国」
つい口がすべったのではない
内から溢れるものがこぼれ落ちたのだ

お偉方は 郷愁のように なつかしげに
「神の国」をバラ色にほのめかしてみせる
教育勅語とか 徴兵制とか 治安維持法とか
白い馬にまたがった現人神とか
そんな「神の国」の仕掛けが夢なのだ
人民なんか また奴隷のようにあやつればいい
「神の国」はすばらしかった……

わたしはその「神の国」で青春を過した
わたしもその「神の国」を思い描いてみよう

その頃も ひどく不景気で 息苦しかった
街には 失業者が溢れていた
学校を出ても 働きぐちはなかった
東京市電ストライキとか
有名な「太陽のない街」のストライキとか
大きなストライキがぶたれていた
東京市電・高円寺車庫にわたしもビラを撒きに行った
車庫の石畳が油にかぐろく染まっていた

わたしは学生だった
教室で「戦旗」が手渡しに配られた
「神の国」に反抗する「プロレタリア」が踊っていた
小林多喜二や宮本百合子が勇敢に不屈に
プロレタリア文学を高くおし上げていた

プロレタリア演劇をわたしは築地小劇場で観た
眼の前の「母」や「どん底」の舞台の上から
俳優たちがしょっぴかれてゆくのを見た
わたしはまたプロ・キノ*の活動を読売講堂で観た
エクランにはメーデーの行進が映され
その行列のなかから活動家たちが引き抜かれてゆく姿が
映しだされた
私たち観衆は床を踏み鳴らして「赤旗の歌」をうたった
わたしはまた、上野の自治会館でひらかれた
P・M(プロレタリア音楽同盟)の演奏会にも行った
わたしたち溢れた聴衆は公園の植込みの影のなかで
「インターナショナル」をハミングで合唱した

まもなくそれらの「プロレタリア」たちは
ふみつぶされ 牢獄にぶち込まれ
虐殺され 沈黙へと追いやられた
勅令による治安維持法がすべてをなぎ倒した

「神の国」 が牙を剥きだして人民に襲いかかった
街にも学園にも いたるところ
鋭い目をした犬どもがうろついていた
警察のブタ箱は 若者で溢れていた

ひるひなか 街なかで人間がひっ捕えられ
留置場に投げ込まれて なぐりつけられ
からだじゅう紫腫れになぶり殺された
小林多喜二のように 裁判抜きで

きのうまでいっしょに働いていた仲間が
きょうはもうどこにも姿をみせない
生きてるのか死んでるのかわからない
まるで神隠しに遭ったように
人間が忽然と消える そんな時代だった


狂気の軍刀と長靴がのさばっていた
戦争を煽る声がかまびすしくなり
学校の校庭でも軍事教棟をやらせられた
むろん戦争反対を叫んだ者は
みんな牢獄にぶちこまれた

道は掃き清められ 道はひらかれた
侵略戟争への通が
奈落への通が

ひと呼んでこれを天皇制ファシズムという
またひと呼んでこれを「神の国」という

 ※ プロ・キノ──プロレタリア映画同盟

           二〇〇〇年十一月

(『民主文学』2001年2月号)
死の網を張らせてはならない

  ──国家機密法の陰謀に抗して

                           大島博光
  
四十年前 戦争に敗けたとき
みんなが言った だまされていたと
だまされたものがいたのだから
むろん だましたやつらがいたのだ

だが そんな手に乗ってむざむざと
だまされたものばかりではなかった
その暗いたくらみや仕掛けの正体を
はっきり見抜いていた人たちがいた

そのあとに
何がやってくるのか
遠く 見通していた人たちがいた
それは ファシズムと戦争の道だと
叫んで 闘っていた人たちがいた

そこで やつらは しかけたのだ
だまし だまらせる仕掛けや罠を
真実を見ぬく眼には 眼かくしを
怒り 叫ぶ ロには 猿ぐつわ

拳(こぶし)を振りあげる手には 手かせを
光を運んで歩く足には 足かせを
そうして 耳には ふたをする
鳩や雲雀の歌が きこえぬように

そんな罠や 斧を 怖れずに
愛を語り 光を運んだ人たちは
鉄格子のなかへ ぶちこまれ
小林多喜二のように 虐殺された

狂気が 軍刀を手にしてのし歩き
白痴が 知性や理性を足蹴にし
不条理が 堂々とまかりとおる
日は出ていたが 昼も暗かった

息子は戦場で殺されたと 母親は
泣き叫ぶことも できなかった
もう夢みる自由さえも奪われて
人びとはさながら 生きた亡霊

みんなの生を守るためだと言って
やつらはたくさんの人たちを殺した
じぶんの国の人民を てはじめに
侵略したアジアの国の 人びとを

その 血のしたたる罠と斧は
悪名高い 治安維持法といわれ
また 特別高等警察といわれ
そうして 国防保安法といわれた

やつらの野蛮な野望は敗れさった
なのに やつらはもち出してきた
またしても国家機密法なるものを
むかしのように人民を偽るために

こんな悪法を 通してはならない
こんな とてつもない 死の網を
人民のうえに 張らせてはならない
もう二度と だまされてはならない

(『赤旗』1985年6月17日)
 風刺の季節
       ──ふたたび「国家機密法」に反対する


いま 怒りがこの列島に 渦巻くとき
詩人にとって それは 風刺の季節だ

あくどい敵の悪業悪政に 風刺の羽根をつけて
みんなの眼に見えるように 飛ばしてやるときだ

詩は 神秘や永遠を 風や影をうたうものだ
政治や風刺をもちこむな 花園を荒らすな

そんな 屋根のうえの夢遊病者のうわごとや
芸術至上主義者の禁制(タブー)を ぶち破るときだ

アラウカニアの 石つぶてのような 風刺を
ファシストどもに投げつけたネルーダのように

黒い怪物どもの正体を 白日の下にあばき出し
歴史の壁にさらし はりつけにしてやるときだ

とりわけ テレビのブラウン管に姿を現わすや
みんなにスリッパでひっぱたかれる あいつを

あいつは うそとペテンで ひとをだまくらかし
三〇四の席をかすめとって おごりたかぶり

あのおしゃべり野郎*は みずから本音を吐きちらし
その黒い手の内を 世界のまえにさらけ出す

アメリカには 黒い羊や褐色の羊がいるから
知的水準は やはり比較的に 低いものだ・・・

おれたちは黄色いが 単一民族で 優秀だ
優秀な狼は そこらの羊を食う権利がある・・・

つい あのヒットラー狼の口まねが出てしまう
それが 舌足らずの 失言などであるものか

そうしてあいつは 腹黒い野望をおし通すために
でっかい網を 人民の上に掛けようというのだ

勝手放題にふるまって 反対する奴をひっ捕らえよう
狼が 森のなかに罠をしかけようというのだ

また 犬どもが 嗅ぎまわりうろつきまわり
とつぜん 家のまえに自動車(くるま)がとまったり

でくの坊や棍棒や ピストルをのさばらせて
国じゅうを牢獄に 地獄に変えようというのだ

もしも 日本の国家が あいつの言うような
まやかしのアイデンティティなどをもつなら

人民のひとりひとりが 生きた人間としての
真のアイデンティティを奪いとられるだろう

そうして「象徴」をまた 神にまつりあげて
子供だましの神話や不条理に土下座させて

またしても 春の蕾のような 若者たちを
戦争へ 核戦争へ 駆り出そうというのだ

海の向うの虎の威にすりよって 手先となって
核戦略やSDIのお先棒をかつごうというのだ

あいつらには 悪知恵はあっても 理性がない
利権や利潤に眼がくらんで 未来が見えない

盲目の狼が 目かくしした羊の群を駆って
ふたたび 奈落の闇へ 急ごうというのだ

それはまた 盧溝橋 ノモンハンへと通ずる道だ
それはまた ヒロシマ・ナガサキへと通ずる道だ

狼の赤ズキンやペテンに だまされてはならない
あいつの隠した 牙や爪を 見抜かねばならない

もう 二度と 羊の群などになってはならない
敵の正体を見破って立ち上がるものこそ 人民だ

 注* 「おしゃべり野郎」──彼の仲間のひとりが彼をこう呼んだのである

(『民主文学』1987年3月号、『冬の歌』)

      ◇      ◇      ◇

1985年、中曽根内閣が国会に提出した国家機密法(スパイ防止法)は世論の反対により廃案となった。天野祐吉が「国家機密法とは何か」と題する講演で「スパイ防止法はとおらなくても、自民党は手を替え品を替えてくる、日本を軍事大国にしていく動きだ」と話した(信濃毎日新聞コラム「斜面」10月26日)。その通りのことを今回、安倍政権は秘密保護法の提出で企てている。「風刺の季節」が再来した。




あなたがた松川のひとたちを



あなたがた松川のひとたちを


(『角笛』10号 1953年)

真実は勝利する

真実は勝利する

(『アカハタ』1961年8月)