松本隆晴

ここでは、「松本隆晴」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


松本隆晴は詩「水脈」を新領土4巻24号(1939年4月1日)に発表している。同年4月11日に書かれたはがき詩(二)は詩「水脈」を読んで書いた感想のようだ。


水脈



山浦さま
先日はお訪ね下さいましてありがとうございました。
博光が蝋人形のときから親しくしていた詩人・松本隆晴さんの親族の方にお会いできて大変嬉しく思いました。
大著「長野県現代詩史」(かおすの会発行)に松本隆晴さんがたびたび登場していることをお話ししたら、この本を所望されました。かおすの会の柳沢さつきさんに問い合わせたところ、ご自分の一冊しか残っていないとのお返事でした。大事なところをコピーしてお送りしたいと思います。
松本隆晴紹介のホームページを拝見しました。
ぜひ、またお越しください。

山浦さん

博光は戦争末期、酒が手に入らなくなったので苦味チンキを飲んだと言う:

  草にかくれた泉さえ いつか涸れて
  渇きのあまり 苦味チンキを酒に代えて あふった
  (「松本隆晴詩集解説」)

 この時の様子を松本隆晴がくわしく新聞に書いている。行きつけの飲屋のおかみさんから「今夜のこの一本で、家中のお酒は全部終わりました。明日からは店をしめます。」と言われ、遂に来る所まで来てしまったな、との感慨をもって飲んだ最後の酒だったが・・・
   ◇     ◇     ◇
 そんな次第で、心を慰める唯一の頼りの飲み物がなくなって、憂うつな日々を過していた時、郷里の西寺尾へ帰って来た大島博光が、「おい君、苦味チンキがいいそうだよ。それなら薬局で買えるらしいんだ。君行って見つけて来いよ。」と言うのである。これは初耳である。半信半疑で松代の町へ出かけて行って、一軒の薬局で聞くと、ちゃんとあったのである。大瓶を一本買って来て、二人で調べると、日本薬局方で、なんと七〇%のアルコールを含むと書いてある。四倍にしても日本酒より強いではないか。
 二人はコップの中へその暗褐色の液体を少し入れて、水を注いだ。こわごわ口に含むと、そのにがいこと、にがいこと。「これは本来胃の薬だろ。体に良い筈だもの、心配ないよね。」などと言いながら我慢して飲んでいると、舌がバカになって来て、苦味がそれほど感じなくなって来ると共に、忘れていたような、ほのかな酔いが二人の上に出て来たのである。暗い防空電灯の下で、苦味チンキの酒で乾盃しながら、詩を語り、ポール・エリュアールを思い、日本の将来を憂え、このような世界になったことを悲しんだ思い出の、今となってはなんと懐かしいことか。ほろ苦いと言うには余りに苦味の強過ぎる、苦味チンキの残り香が、今もなお、心や体のどこかに隠れているようである。
<「信濃毎日新聞」>

チンキ
 松本隆晴が詩に歌った中将愛星のことを信濃毎日新聞に書いている。彼は肩幅広く背も高く、整ったその顔はギリシャ彫刻に日本人の色をつけたようであったという。二人は「蝋人形」誌上の詩でお互いを認めていたが、初対面したのは西条八十の家で、大島博光が紹介した。意気投合した三人は新宿へくり出して、大ジョッキで乾杯し、光輝ある出会いを祝した。しかし中将愛星は早稲田の学生であった昭和十六年二月十九日に結核のため忽然としてこの世を去ってしまった。早稲田大学の構内には彼の死をいたむ大きな幕が掲げられ、蠟人形には西条八十の哀切極まりない弔辞が載ったという。
   ◇    ◇    ◇    ◇ 
・・・ 会って語った時間は短かかったけれども、その心の触れ合いは深かった。彼は今でも僕の心の中に留まって、僕に語りかけている。「松本さん、また飲もうね」と。またしても僕は人の出会いというものの、神秘なカを思わずにはいられない。中将愛星という名前は、人がその若き日に、より純粋に、より美しく生きようと願う、切なる願望の象徴として僕の中に生き続けているのだ。
 大島博光は、かってアンドレ・ブルトンがその友ジャック・ヴァシエの死に際して贈った哀悼のことばを、そのジャック・ヴァシエの名前の部分を中将愛星という名前に変えて、その死を悼んだ。「世には特に唯弔文のためにのみインク壷の中に咲く花がある。彼は私の友人であった。彼は中将愛星であった」と。大島と僕は、いつも三人で飲んだホールでジョッキを挙げて彼の冥福を祈りながら言ったものだ。「まさしく彼は葦笛よりも美しい男だったね。」
<松本隆晴「思い出の日々 懐かしい人々─中将愛星の死」信濃毎日新聞 1976年>

中将

松本隆晴
<信濃毎日新聞 1976年1月21日>

 松本隆晴は博光との出会いについて、「蝋人形」への詩の投稿を通じて知り合い、連日のようにはがきを交換するようになり、のちには「蝋人形」の編集も手伝ったと信濃毎日新聞に書いています。
   ◇   ◇   ◇
・・・僕は自分の中の子どもが顔を出せば童謡を書き、ロマンティックな幻想が訪れゝば小曲を書いた。小曲というのは西条先生の名づけた詩の一形式で、詩人の人生観や世界観を基にして自分の生命とまともに取組む本格的な詩ではないが、時折胸の中に湧き起こる感慨や、青い空を行く白雲にも似て心の中を去来する甘い夢、故なき人恋しさの思いなどを、さっと淡彩的に処理したようなものである。それは軽やかで明るく、それなりに美しいものであるが、自分をすっかり出し切ったような力強い仕事とは違う。やはり本格的な詩にはかなわない。
 僕の投稿する童謡や小曲は取り上げられても、詩はなかなかうまくいかなかった。僕の作品が蝋人形の詩の欄で最初に活字になったのは<銀の匙(さじ)>という詩である.そのころ僕は疲れていて、絶えず病気の不安があった.自分の詩へ向かう努力と生命の競争のようで、良い詩も書けないうちに死んでしまうのではないかという思いは、耐え難くつらいものだった。そんな心境を詩にしたのである。

 ・・・

 僕はその詩の載っている雑誌を手に持って街頭をさまよい歩いた。それまでの自分とは何となく違う自分がそこにいるというような、急に目の前が明るくなったような、それは言い表せない深い感動である。それは僕が自分の可能性を信じた時であり、ある意味で、僕にとって僕自身との出会いの初めでもあったのだ。僕の進むべき道が、僕の詩のあり方がわかった瞬間でもあった。僕はもりもり書き続けた。
 ある日僕に宛てた一通の封筒が届いた。それは蝋人形社の社用封筒で、差出人は特徴のある書体で大島博光とあった。僕ははっとした。蝋人形にロートレアモンの<マルドロールの歌>を翻訳したり、毎号<季節はずれの放浪>という題名で、フランスにおける超現実主義の誕生とその発展について、極めてユニークな文章を書き綴っている人の名前である。僕はその文と、またその詩に強くひかれていて、その影響も受け初めていたのだ。
 「前略ごめん下さいませ。」で始まるその手紙は、自分が埴科郡西寺尾村(現在長野市)の出身であることを告げ、今度刊行されることになった信州詩人詞華集への参加を誘っているのである。後に知ったことであるが、大島博光は旧制屋代中学から早稲田大学の仏文科にすすみ、在学中からずば抜けたフランス語の力と豊かな詩魂とで知られ、西条八十の門下でも最も注目されていた詩人であった。
 人生における出会いの不思議さはここにもあって、この一通の手紙が機縁となって二人の交友は極めて急速に進み、ほとんど連日のはがき交換は、スーツケースに溢れるほどになったのである。やがて大島が蝋人形の編集者となってから、僕にとって高嶺の花にも等しかったその雑誌の本欄に、毎号僕の詩が載る日がやって来るのであり、更にその編集も手伝うことにもなる。そしてその原稿依頼や入手のための走り使いには、藤村、白秋、河井酔名等の明治、大正時代以来の日本の大詩人に接する機会も与えられるのであるが、それは暫く後の日のことになる。
 僕はこの信州詩人詞華集の誘いに喜んで参加した。この大型の赤い表紙の詞華集は、その装丁を受け持った画家、藤井令太郎が自分の装丁と実物との違いを怒ってそれを切り裂くということもあったけれど、僕にとっては僕の周囲にこれほど多くの詩を書く人がいるという驚きと喜びとを与えてくれた記念すべき出版であった。(まつもと りゅうせい=詩人、長野市篠ノ井東中学校長)

 暗い夜の季節が去ると、詩人の世界もまたがらりと変わる。外部世界の直接的な反映もあらわれれば、この詩人独特のやさしい抒情も調子をかえて現われてくる。詩人はふたたびわかりやすい言葉で語りかける。そのなかでも「夜の果てに」は、この詩集の蝶つがいである。そこでひとつの夜の扉がきしみながら廻る。

 思えば長い夜だった

 かつて私たちは記憶の中に立っていた
 はげしい不安にかられながら
 崩れる壁を支えるように
 互に背中を寄せ合っていた

 「思えば長い夜だった」──という一行には、あの暗い季節をくぐり抜けてきた詩人の深い感慨がこめられている。ここで詩人はみずから「孤独の祝祭」や「彷徨」の詩篇にたいして光をあて、明快な意義づけをあたえ、それらの詩篇を解く鍵を提供している。嵐の夜のなかで、「崩れる壁を支えるように」人間精神だけは守ろうとした姿がそこにある。あの無数のヴァリエーションをもった夜のイメージ、めざめた狂気、醒めた夢遊の背後にかくされていたのは、この人問的なやさしさ、人間的な善意にほかならなかったのである。そこから、つぎのような希望の歌で詩人は呼びかける。

 さまよい歩いた夜の果て
 今や私は立っている
 人工の昼と夜との交差点に
 そして再び呼びかける
 くり返し くり返し
 記憶の中の人々と
 見知らぬ未来の人々とに
 「もっと もっと美しいともし火を」

 「人工の昼と夜との交差点」というのは意味ぶかい。夜のあとに、つづいてやってきたのは、ほんとうの朝ではなく、「人工の昼」なのだ。だから詩人は呼びかける──「もっと もつと美しいともし火を」と。そのともし火は、夜を照しだすと同時に、「見知らぬ未来の人々に」おくる夢をも照しだすであろう。そうして人びとを燃えたたせる火をつくりだすことにこそ、詩人の任務がある。

       *

 松本隆晴よ 古いむかしの友よ
 そうして最後に わたしも歌う

 もうわれらの日も傾いて 思い出せば
 われらの春の日は 暗い日蝕の日日だった
 深い夜の中を われらはさまよい歌った
 孤独と絶望の底にまで 降りて行った

 草にかくれた泉さえ いつか涸れて
 渇きのあまり 苦味チンキ(*)を酒に代えて あふった

 死者の叫びをも 蔽いかくした燈火管制の夜
 息をひそめてくぐり抜けた 長いトンネル

 われらの 悪夢にみちた 夜夜を照らした
 あの火は いったい なんだったのか

 いまや 燃えた火のあとに残った藁灰には
 かつての炎の色も熱さも もうわからない

 わかったのは 希望は絶望よりもすばらしく
 愛は 孤独よりもずっと偉大だということ

 わたしは見た 長い夜のなかの彷徨から
 もどってきたひとりの 孤独な詩人が

 かすみ草のような 愛する女(ひと)にめぐりあい
 優しく しあわせな愛をうたうのを

 そうして未来の人たちに呼びかけるのを
「もっと もっと美しいともし火を」と

 *註 戦時下、酒類も欠乏し、一杯のビールを飲むために、ビヤホールの前に長い行列をつくったものである。やがて配給の洒も少くなり、薬用アルコールや、苦味チンキのようなアルコールをふくんだ薬まで飲むようになった。
                           一九七七年五月

(おわり)

 「彷徨」において、松本隆晴はいよいよ夜の詩人の本領を発揮するにいたる。ここではまた詩的成熟、形式上の高まりが眼につく。詩人の内なる夜と外なる夜とを反映したイメージの洪水は、読む者をただ押し流してしまう。
 
 流れに浮かぶ白い顔
 木立の中の白い顔
 空から下がる白い顔
 腕から下がる白い顔
 顔から下がる白い瀕

 死臭の中に笑いは消え
 木の葉のように太陽は散った
             (「白い顔」)
 
 マックス・エルンストの絵画を想わせるようなこのイメージは、しかしまたなんと予言的であるのだろう。
 この夜の詩人はまた魔術師でもある。それも、言葉の魔術師というような段階を越えて、何か現実のなかに神秘を喚起することもできるような魔術師なのだ。この魔術師はみずからその種明かしの一つを、「暗い季節の思い出」のなかに書いている。
 「そのころ僕はハガキに赤インクで詩を書いて送ったりしていたが、これが問題になった。調べ官は僕にこれは思想の色ではないかと言うのである。僕は青春が内部に沸騰しているので、焔の色が出るのだと言ったが理解してくれそうもなかった……」
 これでみると、調べ官は詩人の魔術にはひっかからなかったらしい。しかし、信じやすいわたしなどは、かれの魔術に手もなくひっかかったものだった。
 その頃のある夏、わたしたちは軽井沢の落葉松林のなかにいた。かれはアッシジの聖フランチェスカのように鷽(うそ)を呼び集めると言って、眼を輝かして何やら呪文めいたことを唱えた。あるいは口笛を吹いたのかも知れない。すると、落葉松林のなかを枝移りして集まってくる鴬の群がわたしの眼に見えるような気がするのであった……。またあるときは、いま林のなかの道で、荷車をひく馬と出会ったら、その馬が笑ったとか、「僕の眼をみるなり、顔をそむけて走り出した」というような話をした。すると、馬の笑いがわたしの眼に見えてきたものである……。そんな話をする時、かれは馬とのコレスボンダンス(交通)を夢みていたのか、あるいは馬に自己を投影していたのか、あるいはわたしを魔術にひっかけるためのつくり話ででもあったのか……。

 噺きに似た悲痛の時
 黒き馬わが眠りの中を行く
             (「彷徨ⅩI」)

 しかし詩人は、詩のなかでは種明かしをしてくれない。だが「黒き馬」はもはや林の中の道をゆく荷馬車の馬でないことだけはたしかである。

 石に咲く花 火の微笑み
 ……
 燃える窓 焔の階段
             (「彷徨Ⅹ」)

 このような心象風景を描いたと思われる雑解なイメージはこの詩集のいたるところにある。それらにおいて詩人は、「言葉も恋をする」という、あのアンドレ・ブルトンの原則を実践しているのである。思わぬ言葉と言葉が恋をし、組み合わされる。そこから突飛なイメージが生まれてくる。そればかりではない。「耳が叫んだ」り、「水の色が鼓膜に映ったり」(「彷捏Ⅸ」)雨が燃えたりする。この視覚や聴覚の意識的な転位、照応、錯乱はまた、ランボオの「見者の美学」の実践といっていいだろう。ランボオはポオル・ドムニにあてた有名な手紙のなかにつぎのように書いた。
 「おれは言いたい、見者であるべきであり、見者になるべきだと。詩人はすべての感覚を永いこと、はげしく、理論的に錯乱させることによって、見者となる。……こうして詩人は偉大な病人、偉大な罪人、偉大な呪われびと──そうして至高の賢者となる。なぜなら、かれは「未知なるもの」に到達するからだ……」
 シュルレアリストたちとともに、松本隆晴もまたこのランボオの伝統をうけついでいるように思われる。この詩人のイメージが難解なのは、それが醒めた狂気の所産であり、醒めた夢遊者の夢想だからである。読者はかれの魔術に──言葉の錬金術の罠にはまって、そのあやしい魅惑のとりことなるか、あるいは例の「調べ官」のように、「理解してくれそうもない」側にまわるか、どちらかになるほかはない。

 すでに述べたように、暗い夜の季節に書かれた「孤独の祝祭」「彷徨」等の詩篇は、当時の戦争をふくめての外部世界を直接的には反映していないように見える。しかし、その全体像をみるとき、それが暗い屈折をとおして、陰画のようにあの夜の時代を反映しているのに気がつく。客観的把握に欠けたシュレルアリスム的手法の限界にもかかわらず、これらの詩篇があの暗い夜の時代のひとつの詩的モニュマンであることはまちがいない。それはまたひとつの「地獄の季節」であるといってもいい。
(つづく)
 中将愛星に贈られた「星は消えても」という詩がある。中将愛星はその頃のわたしたちの仲間のひとりで、若くして死んだ詩人である。

 夜の密林を潜り抜け
 一つの星は消えて行った
 違う夜の中へ
 別な手の中へ
 壁をつたう影のように
 傷ついた言葉のように
 そして焔も最早眼に見えない

 けれども夜は知っている
 聞えない歌のあるように
 見えない焔もあることを
 見えない煩が燃えていることを
 夢に灼かれた眼のように
              (「星は消えても」)

 ここで詩人は、若くして死んだ友のために、ひびきの深い鎮魂歌をうたっていると同時に、くらやみも、死さえも、蔽いかくすことのできぬ詩人の精神をほめたたえている。「聞えない歌」「見えない焔」というような、ちょっとばかし神秘的なことばを用いて、眼に見えぬ世界を見えるものにしようとしている。いたるところで人間精神が否定され、圧し殺されていた時代にあって、このような詩はその暗いひびきにもかかわらず、そのまま人間精神の讃歌となっていたことに、いまにしてわたしは気づくのである。
(つづく)

 思い出せば、昭和十年代の後半、一九三七年頃から一九四五年頃まで、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回っていた。その始めの頃、わたしは、丸善から最後にとどいたエリュアールの詩集 Cours naturel(自然の運行)やLes yeux fertiles(豊かな眼)をふところに入れて、暗い新宿の街をさまよっていたことを思い出す。また、やはりエリュアールの「詩的明白さ」というエッセイに感動して、それを訳出したが、このエッセイほど当時のわたしを鼓舞し、支えてくれたものはなかった。この「詩的明白さ」は、エリュアールが一九三六年六月、ロンドンで行った講演であって、それはつぎのように始まっていた。
 「すべての詩人たちが、ほかの人びとの生活のなかに、共同の生活のなかに、根深くはいり込んでいる、と主張する権利と義務をもつ時がきた・・・」
 このエリュアールの声は、拾頭するファシズムと闘っていたフランス人民戦線の高まりのこだまであった。したがって、エリュアールの声をとおして、わたしたちはそれと知らずと、遠いフランス人民戦線から吹いてきた風のそよぎに触れていたのだ。しかしそのような政治的側面や事情を知るすべは、当時のわたしたちにはもうなかった・・・
 戦争が激しくなるとともに、「黒ぶどうの瞳(め)」が火に灼かれ、花のような微笑みが野からも街角からも消えて行った。そうして、逮捕され投獄された仲間たちもいた。戦線に駆りだされて、大陸で殺されたり、むなしく海の底に沈められた友もいた。この「暗い季節」のなかで、わたしは松本隆晴とともに共通の青春を過したのだった。あの時代の闇の探さ、夜の暗さはとても筆舌につくせるものではない。この詩人じしんの「思い出」に聞こう。
 「太平洋戦争突入の十二月八日の前後には多くの同人がそれぞれの在所で警察に呼ばれて、恐らく予備拘束の名であったろうが、時局についての考え方、詩作の態度等について追求され、あげ句に、『お前たちの考えている世界などは、今や全く変わったものになっているんだ。よく目を明けて見てみろ』ということばで釈放されて出て来れば、街には軍艦マーチが流れているという次第であった。
 ……『星林』は……高い詩精神と抵抗の意志に満ちていた美しい詩誌であった。それに関係する詩人としてまず高橋玄一郎氏がリアンの関係で投獄されると、関係者はほとんど警察や裁判所に呼ばれて、厳重な取り調べを受けた。……やがて西山克太郎がつかまった。昭和十八年である。……」(「暗い季節の思い出」)
 このような戦争とファシズムの荒れ狂う長い夜のなかで、「魚の誕生」「孤独の祝祭」「彷捏」は書かれたのだった。しかしそこには、戦争や当時の外部世界は直接的にはほとんど描かれていない。侵略戦争を讃美し、戦争に協力するというかたち以外には、発禁、投獄を覚悟せぬかぎり、戦争下の外部世界を書くことはむずかしかったのである。その頃には、日本軍による初期の中国侵略を大胆に反映した、楠田一郎の「黒い歌」などは、もう遠い伝説と化していた。
 こうして松本隆晴をふくめてわたしたちは、戦争とファシズム下の外部世界を直接的に反映するのではなしに、重くのしかかるそのくら闇のなかにおける自我の意識、精神の状態、l'état d' âme だけを歌うようになる・・・それだけでも、詩人として精いっぱい人間的であろうとした姿がそこに見られる。つまり、戦争に協力するよりは、むしろ戦争の直接的な反映を拒否した方がいい、ということである。

 夜の中に投げ出された一つの鏡
 もはや何ものをも映すことなく
 何ものにも照らされることなく
 それは乾いた泉のように
 暗い静けさの底に横たわる

 凍れる鏡
 割れたる鏡
 ・・・・
 無用なる宝よ
 鏡は唯夢見ている
 悲哀の底なる空虚の美を
           (「鏡」)

 「夜の中に投げ出された」詩人は、外部世界を反映することなく、ただ「空虚の美」を夢みている。外部世界に眼をとじ、外部世界から「照らされること」のない鏡には、もはや「空虚の美」しか残されていないのであり、「空虚」は「不毛」につながっている。

 不毛の井戸の底
 巻貝の夢は餓え
 失われた季節の風
 白骨の手は掴んでいる 砂漠の闇を
 石に映る虹もなく
 地下水の黒い叫びもなく
 絶望の砂の中
 君はひそかに歌っている
          (「不毛の井戸」)

 「夜の中に投げ出された一つの鏡」とともに、「不毛の井戸の底」は、夜の時代における、─閉ざされた世界における、この詩人の精神状態 l'état d' âme のひとつの典型的な表現となっている。その内質が、孤独、悲哀、絶望、苦悩、不安などに色どられているのは偶然ではない。それらの詩篇において、孤独なモノローグに熱っぽい情熱をかたむけている詩人の姿は、外部世界から栄養がとれずに、おのれの手足を食いちぎって生きているものの姿にも似ている。いや、くら闇のなかに閉じこめられたからこそ、詩人の精神は内なる夜のなかでいっそう激しく燃えたのであろう。
(つづく)
松本隆晴詩集 解説
                          大島博光

 人間の生成が系統発生をくり返すように、詩人はその生成において文学史をくりかえすといわれる。詩人松本隆晴の業績においても、文学史的というほどではないにしても、きわだった詩法上の変身・変転がみられる。この変身・変転とともに、そのなかで詩的技法の深化・円熟の過程が進行する。
 松本隆晴は「玩具の笛」によって出発している。ここには、やさしい恋の歌があり、リリカルな歌があり、ときにはちょっと古めかしい調子の歌もある。ここには、日本の明治・大正期の抒情詩の系統が息づいているといっていい。しかしここにはまた、「野ぶどう」「微笑み」のような、この詩人独特の新しい抒情の方向をしめす詩もある。

 野ぶどうの実を採って来て
 たべろと言ったその子は
 丁度野ぶどうのような瞳(め)をしていた
 
 野ぶどうの実は酸っぱくて
 舌がひりひりと痛かった
 それでも美味しいと言ってたべたら
 野ぶどうのような瞳が笑った
 
 詩人は、素朴な少女の美しさをうたって、もはや間然するところがない。詩人はここで、ひとりの少女をうたい、外部世界とふれあい、おのれの感動を率直にうたうことで、古い形式をも脱けだし、新しい自由な形式を獲得している。外部世界とのふれあいそのものを歌うことで、詩もみずみずしく息づいている。
 「微笑み」もすぐれた美しい作品で、わたしの愛する詩である。

 私は見つけた
 麦畑の中に咲いていた
 お前の微笑みを
 輝く黒い髪の毛とその瞳を
 緑の畝の間で
 それらは悲しく歌っていた
 迷い子の雲雀のように

 ・・・・・・
 空は晴れていた
 道には蛇苺の花が咲いていた
 私の心は振り返り 振り返り
 麦の穂波の中を探していた
 私を傷つけたもののなつかしさを

 野の少女は、麦畑のなかの「雲雀の子」のように美しく歌われている。そうして咲いた花のような微笑みは、感じやすい詩人の心を傷つけ、詩人は「傷つけたもののなつかしさ」を、いつまでも振り返っている。こうしてみごとなイメージと捕えがたい感動の微妙さの定着とによって、野の中のひとつの瞬間は、この詩のなかで永遠を獲得している。

 けれども、「夜の魚族」「孤独の祝祭」「彷捏」などの詩においては、詩の世界も調子もがらりと変ってしまう。外部世界とのふれあいを歌ったり、外部世界をじかに反映するような詩はほとんど見あたらない。ほとんどの詩が、言葉と言葉の組みあわせのかもし出すイメージの羅列で構成されていて、きわめて難解になる。感情における自然主義から自意識におけるロマンティズムへの移行が始まる。
 この変身・変転は、一九三八年(昭和十三年)、詩人が「新領土」のグループに加盟したことと、戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回り始めていたその頃の時代背景とによって説明されるだろう。「新領土」にはその頃、シュルレアリスムや、ダダ的な傾向や、形式主義的なモダニズムなどが共存していた。そうして松本隆晴は多分にシュルレアリスムの傾向を帯びることになる・・・。

(つづく)
松本隆晴詩集
<「松本隆晴詩集」 1977.8>