フランス革命

ここでは、「フランス革命」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ダントン

そしてダントンより二ヵ月のち

ロベスピエールも処刑された


フランス革命と『ダントン』
                            大島博光

 ダントンといえば、パリのサン・ジェルマン大通りの、オデオン四辻のあたりに立っているダントンの銅像をわたしは思い出す。その銅像の東側、大通りから折れて左に伸びる通りはダントン街である。やはりそのあたりにダントンは住んでいたのかも知れない。数年前の夏、わたしはよくその銅像の前のカフェ・テラスに坐って、サーベルを杖にして立っている軍人姿のダントンの、もう緑青をふいた古い銅像をぼんやりと挑めていた。彼がフランス革命の偉人な指導者ぐらいのことはぼんやり知っていたが、そのときはそれと意識することもなく眺めていたのだった……。
 こんど、アンジェイ・ワイダ監督の映画『ダントン』を見たおかげで、その銅像のダントンが血と肉をもった人間として、しかも卒直におのれをおっぴろげた、人の好い人間として、観ることができた。いわば、生きた人間として、歴史のなかから、ダントンは現われてきたのだ。
 むろん、ダントンは歴史においてもこの映画においてもロベスピエールと対(つい)になって登場してくる。この映画は、この二人の革命家の対立、その思想、性格、気質の対照をとおして、フランス革命の崩壊してゆく最後の段階とその過程をきわめてドラマティクに描いてみせる。それも、その劇的な画面の流れのなかに、観る者をひきこんで、息もつかせずに一気に見させるような出来栄えである。少くともわたしはそのようにして見た。

その時ダントンは愛欲に夢中だった
 原作はスタニスワヴァ・プシビシェフスカの『ダントン事件』ということであるが、この映画に描かれている内容は、その細部においても、ミシュレの『フランス革命史』の記述などとおおよそ一致しているようである。したがって歴史映画といってもいい。
 最初のシーンはたいへん美しくて印象的だ。二頭立ての馬車がパリ郊外の、雨に煙るマロニエの並木道の石畳の上を走ってくる。田舎に引っこんでいたダントンが新妻とともにパリに出てきたのである。馬車はやがて都心にはいり、革命広場のギロチン台をぐるっと廻ってゆく。ギロチンには不気味な黒布がかぶせてあって、その黒布のあいだから、ギロチンの刃がまた不気味な光りを放っている。──この導入部が早くもダントンの運命を暗示し予告している。やがて、とある通りに停った馬車の中から、ジェラール・ドパデューふんするダントンが、大柄で人なつっこい顔を乗り出して、「ダントン万歳!」を叫ぶ民衆に手を振って答える。この光景をその通りの二階の窓から、ヴォイチェフ・プショニャックふんする、いかにも神経質らしいロベスピエールが、嫉妬に燃える眼で見おろしている……。馬車のなかのダントンのそばには、若妻ルイズ・ジェリの顔も、雨のしずくのたまった窓越しにいっそう美しく見える。二人が仲むつまじく顔を見せるこの場面は、しかし深い暗示を秘めている。一時、地方に引退していたダントンについて、ミシュレは書いている。
 「……革命に倦んだのだともいえるが、それだけではない。ダントンは愛情とそして肉欲の満足に精力をさいていたのだ。……ダントンは、十六歳のかわいいルイズ・ジェリにたちまち身も心も奪われた……ライオンは牛に、いや猪(いのしし)に、猛烈な肉欲にさいなまれる猪になりさがったのだ。政治に熱心でなくなった。陰謀をたくらんでいる、と責められて、ダントンは答える。
 《このおれが!できぬ相談だ……毎晩毎晩、愛に身を焼かれている男に、何ができると思うんだね》
 この愛は死を招くこととなろう」(中央公論社、ミシュレ『フランス革命史』桑原武夫他訳)

かれらはフランスの首を切ったのだ
 ダントンの協調政策に協力するデムーランの「ヴュー・コルドリエ」紙の印刷所が、ロベスピエール一派によって襲撃される。ダントン一派への攻撃開始である。最後の和解をはかるために試みられた、ダントンとロベスピエールの会見の場面ほど、この二人の対照的な個性をあざやかに演出して見せているものはない。それは二人の人間の存在感、内面性をもって描かれている。この二人の人間像をミシュレはこう書いている。
 「ダントンとロベスピエールは、革命の二つの電極、陽極と陰極だった。二つ兼ねそなわってこそ、均衡は保たれるのだ……
 ロベスピエールは、悪と罰への憎悪において、自分の敵を公共の敵と思いこみ、殺さずにはおかなかった。
 そしてダントンは、その寛容さから、憎むことのできぬ性格から、どんなものでも救おうとするあまり、自分の敵のみならず、おそらく自由の敵までも許したことだろう。彼は悪を憎みうるほど純粋ではなかったのだ」
 この場面で、激昂したダントンはロベスピエールに言う。「きみは民衆のことなど何もわかりっこないんだ、何も!」「きみは女と寝たこともないらしい」──しかしロベスピエールは冷静で冷徹で、落ちつきはらっている。その生活もつつましく、汚職などは知らなかった。
 おなじような和解の試みが、ロベスピエールとデムーランのあいだで行われるが、デムーランはダントンヘの友情のために、ロベスピエールには口もきかない。こうした人間模様のなかで、革命内部の分裂と恐怖政治とが、まるで敗北の運命をたどるように、のっぴきならぬかたちで進行する。
 三月三十日の公安委員会で、ロベスピエールの弟子であるサン・ジュストがダントン逮捕を提案し、その告訴状を読む。委員たちは頭を垂れて聞き入る。ろうそくは燃えつき、灯は消えかかっている。みんなの眼がロベスピエールにそそがれる。「きみたちは第一級の愛国者を皆殺しにするつもりなのか」と、苦悩を浮べて彼は叫ぶ。われにかえったように、ビヨが賛成の署名をもとめ、まっさきに署名する。全員がこれにつづく。ロベスピエールは最後から二番目に署名する……。この場面を見ると、ダントンをなきものにしょうとする主唱者は、サン・ジュストとビヨのように見える。
 ダントンの逮捕につづく、革命裁判におけるダントンの裁判闘争の場面もきわめてドラマティックだ。ダントンはその雄弁をふるって、傍聴席をうずめた群衆に語りかける。「わたしが告発されたのは、わたしが真実を言うからだ。わたしが人民の正義の生みの親だからだ。わたしのもう一つの罪は、わたしのもっている人民の人気だ。フランス人民よ、裁くのはきみたちだ……」
 いよいよダントンが、革命広場のギロチン台上にのぼる場面は、恐怖政治の怖ろしさを描いてあまりあるものだ。不気味な巨大な刃が落下すると、台の下に、どっとどす赤い血が流れ落ち、首は籠の中に入れられる。巨大な刃にもどす赤い血がしたたり流れている。ギロチンにかけられる前、ダントンは死刑執行人に言う。
 「わたしの首を人民にみせるがいい。この首にはそれだけの値打ちがあるのだ」
 死刑執行人は言われたとおり、まだ血のしたたるダントンの首を高だかとかかげて、四方の群衆に示す……。怖るべき沈黙の一瞬。
 「彼らはフランスの首を切ったのだ!」とミシュレは書いている。

人民よりも理念に忠実な態度の戯画

 一方、ダントンの処刑によっておのれの勝利と独裁が決定的になったのにもかかわらず、ロベスピエールは熱をだしてベットに横たわり、ダントンの処刑は自分のあやまちだったと後悔し、坤めいている──。「……わたしは狂っている。獣のように眠ることだ……」こういうロベスピエールの前で、小さな少年が姉の命令にしたがって、「人権宣言」の自由、平等、友愛の条文を暗誦する。これがこの映画のフィナーレでもある。じつはこの場面はこれで二度目なのだ。最初は、映画の初めの部分で、この少年が裸で立って、やはり「人権宣言」の条文を暗誦する。まちがえると、前にさし伸ばした手を姉にひっぱたかれる──。初めの方でこういう場面がいきなり出てくるので、はじめはそれが何を意味するのか、わたしにはまったくわからなかった。ところがこのフィナーレの場面を見ると、それが冒頭の方の場面と呼応し合って、そこに託された深い意味がやっとわたしにわかってくるように思われた。あるいは、制作者の意図によって、そういう仕掛けになっているのであろう。つまりこの二つの場面には、ワイダ監督じしんのメッセージが託されているように、わたしには思われる。いたいけない子供に「人権宣言」の諸理念を強制的に暗誦させることによって、ワイダ監督はロベスピエールによる「人権宣言」の内容の形骸化を風刺し、ロベスピエールの人民よりも革命理念に忠実であろうとする態度、現実から浮きあがったイデアリスムを戯画化してみせたのではないか。そしてそれは、この映画のネガチブの主題でもあったといえるだろう。
 一七九四年四月五日、ダントン、デムーランたちがギロチンにかけられてから二カ月後、処刑直前にダントンが予言したとおり、ロベスピエール、サン・ジュストたちも処刑され、恐怖政治は終わりを告げる。こうして王権を打倒した革命の果実はブルジョワジーのものとなり、ブルジョワ革命として終わる。しかしこれによってパリ・プロレタリアートの革命が終わったのでないことは歴史の示すとおりである。一八四八年の二月革命、一八七一年のパリ・コミューヌは、フランス革命の伝統を革新しつつ、これを受けついだものといえよう。

(1984年・掲載誌不詳)

「ラ・マルセイエーズ」物語
  ──フランス革命二百年・歌いつがれた抵抗の歌──
                                       大島博光

  まえがき

 ことしはフランス大革命二百周年にあたる。したがって、この革命のなかで生まれ、その後フランス国歌となった「ラ・マルセイエーズ」もまた誕生二百周年を迎えることになる。──それにくらべて、一八九一年以降、日本の絶対主義的天皇制下で国民に強要された「君が代」は天皇支配の永遠をねがう、時代おくれで、反動的な歌であり、人民にとっては奴隷の歌である。それはまことにあざやかな対照をなしており、それはまた彼我の政治体制、社全体制の相違をも象徴しているといえよう。
 この際、「ラ・マルセイエーズ」の由来をたずねてみよう。そしてそれはどのように歌いつがれてきたか──

作者ルージュ・ド・リールについて

 「偉大な創造的な時代とは、人民のレベルでさえも高まった豊かさのうちから、芸術家たちが汲みとることのできるような時代にほかならない」
 この「ルネッサンス」について言われたロマン・ローランの言葉は、十八世紀末にもあてはまるだろう。モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、J.J. ルッソーなどの天才たちが花咲いた十八世紀末にはまた蒸気機関が現われたのである。
 この革命前夜の時代──一七八九年のフランス革命の気運は高まっていた。のちにラ・マルセイエーズの作者となるルージュ・ド・リールは、このような状況のなかで生まれ、その生涯を始めたのである。フランスの国歌ラ・マルセイエーズの誕生は、この状況によってのみ、これを論理的に説明し、歴史的に説明することができる。
 クロード・ジュセフ・ルージュ──のちのルージュ・ド・リールは、東仏フランシュ・コンテ地方のロン・ル・ソルニエで生まれた。少年時代、青年時代にはなんら将来を予想させるようなものは何もなかったが、およそ三十二年後の一七九二年四月二十五日、ストラスブールにおいて、 あの「ライン軍軍歌」が──のちにラ・マルセイエーズとなる歌が天才的な大尉ルージュ・ド・リールのくちびるから湧きあがり、やがて世界を駈けめぐることになる。
 さて、ルージュの家はおそらく南仏の出で、かなりのブルジョワジーに属していたが、弁護士の父親クロード・イグナスがその大家族といっしょに住んでいた寓居から判断すると、大した財産はなかったらしい。ルージュは八人兄弟の長男だった。          
 彼は学業につく年頃になったので、カトリック系の初等中学(コレージュ)に入れられた。選り好みは許されなかった。当時、聖職者がほとんど教育を独占していたからである。あらゆる未来の革命家たちのように、彼もそこで「古典」科の勉強をし、民主主義の模範とみなされたギリシャとローマの勉強を始める。
 十五歳になったとき、ルージュはパリの叔父のところへ行くことになる。メジエールの陸軍士官学校へ入る準備のためである。つまり将校になるために。その時代には、それは容易なことではなかった。軍人の貴族たちが、軍人になろうとするものに貴族の称号を要求して、越えがたい障壁を設けていたからである。そこで、名字のルージュに、ルージュ家の持っていた土地の名前のド・リールがつけ加えられることになった。ルージュ家が平民であることに眼を閉じて、都合上、貴族の家系が作りあげられたのだろう。とにかく、ルージュはメジエールの陸軍砲兵学校に入学することができた。一七八九年には中尉に任命される。
 彼は青春の楽しかるべき六年を、旧体制(アンシアン・レジム)の陸軍砲兵学校で、冷たい機械的な規律に従って過ごす。
 その頃は、ヴォルテールの主権論が異論の余地なく認められ、ルッソーの「社会契約論」が新しい福音書となっていた。若い士官候補生のルージュも、すでに無意識のうちにこの時代の空気を自分のなかにとり入れていたと考えることができよう。
 中尉になったルージュ・ド・リールは、グルノーブル、モン・ドファン、ジウ要塞とつぎつぎに駐屯地を替えるが、好きな音楽と詩にうちこんで、退屈をまぎらわした。彼はすでに音楽に夢中になっていた。
 アルプス高原地帯にあるモン・ドファンの要塞の孤独のさびしさを忘れるために、ルージュは三部合唱曲を書くが、そこにはすでに合唱曲にたいする彼の愛着と天賦の才が現れている。「希望への賛歌」という曲名そのものが、若い士官の精神を熱狂させていたその当時の思想の沸騰を物語っている。当時の多くの若者にとってと同じように、ルージュ・ド・リールにとってもまた、フランス革命は封建性の従来の特権を廃止して、彼らの才能や天才を思う存分に発揮する道を開き、それまで庶民と見なされていたすべての人びとに未来の扉をひらこうとしていたのである。

 ラ・マルセイエーズの誕生

 よく知られているように、「ライン軍軍歌」が日の目をみたのはストラスブールにおいてである。つまりラ・マルセイエーズは始め作者の心のなかでは、敵を目前にしたライン守備隊の闘いの歌であった。
 歴史的に見て、フランスにおいては、この国歌ラ・マルセイエーズとともに、初めて祖国という観念が実質をもち、現実性を帯びるようになる。一七九三年──共和暦二年十二月、オーシュのひきいる東方軍は普墺軍をガイスべルグ、ヴイッセンベルグで撃ちやぶってアルザスの危険を遠ざけた。この東方軍は最初の国民的抵抗の軍隊であって、その革命的戦術において、ラ・マルセイエーズは決定的な歌う武器となったのである。ラヴァレットはその「回想録」でガイスべルグの勝利について語っている。
「……ガイスべルグの台地の上から、敵の三十門の大砲が、平原をゆっくり前進するわが軍におやみなく一斉砲撃を浴びせていた。オーシュは兵隊の動揺を避けるため、そのまま前進するように厳命をくだした。さてガイスべルグの台地の下に着くと、兵隊たちは激昂状態となる。ラ・マルセイエーズがみんなの口をついてとどろく。部隊は我を忘れて崖を突進する。それはもはや登るのではなく飛躍であった。フランス兵は台地になだれ込んだ。敵は算を乱して敗走した。すべての砲門はわが軍の手中に落ちた……」
 歴史家ミシュレは予言的な見通しをもってこう書いた。「われわれの<マルセイエーズ>は天才の稲妻だ。世界が存在するかぎり、世界は永遠にこの歌をうたいつぐだろう」

 ラ・マルセイエーズ誕生におけるアルザスの役割

 ラ・マルセイエーズの誕生にとって、アルザスは特別な役割を演じたと言えよう。この歌の歌詞と調子はすでにアルザスの雰囲気のなかにあったものであり、ストラスプールにおいて初めて歌われた。ルージュ・ド・リールがこの駐屯地の町で、この国境の町で、ラ・マルセイエーズを作ったのは偶然であるとするのはあまりに素朴である。アルザスの首都ストラスブールは、この革命歌が作られるように運命づけられていたように見える。革命歌の創作にあたって、この町ほど好都合な処を、ルージュはほかに見いだすことはできなかっただろう。じっさいに、フランス革命初期のアルザスの状況を思い描いてみる必要がある。一七九二年四月、アルザスの状況は、反革命のヴァンデ党(王党派)を生んだフランスの他の地方とはひじょうにちがっていた。そこは国境地帯であって、圧制にたいする抵抗の歴史はきわめて遠い昔にさかのぼる。神聖ローマ帝国がゲルマンを支配していた時代からドイツ農民戦争の終結する一六四八年まで、アルザスはヒューマニズムとルネッサンスの、ヨーロッパにおける偉大な中心地の一つであった。アルザスにおける封建的圧制にたいする闘争は、ドイツ農民戦争の時代にその頂点に達した。農民はこの時代から土地の所有を要求し、プロテスタントの宗教改革を熱烈に支持し、教会と聖職者の位階制度(イエラルシー)に反対し、王公のようにふるまう神父や司祭に反対して立ち上った。神父や司祭たちは農民を搾取し、農民を奴隷状態にしばりつけていたのである。
 また注目すべきことに、農民一揆のアルザス、宗教改革とヒューマニズムのアルザスは、フランス革命とその諸理念を熱狂的に歓迎した。その日アルザスは、ドイツ語の使用やアルザス方言や、二カ国語文化(独仏語文化) の遺産などを放棄することなく、ほぼ全員一致の人民投票によって、決定的にフランスに結びついたのである。こうしてアルザスはフランスのどの地方にもまして、自由の賛歌がつくられるのにうってつけの場所であった。ライン河をはさんで、ストラスブールの対岸にあるケルとを結ぶケル橋の近くで、この賛歌は生まれたが、当時この橋には「ここから自由の国が始まる」という有名な言葉が彫まれていた。神聖ローマ帝国以来の古い町ストラスブールは、一二〇一年以来の自由都市(コミューヌ)であった。この町では「自由都市(コミューヌ)へ行こう」という言葉が中世の黎明期から鳴りひびいていた。封建領主の圧制に耐えかねたアルザスの農民は、ストラスブールの町に逃げこんで身をかくし、奴隷状態から脱けだして叫ぶことができた──「町の空気は人間を自由にしてくれる」
 一七九二年四月、愛国的熱狂の雰囲気がストラスブールを支配していた。
 一七九二年四月二十日、フランスの立法議会は「ハンガリアとボヘミアの王」フランツ二世に宣戦を布告した。オーストリアはプロイセンと同盟をむすんで革命のフランスに干渉しようとしていたからだ。しかし戦争準備がまったくできていない状態でのこの宣戟布告の無謀さ──口ベスピエールはパリのジャコバン・クラブにおいてこの無謀さを指摘し、警告する。じっさい、いたるところで革命への裏切りがうごめいていた。ロベスピエールは言う──打倒すべき敵は内敵である。王と宮廷は絶対的権力をとりもどそうと、外国の干渉に望みをかけている。数世紀来の特権を失うまいと執着する貴族や高級聖職者たちは、アルザスを奪還しようとするライン彼岸の王公たちの要求とまったく一致している。コブレンツやマインツに集まっていた亡命貴族たちは、プロイセン王やフランツ二世の箱馬車に乗って、勝利者としてフランスに帰る日を夢みている。ストラスブールの前司教でローアンの枢機卿はドイツのバーデン地方のエッテンハイムに人目をさけて隠れていたが、彼はそこで反革命を組織し、反革命のビラ、パンフレットをアルザスじゅうにばらまき、ジャコバン党の独裁を打破し、新しい市民憲法への宣誓を拒否する「よい牧師たち」を復職させるようにと、アルザスの農民やブルジョワジーに呼びかける。またバーゼルでは、ほかの反革命組織が、革命フランスの貨幣価値を下落させるために、偽の紙幣を作ってひそかにアルザスへ持ちこむ。ストラスブールの城門を守備していた軍隊では、貴族出身の将校たちが反革命の共犯者となって、共和主義に忠実なアルザスの伝統を破壊するカンパニアをくりひろげ、兵隊たちにむかって反逆と脱走をよびかけた。
 このように革命を転覆させようという危険はフランスじゅうにあった。しかし、しばしば外国軍の侵攻や圧制に苦しめられた人民の愛国的熱狂もまた燃えひろがっていた。アルザスの民族感情もまた愛国的熱狂に支配されていた。

 崇高な 祖国愛よ
 導け 支えよ われらの復讐の腕を

 このマルセイエーズの有名な詩句にこたえる準備が、ストラスブールの民衆にはすっかりできていた。
 そのうえ、敵が目前にいるということからくる興奮が彼らにはあった。ラインの対岸を前進したり逆進したりする敵の姿を、彼らはストラスブールから見ることができた。

 聞け われらの野に
 あの狂暴な兵士たちのわめくのを

 ルージュ・ド・リールは立ちどころにこの革命的抵抗の精神を汲みとった。アルザスの抵抗の伝統と、故郷フランシュ・コンテの抵抗の伝統とが、ルージュの燃えたつ頭脳のなかで一体となった。不滅のラ・マルセイエーズを作曲したとき、彼はフランスの抵抗の伝統を──フランスと同じほど古いその革命的伝統を鳴りひびかせたのである。

 フランスにおける抵抗の国民的伝統の象徴としてのラ・マルセイエーズ

 (略)

 フランス革命の象徴としてのラ・マルセイエーズ

 さて、ルージュ・ド・リールは一七九〇年来パリで「自由の賛美」を作曲すると同時に詩作の勉強もしていた。
 ストラスブールへやってきたとき、彼は士官であると同時に音楽家であり詩人であった。
 当時、ストラスブールでは、教養ある市民のあいだで、音楽がとくに愛好されていた。
一七八九年七月十四日、パリ市民は歌いながらバスチイユを占領した。彼らはシャンソンのなかに彼らの思いを表現した。貴族、反革命牧師、亡命貴族、司教、王の逮捕など、すべてがそのままシャンソンに歌われた。革命がすすむにつれて、シャンソンヘの要求はますます高まった。
ある博識家の計算によるとシャンソンは、
 一七八九年には一一ハ曲、
 一七九〇年には二六一曲、
 一七九二年には三二五曲、
 一七九三年には五九〇曲、
 一七九四年には七〇一曲、
 そして一七九五年、ロベスピエールの失脚後には、一三七曲に急減している。
 ストラスブールの町やアルザスも、このような音楽的状況に応じるように準備ができていた。
 一七九二年四月二十日、立法議会はプロイセン王とオーストリア皇帝の挑戦をうけて宣戟を布告した。
 一七九二年四月二十五日、ストラスブール駐屯ライン軍司令部にその知らせがとどいた。ルージュ・ド・リール大尉は、リュックネル将軍麾(き)下の参謀将校であった。
 ストラスブール市長フレデリック・ド・ディエトリッシュは、宣戦布告の知らせをきくと、熱烈なフランス革命の精神に燃えた撒を町じゅうの壁に貼りめぐらせた。
 「市民よ、武器をとれ!
 戦いの旗は掲げられ、合図はくだった! 武器をとれ!
 勝利か死か、戦わねばならぬ。市民よ、武器をとれ!……
 自由の子に恥じないように行動せよ! 勝利にむかって前進し、専制君主どもの軍隊を撃ち破れ……進め!……最後のひと息まで自由を守ろう。われらの願いが必ずや祖国の祝福と全人類の幸福によってかなえられるように。」
 そしてこの歴史的な日のために、市長はブログリ広場の自邸で送別大晩餐会をひらいた。じっさいその翌日には、招待された幾人かの将校たちは前線へむかって出発することになっていた。ルージュ大尉もほかの五人の高級将校といっしょに招待された。
 この夜会は、敵軍の侵攻を目前にし、国内の反革命的攪乱に脅かされていた町でひらかれたのである。そこからしてこの夜会の雰囲気を想像することができよう。しかも主催者は、町じゅうの壁にあの熱烈な撒を貼りめぐらした市長その人である。会場には、栄光、勝利、旗、暴君といった言葉が、ここかしこに飛び交(か)っていた。「祖国の子」という言葉も一再ならず聞かれたであろう。ストラスブール義勇兵大隊の隊長は、市長の長男アルベール・ディエトリッシュであって、彼はまさしく「祖国の子」と呼ばれていた。そのほか、ジャコバン・クラブで毎日のように聞かれる文句が参会者たちの唇にのぼった。
 この夜会のさいちゅう、集った参会者たちは、みんなで合唱できる愛国歌がないことを残念に思い、真の国歌となるような歌の作られることを熱望するということに意見が一敦した。
 そこで市長ディエトリッシュはルージュ・ド・リールにむかってそういう歌を作ってくれるように依頼した。若いルージュは返答をためらっていたが、みんなから促され、せきたてられる自分をみいだした。
 その夜、作曲家・詩人はメッサンジュ街の自分の部屋にひきこもった。彼の頭のなかを、町の壁に貼られた撒の言葉や、夜会の雰囲気などが駈けめぐつたことだろう。ルージュ・ド・リールはヴァイオリンを手にとると、霊感のひらめくままにひとつの賛歌を作曲し、それを「ライン軍軍歌」と名づけた。こうして後にラ・マルセイエーズとして歌われる歌が生まれた。
 ルージュは回想銀のなかに書いている。
 「歌詞は調べとともに生まれ、調べは歌詞とともに生まれた……」
 翌日、前夜の夜会の参会者たちがふたたび集ったところで、市長ディエトリッシュは、生まれたばかりのこの歌をテノールの美声で歌った。
 こうしてラ・マルセイエーズが最初に歌われ、ひろめられたのはアルザスにおいてである。ラ・マルセイエーズの最初の公演は、一七九二年四月二十九日、ローヌ・エ・ロワール義勇兵大隊がストラスブールに到着した機会に、これを歓迎して国民軍によって行なわれた。ローヌ・エ・ロワール部隊の兵隊たちはそれを開いて叫んだ。
 「おかしな歌だ。まるでヒゲを生やしたような歌だ」
 ラ・マルセイエーズはコッピィされて、たちまち町じゅうにひろめられた。パリでグレトリという男がコッピィを手に入れると、歌はパリにもひろがった。
 さらにこの歌は南仏モンペリエにとどく。この町のミルールという若いジャーナリストがこの歌に感激し、パリへ派遣する革命支援の義勇兵部隊をマルセイユで組織するため、率先して委員会をつくった。委員会の晩餐の終わりに、ミルールはルージュ・ド・リールの歌を歌った。歌は大成功で拍手喝采を浴びた。翌日の新聞はさっそく「国境守備隊の軍歌」という見出しでこの歌を掲載した。
 こうしてマルセイユの義勇兵たちはめいめいこの歌を手に入れ、歌は「マルセイユ部隊の行進曲」となる。パリへむかって行軍ちゅう、マルセイユ部隊は通過する地方地方でこの歌をひろめる。一七九二年七月三十日、首都パリに入るや、部隊は全員で「マルセイユ部隊の行進曲」を歌い始めた。
 この日から、この歌はすべての祝典、集合、舞台で歌われるようになる。ついに一七九二年九月二十八日、陸軍省の提案のもとに国民公会(革命議会)は布告する。
 「《マルセイユ部隊の行進曲》は十月十四日の祭日に公的に演奏され、フランス諸方面軍のサヴォワ入城を記念するものとする」
 この日から、それはまさにフランスの国歌となった。
一七九二年九月二十一日、ヴァルミの勝利の翌日、陸軍大臣セルヴァンはアルゴンヌ軍の総司令官に国歌の写しを送って、陣地で演奏するように命令した。
 この歌はジャコバン党と山岳党を統一きせる歌であった。共和暦三年、一七九四年十月二十六日、この歌は公式にフランス国歌として布告された。この政令は廃止されたことはなかったが、ラ・マルセイエーズは十九世紀の大半は禁止されていた。一八三〇年の七月革命が一時的にこの歌を忘却から引き出した。そして一八七九年二月十四日、下院において決議された新しい法令によって、ラ・マルセイエーズはふたたび国歌として公認されたのである。
 ラ・マルセイエーズはその市民性によってフランス国民の歌となみことができた。アルザスは、ビスマルクやヒットラーによる圧制の時代にも、この歌の不屈な守護者となった。ラ・マルセイエーズは敵による占領のなかでもひそかに歌われ、あるいはヒットラーの死刑執行人(ひとごろし)どもにたいする挑戦として、侮蔑として歌われたのである。

 ラ・マルセイエーズの生命カ

 ラ・マルセイエーズの光に照らして、フランスの歴史を書くこともできようが、また同じように世界史もその光に照らして書くことができるだろう。全世界において、ラ・マルセイエーズの勝ちほこる響きと足どりのなかで、かずかずの王制が崩れさり、多くの圧制が消えさったからである。
一八八五年、エンゲルスは世界の革命歌の歴史にふれてこう書いた。──過去の階級闘争から湧きあがり、闘争を激励し、闘争の伴奏をした革命歌の多くは、闘争が終わるやいなや忘れさられてしまった。一九三八年に始まったイギリスのチャーティスト運動の歌も、一八四八年のドイツ革命の歌も残っていない。ラ・マルセイエーズだけがひとり残った。
 モーリス・トレーズはその理由をきわめて的確に指摘している。
 「ラ・マルセイエーズは、王制と封建制に反対して立ち上った革命的なフランス──ジャコバンとジロンド党のフランスの深部からほとばしり出た。それは人民の革命的意志、その躍動、その英雄主義の熱烈で情熱的な表現である。そこからラ・マルセイエーズの永続的で普遍的な影響が出てくる。
 ……ラ・マルセイエーズはあらゆる国において蜂起をよび起す革命歌となり、ヨーロッパじゅうを征服した。この歌は、ローマでも、ベルリンでも、ワルシャワでも聞かれた。そうして断ち切るべき鎖のあるところどこででも、この歌はうたわれるだろう。それは民主主義者とプロレタリアートの歌である。それはセント・ペテレスブルグのデカブリストたちの歌であり、ついでモスクワとベトログラードの労働者たち、古いロシアのマルクス主義者たちの歌となった。彼らは怖るべきツアーと資本のくびきを払いのけ、すばらしい社会主義建設の事業にとりかかったのである……」
ラ・マルセイエーズにたいする賛辞を挙げればきりがない。
ドイツの詩人クロポストック(一七二四-一八〇三)はルージュ・ド・リールに書き送った。「あなたの歌は五万のドイツ軍を壊滅させた」
 ゲーテはこの歌を革命的「テデゥム」(カトリックの謝恩歌)と形容した。
 歴史家エドガ・キネは書く。
 「プロイセンの将軍ブランスヴィクの最後通牒にたいする真の回答は、ルージュ・ド・リールのラ・マルセイエーズであった」
 ナポレオン一世は言う。
 「ラ・マルセイエーズは共和国のもっとも偉大な将軍である」
 ラザール・カルノは言う。
 「ラ・マルセイエーズはフランスに百千万の義勇兵を与えた」
 ヴィクトル・ユゴーは書く。
 「ラ・マルセイエーズはフランス大革命と結びついている。それはわれわれの解放の一要素である」
 ラ・マルセイエーズは世界じゅうの国語に翻訳され、世界じゅうで歌われている。一九三六年、ファシスト・フランコの反乱軍に包囲された共和主義のバルセロナで、マドリードで、この歌はうたわれた。
    
 抵抗(レジスタンス)の歌としてのラ・マルセイエーズ

 ところで、ラ・マルセイエーズがその生命力の力強さを発揮したのは、第二次世界大戦中におけるフランス・レジスタンス(抵抗)の歌としてである。いやむしろ、それはレジスタンスそのものであった。それはヒットラー占領軍とたたかう武器となった。ちょうど一七九三年、第一共和制の軍隊においてそうであったように。そのとき軍の一司令官は国民公会に宛ててつぎのような意味深い報告を書き送った。
「余は戦闘に勝利した。ラ・マルセイエーズが余とともに指揮した……」
 またある日、ラ・マルセイエーズの作者と出会ったプロイセンのある王は言ったといわれる。
 「貴下は余にとってきわめて危険な人物でした。なぜなら、貴下は貴下のどの将軍よりも余の兵隊をたくさん殺したからです……」
 一九四〇年から一九四五年にかけて、ラ・マルセイエーズは自由と独立のための武器としていたるところに鳴りひびいた。ナチのくびきからヨーロッパを、世界を解放しようと願うすべての人びとに、ラ・マルセイエーズは呼びかけた。
 いたるところ、マキ団のなかで、牢獄のなかで、強制収容所のなかで、ナチの死刑執行人どもの銃殺珪に面とむかって、ラ・マルセイエーズは鳴りひびいた。挑戟の歌として、希望の歌として、解放の歌として、平和の歌として歌われたのである。
 最初に思い出されるのは、フランス共産党の偉大な指導者ガブリエル・ペリの不屈の闘争をたたえたアラゴンの詩「責苦のなかで歌ったもののバラード」の最後の二節である。

 弾丸(たま)のしたでも 彼は歌った
 「血に染む旗は 挙げられぬ」と
 二度目の一斉射撃までに その歌を
 歌いおわらねばならなかった

 マルセイエーズを歌いおわったとき
 もうひとつの フランスの歌が
 かれの唇をついて 湧きあがった
 全人類のための インターナショナルが

 一九四一年の夏、ペリはヴィシィの売国政府によって捕えられ、やがてドイツ軍に引渡される。アラゴンは書いている。
 「ペリを裏切らせるために、とられなかったような拷問はひとつとしてなかった……ひとりのペリが節を曲げるということは、かれらにとって何んという勝利だったろう……最後には、彼の手のひらのうえに、裏切りの代償まで積まれた。しかし彼は拒否した」
こうして最後の夜、ペリは遺書を書く。
「わたしは最後にもう一度じぶんの良心をふりかえってみた。少しもやましいことはない。もしも、もう一度人生をやりなおさねばならぬとしても、わたしは同じ道を行くだろう。わたしは今夜もやはり信じている、『共産主義は世界の青春であり』 『それは歌うたう明日の日を準備する』と言った、親愛なるポオル・ヴァイヤン・クーチュリエの言葉の正しかったことを。……さようなら、フランス万歳!」
ペリの最後についてアラゴンは書く。
「一九四一年十二月十五日の明け方、ペリは死刑執行人どもに面と向かった。ドイツ兵の小銃はかれに狙いをさだめ、かれは歌う。ラ・マルセイエーズが夜明けの空にひびく。最初の一斉射撃でかれは膝をつく。そのとき、かれの力づよい全生命はふたたび唇にのぼってくる。フランス人のために歌った彼は、こんどは全人類のために歌おうとする。それはインターナショナル──おなじくフランスの息子だったポテェの言葉だ。……こうしてガブリエル・ペリの歴史は終わる。──そうしてペリの伝説がはじまる……」
 一九四二年六月二十五日、ヴィシー政府の命令で処刑されたアンドレ・ダルマは書きのこしている。
 「判決が宣告されたとき、ただひとりの人物が憶えた。大統領だ。おれたちはみんな、ほとんど感動もなく抱き合った。なぜなら、おれたちは勝利した、おれたちの偉大な党に恥じないようにふるまった、という信じがたいような幸福感がおれたちをひたした。法廷から帰ると、おれたちはラ・マルセイエーズを堂々と歌った。大勝利の日に歌うように……」
 元大臣で、強制収容所へ送られたアルベール・フォルシナルは、一九四九年七月十九日、国民議会に書き送った。
 「一九四三年七月十四日、広大なフレーヌの牢獄じゅうにひびきわたった歌声を、わたしはけっして忘れないだろう。この革命記念の国祭日に、ラ・マルセイエーズを歌い始めた、レジスタンスの一女性のあの澄んだ声を、わたしはけっして忘れないだろう。すべての女の囚人たちが、この最初の女性の声にあわせて歌いだした。すばらしい歌詞が丸天井の下に鳴りひびき、ふくれあがった。するとこんどは男の囚人たちが女たちの声にあわせて歌いだした。
 まさにレジスタンスの女たちは敵に面とむかって、このように振舞ったのである」
 ラ・マルセイエーズの力強さを示すのに、アウシュヴィッツの強制収容所に送られたチェコスロヴァキアの女囚マンカ・スヴァルポダの証言ほどに感動的なものはない。彼女は一九四七年の「レットル・フランセーズ」紙に書いている。
 「ある朝、強制収容所の入口に三百人ほどの新参者が見えた。どこの国から来たのだろう? わたしたちは注意深く覗っていた。とつぜん、わたしたちは息をのみ、こぶしを握りしめ、眼を輝かせた。なんと死の収容所のただなかに、ラ・マルセイエーズの歌声が力強く湧き上ったのだ。
 《行け 祖国の子らよ!》
 わたしたちは久しぶりに自由の気分を味わって、深ぶかと息をした。いろいろなひとの姿や思いがわたしの頭のなかを駆けめぐつた。毅然とした、果てしのない軍隊、パルチザンたち、戦士たち、傷ついた人たち、不屈にたたかって倒れた殉難者たち……とっさにわたしは気がついた、世界はこの収容所の有刺鉄線や火葬場の焔で終ってはいないということを。生活と世界は存在するのだ。闘争、苦しみ、希望は存在するのだ……
 三百人の女囚のなかにダニエル・カザノヴァがいた。彼女がわたしに握手を求めたとき、それがダニエル・カザノヴァであることを知った。このコルシカ女性の黒い眼のなかには決断力、不屈さ、同志愛、誠実さが輝いていた。彼女の微笑みはふくよかで、ほとんどナイーヴで、どこか子どもっぽい陽気さがあった。彼女の握手はまるで男の握手のようだった……」
 このダニエル・カザノヴァは歯科医で、フランス婦人運動の偉大な指導者であった。ドイツへ出発する前日、一九四三年一月二十三日付の手紙でダニエルは書いている。
「明朝五時起床、六時に身体検査、それからドイツへ出発。わたしたちの一行は、老若の女性二三一名。なかには病人も不具者さえもいます。みんな士気さかんです。美しいラ・マルセイエーズの歌声が一度ならず湧きあがりました……わたしたちはフランス人であり共産党員であることを誇りに思っています……わがフランスは自由になり、わたしたちの理想は勝利するでしょう」
 希望の歌であり、友愛の歌であり、自由の歌であるラ・マルセイエーズは、ルージュ・ド・リールがこれをつくった輝かしい時代におけると同じように、いつまでも若わかしい生命力をもちつづけるだろう。この歌が生まれたストラスブール、この歌を取入れたマルセイユ、一七九二年「八月十日」蜂起して、事実上王制をうち倒した人民がこの歌をうたったパリ、これらの市(まち)まちは永遠にレジスタンスの名所として残るだろう。
 こんにち、国民的であると同時に国際的なこの歌を、その歴史的な変遷のうちに思い出すことは時宜を得ている。そしてこのルージュ・ド・リールの作品が一七八九年のフランス大革命の娘であることを思い出し、もう一度あのルナンの言葉を思い出す必要がある。
 「フランスの真の歴史は一七八九年に始まる。それに先立つすべては一七八九年へのゆっくりとした準備であり、その意味においてしか重要でない」
 (この一文は主として Jean Hugonnot; Rouget de L'Isle et La Marseillaise に拠る) 
  (おおしま はっこう・詩人)

(「文化評論」一九七八年四月)

「ラ・マルセイエーズ」だよ いいねぇ
日本の「君が代」とちがって  あれは奴隷の歌だよ

<ラ・マルセイエーズを歌いながら散歩>
あなたラ・マルセイエーズ(の歌詞)を知らないの?! フランスびいきともあろう者が歌えないなんて 後で書くよ

ラ・マルセイエーズ

(尾池和子「博光語録」より)