講演会

ここでは、「講演会」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


バラ

嶋田誠三さんの講演会「島田利夫と大島博光の交流」が開催されました。

記念館

3章にわけて話されました。
1.島田利夫の詩と その激しく燃えた生涯
2.島田利夫と大島博光の交流
3.大島博光が島田利夫に期待したもの 島田利夫が大島博光から受け継ごうとしたもの

嶋田誠三

一八歳のとき、ランボウに傾倒していた利夫は学校をやめて詩作に没頭したり山に登ったり、自由を味わっていたが、若い仲間と詩雑誌「ラッパ」を発行した。利夫の作品への反響は大きかったが、大島博光から「あなたの『ラッパ』を人民革命のラッパに」と激励された。それが二人の交流の出発点だった。
大島博光訳のアラゴン「フランスの起床ラッパ」に島田利夫は衝撃を受ける。そしてこの調べが響いている詩「歌いだせ一番鶏よ」や代表作と言われる「ふるさとの川の岸べに」「われらの街はささやきに充ち」を発表した。

嶋田誠三

しかし、朝鮮戦争が拡大し、党が弾圧される状況で、戦争の危機に立ち向かうため党の最前線の任務に飛び込み、詩作から離れた。五年間の空白の時期。
六全協で党が統一され、正常に戻り、利夫は党務を辞退して詩作に専念することを考えた。友人などと相談、大島博光を訪ねるが、結局党務の責任を考えて断念した。それ以後、党務の傍ら詩作に努力し、迫力あるリズムの変革詩を目指していた。
大島博光が利夫に会いに前橋の県委員会を訪ねたちょうどその日、利夫は谷川岳に登っていて遭難死したのだった。

大島博光は早くから島田利夫に変革詩の方向を指し示した。
日本の進歩的な詩の伝統、プロレタリア詩の流れ、近代的フランスの詩をはじめとする世界の革命的な流れに終始立っていた詩人だった。正統な立場でともに変革の詩を目指した、そのことが二人を結びつけた最大の理由ではないか。

政治反動の暴力が立憲政治の危機、民主政治の子危機、戦争の危機、生活全般の危機として多くの国民がたち上がる市民革命の状況さえ呈しているとき、多くの市民の声が変革の言葉になりつつあるのではないか。
日常的なテーマを歌うときにも、変革の立場にたたざるを得ないようになっているのではないか。
あらためて大島博光の詩のスタイル、利夫の詩のスタイルから学べるのではないか。

嶋田誠三

東京から見えた小田切さん、埼玉の萩原さんらと。

嶋田誠三
はなや

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講演会3
佐相憲一さん ようこそ松代へ──カトウシモンさん制作のドラゴン看板

合唱

〈さよなら〉を顕微鏡で見つめると/しずくの中の光の粒子が虹になって
感情のリトマス紙を見ると/マイナスではない微妙な色合いで
〈かなしみ〉がにっこりしている

〈こんにちは〉を顕微鏡で見つめると/もうそれは/数えきれないくらいの
〈さよなら〉でできていて……
(あいさつ)

アップ

昔「All right」という詩を博光さんが褒めてくれたことに大変励まされた。
自分も新しい人の詩の批評に力を入れるようにしている。
新しいもの、未知のものに心のアンテナを閉ざさない、詩の心を開くことが大切。

ワイド

……稚内から2つめの小さな駅に降りたのは私だけ。氷点下15度の吹雪に打たれながら私は海へと歩きました……突然青空が広がったんです。ゴマフアザラシ!目の前に沢山ゴマフアザラシ!詩を書くヒトなのに私にはあの感動を表現する言葉が見つかりません。涙をためて自分が微笑んでいたこと。それが”詩”だったのかもしれません……
(All right)

講演会1

青木善保さん(長野県詩人協会会員)と2013年10月の現代詩ゼミナールin長野でお会いして以来の再会を果たしました。

講演会2

交流会にて「佐相さんの詩はむつかしいと思っていたが、わかりやすかった。佐相さんのことがわかった」「朗読の仕方が勉強になった」「詩”波止場Ⅱ”に惹かれた」「(”波音Ⅶ”で新保重太郎が新潟から信州上田にでてきたことについて)冬の新潟は仕事がないので、養蚕で栄えていた上田に出稼ぎに出るのはよくあったんです」

集合4講演会
川上先生

10月25日、川上勉先生(立命館大学名誉教授)が「大島博光とガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」と題して講演しました。
「・・・前回(2010年5月)の講演では、『フランスの起床ラッパ』の訳出が大島博光の戦後の文学活動の原点だとお話しました。今回はそれは何故か、その理由について話します。」として、
・レジスタンスの本質は「人間の尊厳をまもる」闘い。レジスタンスの詩は闘う武器だった。
・詩人の果たすべき役割は民衆の立場にたち、民衆の闘いを励ますこと、闘う詩人となることだと考えた。
・民衆のための詩、伝わるためには定型詩が必要とアラゴンは提唱し、大島博光もこれを追求した。例として「静江の狂人」は2行詩、3行詩からなっている。

朗読

朗読家の西島史子さんが「フランスのあゆみ」「幸福な愛はどこにもない」「静江の狂人」を朗読。
耳から入る言葉によってあらためて詩が感じ取れて感動しました。

 きみはもう吹く風となった/いまもやさしくわたしにそよぐ/そしてわたしのなかを吹き抜ける

 きみはもう夢の夢となった/明日の日へとわたしをみちびく/わたしの見果てぬ夢となった(「静江の狂人」)

全体

詩と詩人のあり方について本質的なことを分かりやすくお話されて、感銘を受けました。素晴らしい講演でした。

懇親会

西島さんの紹介で、博光は川上先生と一度だけ東京で会ったが、時間が遅くなっても「もっと話したい」と粘った。その後も西島さんに「あの人と会いたいな」と度々言っていたそうです。アラゴンについて話を共有できる貴重な人だったのです。

集合写真
鈴木文子講演会

詩人の鈴木文子さんが従軍慰安婦について講演と自作詩の朗読をされました。
慰安所の運営に関わった日本人に会って話を聞いたり、韓国にある博物館、歴史館を訪れて調査し、元慰安婦の方々と交流して、その悲痛な思いを詩に書いてきました。

鈴木文子講演会
「奪われた純情」
一幅の絵


鈴木文子講演会

・日本軍は1937年、上海上陸から中国侵略を開始、「徴発!」という指揮官の命令で、中国の民衆から略奪を繰り広げながら進軍した。徴発した豚は腐ったほうが美味しいといって土の中に埋めた。
・南京に到達し、南京大虐殺を起こした。ここで日本兵に性病が多発したことから従軍慰安婦が必要と考えた。
・そのための20億円の臨時費を国会が全会一致で承認。その理由は、1)強姦が多発 2)兵士の慰安 3)性病の予防 4)機密の保持──中国人でない慰安婦が必要
・軍の命をうけた業者が北九州で女をさがす。遊郭に断られ、炭鉱に出稼ぎに来ていた朝鮮の家族の娘を集めた。兵隊の洗濯などの仕事で1000円払うと言われ、3日で200人が集まった。父親の給料が10円だった。大半が20歳前の娘。軍規で女は軍艦に乗せられないので、軍需物質との名目で軍艦で送られた。
・戦争が負けると、日本軍は彼女たちを置き去りにして帰った。多くの女たちが故国に帰れずに命を落とした。

鈴木文子講演会
鈴木文子講演会

テラスにて
腰原講演
腰原哲朗先生は博光の青春時代の交友や文学活動について書籍資料を使って講演。

腰原講演
田村泰次郎「わが文壇青春記」グラビアページの写真「早稲田仏文科の級友たち」最後列に博光が写っている。

腰原講演
「大衆小説ばかり書いていると思っていたが、するどい評論も書いているのがわかって見なおした」と言われました。

腰原講演
戦前、博光と協力して「信州モンパルナス」を刊行した高橋玄一郎。博光の詩のスタイルが「うたう=音楽的」だったのに対して高橋玄一郎は「視覚的・絵画的」な詩といえるとのお話し。

腰原講演
腰原講演
島崎蓊助は画家で島崎藤村の息子。新宿の酒場「ナルシス」の前で博光と取っ組み合いの喧嘩をしたという。(『歴程』1993年2月号─島崎蓊助追悼特集の写真)

腰原講演
腰原講演
腰原講演
腰原講演
松本・梓川サービスエリアからは北アルプス・常念岳が正面に。

腰原講演
松本市の腰原先生のお宅にて。

腰原講演
長野日仏協会会長の滝沢忠義さんも参加されました。
滝沢忠義講演会

ロートレアモンと大島博光
 シュルレアリスム詩の先駆がロートレアモンとランボーの二人。大島が青春時代に学んだロートレアモンは現在、世の中が複雑化するにつれて見直されている。日本では知る人は少ないがフランスではシュールレアリスムの元祖として多くの作家、画家、詩人に影響を及ぼしている。ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンはコミュニストに、フィリップ・スーポーやアンドレ・ブルトンは芸術至上主義への道をたどった。博光はロートレアモンの『マルドロールの歌』を連続して翻訳している。その後、断片的にシュールレアリストたちを紹介している。ポール・エリエアールとの書物上での出会いも戦前のことである。こうしたエッセイをまとめた単行本が昭和15年に出版された。『フランス近代詩の方向』(山雅房刊)であった。
 一九七一年、私が『ロートレアモン覚書」を出版した時、博光から「万感を胸に、これから拝読します。あの深夜のパリの街で走り行く馬車を必死に呼び止める子供のように」という葉書がきた。

滝沢忠義講演会

大島さんとの出会い
 高校生の時、博光に会いに桐原の家の前に行ったが、怖くてどうしても入れなかった。
 松本で記者をしていた頃、塩尻市に吉江喬松の生家を訪ねた。島崎藤村の友人で、早稲田に私立大学としては初めての仏文科を作ったフランス文学者である。昭和40年代の初めであった。生家には貞子夫人が健在で、弟子たちが松本市の城山公園に蝸牛の詩碑をつくってくれたことなどを感慨深げに話してくれた。教え子には仏文学者の新庄嘉章、同じく佐藤輝夫、詩人西条八十、八木義徳、中村八朗らがいた。吉江喬松の一番弟子が西条八十、その一番弟子が大島博光になる。
 いつか機会があったら吉江さんの生涯をテレビで描こうと思っていた。やがてその機会が巡って来た。「信州人物風土記」を企画・製作することになり、松井須磨子、島崎藤村、中山晋平ら36人を取上げ、念願の吉江喬松を構成するに当たっては、西条八十の愛弟子、大島博光、西条ふたばこの両氏にインタビューすることになった。これは昭和61年の事である。(「信州人物風土記 吉江喬松」の西条ふたばこと博光のインタビュー部分を上映)

滝沢忠義講演会
滝沢忠義講演会

大島の育った風土(松代落とフランス)
 松代出身の軍人は海軍が多い。明治の初め、松代には兵制士官学校があり、函館に五稜郭を造った武田斐三郎が先生になってフランス語を教えていた、日本の本格的フランス語辞典は藩医村上英俊が初めて編纂した。佐久間象山が読んだショメルの百科辞典の原作者はショメルというフランスの神父であった。(オランダ語に訳された本)伊東義五郎海軍中将の夫人はフランス人。その娘は本野家に嫁ぎ、子息はフランス大使を経て現日仏会館名誉会長。

滝沢忠義講演会

 戦後、大島はアラゴンの『フランスの起床ラッパ』で有名になったが、19世紀末のパリ・コンミュンと第2次世界大戦中のフランス詩人の抵抗詩運動の著述では右に出る者はいないだろう。

滝沢忠義講演会
取材に見えた「うたごえ新聞」の三輪さんと
原発
はじめに「民衆が止めたフィリピン・バターン原発視察ツアー」を中島裕治氏(長野県AALA代表委員)が録画ビデオで報告。バターン死の行進の舞台であったフィリピンのバターン。風光明媚な半島の岬に原発は悠然と建っていた。入場料を払えば立ち入り自由、写真撮影も自由で、職員の案内で建屋の中を、原子炉格納容器、タービン、発電機、使用済み核燃料プール、中央制御室などを見れた。見学しているところをドイツ公共放送に取材され、福島後、原発に対する日本人の動向が世界で注目されているのを感じた。なぜ原発を廃炉に追い込めたのか、と非核連合の活動家に質問したところ、原発計画を撤回させた日本の住民運動に学んだと言われた。足元を見つめ直し、自己の価値を知ることも大事だ。

ついで独ZDFテレビ制作の『フクシマの嘘』を上映。衝撃的な事実の報道だった。米GE社のエンジニアだったケイ・スガオカ氏のインタビューで、福島1号炉の点検で亀裂などの問題を発見したが、東電から報告書の改ざんを要求され、嘘の報告書を書かされた。彼は職を失うのを恐れて沈黙していたが、10年後GE社を解雇されて日本の担当官庁に告発した。告発は無視されたが、当時の福島県知事・佐藤栄佐久がこれを取り上げた。放置しておけば重大な事故につながると考えて新聞に書いた。官僚も動かざるをえなくなり、17基が一時停止に追い込まれた。報告書の改ざんや事故隠しが明らかになり、東電は謝罪し責任者を形だけ処分した。ところがさらなる原発の増設に懸念を抱いた佐藤栄佐久知事は原発政策の暗黙のルールを犯してしまった。土地疑惑をでっちあげられて新聞に書かれ、首相官邸担当の検察官が送られてきて弟が逮捕された。県庁の職員に圧力がかかり、2,3人自殺者まででた。彼は同僚を守るために辞任した。こうして原子力村により邪魔者は消された。
原発
放射線と内部被曝について栗林医師が報告。肥田舜太郎先生の講演や「民医連医療」に掲載された松井英介氏の論考を紹介した。特にIAEAが原子力産業を代弁して、WHOによる放射線の健康被害の調査・研究をやめさせていることの罪を強調した。
原発
新村さんの再生可能エネルギーの現状と将来についての報告があり、原発について沢山の重大なことがマスメディアで報道されていない、このような会で広めていくことが大切だ、子供たちにどう伝えていくか考えていきたい、などと熱心に討論した。
9月3日、革新懇市川の主催で肥田舜太郎先生の講演会「原爆と原発ー内部被曝をみつめて」が行われました。


・被曝から30年も経って、急にだるくなって仕事が出来なくなり、会社を辞めざるを得なくなる人を何人も見た。
・内部被曝ではどういう症状が出るかわからない、内部被曝を証明することもむつかしい。
・広島長崎で被害をうけた被爆者は、アメリカの軍事秘密だから病気のことを人にしゃべってはいけない、書いて残してもいけない、違反したら厳罰に処すと言われた。
・原爆症については、医師も学者もアメリカに禁止されてきたため、研究も論文もない。
・目の前の患者の命を助けるのが医者の仕事なのに、原爆症はその方法がわからない。
・原発はコントロール出来ないエネルギーなので、これを使うこともやめるということ、世界中がこれをやらなくてはいけない。
・ビキニ被曝のときは一千万の署名で原水爆反対の運動が盛り上がった。今、三千万の署名を集めれば変えられる。集められないのは運動する側の問題。
・テレビをやめて命を大切にする生き方を。夜、くだらないテレビで時間をつぶすのは無駄。テレビをやめて早く起きて、朝ご飯を子供たちと時間をかけて食べることが大切。よく噛んで食べなければご飯は栄養にならない。

講演会
詩人の原子朗先生の講演会が開かれました。

講演会
宮沢賢治と斑尾山、曼荼羅の話から始まり、小林一茶から西條八十からと縦横無尽に語りました。

講演会
講演会
戦前、当局の監視が厳しいもとで博光の作品を「蝋人形」に載せるかどうか議論になった時、西條八十は「私が責任をとるから載せなさい」といって博光を守った。

講演会
博光の詩は、どの詩にも千曲川の流れが「野太い旋律」となって流れている。
「フィ・カーン詩集」を朗読、もとの詩が翻訳で博光のすばらしい詩になっている。

講演会
中村秀雄さん(秋野さち子さん夫)たち11人が東京から参加され、懇親会で地元の皆さんと交流。

西條
西條紀子さん(西條八束氏未亡人)も東京からいらして、西條家と博光のことを話して下さいました。

講演会