ギュビック

ここでは、「ギュビック」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


  野の子 ギュヴィック
                           大島博光

 ユージェーヌ・ギュヴィックEugène Guillevicは、一九〇七年八月五日、フランスの西部、ブルターニュの大西洋に面したカルナックに生れた。父親は大男で十三才の時から水夫として海に出ていた。(ギュヴィックの詩のなかに出てくる伝説的な巨人には、この父親のイメージが重っているのかも知れない。)しかし、ギュヴィックの祖先たちはむしろ陸暮らしで、貧乏な百姓や村の職人たちであった。母親は仕立女であった。
 一九〇九年、ギュヴィックが二才の時、父親は船乗りをやめて、ベルギー国境のジュモンの憲兵隊に入隊する。一家も兵営住いをすることになる。北国(ノール)の冷たい霧や、工場地帯の煤煙は、大西洋岸の霞のように心地よいものではなかった。窮屈で、外部から切り離された兵営ぐらし。兵営は、ノール工業地帯の労働者住宅街のまえに、柵をめぐらして、そびえ立っており、労働者たちの憎しみと侮蔑の的(まと)となっていた。その頃は、ストライキと暴動の時代で、労働者たちと憲兵のあいだに激しい衝突がしばしば起こり、多くの血が流れる。「バターを九ス一にしろ」と叫んで歩く、女や子供たちのデモの思い出が、幼いギュヴィックの心に刻みつけられる。
 一九一二年、父親はノールのジュモンから、またも大西洋側にある、ブルターニュのサン・ジャン・ブレブレーへ転任になる。五才のギュヴィックはここに来て、ふたたび静けさと落ちつきを見いだす。サン・ジャン・ブレブレーは、カルナックから四〇キロ離れた村で、夏休みになると、子供のギュヴィックはカルナックにある叔母の家へ行って過す。アイロン掛けをして暮らしを立てている叔母のところには、かれをもてなすにも藁布団しかない。
 サン・ジャン・ブレブレーのあたりは、当時、糸杉のまばらに生えた丘や、荒れはてた野にかこまれていて、小さな部落が散在しているにすぎない。風の多いところで、風車がある。小鳥もたくさんいる。ギュヴィックの詩にでてくる小鳥たちは、この子供の頃の小鳥たちである。
 一九一四年、第一次大戦が始まる。かれは小学校にはいる。サン・ジャン・ブレブレーには二つの小学校がある。ひとつは、金持ちの子供たちが通う私立の小学校で、もう一つは、ギュヴィックの通った、きわめて貧弱な公立小学校である。『三十一のソネット』のなかの『公立小学校』は、雨の漏る、窓硝子もない小学校で勉強したなつかしい思い出を語っている。こうして、田舎の自由な空気のなかで、小鳥たちを相手に、数年が過ぎる。少年のギュヴィックは、『水陸』のなかで語られている『わんぱく小僧』のひとりで、かれもまた喧嘩をしたり、石を投げ、野を駆けまわり、小鳥の巣を荒しまわる……

  親父(おやじ)のそばに坐っていては
   めしものどを通らなかった

 その父親は、家を留守がちだった上、一九一四年からは、戦線に動員される。
 母親はたいへんきつい冷酷なひとだったので、ギュヴィックは母親についてはあからさまには語っていない……
 このような少年時代は、ギュヴィックの詩の形成にとって、きわめて大きな要因となっている。家庭的な愛情にめぐまれない、貧しい、野放しの少年として、野性に溢れた野の子として、荒涼とした丘や野や海べを、小鳥を追ったり、蛇の穴を探したりして、ほっつき歩いた原体験は、ギュヴィックの詩そのものともなり、主題ともなっている。少年のギュヴィックは、勉強するためには、たいへん苦労もし、努力もしなければならなかった。かれは小さい時から、「ひとの世話になってはならない」「自分のパンは自分でかせがねばならない」ということを身にしみて知らされていた。こうして、かれの少年としての原体験にも、子供らしい夢想や感激にも、きびしい生活感情がまつわりついている。ギュヴィックの友人、ジャン・トルテルは、このようなかれの一面を原始人(プリミチーフ)と呼んでいる。じじつ、岩、海、沼、空、夜、小鳥たちにたいするこの詩人の眼とその執着には、まさに大自然を前にしたプリミチーフの恐怖と新鮮さと素朴さとがある。しかもつねに生活的であり、地上的である。

   立石(メニール)は 夜 行ったり来たりして
   たがいに 噛(かじ)りあう

   森は 夕ぐれ ものを食べてるような音をたてる

 夜の立石や森の静と恐怖にみちた世界をうたうときにも、そこには観念的なものがない。それは眼に見え、手でさわることのできる、量と色彩とをもった世界であり、人間の生きている現実世界である。この広大で豊かな世界、「厚みのある」世界を、ギュヴィックは、小さな詩の形式のなかに盛りこむ。
 ギュヴィックは、この世界──自然にたいしても、そこに没入融合するというよりは、自然の存在のひとつひとつに面と向い、格闘して、その内奥の本質に迫ろうとする。また物と物との、目に見えない陰微な関係をつかみ出そうとする。かれは、『指物師』で語っているように、木材を選びだし、それを削り、吟味し、組みたて、また吟味する。できあがった詩句は短かく、簡潔であるが、それは、ちょうど石工がたくさんの石屑を削り落して、最後の仕上げをするように、たくさんの言葉を削り落し、吟味し、推敲を重ねた後に得られた簡潔さである。ギュヴィックは、この詩的作業をくりかえし吟味するばかりではない。かれの前に現われてくるのは、同じ物であり、同じ沼であり、同じ皿であり、同じ壁であり、同じ岩である。「岩」「風習」「壁」などにおけるように、同じひとつの根本的な主題が、ねちっこく、執拗に追求され、いろいろな側面から、いろいろなイメージをもって捉えられる……

 一九三五年ギュヴィックはパリに出て、大蔵省に勤務する。クローデル、エリュアールなど、手にはいる詩書を読む。
 一九三四年二月の、パリのファシスト諸団体による、いわゆる「二月六日騒擾」、ついで二月九日、フランス共産党の指導のもとに行われた反ファシズムの大デモンストレーション、──スペイン戦争の勃発──こういう騒然たる情勢のなかで、控えめで、引っ込み思案のギュヴィックは、ミーティングに出かけ、スペイン人民戦線にたいする連帯のカンパニヤに参加するようになる。かれは自分の進むべき道をもとめて、時にはあともどりをしたり、迷ったりし、エリュアールの援助のもとに、のちにはアラゴンの助言をえて、前進する。
 一九三九年、雑誌『コンミューン』に発表された『IN MEMORIAM』は、原題は「スペインの死者たちの思い出のための対話詩」であって、ギュヴィックはここで市民として声を挙げている。
 第二次大戦中、一九四二年、エリュアールの編集によって『詩人たちの栄光』が非合法で出版される。ギュヴィックはそこに、セルピエールSerpieresという匿名で、二つの『歌』を発表する。一九四三年、かれは非合法のフランス共産党に入党する。
 一九四五年に書かれた『屍体置場』においては、残虐なナチスの手に仆れた死者たちを生まなましく描くことによって、ナチスを告発している。
 一九五四年に刊行された『三十一のソネット』は、いわゆる「ギュヴィック事件」といわれる物議をかもすにいたる。五四年三月四日付の「レットル・フランセーズ」紙で、アラゴンはつぎのように書いた。
 「フランスにおける本年の詩的事件は、まさしくギュヴィックのソネットがしめした発展である。多くのアントロジーに席を占め、すでに一家をなしているこの詩人は、韻律も脚韻ももたぬ近年の詩的伝統に永遠に結びついているかに見えた。……ところがいま……かれは、ほとんどひと思いで、脚韻と韻律をもった詩形を採用し……ひたすらソネットを発表している。」
 これをきっかけに、自由詩か定形詩かの論争がまき起り、一九五五年三月号の「ユーロープ」誌上で、ジャン・トルテルの定形詩にたいする反論を中心に、ギュヴィックのソネット『書簡』による答え、ピエル・デエとアラゴンの手紙などを、「詩についての論争」として特集している。それについてはここに詳しく書く余裕はないが、その後、ギュヴィックはソネットを書かずに、『カルナック』(一九六一年)『領城』(一九六三年)などでは、再び以前のような、ギュヴィック独特の短かい自由詩形で書いている。そしてトルテルはこう説明する。
 「国民詩(定形詩採用を意味する)の概念は、アラゴンの天才には全くふさわしい。それはアラゴンには一種の鏡のように役立っている。かれには自分の詩形と、過去数世紀の詩形式への天才的な浸透とを一致させるカがある……ところが、ギュヴィックは、苦労してやっと表現に到達するプリミチーフ(未開人)である……」
 ここにはまた、詩と政治との微妙なかかわりあいが、むづかしい問題として横たわっているようである。ともあれ

  そこには貧しい家いえがあった
  貧しいひとびとがいた
                (『カルナックJ)

 ギュヴィックが、苦労と貧乏の長い伝統のなかから出てきたということは、ほかのたくさんのひとびとの苦労と貧乏とに想いをやり、政治詩をかく権利と義務とをかれに与えているのである。

ギュビック

(『ギュビック詩集』解説)


ずっとのちのひとびとに3_3

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ずっとのちんひとびとに2

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死体置場
            ユージェーヌ・ギュヴィック/大島博光訳

咲き乱れている花の間を行って よく見たまえ
野のはずれに 死体置場がある

百にも近い死体が 山のように積み上げられ
まるで巨大な昆虫の腹のようだ
無数の足が 四方八方に伸びて

男か女かは はいている靴でしか分らない
眼玉は むろん流れてしまった

──死者たちもまた
花の咲いている場所を選んだのだ

   *

死体置場の片隅に
軽やかに宙に伸びた あられもない

一本の脚──たしかに
女の脚だ──

一本の若い女の脚だ
黒い靴下をはいて

それから腿(もも)があって
まぎれもない

若い女の──いや何んにもない
何んにもない

   *

下着の布きれは
死体ほど早くは腐らない

そこらじゅうに
固くこわばった生地が見える

下着の下に まだ崩れずに
恥かしそうに身を隠そうとする肉が透(す)けて見える

なぜ死ぬのか どれだけの人が知っていただろう
どれだけの人が 知りながら 死んだだろう
どれだけの人が 何も知らずに 死んだのだろう

その人たちは 涙を流して泣いたのに
いまはみんな 同じような眼をしている

それはもう 骨の中に開いた穴なのだ
あるいは どろどろに溶けてゆく鉛なのだ

   *

彼らは 腐ってゆくことに
うんと 同意してしまった

彼らは 承諾して
おれたちから離れていった

ここで腐ってゆく彼らに
おれたちはもうどうしようもないのだ

   *

出来るだけ
死体を別べつに 引き離してやろう

めいめいを
自分ひとりの穴に 埋めてやろう

いっしょにいると 騒騒しくて
彼らはすっかり黙り込んでしまうのだ

   *

ほんとうに そう言っても
無分別でないとすれば

死体の群は まるで 愛に満たされて
これから眠り込もうとする
女のようだ

   *

死体が口を開けているのは
歌を歌っていたか

勝利を叫んでいたか
その名残りなのだ

さもなければ 恐怖で
顎の骨が ずり落ちたのだ

──いやたぶん ほんのはずみで
土くれが 口へはいったのだ

   *

粘土なのか とろけた人間の肉なのか
もう見分けもつかないような場所がある

大地はどこもかしこも そんな得体の知れない泥で
糊(のり)のようにねばつくのではないのか

   *

もしも すぐにも
彼らが骸骨になってしまえば

ほんとうの骸骨のように
さっぱりとした固い骨になってしまえば

こんな泥にまみれた
塊(かたまり)などにはならぬのだ

   *

われわれのうちの誰が 死体の間に
身を横たえようなどと思うだろう

一時間か 二時間だけでも
彼らを讃え 弔(とむ)らうために

   *

どこにあるのだろう
叫びつづけている傷口は

どこにあるのだろう
あの生身にうけた傷口は

どこにあるのだろう 傷口は
その傷口を 見とどけてやりたい

その傷口を 癒してやりたい

   *

ここに 誰も
安らかに眠りはしない

ここだろうと どこだろうと
決して安らかには眠れないだろう

そこの それらの死体から
残っているものは
残るだろうものは

(『ギュヴィック詩集』飯塚書店 1970年11月)


*一九四五年に書かれ、残虐なナチスの手に仆れた死者たちを生まなましく描くことによって、ナチスを告発している。
「『屍体置場』という詩をどうして書いたかって? 一九四五年五月のある日、(死の収容所で)じっさいにどんなことが起きていたのか、それがわかったからだ。わかり始めたからだ。国外の収容所に連れさられた人たちが帰ってきて、屍体置場の写真が眼に入るようになったからだ。
 その頃、わたしはよくエリュアールといっしょにピカソをアトリエに訪ねて行った。ピカソは多少世俗的なアメリカ人たちの訪問にわずらわされずにいた。その日の昼、わたしたちは三人きりで話しこんだ。その朝、国外に連れさられた人たちの列車の着くのを見にピカソは行ったのだった。……その夜、家へ帰るとわたしは一気に『屍体置場』を書いた。ピカソもー枚の絵を、白い背景の大作を描いて、『屍体置場』と名づけた。」(ギュヴィック「詩を生きる」)
ばらまつり

 ばら
      ギュビック

ばらは
まるで くちびるだ
まるで 肉体だ

ばらは花以上のものだ
まるで ひとがおしひらく
肉体の入り口の扉だ

おまえを見ると よくわかる
くちびるとは どういうものか
肉体が 何を持っているか

<『ギュビック詩集』1970年 飯塚書店>

 
     ギュビック


娘よ おまえが
夢に見た 海は
とても おみやげなどに
持って来れはしない

娘よ 海の波は
まったくの別世界
足が はまり込んでも
返事も 返ってこない

水平線は 娘よ
でっかい お殿さまだ
おまえが おし開けば
おまえを 迎え入れてくれる

娘よ おまえがもう
その眼で見た 木苺は
意地悪さんなどとは
仲よしには ならない

娘よ どうしてわたしに
ダンスなど 教えられよう
それは おまえの眼の中にある
そのあとをついてゆけばいい

そうして希望は 娘よ
海よりも もっと強い
木苺よりも 海の波よりも
ダンスよりも もっと強い

<『ギュビック詩集』1970年 飯塚書店>

書架
「詩を生きる─ギュヴィック自伝」 服部伸六訳
故郷での原体験など内容豊か

 こんどフランスの詩人ギュヴィックの自伝『詩を生きる』が出た。詩人はここで、辺境ブルターニュでの生い立ち、アルザスでの学生時代、大蔵省の下級役人暮らし、レジスタンス、そのなかでの詩の勉強と詩作、交友、愛などについて、率直に縦横に語っていて興味ぶかい。それはひとりの現代詩人の内面的な自叙伝であるだけでなく、二〇世紀のフランスの歴史と地理をもかいま見させる。
 とくに、故郷ブルターニュのカルナックの野を遊びまわった少年時代の思い出、そこにある先史時代の巨石(メンヒル)が詩人に与えたもの、野の子のなかに生まれる汎神論などを語るくだりは、そのまま「少年」のような初期詩篇の解説ともなっていて興味はつきない。
 もっと重要なことは、ここに詩人ギュヴィックの原体験があり、原点があるということだ。ブルターニュという独特な郷土性を身につけた詩人の秘密もそこにあろう。
 訳者服部伸六はパリでしたしく原著者と交友を結んできた詩人で、訳文はくだけた日本語の話しことばとなっていて、わかりやすく、名訳である。
                    (大島博光・詩人)
(青山館・二、〇〇〇円)

<掲載紙不詳 1984.5>


平和の味
            ギュビック/大島博光訳

 鳩のくびと
 うさぎの口と
 朝まだきの
 陽の光り

 子山羊の眼と
 水菜の株と
 とうしん草をゆする
 風のそよぎ

 雲のへりと
 ひと握りの米と
 雨を追いはらう
 陽の光り

 糸杉の芽と
 割れる木の実と
 ひろいひろい
 地平線

 はてしない小道と
 かけすの羽根と
 かんらんの木の
 いとなみ

 五月の森の下生えと
 池のほとりと
 ゆっくりと飛ぶ
 はやぶさ

 眠ってる岩と
 かける若駒と
 まわりにある
 牧場

 眠ってる子どもよ
 それらのみんなを
 いやもっとたくさんのものを
 君は見るだろう

 なぜなら ぼくらが
 一生懸命にたたかうから
 君は見るだろう
 大きくなってゆく平和を

 ギュヴィック── 一九〇七年生。フランスの党員詩人。単純平明な言葉とイメージで大きな効果を与えるのを特色としている。この詩は、一九五二年の詩集「地上に平和を」に収められている。

<「アカハタ」1959.3.24>

 ずっとのちのひとびとに
                         ギュビック/大島博光訳

ずっとのちに ちがった労働を知るだろう君たち
働くことが まるで祭りのようなものとなり
詩人が 詩をつくるようなものとなり
めいめいに 情熱と勝利と芸術とがあるだろうとき

少しばかり おれたちのことを想いみてくれ
まったく牛や馬のように へとへとになるまで
つらい仕事に追いまわされ 働きつづけたので
おれたちの眼は 悲しみの色を帯びたのだ

ああ わかるだろう おれたちも人生を愛した
そんな地獄の暮らしでも 希望を投げ捨てたり
わが身の上に涙を落そうなどとはしなかった

そうだ おれたちも楽しむことがとても好きだった
君たちと同様 小さな楽しみや大きな楽しみが
いちばん大きな楽しみは 君たちに道を開くことだった
                           一九五四年一月三日