博光日記

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


一月廿一日 快晴 風あるもあたたかい

 夕方、駅前にでかけて、この自由日記帳を買う。去年はほとんど何も書かなかったので、ことしは日記ぐらいは書こうと発心して、これを買ったのだが、どれほどつづくことやら。
 この日記帳とともに、買物かごのなかに買いこんだものは、レモン二個、キリン炭酸水二本、キャベツ一個、そば二つ、ひき肉一包み。こんやもボリシチ。

 昼のあたたかい光りには、もうどことなく春のけはい。雑木林のうつくしさが目につく頃となる。ジンフィズをのんで、早春の詩情をおもう。ぼつぼつ詩も書かねばなるまい。

 「レーニンとプロレットクリト」の訳詩、きょうはすすまず。

(「随想日記」)

静物
大島静江「水差しと果物」


1977年8月25日〜
上高地より徳沢、涸沢、北穂にゆく
徳沢あたりの道ばたの木に「捜し人」の札がさがっている。若い女の人というか娘さんらしい写真がついていて、横尾山荘から焼岳に向ったまま消息不明なので、気づいたひとは連絡されたい、という。

二日目 徳沢を出発 横尾をとおり、壮大な屏風岩を眺めながら、出合いの沢に出る。これからがたいへんな急の登りで、身にこたえる。十歩あるいては一と息いれる。それでももうからだが言うことをきかず、ふらついてくる。チョコレートをなめて力をつけ、またもぼる。ふつう三時間の行程が六時間かかる。五時半頃涸沢ヒュッテに着く。雨のため、北穂も奥穂も見えない。

涸沢
Photo 大島秋光

一九九〇年十一月十日(土)
あたたかい一日 ワセダ・筑波大ラグビーを秩父宮ラグビー場にみる 前半6−12とリードされたが 後半に逆転する
   *
老いの日の衰え 歩行にも 勉強にも
──死ぬまでは動かねばならない
   *
きみとぼくとは おんなじ苦しみをなめる
ぼくときみとは おんなじ悦びをもつ

一九九〇年十一月十八日(日曜日)
 満八〇歳になった
 よくぞ ここまで生きてきたものだ
 病気や危険な瀬戸ぎわを通って
 運まかせ天まかせ
 気ずい気ままに生きてきた

一九九〇年十一月二四日(土)快晴
 きみのなかで
 生は死にうち勝とうと闘っていた
 手は空をつかんでもがき
 萎えた足は動かずにあがき
 おめき 叫んで 助けを呼び・・・
 煮え湯を脚にかけ
 火のついたガスストーブに腰かけて
 火傷(やけど)を負った

(日記1990年11月)

「八〇歳になった」

三鷹
1988年10月16日(日曜日)快晴
   *
戦争で息子を殺された老母は呻いた
テンノオヘイカハオッカネエ
   *
1988年10月18日(火曜日)くもり
昨夜 釣りに行った夢を見た
いい釣り場がなく
それに釣り竿を忘れて行った
   *
奴隷の歌をうたっていた
うつろな自己不在の 人間不在の抜け殻の
うつろな
(日記1988年10月)

釣り
スターリン体制は倒れたが
ショスタコーヴィッチの歌は残る
   *
          2001.9.2
原潜沈没で夫を失って抗議する婦人の肩に テレビの
報道の前で 注射器で鎮静剤を打って処置する──
スターリン独裁時代の非人間的な強圧政治の姿がそのままそこに演出された──

自分がまいた種によって
このような憎しみを身に招くことになった その歴史的な原因……

夕ぐれ


1988.10.1(土曜日)
やっと秋晴──九月いっぱい雨つづき
幸徳秋水の処刑以来、絞首台の影はずっと日本人民のうえにのしかかってきた・・・意識すると否とにかかわらず その影は詩人たちの内部にも重くのしかかって
いつか 彼らは 遁世 隠棲 世捨てを美徳とみなし ひとつの伝統とみなすようになる・・・それは 居ながらの亡命であり 逃げであった
   *
やばいことは口にしない
あぶないことには近寄らない
という逃げの精神を形成する
狼がペンを持って
狼のことばで人民を脅しつけ
人民を陥し入れた

おれたちは労働者で農民だ
素手で生まれてきた
しがない人民だ
うろついている犬どもが
いつでも踏み込んできた

母親の目の前から
息子をひたてて行った

カシの棒でひったたき
逆さ吊りにして焼きを入れた
そうしてやつらは
小林多喜二を虐殺した
紫腫れの丸太にして

すべては神の名で
狼の名で 行われた

孤独な心象風景や
暗い内面世界のなかに逃げこんでいた

非合理や神秘や幽玄のなかに
現実を忘れさせる 現実離れの島に

(日記1988年10月)

千曲川
秋の千曲川
1988年9月1日(木曜日)くもり
関東大震災の日
あのとき中学一年生で 屋代中学の教室にいた
炎天のなかを松代駅から 家路を歩いていた
暑かった

1988年9月9日(金曜日)
くもり 涼しい
アラゴンの『詩人たち』の「終曲」は、
老年の詩人が「明日の日の人びと」にのこした遺言であり呼びかけである。
   *
アラゴンの詩人としての発言の高さがそこにある。

1988年9月9日(金曜日)
初秋のすがすがしさ 晴れやかさ
   *
ニューシュを描いたピカソのデッサンに飾られたエリュアールの「豊かな眼」をふところに、戦争前夜の暗い新宿をさまよっていた「自然の運行」
戦後になって病気をしたり アラゴンやネルーダの紹介に忙しかったりして
エリュアールにはなかなか手がまわらなかった。それにはエリュアールの詩は難解で訳しにくい、あるいは翻訳不可能のようなところがある、などということもあったろう。とにかくわたしなりのエリュアール・ノート」が書けたのは「民主文学」が一年余にわたってそれを連載してくれたおかげである。ここに編集部に謝意をしるしておきたい。
 エリュアールをめぐっての評価・解釈にはいろいろあるが、わたしとしてはエリュアールがぞくした共産党の立場、党員詩人としてのエリュアールを中心課題に据えた。それにはアラゴンのエリュアール論が大きなささえとなった。ことばのニュアンス、とりわけ多義的な意味をもった言葉を訳すことはほとんど不可能である。

1988年9月10日(土曜日)
東伏見でラグビー・ジュニア戦
ワセダ・日体大戦 ホイッスル寸前 逆転して勝つ

1988年9月13日(火曜日)
秋の涼しさ始まる
遠きより声あり 忘却を呼ばう

1988年9月16日(金曜日)
赤木由子さんの葬式 禅林寺 盛大
(十三日夜 心筋コーソクにて死去)
積年の無理の結果なるべし

1988年9月18日(日曜日)
くもり
オクスフォード大対オールワセダ・ラグビー
国立競技場 三九対十五でワセダ敗北
スピードと体力 およびキックにおいて劣勢

1988年9月20日(火曜日)
くもり 彼岸
詩歌における政治離 政治恐怖 政治嫌悪について書く・・・
政治において
孤独な詩人たちも多数者の他者たちと結びつくことができる。そのとき詩人たちの孤独は消えさる。
詩人と他者と──

1988年9月29日(木曜日)
秋の長雨のあとの晴
秋風さわやか 釣り場を想う
   *
華やかなシュールレアリズムの旗手
ピカソの親友となり 「ゲルニカの勝利」をうたい 「自由」をうたい
レジスタンスのなかで共産党に入党し たえず人民の運命と革命をうたい
階級支配のからくりをあばいた

(日記1988年9月)

エリュアール

一九八八年九月九日(金曜日)
初秋のすがすがしさ 晴れやかさ
   *
ニューシュを描いたピカソのデッサンに飾られたエリュアールの「豊かな眼」をふところに、戦争前夜の暗い新宿をさまよっていた「自然の運行」
戦後になって病気をしたり アラゴンやネルーダの紹介に忙しかったりしてエリュアールにはなかなか手がまわらなかった。それにはエリュアールの詩は難解で訳しにくい、あるいは翻訳不可能のようなところがある、などということもあったろう。とにかくわたしなりの「エリュアール・ノート」が書けたのは「民主文学」が一年余にわたってそれを連載してくれたおかげである。ここに編集部に謝意をしるしておきたい。
エリュアールをめぐっての評価・解釈にはいろいろあるが、わたしとしてはエリュアールがぞくした共産党の立場、党員詩人としてのエリュアールを中心課題に据えた。それにはアラゴンのエリュアール論が大きなささえとなった。
ことばのニュアンス、とりわけ多義的な意味をもった言葉を訳すことはほとんど不可能である。
(日記1988年8月〜10月)

*「エリュアール・ノート」は「民主文学」に1987年8月号から1988年8月号まで13回にわたり連載されたエリュアールの評伝。
これをもとに1988年11月、新日本新書「エリュアール」が出版された。

ニーシェ
ピカソ「デッサン」

一九八九年九月十日(日曜日)
晩夏 快晴 暑い
   *
きみはわたしを連れて行った
ロワール河畔の古城めぐりに
ブロア城、シノソー城
トゥールの橋のたもとに立っていた
デカルトとラシイヌの銅像よ
そのほとりのレストランで食べた
ビーフステーキのうまかったこと
    *
もう何んにも思い浮かんで来ない
もう何もかも忘れてしまった
  *
みんな過ぎ去ってしまった そして
みんなおしまいだ 大団円だ

(日記1989年7月〜11月)

パリ?
1875年8月
一九九一年九月六日(金)

きみの時間は止まってしまった
きみの眼も手も もう動かない
いや きみはもう消えてゆくばかり
わたしのなかに 存在しながら
存在をも失ってゆく
   *
わたしはきみを惜しむ
きみの春を惜しむ
春の日の消えさった香りを惜しむ
いくら惜しんでも惜しみきれない
しあわせだった たのしかった
涙は溢れる
いくら泣いても 泣ききれない

(日記1991年8月〜)

パリにて
パリ・シャイヨー宮にて/1975年8月

一九九二年八月三〇日(日)晴 暑い

詩人は慰める人であって
慰められる人ではない
詩人は泣いている人の涙を拭いてやるが
おのれじしんの涙を拭きはしない
   *
逃げるな 最後には 化けてやれ
地獄を楽園に変えてやれ
涙を笑いに変えてやれ
孤独を祭りに変えてやれ
   *
吹きっさらしの冬の河原に
放り出された老いぼれ猫
   *
寂寥の深淵に めくるめく 虹の橋をかけよう

(日記1992年8月)

枯れた実

一九九二年八月二九日(土)晴 暑い

きょう わたしは
みんなに別れのあいさつをしよう
みんなに さよならを言って歩こう
朝な朝なの散歩道 わたしの眼を慰めてくれた
辻公園の しだれ柳よ
マチス風な大きな葉むれの影を
白壁のうえに落していた トチの木よ
夏の日に 涼しい木蔭を与えてくれた 銀杏の木よ
歩き疲れて腰をおろし
想いにふけり 浮かんだ詩のひときれを書き
白い雲をみやった 道ばたのベンチよ

少しばかり長生きしすぎて
生き残りの悲しさ寂しさ苦しさも味わった
やさしく微笑んでくれたひまわりよ
こまやかな花むれで迎えてくれた萩よ
そうして逆風にひるがえる桜よ
逃げるな きみは逃げるな

(日記1992年8月)

ひまわり
一九九〇年八月十六日〜二十三日
静江 食物をかんだり のみこむ力なくなり 食べること飲むことができなくなる 意識があるのか それもわからないが 眼をひらいて宙を見ている
死相を連想させる 白かった顔が土色となる

一九九〇年八月二十四日(金曜日)
朋光のすすめで二十六日発でパリに行く予定だったが わが老体の歩行困難と静江の病状悪化のためにパリ行きを中止する。

モーツァルトやブラームスを愛したその耳ももう何も聞こえない
うつろな眼をひらいて不感無覚に横たわっているきみは・・・
そうしてきみはもう病院にもいなくなる
この世にもいなくなる
だがやっときみは地獄から抜け出ることができた・・・

一九九〇年八月二十七日(月曜日)晴 涼しい
きのうパリに発つ予定だったが 自分の老いの体力に自信がもてず キャンセルする
──家でねたり起きたり 気ままにしているのが精一杯だから・・・
   *
あの野太い楽観主義はどこへ行った?
「歌うたう明日を準備する」ために
仂くこと たたかうことほどに
まさる何があろう?
   *
白い雲の流れる青い空ももう映らない

(日記1990.8)

ノートルダム寺院
ノートルダム寺院前にて 1974年8月
一九九二年八月二一日(金)くもり

きょう わたしは人間を信じる

きょう わたしは幸福を信じる

多くの弱さ あやまちにもかかわらず

きょう わたしは人間を信じる


(日記1992年8月)

跳ぶ

大島美枝子「跳ぶ」

一九九二年八月十二日(水)くもり 涼しい

空を飛ぶものたち

羽根や翼をもったものたち

梢のてっぺんで歌うものたち

森のなかで夢みるものたち


(日記1982.8)

けやき