チャーリー・チャップリン

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


こうしてチャップリンは死んだ
                                 ルイ・アラゴン
                                 大島博光訳

 チャップリンの死の翌日 フランス共産党紙ユマニテは追悼特集号を発行し、その冒頭はアラゴンの一文によって飾られた
チャップリン

 こうしてクリスマスの夜、チャップリンは死んだ。それはいつかの夜、きっとやってくるはずだったし、だれの身にもやってくる。わたしが彼のために詩をかいたとき、わたしはやっと廿歳(はたち)になったばかりだった。それは恐らく、チャップリンのために書かれた最初の詩であり、とにかく活字になった、わたしの最初の詩であって、「映画」という宣伝雑誌にのった。わたしの年代の者は、ちょっと親しみをこめた意味あいで、チャリーをシャルロと呼んでいた。
 ある女性が、アメリカの法廷で彼の名誉を汚し、泥をぬろうとしたとき、わたしは彼を弁護するために一文を書いた。それはわたしの青春の激しさにみちたもので、二十年代であった・・・彼はわたしに感謝の意をのべるために、たしか三行ほどの手紙を書いてよこした。このように、生涯を通じてひとが大きな誇りをおぼえるようなことがあるものだ。
 ずっと後のことだが、彼は妻のウーナを連れてパリにやってきた。彼女はパリが初めてだった。彼はエルザとわたしと、それにポズネルとかれの妻とを、夕食に招待してくれた。ポズネル夫妻はすでにアメリカで彼と知りあいであった。それに.むろんピカソも招待された。わたしは彼らが交わしたまなざしをけっして忘れないだろう。ヴァンドム広場には人びとが押しよせ、ホテルの前には群衆と警官隊とが群がっていた。この二人の男──チャップリンとピカソを連れて、そっと外にぬけ出すことができたのは真夜中すぎだった。二人はこっそり逃げたんだという噂(うわさ)がひろまった。それから、あの左岸の街まちを散歩した。暗い夜の、人気ない、狭い街通りに、われらの旅行者たちは、フランソワ・ヴィヨンの面影をさがしもとめた。それからパブロがわたしたちを彼の家に──例のオーギュスタンの屋根裏部屋に案内した・・・ちょうど停電になった。するとシャルロはウーナに注意するように言った・・・絵が床に置いてあり、またあるものは壁ぎわにたてかけられ、あるものは重ねてあった・・・「気をつけなさい、おまえはいま百万ドルを足げにしたんだよ」と彼は、困惑してせんせんきょうきようとしているウーナに言った。ライターをつけてみると、それがセザンヌの絵だということがわかった。絵は傷んではいなかった・・・
 ところで、どうしてこんな話をするのだろう?今世紀の光明であったような、あのかずかずの映画について語らねばならぬときに。──それらの映画は、まったく一つの世界であると同時に、現代史である・・・哀れな庶民と大悪党、少年時代の「キッド」とファシズム告発の「独裁者」・・・彼のように、極悪の魂をもった連中と、もっともやさしいまなざしをした人たちとを、同時にわたしたちに見せてくれるような、そんな眼をもった人間がかつていただろうか、わたしは知らない。言うべきことはたくさんあるが、結局、たくさんのことが言わずじまいになるほかはない。チャップリン、マチス、エリュアール、ピカソ・・・かれらがだれにもまして、はっきりと見てとることのできたものを説明するには、言葉というものはあまりに貧弱なのだ・・・これから永いこと、わたしたちの後の世の人たちも、これら忘れがたい人たちを夢みつづけ、恐らく勉強や科学による以上に、かれらのおかげで、この世界のすばらしさに眼をひらくだろう。そうしてずっと後の子供たちも、街のどこかのホールで、チャップリンの忘れられた古い映画を見て、笑いころげたり、あるいはまた、こみあげてくる涙を抑えかねるだろう。

チャップリン

<『文化評論』>