服部伸六

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


年賀状


まだ生きているよ、
新 の年といいながら、
体はいつものもの
コケは生えて、コケむすまで
生きているいる気配はないが、
あなたも長生して下さい

大島博光さま

 服部伸六 1996年1月


*「新領土」以来の親友だった服部伸六さん、詩や文章はユーモラスな言葉遊びにあふれていました。
この2年後の1998年春に永眠されました。<服部伸六はもういない

服部伸六
服部伸六

一九五八五年冬。あと十五年で、三千年代の幕明けになるが、それまでいきているかなあ。
赤旗の書評ありがとう。読書新聞と図書新聞にも、それぞれ書いてくれた人がいたので、いくらか反響があったということか。
ギュヴィックから手紙が来て、彼は一九八四年のPrix national de la Poesie を受けたといってうれしい便りと言って来た。これが、どういう賞なのか、ボクはよく知らないが、むかし、ヴェルレーヌが受けたものと同じかなと思う。
シナノ毎日に、書評を貴兄に頼むよう手紙しておいたが、何も連絡はないですか。

大島博光兄
ちばし柏台 服部伸六
(消印1985.1.16)

*「詩を生きる―ギュヴィック自伝」 (服部伸六訳、青山館1984年) の書評のこと。博光は信濃毎日新聞「書架」にも書いているので、このハガキのあと書いたようだ。


服部伸六はもういない
                        大島博光

春の日のわが友 服部伸六はもういない
詩人は微笑(ほほえみ)ながら夢みながら行ってしまった

春の夜にいっしょにあふった緑の酒よ
酔っていっしょにさまよった泥の街よ

暗い暗い時代の闇のなか 苦しみながら
ひかりを酩酊を探して歩いた彷程よ

もうきみといっしょに酒ものめない
もういっしょに新宿裏もぶらつけない

詩人は微笑(ほほえみ)ながら夢みながら行ってしまった
春の日のわが友 服部伸六はもういない

                  一九九八年 五月

<『河』第18号>
服部伸六


服部伸六

     *
 優雅なノマードとなった服部伸六は、カナンの海のほとりを歩き、ランボオが最初に逃げて行ったキプロスをさまよい、ナジム・ヒクメットの祖国トルコにまで足をのばし、あるいはアフリカの奥地を歩き、あるいはまたモロッコのリフ族の山地などを歩いている。地図のうえの世界をさまよい歩きながら、かれはじぶんの詩的世界を拡大し、旺盛な好奇心や関心をいたるところで発揮し、発展させる。その点で「カナーンの海のほとりで」の純粋さをわたしは愛する。そのなかの「ランボオとキプロス」をとりわけ愛する。
 「ランボオとキプロス」はユニークな、いわばひとつの体験的なランボオ論といっていい。有名な「地獄の季節」の詩人ランボオは、パリ・コミューン(一八七二年)の敗北後、絶望のあまリフランスを逃げ出したのである。そして一八七九年、かれはこのキプロス島にやってきて、イギリス総督邸造りの工事監督となる。こんにちのキプロス共和国も、当時はイギリス領だったのだ。そして東方の詩人服部伸六は、このランボオの歩いたトロードスの山道をたどって、ランボオの「内なる地獄と外なる地獄」について語ってくれる。夢幻のようなイメージにみち、地獄の炎にみちた「地獄の季節」──この「内なる地獄」を書いたランボオが、キプロスで見いだしたものは、やはりイギリス帝国主義の植民地的経営の外なる地獄だったのではないか。服部は書いている。
 「ランボオはここの素敵なブドー酒を呑んだだろうか。キプロスからの手紙には一切、酒の話などありはしない。金と病気の話ばかり。」
 ところでキプロスはまた、古代ギリシャの植民地で、ギリシャ文化の誕生した地であり、アフロディテが生まれたという伝説の島である。詩人はそのことをも楽しく語ってくれる・・・
 「内なる地獄と外なる地獄」という主題は、詩人服部伸六の中心的な主題のひとつであるように思われる。この問題は、「節分の夜の観光バス」というユーモアにみちた散文詩のなかでも提起されている。世界詩人連盟が、節分の夜に、地獄を見てまわる観光バスをしたてるという発想で、そのパンフレットにはこう書いてある。
 「アルチュール・ランボオが見た地獄、アウシュビッツのユダヤ人が見た地獄を見ることは、今や詩人にとって絶対の条件であります。わが世界詩人連盟は、今回、地獄観光コースを選びました。二週間の全行程、各自その内なる地獄を、外なる地獄と対比することによって、詩と地獄とのかかわりあいを探っていただくことになっております。・・・」
 この主題は、音楽における主導旋律の何楽章かにわたるヴァリエーションといったかたちで展開される。「アッツ島」も出てくる。ちょっとばかしベトナムも出てくる。そしてこんな会話がかわされる。
 「・・・そういえば今夜はテトだ。ベトナムで休戦がほんものになるかならぬか、という夜だ。鬼どもは地球の外へ出て行ってもらわにゃならん。もちろんベトナムからもじゃ・・・」
 「・・・鬼は心のなかにいるのと違いますかね。たとえば、あなたの心のなかに・・・」
 「い・・・や、そうかも知れん。俺の心のなかの鬼を追い出すのが、第一にせねばならぬことかも知れん」
 ここにこの詩人の善意をよみとることができる。地獄めぐりの観光バスが、節分の夜におこなわれたということには、「鬼を追い出す夜」という想いがこめられていたのである。
     *
 この優雅なノマードは、世界を股にさまよいながら、世界を股にかけて、ユーモアと風刺にみちみちた文明批評をくりひろげている。石油から死の問題まで、ヘレニズムから革命まで、およそ形而下から形而上にいたるあらゆる問題が対象となる。あるときは、それは野放図に拡散されて、わたしなどの尺度を越えてしまう。あるときは、かれの風刺はもろ刃の剣ともなる。とにかく、着陸するときの飛行機のように、詩人はせりあがってくる外部世界への応接に忙しいのだ。かれはそれを「低見の見物」と称している。それは多くの眼をもちすぎた者の幸福ででもあろうか。
 「まっくらくらのクリスマスの夜」では、このとてつもない無神論者は、イエスの神話をあばいてはばからない。中世だったら、むろん破門され、火あぶりの刑になること疑いないような冒�を働いている。しかしかれにはどうやらそんなことはどうでもいいのかも知れない。このコスモポリタンは、ほんとうは、「イエスのお話も、神と自然と人間とがいっしょに暮らしていた太古の神話時代のつくり話とへだたりはない」ということを言いたかったのかも知れない。かれはレバノンの葡萄作りの農夫に語らせている。
 「《ああ、アドニスですかい。あれはアダムのことですたい。》
 きみは開いた口がふさがらなかった。イスラムとキリスト教とが混り合うこの近東の地では、旧約聖書とギリシャ神話とが混淆されていたのだ・・・ああ、アドニスの青春は、旧約のむかしほど古く美しかったのだ。・・・復活祭だなんて、多分、この永遠の青春のお祭りにちがいない」
 このギリシャ的な人間讃歌をうたうとき、この詩人の声にはよどみがない。かれはさらに、ノートル・ダムのミサを覗いて見ながら、クリスマスの由来や本質をせんさくし、その神話を無神論者の論理であばいてみせるが、性急に結論を出そうとはしない。むしろ巧みにはぐらかしてしまう。そのときのかれの声には「今ひとつカがない」のだ。だからこそ、まっくらくらのクリスマス、というわけだろう。
     *
ところで、詩人について語り夢を語るときほど、服部伸六が詩人に還るときはないように思われる。「奴隷海岸にて」において、かれは奴隷商人の老人に語らせている。
 「・・・夢じゃよ。幻覚だよ。むつかしくいえば、錯乱状況という奴さ。あばら屋の代りに、宮殿を。古びた木の腰掛けの代りに金ピカの椅子を。・・・湖の底にピアノを。おう、おれには新しい天と地とをつくる力があるのじゃ。かつて存在したことのないような世界がつくられるのじゃ・・・」
 このように、ランボオの「見者(ヴォワイヤン)の美学」を想わせるような夢を語る老人は、むろん詩人の幻影であり、かれ自身の分身であるにちがいない。そしてそういう服部伸六をわたしは愛する。

 身震する幸福を
 しいたげられても だまされても
 持つことの出来る硬い心を
 石の花を
 友よ 今日も又詩人と呼ばれよう
                    (「萎んでゆくものは」)

 二〇世紀の世紀末の
 疎外された老いぼれたちよ
 みんな集まれ

 三〇世紀を人間の世紀とするため
 詩人学校をつくろうではないか
 三〇世紀のおれたち青年の夢のため
 宣言をつくろうではないか
            
こう歌うとき、作者は優しい心をもって、詩人共和国というものを夢みている。そうしてそういうときの服部伸六をわたしは愛する。
                             一九七七年五月

<「服部伸六詩集」1977年>

服部伸六

服部伸六詩集 解説(上)
                       大島博光

 わたしが服部伸六とはじめて出会ったのは、一九三七年頃ででもあったろうか。新宿の三越の裏通りのあたりに、文学青年や絵描きのよく集まる「ノヴァ」という酒場があって、わたしもよくそこでとぐろをまいていた。新領土の集まりのあと、服部伸六ともそんなところへ行って、いっしょに飲んだような気がする。たしか、かれはまだ慶応の制服をきた美青年であったが、すでに言葉の罠で神秘をからめとったり、重層的なイメージの隙き問から地獄をかいま見せるような詩を書いていて、わたしたちをひどく驚かしたのだった。ここでいう地獄とは、当時ランボオの「地獄の季節」がわたしたちのあいだで流行(はや)っていて、その後、服部伸六がみずから「内なる地獄」と呼んだところのものである。
 ある夜、それも新領土の集会くずれの五、六人で新宿三丁目裏にあった「山小屋」あたりで夜おそくまで飲んだことがあった。電車もなくなり、行くあてもなく、みんなで酔いどれ行をしているうちに、いつか明治神宮の絵画館の前に出た。外苑の木立のうえにもう夜が明けそめていた。酔いほほけ、疲れはてた眼に映った、あんなに美しい、うすばら色のあけぼのを、わたしは見たことがない。
 あのときいっしょにいた酒井正平は戦争で殺された。「黒い歌」ですでに名声をあげていた楠田一郎は胸を病んでまもなく死んだ。永田助太郎は戦後まもなく、渇きのあまり、メチル・アルコールまであふって飲んで、死んでしまった。服部伸六もやがて戦争に駆りだされて中国大陸に渡った。しかし運命は服部伸六を生きながらえさせたうえ、戦後、世界を股にさまよい歩く優雅なノマードにしたてあげた。
     *
 まず「弾きがたり」がうたわれる。弾きがたりというのは、ギターなどを弾きながら語る吟遊詩人のうたを指すのにちがいない。したがって詩人は語りかける相手をもち、語りかけることがらをもっている。そうして歌はやはり叙事詩風なものになってゆく。「カラカンダの勇士のきみ」は、戦後、カマボコづくりのミキサーで指を三本切りおとし、泣き笑いながら酔っぱらっていて、何かペーソスを誘う悲歌のようにきこえる。詩人はここで「戦後」そのものを風刺しているように思われる。つづいて「蜜と乳の流れる墓地」では、詩人は資本主義的自由を痛烈に風刺している。「うた(一)」では資本主義は「神様の姿をした悪魔」となって現われる。これらの風刺詩にたいする反歌のように、「うた(二)にはつぎのような詩句があらわれる。

 うすもやの泉のほとりとおぼしきあたり
 むかし埋めた宝を探す海賊のごとく
 ひたむきにあなたは探すむかしの酒を

 むかしおぼえたあの心のたかぶり
 きよらかで透明なあの酔いごこち
 むかし奏でた仲間との二重奏

 どれもこれも今は消えはてた・・・

 消えはてたむかしの泉、青春の日の輝きを呼びかえすこれらの詩句ほどに、なつかしくも美しいものはない。このとき、詩人はむかしの純粋詩人にもどるのだ・・・

(つづく)

あれは何に出てたの?(朝日人物辞典+)初めてだ ほめてもらったよ
服部伸六君が書いてくれるなら 良く書いてくれるよ 彼は慶応の仏文でね
もう死んじゃった (エリュアールやアラゴンの詩を語る)ただ一人の親友だ
どれも知っているからね お互い話しができるんだよ

服部君はね「新領土」っていう同人誌で知りあったんだよ 早稲田も慶応もいるさ
やっぱり仏文だからね 合うよ 英文のひともいたけどね 新領土? イギリスの
ニューランドという本の名前からとったんだよ 領土なんていう侵略的な名前をつけてね

つまりさ 慶応の服部君が文学誌をやっていて そこに早稲田にもこういう秀才がいるってほめてくれたわけだよ 仏文では 大学を出たっていう箔を付ければいいだけの 坊ちゃんたちがいるんだよ その中で勉強している奴もいるっていうことを 言ってくれたわけだよ

(尾池和子「大島博光語録2」)