丸山亜季先生と音楽教育の会

ここでは、「丸山亜季先生と音楽教育の会」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



音楽教育の会の故丸山亜季先生が2010年11月の集いにて「ぼくはパルファン川の歌ごえをきく」に曲をつけた想いをお話し下さっていました。

丸山亜季


「ぼくはパルファン川の歌ごえをきく」(グエン・スン・サン/大島博光訳)に曲をつけた丸山亜季先生が博光あてに手紙を書いていました。

◇   ◇   ◇   ◇

四月二十三日のアカハタに載せられた詩「ぼくはパルファン川の歌ごえをきく」を感動して読みました。すぐに全部暗誦してしまいました。そして一ヶ月経って作曲しました。同封の楽譜がそれです。はじめは男声ソロと朗読にしたのですが、私の所属している群馬歌舞団で合唱したいという要望が強いので合唱の部分を多くしました。ソロ曲を二声にしたのでどうかと思いましたが、詩を語ってゆくつもりでみんなでうたってみました。うたいながらみんな感動して涙ぐんでいました。

詩を読んでいると、渦巻き流れる利根川にパルファン川が重なり、土手のアカシアが傷ついたベトナムの樹となり、魚釣りの子供たちが 凶器をつきつけられたベトナムの少年たちになってゆきます。私が今 なにをしなければならないかを問うてきます。
底深い民族独立のたたかいの中で、かぎりなくやさしく、うつくしい ふるさとのイメージが更に人々の心に命を波立たせているのだと思いました。
作曲していると訳詩のすぐれていることがわかってきます。詩のリズムがそのまま曲になってゆくようでした。

この楽譜を島田誠三さんが「ぼくが大島さんにとどけてあげる」と言ってくれたのですが、彼は今 参院選で忙しく すぐにはお伺いできないと思いますので、私から送ります。
実は たいへん申しわけないことですが、昨日(六月六日)群馬のうたごえで この歌を発表しました。群馬歌舞団では別の歌曲を練習していたのですが、この曲が出来ましたので 急に曲目を変更したのです。
うたごえのスローガンの中にベトナム侵略反対が大きく出されているとき、この歌を出してゆくことが必要だと思ったからです。
事後の連絡で ほんとうに申しわけありません。

うたごえでは こぶしをあげて強烈に叫ぶ歌が多い中で、曲も合唱も決してうまくはないが、滲み透ってゆくものがあったと思います。
しかし 訳者の諒解を得なかったことは悪いことです。気にかかってなりません。お許し下さい。
この曲を「日本音楽舞踊文化会議」を通して「ベトナム侵略反対 音楽舞踊家のあつまり」に送りました。私は「音舞会議」の作曲部会に入っており、「ベトナム侵略反対 ──のあつまり」にも参加していますので、運動に参加したしるしとして送るのです。大衆行動の中でも、それぞれの専門の場で追求し、行動しなければならない本命があるのだと思います。

すぐれた訳詩にめぐまれたことをほんとうに感謝しています。 ご批判いただければ幸いです。
なお うたごえ発表の時は 朗読の部分の伴奏を曲の最初の部分とおなじものにしました。その方がいいと思います。

六五年六月七日
群馬県佐波郡玉村町 丸山亜季

大島博光様

パルファン川


*「わたしはパルファン川の歌ごえをきく


 早乙女直枝さんは2008年3月に博光記念館をつくる会が発足して活動を始めた時から協力され、記念館オープン後は友の会の会員でした。名前から作家の早乙女勝元さんの家族か、と何となく思っていましたが、詳しいことは知りませんでした。2008年6月に若くしてお亡くなりになり、とても残念に思っていました。
 今年9月に出版された早乙女勝元さんの『もしも君に会わなかったら』を読んで、直枝さんが早乙女勝元さんの伴侶であったこと、歌が好きな明るい方で、うたごえ運動や音楽教育の会の熱烈な実践者であったことが分かりました。そして博光のサイン入りの詩集や著作本を相当量持っており、「どれも筆者のサインのほか、彼の女の名前入りだから、直接に手渡されたものと思われる」ことから、相当な博光ファンだったようです。
 東京音楽教育の会は「大島博光さんの84才を祝う会」(1994年11月、吉祥寺)や「『老いたるオルフェの歌』出版を祝う会」(1995年4月、三鷹)に出演して歌っていますので、直枝さんも出演されていたのではないでしょうか。
 早乙女勝元さんは先立たれた妻を歌った『老いたるオルフェの歌』に共感できたといって、この本の結びに「きみの炎は」を掲げています。
 
 きみはもう吹く風となった
 いまもやさしくわたしにそよぐ
 そしてわたしのなかを吹き抜ける
 ……
 きみはもう夢の夢となった
 明日の日へとわたしをみちびく
 わたしの見果てぬ夢となった

もしも君に会わなかったら

 作曲家の丸山亜季先生が11月16日、群馬県玉村町の自宅でご逝去されました。
 子どもたちのためにたくさんの歌を作曲し、「音楽教育の会」の研究者として指導的な立場で活動され、群馬や埼玉をはじめ、全国の保育園、学校などで音楽教育の普及指導を行っていました。博光の作品に作曲した「春がきたら」や「ぼくはパルファン川の歌声を聞く」などは多くの子どもたちに歌われています。

 博光の作品に作曲したのは「ぼくはパルファン川の歌声を聞く」(グエン・スオン・サイン原詩)が最初で、ベトナム戦争の頃赤旗に載ったこの訳を読んで感銘を受け、読んだその晩に作曲に取りかかったそうです。その後、「フランスの起床ラッパ」を読んで感動し、アラゴンの「薔薇と木犀草」やエリュアールの「自由」などに曲をつけました。
 記念館オープン後しばらくして訪れ、「記念館で新しい創造活動が展開していくだろう、大切な事がつくり出されて行く世界となるだろう」と期待を語りました。2009年10月の「丸山亜紀先生を囲む詩と歌の集い」や2010年11月3日の「大島博光生誕100年記念のつどい」に大勢の音楽教育の会の皆さんと一緒に出演し、感動的な合唱と話で集いを大きくもりあげて下さいました。
 これからもご活躍を期待していましたので大変残念です。これまでの大きなご支援に感謝し、ご冥福をお祈りします。

丸山亜季

ふきのとう
雪の中を埼玉からふきのとう保育園の皆さんがみえました。
午前中、記念館を見学して昼食ははなやの新メニュー「あんずおこわ」。
午後、松代大本営を見学。外は雪でも地下壕の中は暖かくて助かります。
さいごに記念館で交流し、全員で「春がきたら」を歌って下さいました。

ふきのとう
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ふきのとう
ふきのとう
「ぼくはパルファン川の歌ごえをきく」に夢中に
  ─生誕100年記念のつどいにて丸山亜季先生のあいさつ

最初に「ぼくはパルファン川の歌ごえをきく」というベトナムのグエン・スオン・サインという詩人の詩を大島博光先生が訳された、に作曲しました、これを最初に歌います。
それは大島博光先生の詩に作曲した一番古いものです。
ベトナム戦争の頃、赤旗にこの訳が載ったのです。
私はそのころのベトナム支援の詩をたくさん読みましたけれども、これを読んだとたんに、これ!と思って、本当にその晩から、曲をつくってきたんですけど。
なぜそんなに夢中になってしまったかというと、闘いそのものは描いてはいないけれど、ふるさとのパルファン川のことを歌っている中で、一番最初に目についたのは「学校で習った詩のようにこころよかった」その一行だったのです。そこでどきっとしました。私は小学校に入ったときから戦争の時代に育ちました。「学校で習った詩のように」といえるものを私たちは習ったんだろうか?と泣くほど、涙が出るほどこの曲に惹かれました。このひとは、グエン・スオン・サインというひとはきっとベトナムの素晴らしい詩を学校で国文の時間に教わったんだろうなと思いました。だからこそ、「学校で習った」ということが中心になっていると思いますけれども、彼は詩を志したのかもしれません。
パルファン川というグエン・スオン・サインの生まれ故郷の川、いつも小さな舟が行き来していて、そこにベトナムのたくさんのちっちゃな舟歌が聞こえていたその川、南ベトナムだと思います。彼は北爆のひどい時期に北ベトナムに行っていたんです、戦って。そこからただの望郷ではない故郷への想いを歌っているんです。それがどんなにベトナムの人たちと同じ心なのか、自分たちの大地、自分たちの故郷、自分たちの町・村・川・山、自分たちの希望を取り返したいのですね、理不尽に踏みにじられているこの祖国を。だから私が祖国という時のイメージとこの人たちが祖国といっているイメージは違うんだろうなとわかります。そういうことが一体となって作ったということなのです。
私が大島先生にふれたのもそれを読んで初めてお名前を知ることができたんです。その後、フランスの起床ラッパを読んでものすごく感動したんです。そういうかかわりで私は大島先生の曲をいくつかその後も作ったのです。
歌ってくれる人たちは群馬や東京などの音楽教育の会という私たちの教師とか保育士とかその他のひとたちで組織されていますが、授業の中で「学校で習った詩のように」というそういう音楽を子供たちに伝えていく仕事をしている人たちです。その人たちとみんなでこれから4曲を歌います。
(2010.11.3 松代文化ホール)

★ぼくはパルファン川の歌声をきく
ベトナム

生誕100年記念のつどいにて「ぼくはパルファン川の歌声をきく」を音楽教育の会の皆さんが65人で感動的に歌いました。

丸山亜季

 11月3日の大島博光生誕100年記念のつどいに出演される丸山亜季先生は群馬県在住の作曲家です。「音楽教育の会」の研究者として指導的な立場で活動中。「子どもたちに本物の音楽を伝えたい」と願って多数の歌を作曲し、群馬や埼玉をはじめ、全国の保育園、学校などで音楽教育の指導をしています。
 大島博光とも交流があり、博光の詩「春がきたら」や訳詩「ぼくはパルファン川の歌声を聞く」などから作曲し、多くの子供たちに歌われています。大島博光記念館を訪れた際には「記念館で新しい創造活動が展開していくだろう」と期待を表明され、2009年10月には記念館で「丸山亜季先生を囲む詩と歌の集い」を開催し講演をされました。先生の薦めで大勢の保育園関係の方が記念館見学に訪れています。

随想 
 詩は有用である
                          大島博光

 過日、わたしは東京民研音楽部会のみなさんの勉強会によばれて、エリュアールの「自由」やわたしの「春がきたら」という詩について話をする機会にめぐまれた。

 小学生の ノートのうえに
 机のうえ 樹の幹に
 砂のうえ 雪のうえに
 わたしは書く きみの名を
 
 このように始まるエリュアールの「自由」は、第二次大戦中の対独レジスタンスのなかで書かれた有名な詩で、連合軍の飛行機でばらまかれて、ナチスの軍靴のもとにうちひしがれていたフランス人民をはげまし、抵抗に立ちあがらせたといわれる。
 はじめ、この詩は恋人のニューシュにささげられるはずだったが、エリュアールの頭のなかにふと自由の理念がひらめいて、恋人の名の代りに自由が置かれるようになったといわれる。そのとき愛を歌うことと自由をかちとることとは同じたたかいだったのだ。戦後、この詩は小学校の教科書にのせられて、フランスの子どもたちにひろく読まれているという。
 わたしの「春がきたら」という詩は、けやきの樹が春にはさかんに樹液を吸いあげる、その生命の激しさを歌ったもので、戦後まもなく三鷹の古老の植木屋さんから開いた話を詩に書いたのである。思えば、その植木屋の老人こそは詩人だったということができる。
 終りに、会のみなさんは、その「自由」や「春がきたら」を、丸山亜李さんの作曲による歌曲で合唱してくれた。わたしは、詩が作曲されてほんとうの歌となり、新しいひびきや旋律をもって歌われる、その歌の力というものを感じて、たいへんはげまされる思いをつよくした。
 こんにち、世界じゅうで詩は読まれなくなっているといわれる。しかし、人びとが自由をもとめ、子どもたちの成長をねがい、生きる悦びや春の歌をもとめ、幸せや平和をねがい、深い心の渇き、あこがれ、愛などをもつかぎり、詩はうたわれつづけ、詩は読まれつづけるだろう。それにこたえて、詩人たちは魅惑にみちた、みずみずしい泉のような詩をつくらなければならない。
 「詩はパンよりも有用である」──これもエリュアールの言葉である。

<掲載誌不詳(全教関連誌)1992年>

丸山亜紀先生を囲む詩と歌の集い
丸山亜紀先生を囲む詩と歌の集いが開かれました。
群馬、埼玉、東京などから来てくださった音楽教育の会のみなさんが、丸山亜季先生のピアノで合唱を。
 博光先生の「春がきたら」大島博光訳のアラゴン「薔薇と木犀草」エリュアールの「自由」グエンサンスン「僕はパルファン川の歌声を聞く」などを本当に楽しそうに力強くうたってくださいました。
 丸山亜季先生は、博光訳の詩を読むと、胸が高鳴る、感動がある。それを伝えたいと思う、曲をつけようと思う・・・と作曲に至ったお話をされました。
そのひたむきな姿勢は生きる喜びに溢れまさに人間の精神の高みを目の当たりにした心持ちでした。
参加された皆さんは、「詩人の像が広がった」「詩の読み方の深さについて勉強した」など感想が語られ、「来てよかった」のこえがありました。
博光先生も笑顔で聞かれておいでになりました。
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紅葉

丸山亜季先生を囲む詩と歌の集い
丸山亜季先生を囲んで詩と歌の集いを開きます
10月25日(日曜)午後1時30分
<曲目>「春がきたら」「薔薇と木犀草」「自由」「ぼくはパルファン川の歌声をきく」など
丸山亜季先生のお話
博光の詩に曲をつけ、多くの子どもたちが歌ってきた「春がきたら」などを音楽教育の会の皆さんが演奏をしてくださいます。前回聞いて受けた感動を、もっと多くの皆さんにも届けたいという願いをかなえていただきました。朗読とはまた違った感動があります。
集いの後、希望者によるりんご狩りも計画しています。
前日の夜、うたごえ喫茶もあります。併せてお出かけください。
音楽教育
作曲家の丸山亜季さんが音楽教育の会の皆さんと12名で来館され、感動的な歌声を聞かせてくださいました。丸山亜季先生が力強いタッチでピアノ伴奏をされました。
歌を聴いた縣、石関と3人でなみだがあふれました。

歌われたのはエリュアールの「自由」と「僕はバルファン川の歌声を聞く」、「春が来たら」の3曲で、うたごえ運動とはまた違ったニュアンスの歌声でした。保育園の子どもたちに春になると必ず歌わせているという「春がきたら」は、まさに子どもたちと一緒に歌っている発声で、伸びやかで生き生きしていました。「僕は・・・」は、皆さん数年ぶりにうたったそうで、力強いその歌声は、ベトナム戦争当時をまざまざとおもいださせました。音楽教育
音楽教育
 丸山亜季先生から「本当にたずねて良かった。同じ原詩でも、博光先生以外の人の訳で読んでも、作曲しようと思わない訳がすこしわかった気持がした。以前、そのことを言うと博光先生は「リズムが音楽と合うんじゃないですか」とおっしゃった。音楽的な展開、詩に対する共感が訳詩そのものの内面リズムになっている。母国語で感じて博光先生の共感が投影している。一般的には詩人と読者との間に訳詩者がいて、その訳詩者の理解・受け止め方を通して読者に届けられているように思うが博光先生の訳は、詩人の後ろに先生がいるようだ。詩人たちがもっているリズムが博光先生には分かっているのだ。それが音楽にしたいと思わせるのではないか。原詩の表している状況は深刻なものなのに、博光先生の訳は、そのものの底辺にある希望、未来、明るさを理解しているので絶望をおしつけない。その向こうにある希望を詩人的な直感でそれを受け止め、私たちに渡してくださった。
 今回記念館を訪ねて、大詩人云々と並べ立てるのではなく、記念館で新しい創造活動が展開していくだろう、大切な事がつくり出されて行く世界となるだろうという気がした。大きくならなくとも、内容が充実して行くことを期待したい。」とのお電話をいただきました。