西條家の人びと

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


西條紀子

西條紀子さんが2014年に刊行した「私の歩いた道」を頂きました。
この本を書いた理由は、一つは、小学校に上がるまで祖父母(石井菊次郎枢密院顧問)のもとで育った少し特殊な環境にいたことを知ってもらいたい、もう一つ、大切なことは、戦争のこと(体験)を話しておかなければならないという思いからです。

西條紀子


1944年夏、軽井沢で過ごした祖父は不機嫌な日が多かった。外交官出身で米英との戦争に反対だった祖父・石井菊次郎は枢密院の中でも対米英強硬派の委員と対立し、孤立して苦しい立場に追い込まれていたのではないか。東京に帰る前に母に「間もなく日本はこの戦争に負ける。日本の歴史上経験したことがないほど大変な事態が起きるだろう。俺はもうその時この世にはいないと思うが……どんな事態になっても紀子と富士男だけはしっかり守り育てておくれ」と事実上の遺言を言い渡した。(止めるのも聞かず東京に帰った祖父はその後、空襲に遭って亡くなった。)


西條紀子

紀子さんは名古屋で市民運動に参加しました。名古屋に移って3年ほど経った頃「いずみの会」に入り、考え方を共有できる友達もでき、名古屋に自分の場所を得ることができました。家永教科書裁判の支援や九条の会にも加わり、最後の頃は「あいち九条の会」の世話人を務めました。中日新聞のインタビューを受けた記事があります。

西條紀子

4)同潤会青山アパートのこと
昭和51、八束さんと結婚して実家近くの横浜元町に、次いで自由が丘に住んだ。都立大学勤務の八束さんの通勤が大変なので母親の晴子さんが表参道の同潤会青山アパートを購入してくれた。同潤会アパートに住んでいた頃、よく博光が訪ねてきた。トントンとドアをたたく音がして行くと博光だった。神宮球場で野球を見た帰りだった。遊びに来ていた晴子さんと鉢合わせになると、「あの時の娘さんはどうしたの?」と晴子さんがからかって聞いた。いやー勘弁して下さいよと博光。
4年住んだあと、成城の西條八十宅の近くの家に移った。晴子さんが孫たちと一緒に暮らしたいと思って買ってくれたのだが、八束さんが名古屋大学に勤めることになったため、1年で名古屋に引っ越すことになった。
(2007年に八束さんが亡くなられた後、紀子さんは名古屋から表参道に戻っています)

5)三井ふたばこ(西條嫩子)と洋行したこと
三井ふたばこは国際詩人会議と関係があり、会合に出るために何回かベルギーに行った。通訳をパリ在住の鮎沢露子に頼んでいたが、1974年の会合のとき、鮎沢露子の都合がつかないため、通訳を頼まれてお供をした。会合で海をテーマに詩を書く課題がだされた。フランス語の詩を書くのは無理だと思ったが、ふたばこは「いいわよ」と言ってすぐに日本語で書いた。それをフランス語に訳すのに苦労した。
1990年、最後のベルギー行きの時、ふたばこの体調は悪かった。ベルギーについてから「なんでここにいるの?」と言ったりして尋常でなかった。帰国して1か月後に脳梗塞で亡くなった。
*三井ふたばこは詩人で、西條八十の長女。日本詩人クラブ会長を歴任、詩集や『父西條八十は私の白鳥だった』などの著作がある。

6)「ジャン・クリストフ」のこと
33歳の頃に原文の冒頭を読んで素晴らしく、これは読まなければと思った。
「ジャン・クリストフと呼ばれることになる赤子が揺籠のなかにいて、窓からは雨で流れの強くなった川の―ライン河の支流なのだが―轟々とした音がきこえてくる。部屋のなかは湿気が立ち込めている……」
ロマン・ロランの文章はとても構成的で、ベートーヴェンの交響曲を聴いているよう。
だけどいまだに完読できていない。
サン=テグジュペリの「プティ・プランス」だけは原文で丹念に読んだ。

(つづく)

スケッチ展

西條紀子スケッチ展にて(2011年10月 東京 神保町)

尾池さん、暁輝さんと一緒にお訪ねし、興味ある話を伺いました。

1)画家・山本蘭村のこと(紀子さんの絵画の恩師)
山本蘭村は戦時中召集されて満州と南方(ベトナム)に出征した。体を壊して(腎臓病か)帰国し、軽井沢に疎開した。
そこで啓明学園の図画と教練の先生をやった。(啓明学園は戦争で東京から疎開していた。紀子さんも東京で啓明学園の生徒だったので、軽井沢に疎開してからも通学した)教練の時間、体力のない蘭村はハーハーして生徒に遅れて走っていた。当時軽井沢には外国人が多く住んでいた。まとめて当局が監視するためか。蘭村は白系ロシア人のような風貌で、外人と話しをすると、あとから警察がきて、何を話したのかと追及されていた。
敗戦になってから山本蘭村の家に行った。紙を渡され、絵を描いてみませんか?といわれ、オルゴールを描いた。それから絵を描きに行くことになった。

2)啓明学園
博光の友人の鮎沢露子も啓明学園の英語の先生だった。
啓明学園は敵性語(英語)を教え続けたとして、二ヶ月で閉鎖命令がだされて閉鎖してしまった。
何もしないで家にいると軍需工場に動員されるので保育園の雑役をやった。

3)詩人・龍野咲人との交流
龍野咲人は軽井沢小学校の先生で、弟が教わっていた。家は小諸にあり、三人の娘がいた。よく遊びに行った。(八束さんと龍野咲人と親交があったため*)
龍野咲人の没後、家はなくなり、大きな木だけが残っている。

*<もともと信州出身の大島さんは、小諸におられた信州で著名な詩人だった龍野咲人氏や、戦争で体調を崩して除隊になり、帰国して軽井沢におられた、有島武郎の甥の画家、山本蘭村氏を紹介してくださった。私は龍野さんをしばしば訪ねて文学の話を聞いたり、下手な絵を描いて蘭村さんのところへ携えていったりした。>(西條八束「大島博光さんをしのんで」)

(つづく)

西條紀子

奥様が去られたあと(上)
                            西條八束

 一九九三年の五月、私たちは久しぶりに三鷹のお宅へ伺った。奥様の自画像とか、別棟に住んでおられた次男の秋光さんの絵や、その奥様の美枝子さんの彫刻などを拝見した。
 そのあと、井の頭公園の近くのレストランで夕食をご馳走していただいた。大島さんは当時、前歯が二本しか残っていなかったが、ステーキなど美味しそうに楽しんでおられた。
 その時紀子が、父八十が晩年に紀子に、「俺はもう生きているんじゃないんだよ。ただ残っているだけなんだよ。芝居が終わって観客がみんな帰ってしまった舞台の上に、ひとりポツンと残っているだけなんだよ」とよく言っていた話をすると、大島さんは、何かとても感じ入った様子で「さすがに西條先生だ。今の僕も、まさにそうなんですよ」と言われた。奥様が他界されて間もない時期だっただけに、悪いことを言ってしまったと、紀子は後悔したそうだ。
 大島さんのすべてを支えてこられた奥様を失われたことが、どんなに大きな打撃であったかは、想像にあまるものだ。一九九五年に刊行された『老いたるオルフェの歌』の中の奥様をたたえられた詩「きみはやってきた」に、よく示されている。
(『詩人会議』2006年8月号)
*井の頭公園の近くのレストラン・・・博光行きつけのフランス料理店「レストラン芙葉亭」(西島史子さんより教えて頂きました)
 多喜二・百合子賞お祝いの会など
                             西條八束

 一九八五年に、大島さんが詩集『ひとを愛するものは』で多喜二・百合子賞を受賞された時の奥様の喜びは、どんなに大きかったかと思われる。そのお祝いの会には、今は亡き姉三井嫩子も元気で出席し、「大島さん、コミュニストのくせに奥さんを働かせておいて、お酒ばかり飲んでいてはだめじゃないの」などと、型破りなお祝いの言葉を述べるなど、なごやかで楽しい会であった。大島さんの奥様は、その頃すでにおみ足が不自由に見受けられたが、喜びに輝いておられた。
 その翌年三月には、五五〇頁におよぶ『大島博光全詩集』が刊行され、その頃までの大島さんの詩作の全貌をはじめて知ることができたが、その巻末に解説を書いておられる土井大助氏によれば、この本にまとめられた詩は、すべて奥様がたんねんに収集・整理されたものということである。
(『詩人会議』2006年8月号)

ひとを愛する
ひとを愛する
ひとを愛する

すばらしかった大島さんの手紙           西條八束

 大島さんは、大変筆まめな方で、いつもとてもいいお手紙をくださった。二〇〇一年、私が七十七歳になった時、半ば手作りで、私の画集『旅のスケッチ集』を作った。その巻頭に大島さんへの献辞を記し、巻末に何故私が自分の画集を大島さんに捧げたかを記した。
 その画集への大島さんからのお礼状が手もとにあるが、私のメキシコのチチェン・イッツア遺跡でのスケッチには、ネルーダがユカタン半島を訪れた時のマヤ文明の夜明けを歌った詩を書き添えてくださり、ポルトガルで描いた「ムーア人の砦」のスケッチについては、大島さんがスペインを訪れた時に、アランブラ宮殿の背後に同様なムーア人の砦を見て、中世のイスラム教徒の雄叫びを感じた思い出を記してくださった。大島さんからのお便りは、いつもこのような豊かな内容で、おどるような素晴らしい文字を連ねておられた。
西條八束手紙

(『詩人会議』2006年8月号)
 紀子との二人展での思い出           西條八束

 私は大学生の頃までは絵を描いていたが、本業の湖や海の研究が忙しくなるにつれて一切描かなくなった。しかし、定年後、ゆとりが出来てまた描くようになり、三年ごとに、神田すずらん通りの檜画廊で紀子と二人展をやるようになった。大島さんは、その都度、紅白のワインをさげて見に来てくださった。
 一九八九年の二人展の時であった。初日の会場での小宴の際、大島さんがいつものように来てくださっていたが、つぎのようなハプニングがあった。愛知一区から共産党・革新共同の衆議院議員として出ておられた田中美智子さんも来られた。私が大島さんを紹介すると、「あ-ら、これがあの大島さん?いやだわあ、私はもっと若いハンサムな詩人を想像していたのに」と言われた。すでに前歯が二本残っているだけの大島さんは、おおらかに笑っておられた。

(『詩人会議』2006年8月号)

西條八束さん
西條八束さん
西條八束さん
(「赤旗」 2004.10.9)

 西條八束さんが「発言 2004 憲法」という新聞の企画記事に登場していました。
 十五年戦争のまっただ中の学生生活で天皇のために死ぬ覚悟を強いられたこと、東京大空襲で焼け出されたが、黒焦げの死体がごろごろして悲惨な状況を目の当たりにしたこと、南京攻略に従軍した西條八十が、日本兵が赤ん坊を放り投げて銃剣で受けとめる蛮行を目撃して、人間を変えてしまう戦争は怖いと話していたことなどを語っています。
 さいごにご自分の専門に触れて、「私は海や湖沼、川の水環境を研究してきました。川や海の大規模公共工事の大部分は、政官財の利益のために行われ、その被害は、権力を持たない多数の国民が受けているのが現状です。研究をとおして、それを批判してきましたが、憲法についても、いろんな機会に、日本の過去の過ちを国民に知らせて、守り抜きたいと考えています。」 
 国民のための研究者としてスジを通した方でした。
西條紀子画集

 博光の本棚に「西條紀子画集」がありました。人物画も動物の絵(みみずく、野牛、うさぎ)もユーモラスで暖かみがあり、童話にひたるような心持ちになりました。山の絵が半数以上ですが、どれも独創的です。デフォルメされた山は男性的な力強さに満ちています。色使いもすばらしくて、茶色の山の絵2枚が気に入りました。(記念館でご覧になって下さい)

西條紀子画集

 西條八束さんの文章から、お二人のなれそめや西條八十夫妻との間合いを垣間見ることができます。
*   *   *
紀子の絵のこと
                  西條八束

 「八束、まさか、あの絵を描く女の子と結婚する気じゃないんだろうね」と母が言ったことを今でも覚えている。当時私は、久保田紀子さんが話をしていて面白い女の子だとは思っていたが、結婚の対象としてなどまったく考えていなかった。と言うのも、私の旧友の山本蘭村さんが私を久保田さんの家にはじめて連れて行ってくれたのは、終戦後間もない、昭和21年ごろだったと思う。当時私は21歳くらいで、紀子は13歳ぐらいであった。
 しかしその当時の紀子は信州の疎開先で学校にも満足に通えず、知識に飢えていて、私が東京で見つけてきた中学の幾何の参考書を熱心に勉強していたり、相対性原理をやさしく説明したガモフの“不思議の国のトムキンス”を熱読したりしていた。彼女が札幌にいたとき、「匂いは波ですか、粒子ですか」と言う質問の手紙をよこしたこともある。蘭村さんの指導もあったと思うが、芸術作品などについて臆することなく、独断と偏見をかえりみずに自分の意見をのべる女の子は、私にとって楽しい存在であったのは確かである。しかし母は、母親の直感で、これは危ないと考えたのであろう。
 こうしてつきあっているうちに、色々なことがあったが、次第にお互いに結婚する気になった。父も姉も詩人であるため、嫁まで気まぐれな芸術家が来られては大変と母が考えたのはもっともだと思う。しかし母がまず、しかたなく納得してくれた。父も不承不承の結婚ではあった。幸いに結婚した後は、紀子は私の両親に可愛がられ、不愉快な思いはほとんどなかったようである。
 14歳のときの最初の個展は私は見ていない。しかし作品は個性が強くおもしろいものであった。その後しばらくの間は、戦争直後の抽象絵画の影響を受け、何を描くべきか、迷いつづけていたように思う。
 結婚後、子育ての期間は、ときどき身近かな風景をテーマに1枚の油絵を描くのにながいこと四苦八苦していたりしたが、本当に絵を描くことが軌道に来りだしたのは、当人も言っているように子供達の反抗期のころからであろうか。
 私がよく「実物大の山の絵を描こうとしている」と言って冷やかしていた時代もすぎ、だいぶ落ちついて、少なくも水彩画では危うげない作品ができるようになってきた。しかし油絵はまだまだと思って見ている。
 プロの画家でない気安さに甘えてはいけないのであろうが、これからものびのびと描きつづけていったらよいのではないか、と言うのが紀子の絵を傍らで見ている私の現在の正直な気持である。

西條紀子画集

(「西條紀子画集」 1992.2)