島田利夫・嶋田誠三

ここでは、「島田利夫・嶋田誠三」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


島田利夫ゆかりの詩誌『ラッパ』の2号を兄の嶋田誠三さんが発行しました。

ラッパ表紙


ラッパ


ラッパ目次


ラッパ奥
 叙事詩 大島博光記念館
                      嶋田誠三

長野県の大島博光記念館の前に 降り立ったとき 
そこは 秋のまっただ中 
周囲を囲む高き峰の山々は すでに紅葉に彩られ 
遠くに日本アルプスも展望され 
近く千曲川が青く流れていた 
大島記念館は意外にも 瀟洒(しょうしゃ)で明るい建物 
わきのレストランでは にぎやかな話し声 
どこか別世界の 華やかな趣さえある 
ここは周囲を山に囲まれているが 
前橋のようには 風は吹かないという
何処かメルへンのような 世界

わたしが詩人大島博光を知ったのは 
あの暗い戦争時代 わたしの少年期 
西條八十の「蠟人形」の誌面で 
ランボーを熱っぽく語る大島さんに出会ったとき 
わたしの心は高鳴った そこにはわたしの未知な
「自由」と「叛逆」があった
それは 荒れ狂う嵐の海の彼方に かすかに 輝く灯台だった

利夫が詩を書き始めたのは 
戦争の暗い重圧に閉じ込められていた少年期 
たけだけしいのは 戦争を賛美する声ばかり 
統制と号令だけが まかり通る時代 
アンデルセンとグリムの童話を聞きながら育ち
自由主義的な空気の残っていた小学校で学んだ利夫にはなじめない
中学三年生の時
「海軍兵学校を受験しろ」と言われ
「戦争に反対だから職業軍人にはならない」と答え 
同席していた 海軍将校は激怒
教師たちは 困惑と狼狽甚だしい 
だが利夫は発言を撤回しない 
そしてその日から 利夫のたたかいは始まる 
それは 山に登ること そして詩を作ること 
そして 学徒動員で理研鍛造に配置される

理研鍛造は 一五トンハンマーが うなりを上げて
真っ赤な鉄塊を 打ち続ける地獄のような職場
利夫が配属されたのは、その鍛造の機械部門 
そこへ配置したのは 利夫への懲罰だったのか 
利夫はそこの大型旋盤で高射砲の砲身削り

職場の労働者たちは語る 
「日本は負けているに違いない」 
「勝てない戦なら早くやめろ」
すると若い労働者が
「日本が負けたら 男はみんな殺されるって本当か。うそだろう」
と聞いた。
「本当だ、みんな殺される」
と年配の労働者が言った。
若い労働者は泣き出した それをみんなが取り巻いて笑った。
それが戦時下鍛造の労働者だった 
利夫はその労働者と仲良くしたが 
休日には独りで山に登り また詩を書いた
 
日本は敗戦 一億総懺悔 だれもが急に民主主義者
 戦後日本民主化の疾風怒涛時代が始まる
国民の飢餓と混迷の中 
日本の労働者は起ちあがる  二・一ゼネト宣言
アメリカ占領軍は動く
マッカーサー ゼネスト中止を命令
つぎつぎに打ち出す 戦後民主化への攻撃

敗戦で 学校の利夫の立場は 一変した 
利夫は戦時中反戦を貫いた少年になった 
秀才たちは一目置いたし 
 民主主義者になった教師たちは利夫の顔色をうかがった 
それで利夫は 全校生徒の圧倒的支持で生徒会長 
だがそれを尻目に利夫は制帽をあみだにかぶり 
 ランボーを気取って歩いていた 
わたしは実存主義者を気取り 
利夫はランボーを夢みていた

いま利夫の関心事は
戦時中 著名な歌人 俳人そして打情詩人までも 
戦争に追従し 戦争を賛美したことだ 
それは 日本的な情緒的な叙情性に 問題がある 
詩でそれを克服しなければ それが結論だった 
自由と叛逆のランボーの利夫が 
シュルレアリスムに目を向けた 
彼は焼け跡の街をさまよい『詩と詩論』を探し回り
毎日 一作ずつ詩を作り 『詩と詩論』の詩人に送った 
足利に住む 岡崎清一郎から
「会いたい」というはがきが来た 
翌年 高崎に疎開していた 
笹沢美明中心のちょっと高踏的な詩のグループ
YPCで「外来者の歌」が絶賛された (一七歳)

利夫は詩人になるため  法政大学仏文科予科を受験 
合格するが入学二か月で退学 経済的理由もあるが 
ランボーは一七歳でパリに出て パリを席巻した 
六年間も大学生活していてはランボーになれない 
 が主な理由 三年間は就職はせず 詩作に励むを宣言

詩雑誌『ラッパ』を発行 (一八歳)
「埃(ほこり)の中の童話(メルヘン)だ」「あそこの露地にかくれたのは」を発表
そのシュルレアリスムの手法を駆使しての作品に 
北川冬彦 草野心平たちなど
中央詩壇の詩人たちの称賛をうける
その詩人たちの中で大島博光は 利夫に変革詩人の資質を見いだし 
「あなたのラッパを民主革命の進軍ラッパに」と激励
利夫は中央詩壇の呼びかけには振り向かず
三鷹の大島の家を訪ね
利夫と大島博光との交流はここに始まる

だが 飢餓と混乱の中で 次第に明らかになる 
生き残ること そして未来を語るには 
それは 労働者の立場に立つこと
そして 科学的社会主義を身につけること 
マッカーサー「日本は不敗の反共防壁」と声明 
再び迫り来る戦争の危機
これを防ぐには 日本共産党を守るしかない 
その危機感が 二人の入党への動機
一九四八年十一月 利夫日本共彦党仁入党(一八歳)

所属した桂菅村細胞では 供出補正闘争の最中 
耐えられない米の供出割り当てに 農民が起ちあがる
全県の注目をあびるたたかいだったが 
孤立し 中農が動揺して離脱し
最後まで残った農民の家を 
五○人の警官が襲い米を強奪したたかいは敗北 
最後まで農民とたたかった利夫の目は 
赤城南麓 戦後の農地解放からも取り残された 
大胡町 宮城村の半プロ 貧農たちに注がれる 
そこには 農民たちのうめき声 憎しみの目が燃える 
利夫は 日夜赤城山麓の半プロ 貧農たちの間を駆けめぐる 
農民たちからは期待 党内からは注目されながら 
利夫は ついに肺浸潤で倒れる

利夫は病床にあったが
戦後勝ちとった民主主義的成果に対する攻撃 
民主化を牽引してきた国鉄労組には 
下山事件・三鷹事件 松川事件をおこして大量首切り 
朝鮮戦争が始まり 警察予備隊が作られ
そうして レッドパージはじまる

電産労組は国鉄労組後退の後
全国の労働運動を引っ張ってきた労組 
  群馬の電産はその中でも もっとも戦闘的な労組
利根川上流の各発電所には みんな共産党の細胞があった
その群馬電産労組が ストライキ一つ打てずに敗北
労働運動はどうなる
日本の民主化はどうなるのだろう

そうして 日本共産党への弾圧がはじまる 
中央委員の公職追放 機関紙アカハタの発行停止 
この中で ソ連スターリン 中国共産党の干渉で
党は主流派 国際派に分裂 
主流派は 少数意見を排除し
党の半非合法化をしながら党の多数を組織し 
極左冒険主義路線を目指す 
群馬の党は 丸ごとその傘下に 
利夫の友人がいる東大 早稲田では細胞解散
友人たちは
党を離れるか 主流派に属するか 主流派と対立するか
利夫は 東大 早稲田などの友人と
 絶交するか 敵対関係になるか

病気が回復した利夫は
赤城南麓のオルグはあきらめ 文化運動を担当する 
病み上がりの利夫に 前橋を吹きすさぶ
空っ風「赤城おろし」の風は冷たい 
かつての天才少年 赤城南麓を駆け回った革命児も
今は病気上がりの失業者

おまけに いま彼が接する 党の人たち 庶民は
利夫の詩は難しくて分からないという 
そしていま利夫が訪ねていく友は 
かつての友 東大 早稲田の秀才たちではない 
高校を卒業してすぐ就職した社会の下積みのものばかりだ 
肥料工場で働く者 大学の研究助士 観光案内人 競輪選手
そして自殺未遂の 若夫婦 機械に挟まれ 右手をけがした青年 
その人たちに合わせようと 作る詩は 格調が落ち かつての輝かしさを失う作品多い 
勤労者の文学サークルを作るがそれは文学とはほど遠い

額に赤のレッテルが貼られているから どこにも就職はできない 
器用だから 失業者がよくやる ガリ版屋をやることにした 
頭を下げて注文取りもしなければならない 
でも彼は商売もうまく お得意をつかみ 
下請けを出すまでになり 気分的に余裕ができた 
レッドパージで 労働組合は骨抜き 
だが戦争の危機に学生たち青年たちが動き始める 
歌の会 読書会 各種サークル
医学部の学生 高校生 学生の反戦運動を組織 
その運動を労組の青年部に

その時 大島博光訳の
アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が発行
「神を信じた者も信じなかった者も 
利夫に衝撃が走る
「詩人とは理論も 政治も 民衆をつかめないとき
その民衆を目覚めさせるのが 詩人の使命だ」 
 ドイツの占領下のパリでレジスタンスの中で読み継がれた 
アラゴンの詩だ。大島博光訳のその詩で
利夫の変革の詩魂は呼び起こされた

利根川は前橋の西を流れる
県庁の北から前橋公園に下り 
それを突っ切ってアカシアの林に入り 
その先のアカシアトンネルを抜けると 
古い堤防が埋まっている砂利と小石の川原に出る 
生えているのはペんぺん草ぐらい 
その先に利根川は流れている 
その周辺も 砂利と小石とペんぺん草 
その河原を こともあろうに上州の赤城おろしが吹きすさぶ
利夫はその岸辺で
民衆とのギャップに涙を流したかも知れない 
親友との離反に 胸を掻きむしられたかもしれない

だがアラゴンの詩に奮い立たされた利夫は甦った 
「ふるさとの川の岸辺に
 輝くものは涙のつゆ
 色紅く 花咲くものは裂けた心
 言葉低く われらの月日は重く流れる
 ふるさとの川の岸べに」
  と歌いだす 
そして朝太郎がうたった前橋の街 
零細座繰り製糸工場の煙突が並び貧しい人々の住む街
自殺未遂の若夫婦が住み 
利夫の詩は分からないと言った人たちの住む 
この街をうたう 
「われらの街は ささやきに充ちー
 花から花へ 吹き流れる花粉のように
 家々の扉を結ぶささやきに充ちー」

それらの詩を載せたサークル詩「花」を大島博光に送る利夫は 
大島さんは「ふるさとの川の岸辺に」を 
「日本ヒューマニズム」詩集に推薦する

「ふるさとの川の岸べに」は注目を浴びるが 
利夫はこの詩に満足できない 
抒情に流れている 祖国の危機にあって詩人の任務は
「理論も政治も民衆を起ちあがらせられないとき、
 民衆を目覚めさせるのが 詩人の任務だ。
 俺の詩は 祖国の危機にこたえられる詩ではない」
 と利夫は詩と絶縁し、
かねて要請されていた共産党の第一線の任務に就く

朝鮮戦争は拡大し アメリカの占領下日本の軍国主義化は進む 
その反動政治の防波堤 日本共産党は分裂し 
ソ連共産党・中国共産党の干渉に屈服した主流派は 
危険な極左冒険主義路線を進む 群馬の共産党組織もその傘下 
矛盾をはらみながらも その党でたたかうしかない
それを利夫も選択し 中毛地区ビューローの 
 青年・学生対策 文化運動対策に就く
わたしは 地区の合法面の活動 
 労働運動もレッドパージの痛手から立ち直り始め 
 党の指導する労働運動も極左的になり 
 前橋警察署前での労働組合員と警察官の大乱闘事件 
 利根工業事件などを経て 中毛地区ビューローの指導部員 
 利夫もビューロー指導部員に抜擢 (二四歳)
 当時地区ビューロー員は五名で構成 兄弟でその部署に就く

当時の党の地区機関を支えていたのは 
二○歳から二五歳の青年 
五○年党分裂 極左冒険主義路線に 矛盾を感じながらも 
この党の組織でたたかう以外に 
アメリカ占領軍と日本政府の進める軍国主義化
朝鮮戦争への加担を阻止する手段はない
党の統一 路線の正常化も たたかう中で解決できるだろう 
という思いは抱いていた
群馬の党組織には極左冒険主義に対して 批判的な見方があり 
徳田・野坂が北京に亡命した後 実権を握った志田重男からは 
右翼日和見主義とのレッテルもはられた

利夫は地区ビューローに抜擢されるや ただちに頭角を現し始めた 
当時の党は レッドパージで破壊された経営の党組織の再建が 
大きな課題だった 
前橋では総評系の地区労組織さえ解体という状況だった 
その組織を社民の
労組幹部との協力で再建しながら 
党は国家公務員・地方公務員などの党組織の強化 再建をすすめ労働運動 
前進と経営党組織の強化・再建を前進させた
その取り組みの中で利夫は目を見はるような活動をした

利夫は一年で地区ビューローキャップ (二四歳) 
すると 独自な平和運動を開始 週刊「平和ニュース」を発行 
主流派共産党は極左的な民族解放運動で矛盾拡大 
平和運動を軽視したことを自己批判 利夫の「平和ニュース」を評価

利夫は理論的にも高い若いリーダーとして 全国的に注目される 
一年未満で地区ビューローキャップから県ビューローに抜擢 (二八歳)

ようやく 党は統一を回復 
主流派共産党六全協 極左冒険主義自己批判 党の統一を決定
統一を回復した日本共産党は新しい前進を開始するが 
旧徳田派の組織の者への批判が起こり 
群馬の県ビューロー 
地区ビューローの役員達にも
 批判が向けられる

利夫は党が正常に戻り 自分の責任も果たせたので 
群馬県委員会指導部委員を辞任し 詩に専念したいと決意するが 
五○年党分裂、極左冒険主義対しては無傷の利夫は 
党内外の期待も大きく 指導部の職務を継続するよう強く要望される 
 そのため 指導部にとどまらざるをえなくなり 
 その任務の中での 詩作を模索する

統一を回復 正常の戻り前進を始めた党で 
利夫は県委員会のリーダーとしてだけでなく 
全国的な立場での若いリーダーとしての要請が強くなり 
関東地方委員会議長などの自宅への訪問をしばしば受け 
今まで党の任務を遂行しながら詩作を心がけていた利夫も 
人生の岐路に立っていることを自覚しはじめていたようである 
口には出さなかったが、党と人民への責任、詩作への思い 
迷いもあり、大島博光宅を訪れたこともあったようだ

それと共に六全協後 詩作への情熱と共に 
彼が少年期に魅せられた 登山への情熱も甦えった 
彼はきわめて知的論理的なリーダーと見られていたが 
 彼のあの優れた政治感覚 大胆な行動力の背後には 
 詩への情熱、山へのあこがれが 
  エネルギーとして燃えていたのかも知れない

利夫は 政治的にも全県 中央からも最も期待されているとき 
谷川岳一の倉沢第四ルンゼ単独登山中 天候悪化し墜落死亡した
利夫が谷川岳登山の当日 大島博光さんが
利夫に再び詩を書くようにと
前橋の共産党群馬県委員会の事務所を訪ねて 
 大島さんと利夫との運命的なつながりを感じさせる

利夫の死が伝わるや 
彼の仲間はもとより彼を知るすべての人が 呆然落胆 
この嘆きの中で 彼が書き残した十一冊の詩のノートが発見される 
そこで遺稿詩集「夜通しいっぱい」が刊行され 全国的に注目された
そういう中で
 「日本共産党は 島田利夫のような詩才のある者に共産党の重責を担わせ
 あたら才能を殺してしまった」
 という非難が 詩壇の中だけでなく群馬県内でも起こった 
これに対して 大島博光は
 群馬の「夜通しいっぱい」発行記念集会で
「彼の詩は、革命家としてのたたかいと詩作が分かちがたく結びつき あの現実変革の詩を作りあげているのだ」
 と島田利夫のその生き方と詩作の態度を評価し 島田利夫が世界のそして日本の進歩的詩 変革の詩の流れを受け継ぎ発展させた詩人であると強調し 日本の詩の流れの中に島田利夫の詩を位置付け 受け継がなければならないと訴え 参加者の大きな感銘を与えた

わたしはいま
 秋の真っ盛りの中に建つ大島博光記念館の庭に立っていた
 そうして 大島さんと利夫の
 運命的な出会いは何だったのかを考えていた 
大島さんと利夫との交流のことを考えていた 
 それは何だったのだろうか 
大島さんが訴え続け 島田利夫が受け継ごうとした 
 革新的 変革的な立場の詩への共感 
「思想が 政治がまだ民衆をとらえられないとき 
 民衆に呼びかけ 民衆を目覚めさせ
 民衆を立ち上がらせるのが 詩人の使命だ」 
それを大島さんは利夫に呼びかけ
 利夫はそれにこたえようとしたのだろう

いま 秋のまっただ中
 紅葉の山々に囲まれた大島博光記念館にも 
 ようやく 夕闇が迫ろうとしていた 
私は やがて大島記念館の館長に送られて
 この地を去ろうとしていた。
 わたしがここに再び訪れることは ないかも知れない 
島田利夫を背負って 背中に大島博光の激励を受けながら 
わたしはこれから なにをしなければならないのだろうか 
大島博光記念館の人 長野の詩人会議の人たちに別れの挨拶をし 
 私は 長野を去ろうとしていた

私の帰る群馬は
 ここと違って気候も 烈風が吹きすさぶ荒々しいところだし 
 人の声も 荒々しく気風も荒々しい
群馬県庁がある 元厩橋城の西に 日本最大の利根川は流れている
ここ長野の千曲川などとは違って
 波は荒く 水は薄墨色 流れは速く 板東太郎の異名をとる

私は帰る
 このままではいけないのだと思いながら

私は思う 大島さんが生涯をかけて伝えようとしたもの 
島田利夫が 若い生命のすべてをかけて 受け継ごうとしたもの
 進歩的 変革の詩
  これを だれに どう伝えようかと

 わたしは 大島博光記念館を去る
 ようやく夕闇が迫る長野をあとに
 黒い背を波立たせながら 利根川が流れ
  赤城おろしと呼ばれる烈風が 吹き荒れる群馬に向かって

大島博光 島田利夫が命をかけた
 進歩的 変革の詩を伝えに
  いま 二一世紀 新しい市民革命の息吹が沸騰する

群馬に向かっていや日本に向かって

嶋田誠三

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市長選A
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ラビアンローズ
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バラ


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未来派詩人

赤バラ


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  島田利夫と大島博光の交流
                  嶋田誠三
 

一、島田利夫の詩と その激しく燃えた生涯

  一九二九年一一月一四日
 島田利夫は、群馬県前橋市の中心商店街の比較的富裕な商家に生まれた。当時前橋市は、長野市と共に大正デモクラシイの影響が残る地方自由都市と言われ、利夫の母が娘時代萩原朔太郎の妹と交友関係もあり、家庭には幾分自由主義的な雰囲気があった。だが利夫の少年期と青年期の前半は、戦争と軍国主義におおわれた暗い時代だった。利夫はエリート校である男子師範学校附属小学校に入学したが、身体が大きく、腕白で強情だった。四年頃より昆虫採集に興味を持ち、小学校上級になってシートンの「動物記」、ファーブルの「昆虫記」を好んで読んだが、戦争が激しくなるにつれて、兄たちの影響から文学に興味を持ち始めた。六年で県立前橋中学を受験するが失敗し挫折感を味った。

  一九四三年四月 (一三歳)
 県立前橋中学校に入学。中学に入学したものの、太平洋戦争の見通しはますます暗く、農村への学徒動員、前橋理研工場への学徒動員と、農村・工場で大半を過ごした。利夫は一年遅れて中学に入学したため同級生が子供に見え、また教育の軍国主義化に無批判な学校の空気に違和感を感じて、単独で山に登り始め、文学に傾倒して行く。文学では日本文学、西洋文学を広く読んだ。三年の時海軍兵学校受験を勧められるが、「私は戦争に反対だから受験はしない」と発言し問題になるが、名門中学校のことなので大事にいたらないですむ。だがそのことが、敗戦後の彼の学校における立場を大きく変えることになった。

  一九四六年八月一五日 一五歳)
 戦災で疎開した桂萱村(現在前橋市)で終戦を迎え、開放感を味った。ますます詩作と登山に没頭した。日本文学、西洋文学の大半を読みつくし、特にツルゲーネフ、ジード、モーパッサン、コクトウ、ランボウを読む。詩作では戦時中日本の歌人や詩人たちが戦争に追従をしたのが、日本的情緒的叙情性の弱点にあったと痛感し、ヨーロッパの近代詩、シュルレリズムへ傾倒していく。四年になり、天野譲、西村喜久夫という秀才たちと中学校文芸雑誌「桑弓」を発行。それに掲載したシュルレリズム的な詩、および大手拓次論が、県内の高校以外でも評判になり、注目されるようになる。詩作と共に文学論を確立しようとテーヌ、シュルレリズム論などまで読んだ。そうして詩人としてたつことを決意し、毎日一作づつ詩作することを実行し、北川冬彦に傾倒した。群馬では詩の初心者は普通、地方新聞の詩の投稿欄に投書したり、県内の詩の同人雑誌に参加したりするのだが、利夫はそういうものには目もくれず、自分の好む著名な詩人の幾人かに、直接厳選した詩を送っていたようだった。その中の「詩と詩論」の岡崎清一郎氏に送った詩を氏から激励され、以後岡崎氏との連絡をもてるようになった。その年四月、兄誠三は明治大学文芸科に入学、県内の文化運動などに参加。高崎に疎開していた笹沢美明氏と知り合い。笹沢氏を中心とした数人の詩のサークルYPCが誕生し、そこに利夫も参加し、笹沢氏から利夫の詩は高い評価を受けた。特に「外来者の歌」は激賞された。この頃の利夫の詩は、北川冬彦的なシュルレリズム的な主知的な詩、客観的対象の本質を明らかにするため、客観的なイメージとイメージとの組み合わせによって、詩を主知的に構成しようという詩、そして次第に社会批判特徴を強めつつあった北川冬彦のシュルレリズムから、硬質な叙情性への詩に移って行く頂点の詩だった。笹沢氏は抒情詩人リルケの研究者として名高い。氏は利夫に、日本には珍しい近代的な硬質の叙情詩を期待したのではないか。YPCは五、六人のすこし高踏的なこぢんまりしたグループで、県内の詩人たちとの付き合いはなく、二年後笹沢氏の東京の大学への復帰によって解散した。
 このように利夫は詩作に没頭する中学生生活を送っているのだが、戦後の利夫は、戦時中に反戦的な態度を貫いたことで全校の生徒に注目されるとともに、教師たちにも一目おかれる存在になっていた。終戦直後全国的に中学校のストライキが広がり、利夫が三年生の時、最上級生の四年生が、全国的な中学生ストライキの気運にあふられてストライキに入った。それで学校側も学生側も、反戦の姿勢を崩さなかった利夫の態度を注目したが、利夫はストライキが学校に対する要求も曖昧なままストライキに入ったことで、ストライキには大義名分がないと批判し、三年のリーダー的な友人たちと学年の意見をまとめ、二年一年もまとめてストライキ不参加の立場に立った。そのため、四年生単独のストは孤立し終結した。このことは、学生間に利夫の存在感を高めると共に、教師たちにも一目置かれるようになった。そして利夫は四年生になると、全校学生の圧倒的な支持で、前橋中学校生徒会長に選ばれ、卒業するまでの二年間務めることになる。
 利夫は詩人になるために、大学の仏文科に入学することを考えるが、相変わらず詩作や登山に熱中し、四年の三月早稲田の仏文科を受験して失敗する。五年生になると親友の天野は北大に行き、西村は一高に行ってしまってまた孤独になり、一層詩作に熱中する。長兄の芳郎は、戦後前橋で隆盛になった赤城自由大学運動から共産党に入党し、したがって芳郎の周辺には左翼的文化人が多くなった。だが利夫は共産党とは距離をおき、詩はシュルレリズムから硬質な叙情詩に移りつつあったが、心情的には無頼的な反逆者ランボウを夢見ていたようである。笹沢さんのところに出入りし始めたのもこの頃からだった。
 笹沢さん岡崎さんには厚遇され、YPCの女流詩人には大事にされ、中学校では生徒会長で生徒たちからは特別な目で見られ、教師たちにも一目置かれ、長兄が参加している赤城自由大学の関係者などや文化人の間でも評判になり一部の人たちからは「天使少年」扱いもされたが、親友の天野、西村が一高、北大に行ってしまい利夫は孤独で、文芸部も解散し、堅苦しい中学生活がつくづく嫌になっていて、受験勉強には身が入らず、詩作に没頭していた。そうして受験はその頃左翼系の教授の多かった法政大学を受験することにする。

  一九四八年四月(一八歳)
 前橋中学を卒業し、法政大学予科仏文科に入学上京したが、二か月で学校をやめ帰郷した。家の財産を投資した長兄が関係する事業が倒産して、経済的な困難が増したこともあるが、ランボウに傾倒していた利夫は、予科一年から学部三年までの六年間を大学で過ごすのは無駄だと思ったようでる。そして三年間は家で詩の勉強をすると宣言した。八ヶ岳登山の費用を稼ぐため、ニケ月間旧中島飛行機米軍キャンプ臨時雑役婦として働いた。そのころより、長兄芳郎とその周辺の影響、北大に行った天野が左傾し、早稲田露文科に転校した影響などから、革命的文学ゴーリキイ、ショーロフ、オストロフスキー、マヤコフスキー、ネクラーソフ。理論面では、チェルニイシェフスキー、ププレフーノフ、マルクス、エンゲルス等の芸術論の研究を深め、思想的立場を明らかにしはじめ、マルクス・レーニンの革命論の学習も始める。詩作に没頭、谷川岳をはじめしきりに山に登った。
 この頃の利夫は、ランボウに自分をなぞらえているところがあって、派手なジャンパーを来て無頼的な格好をしていた。美校を出た画家にフランス語を習いに行ったり、YPCの女流詩人たちと喫茶店に行ったり、山に登ったり、自由を味わっていたが、詩の同人雑誌の発行を決意し、YPCの若い仲間誠三、島田千鶴子、福田ヒサと詩雑誌「ラッパ」を発行し、「埃の中のメルヘンだ」と「そこの露地にかくれたのは」を発表する。この利夫の作品に対しての反響は大きく、知己の岡崎、笹沢両氏の激賞はもとより、中央詩壇の北川冬彦、草野心平、大島博光、鮎川信夫、三好豊一郎氏などからはすぐ激励のはがきが来た。とくに大島博光氏は「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と書加えられていた。これが島田利夫と大島博光との初めての文通だった。笹沢さんは 「このようなことは大変異例なことで、詩壇から認められたことになった」と言った。このことで利夫は自信を持ったようだが、大島さん以外の高名な詩人には連絡を取ることはなく、またプロレタリア詩人中野重治、壷井繁治らには「ラッパ」も送らなかったようである。

  一九四八年一一月(一八歳)
 日本共産党に入党、桂萱村細胞に所属し、供出補正闘争に参加する。その闘争は、五〇人の警官の出動による隠匿米の押収で終わるが、利夫はなおも農民たちを引き連れ、米軍の軍司令部に交渉するなど、注目をあびる。利夫は、引きつづき赤城山の南麓、大胡町、富士見村の貧農の闘いに日夜奔走。農民運動の若いリーダーとして注目され、大胡細胞群の責任者に要請される。その間「ラッパ」は廃刊し、民主主義科学者協会前橋支部の仕事にたずさわり、芸術部会を組織した。

  一九四九年三月(一九歳)
 肺浸潤発病九か月間休養した。

 一九五〇年一月(二〇歳)
 桂萱村細胞責任者になった。

 一九五〇年四月(二〇歳)
 病気回復と共に高橋譲氏を中心とした共産党員共同経営の北斗社に入り、ここを基礎に文化運動に従事、前橋歌う会、文学サークル、各種研究会を組織し、前橋文化団体協議会の中心的活動家の一人として活動し、文学サークル誌「花」を発行、ここに載せた「ふるさとの川の岸べに」が大島博光氏の推薦で一九五二年度「日本ヒューマニズム詩集」に選ばれた。
 このような文化活動の中で、「反戦平和」の広範な学生・青年の運動を組織し、その面での力量を評価される。
 この頃から戦後かちとった民主主義の権利は次第に奪われ、単独講和を前にしてアメリカの支配の下、ふたたびファシズムの嵐は荒れ狂った。共産党の中央委員は追放され、機関紙アカハタは発禁され、党は分裂し、主流派は少数派を排除して、攻撃から守るため非合法活動に入り、四全協、五全協で左翼冒険主義路線を目指した。戦争への危機、等の危機が迫っていた。この情勢の中で利夫はあえて要請に応えて、文学を放棄し政治活動に専念することを決意した。これより、過労と栄養不足、コッペパンと水の生活がはじまった。

  一九五一年一○月(ニー歳)
 非合法機関紙「平和と独立」の弾圧で逮捕。早朝五〇人の警官が家を取りまく。

  一九五二年一月(二二歳)
 共産党中毛地区青年、学生、文化対策責任者、そして労働対策責任者になる。伊勢崎市に居住し、金属工場労組の工作に専念し、放置された経営組織を掘り起こした。

  一九五四年五月(二四歳)
 中毛地区ビューロー員になり前橋に帰る。

  一九五四年一〇月(二四歳)
 中毛地区ビューローキャップになり平和運動、労働運動で成果をあげた。平和問題の理論で中央の評価を受けた。

  一九五四年一〇月(二四歳)
 群馬県ビューローに抜擢。農民対策を担当、妙義基地闘争の指導にあった。

  一九五六年一月 (二六歳)
 日本共産党は五五年七月、党大会に準ずる第六回全国協議会を開き、党の統一の基本方向と今までの極左冒険主義戦術の誤りが正された。この頃より利夫には、ふたたび詩作と山に対する情熱がよみがえった。六全協後開かれた県党会議で県常任委員を辞退し、詩作に没頭することを考えたが、党務の責任を考えて断念し、県委員・常任委員に選ばれた。
 その後利夫は多忙な党務の中でも、詩作のノートを手放さず詩作を試みた。「夜空は瀝青」以後の詩は、その間に書かれた詩である。
 利夫の活動は注目され、県内だけでなく中央からも期待されるようになる。

  一九五七年 (二七歳)
 第一三回群馬県党会議で県委員・常任委員に選ばれる。

  一九五七年八月一九日 (二七歳)
 谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼに単独登攀中天侯悪化し頂上へ約二百メートルの地点より墜落死亡した。

二、島田利夫と大島博光の交流

1、利夫は四男だが、兄三人は詩が好きで、ときには、西條八十の詩誌「蝋人形」を買うことがあった。だから利夫も小学校五,六年生の頃からヴェルレーヌ、ランボー、マラルメなどの名や、それらの詩人のいくつかの詩は知っていて、フランス象徴派詩人の詩に惹かれ、フランス象徴派の詩を誌面で紹介していた大島博光には憧れを抱いていた。利夫が大学受験の時仏文科を選んだのもそれが原因。とくに利夫は象徴は詩人の中でも、ランボーに心酔していた。
2、詩の同人雑誌「ラッパ」を発行。この時大島さんから「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励された。それが利夫と大島さんとの交流の出発点だった。「ラッパ」は北川冬彦、草野心平氏など幾人もの中央詩壇の詩人から激励を受けたが、その中でその後利夫が関係を持とうと思ったのは、大島さんだけだった。利夫は大島さんを三鷹の家に訪ね初対面をしたがその後の二人の交流の状況どうだったのかはよく分からない。
3、大島さん訳のアラゴン「フランスの起床ラッパ」の出版は、利夫に大きな衝撃を与えた。その時期の利夫の代表作とも言われる「われらの街はささやきに充ち」「ふるさとの川の岸べに」は、アラゴンの影響を強く感じる。大島さんの推薦で「ふるさとの川の岸べに」は「日本ヒューマニズム詩集」に選ばれた。その後利夫は、詩作を断念し、戦争の危機、等の危機に立向かうため、共産党の常任になる。
4、六全協で、党の統一の基本方向と今までの極左冒険戦術の誤りが正された。利夫に詩作と山に対する情熱がよみがえり、県常任委員を辞退し、詩作に没頭することを考える。上京し、友人天野氏などと相談、大島さんを訪ねるが、結局党務の責任を考えて断念する。
5、利夫はすでに共産党県委員会の若いリーダーとして活動していた。大島氏が詩作から離れていた利夫に会いに前橋の県委員会を訪れた。ちょうどその日利夫は谷川岳に登っていて遭難死したのだ。
6、死後遺稿詩集「夜どおしいっぱい」が発行され、その出版記念会で大島博光の「島田利夫の詩について」という講演があった大島氏の講演は、彼の死について党活動の犠牲などと言わずに堂々としていて、皆に深い感銘をあたえた。

三、大島博光が島田利夫に期待したもの
   島田利夫が大島博光から受け継ごうとしたもの


 大島さんの「教えるとは希望を語ること」年譜によると、大島さんは早稲田の第二高等学院生の時、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰路に捕まり高田馬場警察に二九日拘留された。また早稲田大学の卒業論文に「アルチュウル・ランボウ論」を書いたとある。
 利夫は中学三年の時学校から「海軍兵学校を受験しろ」と言われ、「僕は戦争には反対だから受験しない」」と言って、問題になった。また中学二年生の頃からランボウに心酔する。すでに太平洋戦争下、利夫は誠三の持っていた四、五冊の詩誌「蝋人形」からフランスの象徴派詩人集などからランボウを知ったのだろう。その頃兄弟の知り得たランボウの詩はせいぜい一四、五へんと言うところだったろう。それでも利夫のランボウヘの熱中ぶりはすごく、ランボウのように生きようと思っていたようだった。
 天皇制的絶対主義の時代、共に戦争に反対し、ランボウを愛していた点、二人は共通していた。
 利夫は日本の歌人・俳人・詩人が戦時中戦争に同調、無批判だったのは、日本的な情緒的な叙情にあると、その克服にシュルレリズムに傾倒、そしてその影響が脱却できない詩、「埃の中の童話だ」「そこの露地にかくれたのは」を同人詩誌「ラッパ」に発表。北川冬彦・草野心平など「詩と詩論」などシュルレアリズムの影響を受けた詩壇の詩人たちから激賞される。その中でひとり大島博光は、利夫の詩に変革詩人の可能性を見いだし激励する。利夫もその大島さんの言葉に自分の詩の方向を自覚され、詩壇への道は進まず労働運動・農民運動に接近し、労働者・農民そして民衆の立場に立った詩作と行動に入る。その間大島さんとの関係はたもち、いろいろと示唆を受ける。
 大島博光がアラゴン「フランスの起床ラッパ」を発行。大島さん訳のこの詩集に利夫は衝撃を受ける。そうして「『フランスの起床ラッパへの序曲』の調べが響いている詩『歌いだせ一番鶏よ』」(松本悦治「島田利夫試論」より)を発表。その後利夫のその時期の代表作と言われる「われらの街はささやきに充ち」「ふるさとの川の岸べに」を発表した。
 利夫には「詩人とは時代の先駆者でなければならない。理論の力、政治の力がまだ大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ起ちあがらせるのが詩人の任務だ」というところがあった。そうして自分の詩は叙情に流れている、自分は詩ではやれないと、朝鮮戦争が拡大し、党が弾圧され、日本が再び戦争に巻き込まれるのを阻止しようと、マヤコフスキー、アラゴンのような革命的なリズムを持った詩リズムを掴むために、党の最前線の任務に飛び込む。その時の党は、火炎ビンなどを投げている徳田・野坂一派が組織の大部分を抑えている不正常な状態。その中で利夫は頭角を現し党の統一と職冒険主義克服党の正常化のために努力する。やがて六全協で党は統一され、正常に戻る。利夫は党務を辞退し、詩作に専念したいと思うが、皆の期待と、党への責任から党務を持続し、それ以後党務の傍ら詩作に努力し、迫力あるリズムの変革詩を目指していたが、その途上谷川岳と登攀中遭難死した。
 大島さんは、早くから利夫に変革詩の方向を指し示した。日本は島国で単一民族で形成されて、一時鎖国していたこともあり、閉鎖的で内面的な文学、とくに定型詩和歌、俳句は独自な発展をしてきた。明治維新後、日本の近代国家的発展の中で、欧米文学の影響もあって新体詩運動が起こり発展してきた。大島さんの詩、翻訳詩、詩論などの業績は、日本の進歩的な詩の伝統、プロレタリア詩の流れ、近代的フランスの詩をはじめとする世界の革命的な流れに終始立っていた詩人だった。正統な立場でともに変革の詩を目指した、そのことが利夫と大島さんを結びつけた最大の理由ではないか。

 変革の詩の内容の現在的理解

 「変革の詩」ということで想像されるのは、マヤコフスキーの詩、日本ではプロレタリア詩の印象が強いと思う。だが私達が大島さんから伝えられた外国のアラゴン・エリュアール・ネルーダなどの詩は、そして大島博光の詩・島田利夫の詩は、それらの詩とは大分印象が違う。「変革の詩」の内容が変化発展してきているのではないか。
 また政治反動の暴力が、立憲政治の危機、民主政治の危機、戦争の危機、生活全般に及ぶ危機として多くの国民が起ちあがる市民革命の状況さえ呈しているとき、多くの市民の声が変革の言葉になりつつあるのではないか。逆に言えば、日常的なテーマを歌うときにも、変革の立場に立たざるをえないようになっているのではないか。それを意識し、あらためて、大島さんの詩のスタイル、利夫の詩のスタイルから学べるのではないか。
 未来社会は人間が全面的に解放される社会であり、個性的に充実される社会でもあり、それを目指すわれわれは連帯しながらたえず新しいものを吸収し、輪を広げて行くのだ。

 あの困難な時代を変革の光を掲げて生き抜いた島田利夫・大島博光に栄光あれ!


  (2015年11月15日 大島博光記念館での講演の資料)

赤城山
赤城山

島田利夫と大島博光の交流    大島朋光

 「島田利夫は三鷹の博光宅を何回も訪れていた、幼なかった朋光さんに会ったことも話していた」嶋田誠三さんの言葉を佐相憲一さんが教えてくれました。誠三さんは島田利夫の実兄で、『島田利夫詩集』を出版するために編集を佐相さんに依頼し、博光の話も出たのでした。
 島田利夫は二十七才の若さで谷川岳で亡くなった前橋の詩人。博光はその詩を高く評価し、将来を嘱望していました。二人の交流については殆んど資料がなく、博光が前橋に行ったのかも分かりませんでした。
 嶋田誠三さんに会いに群馬県藤岡市のお宅を訪ねました。八十八歳とはとても思えない若々しさとバイタリティーで博光との交流について語って下さいました。また、兄弟を主人公にした小説「自由への道 戦後激動期の人びと」を掲載した雑誌を頂きました。これにより、たくさんのことがわかりました。

◇中学時代から博光の名を知る

〈私たち兄弟は中学・高校の時から文学が好きで、戦前から『蝋人形』を通して大島博光を知っていました。大島さんの存在は二人の支えになっていました。〉(嶋田誠三氏)
 島田利夫は一九四三年、群馬県立前橋中学校に入学し、日本と西洋の文学を読み始めました。ランボオに魅せられて詩作を始め、大島博光「編輯者の手帳」(『蝋人形』昭和十六年六月号)をノートに抜粋しています。
〈利夫は前橋中学に一浪して入った。背が高くて頑丈で成績がよかったので、幼年学校を受けろと言われたが、「俺は戦争に反対だから受けない」と言って大問題になった。名門中学なので事なきを得たのです。〉(嶋田誠三氏)
 一九四八年四月、前橋中学を卒業し、法政大学仏文科に入学しましたが、二ヶ月で大学をやめ、独学で詩人の道を追求します。ゴーリキー、ショーロホフ、マヤコフスキー、ネクラーソフ等の革命的文学の影響を受け、マルクス、エンゲルス等の芸術論を研究し、十一月、日本共産党に入党しました。

◇『ラッパ』が交流の出発点

〈『ラッパ』を大島さんに送り、激励の手紙を頂いたのが二人の交流の出発点です。〉(嶋田誠三氏)
〈一二月、詩同人雑誌『ラッパ』を発行し、北川冬彦、草野心平、大島博光等の諸氏に認められた。俊介は自分の詩に対する自信を深めたようだったが、詩壇との接触を深めて詩人としての道を開こうという考えは持たずに、革命的な詩の創造のために労働運動、農民運動と接触していこうと考えていたようである。中央の関係では、「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励してくれた大島博光との関係は保って、独自の道を歩もうとしていた。〉
(「自由への道 戦後激動期の人びと」*俊介=島田利夫)
 一九四九年三月、肺浸潤を発病し、約九ヶ月間、結核療養に専念しました。病気回復と共に共同経営の北斗社に入り、ここを基盤に文化活動に従事、前橋うたう会、文学サークル、各種研究会を組織し、前橋文化団体協議会の中心的活動家として活動しました。

◇『フランスの起床ラッパ』を目標に

〈大島さんは健康が相当悪かった。病気で翻訳の仕事もできない。アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が出版されたとき(一九五一年二月)、大島さんの健康は回復したんだと喜びました。〉(嶋田誠三氏)
 一九五一年三月、利夫は文学サークル誌『花』復刊一号を発行、巻頭文でアラゴンの詩句「われらの不幸の花束は重い/だが その花の色はかるい」(『フランスの起床ラッパ』─「ガブリエル・ペリの伝説」)を掲げ、この詩句にちなんだ誌名であることを示しました。「歌い出せ一番鶏よ」には「フランスの起床ラッパへの序曲」の調べが響いている(松本悦治『島田利夫試論』)と評されています。
〈アラゴンはナチスドイツの支配下で『フランスの起床ラッパ』という詩集を出した。アラゴンの詩はフランスの人たちを呼び覚ました。このような詩、労働者を呼び覚ます詩をどうしてかけないのだろうか。今の俺は詩壇に用はない。下手に詩人と付き合うと詩が低俗になる。今関係を持っているのは、大島博光さんだけだ。大島さんはアラゴンをやっている。大島さんは翻訳はうまいが詩は駄目だ。それを大島さんは認めている。「今俺は肺結核で、病気では詩も書けない」と言っていた。俺も病気になって大島さんの言うとおりだと思った。……政治の力が、理論の力が、大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ、立ち上がらせなければならないのは、僕は詩人の任務だと思っている、フランスではランボーが、アラゴンが、ロシアではネクラーソフが、マヤコフスキーがそれをやった。……もっと迫力のあるリズム、労働者の革命性を高めるようなリズム。日本の近代詩でリズムが問題なのだ。〉(「自由への道 戦後激動期の人びと」

◇「ふるさとの川の岸べに」を推薦

 一九五一年五月、島田利夫は『花』二号を発行し、代表作「ふるさとの川の岸べに」と「われらの街はささやきに充ち」を発表、「ふるさとの川の岸べに」が博光の推薦で一九五二年度『日本ヒューマニズム詩集』に選ばれました。
〈「大島さんは推薦する前になぜ自分に相談しなかったのか?自分ではまだ納得した作品でなかった。はずかしくて載せてほしくなかった」と言っていました。〉(嶋田誠三氏)

◇詩から離れて革命運動の最前線に

 『花』二号を発行したあと、党の専従活動に入り、詩作から離れます。詩の空白期間は五年半に及びました。
 〈祖国は今危機にあると俊介は思っていた。アメリカ占領軍による日本共産党ならびに戦闘的労働者への弾圧。朝鮮戦争の拡大。アメリカの極東支配の前線基地としての日本。アメリカの傭兵として日本の青年が再び銃を持たされて戦場に送られる危険。今その危険と真正面から闘う戦線の最前列に就かなければならない。今、詩人に要請されるのは、マヤコフスキーのように、アラゴンのように国民を決起させる詩を作ることだ。今必要なのは変革の詩なのだ。党の要請があれば、自分はその任務に就く。「詩をと問われるならば」その闘いの中で、「その闘いの憎しみのるつぼの中で」新しい革命的リズムを持った詩を携えてくる。その確信が出来るまで、詩とは断絶だ。〉(「自由への道 戦後激動期の人びと」*俊介=島田利夫 )
〈利夫はものすごく理論的で、革命理論から実践から際立っていました。女の子にもてた。低音でしゃべる。背が高い。歌がうまい。全体の流れをつかみ、文学の話、政治の話などしない。皆が革命歌を歌っているとき、「遙かなるサンタルチア」など、違う歌をうたう。赤城山大沼で行われた「山の平和祭」を実行委員長として大成功させた。大変な評判で将来を有望視されました。
 彼はアラゴンを目指しているわけです。「自分の詩は抒情に過ぎ、抒情に流れている、自分は詩ではやれない」といって、それを克服する意味で、党の最前線に入るわけです。その時は火炎瓶なんかを投げている時代、誤った時代です。徳田・野坂一派が大多数を抑えている。まちがえを抱えながらも、その組織で闘うしかない。第一線に飛び込むことが革命家なんだ。そこで頭角をあらわすんです。二十三才で、前橋があり群馬県で一番大きな中毛地区の地区委員長をやった。委員長を一年やってから、県委員会の指導部・ビューロー五人の一人になった。金子満広も一緒だった。中央に引き抜かれると思っていた。平和運動を軽視しているのではないかといって民族解放・反植民地運動の重要性を訴える文書を出して中央に評価された。六全協を経て自己批判して再出発し、常任の仕事をしながら書いたのが「夜どおしいっぱい」です。〉
(嶋田誠三氏)

◇運命の日

 詩作から離れていた島田利夫に会いに博光が前橋を訪れたのは一九五七年八月一九日のこと。なんとちょうどこの時、島田利夫は谷川岳で遭難し、非業の死を遂げたのでした。
〈県委員会に大島さんが来ていた。「利夫君はどうした」「山に登った。大島さん、ちょっと待っていてくれ、探してくるから」夕方になっても利夫は帰ってこなかった。〉(嶋田誠三氏)
 博光は悲報に接して手紙を書いています。
〈なんという悲しいお手紙をいただいたものでしょう。おどろきと痛恨と。わたしはあの日、正午まで、利夫君の元気な顔が見られはしないかと待っていました。正午になっても見えないので、何か忙しいのだらうから、この次の機会に、と思って、午後の汽車で帰ってきました。そのとき、利夫君はもうわれわれの世界から去っていたとは!
 ひまわりのような若ものに 忽ち
 経帷子をきせる悲しみより 深いものは何もない
わたしは利夫君と久しぶりに詩の話などできると期待しながら前橋に行ったのに、もうその夢はなくなってしまった。しかし、思えば、たとえ偶然とはいえ、利夫君の死の時刻に、わたしが彼に会いたいとねがっていたとは、なんということでしょう。──利夫君にもう一ど詩を書いてもらいたい、あの利根川のような歌をかいてほしいというねがいも、消えてしまいました。ほんとうに、春秋に富んだすぐれた同志を失ってしまいました。あなたの悲しみはまた いっそう深いでしょうが、もう 彼の霊のためにも、わたしたちは前進するよりほかはない、そういう気もちでいっぱいです。〉

◇遺稿詩集『夜どおしいっぱい』

〈亡くなった後、遺稿詩集『夜どおしいっぱい』を出すために婚約者といっしょに三鷹に相談に行きました。その出版記念の会を前橋で開いたとき、大島さんは「島田利夫の詩について」という講演をしました。彼の死について党活動の犠牲だなどと言わず、堂々としていて感銘を受けました。〉(嶋田誠三氏)
 博光は「ひとりの党員詩人 島田利夫について」を書いて追悼しました。
 〈「夜どおしいっぱい」の詩人島田利夫は、去年夏、谷川岳一の倉沢で死んだ。二十七才の若さだった。死後、未発表の詩を書きこんだ大学ノート一冊が見出された。そのなかには、この「夜どおしいっぱい」のほかに「夜空は瀝青(チャン)」「みぞれの歌」などの詩が書きこまれていた。それらの詩はいきいきとした芸術性と実践性との統一から生まれたものばかりで、わたしは深い感動をうけずにはいられなかった。わたしはこころのなかで叫んだ。「ここにこそ、ひとり党員詩人がいる!」と。しかもかれはもう死んでしまったのだ。もうとりかえしはつかない。深い哀惜があるばかりだ。
 星より強い お前の労働
 星より強い お前の希望……
 そしておお お前の忍耐!
 これらの詩句はかれが困難なくるしい活動のなかでも、労働者階級の未来に希望を燃やしつづけ多くの苦しみにもじっと耐えてたたかいつづけていたことを、物語っている。
 「夜どおしいっぱい」では、働くものの、行動するものの息吹き、リズムが、力づよいうたとなっている。「夜どおしいっぱい」という力づよいリフレーンが、この詩に重い余韻をもたせながら、この詩をぐっとひきしめている。それはまるで、夜どおし「生身をこがし」ながら働らくものの張りつめた気もちと怒りそのもののようだ。泣きごとなどは言っておられぬ……ここにこそ、この詩人がその実践活動から身をもってひきだしてきた行動のひびき、行動のうたがある。そうしてこのような、おのれの身をもってとらえた現実のひびきと思想性ほど、こんにちわれわれの詩にとって大切なものはないであろう。〉(『アカハタ』一九五八年一月)

◇新刊なった『島田利夫詩集』

 この六月、新刊の『島田利夫詩集』が誠三さんから送られてきました。

  われらの街は ささやきに充ち──
  花から花へ 吹き流れる花粉のように
  家々の扉を結ぶささやきに充ち──

  一人の悩みで 別の瞳を濡らしながら
  恋人でもない 別の瞳を濡らしながら
  涙を誘うささやきに充ち──

  一人ののぞみを 五人のランプに灯しながら
  兄弟でもない 五人のランプに灯しながら
  おののきやまぬささやきに充ち──
  ……
  泉の底に めぐり流れる地下水のように
  われらは持つ そのささやきを
  そのうずき そのどよもし そのたかなり

  野には 野には 流れる花粉
  風荒れる月日の中に
  われらの街はささやきに充ち──
     (「われらの街はささやきに充ち」

 瑞々しい抒情性に溢れながら、働くものへの共感と連帯をうたい、島田利夫の優しく温かい声に励まされる思いがしました。(二〇一五年七月)

〈参考にした文献〉
嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと」(『風の街』)
松本悦治『島田利夫試論』(あかしあ書房)
島田利夫『詩集 夜どおしいっぱい』
佐相憲一編『島田利夫詩集』(コールサック社)

(『狼煙』78号 2015年9月)

広瀬川
前橋市内を流れる広瀬川

<「狼煙」をお送りいただき有難うございました。大島さんの文章を感動しながら読ませていただきました。私の講演の基本は、あの文章にそっていけばいいのだと思っています。利夫が戦時中なぜ詩を書き出したのか、日本の歌人や詩人たちが戦争に追従をしたのはなぜ。それは日本的情緒的・叙情性の弱点にあると、ヨーロッパの近代詩、シュルレアリズムへの傾倒。そして戦後の日本の現実に対峙し、民衆の立場に立った時、大島さんと出合い変革の詩を志します。利夫は、労働運動・農民運動の中で、自分の詩を磨き上げていきます。やがて朝鮮戦争が始まり祖国が危機に直面し、大島さんのアラゴンの「フランスの起床ラッパ」に出合い、「ふるさとの川の岸べに」「われらの街はささやきに充ち」を残して、革命運動の第一線に飛び込み、その実践の中からさらに民衆を決起させる詩を目指しました。そして幾つかのすぐれた詩を残しながらも、谷川岳登山中遭難します。
 利夫の詩は未完に終わりましたが、その詩作の全期にわたって、その詩は光かがいています。難解な詩もありますが、初期の詩も含めてできるだけ分かりやすい詩の解説もしたいと思っています。私は体調を崩して半年創作を休んでいましたが、九月に入って創作を再開。年末には「風の街」四三号発行の見込みです。>

*『狼煙』78号(2015年9月)に載せた「島田利夫と大島博光の交流」にたいして嶋田誠三さん(島田利夫の実兄)からお便りが来ました。来月(11月15日)開催する嶋田さんの講演「島田利夫と大島博光」は島田利夫の詩と人間について理解する良い機会であり、とても楽しみです。

嶋田誠三

 なぜ歌い出さないか
                        島田利夫

 民主的な詩人達の間に度々〝抵抗”という言葉が操り返され、又その実践であるとみられる作品が現われている。だがそれ等の大部分が個々の日常生活の断片を、歌いあげるというよりもむしろ、一種の独白的(モノローグ)なつぶやきや、凝視といつた形で、表現しているのを見るとき、この事は現代詩のリズムの缺除とからみあう問題として、私達の前に呈出されてくる。
 戦前民主的な勢力に対する圧迫が強まつた時、多くの民主的な詩人達が抵抗を心の中に蔵いこみ、遂に沈黙してしまつた事実を、私達は身に泌みて知つている。多くの人達が現実の変革を希望している今、詩は単に汚い汚いと繰り返すのみで良いであろうか。多くの人々は汚なさには飽き飽きしている。私達は今汚なさに対する斗いの美しさを知り、知らせねばならない。この事は、詩をつぶやきから歌へ、凝視から行動へとひきあげる事を意味する。それは必然的に詩の上に新らしいリズムとなつて現われるだろう。
 現代詩にリズムがないのは、それが探しても見つからない為ではなく、内容そのものがリズムを必要とする程に高揚された感動を持つていないからだ。つぶやきや凝視はリズムを持つ資格がないのだ。
 歌が喜びであれ悲しみであれ怒りであれ、より高められた感動は、より鋭い現実に対する感度を必要とする以上、それは明日の社会への壮大なロマンと その為の激しい斗いの中からのみ生れるだろう。
 この時始めて個々の抵抗は大きな人民の力に支えられ、高められ、人民の抵抗の真の代弁者となるであろう。このことがなされぬ限り、個々の抵抗はやがて竹林の七賢人的な孤高の精神となりさがるだろう。
(『島田利夫詩集・夜どおしいっぱい』)

*この問いかけに答えたのが「歌いだせ一番鶏よ」(1951.1.1)になります。

夜どおしいっぱい表紙
手紙島田
手紙島田
手紙島田


このたびは『島田利夫全詩ノート』『島田利夫試論』および『風の街』をお送りくださって、ありがとうございました。島田利夫はなつかしい名前で、往時を思い出しながら、これからゆっくり拝誦するつもりです。・・・
島田利夫──革命運動の最前線に

 島田利夫は一九五一年五月、文学サークル誌「花」二号で代表作「ふるさとの川の岸べに」と「われらの街はささやきに充ち」を発表したあと、前衛党の活動に没頭することとなり、詩作から離れた。以後五年半、詩の空白期間が続く。

 祖国は今危機にあると俊介は思っていた。アメリカ占領軍による日本共産党ならびに戦闘的労働者への弾圧。朝鮮戦争の拡大。アメリカの極東支配の前線基地としての日本。アメリカの傭兵として日本の青年が再び銃を持たされて戦場に送られる危険。今その危険と真正面から闘う戦線の最前列に就かなければならない。今、詩人に要請されるのは、マヤコフスキーのように、アラゴンのようにその問いに国民を決起させる詩を作ることだ。今、必要なのは変革の詩が必要なのだ。党の要請があれば、自分はその任務に就く。「詩をと問われるならば」、その闘いの中で、「その闘いの憎しみのるつぼの中で」新しい革命的リズムを持った詩を携えてくる。その確信が出来るまで、詩とは断絶だ。
*俊介・・・島田利夫
(嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと 13 台風迫る」『風の街42』2015.3 )

 彼はアラゴンを目指しているわけです。「自分の詩は抒情に過ぎ、抒情に流れている。詩人は変革者、自分は詩ではやれない」といって、それを克服する意味で、党の最前線に入るわけです。その時は火炎瓶なんかを投げている時代、誤った時代です。徳田・野坂一派が大多数を抑えている。まちがえを抱えながらも、その組織で闘うしかない。第一線に飛び込むことが革命家なんだ。そこで頭角をあらわすんです。23才で群馬で一番大きな中毛地区委員長をやった。地区委員長を一年やってから、県委員会の指導部・ビューロー5人の一人になった。金子満広も一緒だった。中央に引き抜かれると思っていた。平和運動を軽視しているのではないかといって、民族解放・反植民地運動重視の平和の文書を出して中央に評価された。常任の仕事をしながら書いたのが「夜どおしいっぱい」です。

 利夫は先進的でものすごく理論的。彼の年齢からすると革命理論から、実践から際立っている。いつも孤独で、山に向かった。女の子にもてた。低音でしゃべる。背が高い。歌がうまい。皆が革命家を歌っているとき、「遙かなるサンタルチア」など、違う歌をうたう。赤城山大沼で行われた「山の平和祭」を実行委員長として大成功させた。大変な評判だった。有望視されていた。

(嶋田誠三氏談)

この期間の活動歴はつぎのようになります。
一九五二年(二三歳)
一月、日本共産党群馬県中毛地区委員会の専従となり、青年・文化・学生の各対策部責任者となった。
六月、中毛地区委員会労働対策部責任者となり労働運動を指導、富士、三共、明星など金属工場労働者をオルグして工場に党の組織を建設し、労働組合運動を指導するなど、放置されていた経営内の党組織を掘り起こした。
一九五三年(二四歳)
中毛地区ビューロー(非公然指導部)員となった。
一九五四年(二五歳)
五月、中毛地区ビューローキャップ(非公然地区委員長)となった。平和運動、労働運動に成果をあげた。
一〇月、群馬県委員会ビューロー員となり、農民対策部を受け持ち、妙義基地闘争の指導に当たった。
一九五五年(二六歳)
第六回全国協議会が開かれ、党の統一の基本方向と、今までの左翼冒険主義の誤りが正された。山と詩作に対する情熱がよみがえった。県常任委員をやめ詩作に没頭することを考えたが、党務の責任を考えて断念した。
一九五六年(二七歳)
一月、第一回群馬県党協議会で県委員に選ばれ、常任委員となった。
一九五七年(二七歳)
四月、第一三回群馬県党大会で県委員に選ばれ、常任委員となった。
八月一九日、谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼに単独登攀中、天候悪化し、頂上へ約二百メートルの地点より墜落、死亡した。
(松本悦治『島田利夫試論』、嶋田誠三『詩集 夜どおしいっぱい抄』より)

風の街
  歌い出せ一番鶏よ  -1951.1.1-
                           島田利夫

 干ききらぬ涙の上に
 いく度、新しい涙が流れ
 又、消えたろう
 陳情書は放り出された
 嘆願書は色あせた
   そこの役所のデスクの側(わき)に
   ここの役所の紙屑箱に

 生命を覆う一枚の上衣すらも
   引き裂かれた
   ──大臣の言葉の中で

 だが 引き裂かれぬ
 憎しみの河よ
 それは今、生きて泡だつ
  あなたの胸に
 それは今、生きて逆まく
  私の言葉に
 その中で 色あせぬ
  引き裂かれた一九五〇年よ
  涙の年よ

      ×     ×

 この都市には、数万の人が住んでいる
  同じ日を働き
  同じ夜を眠る
 数万の人が住んでいる

 明日を歌う夕焼けは 燃えたたぬ
  ここの空には、けれどなお
 家々に 窓はひらき
 生活に 言葉はひびき──

 人々は抱えて運ぶ
 今日から明日へ──重い心を
 悲しみは いよいよ重く
  一人は よろめき
  一人は 倒れる

 この都市には 数万の
  同じ悲しみが住んでいる
  同じ日を働き
  同じ夜を眠る
 数万の 同じ憎しみが住んでいる

 だが俺達は知らずにいた
   凡ての窓 凡ての言葉の 望む願いを
 だが俺達は知らずにいた
 数万の憎しみをつなぐことを

 おお俺達は見た
 俺達の喜びが 一台の国税庁のトラックに
 山積みされて奪われた日を

 そのあとを追う眼の方角で
 見ろ 憎しみは結ばれている

 俺達を呼ぶ
 あなたを呼ぶ
 切り離された憎しみの呼び合う声が
 あなたの中で
 わたしの中で
 あなたを呼ぶ
 俺達を呼ぶ
  労働の日に
  眠りの夜に

      ×     ×

 歌い出せ一番鶏よ!
 一九五〇年の黒い裂け目で
 俺達は引き出すだろう
 燃え立つ五一年を

 歌い出せ一番鶏よ!
 それに続け 二番鶏よ!
  涙の歌は もう沢山だ
  夜の歌は もう沢山だ

 風は荒れ 風は呼ぶ
 夜の中の数知れぬ朝の笛よ!
 炎のような歌い手よ!
 風は荒れ 風は呼ぶ
 お前の中の憎しみを!
 お前の中の朝焼けを!

 (『花』復刊一号 1951年3月)

労働

島田利夫と「フランスの起床ラッパ」

1951年3月、島田利夫は文学サークル誌「花」復刊1号を発行した。巻頭文でアラゴンの詩句「われらの不幸の花束は重い/だが その花の色はかるい」(「ガブリエル・ペリの伝説」)を掲げて、次のように書いた。

「花」の刊行が挫折してから半年の月日が流れた。そしてこの飛び去る時間を追いながら、私達は焦らだちと悔やみの中に日を送った。明るい明日を心の中に揺りながら何と暗い今日の日に私達は黙し続けていた事か。・・・だが私達も夏と冬にまたがるこの期間を決して無為に過しはしなかった。・・・そして今、共鳴りの時節が来た。共鳴りは喜びにおののき、喜びは再びその呼びかけを「花」の中に野望する。

島田利夫がこの雑誌に載せた「歌い出せ一番鶏よ」には「フランスの起床ラッパへの序曲」の調べが響いていると言われる(松本悦治『島田利夫試論』)。

このころ島田利夫は「フランスの起床ラッパ」について次のように語っている。
アラゴンはナチスドイツの支配下で『フランスの起床ラッパ』という詩集を出した。アラゴンの詩はフランスの人たちを呼び覚ました。このような詩、労働者を呼び覚ます詩をどうしてかけないのだろうか。

今の俺は詩壇に用はない。下手に詩人と付き合うと詩が低俗になる。今関係を持っているのは、大島博光さんだけだ。大島さんはアラゴンをやっている。大島さんは翻訳はうまいが詩は駄目だ。それを大島さんは認めている。「今俺は肺結核で、病気では詩も書けない」と言っていた。俺も病気になって大島さんの言うとおりだと思った。俺もしばらく詩を書いていなかった。だがやっと書き出した。

(1950年、朝鮮戦争の危機が迫るなかで労働組合は破壊され、共産党は占領軍に追い詰められ、ゼネストも打てない閉塞の時代に)・・・政治の力が、理論の力が、大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ、立ち上がらせなければならないのは、僕は詩人の任務だと思っている、フランスではランボーが、アラゴンが、ロシアではネクラーソフが、マヤコフスキーがそれをやった。
・・・リズム、それが叙情的なのだ。もっと迫力のあるリズム、労働者の革命性を高めるようなリズム。日本の近代詩でリズムが問題なのだ。

(嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと9」『風の街」38 2013年)

彼が「フランスの起床ラッパ」を目標にしていたことがわかる。

花
挨の中の童話(メルヘン)だ
                           島田利夫
 
柵のやうに腕を触れ
分割される地面の上で
ほんとになんにも知りやしない
 (確かにあれは叫びだが)

夕焼けは失くしてしまった
表情もおまけにつけて
泥溝(ドブ)板に鼠がさはぐ
月が上る? 冗談ぢゃない今は昼

だが
今 明るいメルヘンよ
別々な顔の同じ表情の
吹きつさらしのメルヘンよ

もたれるスコップ
堆積された石炭殻
顎を投げ出し
遠くで見れば思案顔だが
実は何んにも……。

疲れだ
チラチラ燃えるかげろふの隙間から
遠く遠く市街が見える
     
     蝿(ハエ)のやうにネクタイした紳士
     乙にすまして………
    
水鼻汁(ミズツパナ)
遠くで見れば思案顔

「俺が思ふのは恋の事
真似ぢやない……日に灼けた
誓っていい……小麦粉色の
少女だ。泥だらけの腕がいやなら
瀝青土(チャン)にまみれた 命だつて
やらうと云った
ほんと云ったさ 返事はちやんと胸の中

君らは賢い 俺の恋なぞわかるまい
こそ犬め 白い手の
ああ マリヤ
十字架が避雷針に似てゐます。」

風、挨 何も見えない
均(す)らされる地面の上で
いかさま賭博のサイコロのやうに
すりかへられる地面の上で
肩を寄せ 井戸のやうに腕をつなぎ
 (あれは確かに叫びだが)
みんな吹き消せ
石炭殻の山 顔々 埋まってゆく脚

(『ラッパ』1948.11)

ラッパ
島田利夫の同人誌「ラッパ」と大島博光 

 1948年、島田利夫は入学して2か月で法政大学を退学し故郷前橋に帰った。就職はしないで、詩作や読書に熱中し、仲間に呼びかけて詩の雑誌「ラッパ」を発行した。島田利夫、嶋田誠三、島田千鶴子、福田ヒサコ子の同人4人が3篇ずつ執筆した。
 島田利夫・嶋田誠三兄弟を主人公にした伝記的小説「自由への道」(嶋田誠三著)で「ラッパ」が大島博光との交流のスタートだったことが分かります。(小説の中で島田利夫は俊介、嶋田誠三は信作の名前となっています)
   ◇    ◇    ◇  
 「ラッパ」の俊介(島田利夫)の作品にはある特徴がある。その一つは、そのイメージや主題が現実的なこと、もう一つはその歌い方がリズミカルなことである。

 「ラッパ」に対する反響はすぐにあった。中央詩壇で活躍している北川冬彦、草野心平、鮎川信夫、三好豊一郎、大島博光などからは、すぐに激励のはがきが来た。
 それらの詩人は、「ラッパ」に載った俊介の「挨の中の童話(メルヘン)だ」「堤防」「あそこの路地に隠れたのは?」を一様に高く評価していた。なお大島博光は信作(嶋田誠三)の「商品街」、三好豊一郎は千枝子(島田千鶴子?)の詩についても触れた。笹沢さんからは、このようなことは大変異例なことで、詩壇から認められた事になると言われた。当時俊介は十八歳である。

 俊介は「ラッパ」を抒情詩人には送らなかったようである。また俊介はすでに共産党に入党し、革命的な詩を目指してはいたのだが、プロレタリア詩の流れに立つ壷井重治、岡本潤の詩などはあまり評価をしていなかったので、それらの人に「ラッパ」は寄贈しなかった。当時俊介は叙情詩を否定しようとしていたが、もともと俊介は叙情性に富んでいた人で、三好達治など優れた抒情詩人には親近感を持っていた。また身近にはリルケの訳詩や研究家である笹沢美明がいたわけなのだが、笹沢さんは俊介の叙情性を高く評価しながらも、叙情性を克服していこうと志向していた俊介に、あえて叙情詩の方向にすすめとは言わなかった。壷井や岡本の詩について俊介は、政治主義で観念的で詩としては評価できないと言っていた。中野重治の詩については、詩としては評価しながらも、日本的伝統的な短歌的抒情性から抜け出ていないと見ていた。俊介はむしろ北川冬彦など「詩と詩人」「荒地」の詩人から学びながら、その頃は、マヤコフスキー、アラゴン、そしてプーシキンを詩人として目標にしていた。

 俊介は中学生時代からモダニズム、シュールレアリズムの詩を目指し、日本では「詩と詩人」「荒地」の系統の詩の影響を強く受けていた。俊介の才能をいち早く評価した岡崎清一郎、笹沢美明氏は「詩と詩人」の系統の人である。その中でそれを克服して革命的な詩を目指した。「ラッパ」に載った詩にもその詩の方向は明らかであるのに、詩壇の中でも「詩と詩人」「荒地」の系統の多くが俊介の詩の方向性を認めた上で、俊介の詩を評価した。又俊介は叙情詩、特に伝統的な短歌的抒情を克復して、現実に対峠するリズミカルでダイナミックな詩を目標にした。またプロレタリア詩の流れの、詩の中にある政治的な観念的な詩を克服しなければと思っていたようである。大正デモクラシーを経、日本の近代詩の積極的な側面を受け継ぎ、現実変革のリズミカルでダイナミックな詩。そういう詩の可能性を秘めた特異な詩人ではなかったのだろうか。

 俊介は「ラッパ」に対する北川冬彦、草野心平など一流詩人からの賛辞、笹沢さんの「詩壇から認められたことになる」という言葉などで、自分の詩に対する自信を深めたようだったが、それを契機に詩壇との接触を深めて詩人としての道を開こうという考えは持たずに、逆に詩壇には背を向けて、革命的な詩の創造のために労働運動、農民運動と接触していこうと考えていたようである。
 それでも俊介は、引き続きY・P・Cには顔を出し、笹沢さん、岡崎さんとの関係は保ちながら、中央の関係では、あなたの「『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励してくれた大島博光との関係は保って、俊介独自の道を歩もうとしていた。
(嶋田誠三著「自由への道」──『風の街』NO.35所収)

風の街