エピソード

ここでは、「エピソード」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


過日は突然お伺いいたしまして お忙しい中いろいろ案内頂きましてありがとうございました。
博光先生が遺されたたくさんの愛の詩、訳詩を目にすることができ、そして千曲川をめぐり、松代の町を勉強させて頂き、本当に嬉しゅうございました。

アラゴンの詩 それを訳されました大島先生に心を動かされてから五十六年過ぎました。
大学を出て歴史の教師になって間もなく、一九五七年の四月、中学一年生の入学式の日でした。それぞれの教室へ生徒と一緒に入った時、思いがけず、黒板に書かれた「ことば」に私は感動しました。一年間その教室で担任された国語の先生が入学式の朝、黒板にチョークで書いて下さったのです。

 今日からこの教室で学ぶ君たちへ
  「教えるとは 希望を語ること
   学ぶとは 誠実を胸に刻むきざむこと」
           ストラスブール大学の歌より
 教室の前の花壇に三本のライラックの苗を植えました。
 やがて紫・ピンク・白の花が咲くでしょう。
 愛・友情・正直・・・どうか心豊かな大人になって下さい!!


十二歳の子供たちは何のことやら、わかったか、わからなかったか・・・でもみんなしっかり読んでいました。チョークで書かれた文字はやがて消され、忘れてしまったことでしょう。私はとても嬉しかったのです。二才年上の早稲田を卒業した男の先生に心から「ありがとう」を伝え、ゆっくり話そうと思っていました。でも忙しさに追われ、すばらしい「贈物」だと私は感謝して時は過ぎました。バスケットと水泳の上手な元気な先生でしたけれど、四〇代で惜しまれて亡くなりました。いつも私は「あのことばことば」と気になっていました。「アラゴンの詩」だと思うよ・・・といっていた私の夫も五年前に急逝してしまいました。夫は歴史の研究者ですが、思うことは同じです。
あの時の中学一年生、みんな六十七〜八才です。「黒板のことば・・・先生!アレ、ナニ?」いいおじさまとおばさまが老人の元教師に尋ねます。「そのうち天国に行って聞いてくるね」と私は答えます。
博光先生が大切にされた「ことば」を繰り返し読むことができた・・・そして故郷千曲川のほとりの松代へ行くことができて幸せです。
ありがとうございました。
夫の遺作「川柳のなかの中国」お時間がありましたら読んでやって下さいませ。

十月七日                  中村宏子
小林園子様
重田様

 記念館オープンにあたり、メッセージをいただきに行きました。たまたまその頃パリへ旅行する計画があり、それなら、パリで会いましょうという話しに。結局ご自宅を訪ねることになりました。この時泊まったホテルがアラゴンとエルザが滞在していたというイストリアという所でした。また、不思議なことにもうそろそろ帰ろうかという頃モンパルナスの大通りをぶらぶらしていたところ、本屋さんの店先のワゴンに、アラゴン協会のアンフィニという雑誌がセールでおいてありました。ゴーシュロンの名前があったので買って帰り、東京へ戻ったある日、風に吹かれたページに何とOshimaという文字が。日本でのアラゴン翻訳者がなくなりましたというお悔やみの記事が載っていたのです。こんな偶然がある でしょうか?この冊子は朋光さんにお渡ししました。⇒⇒ ゴーシュロンにお会いした時のことを書いたものも当時朋光さんにお渡ししてあります。

尾池和子
アンフィニ
馬場町の古川さん宅に博光がいたことを博光の姪の佐藤芙喜子さんが覚えていました。
   *   *   *
小学生の頃、古川先生(音楽の先生、美しかった)の家にピアノを習いに行ったら、ベッドに博光が寝ていた。当時は珍しいベッドに休んでいたので母に聞いたら、胸の病気のせいといわれた。はじめ、博光宅に古川先生が部屋を借りているのかと思った。静江はいなかった。
   *   *   *
昭和23年春まで馬場町に住んでいたことは分かっていましたが、結核のためにベッドを置いて休んでいたことが新たにわかりました。古川さんの母親が音楽の先生だったことも分かりました。
谷津干潟

静江が千葉に来た時
谷津干潟でバードウオッチングしたいという
皆で車に乗り谷津バラ園の方へ向かったが
公団住宅の建設現場しか見えなかった
工事中で入れないと言って諦めてもらった

静江が亡くなってから
海側に干潟公園があることがわかった
野鳥観察舎があり、水鳥が遊んでいた

谷津干潟を見ると
ここに案内してやれなかったことが
ほろ苦く思い出される
1997年2月22日 近藤芳子おばさんお通夜。博光を車に乗せて三鷹から練馬のお寺へ。寒い強風の夜。6時前着く。ふうちゃん(静江妹)夫妻、トシジ叔父(静江弟)、佐々木修二さん、桃子が参列。芳子おばさんは肝硬変で入院してたと。帰りに三鷹でスパゲテイとピザの店にはいる。店が若い人であふれかえっているのをみて、これでは革命は起きないなと博光。

*近藤芳子おばさん・・・静江の母の妹。静江は18才のとき上京して、近藤修博・芳子夫妻の世話になった。近藤芳子さんは70を越しても年を感じさせない若々しいおばさまでした。「声を出して歌うのが若さを保つ秘訣よ」といって合唱団に参加していました。
近藤修博さんは東京都の教育委員会の要職を歴任。学生運動をしていた秋しょうさんが小学校に就職できたのも近藤修博さんの力ぞえがあったからと思われる。

馬場町
博光は戦後の一時期、松代町馬場町に住んでいたと聞きましたが、場所はわかりませんでした。昭和23年3月発行の詩誌「歌ごえ」の奥附の住所が馬場町とありましたので、同所に住む古川さん宅に伺いお話しをききました。

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岩井
狛江詩人の会の岩井恵子さんと佐藤敦子さんが来館され、お話しを伺うことができました。吉祥寺で開かれた「博光の84才を祝う会」は地元の人たちに博光を知ってもらうために行ったとのこと。「稜線」「戦争に反対する詩人の会」の鈴木初江さんと博光とは鈴木初江さんが戦時中長野に疎開していたときに知りあったと教えて下さいました。博光は詩誌「稜線」に専ら寄稿していましたし、鈴木初江が亡くなったために終刊号となった2002年9月刊では追悼詩「詩人の勝利」を書いています。
博光の桐原時代の家のことで先日お会いした栗原さんから「当時の家の写真が見つかった」と連絡があり、お訪ねして見せて頂きました。桐原
東側の写真。2階の窓から博光が声をかけた

桐原
西側の写真。畑は今と変わりない

桐原
南側。あの2階の窓でハチ騒動があった

栗原九市さんが日記をつけていて、博光がきた日時・経緯がわかりました。知り合いだった博光の転居先を世話しようと2,3軒先の家を静江と訪ねてお願いしたが、返事がもらえず、責任を感じて九市さんの家の2階に住んでもらうことにした。
昭和23年4月23日トラックで引っ越してきたが、荷物が多いのにびっくりした。本が多かった。
9月に西寺尾に戻った。9月24日はバイクで荷物を博光が運び、25日は自転車で運んだ。栗原さんの家を出たのは狭すぎたからだったようです。

博光の桐原時代のことがわかり、とても有難かった。栗原さんの奥さんは、九市さんが生きていれば沢山のことが聞けたのに本当に残念だと言われました。
桐原
(小熊忠二氏)
「大島先生は結婚した後、生家のある松代町西寺尾でしばらく暮らし、昭和二十三年頃、桐原へ移った」
「ワシは戦後間もなく、昭和二十三年頃ですか、大島博光氏が疎開して長野にいると聞いて訪ねて行きました。・・・大島先生が住んでいたのは長野の桐原駅のすぐ裏で、結婚したばかりの奥さんと一歳半ぐらいの子供と三人で暮らしていた。
初めて訪ねていった時は、奥さんは上田の鐘紡の争議の応援に出かけていて、博光氏が一人で子供をみていました。」(2006.6 「のろし57号」)

(2008.10.19)
信濃のうたごえ祭典で、原田長野市議の奥さんからききました。
彼女の実家の表裏のようなところに博光さんがすんでいて(桐原の近く)、現在もその家はあるそうです。
まだ子どもだった当事、「そんな歌を歌っていちゃだめだよ」といって、家に数人の子どもを招きいれ紙芝居をしてもらった記憶があるそうです。3回か4回くらい。時々奥さんを見た記憶はあるが、子どもを見た記憶はないとのことでした。ぜひ機会を見てその家を確認したいです。

(2008.12.21)
原田公子さんが栗原のぶ子さんをお連れして来られたので、お話を伺いました。
博光が住んでいた桐原の家とは栗原さんの家の二階で、近所に原田公子さんが住んでいた。ご主人が栗原九市氏(昭和2.12.10生まれ、4年前に逝去、長野市吉田1-28-20)で、結婚したのは博光が住んでいた後なので、のぶ子さんは会ったことはないが、ご主人が詳細に日記をつけていたのでそこに書いてあるのではないか。
原田公子さんが軍国調の数え歌を歌って遊んでいたら二階の窓から「そんな歌を歌っていてはいけないよ、紙芝居を見においで」と声をかけられて、数人の子供で紙芝居を見に行った。朋光も一緒に見たと思う。
庭で革命歌を歌っていた。周囲に気兼ねした栗原さんのお爺さんに声をかけられた。
子供にも労働歌を教えたりした。
静江さんはロープをはって色々な洗濯物を干していた。当時としては変わったやり方だったので覚えている。花を売っていた。

「朋光が幼児のころ、クリちゃんの家の2階で停電になって、ハチがでて騒ぎになった事を覚えている、あの家はどこなのか、クリちゃんは誰なのか知りたいと思っていた」と言いましたら、「クリちゃんとは夫の栗原です、背が小さいのでクリちゃんクリちゃんと言われていた、博光はその家の二階に住んでいたので、その時のことに違いない。」といわれ、長年の疑問が解決しました。

そのあと、桐原の家を見に行きました。
栗原
栗原のぶ子さん(中央)原田公子さんと
桐原
家は建て替えられているが、当時とほぼ同様の作りだそうです。
桐原
あの二階の窓でハチ騒ぎになったのを覚えています。
桐原
公子さんが手前の路地で歌いながら遊んでいたら、二階の窓から博光が声をかけて紙芝居に誘ったということです。

(2008.12.27)
栗原さんから電話をいただきました。
日記見つけたそうです。
昭和23年4月23日トラックで引っ越してきて、9月24までのわずかな時期だけだったようです。
9月24日はバイクで荷物を博光先生が運び、25日は自転車で運んだと記録があるそうです。
少し前から家を探していたようですがなぜ栗原さんの家に来たのかはまだわからない。
栗原さんの家を出たのは狭すぎたからだったようです。
「朋光」という子供の名前もあったそうです。
もっとよく写真を探したりしてみるとのことでした。
千曲川
6日、fusaeさんのコンサート参加者の中に、「博光先生にいのちを救われた」かたがいたそうです。
村松琴子さんという方です。
文字通り、千曲川でおぼれかけたのをすくわれたのだそうです。
男の子たちが千曲川を横断するのを見て、ついって行ったが途中で力尽きておぼれかけたのを助けてくれた人が博光さんで、以後命の恩人と思ってきたそうです。
博光記念館へは特別の思いで来てくださったようで、山下さんが館長に紹介できなかったのをざんねんがっていました。
思いがけないエピソードがいろいろ出てきてうれしくなりますね。
平林茂衛さんから案内をいただき、長野山宣会碑前祭に参加しました。
上田で行われた演説会での山本宣治の演説が大きな感銘を与え、その数日後に暗殺されたことから記念碑をつくる運動となったこと、その後、信州上田の革新的運動の伝統が今日まで大きく流れていることがわかりました。
山本宣治三男の浜田繁治さんと次女の井手みよさんが出席され、記念講演「花屋敷の思い出話」をされました。
山宣会
平林茂衛さんとは60年ぶりの再会を果たしました。上田駅で下の子を背負い、上の子の手をひいて本の行商をしている静江さんを見た、それが本屋(平林堂書店)を始めた原点だとおっしゃいました。

車人形
郷土芸能の「車人形」(タカクラ・テル作)も上演されました。

懇親会で博光記念館のパンフレットをお渡しして回りましたら、神津さんという女性から「博光さんと知りあいだった、自分はスペイン語が専門だった、スペイン旅行したおりに良いベレー帽を博光のために買ったが、とても高かった」とお話しされました。「記念館に愛用品としてスペイン製の高級なベレー帽を展示しているが、きっとそれでしょう」と見に来ていただくようお願いしました。

ベレー帽