お知らせ

ここでは、「お知らせ」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


コンサート
10月29日(日)午後

大島博光記念館文化祭に特別出演して演奏されます



文化祭
はなや

今まで賃借していたレストランの建物と土地を購入しました。
これによってレストランと資料室を永続的に運営できることになり、活動の幅も拡げることができます。
今回のために尽力くださった(有)アース企画の土屋桂一様をはじめ、関係者の皆様に感謝申し上げます。

はなや
はなや
はなや
4)「ルイズ・ミッシェルを讃える バラード」

 さてコミューヌのあいだ、パリの女たちの活動はめざましいものであった。彼女たちは兵糧係や野戦病院付看護婦としてばかりでなく、戦士としても勇敢にたたかった。彼女たちはブランシュ広場、ピガール広場、バティニョール大通りなどのバリケードを守った。とりわけ女詩人ルイズ・ミッシェルの名は高いがユゴーは彼女に「男まさりに」という詩を贈っている。当時、パリ市庁の新聞出版課長の職にあって、コミューヌを支持していた、ヴェルレースもまた「ルイズ・ミッシェルを讃えるバラード」を書いている。

  荒っぽくて 率直で 臆病な
  貧乏人を 彼女は 愛した
  彼女は 貧乏人の白いパンのため
  熟れた穂を刈る鎌だ 聖女セシルだ 
  しゃがれ声で華奢(きゃしゃ)な美神(ミューゼ)だ
  そして 墨直で 御しがたい
  あの貧乏人の 守護神だ
  ルイズ・ミッシェルはすばらしい-------
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

ルイズ・ミッシェル
ルイズ・ミッシェル


砧公園(東京新聞2017/4/2より)

息子が祖師ヶ谷大蔵に下宿していた頃、砧公園脇の環八道路をよく通りました。写真左手前の首都高速用賀を下りて、砧公園を左に見て環八を右(北)に進むと小田急小田原線に当たります。小田急線に沿って上(西)に進むと祖師ヶ谷大蔵に出ます。すぐ隣が成城で、西條八十の屋敷もあった高級住宅街です。街々に桜が多くて、桜の咲く時期はとても美しい風情でした。
写真中央、公園の一画にあるのが世田谷美術館で、3年前にロシア・アヴァンギャルドのポスター展を見に行きました。(ユートピアを求めて ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム
意欲的な企画や美術館友の会があり、魅力的な美術館だと思いました。

写真上(西)が狛江市になります。多摩川沿いに土井大助さんのお宅があり、車だと10分ほどで行けました。
ちょうど狛江側から逆に撮った航空写真が2月に掲載されていました。(土井大助さんと狛江

砧公園の桜も今週には満開になり、さぞかし賑やかになることでしょう。


四 エルザは言う

おまえは言う この詩はわかりにくいけれど
でも わたしが望んだほど難解じゃない(*1)みたい
盗まれた幸福の見える窓などは しめましょう
  陽が射しこんで あなたのお気に入りの
写真が 黄いろく ぼけてしまうから

おまえは言う わたしたちの愛が一つの世界をひらくなら
それは みんながよろこんで 卒直に話しあう世界です
もう お捨てになったら ランスロットや『円卓物語』は
  イゾルデ( *2)やヴィヴィアンヌやエスクラルモンドは
そんな曲った剣を 鏡にしたような人たちは

そんな人たちからでなく わたしの眼から愛を読みとってください 
そんな古いむかしの恋物語などに 酔わないでください
美しい廃墟も ひるま見れば ただの瓦磯の山です
  いまは わたしたちが 二つの影をもつ時です 
うまく 星占い師たちの眼を くらますために

暗い夜の方が 昼よりも魅力があるとでもいうのか知ら
澄みきった空(*3)を待ちこがれない人たちは恥知らずです
若僧などにたちまち まる腰にされてしまう人たち
  街にわき起った歌声にも 野に咲いた一輪の花にも 
涙ひとつ流さない人たちは 恥を知るがいいのです

おまえは言う しばらくは万雷(*4)の交響楽のとどろくにまかせましょう
こんな空模様では 辞書(じびき)をひいて調べることもできず
流行(はやり)の言葉に魅かれる 哀れな人たちがいるからです
  いまに その人たちも低い声でつぶやいて
頭をかしげて 考えこむかも知れないのです

わたしの愛がほしいなら その人たちがやってきて 
のどの渇きをうるおすような 澄んだ水をもってきて下さい 
どうか あなたの傷口から流れでる血で 詩を書いて下さい 
  そうして巣をつくる場所もない鳥たちのために 
屋根のうえの 屋根屋のように 歌ってください

わたしたちのみじめな足どりを報ずる 文芸欄の終りに
「次号につづく」とあるような希望を 歌ってください
人間の声は ラッパの音にうち勝つのだ という希望を 
  そうして生きる理由を 与えてください
なにもかもが 死への誘(いざな)いと見える人たちに

いたるところ 人びとがへとへとになって働き
血にまみれ 寒さに凍(こご)えてる 愛もない場所で
口ずさめば重い足も軽くなるような歌をうたってください
  明けがたの 濃い一杯のコーヒーのような
十字架への道で ひょっこり出会った友だちのような歌を

ほんとに誰のために歌ったら 歌い甲斐があるというのでしょう
あなたがいつも 夢にまでみる人たちのためでないとすれば
思い出せば 鎖(くさり)の音がひびいてくるような あの人たち  
  夜も あなたの血の中で眼ざめていて 帆に語る風のように
あなたの心に語りかける あの人たちのためでないとすれば

おまえは言う わたしの愛がほしいなら あなたを愛しましょう 
でも あなたが描いてくださる わたしの肖像には 
菊の花の奥にひそんでいる青虫のように その主題のなかに 
  かくれたも一つの主題を 描いてください 
そしていまに昇ってくる太陽にその愛を結びつけて下さいな

(*1) わたしが望んだほど難解ではない……──当時、ナチの検閲の眼をくらますために、できるだけ彼らにわからないような詩が要求されていた。
(*2) イゾルデヴィヴィアンヌやエスクラルモンド──中世の悲恋物語の主人公たち。 
(*3) 澄みきった空──ドイツの空軍機の飛ばない空を意味している。
(*4) 万雷の交響楽──ナチの暴虐を指す。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

ゆうやけ



エルザの眼

 リベラックの教訓

 ペタンが、屈辱的な独仏休戦条約に署名した日、アラゴンは、フランスの南西部、ドルドーニュ県ペリグー市に近い小さな町リベラックにいた。ダンケルクから脱出してきた部隊の、生き残った仲間たちといっしょであった。こうしてこの町で『リベラックの教訓』がかかれることになる。
 「この一九四〇年六月廿五日、われわれはちょうど、一三〇〇年の復活祭の夜明けのダンテとヴィルジルのように、地獄から脱け出ることになった。そして

  ふたたび星の見られる出口がそこにあった

 と、彼らのように言うことのできたのは、リベラックにおいてであった」

 詩集『エルザの眼』に収められている『リベラックの教訓』は、リベラックの町に滞在した折に想を得たもので、この詩集を解きあかす鍵でもある。
 ナチによる占領と、それにたいする抵抗運動という情勢のなかで、詩によって国民の覚醒と決起を呼びかけるという任務は、ますます緊急なものとなっていた。フランス人民に呼びかけ、「生きている者にも、死んだ者にも声を挙げさせる」という歴史的要請を前にして、広範なひとびとにどのように訴えるか、どのように書くか、が問題となってくる。かつてシュルレアリストたちによって提起された、「なぜに書くのか」という問題は、もはや時代錯誤でしかなかった。
 「わたしは人間とその武勲(いさおし)を歌う……いつにもましていまはその時である。廿年前、わたしは当時の友人たちといっしょに、「なぜに書くのか」という意地わるなアンケートを出したが、こんにち、それを問題にすることは無用である。わたしの答えは、ヴェルギリウスのなかにある」(『われは武勲と人とを歌う……』)
 こうして十二世紀にさかのぼって、フランスの詩的伝統とその技法を見直し、革新し、延長することが問題になってくる。それは、「民族的な語り口」を回復するためでもある。フランスの十二世紀には、いわゆる中世騎士道物語や、『ローランの歌』などの雄大な詩的主題がうたわれると同時に、フランス詩の最初の韻律形式、とりわけ、フランス詩の特徴的な要素となる脚韻が現われたのだった。しかし、アラゴンが復活を試みたのは、この伝統的な詩法だけではなく、この中世紀騎士道の精神であり、その「女性崇拝」である。
 「クレチアン(ド・トロワ)のペルスヴァルは、いくつかの点で、リヒァルト・ワーグナーのパルシファルとは違っている……。彼は、女たち、弱き者たちを守る、さ迷える騎士である。彼は、ワーグナーとニイチエとがそこでいっしょになるような、あの個人主義の最後の表現などではない。……ペルスヴァルは、真実の担い手であり、審判者である。彼は、フランス人とはかくあれと願うようなフランス人、フランス人の名に価いするようなフランス人の、もっとも高潔な化身である。ここで、男性の使命とむすびついた女性崇拝は、あの正義と真実をまもるという使命に光を与えるのである」そしてアラゴンは、ジャン・ジオノの「這いつくばって生きよう」という敗北主義にたいして、クレチアン・ド・トロワの「辱しめられて生きるよりは潔ぎよく死んだ方がいい」という詩句を対置して、こう書いている。「こんにち、あの英雄主義、あの祖国への深い忠誠について、数千の生きた模範があることは疑いない。……だが、こんにち、それについて語ることができるだろうか。いや、できはしない。真紅の騎士ペルスヴァルをとおして、わたしは彼らに挨拶をおくる」真紅の騎士ペルスヴァルのなかに、アラゴンがまさに先取りしていたのは、英雄的なフランス人民にほかならない。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

林

小林
昨日は象山神社前で恒例の、核兵器廃絶を求める署名活動をおこないました。

博光
千曲川

年賀状2017

   (詩による抵抗運動を計画)

 一九四〇年、アラゴンはリベラックの町にいた。エルザはずっとパリを離れずにいた。アラゴンは、『レ・コミュニスト』を書きあげた夜、パリに戻ってゆく部下の父親に、エルザと会って、すぐに南西部へ出発するように伝書(ことずて)をたのんだ。こうして六月二十四日、ひき裂かれていた恋びとたちは、ふたたび落ちあう。七月には動員を解除されて、彼らはひとまずカルカソンヌに身を落ちつける。その頃のことを、友人サドゥールは書いている。
「ダンケルクの大潰走後、われわれは、一九四〇年九月二一日、カルカソンヌで再会した。彼は小さな家具付アパートに、エルザと住んでいた。エルザは、床(ゆか)に布団をしいて、幾晩か、わたしを泊めてくれた。
 ある日、われわれは小さなレストランで、わたしの知らない青年をまじえて会食をした。青年は、アヴィニョンからやってきた男で、その地でカフェー・レストラン用品を販売していた。……名まえはピエール・セゲールスと言った。セゲールスは、「入隊中」に出していた詩誌『鉄かぶとをかぶった詩人たち』のあとを継ぐ『ボエジー四〇年』に、アラゴンが参劃してくれるように頼みにきていたのである。『ボエジー四〇年』の二月二十日号には、『ひき裂かれた恋びとたち』が発表され、四月二十日号には『一九四〇年の脚韻』が発表されていた。一九四〇年来、この新しい詩誌がめざした目的については、一九四四年の始め、被占領下で刊行された総目録の序文で、セゲールスが用心深く書いている。「あの困難な時代を通じて、われわれは、もちこたえる仕事を止めなかった。『ポエジー四四年』は読者諸君と友人たちに感謝する。彼らは、われわれの困難と意図とを汲んでくれて、われわれをはげまし、信頼してくれたのである」
 このもちこたえるという言葉は、読者がセゲールスの意図を汲みとるように、遠まわしに言ったもので、抵抗することを意味していたのである。
 こうして、ペタン政権とドイツ占領軍にたいする、詩による抵抗運動の最初の計画がねられる。その頃は、ヒットラーの対英攻撃が始まり、自由フランス軍のダカール上陸が失敗し、右翼の「グランゴワール」紙が「共産党の宣伝煽動が、党外の協力者をえて、再開されている。首脳部を潰滅させねばならない。共産党の煽動活動を押さえ、指導者の活動を禁じなければならない」(一九四〇年九月二十六日付)と書いていた頃である。この呼びかけにつづいて、まもなく、数百人におよぶ活動家たちが、パリやマルセーユで逮捕された。
 ところで、ペタンの休戦条約調印後三ヵ月たって、アラゴンが党との連絡をもちつづけていたとは考えられない。彼はただひとりで、なんら党からの指示もなしに、自分の詩の方向を決め、方針を決め、いろいろな出版物との協力を決めていたのである。すでに、「奇妙な戦争」中における、詩による闘いをとおして、かれは、自分の深い心情を詩で表現しうることに、確信を深めていた。いまや、敗戦、ヒトラーによる占領、ペタンの売国政権、ゲシュターボーとヴィシーの検閲……これらの新しい条件のもとで、詩を手段とした抵抗運動を、合法的に組織しなければならない。そのために、「自由地帯」の諸矛盾や、種種の出版物を利用することになる。
 アラゴンは、マヤコフスキーを「十月革命」の声高い歌い手として讃美していた。いま、フランスの大地が、ヒトラーの長靴にふみにじられ、ヴィシー政権が人民と祖国を売りわたしている時、こんどはアラゴン自身が、ふみにじられ、売りわたされたフランスの声高い歌い手となる。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

アルテッシモ


   ひき裂かれた恋びとたち
 
  駅で 悲壮な身ぶり手ぶりで 暗い心の叫びを
  話し合っている あのつんぼ盲目(めくら)の人たちのように
  ひき裂かれた恋びとたちも 狂おしい仕ぐさをする
  冬と武器との 白じらとした静けさのなかで
  夜夜のトランプ遊びのあとに 夢がもどってきて
  恋びとたちが燃えるような手を 雲のなかで
  握り合っても ああ それは鉄の鳥たちの世界
  おお 野のロメオたち もう うぐいすも
  雲雀(ひばり)もいないのだ 地獄と化した空のなかには

  木木も 人間たちも 家々の壁も 灰色だ
  くすんだ歌のように 思い出のように 灰色だ
  それがみんな ぐらぐら揺れ動いたのだ
  いちめん 雪に蔽われた 世界のなかに
  死ぬほどにも悲しい手紙のついたとき
  だが 死ぬほどにも悲しい手紙のなかにも
  愛はやはり アルペジオを見いだすのだ

  冬は からっぽの留守宅にも似ている
  冬は 水晶だけが 歌をうたつている
  酒も凍りついて 香りが消えうせる
  愛の歌(ロマンス)も のろのろと 手間どる
  そしておれの胸をしめつける音楽が
  鳴りひびき 鳴りわたり 時を告げる

  針は廻わり 時は 歯ぎしりする
  針は廻わり 時は 歯ぎしりする

  金色の髪をした妻よ おれの菊の花よ
  おまえの手紙は なぜこんなに苦(にが)いのか
  海のまんなかで 難破した男のように
  おれは おまえを呼びもとめているのに
  おまえの手紙は まるで叫んでいるようだ
  吹き狂う あの風(1)のざわめきをもっても
  あの罪におののく 身ぶるいをもっても
  消すことのできぬ それは叫びなのか

  愛するものよ おれたちにはもう言葉しか
  おれたちの口紅しか 残っていない
  その凍りついた言葉で 捉えるのだ
  ジェーブルの城の 堀のなかに
  希望もなしに昇ってきては 夢みて
  よろめき 死に またよみがえる陽(ひ)を
  城で ラッパがおれのために鳴っていた
  城で ラッパがおまえのために鳴っていた

  おれは言葉でつくろう おれたちのただ一つの宝を
  聖女たちの足もとにささげる うれしい花束を
  そうしておまえに差し出そう あのヒヤシンスを
  郊外のリラの花々を 青いべロニカの花ばなを
  「五月」の縁日に売っている 枝についたままの
  ビロードの巴旦杏を 鈴蘭の白いつり鐘を
  おれたちなら 咲く前には摘みに行かぬのに
  ああ その前では 花のような言葉もうなだれる
  その花花は あの風のひと吹きで 散り落ちて
  人びとは つるにちにち草に似た眼をとじるのだ
  だが おまえをかぎりなく愛するこの心臓に
  赤い血の脈うつかぎり おれはおまえのために歌おう
  そのリフレーンが つまらぬ歌と見えようが

  この月並みで すり切れた心のつぶやいた言葉が
  いつか すばらしい世界の前ぶれとなるだろう
  そのとき おまえひとりは知ってくれよう
  太陽がかがやき 愛が身を 顫わせているかぎり
  秋のさなかに 春を信じて なぜ悪かろうと
  おれは人間として歌いつづけよう つまらぬ歌を

  (1)「あの風」「あの罪におののく……」──いずれも、ドイツ及びフランス当局の弾圧、監視、検問を意味している。

 一九三九年の終りに書かれた、『断腸詩集』のこれらの詩のうつくしさと、そのなかに秘められた微妙な響きを理解するには、当時の状況とこれらの詩とを照らしあわせてみるのがいい。

  駅で つんぼ盲目(めくら)の人たちが その暗い心の叫びを
  悲壮な身ぶり手ぶりで 話し合うように
  ひき裂かれた恋びとたちも 狂おしいしぐさをする
  冬と武器との 白じらとした静けさのなかで

 というこれらの詩句には、ひき裂かれた恋びとたちの悲痛な思いとともに、さらにべつの断腸の思いが見出される。当時、「奇妙な戦争」によって引き裂かれたのは、恋びとたちや夫婦ばかりではなかった。「ス・ソワール」紙の最後の集会に集まった、進歩的な知識人たちは、動員されて散りぢりになり、フランスのどこかで、見知らぬひとたちの中で、「駅で話し合っているつんぼ盲目(めくら)の人たち」のような自分を見出していたのである。「冬と武器との白じらとした静けさのなかで」というのは、マジノ線やライン戦線の兵士たちには、ナチの軍隊にむかって一発の弾丸を射つことも禁じられていたのである。大戦がはじまったとき、ドイツ軍を牽制するため、ロレースに集結したフランス軍は、独仏国境を越えて、ドイツ軍の防備線であるジークフリート線をめざして進撃し、ザールブリュッケンを脅かしていた。しかし、十月初め、フランス軍は、西部戦線で、兵数においてドイツ軍よりも優勢だったのにもかかわらず、フランスの防衛線であるマジノ線まで後退して、ここに独仏両軍は対峙したまま、どちらも積極的な攻勢に出ず、「奇妙な戦争」がしばらくつづくことになる。これは、フランスの支配階級が、ドイツの対ソ戦争開始を期待した思惑から生じたもので、そのあいだに、ドイツは大規模な攻撃を準備することができたのである。しかも、フランスの支配層は、その新聞やラジオを通じて「共産主義者はヒトラーの共犯者であり援軍である」とわめきたてて、共産主義者にたいする弾圧を強化していた。そうして十月初め、三九人の共産党国会議員たちを逮捕して、サンテの牢獄にぶちこんだ。『ひき裂かれた恋びとたち』のなかで、

  いちめん雪に蔽われた世界のなかに
  死ぬほどにも悲しい手紙がついた……

 と歌われているのは、エルザが、同志たちの逮捕されたことや投獄されたことを、それとなくアラゴンに知らせたからである。さらに「容疑者逮捕令」が十一月十八日に発令されてからは、共産主義者たちを、裁判なしに「強制収容所」に収容することができるようになる。

  われわれは廿年後に 忘れていた物置部屋から
  われわれの古服をとり出し 千のラチュドたちが
  独房の中で またも昔のしぐさを始めるのだ
                       (『廿年後』)

 ここでアラゴンは、彼のように、一九一九年の第一次大戦に動員され、廿年後の一九三九年にまた動員された人たちについて語っていると同時に、ほかのラチュドたち──サンテやその他の牢獄にとじこめられた同志たちに想いをよせているのである。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

彫像

 一九一九年に、エルザは、夫のアンドレとともに、タヒチ島に出かける。血なまぐさい戦場から帰ってきたアンドレが、孤独と静寂とを切望したからである。こうしてタヒチ島滞在に取材した短篇小説『タヒチ島にて』が書かれる。これはエルザの最初の短篇小説で、一九二五年、モスクワで出版されることになる。この作品はアンドレに献じられているが、ロシヤ語のわからなかった彼は、ついぞ一度も読むことはなかったのである。それに、この作品が書きあげられる前に、彼らは離婚してしまったのである。

 一九二三年、「やみがたい望郷の念に駆られ、ただひとり、郷愁の深淵にもがき苦しむ魂」を抱いて、エルザは、姉のリーリャに会うためにベルリンに行き、そこでほぼ一年を過している。
 エルザが、ゴーリキーの知遇を得たのも、このべルリン滞在中であった。
 「当時、敗戦と平価切下げのべルリンは、まるでロシヤの町のようだった。ロシヤのインテリゲンチャ、とりわけ芸術家や文学者たちが、ベルリンにやってきたり、帰ったり、来たまんま、帰らぬものもいた。わたしは、自分の故国とまではいかなくとも、すくなくとも気心の知れた雰囲気のなかに浸ることができた。その頃の雰囲気の描写は、ヴィクトル・シクロフスキーが、わたしに献じてくれた本、『愛について語らぬ手紙集、動物園、あるいは第三のエロイーズ』のなかに見出されるだろう。この手紙からなる小説(ロマン)には、いくつかの女の手紙がふくまれている。それらの手紙こそ、署名はないが、印刷されたわたしの最初の文章である。それは、個人的な手紙であって、出版するために書かれたものではなかった。……とにかく、シクロフスキーは、その頃、ベルリンの近くのサーローに住んでいたゴーリキーのところに、わたしの手紙をもって行った。ゴーリキーは、わたしに会いに来るようにと言ってきて、わたしは幾日か、彼の家に滞在した。ゴーリキーはわたしにいろいろと忠告してくれ、書くように説得してくれた。こうして、わたしは書き始めたのだ(『交錯小說集』第一卷序文)
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

パリジェンヌ



ネルーダの集い
文化祭
 メッセージ──世界平和擁護大会への
                        ポオル・エリュアール/大島博光訳

気候はのどかで 陸地は近ずいたのに
戦士たちよりも輝かしい夏なのに
こだまもない呻きが 無人島のように
戦争と惨めさの波まに湧きあがる

青空にこがれたかつての殉難者たちを
蒼ざめさせた責苦の中でもなお生き抜かねばならぬ
もうけのむごたらしい炎にも似た
殉難者たちの火焙台は断末魔の生々しい寝床だ

朝鮮に インドシナに 戦争がある
いたるところ 出口もない坑山のような汚辱がある
しかしいたるところ 信仰もない法律も認めない
反抗者たちがいる 闘士たちがいる

古い世界の気狂いじみた法律も認めず 信仰もなく
しかし彼らこそ暖かい心臓なのだ 豊かな泉なのだ
そこから 理性と幸福が溢れでるのだ
夢から行動が 花から果実が生れるように

わたしは聞く 谷川の奔流のように輝く笑い声を
闇と死を拒否する内部にこそ 心臓はある
わたしは聞く 時の流れを変える愛の言葉を
大人を子供に 夜を夜明けに変える愛の言葉を
それはもういま同じものだなどと誰が言うのか
わたしは聞く むかしの希望が若返えり 歌うのを
それは思い出に生きるのではなく 未来に生きるのだ

抵抗の同志たち 諸君にわたしは挨拶を送る
きょう ここに集って 明日のため
正義と平和をたたかいとると誓いあう同志たち

                 一九五一年七月一日

『角笛』2号 1952年2月10日発行)

海辺