上田進の逝去のおりに、新日本文学会青森県支部で上田と同志であった沙和宋一が追悼文を書いています。
人間 上田進について
人間肯定 沙和宋一
赤旗と党員証で飾った同志上田進の枕辺に、三十冊にあまる著書を並べた。日本共産党葬をおわった翌日に、しらべてみると、そのほかに深く隠れていた作品が発見された。
上田進が早大露文科を卒業したのは昭和六年で、同時にプロレタリア作家同盟に入ったのだが、爾来十四年にしとげた文学的業績は、秋田雨雀氏もいうとおり、『精力的な作家が一生かかってやる仕事を短い歳月で完成』したものであった。机にばかりへばりついて、個の殻にこもる文学の虫ではなかったはずなのに、上田進の驚くべきエネルギーは、どこから生まれたのだろうかと、私は、おびただしい著書の前に頭をさげた。
上田進は、人民のなかからうまれる文学を育てるために努力を惜しまなかった。労働者農民のよい友であり、その文学のにない手であった。長野県の農村青年のルポルタージュ集『農村青年報告』四冊は、彼の献身なくては存在しえかった。この本は、歴史を客観的に真実として描きうる階級の文学の健在な萌芽であり、われわれにあたえる教訓は大きい。
ゴーゴリ、プーシュキン、ゴーリキイ、トルストイと翻訳の仕事も大きいが、とくにソヴェートになってからのショーロホフの『開かれた処女地』『静かなドン』、イリフ・ペトロフの『黄金の仔牛』は不朽の作品であろう。上田進は、とおり一遍の翻訳家ではなかった。その作家的資質が訳文に生かされ、たとえば郷里信州の方言を、ウクライナの方言の翻訳として生かすなどの配慮が行われ、行き届いた日本の文章としての が隈なく配せられ、他のおなじ翻訳と比較すると、いかに抜群の名訳であるかがわかる。
翻訳家としての上田進は、作家上田進をある程度 にしたといえるのではないかとさえ思われる。私は、昭和十年ころの『文学評論』で『はげしい空』という短編をよんでから、上田進の短編をよんできた。平明で、水のような滋味をもつ恬淡たるスタイルが、上田文学の身上であった。否定と懐疑と自己分裂の、近来の日本文学に、これはまた、特筆すべき肯定的な全人間像の把握があった。この世界観の優位が、そうさせたのはいうまでもないが、上田進の な、明るく、希望多く、おおらかな人柄にも因しているのは、うたがいない。
長編『佐久間象山』第一部八百枚が、ちかく刊行される。上田進は象山と格闘して、数年の戦時下に、ひそかな大野心をもやしていた。その本が出ぬうちに、倒れた口惜しさは、もはや、上田進ひとりの問題ではない。
なお多くの未来をもった作家であった。
(「月刊東奥」22年3・4月合併号)
*沙和宋一(昭和43年1月没)は作家、元「月刊東奥」編集長、初代の新日本文学会青森県支部長)
人間 上田進について
人間肯定 沙和宋一
赤旗と党員証で飾った同志上田進の枕辺に、三十冊にあまる著書を並べた。日本共産党葬をおわった翌日に、しらべてみると、そのほかに深く隠れていた作品が発見された。
上田進が早大露文科を卒業したのは昭和六年で、同時にプロレタリア作家同盟に入ったのだが、爾来十四年にしとげた文学的業績は、秋田雨雀氏もいうとおり、『精力的な作家が一生かかってやる仕事を短い歳月で完成』したものであった。机にばかりへばりついて、個の殻にこもる文学の虫ではなかったはずなのに、上田進の驚くべきエネルギーは、どこから生まれたのだろうかと、私は、おびただしい著書の前に頭をさげた。
上田進は、人民のなかからうまれる文学を育てるために努力を惜しまなかった。労働者農民のよい友であり、その文学のにない手であった。長野県の農村青年のルポルタージュ集『農村青年報告』四冊は、彼の献身なくては存在しえかった。この本は、歴史を客観的に真実として描きうる階級の文学の健在な萌芽であり、われわれにあたえる教訓は大きい。
ゴーゴリ、プーシュキン、ゴーリキイ、トルストイと翻訳の仕事も大きいが、とくにソヴェートになってからのショーロホフの『開かれた処女地』『静かなドン』、イリフ・ペトロフの『黄金の仔牛』は不朽の作品であろう。上田進は、とおり一遍の翻訳家ではなかった。その作家的資質が訳文に生かされ、たとえば郷里信州の方言を、ウクライナの方言の翻訳として生かすなどの配慮が行われ、行き届いた日本の文章としての が隈なく配せられ、他のおなじ翻訳と比較すると、いかに抜群の名訳であるかがわかる。
翻訳家としての上田進は、作家上田進をある程度 にしたといえるのではないかとさえ思われる。私は、昭和十年ころの『文学評論』で『はげしい空』という短編をよんでから、上田進の短編をよんできた。平明で、水のような滋味をもつ恬淡たるスタイルが、上田文学の身上であった。否定と懐疑と自己分裂の、近来の日本文学に、これはまた、特筆すべき肯定的な全人間像の把握があった。この世界観の優位が、そうさせたのはいうまでもないが、上田進の な、明るく、希望多く、おおらかな人柄にも因しているのは、うたがいない。
長編『佐久間象山』第一部八百枚が、ちかく刊行される。上田進は象山と格闘して、数年の戦時下に、ひそかな大野心をもやしていた。その本が出ぬうちに、倒れた口惜しさは、もはや、上田進ひとりの問題ではない。
なお多くの未来をもった作家であった。
(「月刊東奥」22年3・4月合併号)
*沙和宋一(昭和43年1月没)は作家、元「月刊東奥」編集長、初代の新日本文学会青森県支部長)
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