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マティスの言葉 デッサンについて(4)アラゴンの伝える 木のデッサンについての談話

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アラゴンの伝える
木のデッサンについての談話
(一九四二年)

「さきごろ、わたしが木や木々の描き方を勉強するために描いたデッサンをお見せしましたねぇ。わたしはまるで木を一度も見たことがないように、木をデッサンしたのです。わたしはわたしの窓から一本の木を見ます。木の全体(マス)がどうできているか、それから木そのもの、幹、枝、葉がどうできているか、辛棒強く知らなければなりません。まず枝は、ひとつの面に左右対称(シンメトリー)に並んでいます。それから枝々はぐるっと回って、幹の前の方へ移ってくるのです・・・まちがわないでください。わたしは窓から木を眺めながら、木をコピーするために描くのだ、と言いたいのではありません。木というものはまた、それがわたしに与える印象の総体なのです。わたしの前にあるひとつの対象(オブジェ)は、たんに木としてだけでなく、またあらゆる種類のほかの感覚との関係によって、わたしの精神に働きかけるのです。木を精確にコッピーしても、木の葉を一枚一枚普通の表現法で描いても、わたしはわたしの感動から解放されないでしょう・・・しかも、その木のなかにわたしが一体化した後でも。わたしは木に似たひとつの物体(オブジェ)を創りださねばならないのです。木の形象(シーニュ)を。しかも、ほかの芸術家のところで・・・例えば33 33 33を描いて木の葉の茂みを現わす術をおぼえた画家のところで、すでに描かれたような木の形象ではなくて、それは他のひとの表現の残りかすでしかありません。ほかの人たちは彼らの形象を創りだしたのです・・・それをもう一ど取りあげることは、彼らじしんの感動の到達点という、死んだものをふたたび取りあげることです。そしてほかの人の表現の残りかすは、わたしの独自の感覚にはふさわしくないのです。いいですか、クロード・ロラン、プッサンは、木の葉を描く彼ら特有の流儀をもち、木の葉を表現する彼らの流儀を発明したのです。彼らは彼らの木を描くのに葉を一枚一枚、たいへん器用に描いたと言われます。わかりやすく言えば、彼らはじっさいには恐らく二千の木の葉のうち、五十枚ほど描いただけなのです。しかし木の葉の形象をつくりだす仕方が、観る者の精神のなかに木の葉を増殖させ、観る者は二千の木の葉を見るのです・・・彼らは彼ら独自の表現法をもっていたのです。ひとつの表現法を会得するようになって以来、わたしは自分の創意発明の質にふさわしい形象をみいださなければなりません。新しい造形的形象が、こんどは共同の表現法のなかに入るでしょう。もしも、いまわたしが彼らの方法について言ったことが、ほかの人にも重要であるとすれば。ひとりの芸術家の重要さは、彼が造形的言語(表現法)のなかに導入するであろう新しい形象の質によって測られるのです」(『フランスにおけるマテイス』)
 訳注 形象(シーニュ)──signeという言葉は、流行の記号論におけるように、日本では「記号」と訳されているが、ここでは記号と訳したのではどうしても意味をなさないので、対象のもつ特徴、しるし、核心という意味をふくめて、ここでは形象と訳した。
(つづく)

木

(『美術運動』1988年2月)

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